黙秘権
趣旨と効果[編集]
趣旨[編集]
黙秘権の保障は、捜査機関が拷問や脅迫の手段によって、無理に自白を引き出すことを防止しようとする趣旨である[1]。
黙秘権と自己負罪拒否特権の関係については、自己に不利益となる事実の供述を強要されない権利を自己負罪拒否特権、それを拡張し自己に利益か不利益かを問わずすべての供述を拒否し黙秘する権利を黙秘権として整理されることがある[2]。また、黙秘権とは被疑者・被告人の自己負罪拒否特権をいうと整理されることもある[3]。なお、自己負罪拒否特権は証人に対しても証言拒否権として認められている[3]。
効果[編集]
黙秘権には以下のような効果がある。
捜査機関・検察側による“有罪である”とする論拠に対して、被疑者自ら積極的に“無罪である”とする論拠を示そうとすると、その後に捜査機関・検察側が提出する論拠によっては嘘ではなくても辻褄が合わなくなって、供述を訂正したり撤回したりして心証を悪くする結果となったり、被疑者の予想に反して主張した事実を裁判で不利な事実と指摘され、不利になる可能性がある。しかし、被疑者が黙秘権を行使すれば、そのような展開になる可能性をなくすことができる。
黙秘権の行使をもって不利益な量刑資料とすることはできない[4]。ただし、自ら自白し反省する者を量刑上有利に扱うことはでき、結果的に有罪認定された際には自白し反省している者よりも黙秘している者のほうが量刑が重くなることはありうる[4]。
また、黙秘権の行使だけで勾留や権利保釈の判断に不利益な判断を行うことはできないが、他の事情と相まって証拠隠滅のおそれがあると推測されれば不利益に判断されることもありうる[4]。
捕虜[編集]
なお、刑事における黙秘の類似例として、戦時国際法の捕虜条約に規定される捕虜の権利がある。捕虜は、氏名・階級・生年月日・認識番号を伝える義務があるが、それら以外の情報については黙秘する権利がある。
沿革と展開[編集]
欧米[編集]
古く自白は「証拠の王」または「証拠の女王」[5]と呼ばれ、有罪の認定に最も重要な要素とされていた。例えばカロリーナ法典では、刑の言い渡しの要件として、犯人の自白または2人以上の信憑性のある証人の証言が必要とされた[5]。しかし、フランス革命を契機に文明国では自白の強制を防止するための法制が必要と考えられるようになった[6]。
黙秘権は17世紀後半でイギリスにおいて成立した[1][7]。当時の星法院裁判所(スター・チェンバー)の審理は何の訴えも待たずに開始され、被告人には宣誓した上で供述することが義務づけられていた[7]。このような制度に反対していた一人がリルバーン(Lilburn)であり、彼は1637年に星法院裁判所での宣誓供述を拒否したため処罰された[7]。
1641年にイギリス下院は、このような措置は残虐・不正・野蛮・暴虐であり市民の自由に反するものとして、同年に星法院裁判所を廃止した[8]。イギリスでは、17世紀末までに「何人も、自らの口で自分自身を有罪とするように強制されることはない」とする原則が確立された[9]。
その後、黙秘権はアメリカ合衆国憲法修正第5条により「何人も、いかなる刑事事件においても、自己に不利益な供述を強制されない」として具体化された[1][9]。
なお、捜査機関による捜査段階での供述については黙秘権と自白法則の融合がみられる[10]。自白法則は拷問や脅迫などによって獲得された自白を証拠から排除するという原則であり黙秘権よりもおそく18世紀後半に成立した[9]。元来、黙秘権は供述義務のない者を法律上供述義務のある立場に置くこと(供述の強要)を禁じるもので、裁判所が被告人に法律上の供述義務を課す場合にのみ問題になるとされた[11][9]。
一方、自白法則は拷問や脅迫などの事実上の強制(供述の物理的・心理的な強制)を排除するものであるから、公判廷外の自白に適用されると考えられた[11][9]。そのため、かつては被告人は裁判所との関係で法律上の供述を強制されない特権を有するのであり、捜査機関に対して供述義務を負わない被疑者に、このような特権はなく、捜査機関による供述の物理的・心理的な強制は自白法則で処理すべきと考えられたこともある[11][9]。
しかし、供述強制による侵害の危険が大きいのは、むしろ被疑者の場合であり、裁判所による供述強制だけでなく国家機関一般による供述の強制が禁止されているとみるべきと考えられるようになった[10][3]。アメリカでも最初は裁判所に対する特権と考えられていたが、捜査機関に対する被疑者の黙秘権が強調されるように推移している[10]。なお、日本でも黙秘権と自白法則の融合に関する指摘がある[10]。
日本[編集]
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日本国憲法第38条第1項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」と規定している(自己負罪拒否特権)[1]。
一方、刑事訴訟法第198条2項は被疑者の黙秘権について「取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない。」と規定している(黙秘権の告知)[1]。また、刑事訴訟法第311条1項は被告人の黙秘権について「被告人は、終始沈黙し、又は個々の質問に対し、供述を拒むことができる。」と規定している。
黙秘権の範囲について刑事訴訟法は、日本国憲法とは異なり「自己に不利益な供述」という限定を付けておらず、刑事訴訟法は自己にとって不利益かどうかを問わず(自己に利益となる場合であっても)供述を拒否することができる[1]。
ただし、判例では黙秘権について黙秘できる事項は「刑事上の責任を問われるおそれのある事項」であると解釈している[1]。学説には人定質問の段階から黙秘することも可能と解する見解があるが、最大判昭和32年2月20日[12]において、氏名については原則として黙秘権の保障が及ばないことが判示されたケースもある。氏名について黙秘権が及ぶケースとしては、有印私文書偽造・同行使罪で私文書の作成者として特定されている被告人が自己の氏名を明らかにすると、被告人が他人の氏名を冒用していることが判明する場合等は自己の氏名を供述することで刑事上の責任を問われるおそれのある事項として氏名についても黙秘権の保障が及ぶと考えられている。とは言え、起訴された者が、不法滞在外国人であったり、他の犯罪嫌疑で指名手配を受けていた者で、人違いで起訴された場合などでは氏名についての黙秘権の保障が及ばないかどうかについては争いがある。
日本の刑事裁判においては、第一回公判で人定質問を終え、起訴状朗読が終わった際、罪状認否に先立って、必ず裁判官は被告人に対し大要以下のように黙秘権の告知を行う(刑事訴訟法第291条第4項)。
これから、今朗読された事実についての審理を行いますが、審理に先立ち被告人に注意しておきます。
被告人には黙秘権があります。従って、被告人は答えたくない質問に対しては答えを拒むことができるし、また、初めから終わりまで黙っていることもできます。もちろん、質問に答えたいときには答えても構いませんが、被告人がこの法廷で述べたことは、被告人に有利・不利を問わず証拠として用いられることがありますので、それを念頭に置いて答えて下さい。 — 裁判官
なお、判例は黙秘権の告知を欠いたとしても、刑事手続違反にはならないとしている[1]。
大日本帝国憲法下の旧刑事訴訟法(大正刑訴法、明治刑訴法、治罪法)では認められておらず、被告人や被疑者は、裁判所や捜査機関の尋問に対して、真実を供述する義務があると解されていた。換言すれば、裁判所や陪審は、被疑者・被告人が黙秘したことをもって、有罪方向の心証を形成することが許されていた。
黙秘権に関する議論[編集]
論点[編集]
黙秘権は強大な公権力を持つ捜査機関から、弱い個人である被疑者を守る目的があるが、司法手続のあり方から議論となる場合がある。
- 城丸君事件では、被害者と最後に接触して被害者の遺体を密かに所持して、最重要人物と目された被疑者が逮捕、起訴されたが、黙秘権を行使し続けた結果、重大な犯罪で被害者を死なせた疑いが強いが、殺意については合理的な疑いが残るとして、殺人罪の無罪が確定した。
- この事件では、被告人が黙秘権を行使し続けたため、被害者の死亡の真相が明らかにならなかったとして、被害者遺族に同情的な見解がある[13]。
- 被告人が終始黙秘を続けた和歌山毒物カレー事件の和歌山地方裁判所でも、同事件の被害者の会を中心に、黙秘権行使に反対する署名運動が展開された。同事件第一審判決は、黙秘の事実は事実認定の資料になっていないことを明言した上で、黙秘権の趣旨並びに正当性を説明する異例の言及を行っている。
- 被疑者が終始黙秘権を行使したことにより、却って被疑者が起訴され、不利益を受けたと評価されかねない事例もある[14]。
- 事故調査の事情聴取が、自分の刑事責任追及を不利に使われる恐れがあるとして、必然的に黙秘権が行使され、事故原因や真相追及や安全対策が疎かになる[15]。
自白や黙秘権に関連する制度[編集]
被疑者の自白や黙秘権に関連する制度には次のようなものがある。ただし、自己負罪型の司法取引については真実が解明されれば本来の刑の回避を認めてもよいのかという問題点があるほか、捜査協力型の司法取引ついては他人を犯罪の嫌疑に引き込む危険性も指摘されている[16]。また、司法取引は、本当は罪を犯していないにもかかわらず、裁判で争うよりも軽い罪で認めた方がいいという、任意の冤罪事件を増やす恐れがあるという指摘もある[16]。
量刑ガイドライン制度[編集]
量刑ガイドライン制度は、イギリスやアメリカ合衆国で導入されている制度で、裁判所による量刑判断において、被疑者が自白等を行った時期や内容に応じて、刑の減免を認める制度である[16]。
王冠証人制度[編集]
王冠証人制度は、ドイツで導入されている制度で、被疑者が一定の犯罪の解明に積極的に貢献した場合、裁判官による量刑判断において、その時期や捜査への貢献に応じて、刑の減免を認める制度である[16]。
虚偽供述の防止[編集]
アメリカ合衆国やイギリスでは、被疑者や被告人が黙秘権の範囲を超えて、積極的に虚偽供述をする行為が、明文で処罰化されている[16]。
黙秘の不利益推定[編集]
イギリスでは、1994年に黙秘権の一部を制限する立法が行われた。具体的には、被疑者が警告(caution)の下で取調べを受けているときに、その当時の状況において言及しておくことが合理的に期待され得た事実について言及しておらず、かつ、後の公判で抗弁としてその事実に依拠した場合には、「黙秘によって判決に不利に働く可能性がある」ことを告知し、その上で黙秘をした場合は、裁判所や陪審は被疑者に不利益に推認することを可能とする、との規定である。
- こうした条項の下では、被疑事実について捜査機関が説明を求めた場合、黙秘による不利推認可能性の告知をした上で、なおも被疑者が黙秘権を行使し続けた場合、裁判所・陪審は、黙秘権行使の事実を有罪方向に推認して、被告人に不利な心証を形成することも許されることになる[17]。
- 日本も、このような法整備をしなければ、強引な捜査を助長したり、犯罪者を見逃したりすることになるという意見も一部にある[18]。
一方、こうした不利益推認を許す条項は、欧州人権条約第6条及び国際人権規約(自由権規約)第14条に違反しているという見解もあり、ヨーロッパ人権裁判所では、同条項の効力が問題になることがある。
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l 木島康雄『図解で早わかり 最新 刑事訴訟法のしくみ』(2017年)72-73ページ
- ^ 安藤高行 編 『憲法 II』2001年、p.203
- ^ a b c 上口裕 『刑事訴訟法 I 第4版』2015年、p.187
- ^ a b c 上口裕 『刑事訴訟法 I 第4版』2015年、p.191
- ^ a b 熊谷弘・浦辺衛・佐々木史朗・松尾浩也編 『証拠法大系II自白』1970年、p.3
- ^ 熊谷弘・浦辺衛・佐々木史朗・松尾浩也編 『証拠法大系II自白』1970年、p.4
- ^ a b c 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.102
- ^ 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、pp.102-103
- ^ a b c d e f 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.103
- ^ a b c d 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.104
- ^ a b c 上口裕 『刑事訴訟法 I 第4版』2015年、p.186
- ^ “最高裁判例 昭和27(あ)838”. 最高裁判所. 2015年11月24日閲覧。
- ^ なお、この事件では、傷害致死罪、死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、殺人罪以外で刑事訴追することはできなかった。
- ^ 東京地判平成6年12月16日『判例時報』1562号p141。同事件の判決において、裁判所は、被告人が起訴され長期の裁判を受けることとなったのは、捜査段階で黙秘していたことが一因であると指摘している。なお、同事件で被告人は無罪判決を受けている。
- ^ 松本惇 (2015年8月13日). “クローズアップ2015 日航機墜落30年 空の安全、課題今も”. 毎日新聞 (毎日新聞社). オリジナルの2016年6月4日時点におけるアーカイブ。 2016年6月5日閲覧。
- ^ a b c d e 捜査手法、取調べの高度化を図るための研究会 警察庁. 2018年5月23日閲覧。
- ^ 板倉宏『「人権」を問う』音羽出版p176-p180
- ^ 産経新聞特集部『検察の疲労』角川文庫p165-p169