総括 (連合赤軍)

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総括(そうかつ)とは、本来は全体を取り纏める事であり、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられていたものである。本項目では日本の新左翼党派である連合赤軍において、29名のメンバー中12名のメンバーを死に至らしめる(山岳ベース事件)要因となった「総括」について扱う。

概要[編集]

左翼団体において、取り組んでいた闘争が一段落したときに、これまでの活動を締めくくるために行う活動報告のことを「総括」と言っていた。闘争の成果や反省点について明らかにし、これからの活動につなげていく、工業界でいうところのPDCAサイクルの「C(点検・評価)」に相当する。連合赤軍においてもこの点では他派と同一[注釈 1]であるが、「総括」により「革命戦士の共産主義化」を目指した点、日常の瑣末(と思われる)な言動に対しても「総括」を要求された点、「『総括』に集中するため」として、正座・絶食の強要、暴行、ロープによる束縛などをした点などにおいて異質であった。

共産主義者同盟赤軍派日本共産党(革命左派)神奈川県委員会は両派の非合法組織を統合して連合赤軍を結成し、1971年12月の両派の合同軍事訓練が行われた。この時、革命左派リーダー永田洋子を中心とした革命左派メンバーによる赤軍派女性メンバーに対する身なりや闘争への姿勢への批判を受けて、赤軍派リーダー森恒夫は「銃による殲滅戦」(交番襲撃による警官殺害と銃の奪取)のための「革命戦士の共産主義化」の必要性を主張。この中で森は「作風・規律の問題こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、党建設の中心的課題」とし、各個人の日常の行動様式やこれまでの活動でのあり方を「総括」していく必要性を説いた。

合同軍事訓練終了後、両派の合法部・非合法部間の軋轢をきっかけに、連合赤軍は独自に「新党」の結成を宣言。「新党」においては「革命戦士の共産主義化」が中心に据えられ、森と永田を中心とした各メンバーに対する「総括」要求はエスカレートしていった。「総括」要求された者は初めは作業から外されるだけだったが、やがて食事を与えられないようになり、それでも「総括する態度ではない」と見なされたことで暴行が加えられるに至った。1971年12月31日にはついに最初の犠牲者を出したが、森はこれを「総括できなかったところによる敗北死」とし、方針が改められないまま1972年2月までの約2ヶ月の間に12名の犠牲者を出すに至った。

「総括」要求されたメンバーは各自自身の「総括」を述べたが、森に認められた者はなかった。森に準ずる形で関与していた永田を初めとして森の理論(「総括」達成の基準)を明確に理解していたものはおらず、「総括」要求されたメンバーの中には周囲のメンバーや当事者ですら何を問題とされているのか、何を「総括」すればよいのか分からずにいた者もいたという。

注釈[編集]

  1. ^ 後に加えられた暴行を指して「総括」と呼ぶものもあるが、彼らの主張では暴行はあくまで「総括」獲得のための「手段」にすぎない

参考文献[編集]

  • 読売新聞大阪本社社会部(編) 『連合赤軍 : この人間喪失』 潮出版社1972年 ASIN B000J9MCEO
  • 警備研究会(編) 『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集』 (三訂版) 立花書房2008年ISBN 978-4803715309 

関連項目[編集]