田淵節也

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たぶち せつや
田淵 節也
生誕 田淵 節也
(1923-10-25) 1923年10月25日
日本の旗 日本岡山県津山市
死没 (2008-06-26) 2008年6月26日(84歳没)
日本の旗 日本
死因 心不全
国籍 日本の旗 日本
別名 大田淵(大タブチ)
出身校 京都大学法学部
職業 実業家
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田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本実業家

後任の社長に就任した田淵義久(縁戚関係はない)と区別するため俗称は大田淵(大タブチ)[1]

来歴・人物[編集]

岡山県津山市出身[2]

京都大学法学部卒業後、1947年野村證券に入社。主に営業畑を歩んだ後、1978年社長に就任。精彩を欠いていた国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げた。

1985年に社長の座を同姓で出身都道府県も同一である田淵義久に譲り、会長に就任した後も、実力会長として君臨した。

1990年12月には証券業界では初の経団連副会長に就任したが、1991年損失補てん問題や暴力団との取引が発覚。国会で証人喚問を受けた。責任を取って会長職を辞任し相談役に退き、経団連副会長は解任された。

1995年再び取締役に就任し復権を果たしたが、1997年総会屋への利益供与が発覚。すべての役職から退いた。

2008年6月26日、心不全のため死去。84歳[3]

脚注[編集]

  1. ^ バブル秘史 波乱の証券業界③ 大蔵省の虎の尾を踏んだ野村証券の「小田淵」”. エコノミスト (2021年11月29日). 2023年11月27日閲覧。
  2. ^ 本籍は岡山の津山市(旧苫田郡神庭村)であるが、大邱生まれで旧制中学まで大邱で育ち、旧制高校松江、大学は京都のため岡山に住んだことはない(日本経済新聞、2007年11月4日、40面<私の履歴書>)
  3. ^ “田淵節也元野村会長が死去 収益拡大「業界のドン」 証券不祥事で引責”. 共同通信. (2008年6月28日). オリジナルの2008年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080630092400/http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008062701001018.html 
先代
北裏喜一郎
野村證券社長
第6代: 1978年 - 1985年
次代
田淵義久
先代
水上達三
中東調査会会長
第3代: 1989年 - 1991年
次代
石原俊