宝塚球場
宝塚球場 | |
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施設データ | |
所在地 |
日本兵庫県川辺郡小浜村 (現:兵庫県宝塚市) |
開場 | 1922年6月15日 |
照明 | なし |
使用チーム • 開催試合 | |
収容人員 | |
32,500人 | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
両翼 - 91 m 中堅 - 98 m |
宝塚球場(たからづかきゅうじょう、1922年 - 1937年)は、かつて兵庫県川辺郡小浜村(現:兵庫県宝塚市)にあった野球場。
歴史
[編集]箕面有馬電気軌道(阪神急行電鉄、現:阪急阪神ホールディングス)は阪急宝塚線の全線開業後、兵庫県宝塚市を観光地として整備しようと宝塚新温泉、遊園地、動植物園を設置。そして阪急電鉄直属の宝塚少女歌劇団(現:宝塚歌劇団)を結成した。さらに1922年6月15日、この近接地に野球場、テニス場、陸上競技場を併設したスポーツセンターをオープンさせた。翌年より日本フットボール優勝大会(現在の全国高等学校サッカー選手権大会および全国高等学校ラグビーフットボール大会)が2大会開催された。
2年後の1924年、日本運動協会(芝浦協会)が関東大震災の影響で運営が困難になり解散したのを受けて、その選手の受け皿として宝塚運動協会を結成。本球場を本拠地として活動を行い、ノンプロ組織(社会人野球)との対戦もこなしたりした。しかし、当時は職業野球の文化が不充分でわずか5年後の1929年に解散してしまった。
それから7年後の1936年には同年結成の阪急軍(阪急職業野球団、現在のオリックス・バファローズ)の本拠地として利用され、職業野球公式戦を開催したが、翌1937年5月1日に完成した阪急西宮球場にその座を明け渡し、宝塚球場も解体された。跡地は宝塚映画製作所の第一撮影所(1938年8月12日完成)になったが、戦後は宝塚ファミリーランドとして整備された。
解体から約50年後の1989年12月に発売されたコンピュータゲーム作品の「ファミスタ'90」に『たからづか球場』という名前の架空の球場が登場したことがある。ただし、阪急西宮球場がモチーフになっているもので、全く関係ない。
プロ野球公式戦開催実績
[編集]1936年に13試合開催。なお左側のチームが後攻(ホームチーム扱い)。
春季・宝塚大会
[編集]- 1936年5月22日 阪急軍 6-5 大東京軍
- 1936年5月23日 大東京軍 5-13 東京セネタース、大阪タイガース 6-4 名古屋軍
- 1936年5月24日 東京セネタース 13-2 名古屋軍、大阪タイガース 2-10 阪急軍[1]
秋季・大阪大会トーナメント戦
[編集]- 1936年10月23日(1回戦) 名古屋金鯱軍 16-8 東京セネタース、阪急軍 2-0 名古屋軍、大阪タイガース 9-9 大東京軍<9回引き分け>
- 1936年10月24日(1回戦再試合) 大阪タイガース 7-4 大東京軍
- 1936年10月25日(準決勝)名古屋金鯱軍 3-7 東京巨人軍、阪急軍 3-0 大阪タイガース
- 1936年10月27日 (3位決定戦)大阪タイガース 4-2 名古屋金鯱軍、(決勝)阪急軍 1-3 東京巨人軍
施設概要
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脚注
[編集]関連資料
[編集]- “【球跡巡り・第26回】阪急が産声を上げた温泉地の野球場 宝塚球場”. NPB.jp 日本野球機構 (2020年1月17日). 2020年12月17日閲覧。
関連項目
[編集]前本拠地: n/a - |
宝塚運動協会の本拠地 1924 - 1929 |
次本拠地: n/a - |
前本拠地: n/a - |
阪急軍の本拠地 1936 - 1936 |
次本拠地: 阪急西宮球場 1937 - 1990 |