この記事は良質な記事に選ばれています

箱根山戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
箱根観光船と伊豆箱根鉄道の遊覧船

箱根山戦争(はこねやませんそう)は、第二次世界大戦後の1950年から1968年にかけて堤康次郎率いる西武グループと、安藤楢六率いる小田急グループ、およびその背後にいる五島慶太東急グループの間で繰り広げられた箱根の輸送シェア争いの通称[1]。巨大グループ同士の衝突が熾烈を極めたため、これに舞台となった箱根山の名を冠して「戦争」と呼ばれ、「箱根山サルカニ合戦」とも揶揄された[2][注釈 1]

両者が箱根地区の路線バス相互乗り入れ協定に調印することで箱根山戦争は終結した。

作家の獅子文六により「箱根山」の題で小説化されており[4]、後に川島雄三によって東宝で映画化された。

以下に対立勢力の概要を記す。

グループ 西武グループ 小田急グループ
人物 堤康次郎 安藤楢六
五島慶太
企業 駿豆鉄道→伊豆箱根鉄道
西武鉄道
箱根登山鉄道
箱根観光船
箱根ロープウェイ
小田急電鉄

前史[編集]

箱根における交通機関[編集]

箱根における交通機関は、芦ノ湖において1909年ごろに定期航路が開設されたものが最初とみられている[5]元箱根村の村会議員であった大場金太郎の家は、ハコネダケを使用した製品を作っていたが、大場は1909年に仕入れと出荷を共同で行うべく「篠竹組合」を設立していた[6]。ちょうどこの時期に、芦ノ湖を訪れ、舟によって対岸へ渡ったり周遊したいという観光客が増えていた[7]ことから、大場は「篠竹組合」の利益金で各戸に舟を持つことを勧めていたのである[6]。当初はすべて和船による運航であったが、1917年頃には既にモーターボートが導入されていた[8]。この頃には箱根渡船組合と箱根町渡船組合が芦ノ湖の航路を運航しており、互いに観光客を奪い合っていた[9]

小田原電気鉄道の登山電車 富士屋自働車の乗合自動車
小田原電気鉄道の登山電車
富士屋自働車の乗合自動車

1919年6月1日に小田原電気鉄道(当時)登山電車(鉄道線)を開通させ、富士屋自働車が乗合自動車(路線バス)の運行を開始すると、多くの観光客が訪れるようになった[10]

一方、軽井沢において広大な土地の取得に成功していた堤康次郎は、箱根に着目し、1920年3月に箱根土地(後にコクド2006年プリンスホテルに吸収)を設立し、別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっていた[4]。堤康次郎は大場のリーダーシップに着目し[5]、大場と手を組む形で1920年4月に、それまで競合していた箱根渡船組合と箱根町渡船組合を合併して箱根遊船を設立した[10]。これが、堤康次郎が箱根で最初に手がけた交通機関である[6]1921年12月1日に小田原電気鉄道の鋼索線が開業すると、早雲山まで登山電車とケーブルカーを乗り継ぎ、そこから徒歩で芦ノ湖まで歩いて、湖尻から元箱根まで船で渡る観光客が増加した[11]ことを受け、小田原電気鉄道と箱根遊船は提携して1922年5月から「箱根廻遊切符」の発売を開始した[11]

この時点で、堤康次郎は既に箱根において889ha.(ヘクタール)の土地を買収しており[12]、その後翌年までに湯河原と箱根町を結ぶ鉄道や[12]、強羅から仙石原を経て箱根町に至る電気鉄道の建設を出願している[13]が、いずれも着工に至らず、1924年に駿豆鉄道(当時)を買収した[12]。また、小田原電気鉄道は堤康次郎の仲介によって[14][15]1928年日本電力に売却され、同年8月13日に箱根登山鉄道として発足した[16]

自動車専用道路の建設[編集]

その後、駿豆鉄道では自社の路線バスの運行を目的として[17]、1925年に熱海峠箱根峠を結ぶ、延長9.9kmの自動車専用道路(十国線)の建設を内務省に出願した[13]。この道路は1930年7月に建設が許可され[13]、1930年11月には着工となった[18]が、これと並行して、箱根遊船によって小涌谷から早雲山と大涌谷を経て湖尻に至る自動車専用道路(早雲山線)と、湖尻から元箱根に至る自動車専用道路(湖畔線)の建設を進めることとした[18]。この早雲山線の建設においては、一部の土地が箱根登山鉄道の所有地であったため、1931年11月30日、箱根遊船と箱根登山鉄道の間で土地の貸借契約が結ばれた[18]。箱根登山鉄道ではこの契約において、小涌谷から早雲山までの間の土地に関しては有償で貸与しているが、早雲山から湖尻までの間にある土地は無償貸与とした[19]。これは、ケーブルカーの早雲山駅から芦ノ湖までの間はそれまで徒歩による手段しかなかった[20]ため、この間にバスが運行されることは箱根登山鉄道側にとってもメリットがあったのである[20]。また、箱根登山鉄道と箱根遊船のどちらにとっても、富士屋自働車は商売敵であった[21]

自動車専用道路十国線は1932年8月に開通[18]、さらに1936年1月には早雲山線が[20]、1937年10月には湖畔線が開通した[20]

堤康次郎と五島慶太[編集]

その後、1933年1月に箱根登山鉄道はバス事業全てを富士屋自働車に譲渡し[22]、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した[22]。また、1938年には箱根遊船と駿豆鉄道が合併して駿豆鉄道箱根遊船となった[23]が、戦時体制となり「遊船」という社名が問題視された[24]ことから、1940年に駿豆鉄道に社名を変更した[24]。また、国が推進した電力国家管理政策により、箱根登山鉄道・富士箱根自動車の親会社であった日本電力は、やはり日本電力傘下にあった箱根観光が運営していた強羅ホテルとともに箱根登山鉄道と富士箱根自動車を他社へ譲渡する意向を示した[25]

この当時の堤康次郎は「箱根の交通機関を西武だけが独占するのは好ましくない」と考えており[26]、また当時は東京横浜電鉄五島慶太との関係も比較的良好であった[26]。そのため、堤康次郎は五島慶太が箱根の観光開発に着手することを期待して、五島慶太に対して「箱根登山鉄道を買収したらどうか」と勧めていたのである[26]。五島慶太は武藤嘉門の仲介によって[25]1942年に箱根登山鉄道・富士箱根自動車・箱根観光の株式一切を日本電力から購入し、箱根登山鉄道の社長に就任した[25]

しかし、五島慶太は1945年12月に、強羅ホテルを運営していた箱根観光を500万円で国際興業に譲渡した[27]。これは、当時の労働攻勢によって資金繰りのために売却したものであった[27]が、これは堤康次郎の期待に反することで、「五島慶太は観光事業に取り組む姿勢がない」と解釈されたのである[28]。これ以後、堤康次郎と五島慶太との関係は疎遠化していった[2]

争いの経過[編集]

対立の序盤[編集]

駿豆鉄道バスの小田原乗り入れ[編集]

1947年の時点で、駿豆鉄道では小涌谷と元箱根を結ぶ路線バスを運行していたが、同年9月に運輸省に対して、この路線を小田原まで延長する路線免許の申請を行った[29]。これは通勤通学の利便性向上とともに、大雄山鉄道を1941年に合併して以後同社の大雄山線となっていた鉄道路線との一貫輸送をはかるという目的であった[29]。しかし、これに対して、まだ東急の傘下にあった箱根登山鉄道は強く反対した[30]。この延長区間は既に箱根登山鉄道バスが運行されていた区間であり、小田原と元箱根を結ぶ区間は箱根登山鉄道バスにとっては重要な路線であったからである[31]

しかし、戦前は自動車交通事業法によって1路線1営業が原則とされていた[29]ものの、戦後に独占禁止法が施行されると、独占は許されなくなっていた[29]。また、当時の箱根登山鉄道では戦時中に休止となっていたケーブルカーの再開やアイオン台風による被害の復旧に注力していた[32]ため、箱根登山鉄道バスの整備が遅れていた[32]。こうした状況から、地元では駿豆鉄道バスの乗り入れには賛成する意見も多かった[32]。運輸省では1949年12月に公聴会を行った上、延長区間には駿豆鉄道バスの乗降を扱わないことや運行便数の制限などを設定した上で路線免許を交付した[32]

箱根登山鉄道バスの有料道路乗り入れ[編集]

この時点で、箱根登山鉄道は小田急の傘下に入った直後であったが、小田急自体がまだ東急の影響を強く受けている状況であった[33]。駿豆鉄道バスの運行が認められたことを知った箱根登山鉄道は、1950年3月13日に駿豆鉄道の運営する自動車専用道路の早雲山線に乗り入れ、小涌谷から早雲山をへて湖尻に至る箱根登山鉄道バス運行の免許申請を行なった[34]。この路線を運行することによって、自社の路線のみで観光客を芦ノ湖まで輸送し、自社のみで周遊ルートを構築しようとしたのである[35]

これに対して、今度は駿豆鉄道が反対した。駿豆鉄道側は「専用道路であるから道路管理者(駿豆鉄道)の承諾が必要」[34]「この道路は自社のバスの運行を行なうために造ったもので、観光客が増えたのであれば我が社(駿豆鉄道)がバスの台数を増やせばよい」[17]と主張した。堤康次郎は「当時の金額で400万円も投資して、13年もかけて建設した道路。ようやく黒字になったと思ったら、免許書一本で権利を半分取られてしまうのは無理無体」と述べ[36]、小田急社長の安藤楢六については「五島慶太の教育を受けた安藤楢六は、乗っ取りにかけては五島慶太以上」と非難した[37]。対する小田急側では、「自社(駿豆鉄道)の運営する一般自動車道でありながら、私有専用道路であるが如き主張をする」と反発した[30]

この争いに対して運輸省は、箱根登山鉄道と駿豆鉄道の間で乗り入れ協定を結ぶように勧告を行った[38]。堤康次郎は「運輸官僚に脅かされて」と述べ[39]、一方の箱根登山側も「仕方なく勧告を受け入れ」と[39]、双方共に止むを得ず譲歩した形ではあったが、両社間で運輸協定が結ばれた[36]。この協定の中では、登山バスは1年ごとに有料道路利用契約の更新することになっており[40]、契約終了の1ヶ月前までに意思表示がなければ自動的に更新することになっていた[39]

このような経過をへて、1950年3月20日からは駿豆鉄道バスが小田原に乗り入れるようになり[32]、同年7月1日からは箱根登山鉄道バスが自動車専用道路に乗り入れを開始した[39]

箱根観光船の進出[編集]

一方、芦ノ湖畔の箱根町では、戦時中の燃料統制に伴って、駿豆鉄道の遊覧船が寄港しなくなっていた[41]上、熱海と元箱根を結んでいた駿豆鉄道バスも「停留所に乗客がいなかった」という理由でしばしば箱根町を素通りしていた[41]

もともと堤康次郎は、初めは箱根町に着目していた[41]。しかし、この頃既に土地を買い占める堤康次郎の噂が広まっており[42]、「堤康次郎が買いに来る前に買い占めておこう」と考える地元の業者も出現していた[42]。実際に堤康次郎が土地を購入しようとした頃には、箱根町の土地のほとんどが他の業者によって買い占められており[42]、堤康次郎はある程度の土地を取得したものの「箱根町はやめて元箱根の土地を買うことにしよう」と[42]、その拠点を元箱根に移していた[41]

結果的に、箱根町は堤康次郎から見放された格好となっていたのである[41]

こうした状況から、箱根町で旅館を経営していた有力者を中心として、仙石原の有志と共同で新たに遊覧船を運航する船舶会社の設立を計画した[41]。箱根登山鉄道はこれに着目し、小田急側の資本援助によって、1950年3月10日に箱根観光船が設立された[43]

それまで湖上交通を独占していた駿豆鉄道はこれに反対の立場をとった[43]海上運送法の適用下では免許を受けることが困難とみられた[44]ことから、箱根観光船では20t未満の小型船舶による運航を目論んだ[44]。この当時は、20t未満の小型船舶であれば海上運送法の適用外となったからである[45]。関東海運局では駿豆鉄道との間で営業協定を結ぶことを要求し、駿豆鉄道も当初は反対したものの、安全協定として承諾した[44]

こうして、1950年8月1日より、箱根観光船によって湖尻桃源台と箱根町を結ぶ航路の運航が開始され[44]、駿豆鉄道による湖上交通の独占は破られることになった[45]

元箱根での桟橋騒動[編集]

しかし、箱根観光船の利用者は少なかった[44]。当時の箱根町は箱根関所跡などの整備もまだされておらず、多くの観光客は箱根神社のある元箱根へ足を運んでいた[46]。箱根観光船では、元箱根にも寄港する計画を立案したが、駿豆鉄道は安全協定に違反するとして反対した[43]

そこで、箱根観光船と駿豆鉄道の両社立会いのもと、関東海運局に現地調査を依頼することになり[43]、両社の桟橋が100m以上離れていれば安全上問題ないという回答を得た[46]。これを受けて、箱根観光船では1950年12月に駿豆鉄道の桟橋から100m箱根神社側に寄った位置に桟橋を設置する申請を神奈川県に対して行った[46]。ただし、この場所は富士箱根国立公園(現 : 富士箱根伊豆国立公園)の中で、当時は厚生大臣(厚生省)の許可が桟橋の建設には必要な区域であった[46]自然公園法も参照)上、元箱根村がこの桟橋の設置に反対したことから、箱根観光船は厚生省への申達を先送りにしていた[46]

だが、観光シーズンが近づいたことに焦った箱根観光船は、厚生省の許可を得ないまま桟橋の建設を行い、1951年5月1日から元箱根への寄港を開始した[47]

競争相手が違法に桟橋を建設したのでは、駿豆鉄道側が憤ったのは当然である[47]。もちろん違法である以上、神奈川県としても放置することはできず、桟橋の撤去を箱根観光船に対して命じた[47]。しかし、箱根観光船では桟橋の撤去を拒否した[47]ため、同年8月2日には神奈川県の代執行により強制的に桟橋は撤去された[43]。神奈川県は厚生省と相談して、元箱根に共同桟橋を建設する案を提示した[48]が、駿豆鉄道が承知しなかった[48]ため、駿豆鉄道の桟橋の西側に箱根観光船の桟橋を設置することを認め[43]1953年6月15日からは正式に箱根観光船も元箱根に寄港するようになった[48]

本格的な争いへ[編集]

次々と起こされる訴訟[編集]

1952年6月には、駿豆鉄道バスの運行に対して課せられていた制限は撤廃され[35]、駿豆鉄道バスは便数や停車地の制限なく小田原発着のバスを運行することができるようになった[49]。これと同時に、運輸省では箱根登山鉄道に対して、乗り入れ協定を路線免許に切り替える方針の内示を行ない、箱根登山鉄道は1952年7月21日に路線免許の申請を行った[50]

これに対して、駿豆鉄道は「運輸省の一部官僚を利用して行政権を乱用させている」として訴訟を起こした[50]。さらに、1953年9月には、箱根登山鉄道社長や小田急社長だけではなく、運輸省事務次官や同省自動車監理課長をも相手取り、詐欺・職権乱用・道路運送法違反であるとして東京地方検察庁に対して告訴を行った[50]。これは告訴する方が不利になるだけとみられたことから[51]、運輸省の関係者も驚いたが、堤康次郎は「不利とか何とかという問題ではない」として引き下がらなかった[52]。これらの件はその後和解となった[52]

さらに、1954年7月には「駿豆鉄道の船が発着する湖尻を箱根登山鉄道バスが通過し、箱根観光船の発着する湖尻桃源台まで運航したため損害を蒙った」として、箱根登山鉄道を相手取って静岡地方裁判所に賠償を求める訴訟も起こしていた[53]。この件は東京高等裁判所で駿豆鉄道が勝訴した[54]

箱根観光船の大型船導入[編集]

この頃になると、朝鮮戦争による好景気から、箱根は多くの団体客でにぎわうようになっており[55]、駿豆鉄道ではこれに備えて次々と大型船を導入していた[56]

一方、1953年7月からは海上運送法が改正され、総トン数が20t未満の小型船舶にも海上運送法は適用されることになった[55]。法改正前から営業している事業者については、改正法の施行から60日以内に許可すれば認められることになり[55]、箱根観光船は1954年6月12日に海上運送法による船舶運航の免許を得ることができた[55]。これによって、関東海運局では駿豆鉄道と箱根観光船の大型船建造を競うことになることを懸念し[56]、新しい船を建造する際には慎重を期し、新しい船が必要な場合は関東海運局に指導を仰ぐことを明記した覚書を両社に提出させた[56]

しかし、当時の箱根観光船の船舶の総トン数が132.60tであったのに対して[56]、駿豆鉄道の船舶の総トン数は539.10tと大きな差があった[56]。また、1954年10月に相模湖で発生した小型遊覧船の沈没事故によって、小型遊覧船による不安が高まっていた[56]。これらの事情から、箱根観光船では、「このままでは大きな団体に対応できない」として、大型船の導入を計画した[56]。この大型船は、1955年に建造を関東海運局に認められ[56]1956年4月から就航した[56]

駿豆鉄道の実力行使[編集]

これに対して、駿豆鉄道は「新しい船の建造を自粛するという覚書の内容に反する」として、関東海運局に反対陳情をした[57]。これが受け入れられないと知った駿豆鉄道は、関東海運局を相手取り、横浜地方裁判所に箱根観光船の建造許可を取り消すことを求めて訴訟を起こした[57]。それと同時に、箱根登山鉄道に対しては、1956年3月10日に「自動車専用道路への乗り入れ協定を破棄する」と通告した[57]

これを受けた箱根登山鉄道では、1956年5月2日に、乗り入れ協定の破棄は無効であるとして横浜地方裁判所小田原支部に訴訟を起こした[58]。同年5月31日には駿豆鉄道から同支部に対して箱根登山鉄道バスの運行禁止を求める仮処分を申請[53]、それに対する箱根登山鉄道では駿豆鉄道の実力行使を想定し、箱根登山バスの運行妨害排除を求める仮処分の申請を行った[59]

しかし、裁判での争いだけでは済まなかった。乗り入れ協定が切れた1956年7月1日、駿豆鉄道は自動車専用道路の入口に遮断機を設置し[53]、箱根登山鉄道の運行を実力で阻止したのである[53]。この時点で、まだ前述した自動車専用道路の早雲山線への箱根登山バスの路線免許の問題は解決していなかった[50]。しかし、箱根観光船の大型船が運航を開始し、このままでは箱根登山鉄道バスの路線免許が下りてしまうことを危惧した駿豆鉄道が、実力行使に出たものであった[50]

輸送現場での争い[編集]

箱根登山鉄道の「黄色のバス」 駿豆鉄道の「緑色のバス」
箱根登山鉄道の「黄色のバス」
駿豆鉄道の「緑色のバス」

こうした争いの中で、輸送の現場でも観光客争奪が行われていた[50]

小田原駅前では箱根登山鉄道が「箱根に行くお客様は黄色のバスに」とマイクで案内[60]、対する駿豆鉄道も「緑色のバスにご乗車ください」とマイクを使用して案内していた[60]が、どちらもボリュームを最大にしているから観光客は何を言っているのか聞き取れない有様であった[60]。これらは相手が何を言っているか分からなくするという目的で行われていたもので[60]、国鉄小田原駅長が何度注意しても改善されなかった[60]

両社のバスが小田原駅前を同時に発車すると、今度は途中で抜きつ抜かれつという運転であった[60]。当時の箱根の道路は狭い上に急カーブも多く、そのような道路で両社のバスがぶつかる直前まで競り合うため、観光客から悲鳴が上がる[注釈 2]始末であった[60]

運輸大臣の調停[編集]

一方、駿豆鉄道が実力行使に出た直後の同年7月6日に、横浜地方裁判所小田原支部では両社から申請されていた仮処分については、乗り入れ協定に定められた契約期間を根拠に駿豆鉄道側の主張を認め、「箱根登山鉄道は自動車専用道路の早雲山線へ乗り入れてはならない」と決定した[61]。箱根登山鉄道はこれに対して東京高等裁判所へ即時抗告し[61]、高等裁判所では箱根登山鉄道の主張を認めてこの案件を横浜地方裁判所小田原支部に差し戻した[61]

こうした法廷闘争のさなか、西武側は突然小田急の株式の買占めを図り127万株を取得[61][注釈 3]、小田急側もこれに応戦することとなった[37]。こうした状況を鑑みて、1957年7月6日には運輸大臣の宮沢胤勇が調停に乗り出した[61]。調停案の内容は、西武側は小田急の株式を小田急側に引き渡した上、双方共にすべての訴訟案件を取り下げ、自動車専用道路早雲山線への乗り入れについては1年間継続している間に解決する、というものであった[61]。ところが、その4日後に内閣改造により宮沢が辞任となったため、この調停案のうち実際に行なわれたのは、小田急株式の引渡しのみであった[61]

なお、駿豆鉄道は1957年6月1日に社名を伊豆箱根鉄道に変更した[61]が、箱根を舞台に争っているのに、社名が伊豆と駿河を表しているのでは戦いづらいためとみられている[61]

その後、1959年4月には自動車専用道路早雲山線に関する問題において伊豆箱根鉄道側の主張が認められ、箱根登山鉄道の敗訴となった[61]。箱根登山鉄道は控訴したが、1961年3月に棄却されてしまった[61]。さらに、法制局は1959年9月に、自動車道における限定免許においては「建設または維持管理において、自動車道の事業を行う者の寄与が大きい場合は、限定免許が可能」という見解を出した[62]。つまり、自動車道の建設や維持に事業者自身が大きく関わっている場合は、通行可能なバスを限定することが可能である、というものであった。一連の事態は伊豆箱根鉄道側に有利に進んでいったのである[63]

この見解を受け、伊豆箱根鉄道は「自社の運営する自動車専用道路3路線(早雲山線・十国線・駒ヶ岳線)については、路線バスは伊豆箱根鉄道のバスに限る」とする限定免許の申請を運輸大臣と建設大臣に申請した[62]。これに対して、箱根登山鉄道は「法制局の見解には重大な誤りがある」として運輸大臣と建設大臣に上申したり陳情を繰り返すことで抵抗した[64]。この結果、伊豆箱根鉄道が限定免許を取得したのは駒ヶ岳線のみで[62]、早雲山線と十国線についての限定免許は交付されなかった[64]ため、伊豆箱根鉄道も限定免許促進の陳情を行った[64]

1960年になって、運輸大臣の楢橋渡が調停に乗り出すことになり、同年7月9日に聴聞会を開くこととし、当日は双方から数人ずつが8時間にわたって自説を主張した[64]。この日には決着はつかなかったため、同年7月14日に2度目の聴聞会を開くことでいったん終了した[64]が、その後当時の内閣総辞職によって2度目の聴聞会は開かれることはなかった[65]

終息へ[編集]

ロープウェイ建設[編集]

小田急側の切り札として建設された箱根ロープウェイ(写真は2代目の搬機)

一方、自動車専用道路早雲山線への乗り入れ問題で敗訴となった小田急側では、これに代わる輸送手段としてロープウェイの建設を決意し[66]、1958年に小田急の社内において早雲山から湖尻桃源台までを結ぶロープウェイを建設するという「箱根ロープウェイ建設委員会」が設けられた[67]。このロープウェイの構想自体は、既に1931年には箱根登山鉄道が構想を立てており[68]、1958年には免許も取得していた[67]。長引く争いを終結に導くための切り札として具体化した[69]ものであるが、途中のルート上には伊豆箱根鉄道の専用自動車道があり[70]、建設にあたっては伊豆箱根鉄道の同意が必要であった[70]。小田急側からこの申し出を受けた伊豆箱根鉄道の社内では反対意見が多かった[70]が、堤康次郎は「大乗的見地から土地使用料は無料で承認する」として[71]、このロープウェイの上空通過を認めた[70]

これを受けて、1959年4月に箱根ロープウェイが設立され[69]、急ピッチで工事が進められることになり[70]、同年12月6日から早雲山と大涌谷の間でロープウェイの運行が開始され[72]、翌1960年9月7日には大涌谷と湖尻桃源台の間も開通した[70]。これによって、小田急グループは自社グループの交通機関のみで芦ノ湖までの交通手段を確保したことになった[45]

神奈川県による有料道路の買収[編集]

一方で、伊豆箱根鉄道が運営する自動車専用道路についても1960年3月には神奈川県に買収を求める決議案が提出されるなど[73]、動きがみられるようになった。

湖尻と元箱根を結ぶ自動車専用道路湖畔線には、県道が併走していた。団体の観光客が観光バスで芦ノ湖を訪れると、湖尻と元箱根の間はバスを回送させることになる[73]。ところが、県道は道幅が狭い上、伊豆箱根鉄道が敷地をいっぱいに使用した上で石垣を設置してしまった[74]ため、これが県議会で一部から反発を買い[74]、神奈川県による自動車道の買収が俎上に上るようになったのである。しかし、同年4月28日に視察が行なわれた際にも、この県道の改修は困難であるとみられた[74]ことから、神奈川県知事の内山岩太郎は「半年以内に湖畔線を買収する」と答弁した[74]

自動車道の買収案が出ると、元箱根の住民からは「一刻も早く買収を」という意見が出る一方[74]、強羅地区の住民からは「湖畔線よりも早雲山線の買収をして欲しい」という意見が出るに至った[74]。これを受けて内山は、まず同年12月の県議会において湖畔線の買収予算を計上した[74]。しかし、箱根町からは「湖畔線と早雲山線の両方とも買収して欲しい」という要望が出された[75]ため、内山は早雲山線も買収することを約束し、ひとまず1961年4月1日に湖畔線を買収して県道として解放した[75]

一方、早雲山線は伊豆箱根鉄道のドル箱的事業でもあり、伊豆箱根鉄道と西武鉄道の社内では「買収に反対」という意見が圧倒的であった[76]。しかし、堤康次郎は内山を「総理大臣としてもやっていける人物である」と高く評価していた[76]。また、堤康次郎の息子の堤清二も、将来西武百貨店が渋谷に進出する時を考慮し[77]、争いの火種となりかねない有料道路を神奈川県に委譲することによって、東急側に貸しを作っておこうと考えていた[77]。こうした事情から、堤康次郎は1961年9月27日に神奈川県からの自動車道買収の申し出を受諾し[76]、同年10月10日から早雲山線も県道として解放された[76]

終結[編集]

箱根ロープウェイの開通と神奈川県による自動車道の買収によって、まだ訴訟案件も残っていた[78]ものの、箱根での争いは事実上終結し[30]、小田急と箱根登山鉄道からは1961年9月27日に関連訴訟の終結による平和回復の声明が出された[76]。争いが事実上の終結を見た後に安藤が挨拶に行った時、堤康次郎は「もう、けんかはよそうや」と安藤の手をとりながら言ったという[79]

1964年12月15日からは伊豆箱根鉄道の自動車専用道路十国線も静岡県に買収され、県道として解放された[80]。一方、五島慶太は1959年に他界し、堤康次郎も1964年に死去した[81]。その後、東急が運営する有料道路である箱根ターンパイクの延長工事では、経路上に国土計画の所有地があったが、国土計画では東急に土地を提供することで合意し[82]1967年2月22日の起工式では堤康次郎の息子の堤義明と五島慶太の息子の五島昇が握手する姿も見られた[82]

すべての訴訟案件が片付いた後の1968年12月2日、伊豆箱根鉄道社長の堤義明、小田急社長の安藤楢六、箱根登山鉄道社長の柴田吟三、東海自動車社長の鈴木幸夫が東京プリンスホテルに集まり、箱根地区におけるバス路線の相互乗り入れにおいて、今後は友好的に協力し合うことを確認し、協定書に調印が行われた[83]。この時点で、箱根における西武グループと小田急グループの企業紛争は終結した[78]

この一連の企業紛争が報道されることによって、両社が広く世に知られるようになった[84]。訴訟がらみの案件などは西武側の勝利に終わった[84]が、経済的には小田急側に大きな利益がもたらされたとみられている[85]。また、この紛争を題材にした小説が、獅子文六によって「箱根山」というタイトルで朝日新聞で1961年に203回にわたって連載された[86]が、電鉄会社と観光開発における縄張り意識を広く知らしめたこの小説の功績は大きいとされている[4]

その後、両社のグループは独自の周遊ルートを定着させた[40]。伊豆箱根鉄道が小田原から駒ヶ岳登り口までバスを利用し、そこから駒ヶ岳山頂を経由して芦ノ湖から十国峠を経由して熱海に抜けるルートを「スカイラインコース」として宣伝する[81]、一方の小田急側では箱根登山鉄道・ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根観光船・箱根登山鉄道バスを利用するコースを「箱根ゴールデンコース」として宣伝[87]、どちらかの周遊コースをベルトコンベアのように利用せざるを得ない状態となった[40]。また、箱根地区での両社のターミナルが別々で[88]、小田原駅での観光客の呼び込みも行われるなど[88]、競合の構図は残った。

その一方で、友好的に共存という言葉の通り、必要に応じて窓口ではお互いの乗り場を案内するようになり[89]、箱根登山鉄道と伊豆箱根鉄道のバスがすれ違う時はお互いに挙手する光景も見られるようになった[89]ほか、東急主催の女子プロゴルフ大会が西武系のゴルフ場で行われる事例も見られた[90]

その後の展開[編集]

その後、箱根を訪れる観光客数は、1991年の年間2200万人をピークに減少傾向となり[91]2003年にはピーク時と比較して15%ほどの減少となっていた[92]。こうした状況下、小田急グループは「回りやすい箱根」を銘打って、箱根の交通ネットワークの改善に着手した[93]

この流れの中で、2003年に小田急の会長に就任した利光國夫は、着任後すぐに西武鉄道会長の堤義明に対して業務提携を働きかけ、堤義明はこれを快諾した[90]。そして、2003年12月に小田急グループと西武グループが箱根において業務提携をすることが発表された[90]。提携における最初の取り組みとして、小田急箱根高速バスが西武グループのレジャー施設がある箱根園に乗り入れるようになり[90]、小田急が発売する周遊乗車券「箱根フリーパス」の割引対象施設にも西武グループの施設が含められた[94]ほか、「箱根フリーパス」自体が西武鉄道の駅でも発売されるようになった[90]。また、一部で異なっていたバス停留所名も箱根登山バスと伊豆箱根バスで統一された[94]。しかし、利用者から要望の多い「箱根フリーパス」と、伊豆箱根鉄道の周遊乗車券「箱根ワイドフリー」(当時)の統合についてはこの段階では見送られた[90]

2004年9月には堤義明から小田急に対して友好的な資本提携の提案があり、まず西武鉄道の株式260万株を小田急が購入した[90]。しかし、その直後の同年10月に西武鉄道においていわゆる名義株問題が発覚し、その責任を取って堤義明は西武グループのすべての役職から辞任した[90]。これによって、小田急は上場基準に達していない西武鉄道の株式を購入したことになる[90]ため、小田急では株式購入代金の返還交渉を行い、2005年1月にコクドから小田急に対して全額が返金された[90]。ところが、一方の小田急でも西武の名義株問題を受けて調査した結果、上場基準への影響はないものの、グループ内に名義株問題があることが判明した[90]。しかも、小田急では西武との代金返還交渉に影響が出ることを恐れて、すぐには公表しなかった[90]。公表は2005年6月になってからで、利光は小田急の会長職を引責辞任することになった[90]

歴史的とも言われた業務提携の発表から2年弱で両社のトップが辞任する事態となり、一連の騒動から両社間にしこりが残ってしまった可能性も指摘されている[90]。フリーパスの統合についても先行きが不透明な状況と見られている[90]

とはいえ、その後も提携が打ち切られることにはなっておらず、2009年には小田急・箱根登山鉄道・西武鉄道がスルッとKANSAI協議会と提携して資材の共同購入を開始[95]2010年には箱根地区での路線バスにおいて両社共通の系統記号が設定されるようになった[96]。また、小田急グループが行うイベント「箱根スイーツコレクション」には西武グループのプリンスホテルも参加している[97][98]

西武グループの「スカイラインコース」の一翼を担った駒ケ岳ケーブル2005年9月1日に廃止された。当初の廃止予定から半年繰り上げられた。

早雲山駅を出発する伊豆箱根バスによる箱根ロープウェイ代替バス

2015年5月より箱根山が噴火警戒レベル2に指定されたことを受け、箱根ロープウェイが全面運休となった。[99]これを受けて、立ち入り禁止区域内にある大涌谷駅を除き代替バスを設置したが、この代替バスは伊豆箱根バスによる運行であった。突発的な自然災害が影響し、図らずも西武グループの車両に小田急グループのフリーパスで乗車出来る形となったが、ただし、同区間を並走する伊豆箱根バスの定期便は従来通りの扱いであった。

2015年は、西武グループの「プリンスエクスプレス箱根芦ノ湖」、小田急箱根高速バス・JRバス関東による東京駅~箱根桃源台線といった新たな高速バスが立て続けに開業した年でもあった。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ これは、箱根登山鉄道のバス乗り入れに対して堤康次郎が「まるでサルカニ合戦ではないか」と発言したことに由来する[3]
  2. ^ これは比喩ではなく、現実に女性の乗客から「運転士さん止めて!」と悲鳴が上がり[60]、それでようやくバスが速度を落としたということもあった[61]
  3. ^ 裁判の結果が待ちきれなかったか、運輸省に対する不信があったのではないかと推測されている[61]

出典[編集]

  1. ^ 青田 (2011) p.195
  2. ^ a b 中嶋 (2004) p.92
  3. ^ 中嶋 (2004) pp.93-94
  4. ^ a b c 青木 (1999) p.98
  5. ^ a b 加藤利 (1995) p.127
  6. ^ a b c 加藤利 (1995) p.126
  7. ^ 加藤利 (1995) pp.126-127
  8. ^ 加藤利 (1995) p.128
  9. ^ 加藤一 (1993) p.84
  10. ^ a b 加藤利 (1995) p.125
  11. ^ a b 加藤利 (1995) p.130
  12. ^ a b c 加藤利 (1995) p.136
  13. ^ a b c 加藤利 (1995) p.137
  14. ^ 加藤利 (1995) p.153
  15. ^ 青田 (2011) p.167
  16. ^ 『すばらしい箱根』 p.48
  17. ^ a b 中嶋 (2004) p.93
  18. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.138
  19. ^ 加藤利 (1995) p.139
  20. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.140
  21. ^ 加藤利 (1995) p.141
  22. ^ a b 『バスジャパンハンドブック58』 p.26
  23. ^ 加藤利 (1995) pp.172-173
  24. ^ a b 加藤利 (1995) p.173
  25. ^ a b c 小川 (1999) p.116
  26. ^ a b c 中嶋 (2004) p.88
  27. ^ a b 小川 (1999) p.117
  28. ^ 中嶋 (2004) p.89
  29. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.179
  30. ^ a b c 生方 (1981) p.102
  31. ^ 加藤利 (1995) pp.179-180
  32. ^ a b c d e 加藤利 (1995) p.180
  33. ^ 加藤一 (1993) p.81
  34. ^ a b 加藤一 (1993) p.73
  35. ^ a b 加藤利 (1995) p.181
  36. ^ a b 青田 (2011) p.196
  37. ^ a b 『私の履歴書 19』 p.173
  38. ^ 加藤利 (1995) p.182
  39. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.183
  40. ^ a b c 青木 (1991) p.72
  41. ^ a b c d e f 加藤利 (1995) p.184
  42. ^ a b c d 上之郷 (1985) p.120
  43. ^ a b c d e f 加藤一 (1993) p.82
  44. ^ a b c d e 加藤利 (1995) p.185
  45. ^ a b c 青木 (1999) p.99
  46. ^ a b c d e 加藤利 (1995) p.186
  47. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.187
  48. ^ a b c 加藤利 (1995) p.188
  49. ^ 加藤利 (1995) pp.193-194
  50. ^ a b c d e f 加藤利 (1995) p.194
  51. ^ 中嶋 (2004) p.101
  52. ^ a b 中嶋 (2004) p.102
  53. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.192
  54. ^ 中嶋 (2004) p.105
  55. ^ a b c d 加藤利 (1995) p.189
  56. ^ a b c d e f g h i 加藤利 (1995) p.190
  57. ^ a b c 加藤利 (1995) p.191
  58. ^ 加藤利 (1995) pp.192-193
  59. ^ 加藤利 (1995) p.193
  60. ^ a b c d e f g h 加藤利 (1995) p.195
  61. ^ a b c d e f g h i j k l m 加藤利 (1995) p.196
  62. ^ a b c 加藤利 (1995) p.197
  63. ^ 加藤利 (1995) p.198
  64. ^ a b c d e 加藤利 (1995) p.199
  65. ^ 加藤利 (1995) pp.198-199
  66. ^ 加藤新 (1991) p.90
  67. ^ a b 加藤一 (1993) p.75
  68. ^ 加藤利 (1995) p.200
  69. ^ a b 加藤一 (1993) p.76
  70. ^ a b c d e f 加藤利 (1995) p.201
  71. ^ 加藤一 (1993) p.77
  72. ^ 加藤一 (1993) p.71
  73. ^ a b 加藤利 (1995) p.202
  74. ^ a b c d e f g 加藤利 (1995) p.203
  75. ^ a b 加藤利 (1995) p.204
  76. ^ a b c d e 加藤利 (1995) p.205
  77. ^ a b 上之郷 (1985) p.210
  78. ^ a b 青田 (2011) p.198
  79. ^ 『私の履歴書 19』 p.174
  80. ^ 加藤利 (1995) p.207
  81. ^ a b 加藤利 (1995) p.209
  82. ^ a b 加藤利 (1995) p.208
  83. ^ 加藤一 (1993) p.83
  84. ^ a b 中嶋 (2004) p.97
  85. ^ 中嶋 (2004) p.98
  86. ^ 加藤一 (1993) p.74
  87. ^ 加藤一 (1993) p.78
  88. ^ a b 『バスジャパンハンドブック58』 p.28
  89. ^ a b 加藤利 (1995) p.214
  90. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 野中 (2006) p.108
  91. ^ 野中 (2006) p.106
  92. ^ 鶴 (2005) p.33
  93. ^ 野中 (2006) p.107
  94. ^ a b 青田 (2011) p.203
  95. ^ “西武鉄道・小田急電鉄・箱根登山鉄道の3社は、スルッとKANSAIと連携し 2009年4月より、資材の共同購入を実施します” (プレスリリース), 小田急電鉄, http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/4414_6536742_.pdf 2013年1月9日閲覧。 
  96. ^ “箱根エリアバス路線の系統記号化を実施します” (プレスリリース), 小田急電鉄, http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5473_4627422_.pdf 2013年1月9日閲覧。 
  97. ^ 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.44
  98. ^ [1]
  99. ^ かつて同ロープウェイの車輌・装置更新工事の長期運休時には箱根登山バスが代替運行を担っている。

参考文献[編集]

社史[編集]

  • 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課 『箱根登山鉄道創業100周年記念 すばらしい箱根 グラフ100』 箱根登山鉄道、1988年

書籍[編集]

雑誌記事[編集]

  • 青木栄一「小田急電鉄のあゆみ 路線網の拡大と地域開発」、『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 65-75頁。
  • 青木栄一「小田急電鉄のあゆみ(戦後編)」、『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 93-105頁。
  • 小川功「小田急グループの系譜 -戦前期の鬼怒電系列-」、『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 106-117頁。
  • 加藤新一「小田急電鉄における運輸の展開 -戦後復興から高度成長へ-」、『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 88-93頁。
  • 鶴通孝・山﨑友也「列車追跡シリーズ548 何度でも乗ってみたい特急ロマンスカー わくわくの85分」、『鉄道ジャーナル』第464号、鉄道ジャーナル社、2005年6月、 25-35頁。
  • 野中祥史「鉄道・軌道プロジェクトの事例研究54 小田急グループの箱根戦略」、『鉄道ジャーナル』第480号、鉄道ジャーナル社、2006年10月、 106-108頁。
  • 「バス事業者訪問123 箱根登山バス」、『バスラマ・インターナショナル』第110号、ぽると出版、2008年11月、 38-52頁、 ISBN 978-4899801108

関連項目[編集]