伊藤音次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
いとう おとじろう
伊藤 音次郎
生誕1891年6月3日
大阪市恵美須町(現・浪速区
死没 (1971-12-26) 1971年12月26日(80歳没)
国籍日本の旗 日本
職業飛行家

伊藤 音次郎(いとう おとじろう、1891年6月3日 - 1971年12月26日[1])は日本の民間航空パイオニアである。伊藤飛行機研究所を設立し、多くのパイロットを育てるとともに、国産機の開発にも努めた。

来歴[編集]

現在の大阪市南区(現・浪速区)にある、恵美須町で生まれた[1]

1904年に大阪市立恵美尋常高等小学校(現・恵美小学校)卒業後、銅・鉄地金商の佐渡島商店に勤める[注 1][1]

17歳であった1908年11月23日、道頓堀の朝日座ライト兄弟の飛行を写した活動写真を観て飛行機に興味を持ち[3][4]、1909年9月の萬朝報の「奈良原式飛行機発明」の記事に感動して奈良原三次に乗員としての採用を求める手紙を書き送った。奈良原の勧めにより夜学工手学校(現・工学院大学)で機械工学を学び、奈良原とは文通での交流を継続した[1][3][5]

商家に務めながら航空の道を目指し、1910年に19歳で上京。東京飛行機製作所の無給職員として奈良原三次に弟子入りし、奈良原の航空機の製作を手伝った[1][3][5][6]

当初は雑役係を務めていたが、1912年に3か月の兵役を終えて職場復帰すると(その間に東京飛行機製作所が解散したため、東洋飛行機商会に所属した)志賀潔[注 2]からの教えを受けて民間飛行士第2号の資格を取る。奈良原三次が航空界から引退すると1915年1月31日に現在の千葉市美浜区に伊藤飛行機研究所を創立し、独立。兄弟子の白戸栄之助から「白戸式旭号」の発注を受けた[1][2][5][6][7]

伊藤式・恵美1型

1915年11月に自らの出身地の名前をつけた伊藤式・恵美1型を製作し、1916年1月8日には東京訪問飛行を行って、飛行家として有名になった[2][6]1917年には民間初の夜間飛行にも成功するが、同年9月30日に発生した台風によって施設が壊滅的な被害を受け1918年津田沼町(現・習志野市)鷺沼海岸に研究所を移転し、社名を伊藤飛行機製作所に改めた。育成した飛行士の中には、日本最初の女性飛行士である兵頭精や、日本航空輸送研究所を設立した井上長一などがいる[1][2][5]

1923年朝日新聞社東西定期航空会を発足させると、伊藤飛行機研究所は飛行機、飛行士を提供し、民間定期航空運輸に寄与した[8]

1930年に日本軽飛行倶楽部を設立し、奈良原三次を会長として軽飛行機の普及に貢献した[5]。しかし、1936年には長男の信太郎を墜落事故で喪っている[9]

伊藤は日本において民間出身の飛行家として成功した数少ない人物であったが、第二次世界大戦終結後はGHQの航空禁止令を受けて航空界から引退し、元工場従業員の希望者らと共に「恵美開拓農業協同組合」(1948年12月3日設立[10])として千葉県印旛郡遠山村十余三駒の頭(現・成田市東峰)で戦後開拓に携わって農場主となった[1][5][11]

民間航空発祥之地記念碑

元々竹林であった現地での開墾は困難を極めたが、組合の農地は後に新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設予定地の一部として選定されることとなる(成田空港問題)。空港建設計画が突然決定されたことで地元住民は困惑し、その一部が三里塚闘争に身を投じることとなるが、現地では伊藤ただ1人が空港が来たことを大歓迎し、新聞折込で空港推進を訴えた[11][12]。すでに農業は軌道に乗っていたにもかかわらず、伊藤は家族の反対を押し切って全農地の売却に同意し、新東京国際空港公団との用地売却契約を最初に結んだグループの1人となった[注 3][1][11]。その後は、千葉市稲毛海浜公園にある「民間航空発祥の地記念碑」の建立に尽力した[1]

1971年12月26日、自らの土地を託した成田開港を見ることなく他界した。満80歳没[1]

日記[編集]

伊藤が書き残した日記は、平木国夫の著書で多用されている[5]

日記は遺族から千葉市に寄贈され、日本の航空史の貴重な一次資料として日本航空協会によって複写のうえアーカイブ化されている[14]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 店主の佐渡島英禄は後に伊藤が航空技術者として旗揚げしたときの資金提供者となり、伊藤は生涯佐渡島のことを恩人として慕っていた[2]
  2. ^ 同名の細菌学者とは別人。
  3. ^ 伊藤が属していた開拓地は古くからある集落(古村)に比べ個人の意思で土地の売却を決めやすく、古村のように売却を決めた農家への村八分等は起きにくかった[12][13]。一方で、開拓者らは独立精神が強く、大多数が土地を売却するようになってもその地に留まる者が多く、現在の成田空港の未買収地も東峰地区のものが多い。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 成田ゆかりの人々”. 成田市 (2019年4月15日). 2019年5月29日閲覧。
  2. ^ a b c d 岡田 1985, pp. 22–51.
  3. ^ a b c 岡田 1985, pp. 17–19.
  4. ^ 民間航空開拓者・伊藤音次郎の功績知って 24日に講演会と写真展”. 東京新聞 (2018年-02-22). 2018年3月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 荒山彰久 (2013). 日本の空のパイオニアたち. 早稲田大学出版部. pp. 54-56 
  6. ^ a b c 日本・民間航空の曙 1910年から1920年、民間のパイオニア達 伊藤音次郎の挑戦”. 古典 航空機 電脳 博物館 (2007年1月). 2018年3月2日閲覧。
  7. ^ 徳田忠成 (2007年2月15日). “逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(2) - 民間パイロットの萌芽 -”. 航空と文化. 2018年3月2日閲覧。
  8. ^ 徳田忠成 (2007年4月15日). “逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(4) - 航空輸送会社の誕生 -”. 航空と文化. 2018年3月2日閲覧。
  9. ^ 岡田 1985, p. 149.
  10. ^ 千葉県戦後開拓史編集委員会 (1974). 千葉県戦後開拓史. 千葉県. p. 183 
  11. ^ a b c 岡田 1985, pp. 228–229.
  12. ^ a b 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年、p40・71
  13. ^ 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店、1996年、31頁
  14. ^ 航空遺産継承基金 アーカイブ”. www.aero.or.jp. 一般財団法人日本航空協会. 2021年10月11日閲覧。

参考文献[編集]

  • 岡田宙太 『房総ヒコーキ物語―大空に挑んだ“鳥人”たち』 崙書房、1985年4月10日。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]