朝霞自衛官殺害事件

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朝霞自衛官殺害事件
場所 陸上自衛隊朝霞駐屯地
日付 1971年昭和46年)8月21日
概要 自衛隊の武器を強奪するために幹部自衛官に変装し駐屯地内に侵入した新左翼によって警衛勤務中の自衛官が刺殺された。
武器 包丁
死亡者 一場哲雄陸士長
犯人 赤衛軍 日本大学駒澤大学学生
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朝霞自衛官殺害事件(あさかじえいかんさつがいじけん)とは、1971年(昭和46年)8月21日に、東京都練馬区埼玉県朝霞市和光市新座市にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地警衛勤務中の自衛官が、新左翼によって殺害されたテロ事件。

犯人グループが「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」ともいう。朝日ジャーナル記者川本三郎週刊プレイボーイの記者[1]がそれぞれ犯人を手助けしており、日本のマスメディアの信頼失墜にも繋がった。

事件の概要[編集]

1971年8月21日午後8時45分、陸上自衛隊朝霞駐屯地で歩哨任務についていた一場哲雄陸士長(当時21歳)が何者かによって刺殺された。午後10時半の交代の時間になっても一場陸士長が現れなかったことから、駐屯地内を捜索したところ、血まみれで倒れている一場陸士長を発見した。一場陸士長は直ちに病院に搬送されたが、既に死亡していた。

事件現場周辺には、「赤衛軍」の名称が入った赤ヘルメットやビラなどが散乱していた。そして、近くの側溝から一場陸士長が所持していた小銃が発見されたが、左腕に付けていた「警衛」の腕章が消えていた。

埼玉県警察は「赤衛軍」という新左翼党派が起こした事件とみて、朝霞警察署捜査本部を設置し捜査を開始した。遺留品を調べたところ、何れも東京都内で販売されたことから、犯人は都内に住んでいると推測したが、赤衛軍はこれまで事件を起こしたことがなく、公安警察といえども正体不明の存在であった。

発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月5日発売の『朝日ジャーナル』に「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明し、取材源は限りなく「クロ」であることが分かった。

警察はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された。

3人の学生は警察の取調べに対し、

  • 自衛隊の武器を強奪するために、幹部自衛官制服を準備し、幹部自衛官に変装して駐屯地内に侵入した。
  • 歩哨の自衛官をいきなり包丁で刺し、所持のライフル銃を奪おうとしたが、ライフル銃が側溝に落ちてしまい、暗かったので見失ってしまった。
  • 自党派の存在をアピールするため、わざと遺留品を残した。

と供述した。

また、『朝日ジャーナル』の記者川本三郎(当時27歳)は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた[2]。このほか、『週刊プレイボーイ』の記者(当時26歳)が犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していたことも判明した。このため、両人は1972年1月9日に犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕された。

首謀者とされた滝田修(当時京都大学助手)は無実を訴え、新左翼活動家の支援を受けて地下に潜行したが、約10年後の1982年(昭和57年)8月8日に逮捕された。裁判では滝田の強盗致死の謀議を否定し幇助で有罪として懲役5年判決が確定したが、拘置所での未決勾留期間が量刑を上回っており、即日釈放された。

入隊後1年半程度ながら、歩哨係の任務を忠実に遂行しようとして殉職した一場陸士長は、その功績が評価され、特別に2等陸曹に任じられ、勲七等青色桐葉章が授与され、また防衛庁長官2級賞詞及び2級防衛功労章が授与された。

その他[編集]

1974年三菱重工爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線は教本『腹腹時計』において「マスコミ・トップ屋との関係は断つべき」として「赤衛軍」を失敗例として挙げた。

なお、当時幹部自衛官は制服を着用していれば身分証明書の提示が無くとも警衛所を通過出来たが、本事案以降は例え制服・戦闘服等を着用した幹部自衛官であっても身分証明書を提示しなければ営門を通過出来なくなっている[3]

川本三郎自身により著された事件を主題とするノンフィクション『マイ・バック・ページ』は、2011年、山下敦弘監督、妻夫木聡松山ケンイチ主演により映画化された。

脚注[編集]

  1. ^ この記事において、川本は自身の著作でこの事件に関与している事を述べているため実名にて記述する。
  2. ^ 福井惇『一九七〇年の狂気―滝田修と菊井良治』p.159(文藝春秋社、1987年)
  3. ^ 人命が失われるという重大かつ報道に発展した事件の教訓を踏まえての処置(歩哨が例え2等陸士であっても身分証を提示せず無理に営門を通過しようとした場合は将官であっても処分の対象となる。ただし官用車等で送迎される場合を除く)。なお、防衛省のある市ヶ谷駐屯地は営門通過後も常時身分証明書を首から下げていなければならず、パスケースも専用の物が使用される。また、職員の家族のみで入門する場合は防衛省共済組合が発行する組合員証、これに類する物の提示が求められる(所持していない場合は警衛所で面会証を発行してもらい入門となる)

参考文献[編集]

  • 警備研究会『極左暴力集団・右翼101問(改訂)』立花書房、2000年
  • 『過激派事件簿40年史』立花書房、2001年

関連項目[編集]