全日空羽田沖墜落事故
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回収された事故機の尾翼 | |
| 出来事の概要 | |
|---|---|
| 日付 | 1966年2月4日 |
| 概要 | 原因不明 |
| 現場 |
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| 乗客数 | 126 |
| 乗員数 | 7 |
| 負傷者数 (死者除く) | 0 |
| 死者数 | 133(全員) |
| 生存者数 | 0 |
| 機種 | ボーイング727-100 |
| 運用者 |
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| 機体記号 | JA8302 |
| 出発地 | 千歳空港 |
| 目的地 | 東京国際空港 |
全日空羽田沖墜落事故(ぜんにっくう はねだおきついらくじこ)は、1966年2月4日に東京湾の羽田空港沖で起きた全日空のボーイング727-100型機の墜落事故である。合計133人全員が死亡し、単独機としては当時世界最悪の事故となった。
目次
事故の経緯[編集]
目視飛行への変更[編集]
事故機の全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)は、1966年2月4日の午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった。
60便は東京湾上空まで問題なく飛行を続けたが、東京湾に差し掛かる際、計器飛行 (IFR) による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行 (VFR) により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択した。
このルート変更の理由は不明であるが、当時は現在のように計器飛行方式 (IFR) が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式 (VFR) に切り替える判断が容認されていた[1]。そのため、航空路を無視したり、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航するなどして、東京・大阪27分、東京・札幌46分といった"スピード記録"を競うパイロットもいたという[2]。
なお、60便の近くには日本航空の沖縄・那覇空港からの国際線[3]として運行中のコンベア880機が飛行しており、60便を目撃していた。
消息を絶つ[編集]
羽田空港に向けて着陸進入中の午後7時00分20秒の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶った。その後空港管制室が「着陸灯を点けよ。聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機の日本航空のコンベア880や、カナダ太平洋航空のダグラス DC-8が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もなかった。そのうちコンベア880の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあった[4]。
その後も空港管制室は呼びかけを繰り返した他、近隣に位置する海上自衛隊の下総航空基地や陸上自衛隊の木更津基地などにダイバートしていないかを同時に確認したものの、該当機は確認できなかった。30分以上の間呼びかけを続けたものの応答がなくなったため、捜索救難調整本部が羽田空港内の航空保安事務所内に設営された。その後全日空機が行方不明になったことがテレビやラジオで報じられた。
午後8時過ぎには全日空のフォッカー F27が捜索に向かった他、海上保安庁や航空自衛隊の船舶や航空機も捜索に加わった。
当時の天候は快晴で着陸不可能な状況ではなく、午後9時には、搭載されていた燃料も尽きたはずで、別の空港へダイバートした様子もなかったことから事故発生と判断され、捜索救難態勢が発令された。
墜落確認[編集]
後続機の日本航空のコンベア880の操縦士や、東京湾上を航行していた船舶の乗務員、対岸の丸善石油に勤務していた社員[5]などが、墜落時に起きたと思われる炎を東京湾上に目撃していたことから、羽田沖の海上を中心に捜索が行われ、午後11時30分過ぎには千葉海上保安部の巡視艇が遺体や機体の部品を発見し、墜落したことが確認された。なお、具体的な墜落時刻は不明であるが、午後7時00分20秒に最後の交信があってから数十秒後と思われる。墜落時刻に関しては、19時05分12秒で止まった航空機関士席の計器板の時計の写真がある[6]。
寒風吹きすさぶ荒れ模様の海上から懸命の海洋サルベージが行われ、潜水士らによって遺体や機体の残骸が回収された[7]。乗客1名を除く乗客乗員132名の遺体は4月14日までに発見された。5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は8月9日に横須賀の夏島の岸壁で漂着していたところを発見された[8]。
単独機として最悪の事故[編集]
導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めた。
乗客にはスタンダード靴の懸賞当選者(約5000人の応募者の中24人が当選)や関連会社の社員が含まれており、また団体客や接待旅行に参加していた出版業界の関係者(旭屋書店創業者の早嶋喜一、柴田書店創業者の柴田良太、月刊自家用車初代編集長の清田幸雄、美術出版社社長の大下正男らを含む)など多数が巻き込まれたため、大きく報道された。また、被害が甚大であったことから2月4日から同年5月10日にかけて、海上自衛隊の自衛艦隊や横須賀地方隊も災害派遣された。
原因[編集]
調査[編集]
2月5日、政府は、事故原因究明のため、ボーイング727型機の国内線への導入にあたり、積極的な推薦役を果たしてきた、木村秀政日本大学教授を団長とする、民間専門家と航空局幹部による「全日空機羽田沖事故技術調査団」[9](FAA、ボーイングなどの技術者を主体とした製造国のアメリカ側の事故技術調査団との協力体制を取った)を設置することを決定した。事故後多くの機体の残骸(機体の90%近く)が引き上げられ、事故原因についての綿密な調査が行われたものの、コックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーともに搭載していなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも(後の調査で東京湾上の時点では、水平もしくは緩やかな降下での飛行が判明したが、東京湾上に差しかかる時点で既に通常より低い高度で飛行していたとの目撃報告もあった)、最終的には原因不明とされた。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものと溺死によるものが多数を占めた。
各説[編集]
その中で、「目的地への到着を急ぐあまり急激に高度を下げたものの、導入間もない機種の操縦で、予想しなかったほど高度が下がったことにより水面に激突した」、もしくは「高度計を見間違えた」という操縦ミス説や、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、第3エンジンの不調説[10](この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしたため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていた)や、「誤ってグランド・スポイラーを立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」[11]という説などがあげられた。
また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年1965年に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、操縦ミスが事故原因と推測される」とされた。
その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされた。このような中で、事故調査をめぐり事故技術調査団が紛糾した。事故技術調査団の山名正夫・明治大学教授[12]が、事故後早い段階から、操縦ミス説を主張する団長・木村秀政日本大学教授らと対立し、辞任した。
木村団長ら調査団の多数は、「夜間の目視飛行の中で予想以上に高度を下げすぎた」という操縦ミスを事故原因とした方向での草案を作成した。この根拠として、60便は計器飛行による通常の着陸ルートをキャンセルし、目視飛行を行い通常の着陸ルートを東京湾上空でショートカットすることや、この事故に先立ってアメリカで起きていた同型機による着陸時の事故調査結果においても、ボーイング727型機の降下角度がプロペラ機のみならず、他のジェット機に比べても急であることに対する操縦員の不慣れによる操縦ミスが墜落原因とされたこと、さらに同型機は全日空が導入してまだ1年程度しかたっていない新鋭機であるだけでなく、同型機は全日空にとって初のジェット機であったため慣熟が行き届いていなかったことも指摘された。
しかし、航空局航務課は、木村団長の指示に反し、パイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な点があり機体に原因があるという方向で『第一次草案』をまとめ、1968年4月26日の会議に提出した。[13]航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機体から離脱していたことから、取りつけボルトの疲労破壊説を報告していた。楢林一夫は調査団、航空局上層部と対立したため2年後に退官する。[14]『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること[15]、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乗客が多数おり、乗客によって姿勢が異なることや(当時はシートベルトの安全性が認識されておらず、締めないままの乗客が多かった)、後続の日航機と丸善石油従業員が一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に軽度のやけどの跡があること等の不審な点については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本来は接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが発生し、その原因が機体の欠陥にあることが判明した。これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水実験と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞実験によって確かめ、「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」というレポートを様々な実験データと共に調査団に報告した。しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
- 第1次案 1968年4月26日
- 第2次案 1968年6月6日
- 第3次案 1968年7月18日
- 山名リポート 1969年10月9日
- 第4次案 1970年1月
- 第5次案 1970年8月19日
- 最終報告書 1970年9月29日
ただ、同様の操縦ミスが墜落の原因となったことは他にも多く起きていたものの、第3エンジンの脱落が原因の墜落や、グランド・スポイラーが異常作動し墜落したという事故は、この事故以外にはボーイング727において皆無であった。いずれにしてもこうした対立や決定的な原因を見つけられずに、事故調査報告書の決定までは約4年を要し、その間ずっと事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。
教訓[編集]
この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、ブラックボックスの装備が義務づけられた。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になったという[16]。
備考[編集]
- 1966年の5連続事故の最初の事故である(他の4つはカナダ太平洋航空機墜落事故・BOAC機墜落事故・日本航空羽田空港墜落事故・全日空松山沖墜落事故である)。
- 前述のアメリカ国内で発生した3件の同型機事故であるが、そのうち2件は(11月8日に発生したアメリカン航空383便墜落事故・11月11日に発生したユナイテッド航空227便墜落事故)パイロットの不適切な操縦が事故を招いたと推定されている。しかし8月16日に発生したユナイテッド航空389便事故は、全日空と同様に着陸しようとして空港手前のミシガン湖に墜落したが、最終的に原因不明とされた。
- 全日空遭難機の遺体捜索では、翌月(1966年3月5日)に海上保安庁のヘリコプターが墜落して二次遭難事故が発生し、乗員3名が死亡した。なお、同機は南極においてタロとジロを発見した機体の一つであり、3名のうちの1人はその時のパイロットだった。
- 佐渡ヶ嶽部屋の幕内力士だった長谷川勝敏(四股名・長谷川、後の年寄・秀ノ山)は、この60便で札幌から東京へ帰る予定だったが、札幌市内でたまたま旧友と久々に会い、搭乗を取りやめたため奇跡的に難を逃れた[17]。
- この時期、吉永小百合主演の日活映画『大空に乾杯』が全日空の全面協力のもと制作されていたが事故による公開中止等の影響は無く、事故発生から3週間が経過した1966年2月25日に公開されている。
- この事故での出来事が切っ掛けとなり、作詞家の川内康範の体験に基づいて作詞・制作されたのが城卓矢の『骨まで愛して』である[18]。
事故を扱った番組[編集]
脚注[編集]
- ^ 神田好武「神田機長の飛行日誌」イカロス出版、2010年、187頁
- ^ 神田、前掲書、188頁
- ^ 当時の沖縄はアメリカ合衆国の占領統治下であったため、出入国管理の必要な国外扱いだった
- ^ デビッド・ゲロー著、清水保俊訳「航空事故 増改訂版」 イカロス出版 1997年、66頁
- ^ マッハの恐怖 新潮文庫 p339,340。ちなみに目撃者は元自衛官であり、1960年の全日空小牧空港衝突事故で偶然にも救助に当たっていた。
- ^ 毎日フォトバンク - タイトル 「全日空機東京湾墜落事故。7時5分12秒を指す計器盤の時計」 ID:P19990610dd1dd1phj078000
- ^ “海よ ないでくれ”. 朝日新聞: p. 15. (1966年2月8日)
- ^ 朝日新聞東京本社1966年8月10日朝刊、社会面。記事によれば遺体の頭部は失われていたが、着衣から本人と確認されたという。
- ^ 『マッハの恐怖』p55
- ^ 山名正夫「最後の30秒―羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究」
- ^ 柳田邦男著『マッハの恐怖』p313,314
- ^ 山名教授は、銀河・彗星といった爆撃機の設計を手がけた設計主任で、彗星や零戦のテスト中の墜落事故において徹底的な事故調査を行った。
- ^ 『マッハの恐怖』p.243-248
- ^ 藤田日出男『あの航空機事故はこうして起きたか』(新潮社)
- ^ 藤田日出男『あの航空機事故はこうして起きた』(新潮社)
- ^ マッハの恐怖 新潮文庫 214頁
- ^ 関脇以下名力士列伝相撲評論家之頁
- ^ 竹熊健太郎『篦棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』(太田出版、1998年/文庫本・河出文庫、2007年) ISBN 978-4-309-40880-4 P249-251
参考文献[編集]
- 柳田邦男 『マッハの恐怖』 新潮社、1986年。ISBN 4-10-124905-9。
- 山名正夫 『最後の30秒―羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究』 朝日新聞社、1972年。
- 大野進 『あの事件を追え(全日空機羽田沖墜落事故の章)』 学習研究社ジュニアチャンピオンコース、1973年。
- 藤田日出男 『あの航空機事故はこうして起きた』 新潮社、2005年9月。ISBN 978-4-10-603556-2。
関連項目[編集]
- 全日空機事故
- マッハの恐怖
- ウルトラQ - 『東京氷河期(1966年2月13日放送予定)』の冒頭に旅客機が墜落して炎上するシーンがあったため、1966年4月14日に延期となった。なお同様の理由で『206便消滅す』も1966年7月3日に延期している。
外部リンク[編集]
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