瞼の戰場

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瞼の戰場
監督 清瀬英次郎
脚本 京都伸夫
豊田実
原作 柴田徹士
製作 内村禄哉
出演者 二條宮子
月丘夢路
若本一郎
谷間小百合
汐見洋子
音楽 津久井祐喜
主題歌銃後女性の唄』唄:二條宮子
傷痍の勇士』唄:月丘夢路
製作会社 宝塚映画
配給 東宝
公開 日本の旗 1940年10月23日
上映時間 85分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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瞼の戰場』(まぶたのせんじょう)は、1940年10月公開の日本映画である。

製作会社は宝塚映画製作所2013年まで存在していた宝塚映像)、配給は東宝。監督は清瀬英次郎モノクロスタンダード・サイズ、上映時間は85分。1940年9月21日クランクアップした。

概要[編集]

阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三は戦前から映画を兵庫県宝塚市に本拠地を構える宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)に使用することを計画しており、1933年昭和8年)以来から宝塚新温泉外苑の一角にダークステージを建設して三浦時子橘薫草笛美子らによる歌唱によるトーキー映画を試作したことや、当時、大江美智子霧立のぼる轟夕起子水尾みさをなどの宝塚少女歌劇団の生徒達が映画会社に女優として引き抜かれるという件が発生しており、自前で映画製作所を設立して生徒たちの流出を防ぐ必要があったこと、また、1938年(昭和13年)5月宝塚大劇場星組公演において、「キノ・ドラマ」と称する、トーキー映画とレヴューを組み合わせた連鎖劇の演目「軍國女學生」を発表したほかに、同年7月にも藤沢桓夫原作のキノ・オペレッタ「花ある氷河」を上演したことから、同年8月12日に、宝塚大運動場西北隅の宝塚球場跡地において200坪に亘る第一撮影所(2013年まで存在していた宝塚映像)を新設して映画製作を開始した。この作品は第一撮影所第4回製作作品として、「山と少女」、「雪割草」、「女學生と兵隊」に続いて、1940年(昭和15年)に製作された映画作品である。

梗概[編集]

大都市の郊外にある街、そこに中山食料品店があった。中山民子は夫の中山彌吉が徴兵された後に息子の武雄を抱えて、姑のヨシと義妹の道子と共に食料品店を守っていた。

民子は早くに両親を失い肉親といえば、徴兵されて中国南部に送り込まれている兄の信勝唯一人であった。信勝は会社員だったが絵の才能に恵まれていた。或る日、信勝が戦傷に因って傷痍軍人となり、戦地から内地の陸軍病院に還送されてきた。民子は信勝を慰める為に絵の道具一式を用意して病院を訪れたが、信勝は戦傷が元で失明していた。民子が兄を思い遣って持って来た折角の絵の道具箱も却って信勝の気持ちを暗くしてしまい、「耳の不自由な音楽家はいるが、目が不自由な画家はいたためしが無い。」と言って空虚に笑うのであった。

民子はヨシと共に何とかして信勝に明るい希望と未来を与えてやりたいと念じた。ヨシの好意ある取り計らいで信勝は中山家の一員に加わる事になった。

視覚障害者となった信勝は皆の懸命な介護と温かい情で生きる氣力を取り戻していったが、民子が汗と埃に塗れながら健気に食料品店を切り盛りしているのを知るだけでも、自分も何とかして一刻も早く手に職を付けたいと願った。

或る日のこと、信勝はヨシに連れられて仏教会館に説教を聞きに行ったが、隣の会社から聞こえてくるタイプライターの音が耳に付いて離れなかった。最初の目的だった説教は耳に入らなかった。速記の仮名文字タイプライターで生計を立てようと決意してタイピスト養成所の門を叩く。

そして、養成所所長と共に親身になって信勝にタイピングの指導をした助手の女性と心の交流が始まる。

配役[編集]

製作スタッフ[編集]

音楽[編集]

作品データ[編集]

  • 製作 : 宝塚映画撮影所
  • フォーマット : モノクロ スタンダードサイズ(1.37:1) モノラル録音

エピソード[編集]

  • 月丘夢路はこの作品で銀幕デビューを果たした。

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]