小川栄一 (実業家)

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小川 栄一(おがわ えいいち、1900年明治33年)1月10日[1] - 1978年昭和53年)12月8日)は日本の実業家藤田観光の創業者。一代で箱根小涌園・椿山荘・ホテルなどの観光王国を築き上げたほか、東海汽船社長や国土総合開発社長など歴任した[2]

人物[編集]

安田信託銀行に入行し、抵当流れの豊島園を再建した。1944年には倒産した藤田財閥の財産整理を行い、藤田興業、同和鉱業を再建した。箱根を中心とした観光事業に進出し、箱根小涌園、東京椿山荘などの藤田観光グループを築き上げて、藤田観光社長に就任した。獅子文六の小説「箱根山」に登場する第3の男である「氏田観光」の北条一角のモデルとなったとされ、「財界のブルドーザー」との異名をとった。経団連常任理事および日経連常任理事。

年譜[編集]

事業家としての活動[編集]

  • 小川は華族や財閥が独占していた庭園や邸宅を大衆に開放することが観光事業であり、経営者がなすべき社会事業であるとの信念を持ち、安田財閥の役員らを前に「財閥は天下の秀才を集め、しかも『確実にして有利』『有利にして確実』な投資を求めて無限の富を築こうとしている。この結果、わずかな有限の富しか築けない大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間にはおのずから大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。それはやがて無限を志す財閥の富を根こそぎ持ち去ってしまうかもしれません。そこで財閥はみずから富を有限とし、限度を超えた富に対しては、やがての成長産業のために投資する、従来財閥としてやらなかった投資、あるいは慈善事業など、社会、公共ともに生かすことを考えていかねばなりません」と演説を打った[3]
  • 産業計画会議の東京湾問題委員会委員長となり、自らも国土総合開発を設立して東京湾の埋め立てを推進した。富津岬を中心に7000haを一手に埋め立てる壮大な計画(小川構想)を発表。池田勇人首相に説き、1961年7月18日に計画が「極めて妥当な考え」であり政府はこれに協力する方針をとるべき旨の閣議了承を得ると、自民党党人派の有力者の大野伴睦川島正次郎の支援を受けて埋め立て権の付与を千葉県に働きかけた[4]。小川は同じく党人派の有力者である河野一郎とも親しく、1960年代中頃に新東京国際空港の建設地が検討された際には、河野は小川がイギリスの業者に設計させた青写真を持ち出して木更津沖を埋め立てて空港建設することを運輸大臣綾部健太郎運輸省に強く迫った。河野の介入は、結果として空港計画を迷走させ、成田空港問題の発生を招いた[5][6][7]

著書[編集]

関連人物[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『あわてなさんな』 奥付 著者紹介
  2. ^ 小川 栄一(オガワ エイイチ)とは”. コトバンク. 2018年9月19日閲覧。
  3. ^ 藤田観光 知られざる 60年”. www.fujita-kanko.co.jp. 藤田観光株式会社. 2019年3月15日閲覧。
  4. ^ 宮崎隆次. “高度成長期の自治体と計画 (PDF)”. 千葉大学法学論集. 2019年3月15日閲覧。
  5. ^ 友納武人 (1981). 疾風怒濤 県政二十年のあゆみ. 社会保険新報社. pp. 194-196. 
  6. ^ 佐藤文生 『日本の航空戦略 : 21世紀のエアポート』 サイマル出版会、東京、1985年12月、31-35頁。ISBN 9784377306903NCID BN01412290
  7. ^ 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、20頁。