北裏喜一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

北裏 喜一郎(きたうら きいちろう、1911年3月14日 - 1985年10月30日)は、日本の実業家野村證券元社長・会長。野村證券の国際化戦略の立役者。

来歴・人物[編集]

和歌山県、北裏常松の四男に生まれる。1933年兵庫県立神戸高等商業学校卒業[1]後、1933年に野村證券へ入社。戦後は、野村證券の首脳陣がGHQの公職追放で辞任したために二階級特進、1949年取締役大阪支店支配人となり、本店支配人を経て、1952年常務に昇進。続いて専務から1959年6月には副社長に進み、1968年11月に社長に就任するまで瀬川美能留とのコンビで野村證券の発展に大きく寄与した。1978年には当時54歳の田淵節也に社長職を譲り、自らは会長となった。1985年10月30日死去。享年74。

家族[編集]

北裏の長男慎一郎(昭和電工)の妻はるは、丸善石油相談役、宮森和夫の三女。また二男の卓次(大阪商船三井船舶)の妻節子は、鳥取の老舗元池内綿糸店社長池内新蔵の四女。宮森和夫は、三和銀行副頭取から昭和39年11月に丸善石油再建のために社長に送り込まれた。宮森和夫の妻せいの兄は元福岡裁判所長の長峰正次で、長峰の妻梅子の父は元鉄道大臣原脩次郎。宮森和夫の長男朝夫(松屋百貨店)は元横河電機製作所会長山崎厳の二女宣子を娶り、長女ゆき、二女みねは、国際水産社長立川慶男、正金百貨店常務取締役村上勝哉にそれぞれ嫁いでいる。

一方北裏喜一郎の長女量子は、元日本航空会長松尾静麿の二男賢二(三菱商事)に嫁いでいる。松尾は戦後日本の民間航空育ての親で、日航を世界第三位の航空会社に仕上げた日本の航空界の先駆者。

脚注[編集]

  1. ^ 官立神戸高等商業学校に入学、予科を修了し本科1年に進むが結核を発病し療養。療養中に官立神戸高商は神戸商業大学に昇格しており、2年半の療養後、北裏は新設の県立神戸高商2年に編入した。

関連項目[編集]