上赤塚交番襲撃事件

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襲撃された上赤塚交番(2009年撮影)

上赤塚交番襲撃事件(かみあかつかこうばんしゅうげきじけん)とは、1970年12月18日、京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)のメンバー3名により板橋区志村警察署[1]上赤塚交番が襲撃され、襲撃メンバーの1人が応戦した警察官に射殺された事件。日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。

概要[ソースを編集]

前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪は、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃によるの奪取が計画された。

12月18日、革命左派の柴野春彦横浜国立大学生)と渡辺正則(横浜国立大学生)、佐藤隆信(神奈川県立川崎高等学校生)は、交番に駐在する警察官拳銃奪取を目的に上赤塚交番を襲撃。襲撃犯3人はゴムホース入りパイプ、切り出し小刀千枚通しを武器に、警察官に襲い掛り、怪我をさせる。交番内で勤務していた別の警察官も襲われたため、警察官が応戦、発砲し、襲撃犯の柴野春彦が死亡、他2名も重傷を負った。負傷した2名はその場で逮捕された。

銃奪取に失敗した革命左派は、交番のかわりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。

その他[ソースを編集]

  • 革命左派の獄外指導部は、護送車襲撃については川島豪の確実な奪還のために綿密に計画を立てていたが、銃奪取のための交番襲撃については楽観視しており、計画らしい計画も立てないまま交番襲撃は決行された。
  • 事件後はメンバーの祥月命日である18日前後に警察署、交番、独身など警察機関に対する爆破テロが繰り返されたのは、新左翼過激派による柴野射殺の報復とされた。この連続テロは1972年2月のあさま山荘事件において、警察が立て篭もり犯を射殺せずに全員生け捕りにする方針を取る遠因になった。
  • この事件の後に土田国保警視庁警務部長は「犯人を射殺したことは警察官の職務規定を遵守した正当防衛である」と発言。これに怒りと覚えた過激派グループ[2]が1971年12月に土田邸に爆弾入りの小包を送りつけ、土田夫人が爆弾で殺害されてしまう(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。
  • 京浜安保共闘が赤軍派と統合した連合赤軍は、山奥の基地において1971年12月28日にこの事件に参加しなかったメンバーに対する総括として、事件を再現して警察官役を擬した坂口弘との格闘訓練を行った。訓練終了後、の殴打による鼻血と折れたのために呼吸が困難になり周囲の手を借りようとしたメンバーが、連合赤軍幹部の永田洋子から「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たりえない」と問題視され、柱に縛りつけた上で暴行され、山岳ベース事件の最初の犠牲者となった。
  • 本事件はしばしば「京浜安保共闘」の起こしたものとされるが、厳密には大衆団体の京浜安保共闘ではなくその上部団体の「革命左派」が起こしたものである。このことは革命左派(及び赤軍派)内部では一定の重大性を持っており、当初は「京浜安保共闘」の主催社名で開催される予定だった柴野の一周忌集会において主催者名が合法部の判断で「革命左派」に変更されたことが、山岳ベース事件において総括の始まる直接の原因になっている。
  • 後に川島豪は、自分は獄外指導部に対して自身の奪還を指示していないと述べている。しかし当時川島は、面会に来たメンバーに対して奪還を示唆する行為を繰り返し行っており、また獄外指導部に対して奪還を指示する暗号文も送っていた(但し獄外指導部は暗号解読そのものはできていない。なお、獄中から暗号を送ることは本来は禁止されているはずだが、何故かそのまま送られてきた)。

参考文献[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 当時。1986年以後、当該交番は高島平警察署の所属となっている。
  2. ^ 2011年に発行された中島修『40年目の真実―日石・土田爆弾事件』によると、土田邸爆破事件を起こしたのは共産主義者同盟戦旗派としている。

関連項目[ソースを編集]