松島三那子

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松島 三那子(まつしま みなこ、1937年1月1日生まれ)は、元宝塚歌劇団所属の男役神奈川県藤沢市出身。本名は松島慶子。宝塚での愛称はケコ、ケイコ。父親は元海軍報道部長・松島慶三

略歴[編集]

湘南白百合学園中学部卒業後、1952年宝塚音楽学校受験、入学。1953年予科卒業、同年4月「春の踊り」で初舞台。40期生。当時は音楽学校は一年制であった。同期に、那智わたる浜木綿子麻鳥千穂藤里美保らがいる。宝塚入団時の成績は64人中13位[1]

入団時の芸名は松島明美。星組に配属。1956年6月星組公演「ホノルルホリデー」で内重のぼる、藤里美保、若山みどりらと共に水夫に扮しタップダンスで注目される。同年、このメンバーで宝塚歌劇団年度賞・新人舞踏賞を受賞。この頃から1960年頃まで、『歌劇』には毎号のように松島の舞台写真、グラビア、関連記事が掲載される。海外公演にも参加し、松島は那智わたる、内重のぼる、藤里美保らに次ぐ若手ホープの一人だったことを示している。

1957年花組に移動。第三回ハワイ公演参加。芸名を松島三那子に変更。

1958年4月1日「春のおどり・花の中の子供たち」出演中、相手役の香月弘美が不慮の事故死をとげた。偶然にも、香月弘美は松島と湘南白百合学園小学部・中学部の同級生であった(事故の詳細は香月弘美の項参照)。

1959年カナダアメリカ公演に参加。

1960年2月花組公演「燃ゆる氷河」新人公演で主役級の役を演じる(本役は明石照子)。

同年9月ひまわり社より『ヅカむすめのアメリカ日記』出版。245ページ。当時の定価350円。

『ヅカむすめのアメリカ日記』表紙

これは、宝塚歌劇団生徒が在団中に著書を出した最初の例であった。同書は「ヅカむすめのアメリカ日記」「私のメモ帖●アイウエオ」「ああ、無残の記憶に祈る」の三部からなる。タイトルにもなり同書の約半分を占める「ヅカむすめのアメリカ日記」は1959年7月26日より11月28日までの宝塚歌劇団アメリカ・カナダ公演の記録、「私のメモ帖●アイウエオ」は長短さまざまのエッセイをタイトルの五十音順に集めたものである。しかし、「あとがき」によれば松島が同書出版を決意した真の理由は、香月弘美の死を回想した「ああ、無残の記憶に祈る」を世に出したかったからであった。

『ヅカむすめのアメリカ日記』出版前後から、『歌劇』誌上で松島に関する記事、舞台写真は現れなくなる。これが、香月弘美の事故に関する回想を出版したことに対する歌劇団の制裁かどうかは不明。

1962年芸名を松島加代子に変更。11月29日[1]をもって宝塚を退団。「皇帝と魔女[1]」が最終出演公演の演目である。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』阪急コミュニケーションズ2014年4月1日、50-51頁。ISBN 9784484146010

参考文献[編集]

松島三那子『ヅカむすめのアメリカ日記』(ひまわり社 1960.9)