日本共産党第6回全国協議会

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六全協と同時に開催された日本共産党33周年記念式典

日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとうだい6かいぜんこくきょうぎかい)とは、1955年7月27~29日に行われた、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い。

概要[編集]

この六全協で北京にいた徳田球一書記長が2年前の1953年に死亡していたことが発表され、第一書記野坂参三、書記局員に紺野与次郎志田重男宮本顕治を選任した。共産党はこれまでの山村工作隊など武装闘争路線に完全に終止符を打った。

志賀義雄、宮本顕治ら旧国際派は、この会議をもって主導権を奪還するが旧所感派についていた野坂を第一書記、1958年に議長に据えることで、「統一」を印象付けた。六全協は、のちの「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へと作り変える一つの契機となったが、この時点では「農村から都市を包囲する」というそれまでの中国革命方式の武装闘争方針を放棄したのであって、「暴力革命」路線全般を完全に放棄したわけではない。新指導部のもとで、新しい綱領と明確な路線を確定するまでには、あと数年を要した。

山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信を募らせ、その後のスターリン批判ハンガリー動乱などによって、共産党を「スターリン主義」として批判する傾向が強まり、のちの共産主義者同盟結成や新左翼運動誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれたといえる。

その後、第7回大会を準備する過程で、6全協自身が不正規の会議の流れをついでいることが確認され、6回大会選出の中央委員会と6全協選出の役員との合同での拡大会議が開かれ、五〇年問題に関しての総括も、そこでおこなわれた。

柴田翔芥川賞を受賞した小説『されどわれらが日々-』は、六全協決定以後の左翼学生たちの敗北感を描いている。