東峰十字路事件

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東峰十字路事件
Toho crossroads case site aerial photograph, in FY1974.jpg
東峰十字路事件現場周辺の約500メートル四方を写した航空写真。画像中央が東峰十字路。1974年度撮影。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
場所 日本の旗 日本 千葉県成田市東峰新東京国際空港建設予定地
座標
日付 1971年昭和46年)9月16日
概要 新東京国際空港建設予定地で、行政代執行が行われた際に、建設反対派の集団が機動隊を襲撃した。
武器 火炎瓶竹槍角材丸太
死亡者 3名(神奈川県警察特別機動隊員)
負傷者 80名以上(神奈川県警察特別機動隊員)
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東峰十字路事件の位置(成田国際空港内)
東峰十字路事件
東峰十字路事件の現場

東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)は、新東京国際空港建設予定地内の空港反対派が所有する土地に対して千葉県が行った第二次行政代執行初日である、1971年昭和46年)9月16日に、現地に応援派遣されて周辺警備に当たっていた神奈川県警察特別機動隊がゲリラ集団による襲撃を受け、警察官3名が殉職した傷害致死事件である。2017年現在も事件現場には慰霊碑が残されている。

事件概要[編集]

行政代執行の概要[編集]

警察の作戦計画[編集]

同年2月から3月に行われた第一次代執行時には数千人単位の一般市民(野次馬)が現場に押しかけ、それらの者が支援学生らのアジテーションを受けて投石を行うなどの機動隊への妨害を行ったことにより、警察の代執行警備は著しい支障を来した。

同年8月末には千葉県警警備本部が、その教訓から第二次代執行においては支援の反対派のみならず一般市民をも代執行現場に近づけない方針を立て、計9000名を動員して団結小屋の外周を検問線(ピケット・ライン)で三重に包囲[1]するという「三重丸作戦」が立案された。この「三重丸作戦」は、沖縄戦において旧日本軍神風特別攻撃隊対策でアメリカ海軍採用した作戦からヒントを得たものだという[2]

しかし、9月13日に開かれた会議で、調整・連絡機能・予算権を持つ警察庁が、地方においてこれだけの期間・規模の警備実施前例がない、東大安田講堂事件以降は新左翼学生集団による大量動員作戦が陰りを見せている、などとして千葉県警の上記計画に難色を示し、動員数は3分の2に減らされた[3]。これにより動員数は3000名余削られたが、団結小屋に対処する部隊への配分が優先され、結果として外周部警備が手薄になった[2]

それでも警備する地域は広範囲に及び、「一個師団」にも相当する総勢約5500名の警備部隊が動員される大規模な警備実施であることに変わりはなく、9月16日には千葉県警全職員の実に3分の1が成田に動員された[2][4]

警備部隊の主な配置計画は以下の通りである[4][5]

  • 約3000名を拠点周辺に割くこととし、"最強"とされる警視庁機動隊約2500名を強固に固められた団結小屋がある駒井野一帯から西側の大清水三叉路にかけて、千葉・埼玉県警察機動隊は一坪用地と天浪方面にそれぞれ配置する
  • 残りの約2500名を8個大隊に分けて空港周辺地域に投入することとし、本警備実施のために千葉県へ応援派遣される神奈川県警察特別機動隊(神奈川連隊)第2大隊については、団結小屋の包囲部隊の東側(三重丸の一番外側の円に当たる)の東峰天神峰方面に配置し、後方警備や道路封鎖を実施させる

反対派の作戦[編集]

一方の反対派は、第一次行政代執行および7月に行われた農民放送塔仮処分阻止闘争の経験から、実力闘争に参加する全員が団結小屋や地下壕に立て篭もる第一次行政代執行までの戦術を転換し、「ゲリラ部隊」を結成して外周警備の警察による阻止線を突破し、機動隊の規制によって足止めされた野次馬と篭城部隊を合流させて機動隊と対峙するという計画を立てた[6][7]。反対派ではボール紙で現地の立体模型を作ってルートが決められ、無線機を持った支援者の主要地点への配置や警察無線の傍受など、機動隊の動向を察知する体制も整えられた[6]

対峙[編集]

9月16日からの新東京国際空港建設に伴う第二次行政代執行警備のため、千葉県警察代執行警備本部は千葉県警察機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊を動員した。

当日早朝6時45分に代執行が宣言される。一坪共有地では日本社会党議員など一坪地主が座り込みを続けており、「」と呼ばれた3カ所の団結小屋には反対派住民(三里塚芝山連合空港反対同盟)と支援グループが立て篭もっていたが、警備部隊は行政代執行法に基づいてこれらを排除すべく、行動を開始した。

一方、前日15日には中核派など新左翼の活動家約2000人が現地入りしており、翌日の代執行当日には5000人を越すとみられていた。中核派は代執行に先立つ9月10日に東京で開かれた総決起集会席上で、代表が「権力の手先である機動隊を殲滅、北総地帯を解放区とする」と宣言していた[8]。また過激派グループの間では、「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉になっていた[9]

代執行が開始された直後から、「ゲリラ部隊」が計画に従って団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。空港予定地北西側の大清水等で爆弾ゲリラやバリケード構築などの動きがあったため、対応にあたる警備当局の意識は東峰方面に向けられなかった[2]

事件までの反対派と堀田大隊の動き[編集]

神奈川連隊第2大隊は、大隊長が神奈川警察署次長の堀田(警視)であることから堀田大隊と呼称された。

堀田大隊261人は当日、午前4時前に集結地点であった川崎臨港警察署から幌付きトラック等14台の車両に分乗して出発し、代執行が宣言される直前の午前6時30分頃、駒井野団結小屋の東側、小見川県道の東峰十字路に到着した。

現地に到着した堀田大隊は、「東峰十字路付近で検問にあたるとともに、付近を検索、山林内に隠匿された火炎瓶ゲバ棒の発見につとめる」とする任務遂行のため[2]、東峰十字路を中心に第1中隊が二手に分かれて南北に、第2中隊が西側にそれぞれ展開した。

一方、地元青年行動隊を始めとする空港反対派と学生集団からなるゲリラ部隊は、午前3時頃に東峰十字路南方の芝山町横堀地区に集合、途中火炎瓶・竹竿などを補給しながら、東峰地区に向かっていた。十字路南方の県有林で休憩していたところ、東峰十字路に機動隊が入り始めているとの情報がゲリラ部隊にもたらされた。ゲリラ部隊はこれを挟撃すべく、集団を青年行動隊を含む先発隊と支援グループ中心の後発隊の2つに分けることとした。先発隊は東峰十字路を一旦迂回して北方へ回りこみ、後発隊は少し遅れて東方から十字路に向けて西進するかたちで現地へ向かった。一方、午前5から6時にかけて、東峰十字路とは空港予定地を挟んで反対側に位置する大清水地区で学生による爆弾投擲や検問が実施されていたことから、警察本部は警視庁部隊を差し向け、結果としてこれが陽動の役割を果たす[2]

両者は間もなく十字路付近で接触した。3時間程かけて現地に到着して展開を終えたばかりの堀田大隊からすれば、側面の孟宗竹等が茂る藪の中から総勢700名以上のゲリラ集団が部隊を分断するように突如現れたかたちとなった。堀田大隊は検索のために各小隊を分散させた状態のままで襲撃を受けることとなる。

反対派と堀田大隊の衝突[編集]

午前7時ごろ、福島誠一警部補が率いる第1中隊第1小隊30人は東峰十字路の北側に展開していたが、十字路北東のガサ藪を順次抜けてきた200人以上のゲリラ部隊の先発隊集団に中隊本隊との間を分断され、孤立してしまう。

圧倒的に不利な状況下に陥った第1中隊第1小隊からの救援要請の警察無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して警察無線で救援部隊を要請すると同時に、付近を検索中の第2・第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとした。しかし、直後に両中隊も大隊本部もゲリラ部隊の後発隊集団と南下してきた先発隊集団に襲撃されて指揮系統は混乱に陥り、大隊は総崩れとなった。さらに車両故障のため20分遅れて到着した第3中隊も別の300名の集団に襲撃され、パトカー・指揮車・輸送車が炎上した。この襲撃により、大隊長の堀田が腕を骨折したほか、大隊全体で80名以上が負傷した。この中には全身火傷や右眼失明などの重傷者も含まれる。若い隊員の中には、あごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫った者もいた[10]

他の部隊からの救援が来ないまま、完全に孤立した第1中隊第1小隊(福島小隊)は、包囲するゲリラ部隊から火炎瓶角材丸太・投石などで激しい攻撃を受け、小隊は総崩れとなり、本隊と反対の十字路北方への退却を余儀なくされた。

この衝突の中で、逃げ遅れた小隊長・福島誠一(神奈川警察署外勤第一課係長、警部補、当時47歳。殉職後二階級特進で警視。)、第1分隊長・柏村信治(巡査部長、神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳。殉職後二階級特進で警部。)、隊員・森井信行(巡査、神奈川警察署外勤第一課、当時23歳。殉職後二階級特進で警部補。)の3名が死亡し、隊員20名以上が重傷を負った。

本記事の座標地点にある、福島警視の慰霊碑。他の2名の慰霊碑もそれぞれ付近に設置されている。

福島小隊の惨劇[編集]

以下は、当時の報道など。階級は二階級特進後のもの。

火炎瓶を投げつけられた隊員たちは火だるまになってのた打ち回った。火傷を負って倒れ無抵抗となった隊員それぞれに「殺せ」「ヤッちまえ」などと叫ぶ複数人が寄ってたかり、隊員の衣服をはぎ装備を外したうえで(事件後、一部のマスコミは「襲撃を受けた福島小隊員は、装備を外し、一部には靴まで脱いで休憩状態のものもいた」とあたかも部隊が現地で油断をしていたかのように報じた)竹槍を打ち込んだ角材などで滅多打ちにした[2][8][11]。またその場から撤退しようとした隊員らも、土地鑑がない上に付近にあるのは反対派の農家ばかりで助けを求められる民家もなく、ゲリラに取り囲まれると次々と脇の林や茂みに引きずり込まれてやはり滅多打ちにされ、土下座を強いられたり裸にされて手錠で木の幹に繋がれるなどした[12][13][14][15]

福島警視も火炎瓶を受けて火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところをゲリラ集団が襲いかかった。無抵抗の福島警視は他の隊員から奪った手錠をかけられた上、ゲバルト棒や鉄パイプで滅多打ちにされて死亡した。柏村警部と森井警部補も倒れたまま同様に滅多打ちにされ死亡した[16]。これらの暴行を行った者達の積年の恨みを晴らさんとするかのような容赦ない仕打ちは周囲にいた仲間の反対派からも制止が入るほど[17]の激しさであり、事件を目撃した反対派シンパであるとする地元住民も後日マスコミのインタビューでやりすぎだったと語った。被害にあった警官があとで証言できないように、ゲリラ部隊は意識的にアゴや顔を集中攻撃し、さらには倒れた隊員に濃硫酸をかけ、火炎瓶で放火したとの警察側の主張もある[18]。また成田赤十字病院の院長は、かなり固いもので殴られているため、制服の下に防弾チョッキをつけていても胸を骨折した者がいた、と証言している[19]

その後、血まみれで倒れうめく機動隊員らを残し、ゲリラ集団は入り組んだ地形を利用して逃げ去った[16]

午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第二機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第二機動隊が東峰十字路北側の現場に到達した時には、ゲリラ部隊は逃げ去った後であった。また、堀田大隊のうち36名が一時的にゲリラ部隊によって連れ去られたが、警視庁第二機動隊によって救出された。

16日午後から成田警察署特別捜査本部が行った現場検証では、現場付近で叩き割られた隊員たちのヘルメットや、引きちぎられた血染めの上着やズボン、血まみれの竹槍などが多数発見され、砂利道の石ころや道の両脇にあるススキには血の跡がべっとりと付着していた[13][20]

また、交差点周辺には一升瓶の破裂跡が数百カ所も残されていた。これは、通常火炎瓶はコーラ瓶やビール瓶等で作るところ、この時の襲撃では一升瓶を使用したことによるもので、それが発火すると十数mもの高さに火柱が噴き上がるほどの威力があったという[21]。また、火炎瓶は農薬を用いて触発式に改良されていた[22]。盾で火炎瓶を防いでも引火したガソリンが制服に飛び散り、警官らは顔や手足にやけどを負っていた[19]

襲撃を受けた堀田大隊について[編集]

事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一・第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊も成田の行政代執行警備に派遣されていた。関東管区機動隊員は、平素は地域部集団警ら隊として、各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一・第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。

しかし、襲撃を受けた堀田大隊はそれらの部隊とは異なり、代執行最前線への反対派支援勢力と武器供給の遮断等後方支援を目的として臨時編成された特別機動隊であった。 隊員らは刑事・防犯・交番・パトカー勤務等を普段している若手警察官であり機動隊の訓練を積んでいないばかりでなく、隊長にも機動隊勤務の経験が無く、武術の有段者もいるとはいえ部隊としての練度は低かった。さらには隊員の装備も警棒と作業着といった程度[4]であり、非常に貧弱な状態で現地に投入されていた。大隊は150人前後のゲリラに対応できるように編成されており、「必要なら撤収しても良い」との指示も受けていたが、500人を超える大集団に襲われることは全くの想定外であった[23]

結果として、機動隊の精鋭が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援に当たっていた現地に慣れない臨時編成部隊が反対派の大集団に襲撃される構図となり、衆寡敵せず堀田大隊は潰走することとなった。

また、代執行時には、警視庁航空隊ヘリコプター2機が上空から反対派の襲撃を警戒していたが、1機は早朝から爆弾ゲリラに備えて移動する部隊の先導を続けていたために事件発生当時給油中であり、もう1機も無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。また東峰地区では無線の感度が低く、更にこれまでの警備実施で一ヵ所に連絡が集中して使い物にならなかった反省から用途と区域で無線周波数を分割していたことがかえって混乱に拍車をかけ、その上大清水で火炎瓶投擲でパトカーと一般車両が炎上する事件が重なったことも、本部による堀田大隊の位置確認を遅らせた[2]

司法解剖[編集]

下着だけを纏った状態で空港公団の工事事務局[24]に運び込まれた3人の殉職者の遺体は、半身が焼けただれ顔が異常に膨れ上がるなど正視に忍びない惨状であり、立ち会った警察官は同僚の変わり果てた姿に嗚咽を抑えきれなかった。ベテランの検視官ですら、残虐行為により著しく損壊した遺体を前にして「これが人間のすることか!」と絶句したという[2][25][26]

事件後行われた司法解剖の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一は、頭蓋骨亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ脳内出血、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨はに突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の打撲傷があった。同小隊隊員の柏村信治は、顔から左肩にかけて2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行は、頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩および左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳挫傷と脳内出血であった[27]

捜査[編集]

支援学生らが撤収し、捜査陣が現場に入れたのは事件の一週間後であった。地元住民らは基本的に用地を売却せずにその地にとどまる「空港反対派」であるため、捜査陣は機動隊に守られなければ現場に入ることもできず、捜査協力は望むべくもなかった。したがって、機動隊員の死亡に空港反対派、または支援者の中の何者かが関わっていることは明白であったが、誰が致命傷を与えたかが問題となり、人物の特定は難航した。

500人以上の集団が最大3キロメートル以上の道のりを警備当局に察知されることなく集結して堀田大隊に襲い掛かったたことから、警察は地元の地理に詳しい青年行動隊又は常駐学生がこの襲撃に参加しているものとにらんだ。過去の言行から中核派によるものとの見立てで捜査が当初進められたが、当日の中核派の活動家らは駒井野と天浪の団結小屋に立て篭るか大清水にいたことが明らかとなり、現行犯逮捕者がおらず有力な物的証拠も得られないまま、警察による捜査は行き詰った。捜査本部は「コンピューター捜査」と称して、あらゆる証言や物証を複合的に検証して、犯人を特定しようとした[28]

捜査当局は、空港反対運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、同年12月8日から15次に亘って[29]地元住民や常駐学生らのべ153人を逮捕連行し、55名を起訴した(凶器準備集合12名、凶器準備集合・公務執行妨害11名、凶準・公妨・傷害・傷害致死32名)。

それまでに行われた第一次代執行や農民放送塔の撤去の際には、警察側にもまだ同情的な雰囲気が残っており、反対同盟員を逮捕しても反対運動のいきさつや農作業への配慮等から、起訴を見送り数日で釈放するなどしていたが[30]、「警察官の死亡」という事件の結果に、警察の取り調べは厳しいものとなった[12][31][32]

反対同盟では家族会を結成し、逮捕者に対する支援を実施した[33]

事件の影響[編集]

マスコミ・世論[編集]

三里塚闘争開始以来マスコミは全般的に反対派に同情的な論調であり、移転に応じた地権者を「裏切り」「寝返り」扱いするようなありさまだった[34]。また、マスコミは反対派への情報提供[35]などの便宜を図ったり代執行の際には反対派が立てこもる砦に中継車を横付けして機動隊が手を出せないようにするなどの実質的な支援もしていた[36]。新聞・テレビ・週刊誌だけでなく、少年漫画雑誌までもが巻頭特集で反対派の子弟が参加する少年行動隊を取り上げるほど、当時は新左翼・反政府活動に寛容な時世でもあった[37]

直接の反対運動や支援に関わらないが反対派農民に共感を持つ者も市井には少なくなく、警察の指導に反して火炎瓶の材料となる空瓶を反対派に渡す酒屋[38]や空港建設に携わる労働者の中には工事車両を使って投石用の石を秘密裏に提供する者があったほどであった[39]

しかし、初めての闘争での死者を出した今回の事件ではマスコミは一転して反対派への批判を行い、「三警官殺し」の犯人探しをするようになった[40][41]

市井では反対運動に対し一気に態度を硬化した。同日夜の都内の主要ターミナル駅では、学生らが三里塚闘争支援のカンパに立ったり「学生側も危篤者二人。当局は巧みに報道管制をしいている」などと書かれたビラを張るなどしていたが、これに勤め帰りのサラリーマンらが「罪のない警官をなぜ殺したんだ」と詰め寄り、殺人もやむを得ないと悪びれないジーンズ姿の学生らと各所で論戦となった[42]。また事件は大学紛争が収束し全共闘運動が急速に支持・勢力を失いつつある時期と重なり、さらに翌年にはあさま山荘事件の発生と山岳ベース事件の発覚によって新左翼全般に対する嫌悪が全国に伝播し、過激派と同列にみなされるようになった反対派から世論は急速に離れていった。

また、国鉄千葉動力車労働組合以外の労働者はこの事件で一斉に手を引いた。[要出典]

反対派・地元住民[編集]

警察官死亡の報を聞いた地元の農民の中には「天罰だ」と歓声を上げる者もいたが[38]、事態の重大さに気づき、すぐに重苦しい雰囲気に包まれた[22]。なお、反対同盟事務局長の北原鉱治は、新聞記者の取材に対し「機動隊が前面に出てこのような代執行をしたことが、一切の事態の原因です。力と暴力によって生きる権利を奪おうとしているのはだれなのか。だいたい県の責任たる代執行を、なぜ機動隊がやるのか。問答無用で死人が出るような状況を作っているのは権力側ではないか。警官三人が死んだ責任はあげて国側にある」と述べた[43]

事件後、反対派では、身内を殺害された警察の強硬な捜査や法廷闘争による疲弊に加えて、事件後の10月1日に、青年行動隊の三ノ宮文男が、精神的苦痛により自殺したことにショックを受けたことや、被告の保釈金や裁判費用捻出のために出稼ぎに出なければならなくなったことなどで、反対同盟員である地元住民の実力闘争離れが進んだ[44]。なお、警察では三ノ宮が東峰十字路事件に深く関与していたと目していたが[45]、反対派の証言によれば三ノ宮は事件時にリンチを受ける機動隊員に覆いかぶさって「もうやめろ」と暴行を加えるグループを制止していたとされる[17]

この後、三里塚闘争に係る実力闘争の実行は反対同盟員に代わって新左翼活動家が行い、青年行動隊ほか反対同盟は指示役や調整役を担うこととなる。指示役となった反対同盟は時にセクト同士を競わせるようにして実力闘争をけしかた[46]。新左翼活動家の側も実力闘争の主体としての自負を持つようになり、各セクトは援農[47]をだしにしたり活動家の女性を嫁がせるなどして、反対同盟の実力者や集会への参加が多く弁舌が達者な反対派農家を自派へ囲い込むようになった[48][49][50]

このことは、地元住民と新左翼活動家の間の歪な力関係や、反対派内部の党派争いを生む遠因ともなる[51]。条件派に移行した農家には「脱落」の烙印が押され、学生らに自己反省を書かされたり、言葉だけでなく暴力も振るわれたりもした[52]

警察・機動隊[編集]

堀田大隊が襲撃を受けたことは代執行最前線にいる機動隊にも伝わった。警察官死亡の一報が警察無線で伝わると現場の隊員たちはいきり立ち、警視庁機動隊と千葉・埼玉県警機動隊は功を競うようにして、それぞれの受け持ちである駒井野と天浪にある反対派の砦に殺到した。その日の内に砦は制圧されたが、駒井野では砦を解体する際に学生約10人を載せたまま高さ15メートルの鉄塔が倒れ、火炎瓶の燃料に引火して激しく燃え上がった(学生らは火だるまとなり、1人が危篤状態となったが命はとりとめた。なお、このとき空港公団職員も鉄塔の倒壊に巻き込まれている)[45][53][54][55]

その後警察側では警備計画の不備により甚大な被害をこの事件で出した反省から、

  • 外周警戒部隊をあまり遠方に配置しないこと
  • 機動隊を前日までに成田に集結させて、準備万端の形で投入すること
  • 特別機動隊は絶対に使わないこと

の3点を以後の警備計画での原則とするようになる[21]

事件後、機動隊は地元農民に「人殺し」などと罵声を浴びせるなど反対派への敵意をむき出しにするようになる。機動隊が巡回するようになった反対派の集落は戒厳下の如き様相となり、半年ほどは機動隊による支援学生らへのリンチなども横行していたという[12][31]

新左翼・過激派[編集]

事件後の反対派支援の新左翼学生らは、「警察権力が加えてきた弾圧に対する労働者、農民側からの階級的復讐である。責任は佐藤首相と警察機動隊にある」「アメリカはベトナム人民を殺し続けているが、佐藤(首相)はこれに協力している。だから、われわれ人民にも佐藤を殺す権利がある」「権力のイヌは殺されても当然だ」などと主張した[56][42]

また、この事件での警察官殺害のニュースは、大衆運動を離れ少数精鋭・過激化していく連合赤軍をはじめとした各地の極左暴力集団に強いインパクトを与えることとなる[57][58][59]。連合赤軍の元活動家である植垣康博は「先を越された」という気持ちだったと当時を回想している[60]

同じ年には朝霞自衛官殺害事件沖縄ゼネスト警察官殺害事件渋谷暴動事件といった警察官や自衛官を標的とした事件が相次いでいる。

裁判[編集]

なお、刑事裁判中の1983年(昭和58年)3月8日に、三里塚芝山連合空港反対同盟は「熱田派」と「北原派」に分裂し、被告の大多数が「熱田派」に属すこととなったが、3名が「北原派」となった。これに伴い、最終弁論を巡って被告団および弁護団が「熱田派系」と「北原派系」に分裂した[61]

空港の2期工事の着工が迫る1986年(昭和61年)10月4日千葉地方裁判所201号法廷(石田恒良裁判長)で判決が下された。事件当日のアリバイを主張していた3名に無罪、有罪とされた他の52名についても事件から15年が経過し社会生活上の不利益を受けていることなどが考慮され、3年から5年の執行猶予が付いた懲役刑(10ヶ月から3年)となり、実刑判決を受けた被告はいなかった。判決文には「地元農民の理解と協力を求めようとする姿勢が十分だったとは思われない」「新空港建設に反対する心情は理解できないわけではない」と同情的な文言が盛り込まれていた[32][61]

判決は、公務執行妨害と凶器準備集合などについては有罪であるが、傷害致死罪に関しては警察官に対する攻撃に直接関与したことを認めず、共謀共同正犯以上を認定しなかったと解される[32]

これは、本事件の遺留品や目撃証言が殆どなく、捜査段階での被告の自白には「信用性に疑問がある」こと等が最大の理由とされる。被告らはそもそも警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していたとしても、数百人の多人数による騒乱状態の中で発生したため、誰が誰に対してどのような行為をしたかを具体的に示す証拠を千葉県警察千葉地方検察庁は提示できず、自供調書と大きな齟齬があった[32]

弁護団は、286通に上る被告の調書の矛盾点を追及し、供述の信用性が欠けていることを強調していた[61][62]

この一審判決に対して承服しがたい点もあるとしながらも認定を覆すに足る証拠が不十分であることや諸般の事情を考慮した千葉地方検察庁が控訴しなかったため、この結果を実質上の勝利と位置づけ控訴をしなかった「熱田派」の被告らにはこれが確定判決となった[32]

一方、「北原派」に属する3名の被告(うち2名は後に小川派として北原派を離脱)は無罪を求めて控訴した。二審東京高等裁判所は、一審判決を支持し(1990年(平成2年)12月17日判決)た。3名のうち1名だけがさらに上告したが、1995年(平成7年)2月28日に、最高裁判所においても一審判決が支持されたことにより、執行猶予付きの有罪判決が確定した。

事件のその後[編集]

1990年代頃から被告の多くが合流した「(旧)熱田派」が政府との間で対話が行われるようになった。1992年平成4年)12月15日の第11回成田空港問題シンポジウムでは、三里塚工房制作のドキュメンタリー映画『追跡・自白調書 東峰十字路裁判』が上映され、元被告が、

 法律知識に疎い、私たち農村青年が、戦前の特高のような取り調べに、耐えられるはずもありません。様々な手を用い、私たちの間を、裂き、嘘の供述を強いた取調官を私たちは今も、許しておりません。同時に、一時的ではあれ、権力に屈服し、迎合してしまった自分たちを思い出すと、権力に腹が立つというより、叩きのめされ、卑屈になってしまったおのれに、怒りが沸くのです。(中略)
 死亡した警察官に対し、私たちも哀悼の念を奉げます。でも当時、代執行を強行する先兵としてやって来た彼らを、私たちが歓迎するはずもなく、戦わざるを得なかったのです、ましてやその『犯人』としてデッチ上げられ、十五年もの長い間、裁判を強いられた恨みを決して忘れてはいませんし、許してもおりません。

と述べている[63][64]

これらの対話の結果、旧熱田派は事件の引き金となった新東京国際空港建設時の強硬姿勢について、日本国政府からの謝罪を引き出し、1994年平成6年)10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議において、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸相と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わすに至った。その後、多数の地権者が移転に応じたことで、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展した。

円卓会議による決着前の1993年日本社会党伊藤茂運輸大臣が、新東京国際空港視察に先立って、殉職警察官の顕彰碑に献花したが、反対派農民からは「社会党が反対運動に火を付けたから警察官が死ぬ事件が起きた。どういう気持ちで献花したのだろうか」との冷ややかな声も上がった[65]

事件から36年後となる2007年、殉職した3警官の顕彰碑に元被告らが献花した[66]。献花した元青年行動隊員は「婚約者がいた警察官や子持ちの人もいた。当時は相手の立場まで想像できなかったが、今なら残された家族の気持ちにまで思いが及ぶ」と語った[61]

反対派の主張[編集]

青年行動隊としてゲリラ部隊に加わっていた元反対同盟員は、青年行動隊と現地に常駐していた学生の間では致命傷になるようなことはやらないと意思統一していたとした上で、大学闘争で機動隊に敗れ、恨みを抱きつつ全国の大学から急遽集まった学生による犯行であったことを仄めかしている[67]

関連人物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 千葉県警が立案した計画では、代執行の対象となる5つの拠点をベテランの警視庁機動隊・千葉県警機動隊にまかせ、木の根から朝日台(古込)を結ぶ第一外周部を各県警の正規の機動隊が守り、更に外側の大清水・成田市営駐車場・成田駅京成成田駅十余三・東峰十字路や三里塚十字路等の主要交差点を一般署員部隊で守ることとされた。(佐藤文生『はるかなる三里塚』講談社、1978年、107頁。)
  2. ^ a b c d e f g h i 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社. pp. 100-124. 
  3. ^ 警察庁のこの判断には、後藤田正晴警察庁長官が第一次代執行後に行われた上空からの現地視察で反対派を指して「蟷螂の斧」と述べたことが警察庁幹部の耳に入っていたことや、成田空港問題でリスクが高い千葉県警本部長にはノンキャリア組があてがわれ中央に「顔」が利かなかったことが影響しているともいわれている。(佐藤文生『はるかなる三里塚』講談社、1978年、109-110頁。)
  4. ^ a b c 第66回 衆議院 地方行政委員会 昭和46年9月23日 第4号、2017年3月閲覧。
  5. ^ 大坪景章(1978年)130頁
  6. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998年)44・45頁
  7. ^ 代執行前に常駐のセクトが出したパンフレットには、「城籠りは、外から援軍が来てこそ初めて包囲軍に勝てる。三つの城(団結小屋)を囲む城攻めの敵を"どこからか"包囲網を突破して、挟み撃ちにしてこそ、勝利がある。われわれは、この目的の為に、必要な方面で、機動隊に対する圧倒的殲滅戦を行い……」と書かれていた。(佐藤文生『はるかなる三里塚』講談社、1978年、103頁。)
  8. ^ a b 読売新聞 1971年9月16日夕刊より
  9. ^ 毎日新聞 1971年9月17日朝刊より
  10. ^ 読売新聞 2007年12月26日付記事
  11. ^ 1971年9月17日付読売新聞からの転載(飯高春吉(1976年)189頁)
  12. ^ a b c 東京新聞『<土の記憶 成田空港閣議決定50年> (2)対立激化』2016年6月12日、2017年3月閲覧。
  13. ^ a b 読売新聞 1971年9月17日付朝刊より
  14. ^ 逃げ込んだ隊員に農薬用フォークで胸などを突いてリンチを加えた容疑で、反対同盟員が家宅捜索を受けている。(大坪景章(1978年)145-146頁)
  15. ^ 戸村一作『わが三里塚-風と炎の記録』田原書店(1980年)、75頁
  16. ^ a b 朝日新聞 1971年9月16日付夕刊より
  17. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998年)54頁
  18. ^ 大坪景章(1978年)134頁
  19. ^ a b 飯高春吉(1976年)191頁
  20. ^ 大坪景章(1978年)134頁
  21. ^ a b 樋口晴彦最悪の状況で踏みとどまらせるもの』2017年3月閲覧。
  22. ^ a b 朝日新聞成田支局(1998年)45頁
  23. ^ 大坪景章(1978年)144頁
  24. ^ 遺体を目の当たりにした公団職員らは臨時の祭壇を作り、殉職者の冥福を祈った。(大和田武士 鹿野幹夫(2010年)37頁)
  25. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)34-37頁。
  26. ^ 原口和久『成田 あの一年』崙書房出版、2002年、54-54頁。
  27. ^ 毎日新聞 1971年9月17日付夕刊より
  28. ^ 大坪景章(1978年)144-146頁
  29. ^ 容疑者が処分保留で釈放されると再逮捕をしたため。
  30. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)38・42頁
  31. ^ a b 原口和久『成田 あの一年』崙書房出版、2002年、129-130頁。
  32. ^ a b c d e 隅谷三喜男(1996年)46-56頁。
  33. ^ 巨大開発とのたたかいを振り返る~「三里塚闘争50年の集い」”. レイバーネット日本 (2016年7月23日). 2017年3月27日閲覧。
  34. ^ 前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、40頁
  35. ^ 事件後も警察情報などを反対派に漏らす新聞記者がいた(伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、68頁)。
  36. ^ 福田克彦(2001年)174頁
  37. ^ 週刊少年ジャンプ1971年18号
  38. ^ a b 北原鉱治(1996)80頁。
  39. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)48頁
  40. ^ 福田克彦(2001年)179頁
  41. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)55頁
  42. ^ a b 読売新聞からの転載(飯高春吉(1976年)193・194頁)。
  43. ^ 北原鉱治(1996)81頁。
  44. ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、69-70・193・206頁
  45. ^ a b 原口和久 (2000). 成田空港365日. 崙書房. pp. 191・204. 
  46. ^ 福田克彦(2001年)194-195頁
  47. ^ 当初援農は、闘争で遅れた農作業を取り戻すための支援という位置づけであったが、周辺の空港公団が取得した用地までも支援の学生らに耕作させることで(当然違法耕作であり、税務署が捕捉できない。)私腹を肥やす農家も現れた(前田伸夫『特命交渉人用地屋』アスコム、2005年、40-41頁)。公団名義の土地の耕作は"雑草駆除"を理由に"自主耕作"という名称で始められ、そこで得られた収益は部落会計に回されるはずだった(福田克彦(2001年)44頁)。
  48. ^ 福田克彦(2001年)195-196頁
  49. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)93頁
  50. ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、92頁。
  51. ^ 福田克彦(2001年)194-196頁
  52. ^ 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)76頁
  53. ^ 大坪景章(1978年)134-135頁
  54. ^ 稲毛新聞『千葉の歴史検証シリーズ30 成田国際空港「血と涙の歴史」8』、2017年3月閲覧。
  55. ^ 第068回国会法務委員会第9号 1972年4月18日、2017年3月閲覧。
  56. ^ 山野車輪『革命の地図 戦後左翼事件史』イースト・プレス、 2016年、119頁。1971年9月17日付の朝日新聞からの引用として記載。
  57. ^ 8月21日に、連合赤軍の母体となった京浜安保共闘のメンバーが逮捕され、青年行動隊メンバーとのつながりを示すメモが見つかった。翌日に警察がその反対同盟員の家宅捜査が行ったところ、京浜安保共闘の女性オルグが滞在しているのが見つかった。京浜安保共闘と赤軍派は事件2日前に共同の集会を開き「三里塚で爆弾ゲリラを結合させよう」と公然と扇動していた。(大坪景章(1978年)127・129頁)
  58. ^ 京浜安保共闘が雲取山に設けた山岳ベースには、反対派農家が野菜を運んでいた(「三里塚のイカロス」代島治彦監督に聞く「あの時代の悪霊を、もう蘇らせたくない」”. 映画の森 (2017年9月9日). 2017年9月10日閲覧。)(映画『三里塚のイカロス』パンフレット、10頁)。
  59. ^ 元反対同盟事務局次長元熱田派事務局長が、山岳ベース事件を主導した森恒夫永田洋子や大槻節子等セクト内のリンチで死んだ活動家らが過去に三里塚を出入りしていたことや、青年行動隊員らに大菩薩峠事件として知られることになる軍事訓練への参加の勧誘があったことを認めている(映画『三里塚のイカロス』パンフレット、9・10頁)(伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、123頁)。
  60. ^ 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』彩流社、2001年
  61. ^ a b c d 大和田武士 鹿野幹夫(2010年)49-55頁。
  62. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)56-57頁
  63. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集』1995年、326頁。
  64. ^ 隅谷三喜男(1996年)175頁。
  65. ^ INC., SANKEI DIGITAL (2017年5月28日). “【ニュースの深層】成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う” (日本語). 産経ニュース. http://www.sankei.com/premium/news/170528/prm1705280004-n1.html 2018年4月22日閲覧。 
  66. ^ 稲毛新聞『千葉の歴史検証シリーズ50 「成田国際空港反対闘争」続編』、2017年3月閲覧。
  67. ^ 朝日新聞成田支局(1998年)46頁
  68. ^ TBSラジオ Sessio-22 2015年5月20日(水)「三里塚闘争とは何だったのか?」と公式サイト

参考文献[編集]

  • 飯高春吉 『北総の朝あけ 成田空港闘争と警備の記録』 千葉日報社出版局、1976年8月。
  • 東京新聞千葉支局/大坪景章 編 『ドキュメント成田空港 傷だらけの15年』 東京新聞出版局、1978年4月。
  • 隅谷三喜男 『成田の空と大地 闘争から共生への途』 岩波書店、1996年10月。ISBN 978-4000015462
  • 北原鉱治 『大地の乱 成田闘争 三里塚反対同盟事務局長の30年』 お茶の水書房、1996年5月。ISBN 978-4275016294
  • 朝日新聞成田支局 『ドラム缶が鳴りやんで 元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』 四谷ラウンド、1998年6月。ISBN 978-4946515194
  • 福田克彦 『三里塚アンドソイル』 平原社、2001年10月。ISBN 978-4938391263
  • 大和田武士、鹿野幹夫 『「ナリタ」の物語 1978年開港から』 崙書房、2010年4月。ISBN 978-4845501960

関連項目[編集]

外部リンク[編集]