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{{Otheruseslist|映画プロデューサー・東映元社長の岡田茂|[[三越]]の元社長の岡田茂|岡田茂 (三越)|脚本・演出家の岡田茂|岡田茂 (脚本・演出家)}}
{{Otheruseslist|映画プロデューサー・東映元社長の岡田茂|[[三越]]の元社長の岡田茂|岡田茂 (三越)|脚本・演出家の岡田茂|岡田茂 (脚本・演出家)}}
'''岡田 茂'''(おかだ しげる、[[1924年]][[3月2日]] - [[2011年]][[5月9日]]<ref name=fuho>[http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040025000c.html 訃報:岡田茂さん87歳=東映名誉会長] 毎日.jp 2011年5月9日閲覧</ref>)は、[[日本]]の[[映画プロデューサー]]。元[[東映]]・[[東急レクリエーション]]社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て[[2006年]]7月から再び東映名誉会長。また、[[2008年]]4月より[[東京急行電鉄]]取締役を務めた。
'''岡田 茂'''(おかだ しげる、[[1924年]][[3月2日]] - [[2011年]][[5月9日]]<ref name="毎日新聞20110509web_訃報" />)は、[[日本]]の[[映画プロデューサー]]。元[[東映]]・[[東急レクリエーション]]社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て[[2006年]]7月から再び東映名誉会長。また、[[2008年]]4月より[[東京急行電鉄]]取締役を務めた。


[[松竹]]の[[城戸四郎]]、[[東宝]]の[[森岩雄]]が一線を退いてからは「[[日本映画]]界のドン」であり<ref name="オリコン20110511web_葬儀" /><ref name="スポーツ報知20110510web_菅原文太" /><ref name="スポーツ報知20110510web_見舞い断る" /><ref name="スポーツ報知20110510web_志穂美悦子" /><ref name="シネマトゥデイ20110511_葬儀" /><ref name="ZAKZAK20110509_死去" /><ref name="映画人_122" /><ref>[http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201105100043.html asahi.com(朝日新聞社) 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん]<br />
[[松竹]]の[[城戸四郎]]、[[東宝]]の[[森岩雄]]が一線を退いてからは「[[日本映画]]界のドン」であり<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/87533/full/ “日本映画界のドン”岡田茂さん葬儀・告別式に2100人が参列 ]<br />[http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201105100043.html asahi.com(朝日新聞社) 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00294.htm?from=related 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110512-OHT1T00002.htm?from=related 魂受け継ぐ!仲村トオル「伝えていかなければ」…岡田茂・東映名誉会長告別式]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00018.htm 「男の美学」岡田茂氏、家族以外の見舞い断る…東映・樋口顧問明かす]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110510-OHT1T00012.htm 志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去]<br />[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/81379.html 東映の岡田茂名誉会長 死去]<br />[http://www.cinematoday.jp/page/N0032205 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る]<br />[http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/05/09/20110509k0000e040056000c.html 岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新企画、経営近代化 - 毎日jp ]<br />[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00005.htm 「日本映画界のドン」東映・岡田茂名誉会長が死去:芸能特集:スポーツ報知]<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110509/enn1105091555017-n1.htm “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で]<br />[http://www.animeanime.biz/all/115101/ 岡田茂氏死去 東映名誉会長 東映アニメ取締役]
[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110512-OHT1T00002.htm?from=related 魂受け継ぐ!仲村トオル「伝えていかなければ」…岡田茂・東映名誉会長告別式]<br />
<br />{{Cite news|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201105120018.html|title=岡田茂氏葬儀 2100人が別れ - 中国新聞|publisher=[[中国新聞]]|date=2011年5月12日}}<br />[http://www.zenkoren.or.jp/pdf/news3.pdf 現名誉会長、岡田茂氏逝去. 日本興行ニュース]<br />[[毎日新聞]]、2011年5月19日17面<br />[[佐藤忠男]]『日本の映画人 -日本映画の創造者たち-』、[[日外アソシエーツ]]、2007年、p122<br />別冊宝島1672『天皇と呼ばれた男たち』2010年1月、p123</ref>、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="日刊スポーツ2011510">[[日刊スポーツ]]、2011年5月10日22-24面([http://www.nikkansports.com/iphone/entertainment/news/p-et-tp1-20110510-773486_iphone.html 日刊スポーツ2011年5月10日])</ref>。[[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[西条町 (広島県)|西条町]](現・[[東広島市]]西条)出身<ref name="岡田茂自伝1127">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、[[角川書店]]、2004年、p11-27</ref>。 
[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/81379.html 東映の岡田茂名誉会長 死去]<br />
[http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/05/09/20110509k0000e040056000c.html 岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新企画、経営近代化 - 毎日jp ]<br />
[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00005.htm 「日本映画界のドン」東映・岡田茂名誉会長が死去:芸能特集:スポーツ報知]<br />
[http://www.animeanime.biz/all/115101/ 岡田茂氏死去 東映名誉会長 東映アニメ取締役]<br />
{{Cite news|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201105120018.html|title=岡田茂氏葬儀 2100人が別れ - 中国新聞|publisher=[[中国新聞]]|date=2011年5月12日}}<br />
[http://www.zenkoren.or.jp/pdf/news3.pdf 現名誉会長、岡田茂氏逝去. 日本興行ニュース]<br />
『[[毎日新聞]]』2011年5月19日17面<br />
『天皇と呼ばれた男たち』〈別冊宝島1672〉2010年1月、p123
</ref>、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="ニッカン20110510_22-24" />。[[広島県]][[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[西条町 (広島県)|西条町]](現[[東広島市]]西条)出身<ref name="波瀾_11-27" />。


長男は、映画『[[赤頭巾ちゃん気をつけて#映画|赤頭巾ちゃん気をつけて]]』や『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』などで知られる元[[俳優]]で現東映社長の[[岡田裕介]]。長女は、[[生命倫理学]]者でコメンテーターの[[高木美也子]]。
長男は、映画『[[赤頭巾ちゃん気をつけて#映画|赤頭巾ちゃん気をつけて]]』や『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』などで知られる元[[俳優]]で現東映社長の[[岡田裕介]]。長女は、[[生命倫理学]]者でコメンテーターの[[高木美也子]]。
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== 経歴==
== 経歴==
=== 少年時代 ===
=== 少年時代 ===
中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた<ref name="岡田茂自伝1127"/><ref name="私の履歴書38">『私の履歴書 経済人38』、p75</ref><ref name="pressnet">[http://www.pressnet.co.jp/2011_05/110521_01.shtml 巨星墜つ 岡田茂氏が死去 東映名誉会長・東広島名誉市民]</ref>。旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]])では[[柔道]]に熱中。卒業後は[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現・[[広島大学]])に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のち[[シナリオ]]を読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を[[首席]]で卒業、[[1944年]][[東京大学|東京帝国大学]]経済学部に入学するも待ち構えていたのは[[学徒出陣]]。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の[[仙台空港]]内)で[[戦闘機]]の整備の任務に就いた。当地は[[グラマン]]に爆撃され[[宮城県]][[古川市|古川町]](現在の[[大崎市]])に疎開。[[1945年]][[8月15日]]、終戦を告げる[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した<ref name="岡田茂自伝1127"/><ref name="風雲映画城2932">[[松島利行]]『風雲映画城 下』、[[講談社]]、1992年、p29-32</ref>。
中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた<ref name="波瀾_11-27"/><ref name="私の履歴書_75" /><ref name="プレスネット20110521_巨星墜つ" />。旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島国泰寺高校]])では[[柔道]]に熱中。卒業後は[[広島高等学校 (旧制)|旧制広島高校]](現・[[広島大学]])に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のち[[シナリオ]]を読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を[[首席]]で卒業、[[1944年]][[東京大学|東京帝国大学]]経済学部に入学するも待ち構えていたのは[[学徒出陣]]。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊現在の[[仙台空港]]内で[[戦闘機]]の整備の任務に就いた。当地は[[グラマン]]に爆撃され[[宮城県]][[古川市|古川町]](現在の[[大崎市]])に疎開。[[1945年]][[8月15日]]、終戦を告げる[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した<ref name="波瀾_11-27"/><ref name="風雲_29-32" />。


終戦後復学。東大経済学部の学友会である[[経友会]]を、[[日本共産党]]が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した<ref name="岡田茂自伝1127"/><ref>『[[私の履歴書]] 経済人38』,[[日本経済新聞社]]、2004年、p29-p32</ref>。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した<ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p24-p27</ref>。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている<ref>深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p453<br />「VS山城新伍」『濃厚民族』浅草キッド、スコラマガジン、2003年、p66<br />山城新伍インタビュー『男気万字固め』吉田豪、エンターブレイン、2001年、p20</ref>。
終戦後復学。東大経済学部の学友会である[[経友会]]を、[[日本共産党]]が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した<ref name="波瀾_11-27"/><ref name="私の履歴書_29-32" />。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した<ref name="波瀾_24-27" />。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている<ref name="深作欣二_453" /><ref name="濃厚_66" /><ref name="男気_20" />。


=== 東映入社 - 草創期 ===
=== 東映入社 - 草創期 ===
[[木暮剛平]]らが同期の親友。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。最初は<!---東横映画に先に入社していた--->小学生からの幼馴染[[今田智憲]]の紹介で<!---[[東急電鉄]]元専務で--->、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった<ref name="日本映画縦断Ⅱ">[[キネマ旬報]]、1974年7月下旬〜8月上旬号、[[竹中労]]『日本映画縦断Ⅱ 異端の映像』白川書院、1975年、p13-p42</ref>[[東横映画]]社長・[[黒川渉三]]に会い、[[永野護 (政治家)|永野護]]→[[桜田武]]を紹介してもらい[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]への就職を希望していた<ref name="dodo-geneki">[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ]</ref>。しかし黒川から「近く映画事業を始めるからウチに来い」と誘われ、[[マキノ光雄]]、伊藤義、[[浅岡信夫]]らにも激しく説得され<ref>『[[En-taxi|en-taxi]]』、2005年9月号、[[扶桑社]]、p83</ref><ref name="小説東急王国">大下英治『小説東急王国』、毎日新聞社、1990年、p247-p257</ref><ref name="日本の映画人">[[佐藤忠男]]『日本の映画人 -日本映画の創造者たち-』、[[日外アソシエーツ]]、2007年、p12</ref><ref name="キネ旬19696">[[キネマ旬報]]、1969年6月下旬号、p126-128</ref>、黒川に「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言で最後は決めた<ref>小説東映 映画三国志、[[大下英治]]著、[[徳間書店]]、p22-24</ref>。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧[[満洲映画協会|満映]]系の映画人を中核として、元々[[京都]]で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者<ref name="business.nikkeibp">[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ2つの映画で復活した]</ref>
[[木暮剛平]]らが同期の親友。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。最初は<!---東横映画に先に入社していた--->小学生からの幼馴染[[今田智憲]]の紹介で<!---[[東急電鉄]]元専務で--->、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった<ref name="異端の映像_13-42" />[[東横映画]]社長・[[黒川渉三]]に会い、[[永野護 (政治家)|永野護]]→[[桜田武]]を紹介してもらい[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]への就職を希望していた<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂" />。しかし黒川から「近く映画事業を始めるからウチに来い」と誘われ、[[マキノ光雄]]、伊藤義、[[浅岡信夫]]らにも激しく説得され<ref name="en-taxi200509_83" /><ref name="小説東急王国_247-257" /><ref name="映画人_12" /><ref name="キネ旬1969062_126-128" />、黒川に「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言で最後は決めた<ref name="三国志_22-24" />。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧[[満洲映画協会|満映]]系の映画人を中核として、元々[[京都]]で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者<ref name="日経BP20060203_岡田茂" />。その存在を知る人は少なくリスク大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなていた<ref name="クロニクル2_1-8" />。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。
。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p1-8</ref>。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。


[[1947年]]、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたという<ref>『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p149</ref>。製作進行係として最初に担当した[[マキノ雅弘]]監督の『[[金色夜叉#映画版|金色夜叉]]』(1948年)の撮影のとき、[[エキストラ]]のトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという<ref name="dodo-geneki"/><ref name="乾杯!ごきげん映画人生">[[瀬川昌治]]『乾杯!ごきげん映画人生』、清流出版、2007年、p165、184-190</ref><ref name="キネ旬19844">[[キネマ旬報]]、1984年4月上旬号、p143-145</ref><ref>『風雲映画城 下』、p19-20<br />渡邊達人『私の東映30年』1991年、p22</ref>。当時、製作のトップにいた[[マキノ光雄]]に師事。翌[[1948年]]、24歳で製作主任に昇格<ref name="キネ旬19844"/>。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意<ref name="風雲映画城2932"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p18-19、21</ref>。[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒で[[日本戦没学生記念会|わだつみ会]]の会長だった[[氏家齊一郎]]や、副会長だった[[渡邉恒雄]]が「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けたり<ref name="キネ旬201175657">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p56-57</ref>、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした<ref name="dodo-geneki"/><ref name="キネ旬19844"/>。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって[[1950年]]、映画は完成<ref name="キネ旬201175657"/><ref name="沢島忠93108">[[沢島忠]]『沢島忠全仕事 - ボンゆっくり落ちやいね』、ワイズ出版、2001年、p93-108</ref>。タイトルを『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』に変更し公開。珠玉の[[反戦]]映画、と評価を得て大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが<ref>「昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫」、笠原和夫、[[荒井晴彦]]、[[絓秀実]]、[[太田出版]]、2002年、p141</ref>、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった<ref name="風雲映画城2932"/>。1948年、[[東映京都撮影所|京都撮影所]](以下、京撮)に従業員組合([[労働組合|労組]])が創立され書記長。翌[[1949年]]、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任<ref>『私の東映30年』、p37、38</ref>。
[[1947年]]、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたという<ref name="それでも_149" />。製作進行係として最初に担当した[[マキノ雅弘]]監督の『[[金色夜叉#映画版|金色夜叉]]』(1948年)の撮影のとき、[[エキストラ]]のトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="ごきげん映画人生_165_184-190" /><ref name="キネ旬1984041_143-145" /><ref name="風雲_19-20" /><ref name="私の30年_22" />。当時、製作のトップにいた[[マキノ光雄]]に師事。翌[[1948年]]、24歳で製作主任に昇格<ref name="キネ旬1984041_143-145"/>。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意<ref name="風雲_29-32"/><ref name="クロニクル1_18-19_21" />。[[東京大学]][[全日本学生自治会総連合]]の急先鋒で[[日本戦没学生記念会|わだつみ会]]の会長だった[[氏家齊一郎]]や、副会長だった[[渡邉恒雄]]が「[[天皇制]]批判がない」とクレームを付けたり<ref name="キネ旬2011071_56-57" />、会社の看板スターで役員でもあった[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="キネ旬1984041_143-145"/>。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって[[1950年]]、映画は完成<ref name="キネ旬2011071_56-57"/><ref name="沢島忠全仕事_93-108" />。タイトルを『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』に変更し公開。珠玉の[[反戦]]映画、と評価を得て大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが<ref name="昭和の劇_141" />、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった<ref name="風雲_29-32"/>。1948年、[[東映京都撮影所|京都撮影所]](以下、京撮)に従業員組合([[労働組合|労組]])が創立され書記長。翌[[1949年]]、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任<ref name="私の30年_37-38" />。


=== 課長昇進 - 撮影所長へ ===
=== 課長昇進 - 撮影所長へ ===
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し'''東映'''として新しくスタート。社長には[[東京急行電鉄|東急]]専務で経理のプロ・[[大川博]]が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映の[[ゼネラルマネージャー]]のような存在となった<ref name="business.nikkeibp"/><ref>『私の履歴書 経済人38』、p46<br />小説東映 映画三国志、p86</ref><ref name="日本の映画人"/><ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/><ref name="日本画縦断Ⅱ"/>。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった<ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/><ref><small>[[菅原文太]]は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、[[深作欣二]]は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。[[俊藤浩滋]]は「大川が作ったのは『大いなる旅路』(1960年)くらいではないか」と述べている([[俊藤浩滋]]、[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、p63)。</small></ref>。[[1951年]]プロデュースした[[八ツ墓村]]は同小説最初の映像化。[[1952年]]、[[京都大学]][[法学部]]卒ながら、[[全日本学生自治会総連合|全学連]]で暴れていて大川社長以下、全員が反対した[[山下耕作]]を入社させる。山下は入社するやすぐ[[労働運動|組合運動]]を始めた。[[1954年]]から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。[[1940年代]]後半の[[東宝争議]]で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した<ref>『悔いなきわが映画人生』、p95</ref>。
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し'''東映'''として新しくスタート。社長には[[東京急行電鉄|東急]]専務で経理のプロ・[[大川博]]が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映の[[ゼネラルマネージャー]]のような存在となった<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="私の履歴書_46" /><ref name="三国志_86" /><ref name="映画人_12"/><ref name="ごきげん映画人生_165_184-190"/><ref name="異端の像_13-42"/>。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった<ref name="ごきげん映画人生_165_184-190"/><ref group="注釈">[[菅原文太]]は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、[[深作欣二]]は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。[[俊藤浩滋]]は「大川が作ったのは『大いなる旅路』(1960年)くらいではないか」と述べている([[#任侠映画伝|任侠映画伝]]p63)。</ref>。[[1951年]]プロデュースした[[八ツ墓村]]は同小説最初の映像化。[[1952年]]、[[京都大学]][[法学部]]卒ながら、[[全日本学生自治会総連合|全学連]]で暴れていて大川社長以下、全員が反対した[[山下耕作]]を入社させる。山下は入社するやすぐ[[労働運動|組合運動]]を始めた。[[1954年]]から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。[[1940年代]]後半の[[東宝争議]]で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した<ref name="悔いなき_95" />。


当時の[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオドラマ]]で人気だった[[新諸国物語]]の冒険活劇を題材に[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[大友柳太郎]]主演の[[笛吹童子]]シリーズ、[[東千代之介]]主演の[[里見八犬伝]]シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011050900318 岡田茂氏死去=昭和の日本映画支え… - 時事通信社]</ref>。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長がマネージメントをし、[[松竹]]映画に出演していた[[美空ひばり]]をマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。[[1956年]]には年間配給収入でトップとなった。
当時の[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオドラマ]]で人気だった[[新諸国物語]]の冒険活劇を題材に[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[大友柳太郎]]主演の[[笛吹童子]]シリーズ、[[東千代之介]]主演の[[里見八犬伝]]シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる<ref name="時事通信20110509web_訃報" />。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長がマネージメントをし、[[松竹]]映画に出演していた[[美空ひばり]]をマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した<ref name="クロニクル2_1-8"/>。[[1956年]]には年間配給収入でトップとなった。


[[1955年]]、アメリカ映画視察で観た[[スコープ・サイズ|シネマスコープ]]映画製作に意欲を燃やし[[1957年]]、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年『忍術御前試合』で[[沢島忠]]を監督デビューさせた<ref name="スポーツッポン2011510">[[スポーツニッポン]]、2011年5月10日17面</ref><ref name="悪趣味邦画劇場276280">『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、p276-280</ref>。[[1956年]]には京撮にアルバイトに来ていた[[鈴木則文]]を入社させた<ref>小説東映 映画三国志、p247-p248</ref>。1957年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として"マキノイズム"を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/>。[[1960年]]京撮所長。[[山城新伍]]主演で[[テレビ]]制作した『[[白馬童子]]』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]を高校卒業と同時に入社させた<ref name="岡田茂自伝188190">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p188-190</ref><ref name="news24">[http://www.news24.jp/entertainment/news/1617286.html 【続報】北大路欣也、富司純子ら思い出語る | 日テレNEWS24]</ref>。[[1962年]]取締役[[東映東京撮影所|東京撮影所]]長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を"現代[[アクション]]路線"で復活させる<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="toeininkyo">[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社[任侠・実録<nowiki>]</nowiki>]</ref><ref>深作欣二の軌跡、[[キネマ旬報社]]、2003年、p154</ref>。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、[[深作欣二]]、[[佐藤純彌]]、[[降旗康男]]や[[新東宝]]から引き抜いた[[石井輝男]]、[[渡辺祐介]]、[[瀬川昌治]]ら若い才能を抜擢した<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="風雲映画城83125">『風雲映画城 下』、p83-88、104-125</ref><ref name="私と東映中島貞夫">[http://www.facebook.com/note.php?note_id=229534770394519 第2回 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (全5回) | Facebook]</ref><ref name="クロニクル東映172175">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p172-175</ref><ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、2004年、p12、13<br />[[讀賣新聞]]、2011年5月10日<br />小説東映 映画三国志、p221</ref><ref name="キネ旬201174752">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p47-52</ref>。また、日活にいられなくなった[[井上梅次]]を誘い『[[暗黒街最後の日]]』(1962年)など、7本を監督してもらう<ref>『波瀾万丈の映画人生』、p151</ref>。
[[1955年]]、アメリカ映画視察で観た[[スコープ・サイズ|シネマスコープ]]映画製作に意欲を燃やし[[1957年]]、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年『忍術御前試合』で[[沢島忠]]を監督デビューさせた<ref name="スポニチ20110510_17" /><ref name="秘宝2_276-280" />。[[1956年]]には京撮にアルバイトに来ていた[[鈴木則文]]を入社させた<ref name="三国志_247-248" />。1957年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長としてマキノイズムを推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う<ref name="秘宝2_276-280"/>。[[1960年]]京撮所長。[[山城新伍]]主演で[[テレビ]]制作した『[[白馬童子]]』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]を高校卒業と同時に入社させた<ref name="波瀾_188-190" /><ref name="NEWS24_20110510_思い出" />。[[1962年]]取締役[[東映東京撮影所|東京撮影所]]長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を現代[[アクション]]路線で復活させる<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="0東映_任侠・実録" /><ref name="深作欣二の軌跡_154" />。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、[[深作欣二]]、[[佐藤純彌]]、[[降旗康男]]や[[新東宝]]から引き抜いた[[石井輝男]]、[[渡辺祐介]]、[[瀬川昌治]]ら若い才能を抜擢した<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="風雲_83-88_104-125" /><ref name="facebook私と東映中島貞夫_2" /><ref name="クロニクル1_172-175" /><ref name="任侠が青春_12-13" /><ref name="読売新聞20110510_XX" /><ref name="三国志_221" /><ref name="キネ旬2011071_47-52" />。また、日活にいられなくなった[[井上梅次]]を誘い『[[暗黒街最後の日]]』(1962年)など、7本を監督してもらう<ref name="波瀾_151" />。


ギャングシリーズを開拓した後<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p26</ref>、東映を『[[時代劇]]』路線から[[俊藤浩滋]]と組んで[[人生劇場 飛車角]]を初めとする[[任侠映画]]<ref><small>当時は「[[ヤクザ映画|やくざ映画]]」と呼んだ([[筒井清忠]]編集板倉宏臣井上理砂子中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』[[清流出版]]、p237)。</small></ref>路線に転換させる<ref name="dodo-geneki"/><ref name="日本の映画人"/><ref name="キネ旬19696"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="楊 紅雲">[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol4/yan4.pdf 任侠映画路線における東映の成功 楊 紅雲]</ref><ref name="日経2011510">[[日本経済新聞]]、2011年5月10日13面</ref><ref name="cyzo201106">[http://www.cyzo.com/2011/06/post_7487.html "日本映画界最後の大スタ"高倉相次ぐ知人の訃報で引きこもりに ]</ref><ref name="任侠映画伝">[[俊藤浩滋]]、[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、p66、67、116、163、234-240</ref>。[[日活]]、[[大映]]、[[東宝]]など他社も追随した<ref>[[スポーツ]]連載、[[梶芽衣子]]「あいつの好きそなブルース」2011年5月25日<br />[[加藤泰]]『加藤泰映画華』、ワイズ出版、1995年、p25</ref>。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、"任侠路線"だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。[[土曜]][[深夜]]の[[オールナイト|オールナイト興行]]には観客が押し寄せ、[[任侠映画]]は[[安保闘争#70年安保|70年安保]]に向けて[[学生運動]]の盛り上がりとともに、[[高度経済成長]]・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした<ref name="toeininkyo"/><ref name="やくざ映画とその時代">斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』、[[筑摩書房]]、1998年、p16、17</ref>。[[東宝]]、[[松竹]]は戦前から[[不動産]]を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの<ref name="business.nikkeibp"/><ref>『小説東映 映画三国志』、p230</ref>。[[任侠映画]]と後に手掛ける[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]抜きに[[1960年代]]から[[1970年代]]の日本映画は語れない<ref>室岡まさる『市川雷蔵とその時代』、[[徳間書店]]、1993年、p364</ref>。岡田の仕掛けた"[[ヤクザ映画#東映|任侠路線""実録路線]]"は、その後『[[日本の首領]]』や、『[[鬼龍院花子の生涯]]』などの「女性文芸路線」、『[[極道の妻たち]]』シリーズに、先の"現代アクション""ハードアクション路線"は、[[キイハンター]]」、「[[Gメン'75]]や、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』や『[[極道渡世の素敵な面々]]』などの"ネオやくざ路線"に引き継がれ、後に[[Vシネマ]]という新ジャンルを切り開いていった<ref name="toeininkyo"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p453</ref>。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した<ref name="キネ旬201176870">キネマ旬報、2011年7月上旬号、p68-70</ref>。特に1960年代、1970年代の『[[人生劇場 飛車角]]』『[[緋牡丹博徒]]』『[[大奥(秘)物語|大奥{{Color|black|&#12953;}}物語]]』など、[[任侠映画]]、エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである<ref name="キネ旬201176870"/><ref name="dodo-geneki"/><ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref name="遊撃の美学204">『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、p204</ref><ref name="私の東映30年148149">『私の東映30年』、p148-149</ref>。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので<ref name="dodo-geneki"/><ref name="日本の映画人"/><ref name="hochi.yomiuri">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00019.htm 引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々]</ref><ref name="sankei110511">[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110511/ent11051107560003-n1.htm 富司純子、岡田氏偲ぶ「ゴッドファーザー」]</ref><ref name="クロニクル東映220221">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p220-221</ref><ref name="岡田茂自伝158164">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p158-164</ref><ref name="私と東映中島貞夫3">[http://www.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E-%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E8%B2%9E%E5%A4%AB%E7%9B%A3%E7%9D%A3-%E5%85%A8%EF%BC%95%E5%9B%9E/235528236461839?ref=nf 第3回 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (全5回) | Facebook]</ref>この快挙は当時の[[ジャーナリズム]]を刺激して「{{Color|black|&#12953;}}物語」という活字が新聞や週刊誌によく使われた<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に{{Color|black|&#12953;}}というハンコを押しているのだから、[[印税|著作料]]をもらいたいぐらい」と話している<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、財界研究所、2001年、p137</ref>。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが[[山田五十鈴]]、[[佐久間良子]]、[[藤純子]]らスター女優を起用して大当たりした。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』はブームを呼び<ref>『ポスターでつづる東映映画史』、東映ポスター集製作委員会、[[青心社]]、1980年、p39</ref>、その後の[[大奥 (テレビドラマ)|大奥物]]は、この作品の衣装や[[小道具]]がモデルになり<ref name="クロニクル東映220221"/>エッセンスは受け継がれ<ref name="キネ旬201174445">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p44-45</ref>現在もテレビドラマ等に繋がる<ref name="岡田茂自伝158164"/>。[[1964年]]の『二匹の牝犬』では[[文学座]]の[[小川眞由美]]と[[六本木]]で遊んでいた[[緑魔子]]を組ませた<ref name="岡田茂自伝158164"/>。同年[[中島貞夫]]に命じて撮らせた『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』は、[[山田風太郎]]原作の『[[くノ一忍法帖]]』最初の映像化<ref name="私と東映中島貞夫"/><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0032531 森下悠里がM字開脚を解禁!!『くノ一忍法帖』でのくノ一衣装からは横チチとふんどしがチラリ!!]</ref>。[[東宝]]から引き抜いて以来パッとしなかった[[鶴田浩二]]を『[[人生劇場 飛車角]]』で<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p60</ref>、燻っていた[[高倉健]]を『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』『[[網走番外地]]』で<ref name="toeininkyo"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref name="マキノ雅弘の世界22">山田宏一『日本俠客伝 マキノ雅弘の世界』、ワイズ出版、2007年、p22</ref>、[[若山富三郎]]を『[[極道シリーズ|極道]]』シリーズで<ref>『私の東映30年』、p148-149</ref>、そして不良番長シリーズで[[梅宮辰夫]]を売り出す<ref name="cyzo201106"/><ref name="風雲映画城83125"/><ref name="so-net579048">[http://news.so-net.ne.jp/article/detail/579048/?nv=c_cat_latest 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん | エンタメ | ニュース | So-net]</ref><ref name="sankei110514">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm|title=【産経抄】5月14日|publisher=[[産経新聞]]|date=2011年5月14日1面、[[産経新聞#コラム『産経抄』|産経抄]]}}</ref><ref>[http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/tachiyomi/20110519_1.html 「岡田茂」通夜に弔電だけだった傘寿の「健さん」 - 立ち読み|週刊新潮]</ref><ref name="toei-video.book10">[http://toei-video.book10.jp/book.php?tId=ssk47KMltG&p=11 東映キネマ旬報vol.2]</ref>。筋金入りの清純派、[[佐久間良子]]の裸のシーンを売り物に[[田坂具隆]]監督で『[[五番町夕霧楼]]』を大ヒットさせた<ref name="日刊スポーツ2011510"/>。本作は[[京都|京]]の[[遊廓|廓]]の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ<ref name="クロニクル東映172175"/>。[[内田吐夢]]監督に撮らせた『[[飢餓海峡]]』([[1965年]])も岡田の企画<ref name="クロニクル東映200201">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、岡田茂発行、東映、1992年、p200-201</ref><ref name="私説内田吐夢伝">[[鈴木尚之]]『私説内田吐夢伝』、[[岩波書店]]、1997年、p320-366</ref><ref name="悔いなきわが映画人生144145">『悔いなきわが映画人生』、p144、145</ref>。
ギャングシリーズを開拓した後<ref name="任侠が青春_26" />、東映を『[[時代劇]]』路線から[[俊藤浩滋]]と組んで[[人生劇場 飛車角]]を初めとする[[任侠映画]]<ref group="注釈">当時は「[[ヤクザ映画|やくざ映画]]」と呼んだ([[筒井清忠]]編集板倉宏臣井上理砂子中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』[[清流出版]]、p237)。</ref>路線に転換させる<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="映画人_12"/><ref name="キネ旬1969062_126-128"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="多元文化4_楊" /><ref name="日本経済新聞20110510_13" /><ref name="サイゾ201106_さん" /><ref name="任侠伝_66-67_116他" />。[[日活]]、[[大映]]、[[東宝]]など他社も追随した<ref name="東スポ20110525梶芽衣子" /><ref name="加藤泰映画華_25" />。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、任侠路線だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。[[土曜]][[深夜]]の[[オールナイト|オールナイト興行]]には観客が押し寄せ、[[任侠映画]]は[[安保闘争#70年安保|70年安保]]に向けて[[学生運動]]の盛り上がりとともに、[[高度経済成長]]・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="やくざ映画_16-17" />。[[東宝]]、[[松竹]]は戦前から[[不動産]]を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="三国志_230" />。[[任侠映画]]と後に手掛ける[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]抜きに[[1960年代]]から[[1970年代]]の日本映画は語れない<ref name="市川雷蔵とその時代_364" />。岡田の仕掛けた[[ヤクザ映画#東映|任侠路線実録路線]]は、その後『[[日本の首領]]』や、『[[鬼龍院花子の生涯]]』などの「女性文芸路線」、『[[極道の妻たち]]』シリーズに、先の現代アクション”“ハードアクション路線は、[[キイハンター]]』『[[Gメン'75]]や、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』や『[[極道渡世の素敵な面々]]』などのネオやくざ路線に引き継がれ、後に[[Vシネマ]]という新ジャンルを切り開いていった<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="クロニクル1_453" />。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した<ref name="キネ旬2011071_68-70" />。特に1960年代、1970年代の『[[人生劇場 飛車角]]』『[[緋牡丹博徒]]』『[[大奥(秘)物語|大奥{{Color|black|&#12953;}}物語]]』など、[[任侠映画]]、エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである<ref name="キネ旬2011071_68-70"/><ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="遊撃の美学_204" /><ref name="私の30年_148-149" />。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="映画人_12"/><ref name="スポーツ報知20110510web_訃報" /><ref name="産経MSN20110511_富司純子" /><ref name="クロニクル1_220-221" /><ref name="波瀾_158-164" /><ref name="facebook私と東映中島貞夫_3" />この快挙は当時の[[ジャーナリズム]]を刺激して「{{Color|black|&#12953;}}物語」という活字が新聞や週刊誌によく使われた<ref name="私の30年_150-151" />。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に{{Color|black|&#12953;}}というハンコを押しているのだから、[[印税|著作料]]をもらいたいぐらい」と話している<ref name="悔いなき_137" />。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが[[山田五十鈴]]、[[佐久間良子]]、[[藤純子]]らスター女優を起用して大当たりした。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』はブームを呼び<ref name="ポスター_39" />、その後の[[大奥 (テレビドラマ)|大奥物]]は、この作品の衣装や[[小道具]]がモデルになり<ref name="クロニクル1_220-221"/>エッセンスは受け継がれ<ref name="キネ旬2011071_44-45" />現在もテレビドラマ等に繋がる<ref name="波瀾_158-164"/>。[[1964年]]の『二匹の牝犬』では[[文学座]]の[[小川眞由美]]と[[六本木]]で遊んでいた[[緑魔子]]を組ませた<ref name="波瀾_158-164"/>。同年[[中島貞夫]]に命じて撮らせた『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』は、[[山田風太郎]]原作の『[[くノ一忍法帖]]』最初の映像化<ref name="facebook私と東映中島貞夫_2"/><ref name="シネマトゥデイ20110605_くノ一忍法帖" />。[[東宝]]から引き抜いて以来パッとしなかった[[鶴田浩二]]を『[[人生劇場 飛車角]]』で<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="困った_60" />、燻っていた[[高倉健]]を『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』『[[網走番外地]]』で<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="キネ旬2011071_47-52"/><ref name="日本俠客伝_22" />、[[若山富三郎]]を『[[極道シリーズ|極道]]』シリーズで<ref name="私の30年_148-149" />、そして不良番長シリーズで[[梅宮辰夫]]を売り出す<ref name="サイゾー201106_健さん"/><ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="So-net_nodate_訃報" /><ref name="産経MSN20110514_産経抄" /><ref name="週刊新潮20110519web_弔電だけ" /><ref name="0東映キネマ旬報_2" />。筋金入りの清純派、[[佐久間良子]]の裸のシーンを売り物に[[田坂具隆]]監督で『[[五番町夕霧楼]]』を大ヒットさせた<ref name="ニッカン20110510_22-24"/>。本作は[[京都|京]]の[[遊廓|廓]]の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ<ref name="クロニクル1_172-175"/>。[[内田吐夢]]監督に撮らせた『[[飢餓海峡]]』([[1965年]])も岡田の企画<ref name="クロニクル1_200-201" /><ref name="私説内田吐夢伝_320-366" /><ref name="悔いなき_144-145" />。


[[1964年]]、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作るが大失敗<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、[[洋泉社]]、1995年、p271-276<br />波瀾万丈の映画人生』、p132-134</ref>。この時撮影所に量産のため、[[非正規雇用|臨時雇用]]の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた<ref>『私の東映30年』、p125-127</ref>。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大[[リストラ]]を断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="悔いなきわが映画人生147153">『悔いなきわが映画人生』、p147-153</ref><ref name="岡田茂自伝140145">『波瀾万丈の映画人生』、p140-145</ref><ref>[http://www.yidff.jp/docbox/26/box26-1-1.html 日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 - YIDFF:呉徳洙(オ・ドクス) ]</ref>。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る<ref name="dodo-geneki"/><ref name="business.nikkeibp"/><ref name="日本の映画人"/><ref name="sankei110514"/><ref name="朝日新聞2011517">[[朝日新聞]]、2011年5月17日26面</ref><ref name="財界201167">「[[財界 (雑誌)|財界]]」、2011年6月7日号、財界研究所、p60-62</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20110509-OYT8T00693.htm|title=東映黄金時代築く、岡田茂さん死去|publisher=[[読売新聞]]|date=2011年5月10日}}</ref>。京撮で製作された任侠映画第一作が[[1964年]]高倉健の初主演作『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』<ref>『キネ報』2011年7月上旬号、p43-44</ref><ref>[[黒沢清]]・[[四方田犬彦]]・[[吉見俊哉]]・[[李鳳宇]]編集『日本映画は生きている 第4巻』[[岩波書店]]、2010年、p269</ref>。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ<ref>『私の東映30年』、p146</ref>。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け<ref name="日本の映画人"/><ref name="財界201167"/><ref>[[小林久三]]『日本映画を創った男-城戸四郎伝』、[[新人物往来社]]、1999年、p347-353</ref>、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任<ref name="日本の映画人"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref name="toei-kyoto">[http://www.toei-kyoto.com/about/hisory.html 東映京都のあゆみ|東映京都ナビ|]</ref><ref name="studios.toei-kyoto">[http://www.studios.toei-kyoto.com/about/history.html 撮影所年表|東映株式会社 京都撮影所|Toei Studios Kyoto]</ref><ref name="東映京都・テレビ映画">『東映京都・テレビ映画25年』東映京都スタジオ、1982年、p1</ref><ref>春日太一『時代劇は死なず!』、集英社、2008年、p32、33</ref>。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった<ref name="風雲映画城83125"/>。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや[[東映アニメーション|東映動画]]へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った<ref name="朝日新聞2011517"/><ref name="岡田茂自伝140145"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/5543642/ “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で(ZAKZAK(夕刊フジ)]</ref>。大監督や大スターも受け入れてくれた事で[[テレビ映画]]の地位は高まった<ref name="岡田茂自伝140145"/><ref>[[大下英治]] 日本ヒーローは世界を制す』、[[角川書店]]、1995年、p113</ref>。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけだが、当時[[東京オリンピック]]を前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった<ref>春日太一『時代劇は死なず!』、p32、33</ref>。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった<ref>大谷信義[[松竹]]会長談([[日本経済新聞]]、2011年5月10日13面)。</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110509/enn1105091555017-n1.htm “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で - 芸能 - ZAKZAK]</ref>。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた<ref name="tobunken">[http://www.tobunken.com/news/news20110511122403.html 唐沢俊一ホームページ :: ニュース :: イベント :: 5月11日投稿]</ref>。[[東映動画]]については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。
[[1964年]]、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作るが大失敗<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="秘宝2_271-276" /><ref name="波瀾_132-134" />。この時撮影所に量産のため、[[非正規雇用|臨時雇用]]の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた<ref name="私の30年_125-127" />。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大[[リストラ]]を断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="悔いなき_147-153" /><ref name="波瀾_140-145" /><ref name="山形国際_呉徳洙" />。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="映画人_12"/><ref name="産経MSN20110514_産経抄"/><ref name="朝日新聞20110517_26" /><ref name="財界20110607_60-62" /><ref name="読売新聞20110510web_訃報" />。京撮で製作された任侠映画第一作が[[1964年]]高倉健の初主演作『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』<ref name="キネ旬2011071_43-44" /><ref name="生きている4_269" />。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ<ref name="私の30年_146" />。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け<ref name="映画人_12"/><ref name="財界20110607_60-62"/><ref name="城戸四郎伝_347-353" />、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任<ref name="映画人_12"/><ref name="キネ旬2011071_47-52"/><ref name="0東映_京都のあゆみ" /><ref name="0東映_年表京都" /><ref name="0東映京都25年_1" /><ref name="死なず_32-33" />。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった<ref name="風雲_83-88_104-125"/>。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや[[東映アニメーション|東映動画]]へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った<ref name="朝日新聞20110517_26"/><ref name="波瀾_140-145"/><ref name="キネ旬2011071_47-52"/><ref name="ZAKZAK20110509_死去" />。大監督や大スターも受け入れてくれた事で[[テレビ映画]]の地位は高まった<ref name="波瀾_140-145"/><ref name="日本ヒーロー_113" />。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけだが、当時[[東京オリンピック]]を前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった<ref name="死なず_32-33" />。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった<ref name="日本経済新聞20110510_13" /><ref name="ZAKZAK20110509_死去" />。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた<ref name="唐沢俊一公式_20110511" />。[[東映動画]]については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている<ref name="クロニクル2_1-8"/>。


[[テレビ映画]]に本格的に参入を図った岡田は、特に[[関西]]のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した<ref>[[大下英治]] 日本ヒーローは世界を制す』、[[角川書店]]、1995年、p72</ref>。当時、[[電通]]大阪支社企画室長だった入江雄三を介して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の芝田研三副社長と東映テレビ次長・[[渡邊亮徳]]を引き合わせた。時代劇に[[特撮]]をプラスした『[[仮面の忍者 赤影]]』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの<ref>『日本ヒーローは世界を制す』、p72-テレビドラマ74</ref>。ここからは[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]の『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』、[[近衛十四郎]]の『[[柳生武芸帳#テレビドラマ|柳生武芸帳]]』、[[杉良太郎]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]の『[[遠山の金さん (テレビ朝日)|遠山の金さん]]』、高橋英樹の『[[桃太郎侍#テレビドラマ版概要|桃太郎侍]]』などを生んだ<ref name="悔いなきわが映画人生147153"/><ref name="東映京都・テレビ映画"/><ref>『日本ヒーローは世界を制す』、p113</ref>。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った<ref name="toei-kyoto"/><ref name="studios.toei-kyoto"/><ref name="東映京都・テレビ映画"/><ref>『小説東映 映画三国志』、p236</ref>。当時フジテレビは[[虫プロ]]作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『[[ゲゲゲの鬼太郎 (アニメ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』以降に繋がる<ref>『日本ヒーローは世界を制す』、p113</ref>。[[1969年]]から始まった『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]から協力を依頼され製作を受注したもの<ref name="悔いなきわが映画人生330331">『悔いなきわが映画人生』、p330-331</ref>。本作は[[1967年]]発足した東映京都製作所(のち[[東映太秦映像|太秦映像]])が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した<ref name="東映京都・テレビ映画"/>。その他、[[1968年]]の[[テレビドラマ]][[大奥 (テレビドラマ)|大奥]]は、岡田が企画した映画『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる<ref name="東映京都・テレビ映画"/><ref>『キネ報』2011年7月上旬号、p44</ref>。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と[[渡辺岳夫]]にテーマ曲を依頼した<ref>加藤義彦、鈴木啓之、濱田高志『作曲家・渡辺岳夫の肖像』、ブルース・インターアクションズ、2010年</ref>。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった<ref name="岡田茂自伝158164"/>。関西テレビからは、「この{{Color|black|&#12953;}}だけは困る。題名は{{Color|black|&#12953;}}はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという<ref>『小説東映 映画三国志』、p236<br />[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ]</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p148<br />「映画秘宝」2007年8月号、p83<br />春日太一『時代劇は死なず!』、p222-225</ref>。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、『大奥』の成功はその後、『[[長谷川伸シリーズ]]』、[[松平健]]の『[[暴れん坊将軍]]』、[[千葉真一]]の『[[服部半蔵 影の軍団]]』など、主として異色時代劇の分野を開拓した<ref name="東映京都・テレビ映画"/>。当時他の映画会社はテレビに消極的で、おかげで東映のシェアは50%超を占め、現在も40%台を確保し大きな柱となっている<ref name="日本の映画人"/>。
[[テレビ映画]]に本格的に参入を図った岡田は、特に[[関西]]のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した<ref name="日本ヒーロー_72" />。当時、[[電通]]大阪支社企画室長だった入江雄三を介して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]の芝田研三副社長と東映テレビ次長・[[渡邊亮徳]]を引き合わせた。時代劇に[[特撮]]をプラスした『[[仮面の忍者 赤影]]』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの<ref name="日本ヒーロー_72-74" />。ここからは[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]の『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』、[[近衛十四郎]]の『[[柳生武芸帳#テレビドラマ|柳生武芸帳]]』、[[杉良太郎]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]の『[[遠山の金さん (テレビ朝日)|遠山の金さん]]』、高橋英樹の『[[桃太郎侍#テレビドラマ版概要|桃太郎侍]]』などを生んだ<ref name="悔いなき_147-153"/><ref name="0東映京都25年_1"/><ref name="日本ヒーロー_113" />。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った<ref name="0東映_京都のあゆみ"/><ref name="0東映_年表京都"/><ref name="0東映京都25年_1"/><ref name="三国志_236" />。当時フジテレビは[[虫プロ]]作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『[[ゲゲゲの鬼太郎 (アニメ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』以降に繋がる<ref name="日本ヒーロー_113" />。[[1969年]]から始まった『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]から協力を依頼され製作を受注したもの<ref name="悔いなき_330-331" />。本作は[[1967年]]発足した東映京都製作所(のち[[東映太秦映像|太秦映像]])が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した<ref name="0東映京都25年_1"/>。その他、[[1968年]]の[[テレビドラマ]][[大奥 (テレビドラマ)|大奥]]は、岡田が企画した映画『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる<ref name="0東映京都25年_1"/><ref name="キネ旬2011071_44" />。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と[[渡辺岳夫]]にテーマ曲を依頼した<ref name="渡辺岳夫の肖像_XX" />。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった<ref name="波瀾_158-164"/>。関西テレビからは、「この{{Color|black|&#12953;}}だけは困る。題名は{{Color|black|&#12953;}}はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという<ref name="三国志_236" /><ref name="メッセージjp20050515_岡田茂" /><ref name="悔いなき_148" /><ref name="秘宝200708_83" /><ref name="死なず_222-225" />。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、『大奥』の成功はその後、『[[長谷川伸シリーズ]]』、[[松平健]]の『[[暴れん坊将軍]]』、[[千葉真一]]の『[[服部半蔵 影の軍団]]』など、主として異色時代劇の分野を開拓した<ref name="0東映京都25年_1"/>。当時他の映画会社はテレビに消極的で、おかげで東映のシェアは50%超を占め、現在も40%台を確保し大きな柱となっている<ref name="映画人_12"/>。


東映はこの年、東急グループを離脱した<ref name="小説東急王国"/>。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し[[北島三郎]]の『[[兄弟仁義]]』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた<ref name="sankei110511"/><ref>[[サンケイスポーツ]]、2011年5月10日18面</ref>。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。[[1966年]]、借金で松竹をクビになった[[藤山寛美]]を一時東映に籍を置かせる<ref name="悔いなきわが映画人生251252">『悔いなきわが映画人生』、p251-252</ref>。[[1967年]]、[[松竹]]にいた[[菅原文太]]を東映に移籍させ、[[安藤昇]]を東映出演させた<ref name="岡田茂自伝219223">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p219-223</ref><ref>安藤は松竹退社後はフリーという([[別冊宝島]] (922)『ヤクザが認めた任侠映画』
東映はこの年、東急グループを離脱した<ref name="小説東急王国_247-257"/>。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し[[北島三郎]]の『[[兄弟仁義]]』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた<ref name="産経MSN20110511_富司純子"/><ref name="サンスポ20110510_18" />。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。[[1966年]]、借金で松竹をクビになった[[藤山寛美]]を一時東映に籍を置かせる<ref name="悔いなき_251-252" />。[[1967年]]、[[松竹]]にいた[[菅原文太]]を東映に移籍させ、[[安藤昇]]を東映出演させた<ref name="波瀾_219-223" /><ref group="注釈">安藤は松竹退社後はフリーという([[#ヤクザが認めた|ヤクザが認めた任侠映画]]p6)。</ref>。[[1969年]]、[[渡瀬恒彦]]をスカウト<ref name="BIGtomorrow200910_52" /><ref name="0東映_渡瀬恒彦" />。[[1966年]]常務、[[1968年]]秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任、岡田が音頭を取った所謂「エログロ路線」「好色路線」が、この前後から本格化した<ref name="任侠伝_66-67_116他"/>。[[1971年]]テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握<ref name="映画人_12"/>。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅が[[ボウリング]]、[[タクシー]]、[[ホテル]]などの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた<ref name="クロニクル2_1-8"/>。これに[[労働組合|労組]]が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって[[竹井博友]]ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地を[[ロックアウト]]を決行し何とか乗り切った<ref name="波瀾_198-201" /><ref name="歴史が眠る多磨霊園_大川博" /><ref name="文化通信ジャーナル200903_77" />。
、2003年、p6)。</ref>。[[1969年]]、[[渡瀬恒彦]]をスカウト<ref name="BIG tomorrow">[[BIG tomorrow]] [[青春出版社]]、2009年10月号、p52</ref><ref name="meistervol9">[http://www.toei.co.jp/meister/vol9/detail/01.html 渡瀬恒彦さん登場!奈村所長と語る『東映京都撮影所』 | 東映]</ref>。[[1966年]]常務、[[1968年]]秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任、岡田が音頭を取った所謂「エログロ路線」「好色路線」が、この前後から本格化した<ref name="任侠映画伝"/>。[[1971年]]テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握<ref name="日本の映画人"/>。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅が[[ボウリング]]、[[タクシー]]、[[ホテル]]などの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。これに[[労働組合|労組]]が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって[[竹井博友]]ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地を[[ロックアウト]]を決行し何とか乗り切った<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p198-201</ref><ref name="ookawa">[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ookawa_h.html 歴史が眠る多磨霊園 大川博]</ref><ref name="文化通信ジャーナル">文化通信ジャーナル2009年3月号、p77</ref>。


大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線だったし、[[今田智憲]]も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周りに「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が逝去。毅が「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また[[五島昇]]の推しもあって社長に就任する<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p204-209</ref>。東映動画(現・[[東映アニメーション]])会長兼任。不採算の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]を[[日拓ホーム]]に譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営し全国32あった東映[[ボウリング]]センターの大半を売り合理化をさらに推進した<ref>小説東映 映画三国志、p289-p297</ref><ref name="ookawa"/><ref name="hochi.yomiuri"/><ref name="eiga20110519">[http://eiga.com/news/20110519/11/ 東映名誉会長・岡田茂氏、9日肺炎のため死去 : 映画ニュース - 映画.com]</ref>。
大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線だったし、[[今田智憲]]も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周りに「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が逝去。毅が「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また[[五島昇]]の推しもあって社長に就任する<ref name="波瀾_204-209" />。東映動画(現・[[東映アニメーション]])会長兼任。不採算の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]を[[日拓ホーム]]に譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営し全国32あった東映[[ボウリング]]センターの大半を売り合理化をさらに推進した<ref name="三国志_289-297" /><ref name="歴史が眠る多磨霊園_大川博"/><ref name="スポーツ報知20110510web_訃報"/><ref name="映画.com20110519_肺炎" />。


=== 多角経営への道 ===
=== 多角経営への道 ===
一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜<ref name="楊 紅雲"/><ref name="日本映画の現在">緑川亨『日本映画の現在 講座 日本映画7』、[[岩波書店]]、1988年、19、33-36、208、304-306、347頁</ref><ref>中島貞夫『映像のスリット わが映画人生』 芸艸堂、1987年、p185、186<br />[[小沢茂弘]]・高橋聡『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』 ワイズ出版、[[1996年]]、p70</ref>。[[菅原文太]]の『[[仁義なき戦い]]』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「エログロ映画」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="日本映画の現在"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="eiga-chirashi">[http://eiga-chirashi.jp/090821/090821000002.pdf 新文芸坐]</ref><ref>『任侠映画』、p224-228</ref>。「実録映画」という呼称は、[[1972年]]の[[イタリアの映画|イタリア映画]]『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『[[仁義なき戦い]]』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの<ref name="日本映画の現在"/><ref>『映画100物語 日本映画篇 1921―1995』、[[読売新聞社]]、1995年、p167</ref>。「実録路線」はスタンダード化し、その後の[[Vシネマ]]などでも、実録でなければ売れないという公式が確立された<ref name="ヤクザが認めた任侠映画134141">別冊宝島 (922)『ヤクザが認めた任侠映画』、p134-141</ref>。「エログロ路線」では、抜擢した[[天尾完次]]プロデューサーが、石井輝男や[[鈴木則文]]とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“[[ポルノ]]”という言葉を移植、[[池玲子]]の売り出しに“日本の[[ポルノ女優]]第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった<ref>小説東映 映画三国志、p288<br />[[杉作J太郎]]・植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、徳間書店、1999年、p102</ref><ref name="悪趣味邦画劇場259262">『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、p259-262</ref>。1972年から始まる“[[日活ロマンポルノ]]”が“[[ポルノ]]”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である<ref name="悪趣味邦画劇場259262"/>。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった[[三原葉子]]、[[谷ナオミ]]、[[賀川雪絵]]ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした<ref>[[別冊宝島]] 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史、[[宝島社]]、2008年、p138-p139<br />Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2、シンコーミュージック・エンタテイメント、p136</ref>。これを皮切りに日活の野良猫ロックシリーズに対抗して池玲子、[[杉本美樹]]、[[大信田礼子]]らの女番長・ずべ公番長シリーズ<ref name="toeininkyo"/>、[[梶芽衣子]]、[[多岐川裕美]]、[[夏樹陽子]]らの[[女囚さそりシリーズ]]などを編み出し<ref name="toeininkyo"/><ref>[[画秘宝]]、[[洋泉社]]、20089p81</ref>
一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜<ref name="多元文化4_楊"/><ref name="日本映画の現在_19_33-36他" /><ref name="映像のスリット_185-186" /><ref name="困った_70" />。[[菅原文太]]の『[[仁義なき戦い]]』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「エログロ映画」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="日本映画の現在_19_33-36他"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="映画チラシサイト_新文芸坐石井輝男" /><ref name="任侠伝_224-228" />。「実録映画」という呼称は、[[1972年]]の[[イタリアの映画|イタリア映画]]『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『[[仁義なき戦い]]』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの<ref name="日本映画の現在_19_33-36他"/><ref name="映画100物語_167" />。「実録路線」はスタンダード化し、その後の[[Vシネマ]]などでも、実録でなければ売れないという公式が確立された<ref name="ヤクザが認めた_134-141" />。「エログロ路線」では、抜擢した[[天尾完次]]プロデューサーが、石井輝男や[[鈴木則文]]とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“[[ポルノ]]”という言葉を移植、[[池玲子]]の売り出しに“日本の[[ポルノ女優]]第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった<ref name="三国志_288"/><ref name="ピンキー_102"/><ref name="秘宝2_259-262" />。1972年から始まる“[[日活ロマンポルノ]]”が“[[ポルノ]]”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である<ref name="秘宝2_259-262"/>。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった[[三原葉子]]、[[谷ナオミ]]、[[賀川雪絵]]ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした<ref name="流行り歌_138-139"/><ref name="Hotwax2_136" />。これを皮切りに日活の野良猫ロックシリーズに対抗して池玲子、[[杉本美樹]]、[[大信田礼子]]らの女番長・ずべ公番長シリーズ<ref name="0東映_任侠・実録"/>、[[梶芽衣子]]、[[多岐川裕美]]、[[夏樹陽子]]らの[[女囚さそりシリーズ]]などを編み出し<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="秘宝200809_81" />エロ映画を量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって[[]]原作を実写化するきっかけとなった<ref name="Hotwax2_20" /><ref name="秘宝2_170" />。[[クエンティン・タランティーノ|タランティーノ]]の影響から2000年代に日本国外で続々[[DVD]]化されており再評価(初評価)が進む。[[1970年]]前後には他の二倍近い興行収入を上げた<ref name="多元文化4_楊"/>。しかしこの後、[[カンフー]]ブームが来て併映作品として始めた[[千葉真一]]、[[志穂美悦子]]らの空手映画が受けると、ポルノ映画の主流が日活、[[大蔵映画]]などに移ったこともあってポルノ路線をアッサリ切り捨てた<ref name="SummaArs_殺人拳" /><ref name="スポーツ報知20110510_19" />。[[1972]]6月、全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部([[テレビランド]]の創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった<ref name="クロニクル2_57" />。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部が[[レコード]]の[[原盤権|原盤]]やPR映画の制作、[[演劇]]公演やアニメーションフェスティバル、[[博覧会|地方博]]の[[パビリオン]]の映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」など文化事業を手掛けた<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="クロニクル2_67" /><ref name="クロニクル1_354" />。[[1975年]]には撮影所の有効利用策として、我が国[[テーマパーク]]のはしりとも言うべき[[東映太秦映画村]]をオープンした<ref name="キネ旬映画40年_15"/><ref name="毎日新聞20110509web_訃報" /><ref name="週刊朝日19780303_40" /><ref name="映画人_12"/><ref name="映画村10年_82-83" />。
エロ映画を量産した。「女囚さそりシリーズ」の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって[[劇画]]原作を実写化するきっかけとなった<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2、p20<br />『映画秘宝Vol.2 悪趣味邦画劇場』、[[洋泉社]]、1995年、p170</ref>。[[クエンティン・タランティーノ|タランティーノ]]の影響から、2000年代に日本国外で続々[[DVD]]化されており再評価(初評価)が進む。[[1970年]]前後には他社の二倍近い興行収入を上げた<ref name="楊 紅雲"/>。しかしこの後、[[カンフー]]ブームが来て併映作品として始めた[[千葉真一]]、[[志穂美悦子]]らの空手映画が受けると、ポルノ映画の主流が日活、[[大蔵映画]]などに移ったこともあってポルノ路線をアッサリ切り捨てた<ref name="satsujinken">[http://summaars.net/satsujinken.html 激突!殺人拳 -SummaArs 藝術大全]</ref><ref name="スポーツ報知2011510">[[スポーツ報知]]、2011年5月10日19面</ref>。[[1972年]]6月、全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部([[テレビランド]]の創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p57</ref>。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部が[[レコード]]の[[原盤権|原盤]]やPR映画の制作、[[演劇]]公演やアニメーションフェスティバル、[[博覧会|地方博]]の[[パビリオン]]の映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」など文化事業を手掛けた<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p67</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p354</ref>。[[1975年]]には撮影所の有効利用策として、我が国[[テーマパーク]]のはしりとも言うべき[[東映太秦映画村]]をオープンした<ref name="映画40年"/><ref>[http://124.83.167.158/select/person/obituaries/archive/news/2011/05/09/20110509dde001060017000c.html 訃報:岡田茂さん 87歳=映画プロデューサー、東映名誉会長 - 毎日新聞]</ref><ref>[[週刊朝日]]、1978年3月3日号、40頁</ref><ref name="日本の映画人"/><ref name="映画村10年の歩み">『映画村10年の歩み』「映画村10年の歩み」編集委会、1985年、82、83頁</ref>。


大川からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出<ref name="クロニクル東映189">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p189</ref><ref name="ロードショー19763">「[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]」、[[集英社]]、1976年3月号、p196-p199</ref>。とくに[[ブルース・リー]]と[[アラン・ドロン]]の買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす<ref name="ロードショー19763"/>。この洋画部は[[香港]]製の[[カンフー映画]]だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった<ref name="映画40年">『映画40年 全記録』キネマ旬報増刊、1986年2月13日号、p15</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p67</ref>。洋画部は『[[ドラゴンへの道]]』や『[[ル・ジタン]]』『[[流されて…]]』『[[課外授業 (映画)|課外授業]]』『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品)|魔女の宅急便]]』『[[四季・奈津子]]』『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』や、[[後藤久美子 (女優)|後藤久美子]]主演の『[[ラブ・ストーリーを君に]]』『ガラスの中の少女』、[[ポルノ]]史上最高の大ヒットとなった『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』や[[ポーランド]]映画の名作『[[灰とダイヤモンド]]』、[[アル・パチーノ]]主演・[[ウィリアム・フリードキン]]監督の[[ハードゲイ]]映画『クルージング』『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』などを配給した<ref name="tobunken"/><ref name="私の履歴書38">『私の履歴書 経済人38』、p75</ref><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p61</ref>。また、『[[それから#映画|それから]]』(1985年)などを自主製作した<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p80</ref>。[[1973年]][[テレビランド]]を[[徳間書店]]に移す<ref name="三流週刊誌編集部">佐々木崇夫『三流週刊誌編集部 -- アサヒ芸能と徳間康快の思い出』バジリコ、2006年、p295、296</ref>。東映本体の制作では『[[トラック野郎]]』シリーズや<ref name="toeininkyo"/><ref>『小説東映 映画三国志』、p307</ref>、[[フランス]]で大ヒットした『[[新幹線大爆破]]』<ref>『私の東映30年』、p160、161</ref>、『[[青春の門#映画版|青春の門]]』『[[河内のオッサンの唄]]』、[[横山やすし]]主演の『[[唐獅子株式会社]]』、[[田中美佐子]]の映画デビュー作『[[ダイアモンドは傷つかない#映画|ダイアモンドは傷つかない]]』、[[シブがき隊]]主演『[[ヘッドフォン・ララバイ]]』や、『[[柳生一族の陰謀]]』『[[二百三高地]]』『[[動乱 (映画)|動乱]]』『[[制覇]]』<ref>『小説東映 映画三国志』、p309</ref>などの大作を生んだ。正面から[[日露戦争]]を描きたいと[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた<ref>『映画はやくざなり』、笠原和夫、p91-97</ref>。フジテレビを退社した[[五社英雄]]をカムバックさせ『[[鬼龍院花子の生涯]]』、「[[極道の妻たち]]シリーズなど"女性文芸大作路線"を生み出した<ref name="toeininkyo"/><ref name="クロニクル東映314315">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p314-315、342-343</ref>。[[1975年]][[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]と提携<ref>[[朝日新聞]]、1975年10月29日刊、p7</ref>。カンフーブームで買い付けた『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ジャッキー・チェン]]映画で、ジャッキーフィーバーを起こした<ref name="dragon">[http://www11.big.or.jp/~dragon/event/19990503_finalwarning.html 新宿ロフト/プラスワン ザ・ファイナル・ウォーニング]</ref>。また労組問題で混乱していた系列の[[東映アニメーション|東映動画]]に[[1974年]]、親友の[[今田智憲]]を社長に据えて建て直し『[[キャンディ・キャンディ]]』や『[[UFOロボ グレンダイザー]]』『[[銀河鉄道999]]』『[[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]]』『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』『[[北斗の拳]]』『[[聖闘士星矢]]』『[[美少女戦士セーラームーン (アニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』『[[SLAM DUNK|スラムダンク]]』などの作品を生み、日本アニメ海外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を[[西崎義展]]から買い付けしたのを手始めに、続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた<ref name="eiga20110519"/><ref name="私の履歴書38"/><ref name="business.nikkeibp"/><ref name="animagedon">[http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201004120034.html asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは文芸もの」だった?]</ref><ref>『悔いなきわが映画人生』、p183</ref>。『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』が1977年8月に劇場公開されたとき、"アニメブーム"なる言葉が生まれ<ref name="映画40年"/>、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった<ref>緑川亨『日本映画の現在 講座 日本映画7』、[[岩波書店]]、1988年、20頁</ref>。
大川からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出<ref name="クロニクル1_189" /><ref name="ロードショー197603_196-199" />。とくに[[ブルース・リー]]と[[アラン・ドロン]]の買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。この洋画部は[[香港]]製の[[カンフー映画]]だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった<ref name="キネ旬映画40年_15" /><ref name="クロニクル2_67" />。洋画部は『[[ドラゴンへの道]]』や『[[ル・ジタン]]』『[[流されて…]]』『[[課外授業 (映画)|課外授業]]』『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[魔女の宅急便 (スタジオジブリ作品)|魔女の宅急便]]』『[[四季・奈津子]]』『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』『[[黒い雨 (映画)|黒い雨]]』や、[[後藤久美子 (女優)|後藤久美子]]主演の『[[ラブ・ストーリーを君に]]』『ガラスの中の少女』、[[ポルノ]]史上最高の大ヒットとなった『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』や[[ポーランド]]映画の名作『[[灰とダイヤモンド]]』、[[アル・パチーノ]]主演・[[ウィリアム・フリードキン]]監督の[[ハードゲイ]]映画『クルージング』『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』などを配給した<ref name="唐沢俊一公式_20110511"/><ref name="私の履歴書_75" /><ref name="クロニクル2_61" />。また、『[[それから#映画|それから]]』(1985年)などを自主製作した<ref name="クロニクル2_80" />。[[1973年]][[テレビランド]]を[[徳間書店]]に移す<ref name="三流週刊誌_295-296" />。東映本体の制作では『[[トラック野郎]]』シリーズや<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="三国志_307" />、[[フランス]]で大ヒットした『[[新幹線大爆破]]』<ref name="私の30年_160-161" />、『[[青春の門#映画版|青春の門]]』『[[河内のオッサンの唄]]』、[[横山やすし]]主演の『[[唐獅子株式会社]]』、[[田中美佐子]]の映画デビュー作『[[ダイアモンドは傷つかない#映画|ダイアモンドは傷つかない]]』、[[シブがき隊]]主演『[[ヘッドフォン・ララバイ]]』や、『[[柳生一族の陰謀]]』『[[二百三高地]]』『[[動乱 (映画)|動乱]]』『[[制覇]]』<ref name="三国志_309" />などの大作を生んだ。正面から[[日露戦争]]を描きたいと[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた<ref name="やくざなり_91-97" />。フジテレビを退社した[[五社英雄]]をカムバックさせ『[[鬼龍院花子の生涯]]』[[極道の妻たち]]シリーズなど女性文芸大作路線を生み出した<ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="クロニクル1_314-315他" />。[[1975年]][[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]と提携<ref name="朝日新聞19751029_7" />。カンフーブームで買い付けた『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ジャッキー・チェン]]映画で、ジャッキーフィーバーを起こした<ref name="李小龍的伝説_19990503" />。また労組問題で混乱していた系列の[[東映アニメーション|東映動画]]に[[1974年]]、親友の[[今田智憲]]を社長に据えて建て直し『[[キャンディ・キャンディ]]』や『[[UFOロボ グレンダイザー]]』『[[銀河鉄道999]]』『[[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]]』『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』『[[北斗の拳]]』『[[聖闘士星矢]]』『[[美少女戦士セーラームーン (アニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』『[[SLAM DUNK|スラムダンク]]』などの作品を生み、日本アニメ海外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を[[西崎義展]]から買い付けしたのを手始めに、続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた<ref name="映画.com20110519_肺炎"/><ref name="私の履歴書_75"/><ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの" /><ref name="悔いなき_183" />。『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』が1977年8月に劇場公開されたとき、アニメブームなる言葉が生まれ<ref name="キネ旬映画40年_15"/>、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった<ref name="日本映画の現在_20" />。


[[1970年代]]後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p232-233</ref>。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの<ref name="日本映画1984 ">『シネアルバム 日本映画1984 1983年公開映画全集』、p86-89</ref>。[[1983年]]に[[東陽一]]に撮らせた『[[セカンド・ラブ (映画)|セカンド・ラブ]]』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは0の映画であった<ref name="日本映画1984 "/>。外部[[ノウハウ (知的財産権)|ノウハウ]]を起用し<ref name="キネ旬19791">キネマ旬報、1979年1月下旬号、p97</ref>[[角川春樹]]とタッグを組んで、『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』『[[野性の証明]]』『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』『[[蘇える金狼#映画|蘇える金狼]]』『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし ]]』『[[悪霊島#映像化リスト|悪霊島]]』『[[スローなブギにしてくれ#映画|スローなブギにしてくれ]]』『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]]』『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』『[[麻雀放浪記#映画 麻雀放浪記|麻雀放浪記]]』『[[天と地と#映画|天と地と]]』など、一連の[[角川映画]]を手掛け一時代を築く<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="eiga20110519"/><ref name="キネ旬201174752"/><ref name="キネ旬201176364">[[キネマ旬報]]、2011年7月上旬号、p63-64</ref><ref name="角川春樹">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm 角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去]</ref><ref>『悔いなきわが映画人生』、p182-183<br />クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p309</ref>。その他、自主上映で人気を得ていた柳町光男監督の『[[ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR]]』(1976年)、[[松田聖子]]のデビュー映画で[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]との提携『[[野菊の墓 (映画)|野菊の墓]]』(1981年)、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と提携した『[[誘拐報道]]』(1982年)、[[今村昌平]]の今村プロダクションと共同製作して[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを獲った『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』(1983年)、[[寺山修司]]監督の『[[草迷宮 (映画)|草迷宮]]』(1883年公開)、全真言宗青年連盟との提携『[[空海 (映画)|空海]]』(1984年)などを提携(買取りを含む)、配給した<ref>『悔いなきわが映画人生』、p184</ref>。
[[1970年代]]後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした<ref name="波瀾_232-233" />。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの<ref name="シネアルバム108_86-89" />。[[1983年]]に[[東陽一]]に撮らせた『[[セカンド・ラブ (映画)|セカンド・ラブ]]』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは0の映画であった<ref name="シネアルバム108_86-89"/>。外部[[ノウハウ (知的財産権)|ノウハウ]]を起用し<ref name="キネ旬1979012_97" />[[角川春樹]]とタッグを組んで、『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』『[[野性の証明]]』『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』『[[蘇える金狼#映画|蘇える金狼]]』『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし ]]』『[[悪霊島#映像化リスト|悪霊島]]』『[[スローなブギにしてくれ#映画|スローなブギにしてくれ]]』『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]]』『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』『[[麻雀放浪記#映画 麻雀放浪記|麻雀放浪記]]』『[[天と地と#映画|天と地と]]』など、一連の[[角川映画]]を手掛け一時代を築く<ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="映画.com20110519_肺炎"/><ref name="キネ旬2011071_47-52"/><ref name="キネ旬2011071_63-64" /><ref name="スポーツ報知20110510web_角川春樹" /><ref name="悔いなき_182-183" /><ref name="クロニクル1_309" />。その他、自主上映で人気を得ていた柳町光男監督の『[[ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR]]』(1976年)、[[松田聖子]]のデビュー映画で[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]との提携『[[野菊の墓 (映画)|野菊の墓]]』(1981年)、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と提携した『[[誘拐報道]]』(1982年)、[[今村昌平]]の今村プロダクションと共同製作して[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを獲った『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』(1983年)、[[寺山修司]]監督の『[[草迷宮 (映画)|草迷宮]]』(1883年公開)、全真言宗青年連盟との提携『[[空海 (映画)|空海]]』(1984年)などを提携(買取りを含む)、配給した<ref name="悔いなき_184" />。


[[テレビ映画]]に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『[[暴れん坊将軍]]』『[[遠山の金さん]]』などの時代劇、『[[特別機動捜査隊]]』『[[鉄道公安36号]]』などの現代劇<ref>『悔いなきわが映画人生』、p148</ref>、『[[さすらい刑事旅情編]]』に始まる刑事シリーズ、初の[[2時間ドラマ]]として特筆される『[[土曜ワイド劇場]]』、一世を風靡した『[[ジャイアントロボ]]』『[[仮面ライダー]]』([[仮面ライダーシリーズ]])、『[[人造人間キカイダー]]』『[[バロム・1#特撮テレビドラマ『超人バロム・1』|超人バロム・1]]』などの[[特撮テレビ番組一覧|特撮変身ヒーローもの]]、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』などの[[スーパー戦隊シリーズ]]、『[[宇宙刑事ギャバン]]』から始まる[[メタルヒーローシリーズ]]、『[[柔道一直線]]』『[[スケバン刑事 (ドラマ第1作)|スケバン刑事]]』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在[[キャラクター商品]]の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている<ref>『悔いなきわが映画人生』、p187</ref>。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため[[1980年]]、日活から[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]を引きぬき、少数予算で映画を制作する[[セントラルアーツ]]を設立<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref name="映画40年"/><ref name="映画秘宝2010年12月">映画秘宝、2010年12月号、p39-46</ref><ref name="仙元誠三">[http://www.moment.gr.jp/2/interview.html talk & interview: 仙元誠三]</ref><ref name="シネマヴェーラ">[http://www.cinemavera.com/timetable.html?no=51 シネマヴェーラ | タイムテーブル]</ref><ref name="キネ旬19791"/>。ここからは[[カラオケ]]ビデオや『[[Vシネマ]]』<ref name="toeininkyo"/>、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[松田優作]]の[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』『ドラマ[[探偵物語]]』、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、[[あぶない刑事]]シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』<ref name="toeininkyo"/>、『[[新宿純愛物語]]』などの[[仲村トオル]]主演映画、『[[少林寺木人拳]]』などのカンフー映画、『[[下落合焼とりムービー]]』『[[狂い咲きサンダーロード]]』『[[爆裂都市 BURST CITY]]』『[[水のないプール]]』『[[純]]』『[[泥の河]]』『[[竜二]]』『[[魔の刻]]』、[[長渕剛]]の『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』などを生んだ(独立系作品の配給も含む)<ref name="映画秘宝2010年12月"/><ref>『悔いなきわが映画人生』、p184<br />ベスト・オブ・キネマ旬報 1967―1993』、p1120-1122<br />クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p65<br />『シネアルバム 日本映画1979 1978年公開映画全集』、p182</ref>。[[ビデオテープレコーダ|家庭用ビデオデッキ]]の普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ([[アダルトビデオ]])が爆発的に売れた<ref>週刊新潮、1982年2月4日号、p13</ref>。[[1980年]]、[[東急グループ]]の興行会社・[[東急レクリエーション]]社長に就任、16年ぶりに[[東急グループ]]に復縁し、[[五島慶太]]・[[五島昇]]に対する不義理を解いた<ref name="財界201167"/><ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p233</ref>。[[1984年]]日本衛星放送([[WOWOW]])設立で非常勤取締役(〜2001年)<ref>
[[テレビ映画]]に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『[[暴れん坊将軍]]』『[[遠山の金さん]]』などの時代劇、『[[特別機動捜査隊]]』『[[鉄道公安36号]]』などの現代劇<ref name="悔いなき_148" />、『[[さすらい刑事旅情編]]』に始まる刑事シリーズ、初の[[2時間ドラマ]]として特筆される『[[土曜ワイド劇場]]』、一世を風靡した『[[ジャイアントロボ]]』『[[仮面ライダー]]』([[仮面ライダーシリーズ]])、『[[人造人間キカイダー]]』『[[バロム・1#特撮テレビドラマ『超人バロム・1』|超人バロム・1]]』などの[[特撮テレビ番組一覧|特撮変身ヒーローもの]]、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』などの[[スーパー戦隊シリーズ]]、『[[宇宙刑事ギャバン]]』から始まる[[メタルヒーローシリーズ]]、『[[柔道一直線]]』『[[スケバン刑事 (ドラマ第1作)|スケバン刑事]]』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在[[キャラクター商品]]の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている<ref name="悔いなき_187" />。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため[[1980年]]、日活から[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]を引きぬき、少数予算で映画を制作する[[セントラルアーツ]]を設立<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="キネ旬映画40年_15"/><ref name="秘宝201012_39-46" /><ref name="moment_仙元誠三" /><ref name="シネマヴェーラ_20090207" /><ref name="キネ旬1979012_97"/>。ここからは[[カラオケ]]ビデオや『[[Vシネマ]]』<ref name="0東映_任侠・実録"/>、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[松田優作]]の[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』『ドラマ[[探偵物語]]』、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、[[あぶない刑事]]シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』<ref name="0東映_任侠・実録"/>、『[[新宿純愛物語]]』などの[[仲村トオル]]主演映画、『[[少林寺木人拳]]』などのカンフー映画、『[[下落合焼とりムービー]]』『[[狂い咲きサンダーロード]]』『[[爆裂都市 BURST CITY]]』『[[水のないプール]]』『[[純]]』『[[泥の河]]』『[[竜二]]』『[[魔の刻]]』、[[長渕剛]]の『[[オルゴール (映画)|オルゴール]]』などを生んだ(独立系作品の配給も含む)<ref name="秘宝201012_39-46"/><ref name="悔いなき_184" /><ref name="キネ旬ベスト下_1120-1122" /><ref name="クロニクル2_65" /><ref name="シネアルバム72_182" />。[[ビデオテープレコーダ|家庭用ビデオデッキ]]の普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ([[アダルトビデオ]])が爆発的に売れた<ref name="週刊新潮_19820204_13" />。[[1980年]]、[[東急グループ]]の興行会社・[[東急レクリエーション]]社長に就任、16年ぶりに[[東急グループ]]に復縁し、[[五島慶太]]・[[五島昇]]に対する不義理を解いた<ref name="財界20110607_60-62"/><ref name="波瀾_233" />。[[1984年]]日本衛星放送([[WOWOW]])設立で非常勤取締役(〜2001年)<ref name="すべてを疑えnodate_呉越同「星」" /><ref name="WOWOW20010620_release" />。[[1986年]][[黒木瞳]]を『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で、映画主演デビューさせた<ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポニチ20110511web_北大路欣也" /><ref name="NEWS24_20110510_思い出" /><ref name="スポーツ報知20110510web_志穂美悦子" />。[[1993年]]、東映会長。[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]と[[孫正義]]による[[テレビ朝日]]買収を阻止した<ref name="財界20110607_60-62"/>。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="俺は最低な奴さ_280" />。[[瀬川昌治]]は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている<ref name="ごきげん映画人生_165_184-190"/>。[[日本経済新聞社]]は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、[[サンケイスポーツ]]は「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、[[松岡功 (実業家)|松岡功]]は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した<ref name="財界20110607_60-62"/><ref name="日経ビジネス20040712web_波瀾万丈" /><ref name="サンスポ20110510_訃報" />。
[http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/tv/jsb.html 検索結果呉越同「星」JSB(日本衛星放送=現WOWOW)のソフト戦略と経営展望]</ref><ref>[http://www.wowow.co.jp/stock/pdf/010620.pdf 取締役選任と常勤取締役担務について - WOWOWオンライン]</ref>。[[1986年]][[黒木瞳]]を『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で、映画主演デビューさせた<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="sponichi20110511">
[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/11/kiji/K20110511000798790.html?feature=related 悼む声続々…北大路欣也「男として憧れの的」 ― スポニチ Sponichi Annex]</ref><ref name="NEWS24">[http://www.news24.jp/entertainment/news/1617286.html 【続報】北大路欣也、富司純子ら思い出語る | 日テレNEWS24]</ref><ref name="yomiuri20110510">[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110510-OHT1T00012.htm 志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去]</ref>。[[1993年]]、東映会長。[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]と[[孫正義]]による[[テレビ朝日]]買収を阻止した<ref name="財界201167"/>。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である<ref name="岡田茂">内田裕也 俺は最低な奴さ、[[内田裕也]]、[[白夜書房]]、2009年、280頁</ref>。[[瀬川昌治]]は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている<ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/>。[[日本経済新聞社]]は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、[[サンケイスポーツ]]は「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、[[松岡功 (実業家)|松岡功]]は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した<ref name="財界201167"/><ref>[http://bizboard.nikkeibp.co.jp/kijiken/summary/20040720/NB1250H_338756a.html 本 新刊の森●パーソナル 波瀾万丈の映画人生]</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/geino/news/110510/gnj1105100506010-n1.htm|title=“ヤクザ映画の父”岡田茂氏が死去|newspaper=サンケイスポーツ|date=2011-05-10|accessdate=2011-05-20}}</ref>。


親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の[[広島弁]]は岡田の社内での罵詈雑言を[[脚本]]の[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が参考にした、という逸話を持つ<ref name="調査・取材録集成276277">『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』笠原和夫、p276、277、[[太田出版]]、2005年</ref><ref name="昭和の劇14">『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った<ref name="角川春樹"/>。[[早稲田大学]]出身で縁の無い[[小渕恵三]]の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした<ref name="スポーツッポン2011510"/><ref>[http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20110509k0000e040056000c.html 岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新企画、経営近代化 - 毎日jp ]</ref><ref>[http://www.mmjp.or.jp/akuyakusyoukai/diary01.htm 八名信夫の「出会い ふれあい 人の味」日記]</ref>。[[沢島忠]]は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」<ref name="スポーツッポン2011510"/><ref name="キネ旬201175657"/>、[[北大路欣也]]は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」と話した<ref name="sponichi20110511"/>。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。
親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の[[広島弁]]は岡田の社内での罵詈雑言を[[脚本]]の[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]が参考にした、という逸話を持つ<ref name="仁義なき集成_276-277" />。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った<ref name="スポーツ報知20110510web_角川春樹"/>。[[早稲田大学]]出身で縁の無い[[小渕恵三]]の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした<ref name="スポニチ20110510_17"/><ref name="毎日新聞20110509web_訃報" /><ref name="八名信夫公式" />。[[沢島忠]]は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」<ref name="スポニチ20110510_17"/><ref name="キネ旬2011071_56-57"/>、[[北大路欣也]]は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」と話した<ref name="スポニチ20110511web_北大路欣也"/>。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。


1971年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、[[テレビ朝日]]会長、(株)[[東急レクリエーション]]代表取締役会長など多くの要職に就く<ref name="日本の映画人"/>。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/5543642/ “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で.]</ref>。[[1978年]][[日本アカデミー賞]]の創設にも尽力<ref name="academy">[http://www.japan-academy-prize.jp/ 日本アカデミー賞公式サイト]</ref><ref name="きょうは何の日">[http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2010/04/46.html きょうは何の日 1978年4月6日「日本アカデミー賞授賞式が挙行された日」]</ref><ref>小説東映 映画三国志、[[大下英治]]著、徳間書店、1990年、p5-11<br />[[サンケイスポーツ]]、2011年5月10日18面</ref>、会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた[[2007年]]度より同賞では初めて個人名を冠した'''岡田茂賞'''が新設された<ref name="スポーツ報知2011510"/>。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/10/kiji/K20110510000789400.html|title=「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く|publisher=[[スポーツッポン]]|date=2011年5月10日}}</ref>。
1971年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、[[テレビ朝日]]会長、(株)[[東急レクリエーション]]代表取締役会長など多くの要職に就く<ref name="映画人_12"/>。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した<ref name="ZAKZAK20110509_死去" />。[[1978年]][[日本アカデミー賞]]の創設にも尽力<ref name="日本アカデミー賞公式" /><ref name="日テレDON20100406何の日" /><ref name="三国志_5-11" /><ref name="サンスポ20110510_18" />、会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた[[2007年]]度より同賞では初めて個人名を冠した'''岡田茂賞'''が新設された<ref name="スポーツ報知20110510_19"/>。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する<ref name="スポニチ20110510web_訃報" />。


その他、[[1982年]]5月、[[地方自治体]]で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー([[広島市立中央図書館]]隣)の開館にも尽力した。[[1990年]]、岡田を主人公にした「小説東映 映画三国志という小説が、岡田を師匠と挙げる[[大下英治]]作で[[徳間書店]]から出ている。これを原作とした[[2時間ドラマ]]が[[日本テレビ系|日本テレビ]]で同年6月1日放送され[[中村雅俊]]が岡田を、妻の役は[[黒木瞳]]が演じた。[[1984年]][[褒章|藍綬褒章]]、[[1995年]][[勲二等]][[瑞宝章]]受賞。  
その他、[[1982年]]5月、[[地方自治体]]で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー([[広島市立中央図書館]]隣)の開館にも尽力した。[[1990年]]、岡田を主人公にした映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる[[大下英治]]作で[[徳間書店]]から出ている。これを原作とした[[2時間ドラマ]]が[[日本テレビ系|日本テレビ]]で同年6月1日放送され[[中村雅俊]]が岡田を、妻の役は[[黒木瞳]]が演じた。[[1984年]][[褒章|藍綬褒章]]、[[1995年]][[勲二等]][[瑞宝章]]受賞。


[[映画]][[雑誌]]「プレミア([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で第1位に選ばれた<ref name="プレミア">[[プレミア (雑誌)|プレミア]]([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号、p83</ref><ref name="sairyusha">[http://www.sairyusha.co.jp/ikedame/%E5%BE%A1%E5%A4%A7%E3%83%BB%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8C%82%EF%BC%88%E6%9D%B1%E6%98%A0%EF%BC%89%E6%B0%8F%E3%82%92%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%81%99%E3%82%8B.html 彩流社» ブログアーカイブ » 御大・岡田茂(東映)氏を追悼する]</ref>。
映画雑誌プレミア([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で第1位に選ばれた<ref name="プレミア200104_83" /><ref name="彩流社20110510_御大追悼" />。


=== 名誉会長へ ===
=== 名誉会長へ ===
[[2006年]]7月、三代目社長だった[[高岩淡]]が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった<ref><!--邦画界全体の問題点?なので、岡田茂の経歴本編からは外しました。「日本映画」の項目に移動したらどうでしょうか -->この点はライバルの松竹でも似たような現象が起こり、[[奥山融]]、[[奥山和由]]の親子ワンツー体制を組んだが、松竹は創業家側のクーデターで現在に至っている。東宝も[[松岡功 (実業家)|松岡功]]、[[松岡宏泰]]の親子がグループ経営の中枢にいるが、松岡功は東宝、[[阪急]]の創業者、[[小林一三]]の孫である。これは日本だけでなく、ハリウッドのメジャーでも見られる現象である。いずれにせよ、親子が同じ会社にいるという事が一般的である事を取ってみても、映画界は洋の東西を問わず、前近代的な空気が色濃い世界であるという証左とも言える。</ref>。
[[2006年]]7月、三代目社長だった[[高岩淡]]が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった<ref group="注釈"><!--邦画界全体の問題点?なので、岡田茂の経歴本編からは外しました。「日本映画」の項目に移動したらどうでしょうか -->この点はライバルの松竹でも似たような現象が起こり、[[奥山融]]、[[奥山和由]]の親子ワンツー体制を組んだが、松竹は創業家側のクーデターで現在に至っている。東宝も[[松岡功 (実業家)|松岡功]]、[[松岡宏泰]]の親子がグループ経営の中枢にいるが、松岡功は東宝、[[阪急]]の創業者、[[小林一三]]の孫である。これは日本だけでなく、ハリウッドのメジャーでも見られる現象である。いずれにせよ、親子が同じ会社にいるという事が一般的である事を取ってみても、映画界は洋の東西を問わず、前近代的な空気が色濃い世界であるという証左とも言える。</ref>。


=== 死去 ===
=== 死去 ===
[[2011年]][[5月9日]]、肺炎の為に死去<ref name=fuho/><ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110509/ent11050910580010-n1.htm 「仁義なき戦い」シリーズ化 岡田茂東映名誉会長が死去] 産経新聞 2011年5月9日閲覧</ref>{{没年齢|1924|3|2|2011|5|9}}。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p236-237</ref>。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/87533/full/ “日本映画界のド”岡田茂さん葬儀・告別式に2100人が参列 ]</ref>。
[[2011年]][[5月9日]]、肺炎の為に死去<ref name="毎日新聞20110509web_訃報" /><ref name="産経MSN20110509_訃報" />{{没年齢|1924|3|2|2011|5|9}}。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった<ref name="波瀾_236-237" />。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という<ref name="オリコ20110511web_葬儀" />。


== 人物 ==
== 人物 ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年1月|section=1}}
{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年1月|section=1}}
=== 仁義なき戦い ===
=== 仁義なき戦い ===
『[[仁義なき戦い]]』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に[[山口組]]三代目の[[田岡一雄]]組長が訪れて鑑賞した。深作欣二監督は田岡が来ることを知って席を外した。後に間に人を立てて親分が岡田に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。このシシャの意味は岡田本人も聞かなかった<ref>深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p270、『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。同作品が製作された1970年代の始めは[[広島抗争]]はまだ燻っていて、いささか危険な状況であり、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫していたという、折り紙付きの難物だった。東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声も多かったが広島出身の岡田がやる気満々で製作実現までに至った<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p57-66</ref>。『仁義なき戦い』は[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の脚本中の"血風ヤクザオペラ"<ref>「[[EX大衆]]」、2005年10月号</ref>とも"[[広島弁]]の[[シェークスピア]]<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p242</ref>とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々も大きな魅力。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集めたが、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、[[菅原文太]]や[[金子信雄]]のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという<ref>『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』笠原和夫、p276、277、[[太田出版]]、2005年</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。
『[[仁義なき戦い]]』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に[[山口組]]三代目の[[田岡一雄]]組長が訪れて鑑賞した。深作欣二監督は田岡が来ることを知って席を外した。後に間に人を立てて親分が岡田に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。このシシャの意味は岡田本人も聞かなかった<ref name="深作欣二_270" /><ref name="昭和の劇_1-4" />。同作品が製作された1970年代の始めは[[広島抗争]]はまだ燻っていて、いささか危険な状況であり、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫していたという、折り紙付きの難物だった。東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声も多かったが広島出身の岡田がやる気満々で製作実現までに至った<ref name="やくざなり_57-66" />。『仁義なき戦い』は[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の脚本中の血風ヤクザオペラ<ref name="EX大衆200510_XX" />とも[[広島弁]]の[[シェークスピア]]<ref name="任侠が青春_242" />とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々も大きな魅力。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集めたが、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、[[菅原文太]]や[[金子信雄]]のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという<ref name="仁義なき集成_276-277" /><ref name="昭和の劇_1-4" />。


『仁義なき戦い』の中で重要な役である山守義雄役には当初監督の[[深作欣二]]は[[三国連太郎]]を希望していた。しかし岡田は映画の舞台である広島弁のイントネーションのうまさを買って「[[金子信雄]]にしろ!」と鶴の一声で配役を変更。結果的にこれが大成功を収める<ref>『波瀾万丈の映画人生』、p218-219<br />悔いなきわが映画人生』、p275<br />深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、p254-p255<br />昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref>。
『仁義なき戦い』の中で重要な役である山守義雄役には当初監督の[[深作欣二]]は[[三国連太郎]]を希望していた。しかし岡田は映画の舞台である広島弁のイントネーションのうまさを買って「[[金子信雄]]にしろ!」と鶴の一声で配役を変更。結果的にこれが大成功を収める<ref name="波瀾_218-219" /><ref name="悔いなき_275" /><ref name="深作欣二_254-255" /><ref name="昭和の劇_1-4" />。


『仁義なき戦い』のシリーズ化は第一作の撮影途中で決定した。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「[[広島抗争|広島事件]]!」と即答。「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げて、原作でチラッと出てくる、[[山上光治]]という24歳で自決する殺し屋(演者:[[北大路欣也]])を軸に脚本を書いたのが第二部『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』となる。第一部の大ヒットで第三部『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』の製作が決定(第二作の公開前)。決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『[[仁義なき戦い 頂上作戦]]』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。ところが、岡田と深作と[[日下部五朗]]の四人で夜の京都に繰り出したおり、[[四条大橋]]の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。笠原は「あれはもう[[菅原文太|文太]]と[[小林旭|旭]]の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。笠原は「よし。なんぼなんでも[[ギャランティー|ギャラ]]が安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。第五部『[[仁義なき戦い 完結篇]]』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から<ref>笠原和夫『映画はやくざなり』、[[新潮社]]、2003年、p68-81</ref>。
『仁義なき戦い』のシリーズ化は第一作の撮影途中で決定した。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「[[広島抗争|広島事件]]!」と即答。「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げて、原作でチラッと出てくる、[[山上光治]]という24歳で自決する殺し屋(演者:[[北大路欣也]])を軸に脚本を書いたのが第二部『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』となる。第一部の大ヒットで第三部『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』の製作が決定(第二作の公開前)。決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『[[仁義なき戦い 頂上作戦]]』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。ところが、岡田と深作と[[日下部五朗]]の四人で夜の京都に繰り出したおり、[[四条大橋]]の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。笠原は「あれはもう[[菅原文太|文太]]と[[小林旭|旭]]の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。笠原は「よし。なんぼなんでも[[ギャランティー|ギャラ]]が安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。第五部『[[仁義なき戦い 完結篇]]』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から<ref name="やくざなり_68-81" />。


=== (未整理分) ===
=== 『三代目』 ===
*岡田が直接、田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した『[[山口組三代目]]』(1973年)は記録的なヒットを飛ばした。本作は『[[ゴッドファーザー]]』が好きな岡田が、日本で当てはめるなら[[山口組]]だなと考え、これをやるのは自分しかないと製作に着手した<ref name="岡田茂自伝223227">『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p223-227</ref>。小説化〜映画化にあたり[[徳間康快]]を呼んだら「頼む。これだけは俺にやらしてくれ」と飛びついてきたという。原作本が[[徳間書店]]から出ているのはこのため。後年の[[稲川聖城]]の半生記『[[修羅の群れ]]』も岡田と徳間でまず小説化を決めたもの。こちらも[[アサヒ芸能]]で連載された<ref name="実話時代">「[[実話時代]]」、2008年2月号、p9</ref><ref name="トップ屋魂">[[大下英治]]『トップ屋魂』、[[KKベストセラーズ]]、2009年、p280-282</ref>。『修羅の群れ』の方は、岡田が[[大下英治]]に本を書かせたが、『山口組三代目』の場合は原作者を作家にすると揉める恐れがあるため、原作は田岡の自伝という形にして、実際にはアサヒ芸能の編集長をしていた人に書かせた。宣伝の必要もなく、映画はバカ当たりした。後にも先にも宣伝も何もしないで、あんなバカ当たりした映画はなかったという<ref name="岡田茂自伝223227"/>。岡田は「この映画は暴力礼賛映画ではない」と説明したが、実際は田岡一雄組長をヒーローのように仕立てあげており、東映の観客調査の満足度は92%と、観客のほとんどは田岡組長の人間ドラマに感動したというデータが出た。全国の映画館主からも続編の要望も出て、根っからのカツドウ屋で、もうけのためなら手段を選ばない主義ともいわれた岡田ゆえ、続編の製作は当たり前と思われたが、各方面からの猛烈な批判が浴びせられた。こうした批判に対して[[新聞記者]]をいっぱい集めた前で「『[[ゴッドファーザー]]』がアメリカで出来て、日本でなぜ田岡一雄伝をやってはいけないんだ。説明してくれ」などと言ってさらに批判が増した<ref name="岡田茂自伝223227"/>。当時の岡田は若手財界人のやり手として売り込み中でもあり思案投げ首状態となった。また『山口組三代目』では芸能界の実名人物は"[[広沢虎造]]"どまりであったが、二部以降になれば"[[美空ひばり]]"がいやでも登場することになる。[[かとう哲也]]の再逮捕で手負い獅子のようになっているひばりが、続編を許すはずがなく続編は一旦はあきらめた<ref>[[週刊朝日]]、1973年6月1日号、p36<br />サンデー毎日、1973年9月9日号、p42、9月23日号、p44<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p190</ref>。
岡田が直接、田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した『[[山口組三代目]]』(1973年)は記録的なヒットを飛ばした。本作は『[[ゴッドファーザー]]』が好きな岡田が、日本で当てはめるなら[[山口組]]だなと考え、これをやるのは自分しかないと製作に着手した<ref name="波瀾_223-227" />。小説化〜映画化にあたり[[徳間康快]]を呼んだら「頼む。これだけは俺にやらしてくれ」と飛びついてきたという。原作本が[[徳間書店]]から出ているのはこのため。後年の[[稲川聖城]]の半生記『[[修羅の群れ]]』も岡田と徳間でまず小説化を決めたもの。こちらも[[アサヒ芸能]]で連載された<ref name="実話時代200802_9" /><ref name="トップ屋魂_280-282" />。『修羅の群れ』の方は、岡田が[[大下英治]]に本を書かせたが、『山口組三代目』の場合は原作者を作家にすると揉める恐れがあるため、原作は田岡の自伝という形にして、実際にはアサヒ芸能の編集長をしていた人に書かせた。宣伝の必要もなく、映画はバカ当たりした。後にも先にも宣伝も何もしないで、あんなバカ当たりした映画はなかったという<ref name="波瀾_223-227"/>。岡田は「この映画は暴力礼賛映画ではない」と説明したが、実際は田岡一雄組長をヒーローのように仕立てあげており、東映の観客調査の満足度は92%と、観客のほとんどは田岡組長の人間ドラマに感動したというデータが出た。全国の映画館主からも続編の要望も出て、根っからのカツドウ屋で、もうけのためなら手段を選ばない主義ともいわれた岡田ゆえ、続編の製作は当たり前と思われたが、各方面からの猛烈な批判が浴びせられた。こうした批判に対して[[新聞記者]]をいっぱい集めた前で「『[[ゴッドファーザー]]』がアメリカで出来て、日本でなぜ田岡一雄伝をやってはいけないんだ。説明してくれ」などと言ってさらに批判が増した<ref name="波瀾_223-227"/>。当時の岡田は若手財界人のやり手として売り込み中でもあり思案投げ首状態となった。また『山口組三代目』では芸能界の実名人物は[[広沢虎造]]どまりであったが、二部以降になれば[[美空ひばり]]がいやでも登場することになる。[[かとう哲也]]の再逮捕で手負い獅子のようになっているひばりが、続編を許すはずがなく続編は一旦はあきらめた<ref name="週刊朝日19730601_36" /><ref name="サンデー毎日19730909_42_19730923_44" /><ref name="悔いなき_190" />。


*しかし翌1974年、続編『[[三代目襲名]]』が製作された。これは山口組の宣伝映画だと警察に睨まれ、裏金取引があるのではないか、と東映は[[家宅捜索]]も受けた。裏取引はないが前売券を組に売ったため、これを今度は共通券は商品法違反、東映と暴力団の癒着、資金源に利用されたとか警察から何かと嫌がらせを受けた<ref name="任侠映画伝"/><ref>[[田中純一郎]]『日本映画発達史 Ⅴ 映像時代の到来』[[中央公論社]]、1970年、p263</ref>。岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだのが1975年に映画化された『[[県警対組織暴力]]』という映画のタイトル<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p82<br />新潮45 新潮社、2004年9月号、p206</ref>。なお山口組のシリーズは当初、三部作の予定で三作目は『山口組三代目 激突篇』というタイトルであったが、世間を騒がせた責任をとって製作を断念、結果的に二部作になった<ref>『日本映画は生きている 第4巻』、p280</ref>。 
しかし翌1974年、続編『[[三代目襲名]]』が製作された。これは山口組の宣伝映画だと警察に睨まれ、裏金取引があるのではないか、と東映は[[家宅捜索]]も受けた。裏取引はないが前売券を組に売ったため、これを今度は共通券は商品法違反、東映と暴力団の癒着、資金源に利用されたとか警察から何かと嫌がらせを受けた<ref name="任侠伝_66-67_116他"/><ref name="映像時代の到来_263" />。岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだのが1975年に映画化された『[[県警対組織暴力]]』という映画のタイトル<ref name="やくざなり_82" /><ref name="新潮45p200409_206" />。なお山口組のシリーズは当初、三部作の予定で三作目は『山口組三代目 激突篇』というタイトルであったが、世間を騒がせた責任をとって製作を断念、結果的に二部作になった<ref name="生きている4_280" />。


*この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、田岡一雄の息子・[[田岡満]]をスタッフに入れていたため<ref name="ヤクザが認めた任侠映画134141"/>。『[[山口組三代目]]』を製作する際、田岡満から自分をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と岡田に申し出があった<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、p248、249</ref>。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという<ref>「東映実録やくざ映画 無法地帯」、p170-179、240</ref>。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と[[高岩淡]]や[[日下部五朗]]、[[笠原和夫]]ら、多くの関係者が話している<ref name="昭和の劇537546">『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p537-546</ref><ref>「東映実録やくざ映画 無法地帯」、p230-244<br />[http://www.shuyu.gr.jp/tokyo_old/nimoku/dai525/dai525.html 525二木会]</ref>。
この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、田岡一雄の息子・[[田岡満]]をスタッフに入れていたため<ref name="ヤクザが認めた_134-141"/>。『[[山口組三代目]]』を製作する際、田岡満から自分をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と岡田に申し出があった<ref name="任侠が青春_248-249" />。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという<ref name="無法地帯_170-179_240" />。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と[[高岩淡]]や[[日下部五朗]]、[[笠原和夫]]ら、多くの関係者が話している<ref name="昭和の劇_537-546" /><ref name="無法地帯_230-244" /><ref name="二木会525_高岩淡" />。


=== 『きけ、わだつみの声』 ===
*[[1950年]]『『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声|きけ、わだつみの声]]』製作時の[[氏家齊一郎]]ら東大の左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた<ref name="キネ旬19844">[[キネマ旬報]]、1984年4月下旬号、p143-145</ref>。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳でその1人が[[富本壮吉]]。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという。この映画の[[スタッフ]]には[[脚本]]に[[八木保太郎]]、[[舟橋和郎]]ら、[[映画監督|監督]]に[[関川秀雄]]、[[映画音楽|音楽]]・[[伊福部昭]]と、[[レッドパージ]]で他の映画会社を追われた人たちを起用<ref name="風雲映画城2932"/>。また[[俳優|キャスティング]]は[[劇団俳優座|俳優座]]の[[佐藤正之]]に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が[[新劇]]の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった[[沼田曜一]]、[[信欣三]]、[[佐野浅夫]]、[[大森義夫]]ら[[俳優座]]、[[民芸]]、[[文学座]]の俳優を起用、やはり感銘を受けた[[杉村春子]]も出演した。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった<ref>黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年、p8-p9<br />小説東映 映画三国志、p57-59</ref><ref name="キネ旬19844"/>。こうした新劇の役者も当時[[レッドパージ|パージ]]にあって金に困っていて、[[山城新伍]]には「いま、金に困ってるから、20〜30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという<ref>男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p21</ref>。
[[1950年]]『『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声|きけ、わだつみの声]]』製作時の[[氏家齊一郎]]ら東大の左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた<ref name="キネ旬1984041_143-145" />。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳でその1人が[[富本壮吉]]。富本はこれが縁で映画界入り、後に『[[家政婦は見た!]]』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという。この映画の[[スタッフ]]には[[脚本]]に[[八木保太郎]]、[[舟橋和郎]]ら、[[映画監督|監督]]に[[関川秀雄]]、[[映画音楽|音楽]]・[[伊福部昭]]と、[[レッドパージ]]で他の映画会社を追われた人たちを起用<ref name="風雲_29-32"/>。また[[俳優|キャスティング]]は[[劇団俳優座|俳優座]]の[[佐藤正之]]に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が[[新劇]]の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった[[沼田曜一]]、[[信欣三]]、[[佐野浅夫]]、[[大森義夫]]ら[[俳優座]]、[[民芸]]、[[文学座]]の俳優を起用、やはり感銘を受けた[[杉村春子]]も出演した。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった<ref name="映像の仕掛け人たち_8-9" /><ref name="三国志_57-59" /><ref name="キネ旬1984041_143-145"/>。こうした新劇の役者も当時[[レッドパージ|パージ]]にあって金に困っていて、[[山城新伍]]には「いま、金に困ってるから、20 - 30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという<ref name="男気_21" />。


*『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。上映後、岡田に対し「よくやった。これを、とっとけ」と言ってポンと5万円(現在の100万円くらい)を渡したという<ref name="小説東急王国"/>。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの金を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった<ref name="dodo-geneki"/><ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p53-p54</ref><ref name="小説東急王国"/>。
『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の[[五島慶太]]は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。上映後、岡田に対し「よくやった。これを、とっとけ」と言ってポンと5万円(現在の100万円くらい)を渡したという<ref name="小説東急王国_247-257"/>。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの金を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="波瀾_53-54" /><ref name="小説東急王国_247-257"/>。


=== その他1 ===
*[[1953年]]、[[深作欣二]]は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと "[[性行為|お○○こ]]" する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の[[工藤栄一]]に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p232</ref>。
*[[1953年]]、[[深作欣二]]は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり『やァ暑いですなあ、こう暑いと“[[性行為|お○○こ]]”する気にもなれませんなあ』と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の[[工藤栄一]]に『あれは誰です?』と聞くと『京撮の岡田製作課長だ』という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという<ref name="0東映三十年_232" />。


*[[工藤栄一]]は、岡田を色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思うと評している<ref>工藤栄一 ダーティ工藤『光と影 映画監督 工藤栄一』ワイズ出版 2002年、p67</ref>。
*[[工藤栄一]]は、岡田を色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思うと評している<ref name="光と影_67" />。


*東映が[[1954年]]から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていてわしらも帰ってやろうと考えた単純な動機から。どうやるんですかと岡田が聞いたら何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)と言われたという<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p226</ref>。全員を集めてやるしかないんだ。三部作を原則にいこうと檄を飛ばした。いまでいうテレビ番組をつくる感覚であったという<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/>。
*東映が[[1954年]]から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていてわしらも帰ってやろうと考えた単純な動機から。どうやるんですかと岡田が聞いたら何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)と言われたという<ref name="0東映三十年_226" />。全員を集めてやるしかないんだ。三部作を原則にいこうと檄を飛ばした。いまでいうテレビ番組をつくる感覚であったという<ref name="クロニクル2_1-8"/>。


*1954年、製作課長時代に東映に移籍してきた[[萬屋錦之介]]を唯一説得できる存在であった。錦之助は『[[笛吹童子]]』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]の作品には若いファンがいない。だから錦之助や[[東千代之介]]の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、ダメだと言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると[[内田吐夢]]や[[伊藤大輔]]、[[田坂具隆]]ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は"巨匠離れ"ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田はそんなこと言ってると人気が落ちるぞとケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだと言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、[[有馬稲子]]からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年棒が多いんだよと言うと、有馬はそうよねーと頷いていて、錦之助にお前はそんな柄じゃないなどと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『[[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]]』五部作の完結編『[[宮本武蔵 巌流島の決斗]]』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた<ref>[[内田吐夢]]『人間の記録105 映画監督五十年』、[[日本図書センター]]、1999年、、p187-188</ref>。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田はこのままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ」「お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれとの条件を出し錦之助を説得、[[1966年]]錦之助は東映を円満退社した。
*1954年、製作課長時代に東映に移籍してきた[[萬屋錦之介]]を唯一説得できる存在であった。錦之助は『[[笛吹童子]]』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]の作品には若いファンがいない。だから錦之助や[[東千代之介]]の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、ダメだと言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると[[内田吐夢]]や[[伊藤大輔]]、[[田坂具隆]]ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は巨匠離れができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田はそんなこと言ってると人気が落ちるぞとケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだと言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、[[有馬稲子]]からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年棒が多いんだよと言うと、有馬はそうよねーと頷いていて、錦之助にお前はそんな柄じゃないなどと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『[[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]]』五部作の完結編『[[宮本武蔵 巌流島の決斗]]』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた<ref name="映画監督五十年_187-188" />。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田はこのままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれとの条件を出し錦之助を説得、[[1966年]]錦之助は東映を円満退社した。


*予想通り中村プロダクションはうまくいかず11年後、錦之介は再び岡田のところへやってきた。何かいい企画はないかというから『[[柳生一族の陰謀]]』をやれといった。これが大成功を収めて封切日の夜、錦之助と岡田は二人して抱き合いながら錦之助の母上に成功の報告をしていたという<ref>キネ報、2011年7月上旬号、p62-63</ref>。元気づいた錦之助はこの後、同じ[[深作欣二]]監督で『[[赤穂城断絶]]』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。この映画は錦之助に[[吉良上野介]]をやらせて、吉良の眼から見た[[忠臣蔵]]にしようとしたが、周囲の歌舞伎関係の人たちから猛反対に遭い断念した。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして俺が言っておくから、[[松竹]]の[[永山武臣]]会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろうと言ったが、錦之助は俺は映画の錦之助として死にたいと言ったという<ref name="business.nikkeibp"/><ref>キネ報、1997年12月16日号、p16-21</ref><ref name="クロニクル東映282283">『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p282-283</ref><ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p105-115、184-188</ref>。
*予想通り中村プロダクションはうまくいかず11年後、錦之介は再び岡田のところへやってきた。何かいい企画はないかというから『[[柳生一族の陰謀]]』をやれといった。これが大成功を収めて封切日の夜、錦之助と岡田は二人して抱き合いながら錦之助の母上に成功の報告をしていたという<ref name="キネ旬2011071_62-63" />。元気づいた錦之助はこの後、同じ[[深作欣二]]監督で『[[赤穂城断絶]]』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。この映画は錦之助に[[吉良上野介]]をやらせて、吉良の眼から見た[[忠臣蔵]]にしようとしたが、周囲の歌舞伎関係の人たちから猛反対に遭い断念した。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして俺が言っておくから、[[松竹]]の[[永山武臣]]会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろうと言ったが、錦之助は俺は映画の錦之助として死にたいと言ったという<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="キネ旬1997122_16-21" /><ref name="クロニクル1_282-283" /><ref name="波瀾_105-115_184-188" />。


*[[1957年]]、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/>。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜けるその豪腕は<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000~5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中の[[NG]]もカットに1回しか認めない。当時の東映は、すべての[[経費]]で[[人件費]]がいちばん安く、[[フィルム]]代がいちばん高かったため。こうした<鬼の岡田>の厳格なスケジュール・予算管理が徹底されたからこそ、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した<ref>春日太一『時代劇は死なず!』、p213、214</ref>。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した<ref name="キネ旬201176263">キネマ旬報、2011年7月上旬号、p62-63</ref>。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという<ref name="キネ旬201176263"/>。東映の両御大・[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]の使う黒塗りの[[ハイヤー]]を中止させ、ロケバスに同乗させた<ref name="乾杯!ごきげん映画人生"/>。
*[[1957年]]、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る<ref name="秘宝2_276-280"/>。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜けるその豪腕は<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000~5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中の[[NG]]も2カットに1回しか認めない。当時の東映は、すべての[[経費]]で[[人件費]]がいちばん安く、[[フィルム]]代がいちばん高かったため。こうした<鬼の岡田>の厳格なスケジュール・予算管理が徹底されたからこそ、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した<ref name="死なず_213-214" />。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した<ref name="キネ旬2011071_62-63" />。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという<ref name="キネ旬2011071_62-63"/>。東映の両御大・[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]の使う黒塗りの[[ハイヤー]]を中止させ、ロケバスに同乗させた<ref name="ごきげん映画人生_165_184-190"/>。


=== 美空ひばり ===
*マキノ光雄とともに[[美空ひばり]]を引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長。田岡は「ひばりを[[クレジットタイトル|タイトル・ロール]]の常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]は、なにしろ[[歌舞伎]]界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」 その時、ひばりが「いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから」と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref name="岡田茂自伝94104">『波瀾万丈の映画人生』、p94-104</ref><ref>[[私の履歴書]] 経済人38 [[日本経済新聞社]]、2004年、p29-p32<br />『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p151-152</ref>。
マキノ光雄とともに[[美空ひばり]]を引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった[[山口組]]の[[田岡一雄]]組長。田岡は「ひばりを[[クレジットタイトル|タイトル・ロール]]の常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]は、なにしろ[[歌舞伎]]界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="波瀾_94-104" /><ref name="私の履歴書_29-32" /><ref name="それでも_151-152" />。


*こうした一件もあってひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると岡田さん、岡田さんと岡田を呼び岡田さん以外とは話さないと言っていたという<ref>『悔いなきわが映画人生』、p279</ref>。岡田は[[神戸芸能社]]との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは[[小林旭]]と結婚した1962年あたりから映画や[[浅草国際劇場]]での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた<ref name="美空ひばり時代を歌う">[[大下英治]]『美空ひばり-時代を歌う』、[[新潮社]]、1989年、p318-321</ref>。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、[[江利チエミ]]で大成功した後、次は本家に出て頂きたいんですと、[[新宿コマ劇場]]から要請のあった初の[[座長]]公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた<ref name="美空ひばり時代を歌う"/>。お嬢の座長公演のスタートは、女の花道との演題で[[川口松太郎]]に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一ヶ月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた[[沢島忠]]を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が東宝から[[淡島千景]]を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にするという[[バーター]]案で、これにより沢島の貸し出しが決まった<ref name="沢島忠全仕事">『沢島忠全仕事』、p262、288-294、302-309</ref>。沢島はこの後[[1967年]]、岡田がもう時代劇はやらないというので東映を辞め、東宝系の[[東京映画]]に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した<ref name="沢島忠全仕事"/><ref>[http://www.koma-sta.co.jp/history/komageki.html 新宿コマ劇場 公演年譜一覧]</ref><ref>[http://www.geocities.jp/kmkr_01/stage02.html 映画監督による舞台演出 沢島忠]</ref>。
こうした一件もあってひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると岡田さん、岡田さんと岡田を呼び岡田さん以外とは話さないと言っていたという<ref name="悔いなき_279" />。岡田は[[神戸芸能社]]との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは[[小林旭]]と結婚した1962年あたりから映画や[[浅草国際劇場]]での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた<ref name="美空ひばり_318-321" />。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、[[江利チエミ]]で大成功した後、次は本家に出て頂きたいんですと、[[新宿コマ劇場]]から要請のあった初の[[座長]]公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた<ref name="美空ひばり_318-321"/>。お嬢の座長公演のスタートは、女の花道との演題で[[川口松太郎]]に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一ヶ月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた[[沢島忠]]を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が東宝から[[淡島千景]]を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にするという[[バーター]]案で、これにより沢島の貸し出しが決まった<ref name="沢島忠全仕事_262_288-294_302-309" />。沢島はこの後[[1967年]]、岡田がもう時代劇はやらないというので東映を辞め、東宝系の[[東京映画]]に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した<ref name="沢島忠全仕事_262_288-294_302-309"/><ref name="新宿コマ_公演年譜" /><ref name="Geocities資料庫_沢島忠" />。


=== 社長就任時 ===
*[[俊藤浩滋]]が東映に関わるようになるのは[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]「おそめ」に顔を出していて、この「おそめ」の、みな常連客だった[[鶴田浩二]]の東映移籍や、[[水原茂]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]監督招聘の仲介などで[[大川博]]と縁を深めていったものだが、東映の「映画」をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に「なにかいい企画はないか」と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。「俺をプロデューサーにしてくれ」と岡田に頼んできたのは俊藤からだという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p149</ref>。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった<ref>『風雲映画城 下』、p125-130<br />石井妙子『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』、洋泉社、2006年、p269-271</ref><ref name="nikkansports">[http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011013.html 日刊スポーツ・訃報・俊藤浩滋さん]</ref>。
[[1971年]]、大川博社長の逝去で、後任社長には岡田、[[坪井与]]、俊籐浩滋、[[片岡千恵蔵]]らの名前が挙がったが、やはり抜群の才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという<ref name="千恵蔵一代_139-140_196-198" />。


岡田が社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時[[通産大臣]]だった[[田中角栄]]を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは[[住友銀行|住友]]ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて[[五島昇]]の所に行ったところ「[[三菱銀行|三菱]]にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行[[頭取]]の[[伊部恭之助]]に会うと慌てて「それは違う。[[堀田庄三]]さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった<ref name="サンデー毎日19730204_23" />。
*[[若山富三郎]]は[[1959年]]、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p104-105</ref>。[[1960年]]東映に移籍した[[鶴田浩二]]は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、「現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか」という岡田からの相談を受けた[[俊藤浩滋]]が、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と移籍の交渉を引き受け「東宝には[[三船敏郎]]がいるから、どうやったって上に行かれへん」などと鶴田を口説いたもので、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、円満移籍になったという<ref name="風雲映画城83125"/><ref>[[俊藤浩滋]]、[[山根貞男]]『任侠映画伝』[[講談社]]、1999年、p92-94</ref>。


*1960年東映に入社した[[三田佳子]]は、「岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した」と話している<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00294.htm?from=related 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]<br />[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110511/ent11051106140000-n1.htm 菅原文太、岡田氏に別れ「もうケンカできない」+(1/2ページ) - MSN ] 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列]</ref>。


=== 「不良性感度」 ===
*[[1961年]]、東京撮影所長に着任し[[高倉健]]や[[鶴田浩二]]ら男性スターの"現代アクション路線"を敷く<ref name="風雲映画城83125"/><ref>「映画秘宝」2009年3月号、p23</ref>。その配給=ニュー東映の量産体制を担うべく、露骨に日活の「[[小林旭|渡り鳥シリーズ]]」のマネをしろと抜擢したのが深作欣二らだった。深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年)は、のちに深作がアクション演出を活かしたTVシリーズ「[[キイハンター]]」([[TBSテレビ|TBS]]系、1968年 - 1973年)の先駆けともいえる作品となっている<ref>深作欣二の軌跡、[[キネマ旬報社]]、2003年、p154</ref>。
「映画は元来、不良青年がつくるもの」という意味で、岡田が言い出した有名な〔不良性感度〕なる語<ref name="波瀾_156-157" />の発想について以下のような説明をしている。「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」<ref name="私の30年_150" />。また「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="読売新聞20110513web_悼む" />。


岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、[[江戸時代]]に芝居が“[[河原者|カワラもの]]”と言われたときからの[[興行|見世物]]の役割だ。この二つが、映画にとって[[陰陽]]の[[元素|エレメント]]になっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に摑まえたがるのが困るところだ」などと話していた<ref name="キネ旬2011071_65-67" />。[[加藤泰]]は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している<ref name="加藤泰映画華_136" />。
*[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]は、高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の[[勝新太郎]]が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて[[大映]]に引き抜こうとした。引き抜きは阻止したが、松方は1969年から1970年に数本、[[大映]]で主演作品がある<ref name="岡田茂自伝188190"/><ref name="news24"/>。


=== 任侠 ===
*[[1962年]]、映画『王将』で東映作品に初主演した[[村田英雄]]に「[[金剛力士|仁王]]の[[刺青]]を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p137</ref>。
東映任侠路線の幕開けとなった『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年)で、そのタイトルをめぐって、『[[人生劇場]]』の作者である[[尾崎士郎]]が「飛車角を入れたらヤクザ映画だ」と主張したが一歩も譲らず押し通した<ref name="日本経済新聞20110510_13"/><ref name="波瀾_153-155" /><ref name="キネ旬2011071_41-42" />。『人生劇場』は元々、青成瓢吉を主人公とする[[青春映画]]で過去何度も映画化されたものだが、今までと同じでは当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え[[侠客]]映画に変えたもの<ref name="クロニクル1_170-171" /><ref name="昭和の劇_140" />。監督には現代的センス溢れる演出を買い[[沢島忠]]を起用した<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="キネ旬2011071_41-42"/>。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="日本経済新聞20110510_13"/><ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="任侠が青春_6-11" />。新しいチャンバラ映画の開発に賭けた岡田の目論見通りにいったのである<ref name="鎧_10-13" />。映画が大ヒットした理由は、非常に展開がスピーディであったこと、それから当時、[[鶴田浩二]]と[[佐久間良子]]が恋人関係にあって、二人が琴瑟相和すという名演技を見せたこと、ラストの斬新な点など<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="昭和の劇_140" />。大ヒットしたことで『続・飛車角』『新飛車角』なるものまで作られたが、『新飛車角』の脚本を岡田に書かされたのが[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]だった<ref name="争議あり_349" />。笠原は言うまでも無く後年、数多くのヤクザ映画の傑作で名声を高めるが、当時はまだヤクザの“ヤ”の字も分からないとき。これを岡田は「原作は使わなくていい (!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎士郎にお伺いを立てに行った。既に病床に身で、声を出すのも辛そうな尾崎は説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは黙ってしまったという。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いないが、もしもあの時、尾崎が元気で突っぱねたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたものと笠原は話している<ref name="鎧_10-13" />。1970年代に入って実録路線に転換すると1974年に『実録飛車角・狼どもの仁義』という『仁義なき戦い』と『飛車角』を合体させたようなムチャな映画を製作した。これには尾崎の遺族が抗議した<ref name="週刊サンケイ19741024_33" />。


この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『御金蔵破り』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『忍者狩り』『間謀』『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』『[[十兵衛暗殺剣]]』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『[[徳川家康 (1965年の映画)|徳川家康]]』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="私の30年_142-149" />。
*[[北島三郎]]は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと[[俊藤浩滋]]さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="hochi2011510">[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00018.htm 「男の美学」岡田茂氏、家族以外の見舞い断る…東映・樋口顧問明かす]</ref>。


岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた<ref name="スクリプター_123-124" />。
*東映入社後、なかなか芽の出ない[[高倉健]]をスターにしようと[[1962年]]、かつて[[市川崑]]監督が撮って大当たりした[[小島政二郎]]原作の『[[三百六十五夜]]』の再映画化を企画。[[美空ひばり]]を主演にして[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]の[[三人娘]]を総登場させ高倉健、[[鶴田浩二]]を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した<ref>『小説東映 映画三国志』、p211-214<br />『風雲映画城 下』、p72-73</ref>。翌[[1963年]]、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『[[人生劇場 飛車角]]』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて[[1964年]]、岡田が「[[忠臣蔵]]を下敷きにした群集劇を」と企画し[[笠原和夫]]に命じて書かせた『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』シリーズ(-1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した<ref name="クロニクル東映172175"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="マキノ雅弘の世界22"/><ref>『ポスターでつづる東映映画史』、p193</ref>。


岡田が[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて仕掛けた「[[任侠映画]]」や「[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]」は、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。[[武井昭夫]]は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。[[全学共闘会議|全共闘]]学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから[[日活ロマンポルノ|日活のポルノ映画]]も新しい客層をつくるというより、むしろほどなく[[マンネリ]]となって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている<ref name="戦後史_269-270" />。
*東映任侠路線の幕開けとなった『[[人生劇場 飛車角]]』(1963年)で、そのタイトルをめぐって、『[[人生劇場]]』の作者である[[尾崎士郎]]が「飛車角を入れたらヤクザ映画だ」と主張したが一歩も譲らず押し通した<ref name="日経2011510"/><ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p153-p155</ref><ref name="キネ旬201174142">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p41-42</ref>。『人生劇場』は元々、青成瓢吉を主人公とする[[青春映画]]で過去何度も映画化されたものだが、今までと同じでは当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え[[侠客]]映画に変えたもの<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p170-171<br />『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫、[[荒井晴彦]]、[[絓秀実]]、[[太田出版]]、2002年、p140</ref>。監督には現代的センス溢れる演出を買い[[沢島忠]]を起用した<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="キネ旬201174142"/>。「飛車角」路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="日経2011510"/><ref name="風雲映画城83125"/><ref name="toeininkyo"/><ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、2004年、p6-11</ref>。新しいチャンバラ映画の開発に賭けた岡田の目論見通りにいったのである<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p10-13</ref>。映画が大ヒットした理由は、非常に展開がスピーディであったこと、それから当時、[[鶴田浩二]]と[[佐久間良子]]が恋人関係にあって、二人が琴瑟相和すという名演技を見せたこと、ラストの斬新な点など<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="toeininkyo"/><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p140</ref>。大ヒットしたことで『続・飛車角』、『新飛車角』なるものまで作られたが、『新飛車角』の脚本を岡田に書かされたのが[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]だった<ref>[[荒井晴彦]]『争議あり - 脚本家・荒井晴彦全映画論集』、[[青土社]]、2005年、p349</ref>。笠原は言うまでも無く後年、数多くのヤクザ映画の傑作で名声を高めるが、当時はまだヤクザの"ヤ"の字も分からないとき。これを岡田は「原作は使わなくていい(!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎士郎にお伺いを立てに行った。既に病床に身で、声を出すのも辛そうな尾崎は説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは黙ってしまったという。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いないが、もしもあの時、尾崎が元気で突っぱねたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたものと笠原は話している<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p10-13</ref>。1970年代に入って実録路線に転換すると1974年に『実録飛車角・狼どもの仁義』という『仁義なき戦い』と『飛車角』を合体させたようなムチャな映画を製作した。これには尾崎の遺族が抗議した<ref>週刊サンケイ、1974年10月24日号、p33</ref>。


=== 実録モノ ===
*この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』、『御金蔵破り』、『集団奉行所破り』、『大喧嘩』、『忍者狩り』、『間謀』、『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』、『[[十兵衛暗殺剣]]』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『[[徳川家康 (1965年の映画)|徳川家康]]』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した<ref name="business.nikkeibp"/><ref>『私の東映30年』、p142-149</ref>。
[[1973年]]から始まる『仁義なき戦い』シリーズは、[[実録シリーズ|東映実録路線]]といわれ、その後、多くの実録[[ヤクザ映画]]が製作されたが、“実録”はヤクザ映画に留まらず、東映は勿論他社も“実録モノ”を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、[[東宝]]が[[池田大作]]の著作で[[創価学会]]第2代会長・[[戸田城聖]]の半生を映画化した『[[人間革命]]』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった<ref name="週刊朝日19731207_42" /><ref name="サンデー毎日19740113_36_19740217_40" />。


岡田は他の会社で[[レッドパージ]]された[[家城巳代治]]や[[今井正]]にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが<ref name="昭和の劇_259" />、どちらかというと[[右翼|右]]寄りの映画が多いため、その『日本共産党』の映画を企画し<ref name="争議あり_353-355" />製作しようとしたら社内から、一体うちの[[ポリシー]]は何なの?と批判が出た。これを「代々木([[日本共産党]])が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか『[[赤旗]]』の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。ところが制作は中止された。[[山城新伍]]はやはり東映は右寄りだから、おおかた[[宮本顕治]][[日本共産党委員長|委員長]]から[[クレーム]]がきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた[[渡辺政之輔]]の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説もある<ref name="争議あり_353-355"/><ref name="昭和の劇_344-347" />。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された<ref name="一言_88-90" /><ref name="男気_21-23" /><ref name="濃厚_65-66" />。岡田は[[1976年]]、[[部落解放同盟|解放同盟]]と組んで[[松本治一郎]]([[松本龍 (政治家)|松本龍]]の養祖父)の[[伝記]]映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという<ref name="河原乞食考_77" /><ref name="男気_22" />。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『[[いつかギラギラする日]]』の原案という<ref name="争議あり_353-355"/><ref name="惹句術_90" />。
*[[富司純子|藤純子]]は京都撮影所に見学に行ったところを[[マキノ雅弘]]にスカウトされ東映入りしたというのが定説だが、岡田は自著に、高校生の藤がカメラを買いたいと「おそめ」<ref>[[俊藤浩滋]]の[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]。</ref>にきて[[俊藤浩滋]]にねだっていたのを見初め、映画に出てもらおうとすぐに連絡を取ったと書いている<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p155</ref>。藤純子の当たり役『[[緋牡丹博徒]]』は当時、[[大映]]が[[江波杏子]]で「女賭博師」シリーズをやっていて、なら東映は女の任侠ものをやろう、女剣劇物を書け、と[[鈴木則文]]に命じ始めたもので、当初考えていたタイトルは『女狼』だった<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p126、127</ref>。藤を想定しての企画のため、藤を口説き「着物を脱いで肌の[[刺青]]を見せなければならないよ」と納得させた上で出演させた<ref name="sankei110511"/><ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p136</ref><ref name="nikkansports"/><ref name="キネ旬2011745">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p45</ref>。もともと時代劇に緋牡丹物は幾つかはあったが「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた<ref name="キネ旬2011745"/>。「緋牡丹のお竜」という設定も岡田が考えたもの<ref name="dodo-geneki"/><ref>小説東映 映画三国志、p247-p248<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p155<br />山平重樹『任侠映画が青春だった』、p129</ref>。


こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、[[アドバルーン]]だけブチあげて実際は製作されないことが多かった。『田中角栄伝』や『実録・新日鉄』『実録・伊藤忠』『[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|プロ野球黒い霧事件]]』『[[毛利郁子愛人刺殺事件]]』を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない<ref name="週刊サンケイ19750220_28" />。1974年11月に起こった[[荒木虎美]]の「[[3億円保険金殺人事件]]」を現代版『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明<ref name="週刊サンケイ19750220_28" />。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、[[東海大学]]の創立者・『[[松前重義]]伝』の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという<ref name="将軍と_186" />。実録物では他に1974年に『実録・紅白歌合戦』を企画したこともある。当時の[[NHK紅白歌合戦|紅白]]は[[視聴率]]が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない<ref name="週刊朝日19741025_36" />。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた<ref name="週刊朝日19731109_38" /><ref name="週刊朝日19750214_37" />。
*岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた<ref>『スクリプター 女たちの映画史』[[日本テレビ放送網]]、1994年、p123、124</ref>。


映画化された物では[[小野田寛郎]]を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉の[[ルバング島]]での生活はまったく出てこない映画であった<ref name="サンデー毎日19740519_35" />。1974年暮れから公開された[[フランス映画]]『[[エマニエル夫人]]』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で[[佐久間良子]]を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を[[日活]]に売りつけたこともある。例によって佐久間はまったく脱がず[[昼メロ]]的な映画であった<ref name="週刊サンケイ19750424_28" />。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した<ref name="週刊朝日19731109_38" />。
*[[佐藤純彌]]は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という[[字幕]]をたっぷりした墨の筆跡で、[[榊莫山]]みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった[[澤井信一郎]]は、この岡田の一言が[[トラウマ]]になり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて[[明朝体]]か[[ゴシック体]]にしているという<ref>澤井信一郎・鈴木一誌『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』、ワイズ出版、2006年、p40、118</ref>。


[[1975年]]の『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』という映画は、岡田が時効が迫った「[[三億円事件]]」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の[[岡田裕介]]で、現在の東映社長。言うまでもなく岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した<ref name="ロマンポルノ_170-171" /><ref name="週刊サンケイ19751211_31" /><ref name="秘宝200804_57" />。
*[[佐久間良子]]は、いわゆるお嬢様役から180度異なる[[娼婦]]役に抜擢され代表作とした『[[人生劇場 飛車角]]』や『[[五番町夕霧楼]]』について、岡田や厳しい教えを受けた[[田坂具隆]]監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている<ref name="クロニクル東映172175"/><ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0032205 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る]<br />東映映画三十年』東映、1981年、125</ref>。


また実録では無いが、名作『[[新幹線大爆破]]』(1975年)は、岡田直接の企画<ref name="私の30年_160-161" />。『[[仁義なき戦い]]』を始めとする「[[実録シリーズ|実録ヤクザ物]]」が主流路線として絶好調だった[[1974年]]5月、「実録路線」だけではいずれ材料がなくなる、次にどんなものを作ればいいか、という岡田と[[天尾完次]]の話し合いで、岡田の一つの考え方として「大体[[アメリカ]]でヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」というのがあり、そのときアメリカで『[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]』『[[サブウェイ・パニック]]』『[[タワーリング・インフェルノ]]』など、いわゆる[[パニック映画]]非常に受けていて、間もなく日本に輸入されてくるはず、それが『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』などの後をうけて大当たりするはずだ、という結論に達した。では、それを日本でやるとすると材料は何かと考え、[[日本航空インターナショナル|日航機]][[ハイジャック|乗っ取り]]などが候補に上がったが、その中で日本だけにあって題材となるものといえば[[新幹線]]しかない、新幹線を乗っ取る、あるいは爆発させるというストーリーは日本だけでしか出来ないし、外国に持っていっても遜色ないものが出来るに違いない、それをやろうじゃないか、というのがこの企画のスタートだった<ref name="キネ旬1975071_88-94" />。1975年3月の[[山陽新幹線]]の[[博多]]開業に合わせて公開しようとした便乗企画。当時、国鉄へ日に何回か爆破の脅迫電話がかかってくる事実をヒントに製作に着手したもので、当初のタイトルは『新幹線爆破魔を追え』というタイトルで、この年ヒットしていた『[[サブウェイ・パニック]]』(日本公開1975年)+『[[大空港 (映画)|大空港]]』(1970年)の新幹線版という触れこみであった<ref name="週刊サンケイ19750220_28" /><ref name="週刊朝日19750214_37" />。『新幹線大爆破』は、『[[タワーリング・インフェルノ]]』に正面からぶつけるという興業的タイミングの悪さで惨敗。『タワーリング・インフェルノ』は当時の史上最高興収を記録した<ref name="シネアルバム46_190-191" />。便乗企画では『[[愛のコリーダ]]』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“[[本番行為|本番]]”が大きな話題を呼んだ[[松田英子]]を獲得し『[[大奥浮世風呂]]』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある<ref name="週刊新潮_19770120_13" />。
*東急社長の[[五島昇]]はソリの合わない大川の扱いに頭を悩まし、[[1964年]]に東映を東急グループから切り離すが1967、8年頃、大川ジュニアがやるボウリング場がものすごく儲かり、猛威を振るっていて、岡田の映画づくりとまったく合わず、東大経済学部の後輩でもある岡田に「ウチ(=東急)に来い」「おまえこのまま東映にいても社長になれんぞ。やがて社長は大川ジュニアになる」「ウチで映画の製作をやらせてやる」と誘われるが、「いまは、東映はおれの子分ばかりなんだ。子分達(=撮影所の連中)を見捨てるわけにはいかない」とこれを固辞した<ref name="小説東急王国"/><ref>『任侠映画伝』、p225、226</ref>。五島は岡田を弟分として何かと目を掛け、相当高く評価していた。[[高岩淡]]の話では、1968年に岡田は[[俊藤浩滋]]、[[今田智憲]]の3人で東映を退社し、[[電通]]と組んで独立会社を作るという案を練っていたという。しかし、現場のトップや監督、役者などが集まったこの年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、みな岡田を囲ってもの凄く、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと、それは素晴らしかったです、で退社の話はなくなったんでしょう、と述べている<ref name="文化通信ジャーナル"/>。なお東急との関係は、1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している<ref>岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年、p191-p196</ref>。


『驚異のドキュメント 日本浴湯物語』(1971年)は、車の中で「またドキュメント、何かないか」と岡田に言われ「いい湯だなホイホイってのはどうです。[[安保闘争#70年安保|70年安保]]も終わってるし、何となくぬるま湯に浸かっている日本列島ってのはどうですかね」と言ったら「おう、それもいけるかもしれんな」と決まった企画。当時流行っていた[[ザ・ドリフターズ]]の「いい湯だな」に引っ掛けたもの。これら“風俗ドキュメント”は、[[出産]]や[[温泉]]、[[ソープランド|トルコ]]のシーンなど商売になった部分を拡げろと指示を出し“セックスドキュメント”としてシリーズ化された。『セックスドキュメント エロスの女王』(1973年)のメインは、ローズ秋山夫妻の[[SMクラブ|SMショウ]]だった。こうしたシリーズ化を最初から「助平物語だ」と言ったように、最初から性風俗の[[ドキュメント]]を売りにしようと考えていた岡田が企画の大本といえる。『瀬降り物語』(1985年)は、以前中島が映画化しようとして中止になった企画だが、[[今村昌平]]が『[[楢山節考]]』で[[カンヌ映画祭]]グランプリを獲ったことで、もう一度考えてみろと指示して中島に撮らせたもの<ref name="遊撃の美学_75_97_113他" /><ref name="ピンキー_242-243" />。
*1964年、[[石井輝男]]に撮らせた『御金蔵破り』は、[[フィルム・ノワール]]『[[地下室のメロディー]]』からアイデアを頂いた時代劇。[[ジャン・ギャバン]]を[[片岡千恵蔵]]、[[アラン・ドロン]]を[[大川橋蔵]]のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・[[朝丘雪路]]のスキャンダルをのせた<ref>石井輝男・[[福間健二]]『石井輝男映画魂』、ワイズ出版、134-136、315頁</ref>。1968年の[[工藤栄一]]監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため<ref>工藤栄一 ダーティ工藤『光と影 映画監督 工藤栄一』、p149</ref>。


=== 『大奥』とポルノ路線 ===
*[[高田宏治]]は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、その[[プロット]]は、ガリレオという主人公が、[[伴天連]]の[[妖術]]師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけが[[ウジ|ウジ虫]]だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から[[小便]]をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという<ref>西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』、カタログハウス、1997年、p10、11</ref>。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している<ref>西谷拓哉・高田宏治『高田宏治東映のアルチザン』、p186</ref>。[[小沢茂弘]]も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p79</ref>。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している<ref>『任侠映画伝』、p165</ref>。
1966年当時、[[ピンク映画]]が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めた。ソロバンをはじいてみると[[松竹]]の年間配給よりも総体で上回ることが分かったため、プロデューサーの天尾完次を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが[[石井輝男]]に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と始まったのが「東映[[ポルノ映画]]」の誕生「エログロ路線」のスタートである<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="映画チラシサイト_新文芸坐石井輝男"/>。当時は[[独立プロ]]がこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があった。その第1弾は[[山田風太郎]]の原作を映画化したエロ[[忍者]]映画『忍びの卍』([[鈴木則文]]監督、1968年)だったのだが、女優が脱がなかった為に興行的に失敗。そこで前記のような指示を出し本格的にピンク路線がスタートした。撮影では[[ヌード]]女優が大挙出演したため、素っ裸の女優が撮影所内を飛び回る状況となり、こっそり覗きにくるスターもいたが、[[若山富三郎]]や[[鶴田浩二]]ら大スターや、[[前貼り]]を扱う羽目になったスタッフらが、冒涜したと声明文を発する事態となった。[[佐藤忠男]]ら[[映画評論家|評論家]]は酷評しマスコミが面白がって取り上げたが、宣伝効果抜群でいずれも大ヒットした<ref name="三国志_272-283" /><ref name="Hotwax和モノ事典_21" /><ref name="石井輝男_184-205_339" /><ref name="キネ旬ベスト下_190-195" /><ref name="ピンキー_36-37_220-237" />。


声明文発布の問題は当時のマスコミにも取り上げられ大きな論争を巻き起こした。「東映の作る映画が社会的に不健全映画とされ、反文化的と目されるとなると、東映企業のイメージ・ダウンを招く危険がある」と言われたりしたが、岡田はそんな事にはおかまいなし。「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と反論。この騒動を結局うやむやの内にフェードアウトさせた<ref name="ピンキー_30-31" /><ref name="キネ旬1969062_126-128"/>。
*日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる[[1965年]]、[[内田吐夢]]監督『[[飢餓海峡]]』も岡田の企画。[[東映東京撮影所|東撮]]所長として『[[五番町夕霧楼]]』、『[[人生劇場 飛車角]]』、『[[王将 (1962年の映画)|王将]]』とヒット作を連打し、意気軒昴の岡田が[[東京オリンピック]]の行われる[[1964年]]に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが[[水上勉]]原作の「[[飢餓海峡]]」の映画化であった。「内田吐夢さんに現代劇を撮らせたい」と内田を説得し、脚本に[[鈴木尚之]]を起用したが、大川社長から労組対策で再度[[東映京都撮影所|京撮]]所長に戻れと命じられ、脚本の完成を見ずに、後事を辻野力弥に託し1964年2月京撮に転任した。岡田はヒロイン・杉戸八重役には[[佐久間良子]]を推したが、内田は[[左幸子]]を起用した。脚本、撮影ともに難航、また所長が辻野の後は[[今田智憲]]と三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。撮影が終了したのが1964年12月初旬。当初、映画の公開は11月を予定していたが、封切は1965年1月に変更となった。完成時の本作は200分に及び、あまりにも長いため、東映はフィルムカットを決定した。これを内田に無断で進めたため、内田が、短縮版を封切るなら「監督・内田吐夢」の文字を外せと強く反発、「カット事件」として大騒ぎになった。[[スポーツ紙]]は競って連日、大見出しで事件を報道し映画界も騒然となった。内田が京都の岡田に相談に来たため、大川社長と二人で話してくれと段取りをつけ、大川と内田の二者面談での歩みより183分の修復版を作ることが決定。直営館では183分の修復版、その他の契約館では167分の短縮版を上映するという条件を内田に飲ませた、と岡田は自伝『悔いなきわが映画人生』には書いている。本作はこの「カット事件」と莫大な予算超過の問題で、岡田以下幹部が大川から始末書の提出、減給処分を受けた。各人が書いた始末書の全文は一字の違いもなく、撮影所の掲示板に張り出され、見学者が後を絶たない程の酷い辱めを受けた。本作の製作のクレジットは大川であるが、岡田は『[[飢餓海峡]]』は3人の所長を代表とする東撮の従業員が打ち立てた青春の記念碑であった、と述べている<ref name="クロニクル東映200201"/><ref name="私説内田吐夢伝"/><ref name="悔いなきわが映画人生144145"/><ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1965/co000150.htm 1965年の映画『飢餓海峡』のスタッフ・キャスト一覧(jmdb)]※初公開時の完全版、およびカット版の上映状況についても記されている。</ref>。


『エロ将軍と二十一人の女妾』を作ったきっかけは、『徳川セックス禁止令』という映画の冒頭のナレーション「[[徳川家斉]]に二十一人の愛妾あり」を聞いて「次は『二十一人の女妾』でやろう」と簡単に決めたもの<ref name="Hotwax8_18" /><ref name="秘宝200710_52" />。この映画は後に91分が30分に編集され、タイトルを『将軍と二十一人の愛妾』に変更された版が、地方の温泉宿など[[有料テレビ]]用に流された<ref name="ロマンポルノ_117-118" />。こうした[[東映ビデオ]]製作のポルノ・ビデオは、これまで製作したポルノ・フィルムをコマ切れにし、その中からベッド・シーンなどをピックアップして30分程度の別物にまとめたものだが、同社(社長は岡田が兼務)は、このビデオに勝手に[[映画倫理委員会|映倫マーク]]を付けていた。映倫マークは映画館で上映される際に映倫の審査をパスした上で頂く物だが、再編集すれば再度の審査が必要と映倫は怒り、[[警視庁]]防犯部も「売りさばいた形跡濃厚」と捜査に乗り出した。この1972年当時、岡田は翌年からの「日活ロマンポルノ裁判」の法廷対策などを協議する映倫維持委員会の常任委員長でもあり非常にバツが悪かった<ref name="サンデー毎日19721029_42" />。
*[[1964年]]、大川の命で京撮のリストラ対策に京撮所長に再び戻る。「日本で最低の撮影所」ともいわれた[[東映東京撮影所]]を『[[人生劇場 飛車角]]』などで甦らせたばかりであったため、[[鶴田浩二]]などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという<ref name="沢島忠249">『沢島忠全仕事 - ボンゆっくり落ちやいね』、p249</ref>。京撮所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。"一つの映画のブームは10年"という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]、[[月形龍之介]]以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう<ref name="business.nikkeibp"/><ref name="風雲映画城83125"/><ref name="沢島忠249"/><ref>春日太一『時代劇は死なず!』、集英社、2008年、p28</ref>。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』〈特別付録・岡田茂インタビュー、p1-4〉</ref><ref>中島貞夫『映像のスリット わが映画人生』 、p185、186</ref>。時代劇の巨匠・[[松田定次]]を潰すため、その弟子、[[平山亨]]らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという<ref>『映画秘宝』、2007年10月号、[[洋泉社]]</ref>。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた<ref name="品川隆二と近衛十四郎">[[品川隆二]]・[[円尾敏郎]]『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』、[[ワイズ出版]]、2007年、p74-77</ref>。切られた側の松田定次や[[東千代之介]]などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある<ref name="品川隆二と近衛十四郎"/><ref>『悔いなきわが映画人生』、p272</ref>。


『徳川女系図』より少し前となる『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』(1967年)は最初、監督・[[今井正]]と脚本は大御所の[[八木保太郎]]で企画した。岡田は東映の屋台骨の任侠路線と並行して、新しい芽となるエロチシズム路線を打ち出す狙いを持ち、「<未知の世界><女の世界>を覗き見」という発想から、将軍以外の立ち入りを許されない男子禁制の女の園、将軍のおたねを宿すことが最上であるとする女たちの権謀術数の世界、皆が知らない[[大奥]]の秘密の部分を見せ場に考えていた<ref name="私の30年_150-151" /><ref name="死なず_30-32" />。ところが、今井と八木はテレビでよくある歴史物語に仕上げようとし、岡田の構想とはまるで違った作品をイメージしていた。八木に全面的に直して下さいとお願いしたが、言うことを聞かないので頭にきてこの二人を降ろし、脚本はチームを作り出来を競わせ、[[中島貞夫]]を監督に起用、岡田の[[懐刀]]・[[翁長孝雄]]に製作させ、後の「東映エログロ路線」を決定づけた<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3"/><ref name="キネ旬2011071_44-45"/><ref name="私の30年_150-151" /><ref name="悔いなき_154" /><ref name="秘宝200708_83" />。[[キャスト|キャスティング]]も全て岡田によるもの<ref name="キネ旬2011071_44-45"/>。この映画は[[富司純子|藤純子]]、[[小川知子 (女優)|小川知子]]、[[佐久間良子]]の3人を並べて主演にした[[オムニバス映画]]だが、当時の藤と小川は新人扱い。小川は本作で先輩女優・[[岸田今日子]]とヌメヌメの[[レズ]]、[[折檻]]シーンなど体当たり演技で中島貞夫に惚れられ、佐久間が下品な芝居をさせられて中島と絶交したため『続・大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』(1967年)の単独主演に大抜擢された。しかし岡田に「まだ裸が足りん!」と怒られ、これ以上はムリと東映をトンズラして[[フェロモン]]歌手としてデビュー。その後、大スターとなった<ref name="秘宝200708_83" />。岡田が中島を見限って次の監督に抜擢したのが石井輝雄であり作られた映画が『徳川女系図』となる。大奥物はその後、セットやら衣装やらを使い回して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]と組みドラマ化させ(『[[大奥 (テレビドラマ)|大奥]]』)、エログロなしの硬い内容にして奥様族の人気を集め、その後も何度も[[テレビドラマ]]化、映画化されている<ref name="悔いなき_148" /><ref name="秘宝200708_83" /><ref name="死なず_222-225" />。
*平山が手掛けた『[[がんばれ!!ロボコン]]』(1974年 - 1977年)のアイデアは『[[柔道一直線]]』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ。『柔道一直線』は「[[スポ根]]ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える[[視聴率]]を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていた[[エキストラ]]費が膨大にかかり赤字になっていた。『[[ジャイアントロボ]]』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は[[東映アニメーション|東映動画]]の田宮武から、「『[[魔法使いサリー]]』の製作費は赤字だが[[キャラクター商品]]が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは[[実写]]だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛い[[ロボット]]がやればいい」と思いつき「[[スポ根]]」に対して「ロボ根」という発想につながった」という<ref>東映ヒーロー名人列伝 、[[風塵社]]、1999年、p138-142</ref>。


[[石井輝男]]は岡田の意図を大胆に表現<ref name="私の30年_150-151" />、『徳川女系図』では待女たちに赤い[[褌]]をさせて女相撲をとらせ、[[折檻]]に[[どじょう]]責めを行うなど大衆の喜ぶ見せ場を作り大成功をとった<ref name="私の30年_150-151" />。本作の大ヒットで、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした。この影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、[[三朝れい子]]ら続々と[[レコード]][[ジャケット]]でヌードを披露する歌手が登場。それまで[[フレンチポップス|フレンチ歌謡]]を歌って燻っていた[[奥村チヨ]]が、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝で[[セミヌード]]を公開したり、1970年代に入ると[[渥美マリ]]らによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『[[23時ショー]]』などの[[深夜番組]]にも及ぼし、更に[[山本リンダ]]や[[夏木マリ]]らによる“セクシーアクション歌謡”や[[ピンク・レディー]]など、その後の音楽界にも影響を及ぼした<ref name="流行り歌_138-139" />。石井のエロ映画は「異常性愛路線」としてさらに量産され、描写が次第に激しくなり、刺激は刺激を呼び、グロテスクになって興行価値を失っていった<ref name="私の30年_150-151" />。しかしながら『徳川いれずみ師 責め地獄』『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』などは今なお稀代の[[カルト映画]]として名画座で喝采を浴び続けている<ref name="Hotwax和モノ事典_21" />。また[[1976年]]に日本でも大きな話題を呼んだ『[[スナッフ (映画)|スナッフ]]』を狙い、[[牧口雄二]]に「[[牛裂き]]」をテーマに撮れと指示を出した『[[徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑]]』も、日本では現在非ソフト化ながら、海外では『SHOGUN'S SADISM』のタイトルでビデオ・DVD化され人気があるという<ref name="女獄門帖_49-50" /><ref name="sadism" />。
*[[1969年]]から東映で制作した『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので<ref name="悔いなきわが映画人生330331"/>、「本格的な時代劇はやはり京都([[東映京都撮影所]])でなければ~ すでに[[東映]]の岡田茂常務にお願いして、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらった」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている<ref>[[逸見稔]]『黄門様はテレビ好き』、[[近代映画社]]、1993年、p115-128</ref>。岡田は[[徳川光圀|水戸光圀]]役は[[片岡千恵蔵]]にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて[[東野英治郎]]にしたと話している。[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]を抜擢した『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した<ref name="東映京都・テレビ映画"/>。岡田の長男・[[岡田裕介]]は逸見にスカウトされ芸能界入りした<ref>『黄門様はテレビ好き』、p96、97</ref>。


『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』『徳川女系図』など「ポルノ路線」がエスカレートして、外国から人気ポルノ女優を呼び寄せ製作した。これは1970年から1971年にかけて北欧、西欧のポルノ(洋画ポルノ・洋ピン、[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア映画]])が解禁になり、膨大な成人映画が輸入されて国産ポルノを圧迫するようになったため<ref name="秘宝200705_99" />。1973年には洋画ポルノ専門館の入場物数は229万人以上と、映画全体の一割を占める程になった<ref name="秘宝200909_99" />。外国のポルノは本番が当たり前なので、今考えたら不思議なアダ名を付けられていた“本番女優”こと[[シャロン・ケリー]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から呼んで“夜の帝王”と呼ばれた梅宮辰夫と共演させたり、“フリーセックス”の国として有名だった[[スウェーデン]]から[[クリスチーナ・リンドバーグ]]、[[イタリア]]から[[サンドラ・ジュリアン]]を呼び寄せ、果ては女優ではなく『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』で、30センチ巨根が話題となった男優・[[ハリー・リームス]]まで呼んだ<ref name="ピンキー_248-251" />。シャロン・ケリー主演作は『セックス爆弾 ダイアナ・モンロー』として企画されたが、「そんなタイトルでは商売にならない」と一蹴し『色情トルコ日記』に変更させ梅宮と共演させた。本番女優が邦画ポルノに出るという事で、メディアの興味は「果たして彼女は梅宮辰夫と本番をいたすのか?」に集中。シャロンは「梅宮サンさえよければ、ワタシOKね」とリップサービス。対する梅宮も「向うがそのつもりなら、そういう事もあるな」とやる気まんまんのコメントを各所で炸裂。東映も「その結果が知りたければ映画を見よう」とナイス戦略で煽った<ref name="ピンキー_251" />。東映は洋画ポルノの配給もしていたため、例えば[[シャロン・ケリー]]は、この『色情トルコ日記』の後に、シャロン・ケリー主演のアメリカン・[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア]]『ポルノ捜査局 シャロン・ケリー』を輸入し配給しており、こうした話題の提供も、こちらの[[プロモーション]]の意味合いもあった<ref name="秘宝200909_99" />。この他、1975年『[[エマニエル夫人]]』の日本での大ヒットを受け、[[シルビア・クリステル]]を日本に呼び、『エマニエル夫人 京都の休日』なる、『[[ローマの休日]]』のエマニエル夫人版を企画したこともある。これには『[[続エマニエル夫人]]』を公開しようとしたヘラルド映画が「営業妨害だ」と怒り、またシルビア・クリステルの出演料も一作目の3万5000フラン(約260万円)から、続編は100万フラン(約7000万円)に跳ね上がったといわれたため、高額のギャラが払い切れず頓挫したといわれる<ref name="週刊朝日19750808_36" />。
*「[[イナズマンF]]」の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。


サンドラ・ジュリアンと『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年)で[[ベッドシーン]]を演じたのが[[宮内洋]]。東映はこの他、[[ひし美ゆり子]](『好色元禄{{Color|black|&#12953;}}物語』1975年他)や[[伴大介]](『処女監禁』1977年)など、子供の憧れのヒーロー俳優を惜しげもなくポルノに投入した<ref name="ピンキー_30-31" />。なお、サンドラは現場スタッフがカルチャーショックを起こす程、裸が綺麗で以後、現場での前貼りが禁止になったという(下も[[金髪|ブロンド]]だったという)。ひし美の場合は、当時ひし美は低迷していて『好色元禄{{Color|black|&#12953;}}物語』の出演が話題となって『[[仁義なき戦い|新仁義なき戦い 組長の首]]』に抜擢された。この映画の最初のタイトルは『好色一代女』だったが、岡田がタイトルを変更した<ref name="ピンキー_70_84_104-105他" />。
*組合活動で会社批判をやっていた[[中島貞夫]]は、岡田に呼び出され「オイ[[能書き]]ばっかりたれとらんと、何ぞ企画出さんかい」と言われ、どうせこちらの企画が通るなずもないと、茶化したつもりで『[[くの一忍法帖]]』なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。当時、[[山田風太郎]]の同作はベストセラーになっていたが、男女の[[忍者]]が"[[陰茎|アレ]]"と"[[陰唇|ソレ]]"を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。ところが数日後、岡田にまた呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われさらに数日後、「監督やるもんがおらん。お前やってみい」「裸、バンバン入れてなァ」「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」と言われた。脳天割りのようなショックを受け、土下座して許しを請うたが、30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れ、やむなく承諾<ref name="『私と東映』中島貞夫"/>。[[萬屋錦之介]]からは「お前とは絶交だ」と言われたが<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p60</ref>、助っ人を同窓生・[[倉本聰]]に頼み、これが自身の監督デビュー作となった。女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航したが、この『[[くノ一忍法帖#東映版|くの一忍法]]』には、[[深作欣二]]夫人・[[中原早苗]]や[[野川由美子]]、[[芳村真理]]などが出ている。映画はヒットしたため、また岡田から「裸が少ない。もっと盛大に女優を脱がせろ」と、こちらの苦しみなどどこ吹く風の第二弾製作指令が出て二作目『くノ一化粧』を製作<ref name="『私と東映』中島貞夫"/>。今度は男忍者が普通では面白くないと、当時は怪優と呼ばれた[[西村晃]]や[[小沢昭一]]を起用した。中島はその後も[[小川知子 (女優)|小川知子]]や[[大原麗子]]ら、女優を脱がせる仕事が増え、女の裸を見ると胃が痛むようになり以来、治っていないという<ref>中島貞夫『映像のスリット わが映画人生』、p148-165</ref><ref name="毎日新聞2011518">毎日新聞、2011年5月18日11面</ref>。


なお「ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが、1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した[[多岐川裕美]]の主演デビュー作として知られる『[[聖獣学園]]』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田が宣言し、この年6月に公開された前記の[[シャロン・ケリー]]と[[梅宮辰夫]]のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した<ref name="サンデー毎日19740324_40" /><ref name="秘宝200909_99" />。しかしこれは表向き。[[日活ロマンポルノ]]の自社製作2本+外注1本の3本立ての興行形式に目を付け「自社でできることは自社でやれ」と、1973年春からポルノ補強のため、「500万(製作費)映画」「500万ポルノ」路線を発足。これは『仁義なき戦い』などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、二番館の興行収入増を目的にしたもので、東映が1972年以降外注ポルノを発注してきた[[若松プロダクション|若松プロ]]や[[向井寛|向井プロ]]らのピンクプロダクションを切るため<ref name="秘宝200804_99" />。ところが、この1974年のクリスマス映画『[[エマニエル夫人]]』が興収17億円の大ヒット、世間にエロ映画熱が再燃した。『[[エマニエル夫人]]』の配給元は、当時まだ弱小の[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客も続出。エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!と、東映得意の前言撤回し1975年正月早々、『下苅り半次郎 {{Color|black|&#12953;}}観音を探せ』『怪猫トルコ風呂』で「ポルノ路線」を再開させた。同年7月には日活が[[田口久美]]主演で『東京エマニエル夫人』を製作するや、負けじと10月に同じ田口主演で先の[[ハリー・リームス]]映画のパクリ『東京ディープ・スロート夫人』を製作した<ref name="ピンキー_252-253" />。
*[[藤山寛美]]が[[1966年]]、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた<ref name="悔いなきわが映画人生251252"/>。寛美がこの頃、東映の[[任侠映画]]に出ているのはこのため。


1974年、[[香港]]の[[ゴールデン・ハーベスト]]社が「高度な技術水準」を誇る日本の[[ポルノ映画]]に目を付け、東映ポルノの監督や女優を借り入れしたいと東映に打診してきた。当時の香港はポルノをオープンに作ることはできず、技術も未熟。また裸になる女優も少なく、女優で指名されたのが、ゴールデン・ハーベスト社の[[レイモンド・チョウ]]社長お気に入りといわれた[[池玲子]]であった。当時、[[ブルース・リー]]の4本しかない空手映画<ref group="注釈">本来はブルース・リーは[[カンフー映画]]なのだが、日本のマスメディアは長い間、空手映画と表記した。</ref>の4本目『[[ドラゴンへの道|THE WAY OF THE DRAGON]]』を巡り、東映洋画と[[東宝東和]]が激しい争奪戦をしていた。前3作は東宝東和[[配給]]で日本でも爆発的大ヒットを記録し、ちょうど争っていたこの年の8月に『THE WAY OF THE DRAGON』も[[ニューヨーク]]で公開され大ヒットを記録。配給権を獲得すれば大儲けは確実という情勢で、争いは熾烈を極めた。岡田の「是が非でもとれ」の至上命令を受け<ref name="クロニクル1_189"/>、池玲子を“[[人身御供]]”にし東映はこの『THE WAY OF THE DRAGON』の獲得に成功。タイトルを『[[ドラゴンへの道]]』として翌[[1975年]]公開、映画は大ヒットし東映洋画部が躍進する切っ掛けとなった<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。この『[[ドラゴンへの道]]』を見た岡田の感想は「なんや電気紙芝居みたいやな」だったという<ref name="クロニクル1_189"/>。東宝東和は配給を予定して『ドラゴン電光石火』と言うタイトルまで付けていたといわれる。なお、池は当初、出稼ぎを渋っていたが、レイモンド・チョウから“女ブルース・リーに”という殺し文句により承諾。当時は東映初の“国際女優”と騒がれ、撮影を終え帰国した池は、自分はまったく脱がなかったと説明。「香港ではスターは脱がないの。ヌード専門の代役がいて裸は要求されなかったわ。これからは演技力で勝負したい」と話したが、作られた映画は何故か『悪魔の生首(魅影心魔)』という[[ホラー映画]]であった<ref name="週刊朝日19740222_36他" /><ref name="ピンキー_51" />。なお、東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け<ref name="クロニクル1_189"/>、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』は大ヒット、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]主演の『[[昼顔 (映画)|昼顔]]』を[[リバイバル]]ヒットさせていたが<ref name="クロニクル2_53" />、この『[[ドラゴンへの道]]』獲得で洋画部は大きく飛躍した<ref name="ロードショー197603_196-199"/><ref name="クロニクル2_61" />。
*[[中島貞夫]]の三作目で出世作『893愚連隊』(1966年)は、岡田が企画を通してくれたもの<ref name="キネ旬2011760">『キネマ旬報』2011年7月上旬号、p60</ref>。五作目のオールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年) は、大川社長は猛反対したが、俊藤が「岡田さんを巻き込めば出来る」と企画を通してくれたものという<ref name="毎日新聞2011518"/>。1968年の『尼寺{{Color|black|&#12953;}}物語』は、岡田の企画で「大奥もの」の続編を命じた中島貞夫がシリーズ物を撮るのを嫌うため「大奥をやらないなら[[尼寺]]で考えろ」と命じたもので<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p60</ref>、[[藤純子]]出演55本目にして初めての主演映画。1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、東映と太いパイプのあった[[ルポライター]]の[[竹中労]]が岡田に持ち込んできた"時代の風俗ドキュメント"という企画で、[[グァルティエロ・ヤコペッティ]]の『[[世界残酷物語]]』に影響されたものであろうが、[[16mmフィルム|16ミリカメラ]]を手に日本中を走りまわり、[[グループセックス#乱交パーティー|乱交パーティ]]、ヌード・スタジオ、[[浮世風呂]]、[[フーテン]]集会、[[アングラ演劇|アングラ芝居]]、猟奇儀式、[[ボディペインティング]]、[[赤線地帯]]、[[ピンク映画|ブルーフィルム]]撮影現場、[[ストリップ|関西ストリップ]]、[[沖縄県|沖縄]]で[[B-52 (航空機)|B52]]が[[ベトナム]]行きの爆弾を積む現場、等を撮ろうというものであった。しかし岡田に呼びだされた中島は企画は「助平物語だ」と言われたといい、最初から全国のセックスゾーンに目を付けてこれをドキュメントでとらえることを意図していた<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p150、151</ref>。劇映画が3000万円ぐらいの製作費のときに1900万やるから好きに使っていい」と言われ、竹中の先導で[[山谷]]の運動の他、[[唐十郎]]を起用し[[ベトナム戦争]]時の沖縄を撮影、それらに性風俗を加味した<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p173、174</ref>。この映画は大ヒットし大川社長に呼ばれ「チミィ、よくやってくれた。役者は一人も出なくて金儲け出来るなんて信じられない」とごほうびをもらったという<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p173、174</ref>。『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』には、他に『[[家畜人ヤプー]]』の[[沼正三]]もマゾヒストとして出演している。当時はまだ「[[奇譚クラブ]]」に連載中だったが、中島は沼に薦められ『家畜人ヤプー』の映画権を代理人の[[康芳夫]]を通じて取得。シナリオも完成したが、[[右翼]]の抗議を恐れた東映が難色を示し頓挫。その後、独立プロでの製作を目指し[[虫プロ]]と提携し、イタリアの映画会社との合作で映画化を試みたが資金難でやはり頓挫している<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p63</ref>。


=== 「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」 ===
*『驚異のドキュメント 日本浴湯物語』(1971年)は、車の中で「またドキュメント、何かないか」と岡田に言われ「いい湯だなホイホイってのはどうです。[[安保闘争#70年安保|70年安保]]も終わってるし、何となくぬるま湯に浸かっている日本列島ってのはどうですかね」と言ったら「おう、それもいけるかもしれんな」と決まった企画。当時流行っていた[[ザ・ドリフターズ]]の「いい湯だな」に引っ掛けたもの。これら"風俗ドキュメント"は、[[出産]]や[[温泉]]、[[ソープランド|トルコ]]のシーンなど商売になった部分を拡げろと指示を出し"セックスドキュメント"としてシリーズ化された。『セックスドキュメント エロスの女王』(1973年)のメインは、ローズ秋山夫妻の[[SMクラブ|SMショウ]]だった。こうしたシリーズ化を最初から「助平物語だ」と言ったように、最初から性風俗の[[ドキュメント]]を売りにしようと考えていた岡田が企画の大本といえる。『瀬降り物語』(1985年)は、以前中島が映画化しようとして中止になった企画だが、[[今村昌平]]が『[[楢山節考]]』で[[カンヌ映画祭]]グランプリを獲ったことで、もう一度考えてみろと指示して中島に撮らせたもの<ref>中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、ワイズ出版、2004年、p75、97、113、126-132、133、147、148、202、377<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p242、243</ref>。
「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」と岡田は話しているが<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/>、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い<ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="Hotwax8_43" /><ref name="ピンキー_36-37_107" /><ref name="たかおdeadlink" />。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷異常虐待物語』『元禄女系図』『恐怖女子高校』『徳川セックス禁止令・色情大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『ポルノの帝王』『色情トルコ日記』『三匹の牝蜂』『ネオンくらげ』『未亡人殺しの帝王』『尼寺{{Color|black|&#12953;}}物語』『温泉みみず芸者』『温泉あんま芸者』『温泉こんにゃく芸者』『({{Color|black|&#12953;}}女子大寮』『にっぽん’69セックス猟奇地帯』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』など<ref name="キネ旬2011071_44_70" />、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場の[[インスピレーション]]が非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している<ref name="波瀾_158-164"/><ref name="悔いなき_36_137" />。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初“[[エロ]]”はタイトルに付いてなく、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった<ref name="秘宝200710_XX" /><ref name="Hotwax8_18" /><ref name="Hotwax8_43" /><ref name="ピンキー_105" />。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、[[天尾完次]]プロデューサーや監督の[[鈴木則文]]をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた<ref name="秘宝200910_74" />。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった<ref name="秘宝200910_74" />。この映画は17歳だった(撮影時16歳)[[池玲子]]のデビュー作<ref name="三国志_283-288" />。天尾が池の[[履歴書]]を成人のものに100%捏造したとされる<ref name="ピンキー_30-31" /><ref name="メンズサイゾー20090822_ピンキー" />。


[[浅草]]の有名[[すき焼き]]店「いろは」をモデルにした清純派・[[佐久間良子]]の映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、佐久間を号泣させた<ref name="Hotwax8_16" />。
*企画を通す際には、岡田社長の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があり、面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫んだ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p152-153</ref>。脚本家・[[掛札昌裕]]が『セックス十番勝負』というタイトルを思いつき、天尾完次プロデューサーに「とんでもない」と言われたが、岡田の前で本読みすると「面白い!」とOKとなった<ref>「映画秘宝」2007年10月号、洋泉社</ref>。脚本家の[[倉本聰]]が東京大学時代の同窓生[[中島貞夫]]監督と『くの一忍法帖』の脚本を書いた際、岡田の本読みに立会い集中力と批評眼に感嘆した<ref name="キネ旬2011760"/><ref>倉本聰『愚者の旅』理論社、2002年、p73</ref>。最初に出来た倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた<ref>新潮45 新潮社、p204</ref>。倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない」と、東映に籍を置かせて欲しいと中島を介して岡田に頼んできたという<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』p165-166</ref>。


[[内藤誠]]は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・[[小野竜之助]]ともども心底、恐怖した。[[黒岩重吾]]原作の『背徳の伝道者』を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『[[11PM]]』で[[大橋巨泉]]が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった<ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="戦う女たち_266-267" /><ref name="ピンキー_107" />。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している<ref name="遊撃の美学_204" />。「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『[[人生劇場 飛車角]]』『昭和侠客伝』『緋牡丹博徒』など<ref name="キネ旬2011071_41-42"/><ref name="石井輝男_124-125" />。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという<ref name="私の30年_148-149" />。
*[[1967年]]、東映でも[[喜劇]]路線を敷こうと、当時[[東宝]]にいた[[渥美清]]を引き抜いた。その頃東宝には[[森繁久弥]]や[[伴淳三郎]]、[[三木のり平]]ら大御所がいて、渥美はほとんど売れてなかった。[[瀬川昌治]]監督の「喜劇・列車」シリーズほか数本主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは[[松竹]]が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『[[男はつらいよ]]』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる[[若山富三郎]]の「[[極道]]」シリーズ、1975年から始まる菅原文太の「[[トラック野郎]]」シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p145、146</ref><ref>『ポスターでつづる東映映画史』、p71</ref>。


=== 『飢餓海峡』 ===
*[[安藤昇]]とは仲がよく、安藤が弟分の[[菅原文太]]ともども[[松竹]]に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は東映に移籍したもの<ref name="岡田茂自伝219223"/>。安藤も東映を中心に出演するが専属ではなかったという<ref>[[別冊宝島]] (922)『ヤクザが認めた任侠映画』、2003年、p6</ref>。
日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる[[1965年]]、[[内田吐夢]]監督『[[飢餓海峡]]』も岡田の企画。[[東映東京撮影所|東撮]]所長として『[[五番町夕霧楼]]』『[[人生劇場 飛車角]]』『[[王将 (1962年の映画)|王将]]』とヒット作を連打し、意気軒昴の岡田が[[東京オリンピック]]の行われる[[1964年]]に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが[[水上勉]]原作の『[[飢餓海峡]]』の映画化であった。「内田吐夢さんに現代劇を撮らせたい」と内田を説得し、脚本に[[鈴木尚之]]を起用したが、大川社長から労組対策で再度[[東映京都撮影所|京撮]]所長に戻れと命じられ、脚本の完成を見ずに、後事を辻野力弥に託し1964年2月京撮に転任した。岡田はヒロイン・杉戸八重役には[[佐久間良子]]を推したが、内田は[[左幸子]]を起用した。脚本、撮影ともに難航、また所長が辻野の後は[[今田智憲]]と三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。撮影が終了したのが1964年12月初旬。当初、映画の公開は11月を予定していたが、封切は1965年1月に変更となった。完成時の本作は200分に及び、あまりにも長いため、東映はフィルムカットを決定した。これを内田に無断で進めたため、内田が、短縮版を封切るなら「監督・内田吐夢」の文字を外せと強く反発、「カット事件」として大騒ぎになった。[[スポーツ紙]]は競って連日、大見出しで事件を報道し映画界も騒然となった。内田が京都の岡田に相談に来たため、大川社長と二人で話してくれと段取りをつけ、大川と内田の二者面談での歩みより183分の修復版を作ることが決定。直営館では183分の修復版、その他の契約館では167分の短縮版を上映するという条件を内田に飲ませた、と岡田は自伝『悔いなきわが映画人生』には書いている。本作はこの「カット事件」と莫大な予算超過の問題で、岡田以下幹部が大川から始末書の提出、減給処分を受けた。各人が書いた始末書の全文は一字の違いもなく、撮影所の掲示板に張り出され、見学者が後を絶たない程の酷い辱めを受けた。本作の製作のクレジットは大川であるが、岡田は『[[飢餓海峡]]』は3人の所長を代表とする東撮の従業員が打ち立てた青春の記念碑であった、と述べている<ref name="クロニクル1_200-201"/><ref name="私説内田吐夢伝_320-366"/><ref name="悔いなき_144-145"/><ref group="注釈">[http://www.jmdb.ne.jp/1965/co000150.htm 1965年の映画『飢餓海峡』のスタッフ・キャスト一覧(jmdb)]。初公開時の完全版、およびカット版の上映状況についても記されている。</ref>。


=== 『女番長』シリーズ ===
*[[渡辺プロダクション]]社長・[[渡辺晋]]が[[クレイジーキャッツ]]を東映に売り込んできた際、岡田は[[谷啓]]を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払う[[ギャラ]]の三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、[[ハナ肇]]→[[松竹]]、谷啓→東映、[[犬塚弘]]→[[大映]]、[[植木等]]→[[東宝]]、とそれぞれバラで売り出す[[青写真]]を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという<ref>軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』[[文藝春秋]]、[[1992年]]3月</ref>。
[[1971年]]から始まる『女番長』シリーズは、ヤクザ映画以外にもう1本、若者のラインがないと興行が弱いとシリーズ化させたもの。この『女番長』と書いて「スケバン」と読ませるのは[[鈴木則文]]監督の発想。当時から「スケバン」という言葉はあったが、あまり出版物には出ておらず、たいていカタカナ表記であった<ref name="秘宝200904_66" />。鈴木は「岡田さんが『牝蜂』って言葉が好きで、何かと「牝蜂でいこう!」って言うから、それだけじゃつまらんと『女番長』と付けた」と話している<ref name="ピンキー_103" />。


後期の『女番長』シリーズを監督した[[関本郁夫]]は、初監督作<ref group="注釈">公開順では『女番長 タイマン勝負』(1974年)。</ref>『女番長 玉突き遊び』(1974年)で、主演の[[叶優子]]を撮影中の事故で脚を骨折させ、撮影が丸一年中断、たまたま岡田が京都撮影所に来たので制作部長と謝りに行ったら、夜飲みに行くまで暇だった岡田が、「どこまで撮ったんだ、見せてみろ」と、仮つなぎもしてないバラバラのフィルムを見てくれた。試写の間は生きたここちがしなかったというが、岡田が「なかなかよう撮ってる。面白かったぞ」と言ってくれたため、制作部長もその場にいたおかげで、その後も引き続き映画が撮れるようになったという<ref name="秘宝200904_68" />。
*「映画は元来、不良青年がつくるもの」という意味で、岡田が言い出した有名な〔不良性感度〕なる語<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p156-157</ref>の発想について以下のような説明をしている。「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」<ref>『私の東映30年』1991年、p150</ref>。また「私はつくる側としては珍しほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している<ref name="クロニクル東映Ⅱ18"/><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20110513-OYT8T00322.htm 岡田茂・東映名誉会長を悼む 実行力と「不良性」の人]</ref>。


*1966年当時、[[ピンク映画]]が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めた。ソロバンをはじいてみると[[松竹]]の年間配給よりも総体で上回ることが分かったため、プロデューサーの天尾完次を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが[[石井輝男]]に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と始まったのが「東映[[ポルノ映画]]」の誕生「エログロ路線」のスタートである<ref name="悪趣味邦画劇場276280"/><ref name="eiga-chirashi"/>。当時は[[独立プロ]]がこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があった。その第1弾は[[山田風太郎]]の原作を映画化したエロ[[忍者]]映画『忍びの卍』([[鈴木則文]]監督、1968年)だったのだが、女優が脱がなかった為に興行的に失敗。そこで前記のような指示を出し本格的にピンク路線がスタートした。撮影では[[ヌード]]女優が大挙出演したため、素っ裸の女優が撮影所内を飛び回る状況となり、こっそり覗きにくるスターもいたが、[[若山富三郎]]や[[鶴田浩二]]ら大スターや、[[前貼り]]を扱う羽目になったスタッフらが、冒涜したと声明文を発する事態となった。[[佐藤忠男]]ら[[映画評論家|評論家]]は酷評しマスコミが面白がって取り上げたが、宣伝効果抜群でいずれも大ヒットした<ref>小説東映 映画三国志、p272-283<br />和モノ事典 1970's 人名編、シンコーミュージック・エンタテイメント、2006年12月、p21<br />『石井輝男映画魂』、184-205、339頁<br />『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』、p190-195<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p36、37、220-237</ref>。


=== 空手映画 ===
*声明文発布の問題は当時のマスコミにも取り上げられ大きな論争を巻き起こした。「東映の作る映画が社会的に不健全映画とされ、反文化的と目されるとなると、東映企業のイメージ・ダウンを招く危険がある」と言われたりしたが、岡田はそんな事にはおかまいなし。「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と反論。この騒動を結局うやむやの内にフェードアウトさせた<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31</ref><ref name="キネ旬19696"/>。
[[ジャッキー・チェン]]の日本で最初に劇場公開された主演映画『[[ドランクモンキー 酔拳]]』は、香港のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は[[1979年]]に『[[トラック野郎#熱風5000キロ|トラック野郎 熱風5000キロ]]』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』)だけは岡田が「誰がこんなんもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である<ref name="李小龍的伝説_19990503"/>。


1974年『[[激突! 殺人拳]]』から[[千葉真一]]主演で始まる空手映画は、岡田が[[ブルース・リー]]の[[カンフー映画]]を真似て始めたもので、任侠ものが下火になっていた東映にとってもエポックメーキングな作品となった<ref name="SummaArs_殺人拳"/>。当時は何をやってもうまくいかず、久々の大当たりがよっぽど嬉しかったらしく、[[祝電]]をいっぱい打っていたという<ref name="困った_91-92" />。さらに[[ニュー・ライン・シネマ|ニュー・ライン・シネマ社]]が「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と東映から興行権を買い、英題『[[:en:The Street Fighter|The Street Fighter]]』とネーミングして、[[1974年]][[11月12日]]から[[セントルイス]]・[[アトランタ]]・[[ニューオーリンズ]]・[[ワシントンD.C]]など、主に[[アメリカ合衆国|全米]]中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出た<ref name="報知新聞19741227" />。その後、[[1975年]]の1月下旬から、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]のRKO劇場や[[マンハッタン]]でも封切りされ、千葉の代表作となった<ref name="報知新聞19741227"/>。過去の[[日本映画]]で、比較的入ったといわれる『[[砂の女]]』や、[[ニューヨーク・タイムズ]]などの批評欄をにぎわした[[黒澤明]]作品でさえ、アートシアター系で上映された程度であった<ref name="報知新聞19741227"/>。同時期に上映されていた[[パニック映画]]『[[エアポート'75]]』『[[オデッサ・ファイル]]』、[[ミュージカル映画]]『[[星の王子さま]]』などの大作を押えて、『The Street Fighter』が5位進出したと<ref name="Variety19741218_XX" />、アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた<ref name="報知新聞19741227"/>。このヒットで[[ヨーロッパ]]・[[オーストラリア]]・[[カナダ]]の映画会社が、東映に『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた<ref name="報知新聞19741227"/>。ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な空手と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている<ref name="報知新聞19741227"/>。千葉真一の熱狂的ファンである[[クエンティン・タランティーノ]]が脚本を手がけた『[[トゥルー・ロマンス]]』では、主人公が映画館で『激突! 殺人拳』を観ているシーンを描いている<ref name="秘宝グラインド_164" />。
*岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、[[江戸時代]]に芝居が"[[河原者|カワラもの]]"と言われたときからの[[興行|見世物]]の役割だ。この二つが、映画にとって[[陰陽]]の[[元素|エレメント]]になっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に摑まえたがるのが困るところだ」などと話していた<ref name="キネ旬201176567">キネマ旬報、2011年7月上旬号、p65-67</ref>。[[加藤泰]]は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している<ref>『加藤泰映画華』、p136</ref>。


スケ番シリーズを打ち切って、折からのブームに乗り空手路線を掲げる。「現代版お竜」を謳い文句に「日本初の[[スタントマン|スタントウーマン]]」と銘打ち『[[女必殺拳]]』(1974年)で主演デビューさせたのが[[志穂美悦子]]であった<ref name="週刊サンケイ19740801_28" />。最初は[[アンジェラ・マオ]]主演で企画したが諸事情で実現せず、志穂美の抜擢となったとされる<ref name="秘宝200804_84" /><ref name="週刊朝日19750606_17" /><ref name="秘宝201012_101" />。
*『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』を共同製作した[[佐藤正之]]は岡田について「大映の[[永田雅一]]、松竹の[[城戸四郎]]は[[芸術]]や[[エンターテイメント]]が優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。[[大高宏雄]]は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという[[二分法]]をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は"映画は商品である"ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「[[1960年代]]後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貧欲に取り込んでいった"超=商業主義"とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている<ref>キネマ旬報、2011年7月上旬号、p68-70</ref>。


=== その他2 ===
*[[石井輝男]]は岡田の意図を大胆に表現<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>、『徳川女系図』では待女たちに赤い[[褌]]をさせて女相撲をとらせ、[[折檻]]に[[どじょう]]責めを行うなど大衆の喜ぶ見せ場を作り大成功をとった<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>。本作の大ヒットで、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした。この影響は映画界のみならず音楽界・[[歌謡曲|歌謡ポップス]]にまで及ぼした。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、[[三朝れい子]]ら続々と[[レコード]][[ジャケット]]でヌードを披露する歌手が登場。それまで[[フレンチポップス|フレンチ歌謡]]を歌って燻っていた[[奥村チヨ]]が、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝で[[セミヌード]]を公開したり、1970年代に入ると[[渥美マリ]]らによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『[[23時ショー]]』などの[[深夜番組]]にも及ぼし、更に[[山本リンダ]]や[[夏木マリ]]らによる"セクシーアクション歌謡"や[[ピンク・レディー]]など、その後の音楽界にも影響を及ぼした<ref>別冊宝島 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史、[[宝島社]]、2008年、p138-p139</ref>。石井のエロ映画は「異常性愛路線」としてさらに量産され、描写が次第に激しくなり、刺激は刺激を呼び、グロテスクになって興行価値を失っていった<ref>『私の東映30年』、p150、151</ref>。しかしながら『徳川いれずみ師 責め地獄』、『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』などは今なお稀代の[[カルト映画]]として名画座で喝采を浴び続けている<ref>和モノ事典 1970's 人名編、[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]、2006年12月、p21</ref>。また[[1976年]]に日本でも大きな話題を呼んだ『[[スナッフ (映画)|スナッフ]]』を狙い、[[牧口雄二]]に「[[牛裂き]]」をテーマに撮れと指示を出した『[[徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑]]』も、日本では現在非ソフト化ながら、海外では「SHOGUN'S SADISM」のタイトルでビデオ・DVD化され人気があるという<ref>筒井武文、多田功『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』、[[ワイズ出版]]、1996年、p49-50<br />[http://www.japan-shock.com/shogun'ssadism.html Shogun's Sadism]
*[[俊藤浩滋]]が東映に関わるようになるのは[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった[[鶴田浩二]]の東映移籍や、[[水原茂]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]監督招聘の仲介などで[[大川博]]と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという<ref name="波瀾_149" />。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった<ref name="風雲_125-130" /><ref name="おそめ_269-271" /><ref name="ニッカン20011013web_訃報" />。
</ref>。


*[[若山富三郎]]は[[1959年]]、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという<ref name="波瀾_104-105" />。[[1960年]]東映に移籍した[[鶴田浩二]]は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた[[俊藤浩滋]]が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には[[三船敏郎]]がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという<ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="任侠伝_92-94" />。
*「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」と岡田は話しているが<ref name="dodo-geneki"/>、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p43<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p36、37、107<br />[http://shinjuku.cool.ne.jp/n_tko/diary0510.html たかおのにっき10月号!!]</ref>。『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』、『残酷異常虐待物語』、『元禄女系図』、『恐怖女子高校』、『徳川セックス禁止令・色情大名』、『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』、『ポルノの帝王』、『色情トルコ日記』、『三匹の牝蜂』、『ネオンくらげ』、『未亡人殺しの帝王』、『尼寺{{Color|black|&#12953;}}物語』、『温泉みみず芸者』、『温泉あんま芸者』、『温泉こんにゃく芸者』、『({{Color|black|&#12953;}}女子大寮』、『にっぽん’69セックス猟奇地帯』、『好色妻』、『色罠』、『変態魔』、『後家ごろし』、『多情な乳液』、『悶絶』、『エロ将軍と二十一人の女妾』など<ref>キネマ旬報、2011年7月上旬号、p44、70</ref>、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場の[[インスピレーション]]が非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している<ref name="岡田茂自伝158164"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p36、137</ref>。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初"[[エロ]]"はタイトルに付いてなく、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった<ref>「映画秘宝」2007年10月号、洋泉社<br />Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p18、43<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p105</ref>。"エロ○○"のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、[[天尾完次]]プロデューサーや監督の[[鈴木則文]]をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた<ref>「映画秘宝」2009年10月号、洋泉社、p74</ref>。また映画の「クライマックスは"セックス対決"で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で"勝負したら締まる"」という岡田理論であった<ref>「映画秘宝」2009年10月号、p74</ref>。この映画は17歳だった(撮影時16歳)[[池玲子]]のデビュー作<ref>小説東映 映画三国志、p283-288</ref>。天尾が池の[[履歴書]]を成人のものに100%捏造したとされる<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31<br />[http://news.livedoor.com/article/detail/4309868/ 東映ピンキー&バイオレンス映画再ブーム! 鈴木則文監督独占インタビュー]</ref>。


*1960年東映に入社した[[三田佳子]]は、『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している<ref name="スポーツ報知20110510web_菅原文太" /><ref name="産経MSN20110511_菅原文太" />。
*[[鈴木則文]]は、若い時せっせと正統社会派を目指していたが、デビュー作『大阪ど根性物語 どえらい奴』(1965年)の抜擢で、鈴木自身の中に[[コメディ]]的センスを見抜いていた「岡田さんはやっぱり眼力があったんだろうね」と話している<ref>映画秘宝、2007年10月号、p52<br />[[日本経済新聞]]、2011年5月13日、p40</ref>。それは後の[[トラック野郎]]シリーズに繋がったと話している。


*[[1961年]]、東京撮影所長に着任し[[高倉健]]や[[鶴田浩二]]ら男性スターの“現代アクション路線”を敷く<ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="秘宝200903_23" />。その配給=ニュー東映の量産体制を担うべく、露骨に日活の『[[小林旭|渡り鳥シリーズ]]』のマネをしろと抜擢したのが深作欣二らだった。深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年)は、のちに深作がアクション演出を活かしたTVシリーズ『[[キイハンター]]』([[TBSテレビ|TBS]]系、1968年 - 1973年)の先駆けともいえる作品となっている<ref name="深作欣二の軌跡_154" />。
*『エロ将軍と二十一人の女妾』を作ったきっかけは、『徳川セックス禁止令』という映画の冒頭のナレーション「[[徳川家斉]]に二十一人の愛妾あり」を聞いて「次は『二十一人の女妾』でやろう」と簡単に決めたもの<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p18</ref><ref>映画秘宝、2007年10月号、p52</ref>。この映画は後に91分が30分に編集され、タイトルを『将軍と二十一人の愛妾』に変更された版が、地方の温泉宿など[[有料テレビ]]用に流された<ref>『ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画』、[[樋口尚文]]、[[平凡社]]、2009年、p117、118</ref>。こうした[[東映ビデオ]]製作のポルノ・ビデオは、これまで製作したポルノ・フィルムをコマ切れにし、その中からベッド・シーンなどをピックアップして30分程度の別物にまとめたものだが、同社(社長は岡田が兼務)は、このビデオに勝手に[[映画倫理委員会|映倫マーク]]を付けていた。映倫マークは映画館で上映される際に映倫の審査をパスした上で頂く物だが、再編集すれば再度の審査が必要と映倫は怒り、[[警視庁]]防犯部も「売りさばいた形跡濃厚」と捜査に乗り出した。この1972年当時、岡田は翌年からの「日活ロマンポルノ裁判」の法廷対策などを協議する映倫維持委員会の常任委員長でもあり非常にバツが悪かった<ref>[[サンデー毎日]]、1972年10月29日号、p42</ref>。 


*[[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]は、高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の[[勝新太郎]]が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて[[大映]]に引き抜こうとした。引き抜きは阻止したが、松方は1969年から1970年に数本、[[大映]]で主演作品がある<ref name="波瀾_188-190"/><ref name="NEWS24_20110510_思い出"/>。
*『徳川女系図』より少し前となる『大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』(1967年)は最初、監督・[[今井正]]と脚本は大御所の[[八木保太郎]]で企画した。岡田は東映の屋台骨の任侠路線と並行して、新しい芽となるエロチシズム路線を打ち出す狙いを持ち、「<未知の世界><女の世界>を覗き見」という発想から、将軍以外の立ち入りを許されない男子禁制の女の園、将軍のおたねを宿すことが最上であるとする女たちの権謀術数の世界、皆が知らない[[大奥]]の秘密の部分を見せ場に考えていた<ref>『私の東映30年』、p150、151<br />春日太一『時代劇は死なず!』、p30-32</ref>。ところが、今井と八木はテレビでよくある歴史物語に仕上げようとし、岡田の構想とはまるで違った作品をイメージしていた。八木に全面的に直して下さいとお願いしたが、言うことを聞かないので頭にきてこの二人を降ろし、脚本はチームを作り出来を競わせ、[[中島貞夫]]を監督に起用、岡田の[[懐刀]]・[[翁長孝雄]]に製作させ、後の「東映エログロ路線」を決定づけた<ref name="私と東映中島貞夫3"/><ref name="キネ旬201174445"/><ref>『私の東映30年』、p150、151<br />岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p154<br />「映画秘宝」2007年8月号、p83</ref>。[[キャスト|キャスティング]]も全て岡田によるもの<ref name="キネ旬201174445"/>。この映画は[[富司純子|藤純子]]、[[小川知子 (女優)|小川知子]]、[[佐久間良子]]の3人を並べて主演にした[[オムニバス映画]]だが、当時の藤と小川は新人扱い。小川は本作で先輩女優・[[岸田今日子]]とヌメヌメの[[レズ]]、[[折檻]]シーンなど体当たり演技で中島貞夫に惚れられ、佐久間が下品な芝居をさせられて中島と絶交したため『続・大奥{{Color|black|&#12953;}}物語』(1967年)の単独主演に大抜擢された。しかし岡田に「まだ裸が足りん!」と怒られ、これ以上はムリと東映をトンズラして[[フェロモン]]歌手としてデビュー。その後、大スターとなった<ref>「映画秘宝」2007年8月号、p83</ref>。岡田が中島を見限って次の監督に抜擢したのが石井輝雄であり作られた映画が『徳川女系図』となる。大奥物はその後、セットやら衣装やらを使い回して[[関西テレビ放送|関西テレビ]]と組みドラマ化させ(「[[大奥 (テレビドラマ)]]」)、エログロなしの硬い内容にして奥様族の人気を集め、その後も何度も[[テレビドラマ]]化、映画化されている<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p148<br />「映画秘宝」2007年8月号、p83<br />春日太一『時代劇は死なず!』、p222-225</ref>。


*[[1962年]]、映画『王将』で東映作品に初主演した[[村田英雄]]に「[[金剛力士|仁王]]の[[刺青]]を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた<ref name="悔いなき_137" />。
*これら「ポルノ路線」がエスカレートして、外国から人気ポルノ女優を呼び寄せ製作した。これは1970年から1971年にかけて北欧、西欧のポルノ(洋画ポルノ(洋ピン)、[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア映画]])が解禁になり、膨大な成人映画が輸入されて国産ポルノを圧迫するようになったため<ref>映画秘宝、2007年5月号、p99</ref>。1973年には洋画ポルノ専門館の入場物数は229万人以上と、映画全体の一割を占める程になった<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。外国のポルノは本番が当たり前なので、今考えたら不思議なアダ名を付けられていた“本番女優”こと[[シャロン・ケリー]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から呼んで“夜の帝王”と呼ばれた梅宮辰夫と共演させたり、“フリーセックス”の国として有名だった[[スウェーデン]]から[[クリスチーナ・リンドバーグ]]、[[イタリア]]から[[サンドラ・ジュリアン]]を呼び寄せ、果ては女優ではなく『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』で、30センチ巨根が話題となった男優・[[ハリー・リームス]]まで呼んだ<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p248-251</ref>。シャロン・ケリー主演作は『セックス爆弾 ダイアナ・モンロー』として企画されたが、「そんなタイトルでは商売にならない」と一蹴し『色情トルコ日記』に変更させ梅宮と共演させた。本番女優が邦画ポルノに出るという事で、メディアの興味は「果たして彼女は梅宮辰夫と本番をいたすのか?」に集中。シャロンは「梅宮サンさえよければ、ワタシOKね」とリップサービス。対する梅宮も「向うがそのつもりなら、そういう事もあるな」とやる気まんまんのコメントを各所で炸裂。東映も「その結果が知りたければ映画を見よう」とナイス戦略で煽った<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p251</ref>。東映は洋画ポルノの配給もしていたため、例えば[[シャロン・ケリー]]は、この『色情トルコ日記』の後に、シャロン・ケリー主演のアメリカン・[[ハードコア (ポルノ)|ハードコア]]『ポルノ捜査局 シャロン・ケリー』を輸入し配給しており、こうした話題の提供も、こちらの[[プロモーション]]の意味合いもあった<ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。この他、1975年『[[エマニエル夫人]]』の日本での大ヒットを受け、[[シルビア・クリステル]]を日本に呼び、『エマニエル夫人 京都の休日』なる、『[[ローマの休日]]』のエマニエル夫人版を企画したこともある。これには『[[続エマニエル夫人]]』を公開しようとしたヘラルド映画が「営業妨害だ」と怒り、またシルビア・クリステルの出演料も一作目の3万5000フラン(約260万円)から、続編は100万フラン(約7000万円)に跳ね上がったといわれたため、高額のギャラが払い切れず頓挫したといわれる<ref>週刊朝日、1975年8月8日号、p36</ref>。


*[[北島三郎]]は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと[[俊藤浩滋]]さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している<ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポーツ報知20110510web_見舞い断る" />。
*サンドラ・ジュリアンと『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年)で[[ベッドシーン]]を演じたのが[[宮内洋]]。東映はこの他、[[ひし美ゆり子]](『好色元禄{{Color|black|&#12953;}}物語』(1975年)他)や[[伴大介]](『処女監禁』(1977年))など、子供の憧れのヒーロー俳優を惜しげもなくポルノに投入した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p30、31</ref>。なお、サンドラは現場スタッフがカルチャーショックを起こす程、裸が綺麗で以後、現場での前貼りが禁止になったという(下も[[金髪|ブロンド]]だったという)。ひし美の場合は、当時ひし美は低迷していて『好色元禄{{Color|black|&#12953;}}物語』の出演が話題となって『[[仁義なき戦い|新仁義なき戦い 組長の首]]』に抜擢された。この映画の最初のタイトルは『好色一代女』だったが、岡田がタイトルを変更した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p70、84、104、105、182</ref>。


*東映入社後、なかなか芽の出ない[[高倉健]]をスターにしようと[[1962年]]、かつて[[市川崑]]監督が撮って大当たりした[[小島政二郎]]原作の『[[三百六十五夜]]』の再映画化を企画。[[美空ひばり]]を主演にして[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]の[[三人娘]]を総登場させ高倉健、[[鶴田浩二]]を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した<ref name="三国志_211-214" /><ref name="風雲_72-73" />。翌[[1963年]]、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『[[人生劇場 飛車角]]』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて[[1964年]]、岡田が「[[忠臣蔵]]を下敷きにした群集劇を」と企画し[[笠原和夫]]に命じて書かせた『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』シリーズ(-1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した<ref name="クロニクル1_172-175"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="日本俠客伝_22"/><ref name="ポスター_193" />。
*なお「ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが、1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した[[多岐川裕美]]の主演デビュー作として知られる『[[聖獣学園]]』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田が宣言し、この年6月に公開された前記の[[シャロン・ケリー]]と[[梅宮辰夫]]のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した<ref>サンデー毎日、1974年3月24日号、p40</ref><ref>「映画秘宝」2009年9月号、p99</ref>。しかしこれは表向き。[[日活ロマンポルノ]]の自社製作2本+外注1本の3本立ての興行形式に目を付け「自社でできることは自社でやれ」と、1973年春からポルノ補強のため、「500万(製作費)映画」「500万ポルノ」路線を発足。これは『仁義なき戦い』などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、二番館の興行収入増を目的にしたもので、東映が1972年以降外注ポルノを発注してきた[[若松プロダクション|若松プロ]]や[[向井寛|向井プロ]]らのピンクプロダクションを切るため<ref>映画秘宝、2008年4月号、p99</ref>。ところが、この1974年のクリスマス映画『[[エマニエル夫人]]』が興収17億円の大ヒット、世間にエロ映画熱が再燃した。『[[エマニエル夫人]]』の配給元は、当時まだ弱小の[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客も続出。エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!と、東映得意の前言撤回し1975年正月早々、『下苅り半次郎 {{Color|black|&#12953;}}観音を探せ』『怪猫トルコ風呂』で「ポルノ路線」を再開させた。同年7月には日活が[[田口久美]]主演で『東京エマニエル夫人』を製作するや、負けじと10月に同じ田口主演で先の[[ハリー・リームス]]映画のパクリ『東京ディープ・スロート夫人』を製作した<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p252、253</ref>。


*[[富司純子|藤純子]]は京都撮影所に見学に行ったところを[[マキノ雅弘]]にスカウトされ東映入りしたというのが定説だが、岡田は自著に、高校生の藤がカメラを買いたいと「おそめ」<ref group="注釈">[[俊藤浩滋]]の[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]。</ref>にきて[[俊藤浩滋]]にねだっていたのを見初め、映画に出てもらおうとすぐに連絡を取ったと書いている<ref name="悔いなき_155" />。藤純子の当たり役『[[緋牡丹博徒]]』は当時、[[大映]]が[[江波杏子]]で『女賭博師』シリーズをやっていて、なら東映は女の任侠ものをやろう、女剣劇物を書け、と[[鈴木則文]]に命じ始めたもので、当初考えていたタイトルは『女狼』だった<ref name="任侠が青春_126-127" />。藤を想定しての企画のため、藤を口説き「着物を脱いで肌の[[刺青]]を見せなければならないよ」と納得させた上で出演させた<ref name="産経MSN20110511_富司純子"/><ref name="任侠が青春_136" /><ref name="ニッカン20011013web_訃報"/><ref name="キネ旬2011071_45" />。もともと時代劇に緋牡丹物は幾つかはあったが「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた<ref name="キネ旬2011071_45"/>。「緋牡丹のお竜」という設定も岡田が考えたもの<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="三国志_247-248" /><ref name="悔いなき_155" /><ref name="任侠が青春_129" />。
*[[内藤誠]]は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・[[小野竜之助]]ともども心底、恐怖した。[[黒岩重吾]]原作の「背徳の伝道者」を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『[[11PM]]』で[[大橋巨泉]]が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった<ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref>『戦う女たち』、[[四方田犬彦]]・鷲谷花、[[作品社]]、2009年、p266、267<br />『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p107</ref>。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している<ref>『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』、p204</ref>。「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『[[人生劇場 飛車角]]』、『昭和侠客伝』、『緋牡丹博徒』など<ref name="キネ旬201174142"/><ref> 『石井輝男映画魂』、p124、125</ref>。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという<ref>『私の東映30年』、p148-149</ref>。


*[[佐藤純彌]]は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という[[字幕]]をたっぷりした墨の筆跡で、[[榊莫山]]みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった[[澤井信一郎]]は、この岡田の一言が[[トラウマ]]になり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて[[明朝体]]か[[ゴシック体]]にしているという<ref name="映画の呼吸_40_118" />。
*映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという<ref>男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p20</ref>。


*[[佐久間良子]]は、いわゆるお嬢様役から180度異なる[[娼婦]]役に抜擢され代表作とした『[[人生劇場 飛車角]]』や『[[五番町夕霧楼]]』について、岡田や厳しい教えを受けた[[田坂具隆]]監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている<ref name="クロニクル1_172-175"/><ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="シネマトゥデイ20110511_葬儀" /><ref name="0東映三十年_125" />。
*1968年、[[山下耕作]]監督、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]脚本、[[鶴田浩二]]主演の「[[博奕打ち 総長賭博]]」は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして[[三島由紀夫]]が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている<ref>鎧を着ている男たち、徳間書店、1987年、p160-168</ref>。


*東急社長の[[五島昇]]はソリの合わない大川の扱いに頭を悩まし、[[1964年]]に東映を東急グループから切り離すが1967、8年頃、大川ジュニアがやるボウリング場がものすごく儲かり、猛威を振るっていて、岡田の映画づくりとまったく合わず、東大経済学部の後輩でもある岡田に「ウチ(=東急)に来い」「おまえこのまま東映にいても社長になれんぞ。やがて社長は大川ジュニアになる」「ウチで映画の製作をやらせてやる」と誘われるが、「いまは、東映はおれの子分ばかりなんだ。子分達(=撮影所の連中)を見捨てるわけにはいかない」とこれを固辞した<ref name="小説東急王国_247-257"/><ref name="任侠伝_225-226" />。五島は岡田を弟分として何かと目を掛け、相当高く評価していた。[[高岩淡]]の話では、1968年に岡田は[[俊藤浩滋]]、[[今田智憲]]の3人で東映を退社し、[[電通]]と組んで独立会社を作るという案を練っていたという。しかし、現場のトップや監督、役者などが集まったこの年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、みな岡田を囲ってもの凄く、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと、それは素晴らしかったです、で退社の話はなくなったんでしょう、と述べている<ref name="文化通信ジャーナル200903_77"/>。なお東急との関係は、1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している<ref name="波瀾_191-196" />。
*[[三島由紀夫]]とは任侠映画を通じて深い付き合いがあったという。三島は任侠映画のファンで、よく試写室に来ていた。「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという<ref>山平重樹『任侠映画が青春だった』、p9</ref>。


*1964年、[[石井輝男]]に撮らせた『御金蔵破り』は、[[フィルム・ノワール]]『[[地下室のメロディー]]』からアイデアを頂いた時代劇。[[ジャン・ギャバン]]を[[片岡千恵蔵]]、[[アラン・ドロン]]を[[大川橋蔵]]のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・[[朝丘雪路]]のスキャンダルをのせた<ref name="石井輝男_134-136_315" />。1968年の[[工藤栄一]]監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため<ref name="光と影_149" />。
*東京撮影所所長時代、[[梅宮辰夫]]を売り出すために考えたのが「[[不良番長]]」シリーズ(1968年-1972年)。これも[[マーロン・ブランド]]の代表作『[[乱暴者]]』([[1953年]])をパクッたもので「不良番長」という題名も岡田が考えた<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p120、121、135</ref>。シリーズ中、5作を監督した[[内藤誠]]は、岡田に「[[ロジャー・コーマン]]の『ワイルド・エンジェル』で映画をやるから観て来い」と言われ、脚本の[[野田幸男]]と一緒に観に行ったという<ref name="toei-video.book10"/>。内藤は当時がもうコーマンばかり観て『白昼の幻想』を観て[[ヒッピー]]文化を研究し『不良番長 出たとこ勝負』(1970年)で「同じように[[暴走族]]を100台集めてバイクの集団を走らせた。映画の撮影なのでルールを守って走りましょうと言ったが、誰も守ってくれず、あれで初めて[[パトカー]]に連行された」と話している<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p109、110</ref>。


*[[高田宏治]]は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、その[[プロット]]は、ガリレオという主人公が、[[伴天連]]の[[妖術]]師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけが[[ウジ|ウジ虫]]だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から[[小便]]をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという<ref name="高田宏治_10-11" />。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している<ref name="高田宏治_186" />。[[小沢茂弘]]も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している<ref name="困った_79" />。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している<ref name="任侠伝_165" />。
*このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p135<br />[http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2004/kaiho-0404/kaiho0404-02.htm 私の新人時代, 吉田 達 (東映)]</ref>。なお「不良番長」シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、[[俊藤浩滋]]には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.7、p137</ref>。


*[[1964年]]、大川の命で京撮のリストラ対策に京撮所長に再び戻る。「日本で最低の撮影所」ともいわれた[[東映東京撮影所]]を『[[人生劇場 飛車角]]』などで甦らせたばかりであったため、[[鶴田浩二]]などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという<ref name="沢島忠全仕事_249" />。京撮所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]、[[月形龍之介]]以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="沢島忠全仕事_249"/><ref name="死なず_28" />。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた<ref name="昭和の劇_1-4" /><ref name="映像のスリット_185-186" />。時代劇の巨匠・[[松田定次]]を潰すため、その弟子、[[平山亨]]らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという<ref name="秘宝200710_XX" />。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた<ref name="品川隆二と近衛十四郎_74-77" />。切られた側の松田定次や[[東千代之介]]などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある<ref name="品川隆二と近衛十四郎_74-77"/><ref name="悔いなき_272" />。
*[[1969年]]の十月大作『[[日本暗殺秘録]]』は、岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と[[天尾完次]]に命じて始まった企画<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p149</ref>。渡邊が[[血盟団事件]]で[[井上準之助]]を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている<ref>渡邊達人『私の東映30年』、p149</ref>。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“[[テロリズム|テロ]]”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため<ref name="私と東映中島貞夫3"/>、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。


*平山が手掛けた『[[がんばれ!!ロボコン]]』(1974年 - 1977年)のアイデアは『[[柔道一直線]]』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ。『柔道一直線』は「[[スポ根]]ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える[[視聴率]]を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていた[[エキストラ]]費が膨大にかかり赤字になっていた。『[[ジャイアントロボ]]』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は[[東映アニメーション|東映動画]]の田宮武から、「『[[魔法使いサリー]]』の製作費は赤字だが[[キャラクター商品]]が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは[[実写]]だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛い[[ロボット]]がやればいい」と思いつき「[[スポ根]]」に対して「ロボ根」という発想につながった」という<ref name="東映ヒーロー名人列伝_138-142" />。
*[[浅草]]の有名[[すき焼き]]店「いろは」をモデルにした清純派・[[佐久間良子]]の映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、佐久間を号泣させた<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.8、p16</ref>。


*[[1969年]]から東映で制作した『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』は、[[パナソニック|松下電器]]の広報課長だった[[逸見稔]]が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので<ref name="悔いなき_330-331"/>、「本格的な時代劇はやはり京都([[東映京都撮影所]])でなければ〜 すでに[[東映]]の岡田茂常務にお願いして、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらった」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている<ref name="黄門様_115-128" />。岡田は[[徳川光圀|水戸光圀]]役は[[片岡千恵蔵]]にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて[[東野英治郎]]にしたと話している。[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]を抜擢した『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した<ref name="0東映京都25年_1"/>。岡田の長男・[[岡田裕介]]は逸見にスカウトされ芸能界入りした<ref name="黄門様_96-97" />。
*25歳まで[[広告代理店]]で[[サラリーマン]]をやっていた[[渡瀬恒彦]]が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという<ref name="BIG tomorrow"/><ref name="meistervol9"/>。


*『[[イナズマンF]]』の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。
*[[1969年]]、[[こむら返り]]の病気で苦しむ[[マキノ雅弘]]を日活に売り飛ばす(マキノ談<ref>マキノ雅弘 『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』 [[平凡社]]、1977年、p432、433</ref>)。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている<ref>『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』、p447</ref>。[[小沢茂弘]]を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後[[易者]]や[[山伏]]などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p7、18、21、63、89、90、96、206</ref>。


*組合活動で会社批判をやっていた[[中島貞夫]]は、岡田に呼び出され「オイ[[能書き]]ばっかりたれとらんと、何ぞ企画出さんかい」と言われ、どうせこちらの企画が通るなずもないと、茶化したつもりで『[[くノ一忍法帖]]』なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。当時、[[山田風太郎]]の同作はベストセラーになっていたが、男女の[[忍者]]が“[[陰茎|アレ]]”と“[[陰唇|ソレ]]”を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。ところが数日後、岡田にまた呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われさらに数日後、「監督やるもんがおらん。お前やってみい」「裸、バンバン入れてなァ」「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」と言われた。脳天割りのようなショックを受け、土下座して許しを請うたが、30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れ、やむなく承諾<ref name="facebook私と東映中島貞夫_2"/>。[[萬屋錦之介]]からは「お前とは絶交だ」と言われたが<ref name="秘宝200909_60" />、助っ人を同窓生・[[倉本聰]]に頼み、これが自身の監督デビュー作となった。女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航したが、この『[[くノ一忍法帖#くノ一忍法|くノ一忍法]]』には、[[深作欣二]]夫人・[[中原早苗]]や[[野川由美子]]、[[芳村真理]]などが出ている。映画はヒットしたため、また岡田から「裸が少ない。もっと盛大に女優を脱がせろ」と、こちらの苦しみなどどこ吹く風の第二弾製作指令が出て二作目『[[くノ一忍法帖#くノ一化粧|くノ一化粧]]』を製作<ref name="facebook私と東映中島貞夫_2"/>。今度は男忍者が普通では面白くないと、当時は怪優と呼ばれた[[西村晃]]や[[小沢昭一]]を起用した。中島はその後も[[小川知子 (女優)|小川知子]]や[[大原麗子]]ら、女優を脱がせる仕事が増え、女の裸を見ると胃が痛むようになり以来、治っていないという<ref name="映像のスリット_148-165" /><ref name="毎日新聞20110518_11" />。
*[[1970年]]頃、同郷で中学の後輩、[[カルビー]]社長・[[松尾孝]]が常務時代の岡田を訪ねて来て、[[スポンサー]]になれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた[[渡邊亮徳]]が「今度の[[毎日放送]]の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自身満々に話していた『[[仮面ライダー]]』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた[[仮面ライダースナック]]は社会現象になった<ref>[[大下英治]] 『日本ヒーローは世界を制す』、[[角川書店]]、1995年、p19、20、29、30</ref>。


*[[藤山寛美]]が[[1966年]]、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた<ref name="悔いなき_251-252"/>。寛美がこの頃、東映の[[任侠映画]]に出ているのはこのため。
*[[高倉健]]は1970年「[[ヤクザ映画]]で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した<ref name="サンデー毎日19721210">サンデー毎日、1972年12月10日号、p26-29</ref>。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない<ref name="サンデー毎日19721210"/><ref>サンデー毎日、1972年12月10日号、p27</ref>。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは"高倉健蒸発""仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た"などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)<ref>『任侠映画伝』、p224-232</ref>。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の<ref name="サンデー毎日19721210"/>映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる<ref name="cyzo201106"/><ref name="サンデー毎日19721210"/><ref>サンデー毎日、1974年11月12日号、p50<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110511/enn1105111250012-n1.htm 東映・岡田茂名誉会長しめやかに通夜 健さんは弔電 - 芸能 - ZAKZAK]<br />[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110510/enn1105101600017-n1.htm 東映ドン岡田茂さん死去…健さん、文太、松方が通す“仁義” - 芸能 - ZAKZAK]<br />[http://bunshun.jp/shukanbunshun/thisweek_life/110526_1.html 岡田茂元東映会長の葬儀を欠席した健さん流“弔い方”週刊文春2010年5月26日号、p53]</ref>。


*[[中島貞夫]]の三作目で出世作『893愚連隊』(1966年)は、岡田が企画を通してくれたもの<ref name="キネ旬2011071_60" />。五作目のオールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年) は、大川社長は猛反対したが、俊藤が「岡田さんを巻き込めば出来る」と企画を通してくれたものという<ref name="毎日新聞20110518_11"/>。1968年の『尼寺{{Color|black|&#12953;}}物語』は、岡田の企画で「大奥もの」の続編を命じた中島貞夫がシリーズ物を撮るのを嫌うため「大奥をやらないなら[[尼寺]]で考えろ」と命じたもので<ref name="秘宝200909_60" />、[[藤純子]]出演55本目にして初めての主演映画。1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、東映と太いパイプのあった[[ルポライター]]の[[竹中労]]が岡田に持ち込んできた“時代の風俗ドキュメント”という企画で、[[グァルティエロ・ヤコペッティ]]の『[[世界残酷物語]]』に影響されたものであろうが、[[16mmフィルム|16ミリカメラ]]を手に日本中を走りまわり、[[グループセックス#乱交パーティー|乱交パーティ]]、ヌード・スタジオ、[[浮世風呂]]、[[フーテン]]集会、[[アングラ演劇|アングラ芝居]]、猟奇儀式、[[ボディペインティング]]、[[赤線地帯]]、[[ピンク映画|ブルーフィルム]]撮影現場、[[ストリップ|関西ストリップ]]、[[沖縄県|沖縄]]で[[B-52 (航空機)|B52]]が[[ベトナム]]行きの爆弾を積む現場、等を撮ろうというものであった。しかし岡田に呼びだされた中島は企画は「助平物語だ」と言われたといい、最初から全国のセックスゾーンに目を付けてこれをドキュメントでとらえることを意図していた<ref name="私の30年_150-151" />。劇映画が3000万円ぐらいの製作費のときに1900万やるから好きに使っていい」と言われ、竹中の先導で[[山谷]]の運動の他、[[唐十郎]]を起用し[[ベトナム戦争]]時の沖縄を撮影、それらに性風俗を加味した<ref name="任侠が青春_173-174" />。この映画は大ヒットし大川社長に呼ばれ「チミィ、よくやってくれた。役者は一人も出なくて金儲け出来るなんて信じられない」とごほうびをもらったという<ref name="任侠が青春_173-174" />。『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』には、他に『[[家畜人ヤプー]]』の[[沼正三]]もマゾヒストとして出演している。当時はまだ『[[奇譚クラブ]]』に連載中だったが、中島は沼に薦められ『家畜人ヤプー』の映画権を代理人の[[康芳夫]]を通じて取得。シナリオも完成したが、[[右翼]]の抗議を恐れた東映が難色を示し頓挫。その後、独立プロでの製作を目指し[[虫プロ]]と提携し、イタリアの映画会社との合作で映画化を試みたが資金難でやはり頓挫している<ref name="秘宝200909_63" />。
*[[1971年]]から始まる「女番長」シリーズは、ヤクザ映画以外にもう1本、若者のラインがないと興行が弱いとシリーズ化させたもの。この「女番長」と書いて「スケバン」と読ませるのは[[鈴木則文]]監督の発想。当時から「スケバン」という言葉はあったが、あまり出版物には出ておらず、たいていカタカナ表記であった<ref>「映画秘宝」2009年4月号、洋泉社、p66</ref>。鈴木は「岡田さんが『牝蜂』って言葉が好きで、何かと「牝蜂でいこう!」って言うから、それだけじゃつまらんと『女番長』と付けた」と話している<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p103</ref>。


*企画を通す際には、岡田社長の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があり、面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫んだ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという<ref name="昭和の劇_152-153" />。脚本家・[[掛札昌裕]]が『セックス十番勝負』というタイトルを思いつき、天尾完次プロデューサーに「とんでもない」と言われたが、岡田の前で本読みすると「面白い!」とOKとなった<ref name="秘宝200710_XX" />。脚本家の[[倉本聰]]が東京大学時代の同窓生[[中島貞夫]]監督と『くノ一忍法帖』の脚本を書いた際、岡田の本読みに立会い集中力と批評眼に感嘆した<ref name="キネ旬2011071_60"/><ref name="愚者の旅_73" />。最初に出来た倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた<ref name="新潮45p200409_204" />。倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない」と、東映に籍を置かせて欲しいと中島を介して岡田に頼んできたという<ref name="波瀾_165-166" />。
*後期の「女番長」シリーズを監督した[[関本郁夫]]は、初監督作<ref>公開順では「女番長 タイマン勝負」(1974年)。</ref>「女番長 玉突き遊び」(1974年)で、主演の[[叶優子]]を撮影中の事故で脚を骨折させ、撮影が丸一年中断、たまたま岡田が京都撮影所に来たので制作部長と謝りに行ったら、夜飲みに行くまで暇だった岡田が、「どこまで撮ったんだ、見せてみろ」と、仮つなぎもしてないバラバラのフィルムを見てくれた。試写の間は生きたここちがしなかったというが、岡田が「なかなかよう撮ってる。面白かったぞ」と言ってくれたため、制作部長もその場にいたおかげで、その後も引き続き映画が撮れるようになったという<ref>「映画秘宝」2009年4月号、洋泉社、p68</ref>。


*[[1967年]]、東映でも[[喜劇]]路線を敷こうと、当時[[東宝]]にいた[[渥美清]]を引き抜いた。その頃東宝には[[森繁久弥]]や[[伴淳三郎]]、[[三木のり平]]ら大御所がいて、渥美はほとんど売れていなかった。[[瀬川昌治]]監督の『喜劇・列車』シリーズほか数本に主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは[[松竹]]が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『[[男はつらいよ]]』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる[[若山富三郎]]の『[[極道]]』シリーズ、1975年から始まる菅原文太の『[[トラック野郎]]』シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった<ref name="悔いなき_145-146" /><ref name="ポスター_71" />。
*[[1971年]]、大川博社長の逝去で、後任社長には岡田、[[坪井与]]、俊籐浩滋、[[片岡千恵蔵]]らの名前が挙がったが、やはり抜群の才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという<ref>[[田山力哉]]『千恵蔵一代』[[社会思想社]]、1987年、p139、140、196-198</ref>。


*[[安藤昇]]とは仲がよく、安藤が弟分の[[菅原文太]]ともども[[松竹]]に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は東映に移籍したもの<ref name="波瀾_219-223"/>。安藤も東映を中心に出演するが専属ではなかったという<ref name="ヤクザが認めた_6" />。
*岡田が社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時[[通産大臣]]だった[[田中角栄]]を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは[[住友銀行|住友]]ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて[[五島昇]]の所に行ったところ「[[三菱銀行|三菱]]にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行[[頭取]]の[[伊部恭之助]]に会うと慌てて「それは違う。[[堀田庄三]]さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった<ref>『僕らはそれでも生きていく!』、小石原昭、p157-158</ref>。


*[[渡辺プロダクション]]社長・[[渡辺晋]]が[[クレイジーキャッツ]]を東映に売り込んできた際、岡田は[[谷啓]]を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払う[[ギャラ]]の三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、[[ハナ肇]]→[[松竹]]、谷啓→東映、[[犬塚弘]]→[[大映]]、[[植木等]]→[[東宝]]、とそれぞれバラで売り出す[[青写真]]を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという<ref name="ナベプロ帝国の興亡_XX" />。
<!--大仰に書いているが内輪の構想段階でつぶれたプロジェクトの裏話にしか読めない*[[1982年]]に『[[海峡 (映画)|海峡]]』というタイトルで[[青函トンネル]]を題材にした映画が東宝で作られたが、これ以前の[[1979年]]頃、[[菅原文太]]が[[愛知和男]]の選挙の応援の帰りの汽車の中で、[[竹下登]]と愛知と話し、田中角栄の発案で[[日本鉄道建設公団|鉄建公団]]が建設中の青函トンネルを映画化したらどうだろう、という話が出て、菅原が俊藤に相談、俊藤が岡田に聞くと「面白いかもわからんな」と岡田が田中角栄にコンタクトを取り、岡田と俊藤、菅原、愛知の4人で田中に会いに行くと田中は大喜びで、すぐその場で鉄建公団の[[川島廣守]]総裁に電話をかけて一発OKとなった。しかし[[黒部ダム]]のようなドラマチックな話がないため脚本が難しく困っていると『[[太陽を盗んだ男]]』の関係から、菅原が[[長谷川和彦]]を推薦するから、俊藤は若い感性による斬新な切り口での人間ドラマを期待し、長谷川にいっぱい金を渡して[[北海道]]に取材旅行に行かせたら、長谷川は飲み食いで金を全て使い切った挙句、「[[竜飛岬]]に[[UFO]]が降りてくる」という脚本を持って行って俊藤が激怒、結局この企画は頓挫した<ref>『任侠映画伝』、p236-238</ref>。-->


*『[[日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声]]』を共同製作した[[佐藤正之]]は岡田について「大映の[[永田雅一]]、松竹の[[城戸四郎]]は[[芸術]]や[[エンターテイメント]]が優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。[[大高宏雄]]は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという[[二分法]]をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「[[1960年代]]後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貧欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている<ref name="キネ旬2011071_68-70" />。
*[[1972年]]秋、経営窮状の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げて[[パ・リーグ]]は崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄を[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・オーナー[[中村長芳]]が[[太平洋クラブ]]の支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌[[1973年]]1月、[[PR]]効果だけが目的と思われる[[不動産]]会社・[[日拓ホーム]]にフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「[[今里広記]]を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝([[西村拓郎]]の父)に球団経営を勧めたもの。売却額は8億円と書かれたものが多いが<ref>[[サンデー毎日]]、1973年2月4日号、p23</ref><ref name="ookawa"/><ref name="hochi.yomiuri"/>、岡田は自伝で3億円と書いている<ref>『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、p211</ref>。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた<ref>闘技場の人、佐山一郎、1992年12月、p14、15、27、28</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090811.html 映画界のドン、球界のドンをチクリ]</ref>。


*[[鈴木則文]]は、若い時せっせと正統社会派を目指していたが、デビュー作『大阪ど根性物語 どえらい奴』(1965年)の抜擢で、鈴木自身の中に[[コメディ]]的センスを見抜いていた「岡田さんはやっぱり眼力があったんだろうね」と話している<ref name="秘宝200710_52" /><ref name="日本経済新聞20110513_40" />。それは後の[[トラック野郎]]シリーズに繋がったと話している。
*[[テレビドラマ]]「[[長谷川伸シリーズ]]」をやってた頃、[[俊藤浩滋]]の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の[[山下耕作]]に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と[[高岩淡]]にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下"さん"」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p82、185</ref>。


*映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという<ref name="男気_20" />。
*[[1973年]]、東映の企画で黒崎出版から発行されていた「[[テレビランド]]」を編集スタッフごと[[徳間書店]]に移したが、これを[[徳間康快]]社長と二人で[[銀座]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で決めた<ref name="三流週刊誌編集部"/>。徳間書店の「テレビランド」刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の「[[アニメージュ]]」創刊、[[宮崎駿]]([[スタジオジブリ]])等へと展開していく足がかりとなった<ref name="三流週刊誌編集部"/>。徳間が活字(出版、[[東京タイムズ]])、オーディオ(音楽、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]])文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年[[大映]]を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった<ref>萩原信一郎『龍になった男 小説・徳間康快』、2001年、p151</ref>。


*1968年、[[山下耕作]]監督、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]脚本、[[鶴田浩二]]主演の『[[博奕打ち 総長賭博]]』は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして[[三島由紀夫]]が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている<ref name="鎧_160-168" />。
*[[富司純子|藤純子]]は約10年間の東映専属で"任侠映画の花"として一世を風靡、90本の映画に出演し[[1972年]]、[[歌舞伎]]俳優の[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]と結婚し引退を表明した。俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑なで諦めざるを得なかった。ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため<ref>サンデー毎日、1972年3月19日号、p44</ref>。看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。挙式3ヵ月前に封切られた「緋牡丹博徒シリーズ」第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の[[私鉄|私鉄電車]]の[[中吊り広告]]や、普段付き合いのない[[週刊誌]]まで広告を出した。藤は新しい企画には出ないとこちらも頑なであったが、引退記念映画の製作を俊藤に断固要求し藤を説得<ref>『任侠映画伝』、p166、164</ref>、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけ、東映オールスター結集による引退記念映画『関東緋桜一家』を製作。これを藤の挙式直前に封切った。『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた<ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生』、p177</ref><ref>[[九州スポーツ]]、2007年7月4日18面</ref>。藤純子引退の後、すぐに"ポスト藤純子"探しを始めた<ref>『任侠映画伝』、p165</ref>。[[トヨタ]]と[[タイアップ]]し賞品付きで藤の後継者を一般募集した。映画館のロビーに「ポスト藤純子ご推薦ください、合格者は100万円、推薦者には[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を進呈」というポスターを張り出した。<!--合格したのは[[中村英子]]だったとされるが、中村は俊藤がスカウトしたとされるため、一般の本当の新人を募集したのかは不明。これでは「Wikipedia発の都市伝説」-->この後『緋ぢりめん博徒』に出演した中村英子、[[藤宏子|藤浩子]]、[[土田早苗]]、[[堀越陽子|堀越光恵]]、[[松平純子]]、[[池玲子]]の6人を和服の似合う美人に仕立てあげ、"ポスト藤純子"として順繰り売り出したが、時代が任侠映画を求めておらず、中村は元を取る前2年で結婚引退。藤、土田、堀越はテレビに、松平は歌手に、池は別路線に転身した。


*[[三島由紀夫]]とは任侠映画を通じて深い付き合いがあったという。三島は任侠映画のファンで、よく試写室に来ていた。「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという<ref name="任侠が青春_9" />。
*ただ[[日活ロマンポルノ|ポルノにシフト]]した[[日活]]を辞めてフリーになった[[梶芽衣子]]は、"ポスト藤純子"として東映が呼んで、任侠路線ではなく別路線の「[[女囚さそりシリーズ]]」(1972-1973年)でスターになった<ref name="悪趣味邦画劇場259262"/><ref>[[杉作J太郎]]・植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、徳間書店、1999年、p1、11、27<br />サンデー毎日、1972年3月19日号、p44<br />サンデー毎日、1973年3月16日号、p42<br />サンデー毎日、1973年9月23日号、p46<br />サンデー毎日、1973年12月9日号、p38<br />サンデー毎日、1974年2月3日号、p36<br />週刊サンケイ、1974年6月27日号、p26<br />週刊朝日、1974年5月17日号、p37、38</ref>。『[[女囚701号/さそり]]』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『[[女囚さそり 第41雑居房]]』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は[[俊藤浩滋]]が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという<ref>東京スポーツ 連載「梶芽衣子 あいつの好きそなブルース」⑩~⑯ 2011年6月</ref>。岡田や俊藤の説得がなければ「[[女囚さそりシリーズ]]」は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している<ref>[http://ameblo.jp/meikokaji/day-20090609.html 「女をやめたい」梶芽衣子4 梶芽衣子 オフィシャルブログ2009-06-09]</ref>。


*東京撮影所所長時代、[[梅宮辰夫]]を売り出すために考えたのが『[[不良番長]]』シリーズ(1968年-1972年)。これも[[マーロン・ブランド]]の代表作『[[乱暴者]]』([[1953年]])をパクッたもので『不良番長』という題名も岡田が考えた<ref name="Hotwax7_120-121_135" />。シリーズ中、5作を監督した[[内藤誠]]は、岡田に「[[ロジャー・コーマン]]の『ワイルド・エンジェル』で映画をやるから観て来い」と言われ、脚本の[[野田幸男]]と一緒に観に行ったという<ref name="0東映キネマ旬報_2"/>。内藤は当時がもうコーマンばかり観て『白昼の幻想』を観て[[ヒッピー]]文化を研究し『不良番長 出たとこ勝負』(1970年)で「同じように[[暴走族]]を100台集めてバイクの集団を走らせた。映画の撮影なのでルールを守って走りましょうと言ったが、誰も守ってくれず、あれで初めて[[パトカー]]に連行された」と話している<ref name="ピンキー_109-110" />。
*この他、当時高校三年生だった[[檀ふみ]]も"ポスト藤純子"と騒がれ東映入りした。壇は[[高岩淡]]の姪にあたる。壇は藤純子のキャラクターとは違うが、浪人中に[[NHK総合テレビジョン|NHK]]から声がかかり「[[連想ゲーム]]」のレギュラー解答者に登場、お茶の間のアイドルになった<ref>週刊サンケイ、1972年11月26日号、p38、39<br />週刊サンケイ、1979年3月15日号、p32、36</ref>。


*このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している<ref name="Hotwax7_135" /><ref name="ANPA200404_吉田達" />。なお『不良番長』シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、[[俊藤浩滋]]には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという<ref name="Hotwax7_137" />。
*[[1973年]]から始まる『仁義なき戦い』シリーズは、[[実録シリーズ|東映実録路線]]といわれ、その後、多くの実録[[ヤクザ映画]]が製作されたが、"実録"はヤクザ映画に留まらず、東映は勿論他社も"実録モノ"を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、[[東宝]]が[[池田大作]]の著作で[[創価学会]]第2代会長・[[戸田城聖]]の半生を映画化した『[[人間革命]]』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった<ref>週刊朝日、1973年12月7日号、p42</ref><ref>サンデー毎日、1974年1月13日号、p36、1974年2月17日号、p40</ref>。


*[[1969年]]の十月大作『[[日本暗殺秘録]]』は、岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と[[天尾完次]]に命じて始まった企画<ref name="私の30年_149" />。渡邊が[[血盟団事件]]で[[井上準之助]]を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている<ref name="私の30年_149" />。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“[[テロリズム|テロ]]”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3"/>、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。
*岡田は他の会社で[[レッドパージ]]された[[家城巳代治]]や[[今井正]]にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが<ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p259</ref>、どちらかというと[[右翼|右]]寄りの映画が多いため、その『日本共産党』の映画を企画し<ref name="争議あり ">『争議あり - 脚本家・荒井晴彦全映画論集』、p353-355</ref>製作しようとしたら社内から、一体うちの[[ポリシー]]は何なの?と批判が出た。これを「代々木([[日本共産党]])が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか「[[赤旗]]」の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。ところが制作は中止された。[[山城新伍]]はやはり東映は右寄りだから、おおかた[[宮本顕治]][[日本共産党委員長|委員長]]から[[クレーム]]がきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた[[渡辺政之輔]]の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説もある<ref name="争議あり "/><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p344-347</ref>。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された<ref>一言いうたろか、山城新伍、広済堂出版、p88-90<br />男気万字固め、[[吉田豪]]、[[エンターブレイン]]、p21-23<br />濃厚民族、[[浅草キッド]]、[[スコラマガジン]]、p65-66</ref>。岡田は[[1976年]]、[[部落解放同盟|解放同盟]]と組んで[[松本治一郎]]([[松本龍 (政治家)|松本龍]]の養祖父)の[[伝記]]映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという<ref>現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?、山城新伍、[[解放出版社]]、p77-77<br />男気万字固め、吉田豪、エンターブレイン、p22</ref>。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『[[いつかギラギラする日]]』の原案という<ref name="争議あり "/><ref>関根忠郎・[[山根貞男]]・[[山田宏一]]『惹句術―映画のこころ』[[講談社]]、p90</ref>。


*25歳まで[[広告代理店]]で[[サラリーマン]]をやっていた[[渡瀬恒彦]]が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという<ref name="BIGtomorrow200910_52"/><ref name="0東映_渡瀬恒彦"/>。
*こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、[[アドバルーン]]だけブチあげて実際は製作されないことが多かった。「田中角栄伝」や「実録・新日鉄」「実録・伊藤忠」「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|プロ野球黒い霧事件]]」「[[毛利郁子愛人刺殺事件]]」を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref>。1974年11月に起こった[[荒木虎美]]の「[[3億円保険金殺人事件]]」を現代版『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref>。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、[[東海大学]]の創立者・「[[松前重義]]伝」の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p186</ref>。実録物では他に1974年に「実録・紅白歌合戦」を企画したこともある。当時の[[NHK紅白歌合戦|紅白]]は[[視聴率]]が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない<ref>週刊朝日、1974年10月25日号、p36</ref>。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた<ref>週刊朝日、1973年11月9日号、p38、1975年2月14日号、p37</ref>。 


*[[1969年]]、[[こむら返り]]の病気で苦しむ[[マキノ雅弘]]を日活に売り飛ばす(マキノ談<ref name="マキノ雅弘自伝地_432-433" />)。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている<ref name="マキノ雅弘自伝地_447" />。[[小沢茂弘]]を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後[[易者]]や[[山伏]]などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている<ref name="困った_7_18_21他" />。
*映画化された物では[[小野田寛郎]]を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉の[[ルバング島]]での生活はまったく出てこない映画であった<ref>サンデー毎日、1974年5月19日号、p35</ref>。1974年暮れから公開された[[フランス映画]]『[[エマニエル夫人]]』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で[[佐久間良子]]を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を[[日活]]に売りつけたこともある。例によって佐久間はまったく脱がず[[昼メロ]]的な映画であった<ref>週刊サンケイ、1975年4月24日号、p28</ref>。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した<ref>週刊朝日、1973年11月9日号、p38</ref>。 


*[[1970年]]頃、同郷で中学の後輩、[[カルビー]]社長・[[松尾孝]]が常務時代の岡田を訪ねて来て、[[スポンサー]]になれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた[[渡邊亮徳]]が「今度の[[毎日放送]]の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自信満々に話していた『[[仮面ライダー]]』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた[[仮面ライダースナック]]は社会現象になった<ref name="日本ヒーロー_19-20_29-30" />。
*[[1975年]]の『[[三億円事件#映画|実録三億円事件 時効成立]]』という映画は、岡田が時効が迫った「[[三億円事件]]」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の[[岡田裕介]]で、現在の東映社長。言うまでもなく岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した<ref>『ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画』、[[樋口尚文]]、[[平凡社]]、2009年、p170、171</ref><ref>週刊サンケイ、1975年12月11日号、p31</ref><ref>映画秘宝、2008年4月号、p57</ref>。

*[[高倉健]]は1970年「[[ヤクザ映画]]で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した<ref name="サンデー毎日19721210_26-29" />。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない<ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/><ref name="サンデー毎日19721210_27" />。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)<ref name="任侠伝_224-232" />。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の<ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/>映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる<ref name="サイゾー201106_健さん"/><ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/><ref name="サンデー毎日19741112_50" /><ref name="ZAKZAK20110511_通夜" /><ref name="ZAKZAK20110510_仁義" /><ref name="週刊文春20100526web_53" />。
<!--大仰に書いているが内輪の構想段階でつぶれたプロジェクトの裏話にしか読めない*[[1982年]]に『[[海峡 (映画)|海峡]]』というタイトルで[[青函トンネル]]を題材にした映画が東宝で作られたが、これ以前の[[1979年]]頃、[[菅原文太]]が[[愛知和男]]の選挙の応援の帰りの汽車の中で、[[竹下登]]と愛知と話し、田中角栄の発案で[[日本鉄道建設公団|鉄建公団]]が建設中の青函トンネルを映画化したらどうだろう、という話が出て、菅原が俊藤に相談、俊藤が岡田に聞くと「面白いかもわからんな」と岡田が田中角栄にコンタクトを取り、岡田と俊藤、菅原、愛知の4人で田中に会いに行くと田中は大喜びで、すぐその場で鉄建公団の[[川島廣守]]総裁に電話をかけて一発OKとなった。しかし[[黒部ダム]]のようなドラマチックな話がないため脚本が難しく困っていると『[[太陽を盗んだ男]]』の関係から、菅原が[[長谷川和彦]]を推薦するから、俊藤は若い感性による斬新な切り口での人間ドラマを期待し、長谷川にいっぱい金を渡して[[北海道]]に取材旅行に行かせたら、長谷川は飲み食いで金を全て使い切った挙句、「[[竜飛岬]]に[[UFO]]が降りてくる」という脚本を持って行って俊藤が激怒、結局この企画は頓挫した<ref>『任侠映画伝』、p236-238</ref>。-->


*[[1972年]]秋、経営窮状の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げて[[パ・リーグ]]は崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄を[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]・オーナー[[中村長芳]]が[[太平洋クラブ]]の支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌[[1973年]]1月、[[PR]]効果だけが目的と思われる[[不動産]]会社・[[日拓ホーム]]にフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「[[今里広記]]を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝([[西村拓郎]]の父)に球団経営を勧めたもの。売却額は8億円と書かれたものが多いが<ref name="サンデー毎日19730204_23" /><ref name="歴史が眠る多磨霊園_大川博"/><ref name="スポーツ報知20110510web_訃報"/>、岡田は自伝で3億円と書いている<ref name="波瀾_211" />。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた<ref name="闘技場の人_14-15_27-28" /><ref name="ZAKZAK20040908_球界" />。
*また実録では無いが、名作『[[新幹線大爆破]]』(1975年)は、岡田直接の企画<ref>渡邊達人『私の東映30年』1991年、p160、161</ref>。『[[仁義なき戦い]]』を始めとする「[[実録シリーズ|実録ヤクザ物]]」が主流路線として絶好調だった[[1974年]]5月、「実録路線」だけではいずれ材料がなくなる、次にどんなものを作ればいいか、という岡田と[[天尾完次]]の話し合いで、岡田の一つの考え方として「大体[[アメリカ]]でヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」というのがあり、そのときアメリカで『[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]』、『[[サブウェイ・パニック]]』、『[[タワーリング・インフェルノ]]』など、いわゆる[[パニック映画]]非常に受けていて、間もなく日本に輸入されてくるはず、それが『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』などの後をうけて大当たりするはずだ、という結論に達した。では、それを日本でやるとすると材料は何かと考え、[[日本航空インターナショナル|日航機]][[ハイジャック|乗っ取り]]などが候補に上がったが、その中で日本だけにあって題材となるものといえば[[新幹線]]しかない、新幹線を乗っ取る、あるいは爆発させるというストーリーは日本だけでしか出来ないし、外国に持っていっても遜色ないものが出来るに違いない、それをやろうじゃないか、というのがこの企画のスタートだった<ref>[[キネマ旬報]]1975年7月上旬夏の特別号「新幹線大爆破にしかけたスリルのサスペンスについて」p88-94</ref>。1975年3月の[[山陽新幹線]]の[[博多]]開業に合わせて公開しようとした便乗企画。当時、国鉄へ日に何回か爆破の脅迫電話がかかってくる事実をヒントに製作に着手したもので、当初のタイトルは『新幹線爆破魔を追え』というタイトルで、この年ヒットしていた『[[サブウェイ・パニック]]』(日本公開1975年)+『[[大空港 (映画)|大空港]]』(1970年)の新幹線版という触れこみであった<ref>週刊サンケイ、1975年2月20日号、p28</ref><ref>週刊朝日、1975年2月14日号、p37</ref>。『新幹線大爆破』は、『[[タワーリング・インフェルノ]]』に正面からぶつけるという興業的タイミングの悪さで惨敗。『タワーリング・インフェルノ』は当時の史上最高興収を記録した<ref>佐藤忠男、山根貞男編集『シネアルバム(46) 日本映画1976 1975年公開映画全集』芳賀書店、1976、p190、191</ref>。便乗企画では『[[愛のコリーダ]]』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の"[[本番行為|本番]]"が大きな話題を呼んだ[[松田英子]]を獲得し『[[大奥浮世風呂]]』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある<ref>[[週刊新潮]]、1977年1月20日号、p13</ref>。


*[[テレビドラマ]]『[[長谷川伸シリーズ]]』をやっていた頃、[[俊藤浩滋]]の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の[[山下耕作]]に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と[[高岩淡]]にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下“さん”」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している<ref name="将軍と_82_185" />。
*[[1975年]]から始まり、東映の[[ドル箱]]シリーズとなった[[トラック野郎]]は、第1作の『[[トラック野郎・御意見無用]]』が公開初日に都内の東映直営館が大盛況で、即座にシリーズ化を決定した。第2作『[[トラック野郎・爆走一番星|爆走一番星]]』のタイトルは岡田の命名<ref>[[鈴木則文]]、[[宮崎靖男]]、[[小川晋]]「映画『トラック野郎』大全集 」、[[洋泉社]]、2010年、p48</ref>。岡田は[[由美かおる]]が[[贔屓|御ヒイキ]]らしく、[[1976年]]の第4作『[[トラック野郎・天下御免|天下御免]]』の[[ヒロイン|マドンナ]]は、岡田の一言で決まったという。この映画は当初、[[サーカス|サーカス団]]を舞台にしてタイトルも『一番星とサーカスの花』の予定だった。由美は当時20代半ば、[[鈴木則文]]が「由美かおるは[[空中ブランコ]]の美少女、[[タイツ]]姿も似合うでしょう」と提案すると岡田は「そうや、ぴったしやないか」と膝を打ったが、撮影を予定していた[[木下サーカス]]から、脚本にあるサーカスのイメージが古過ぎるなどの[[クレーム]]が付き、サーカスは中止。由美の設定は、空中ブランコの美少女から[[美術大学]]出身の[[デザイナー]]に変更され内容、タイトルも変わった<ref>『トラック野郎風雲録』、[[鈴木則文]]、[[国書刊行会]]、2010年、p66-69</ref>。第8作『[[トラック野郎・一番星北へ帰る|一番星北へ帰る]]』は、当初『波頭を越える一番星』というタイトルで[[沖縄県|沖縄]]を舞台に撮影する予定だったが、米軍基地の問題や、岡田が「舞台が南じゃ映画は当たらない。北にしろ!」という指令もあって[[東北地方]]が舞台に変更された<ref>「映画『トラック野郎』大全集 」、p108</ref>。


*[[1973年]]、東映の企画で黒崎出版から発行されていた『[[テレビランド]]』を編集スタッフごと[[徳間書店]]に移したが、これを[[徳間康快]]社長と二人で[[銀座]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で決めた<ref name="三流週刊誌_295-296"/>。徳間書店の『テレビランド』刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の『[[アニメージュ]]』創刊、[[宮崎駿]]([[スタジオジブリ]])等へと展開していく足がかりとなった<ref name="三流週刊誌_295-296"/>。徳間が活字(出版、[[東京タイムズ]])、オーディオ(音楽、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]])文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年[[大映]]を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった<ref name="龍になった男_151" />。
*[[1976年]]の[[牧口雄二]]監督『戦後猟奇犯罪史』も、当時凄い人気だった「[[テレビ三面記事 ウィークエンダー|ウイークエンダー]]」(日本テレビ)の便乗企画<ref name="女獄門帖">『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』、[[ワイズ出版]]、1996年、p44</ref>。最初は[[松竹映画]]『[[復讐するは我にあり]]』より先に「[[西口彰事件]]」を取り上げた第一話と、第三話「[[大久保清事件]]」の二話構成だったが、撮影2日前に「[[克美茂愛人絞殺事件]]」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった<ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p201</ref>。[[泉ピン子]]を[[レポーター]]役で出演させ[[ワイドショー]]構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった<ref name="女獄門帖"/>。


*[[富司純子|藤純子]]は約10年間の東映専属で“任侠映画の花”として一世を風靡、90本の映画に出演し[[1972年]]、[[歌舞伎]]俳優の[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]と結婚し引退を表明した。俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑なで諦めざるを得なかった。ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため<ref name="サンデー毎日19720319_44" />。看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。挙式3ヵ月前に封切られた『緋牡丹博徒シリーズ』第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の[[私鉄|私鉄電車]]の[[中吊り広告]]や、普段付き合いのない[[週刊誌]]まで広告を出した。藤は新しい企画には出ないとこちらも頑なであったが、引退記念映画の製作を俊藤に断固要求し藤を説得<ref name="任侠伝_166_164" />、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけ、東映オールスター結集による引退記念映画『関東緋桜一家』を製作。これを藤の挙式直前に封切った。『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた<ref name="悔いなき_177" /><ref name="九スポ20070704_18" />。藤純子引退の後、すぐに“ポスト藤純子”探しを始めた<ref name="任侠伝_165" />。[[トヨタ]]と[[タイアップ]]し賞品付きで藤の後継者を一般募集した。映画館のロビーに「ポスト藤純子ご推薦ください、合格者は100万円、推薦者には[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を進呈」というポスターを張り出した。<!--合格したのは[[中村英子]]だったとされるが、中村は俊藤がスカウトしたとされるため、一般の本当の新人を募集したのかは不明。これでは「Wikipedia発の都市伝説」-->この後『緋ぢりめん博徒』に出演した中村英子、[[藤宏子|藤浩子]]、[[土田早苗]]、[[堀越陽子|堀越光恵]]、[[松平純子]]、[[池玲子]]の6人を和服の似合う美人に仕立てあげ、“ポスト藤純子”として順繰り売り出したが、時代が任侠映画を求めておらず、中村は元を取る前2年で結婚引退。藤、土田、堀越はテレビに、松平は歌手に、池は別路線に転身した。
*この頃の東映を[[パロディ]]にしたくて山城新伍が作ったのが[[1980年]]の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『[[網走番外地]]』は『手錠のままの脱獄』(1958年)の[[盗作|パクり]]だ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという<ref>男気万字固め、吉田豪、エンターブレイン、p17<br />濃厚民族、岡田駿之、浅草キッド、スコラマガジン、p66</ref>。山城は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、[[永田雅一]]さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」と話していた<ref>『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』、p84</ref>。


*ただ[[日活ロマンポルノ|ポルノにシフト]]した[[日活]]を辞めてフリーになった[[梶芽衣子]]は、“ポスト藤純子”として東映が呼んで、任侠路線ではなく別路線の『[[女囚さそりシリーズ]]』(1972-1973年)でスターになった<ref name="秘宝2_259-262" /><ref name="ピンキー_1_11_27" /><ref name="サンデー毎日19720319_44" /><ref name="サンデー毎日19730316_42" /><ref name="サンデー毎日19730923_46" /><ref name="サンデー毎日19731209_38" /><ref name="サンデー毎日19740203_36" /><ref name="週刊サンケイ19740627_26" /><ref name="週刊朝日19740517_37-38" />。『[[女囚701号/さそり]]』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『[[女囚さそり 第41雑居房]]』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は[[俊藤浩滋]]が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという<ref name="東スポ201106梶芽衣子" />。岡田や俊藤の説得がなければ『[[女囚さそりシリーズ]]』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している<ref name="梶芽衣子公式_女をやめたい4" />。
*[[丹波哲郎]]から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110509-773179.html 表気配り忘れない繊細な人/岡田さん偲ぶ - 芸能ニュース : nikkansports.com]</ref>。また丹波が親しかった元東宝副社長・[[藤本真澄]]と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこの[[ポルノ]]の国から来たの」などと言い非常に嫌われた<ref>丹波哲郎『丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ』キネマ旬報社、1999年</ref>。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという<ref>田中文雄『神(ゴジラ)を放った男―映画製作者・田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年、p139</ref>。


*この他、当時高校三年生だった[[檀ふみ]]も“ポスト藤純子”と騒がれ東映入りした。壇は[[高岩淡]]の姪にあたる。壇は藤純子のキャラクターとは違うが、浪人中に[[NHK総合テレビジョン|NHK]]から声がかかり『[[連想ゲーム]]』のレギュラー解答者に登場、お茶の間のアイドルになった<ref name="週刊サンケイ19721126_38-39" /><ref name="週刊サンケイ19790315_32_36" />。
*[[山下耕作]]が撮った[[1974年]]の『あゝ決戦航空隊』は、[[児玉誉士夫]]が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなく[[ロッキード事件]]でペシャンコになった<ref>『将軍と呼ばれた男 映画監督山下耕作』 共著者:円尾敏郎、ワイズ出版、1999年、p162</ref>。


*[[1975年]]から始まり、東映の[[ドル箱]]シリーズとなった『[[トラック野郎]]』は、第1作の『[[トラック野郎・御意見無用]]』が公開初日に都内の東映直営館が大盛況で、即座にシリーズ化を決定した。第2作『[[トラック野郎・爆走一番星|爆走一番星]]』のタイトルは岡田の命名<ref name="秘宝トラック野郎_48" />。岡田は[[由美かおる]]が[[贔屓|御ヒイキ]]らしく、[[1976年]]の第4作『[[トラック野郎・天下御免|天下御免]]』の[[ヒロイン|マドンナ]]は、岡田の一言で決まったという。この映画は当初、[[サーカス|サーカス団]]を舞台にしてタイトルも『一番星とサーカスの花』の予定だった。由美は当時20代半ば、[[鈴木則文]]が「由美かおるは[[空中ブランコ]]の美少女、[[タイツ]]姿も似合うでしょう」と提案すると岡田は「そうや、ぴったしやないか」と膝を打ったが、撮影を予定していた[[木下サーカス]]から、脚本にあるサーカスのイメージが古過ぎるなどの[[クレーム]]が付き、サーカスは中止。由美の設定は、空中ブランコの美少女から[[美術大学]]出身の[[デザイナー]]に変更され内容、タイトルも変わった<ref name="トラック野郎風雲録_66-69" />。第8作『[[トラック野郎・一番星北へ帰る|一番星北へ帰る]]』は、当初『波頭を越える一番星』というタイトルで[[沖縄県|沖縄]]を舞台に撮影する予定だったが、米軍基地の問題や、岡田が「舞台が南じゃ映画は当たらない。北にしろ!」という指令もあって[[東北地方]]が舞台に変更された<ref name="秘宝トラック野郎_108" />。
*[[松方弘樹]]が主演俳優となるのは1974年の映画『脱獄・広島殺人囚』と、[[NHK大河ドラマ]]『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』からであるが『勝海舟』は当初の主演[[渡哲也]]が、急病により途中から松方に交代したもの。松方は渡、[[渡瀬恒彦]]兄弟と付き合いがあり受けるか迷ったが、最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ代役を受けるハラを決めたという<ref>サンデー毎日、1974年3月3日号、p35</ref>。しかし『勝海舟』は、神経質でひ弱な海舟が出来あがり結果的に不人気で、松方も放送終了後「NHKはくだらん」と発言したりでトラブルが多かった<ref>サンデー毎日、1974年12月29日号、p34</ref>。松方が[[仁科亜季子|仁科明子]]と恋仲になるのは、このドラマで夫婦役をやってからだが、松方は当時既婚者で、仁科の父・[[岩井半四郎 (10代目)|岩井半四郎]]が激怒し、マスコミを賑わせた。ドラマの評価は芳しくなかったが、彼らの知名度は飛躍的に上げた<ref>[http://gree.jp/matsukata_hiroki/blog/entry/577433217 松方弘樹 公式ブログ/恩人・岡田茂の薫陶 - GREE]</ref>。


*[[1976年]]の[[牧口雄二]]監督『戦後猟奇犯罪史』も、当時凄い人気だった『[[テレビ三面記事 ウィークエンダー|ウイークエンダー]]』(日本テレビ)の便乗企画<ref name="女獄門帖_44" />。最初は[[松竹映画]]『[[復讐するは我にあり]]』より先に「[[西口彰事件]]」を取り上げた第一話と、第三話「[[大久保清事件]]」の二話構成だったが、撮影2日前に「[[克美茂愛人絞殺事件]]」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった<ref name="ピンキー_201" />。[[泉ピン子]]を[[レポーター]]役で出演させ[[ワイドショー]]構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった<ref name="女獄門帖_44"/>。
*1974年、[[山口百恵]]が主演した東宝『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした<ref>週刊朝日、1975年8月15日、p38-41</ref>。翌[[1975年]]の[[ゴールデンウイーク]]は、東宝が山口百恵の『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』、松竹が[[桜田淳子]]の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『[[県警対組織暴力]]』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる<ref name="映画秘宝201012"/><ref>サンデー毎日、1975年5月18日、p44</ref>。なお『潮騒』の併映は[[和田アキ子]]の『お姐さんお手やわらかに』、『スプーン一杯の幸せ』の併映は[[中村雅俊]]の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が[[志穂美悦子]]主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し"青春路線"に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した<ref name="映画秘宝201012"/>。その第1作が[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、自信を持って送り出した新人・[[星正人]]主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『[[愛と誠]]』に似ていた<ref name="映画秘宝201012"/>。


*この頃の東映を[[パロディ]]にしたくて山城新伍が作ったのが[[1980年]]の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『[[網走番外地]]』は『手錠のままの脱獄』(1958年)の[[盗作|パクり]]だ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという<ref name="男気_17" /><ref name="濃厚_66" />。山城は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、[[永田雅一]]さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」と話していた<ref name="キネ旬ベスト下_84" />。
*1974年、[[アメリカ]]の[[ワーナー・ブラザース]]が[[ロバート・ミッチャム]]、[[高倉健]]主演、[[シドニー・ポラック]]監督で映画化した『[[ザ・ヤクザ]]』は、[[東映京都撮影所|東映の京都撮影所]]で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は"[[神風特攻隊|カミカゼ]]"なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという<ref>週刊サンケイ、1974年10月20日号、p39</ref>。この映画の[[エグゼクティブ・プロデューサー]]は俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、[[ポール・シュレイダー]]が脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやり[[メロドラマ]]にした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った<ref>『任侠映画伝』、p142-144</ref>。


*[[丹波哲郎]]から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている<ref name="ニッカン20110509web_気配り" />。また丹波が親しかった元東宝副社長・[[藤本真澄]]と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこの[[ポルノ]]の国から来たの」などと言い非常に嫌われた<ref name="好きなヤツ_XX" /></ref>。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという<ref name="神を放った_139" />。
*岡田が[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて仕掛けた「[[任侠映画]]」や「[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]」は、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。[[武井昭夫]]は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。[[全学共闘会議|全共闘]]学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから[[日活ロマンポルノ|日活のポルノ映画]]も新しい客層をつくるというより、むしろほどなく[[マンネリ]]となって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている<ref>[[武井昭夫]]『戦後史のなかの映画』、[[星雲社]]、p269、270</ref>。


*[[山下耕作]]が撮った[[1974年]]の『あゝ決戦航空隊』は、[[児玉誉士夫]]が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなく[[ロッキード事件]]でペシャンコになった<ref name="将軍と_162" />。
*東映映画の大ファンで関連著作も多い[[杉作J太郎]]は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さん大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている<ref>「映画秘宝」2011年8月号、p45</ref>。


*[[松方弘樹]]が主演俳優となるのは1974年の映画『脱獄・広島殺人囚』と、[[NHK大河ドラマ]]『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』からであるが『勝海舟』は当初の主演[[渡哲也]]が、急病により途中から松方に交代したもの。松方は渡、[[渡瀬恒彦]]兄弟と付き合いがあり受けるか迷ったが、最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ代役を受けるハラを決めたという<ref name="サンデー毎日19740303_35" />。しかし『勝海舟』は、神経質でひ弱な海舟が出来あがり結果的に不人気で、松方も放送終了後「NHKはくだらん」と発言したりでトラブルが多かった<ref name="サンデー毎日19741229_34" />。松方が[[仁科亜季子|仁科明子]]と恋仲になるのは、このドラマで夫婦役をやってからだが、松方は当時既婚者で、仁科の父・[[岩井半四郎 (10代目)|岩井半四郎]]が激怒し、マスコミを賑わせた。ドラマの評価は芳しくなかったが、彼らの知名度は飛躍的に上げた<ref name="松方弘樹公式_岡田茂" />。
*1974年、[[香港]]の[[ゴールデン・ハーベスト]]社が「高度な技術水準」を誇る日本の[[ポルノ映画]]に目を付け、東映ポルノの監督や女優を借り入れしたいと東映に打診してきた。当時の香港はポルノをオープンに作ることはできず、技術も未熟。また裸になる女優も少なく、女優で指名されたのが、ゴールデン・ハーベスト社の[[レイモンド・チョウ]]社長お気に入りといわれた[[池玲子]]であった。当時、[[ブルース・リー]]の4本しかない空手映画<ref>本来はブルース・リーは[[カンフー映画]]なのだが、日本のマスメディアは長い間、空手映画と表記した。</ref>の4本目『[[ドラゴンへの道|THE WAY OF THE DRAGON]]』を巡り、東映洋画と[[東宝東和]]が激しい争奪戦をしていた。前3作は東宝東和[[配給]]で日本でも爆発的大ヒットを記録し、ちょうど争っていたこの年の8月に『THE WAY OF THE DRAGON』も[[ニューヨーク]]で公開され大ヒットを記録。配給権を獲得すれば大儲けは確実という情勢で、争いは熾烈を極めた。岡田の「是が非でもとれ」の至上命令を受け<ref name="クロニクル東映189"/>、池玲子を"[[人身御供]]"にし東映はこの『THE WAY OF THE DRAGON』の獲得に成功。タイトルを『[[ドラゴンへの道]]』として翌[[1975年]]公開、映画は大ヒットし東映洋画部が躍進する切っ掛けとなった<ref name="ロードショー19763"/>。この『[[ドラゴンへの道]]』を見た岡田の感想は「なんや電気紙芝居みたいやな」だったという<ref name="クロニクル東映189"/>。東宝東和は配給を予定して『ドラゴン電光石火』と言うタイトルまで付けていたといわれる。なお、池は当初、出稼ぎを渋っていたが、レイモンド・チョウから"女ブルース・リーに"という殺し文句により承諾。当時は東映初の"国際女優"と騒がれ、撮影を終え帰国した池は、自分はまったく脱がなかったと説明。「香港ではスターは脱がないの。ヌード専門の代役がいて裸は要求されなかったわ。これからは演技力で勝負したい」と話したが、作られた映画は何故か『悪魔の生首(魅影心魔)』という[[ホラー映画]]であった<ref>[[週刊朝日]]、1974年2月22日号、p36、8月9日号、p37、9月20日号、p37、9月27日号、p36</ref><ref>『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』、p51</ref>。なお、東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け<ref name="クロニクル東映189"/>、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』は大ヒット、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]主演の『[[昼顔 (映画)|昼顔]]』を[[リバイバル]]ヒットさせていたが<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p-53</ref>、この『[[ドラゴンへの道]]』獲得で洋画部は大きく飛躍した<ref name="ロードショー19763"/><ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅱ]』、p61</ref>。


*1974年、[[山口百恵]]が主演した東宝『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした<ref name="週刊朝日19750815_38-41" />。翌[[1975年]]の[[ゴールデンウイーク]]は、東宝が山口百恵の『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』、松竹が[[桜田淳子]]の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『[[県警対組織暴力]]』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる<ref name="秘宝201012_101"/><ref name="サンデー毎日19750518_44" />。なお『潮騒』の併映は[[和田アキ子]]の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は[[中村雅俊]]の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が[[志穂美悦子]]主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した<ref name="秘宝201012_101"/>。その第1作が[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、自信を持って送り出した新人・[[星正人]]主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『[[愛と誠]]』に似ていた<ref name="秘宝201012_101"/>。
*[[ジャッキー・チェン]]の日本で最初に劇場公開された主演映画『[[ドランクモンキー 酔拳]]』は、この流れから監督の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は[[1979年]]に『[[トラック野郎]] 熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』)だけは岡田が「誰がこんなんもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である<ref name="dragon"/>。


*1974年、[[アメリカ]]の[[ワーナー・ブラザース]]が[[ロバート・ミッチャム]]、[[高倉健]]主演、[[シドニー・ポラック]]監督で映画化した『[[ザ・ヤクザ]]』は、[[東映京都撮影所|東映の京都撮影所]]で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“[[神風特攻隊|カミカゼ]]”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという<ref name="週刊サンケイ19741020_39" />。この映画の[[エグゼクティブ・プロデューサー]]は俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、[[ポール・シュレイダー]]が脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやり[[メロドラマ]]にした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った<ref name="任侠伝_142-144" />。
*1974年『[[激突! 殺人拳]]』から[[千葉真一]]主演で始まる空手映画は、岡田が[[ブルース・リー]]の[[カンフー映画]]を真似て始めたもので、任侠ものが下火になっていた東映にとってもエポックメーキングな作品となった<ref name="satsujinken"/>。当時は何をやってもうまくいかず、久々の大当たりがよっぽど嬉しかったらしく、[[祝電]]をいっぱい打っていたという<ref>『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生』、p91、92</ref>。さらに[[ニュー・ライン・シネマ|ニュー・ライン・シネマ社]]が「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と東映から興行権を買い、英題『[[:en:The Street Fighter|The Street Fighter]]』とネーミングして、[[1974年]][[11月12日]]から[[セントルイス]]・[[アトランタ]]・[[ニューオーリンズ]]・[[ワシントンD.C]]など、主に[[アメリカ合衆国|全米]]中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出た<ref name="brucelee">「本家[[ブルース・リー]]をしのぐ[[千葉真一]]」 [[報知新聞]]、1974年(昭和49年)[[12月27日]]付[[朝刊]]。</ref>。その後、[[1975年]]の1月下旬から、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)]]のRKO劇場や[[マンハッタン]]でも封切りされ、千葉の代表作となった<ref name="brucelee"/>。過去の[[日本映画]]で、比較的入ったといわれる『[[砂の女]]』や、[[ニューヨーク・タイムズ]]などの批評欄をにぎわした[[黒澤明]]作品でさえ、アートシアター系で上映された程度であった<ref name="brucelee"/>。同時期に上映されていた[[パニック映画]]『[[エアポート'75]]』『[[オデッサ・ファイル]]』、[[ミュージカル映画]]『[[星の王子さま]]』などの大作を押えて、『The Street Fighter』が5位進出したと<ref>[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]、1974年12月18日付。</ref>、アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた<ref name="brucelee"/>。このヒットで[[ヨーロッパ]]・[[オーストラリア]]・[[カナダ]]の映画会社が、東映に『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた<ref name="brucelee"/>。ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な空手と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている<ref name="brucelee"/>。千葉真一の熱狂的ファンである[[クエンティン・タランティーノ]]が脚本を手がけた『[[トゥルー・ロマンス]]』では、主人公が映画館で『激突! 殺人拳』を観ているシーンを描いている<ref>洋泉社MOOK 別冊映画秘宝 グラインドハウス映画入門、[[洋泉社]]、2007年、p164</ref>。


*東映映画の大ファンで関連著作も多い[[杉作J太郎]]は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さん大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている<ref name="秘宝201108_45" />。
*スケ番シリーズを打ち切って、折からのブームに乗り空手路線を掲げる。「現代版お竜」を謳い文句に「日本初の[[スタントマン|スタントウーマン]]」と銘打ち『[[女必殺拳]]』(1974年)で主演デビューさせたのが[[志穂美悦子]]であった<ref>週刊サンケイ、1974年8月1日号、p28</ref>。最初は[[アンジェラ・マオ]]主演で企画したが諸事情で実現せず、志穂美の抜擢となったとされる<ref>映画秘宝、2008年4月号、p84<br />週刊朝日、1975年6月6日、p17</ref><ref name="映画秘宝201012">映画秘宝、2010年12月号、p101</ref>。


*[[アラン・ドロン]]主演の『[[ル・ジタン]]』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった<ref name="ロードショー19763"/>。『[[地獄の黙示録]]』(1979年)も[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]で買おうとしたが、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が相当金を出して落としたという<ref name="ロードショー19763"/>。
*[[アラン・ドロン]]主演の『[[ル・ジタン]]』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。『[[地獄の黙示録]]』(1979年)も[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]で買おうとしたが、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が相当金を出して落としたという<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。


*[[荒川博]]の養子で、暴漢事件で有名な[[荒川尭]]が[[1975年]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を引退すると荒川を銀座に連れて行き、契約金3000万円で俳優にスカウト。[[岡田茉莉子]]や[[宮園純子]]など綺麗どころの女優を同席させ口説いたが、興行師の息子で[[美空ひばり]]にも可愛がられ、芸能人の友達も一杯いた荒川にはあまり効かず、断られてしまった<ref>「別冊宝島」1245号 プロ野球タブーの真相、宝島社、2006年1月、p112</ref>。
*[[荒川博]]の養子で、暴漢事件で有名な[[荒川尭]]が[[1975年]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を引退すると荒川を銀座に連れて行き、契約金3000万円で俳優にスカウト。[[岡田茉莉子]]や[[宮園純子]]など綺麗どころの女優を同席させ口説いたが、興行師の息子で[[美空ひばり]]にも可愛がられ、芸能人の友達も一杯いた荒川にはあまり効かず、断られてしまった<ref name="プロ野球タブー_112" />。


*1975年に開村した[[東映太秦映画村]]は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの<ref name="映画村10年の歩み"/>。
*1975年に開村した[[東映太秦映画村]]は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの<ref name="映画村10年_82-83"/>。


*深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』([[1976年]])は『新・仁義なき戦い 組長の首』([[1975年]])のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『[[バニシングin60″]]』をミックスして作れと号令したもの<ref>Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.3、p70</ref>。[[1979年]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]・[[岡田奈々]]主演の『暴力戦士』は、[[ウォルター・ヒル]]監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの<ref>『石井輝男映画魂』、233、358頁</ref>。この『暴力戦士』には他に、欠食児童状態([[石橋凌]]談)の[[ARB (バンド)|ARB]]が出演している。石橋はプロデューサーに「好きなもの食べなさい」「音楽を必ず5曲は使うから」と騙されて出演したが「うっすらとしか曲は流れなかった」「僕の中では永遠に葬りたい」などと話している<ref>「映画秘宝」2007年11月号、p69</ref>。
*深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』([[1976年]])は『新・仁義なき戦い 組長の首』([[1975年]])のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『[[バニシングin60″]]』をミックスして作れと号令したもの<ref name="Hotwax3_70" />。[[1979年]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]・[[岡田奈々]]主演の『暴力戦士』は、[[ウォルター・ヒル]]監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの<ref name="石井輝男_233_358" />。この『暴力戦士』には他に、欠食児童状態([[石橋凌]]談)の[[ARB (バンド)|ARB]]が出演している。石橋はプロデューサーに「好きなもの食べなさい」「音楽を必ず5曲は使うから」と騙されて出演したが「うっすらとしか曲は流れなかった」「僕の中では永遠に葬りたい」などと話している<ref name="秘宝200711_69" />。


*[[舘ひろし]]は[[1976年]]、[[松田優作]]と共演した『[[暴力教室]]』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、[[石原プロモーション]]に入社するまでは東映に籍を置いたという<ref>[[スポーツニッポン]]2011年6月11日26面≪舘ひろし スポニチ連載「我が道」コラム⑪≫</ref>。 
*[[舘ひろし]]は[[1976年]]、[[松田優作]]と共演した『[[暴力教室]]』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、[[石原プロモーション]]に入社するまでは東映に籍を置いたという<ref name="スポニチ20110611_26" />。


*[[1977年]]、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を買い付け大ヒット。続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]を手がけた他、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。これらが興した松本零士ブーム、 [[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム、アニメブームにも貢献した。西崎は「岡田さんは商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」と話していたという<ref name="business.nikkeibp"/><ref name="animagedon"/>。
*[[1977年]]、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を買い付け大ヒット。続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]を手がけた他、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。これらが興した松本零士ブーム、 [[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム、アニメブームにも貢献した。西崎は「岡田さんは商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」と話していたという<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの"/>。


*1977年、日活を辞めた[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]に「黒澤、今、何やってんだ?」と声をかけ「今は浪人してます」「それじゃ東映来て好きなことやれ」と引き抜き、黒澤が日活出身のスタッフらとともに東映セントラルフィルム(配給会社)の中に、映画の企画と制作を始めたのが[[セントラルアーツ]]の始まり<ref name="映画秘宝2010年12月"/><ref name="仙元誠三"/><ref name="シネマヴェーラ"/>。黒澤は[[松田優作]]の[[マネジメント]]に近いことをやっていたため、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』、「ドラマ[[探偵物語]]など、一連の松田優作作品や、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、[[あぶない刑事]]シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』シリーズなどがここで制作された。
*1977年、日活を辞めた[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]に「黒澤、今、何やってんだ?」と声をかけ「今は浪人してます」「それじゃ東映来て好きなことやれ」と引き抜き、黒澤が日活出身のスタッフらとともに東映セントラルフィルム(配給会社)の中に、映画の企画と制作を始めたのが[[セントラルアーツ]]の始まり<ref name="秘宝201012_39-46"/><ref name="moment_仙元誠三"/><ref name="シネマヴェーラ_20090207"/>。黒澤は[[松田優作]]の[[マネジメント]]に近いことをやっていたため、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』ドラマ[[探偵物語]]など、一連の松田優作作品や、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、[[あぶない刑事]]シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』シリーズなどがここで制作された。


*1977年の映画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所#実写作品|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の[[両津勘吉]]を[[せんだみつお]]が演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは[[男はつらいよ|寅さん]]に負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している<ref>[[吉田豪]]『続・人間コク宝 ドトウの濃縮人生インタビュー集』[[コアマガジン]]、2007年、p55</ref>。
*1977年の映画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所#実写作品|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の[[両津勘吉]]を[[せんだみつお]]が演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは[[男はつらいよ|寅さん]]に負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している<ref name="人間コク宝2_55" />。


*[[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの<ref name="academy"/><ref name="きょうは何の日"/>。岡田が[[東宝]]専務だった[[藤本真澄]]、[[日活]]社長・村上覚、[[松竹]]専務・奥山融に協力を求め創設に至った<ref>小説東映 映画三国志、p5-11</ref>。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。<いつか必ず、黒澤が頭を下げてくるような、権威ある日本アカデミー賞にしてやる>と心に誓ったという<ref>小説東映 映画三国志、p7-11</ref>。
*[[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの<ref name="日本アカデミー賞公式"/><ref name="日テレDON20100406何の日"/>。岡田が[[東宝]]専務だった[[藤本真澄]]、[[日活]]社長・村上覚、[[松竹]]専務・奥山融に協力を求め創設に至った<ref name="三国志_5-11" />。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。<いつか必ず、黒澤が頭を下げてくるような、権威ある日本アカデミー賞にしてやる>と心に誓ったという<ref name="三国志_7-11" />。


*『[[柳生一族の陰謀]]』(1978年)は、[[千葉真一]]が裏柳生というタイトルで深作欣二に提出した企画<ref name="サムライへの道">[[JJサニー千葉]]『千葉流 サムライへの道』、[[ぶんか社]]、2010年、p59-61</ref>。それを岡田が『柳生一族の陰謀』という、まんまのタイトルに変えた<ref>[http://home.r00.itscom.net/akirasan/sonny-chiba-2003_3_15_jiyugaoka.htm ]</ref>。元々、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。[[山本薩夫]]の『[[忍びの者]]』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもので、深作も『仁義なき戦い』シリーズを終えたところで、まだ一度も手掛けていない時代劇をやりたいという希望があり、時代劇の再興が悲願だった岡田にも依存はなかく、ここへ千葉がいいタイミングで、いい企画を提出した。千葉はそれまで色々企画を持って行っても、ほとんど取り入れてもらえなかったというが、この企画はよくすぐに映画化が決まったという<ref name="クロニクル東映282283"/><ref name="サムライへの道"/>。みんながノッて、日下部が錦之助さんにお願いできれば」というので、高岩が錦之助に出演交渉に行き、錦之助は12年ぶりの東映作品を快諾したというが<ref name="キネ旬201176263"/>、岡田は「中村プロダクション」がうまくいかなくなった錦之介が、岡田のところへやってきて「何かいい企画はないか」というから「『柳生一族の陰謀』をやれ」といった、と話しており、この辺りのいきさつは不明。映画は大ヒットし、東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた<ref>『惹句術―映画のこころ』、p90</ref>。翌1979年の『真田幸村の陰謀』のタイトルも岡田の命名<ref>キネ報、1978年5月下旬号、p177</ref>。岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや[[右翼]]が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという<ref>新潮45 [[新潮社]]、2004年9月号、p204</ref>。なお、千葉は若い時、岡田に「海外で勝負させてください」と話したら、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対した<ref>『千葉流 サムライへの道』、p242-243</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html nikkansports.com > 芸能 > イタビュー > 千葉真一]</ref>。[[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ(JAC)]]のことも悩み他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた<ref>週刊朝日、2011年1月7日・14日、p70</ref>。
*『[[柳生一族の陰謀]]』(1978年)は、[[千葉真一]]が裏柳生というタイトルで深作欣二に提出した企画<ref name="千葉流_59-61" />。それを岡田が『柳生一族の陰謀』という、まんまのタイトルに変えた<ref name="自由が丘武蔵野館" />。元々、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。[[山本薩夫]]の『[[忍びの者]]』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもので、深作も『仁義なき戦い』シリーズを終えたところで、まだ一度も手掛けていない時代劇をやりたいという希望があり、時代劇の再興が悲願だった岡田にも依存はなかく、ここへ千葉がいいタイミングで、いい企画を提出した。千葉はそれまで色々企画を持って行っても、ほとんど取り入れてもらえなかったというが、この企画はよくすぐに映画化が決まったという<ref name="クロニクル1_282-283"/><ref name="千葉流_59-61"/>。みんながノッて、日下部が錦之助さんにお願いできれば」というので、高岩が錦之助に出演交渉に行き、錦之助は12年ぶりの東映作品を快諾したというが<ref name="キネ旬2011071_62-63"/>、岡田は「中村プロダクション」がうまくいかなくなった錦之介が、岡田のところへやってきて「何かいい企画はないか」というから「『柳生一族の陰謀』をやれ」といった、と話しており、この辺りのいきさつは不明。映画は大ヒットし、東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた<ref name="惹句術_90" />。翌1979年の『真田幸村の陰謀』のタイトルも岡田の命名<ref name="キネ旬1978052_177" />。岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや[[右翼]]が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという<ref name="新潮45p200409_204" />。なお、千葉は若い時、岡田に「海外で勝負させてください」と話したら、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対した<ref name="千葉流_242-243" /><ref name="ニッカ20030330web_千葉真一" />。[[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ(JAC)]]のことも悩み他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた<ref name="週刊朝日20110107_70" />。


*[[角川春樹]]が、[[独立プロ]]のプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだったと述べている。『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは[[角川映画]]の2作目『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』から、具体的な仕事の縁が始まり、『[[野性の証明]]』の後、岡田からの要請で、角川は[[角川春樹事務所]]を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた<ref name="キネ旬201176364"/>。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという<ref name="キネ旬201176364"/>。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」<ref name="キネ旬201176364"/>、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した<ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="角川春樹"/>。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。[[1976年]]に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』で、配給が東映洋画、撮影が[[日活撮影所]]、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した<ref name="キネ旬201176364"/>。また、『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』『[[天と地と#映画|天と地と]]』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が[[松岡功 (実業家)|松岡功]]に仁義を通して話をつけた<ref name="キネ旬201176364"/>。岡田は角川による[[メディアミックス]]を大きくバックアップした。しかし[[2005年]]に大ヒットした『[[男たちの大和/YAMATO]]』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた<ref>「[[日経ビジネス]]』」2006年2月20日号、[[日経BP]]、p108-111</ref>。[[角川映画]]は[[キャッチフレーズ]]が[[流行語]]となるなど話題を呼び<ref>『東映映画三十年』東映、1981年、p188、189、201、212</ref>観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。
*[[角川春樹]]が、[[独立プロ]]のプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだったと述べている。『[[悪魔が来りて笛を吹く#映像化リスト|悪魔が来りて笛を吹く]]』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは[[角川映画]]の2作目『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』から、具体的な仕事の縁が始まり、『[[野性の証明]]』の後、岡田からの要請で、角川は[[角川春樹事務所]]を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『[[白昼の死角#映画版|白昼の死角]]』『[[魔界転生#映画版|魔界転生]]』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた<ref name="キネ旬2011071_63-64"/>。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという<ref name="キネ旬2011071_63-64"/>。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」<ref name="キネ旬2011071_63-64"/>、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した<ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポーツ報知20110510web_角川春樹"/>。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。[[1976年]]に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』で、配給が東映洋画、撮影が[[日活撮影所]]、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した<ref name="キネ旬2011071_63-64"/>。また、『[[セーラー服と機関銃#映画|セーラー服と機関銃]]』『[[天と地と#映画|天と地と]]』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が[[松岡功 (実業家)|松岡功]]に仁義を通して話をつけた<ref name="キネ旬2011071_63-64"/>。岡田は角川による[[メディアミックス]]を大きくバックアップした。しかし[[2005年]]に大ヒットした『[[男たちの大和/YAMATO]]』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた<ref name="日経ビジネス20060220_108-111" />。[[角川映画]]は[[キャッチフレーズ]]が[[流行語]]となるなど話題を呼び<ref name="0東映三十年_188-189_201_212" />観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。


*[[1979年]]の[[森下愛子]]の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と[[内藤誠]]に命じたものという<ref name="日刊スポーツ2011510"/>。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった[[三上寛]]の[[LPレコード]]から自分でストーリー作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるとこが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している<ref>[http://www.flowerwild.net/2009/07/2009-07-01_190000.php flowerwild.net - 内藤誠、『番格ロック』を語る vol.3]</ref>。
*[[1979年]]の[[森下愛子]]の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と[[内藤誠]]に命じたものという<ref name="ニッカン20110510_22-24"/>。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった[[三上寛]]の[[LPレコード]]から自分でストーリー作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるとこが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している<ref name="flowerwild20090701_内藤誠3" />。


*[[五社英雄]]は[[1980年]]に[[銃刀法違反]]容疑での逮捕や、会社の[[労組]]問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた[[佐藤正之]]が岡田に"五社を何かに使ってやってくれ"と頼んできたので<ref name="キネ旬201176263"/><ref>山口猛『映画美術とは何か-美術監督・西岡善信と巨匠たちとの仕事』、[[平凡社]]、2000年、p221</ref>。岡田が五社に"一度会社に顔を出せよ"と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は"お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな"と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに"負けっぷりがいい"と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。"どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ"と言われ、持って行った企画が[[宮尾登美子]]の小説だった。しかしは話が地味過ぎるということで、[[日下部五朗]]が持ってきた『[[鬼龍院花子の生涯]]』を映画化することになった。"これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい"と岡田が五社を監督に抜擢し<ref name="キネ旬201176263"/>五社の映画界復帰が決まった。"この作品がヒットしたら陽暉楼も撮らして下さい"と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り陽暉楼」「と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。これらは東映に新たな"女性文芸大作路線"を確立させた<ref name="クロニクル東映314315"/><ref>『さよならだけが人生さ - 五社英雄という生き方』、五社巴、講談社、1995年、 p71-108{{ASIN|4062063611}}</ref><ref>五社の映画製作の経緯は、脚本でコンビを組んだ高田宏治の著作などにも詳しい(西谷拓哉・高田宏治高田宏治東映のアルチザン』、カタログハウス、1997年)</ref><ref name="hochi2011510"/>。
*[[五社英雄]]は[[1980年]]に[[銃刀法違反]]容疑での逮捕や、会社の[[労組]]問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた[[佐藤正之]]が岡田に五社を何かに使ってやってくれと頼んできたので<ref name="キネ旬2011071_62-63"/><ref name="映画美術_221" />。岡田が五社に一度会社に顔を出せよと電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田はお前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいなと言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに負けっぷりがいいと、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよと言われ、持って行った企画が[[宮尾登美子]]の小説だった。しかしは話が地味過ぎるということで、[[日下部五朗]]が持ってきた『[[鬼龍院花子の生涯]]』を映画化することになった。これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまいと岡田が五社を監督に抜擢し<ref name="キネ旬2011071_62-63"/>五社の映画界復帰が決まった。この作品がヒットしたら陽暉楼も撮らして下さいと五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り陽暉楼』『と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。これらは東映に新たな女性文芸大作路線を確立させた<ref name="クロニクル1_314-315他"/><ref name="さよならだけが人生さ_71-108" /><ref group="注釈">五社の映画製作の経緯は、脚本でコンビを組んだ高田宏治の著作などにも詳しい(『[[#高田宏治|高田宏治東映のアルチザン]]』)</ref><ref name="スポーツ報知20110510web_見舞い断る"/>。


*『[[鬼龍院花子の生涯]]』を企画した[[日下部五朗]]によると、最初の企画会議で、この『鬼龍院花子の生涯』も岡田に「暗い」と一旦却下されたが、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから、2回目の交渉で「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出たという。[[流行語]]にもなった「なめたらいかんぜよ!」の台詞で[[夏目雅子]]の代表作となった映画として有名だが、日下部によると夏目の演じた[[ヒロイン]]松恵役は当初、[[梶芽衣子]]が演じる予定であったという。梶は日下部にプロットと原作本を送ってきて、これを読んだ日下部が「これは映画になる」と直感し、原作小説を買い取り映画化の準備をはじめたと話している。女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが、日下部は[[和田勉]]が演出した[[日本放送協会|NHK]][[テレビドラマ|ドラマ]][[ザ・商社]](1980年)で、既に脱いでいた夏目を「この子は脱げる」と松恵役に起用しようとした。松恵役は梶がやるにはあまりにも大人びているなどと梶を説得し、松恵役以外の役の代替案を提示したが、梶は断固譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は結局決裂したという<ref>週刊現代、2010年1月23日号、p62-67</ref><ref>[[スポーツ]]連載 <東映伝説のプロデューサー日下部五朗の「無頼派活動屋人生」>2010年4月6日~4月30日</ref>。
*『[[鬼龍院花子の生涯]]』を企画した[[日下部五朗]]によると、最初の企画会議で、この『鬼龍院花子の生涯』も岡田に「暗い」と一旦却下されたが、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから、2回目の交渉で「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出たという。[[流行語]]にもなった「なめたらいかんぜよ!」の台詞で[[夏目雅子]]の代表作となった映画として有名だが、日下部によると夏目の演じた[[ヒロイン]]松恵役は当初、[[梶芽衣子]]が演じる予定であったという。梶は日下部にプロットと原作本を送ってきて、これを読んだ日下部が「これは映画になる」と直感し、原作小説を買い取り映画化の準備をはじめたと話している。女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが、日下部は[[和田勉]]が演出した[[日本放送協会|NHK]][[テレビドラマ|ドラマ]][[ザ・商社]](1980年)で、既に脱いでいた夏目を「この子は脱げる」と松恵役に起用しようとした。松恵役は梶がやるにはあまりにも大人びているなどと梶を説得し、松恵役以外の役の代替案を提示したが、梶は断固譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は結局決裂したという<ref name="週刊現代_20100123_62-67" /><ref name="東スポ20100406他" />。


*日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。[[1983年]]に[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを取った『[[楢山節考]]』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。[[1979年]]の映画賞を独占した『[[復讐するは我にあり]]』は、原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、[[佐木隆三]]夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に掛け合ったら「バカもん!連続殺人犯の話なんか暗くて当たるか!」と怒鳴られ、あえなく頓挫。これは[[今村昌平]]監督で松竹で映画化された。このため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に[[木下恵介]]さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実は[[にっかつロマンポルノ]]10本分くらい、ドバーッと[[濡れ場]]があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ[[清川虹子]]に[[左とん平]]が乗っかるシーンしかない。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している<ref>週刊現代、2010年1月23日号</ref><ref><映伝説のプロデューサー日下部五朗の「無頼派活動屋人生」></ref>。
*日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。[[1983年]]に[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを取った『[[楢山節考]]』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。[[1979年]]の映画賞を独占した『[[復讐するは我にあり]]』は、原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、[[佐木隆三]]夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に掛け合ったら「バカもん!連続殺人犯の話なんか暗くて当たるか!」と怒鳴られ、あえなく頓挫。これは[[今村昌平]]監督で松竹で映画化された。このため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に[[木下恵介]]さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実は[[にっかつロマンポルノ]]10本分くらい、ドバーッと[[濡れ場]]があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ[[清川虹子]]に[[左とん平]]が乗っかるシーンしかない。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している<ref name="週刊現代_20100123_XX" /><ref name="スポ20100406他" />。


*[[1980年]]に『[[二百三高地]]』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。[[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]]を」「あれ、負け戦ですよ、[[日露戦争]]と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、[[太平洋戦争]]の脚本執筆を指示。『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は[[瀬島龍三]]から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが[[宮内庁]]の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p91-103</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p422-424、454、455、489-491、506</ref>。
*[[1980年]]に『[[二百三高地]]』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。[[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]]を」「あれ、負け戦ですよ、[[日露戦争]]と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、[[太平洋戦争]]の脚本執筆を指示。『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は[[瀬島龍三]]から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが[[宮内庁]]の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという<ref name="やくざなり_91-103" /><ref name="昭和の劇_422-424_454-455他" />。


*笠原はこの後、アイドル映画([[中森明菜]]、[[近藤真彦]]共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、[[1989年]]に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、[[奥山和由]])はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している<ref name="昭和の劇537546"/>。
*笠原はこの後、アイドル映画([[中森明菜]]、[[近藤真彦]]共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、[[1989年]]に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、[[奥山和由]])はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している<ref name="昭和の劇_537-546"/>。


*[[奥山和由]]は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、[[田中角栄]]のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も[[勝新太郎|勝新]]、[[石原裕次郎|裕次郎]]、[[松田優作]]と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた<ref>『結局、どうすりゃ売れるんですか。』[[田原総一朗]]、[[ぶんか社]]、1999年、p195</ref>。
*[[奥山和由]]は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、[[田中角栄]]のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も[[勝新太郎|勝新]]、[[石原裕次郎|裕次郎]]、[[松田優作]]と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた<ref name="結局、どうすりゃ_195" />。


*[[山口百恵]]と結婚した[[三浦友和]]を岡田は「こいつをいつか東映のスターにする。これで成功させて次々やるんだ」と『[[獣たちの熱い眠り]]』(1981年)という映画を製作。"ウェイク・アップ友和!"という惹句を付けて、三浦をそれまでの青春スターから、[[ハードボイルド]]役者として売り出しを図ったが、三浦は東映ではスターになれなかった<ref>『惹句術―映画のこころ』、p400-402</ref>。
*[[山口百恵]]と結婚した[[三浦友和]]を岡田は「こいつをいつか東映のスターにする。これで成功させて次々やるんだ」と『[[獣たちの熱い眠り]]』(1981年)という映画を製作。ウェイク・アップ友和!という惹句を付けて、三浦をそれまでの青春スターから、[[ハードボイルド]]役者として売り出しを図ったが、三浦は東映ではスターになれなかった<ref name="惹句術_400-402" />。


*[[つかこうへい]]の[[戯曲]]を映画化した『[[蒲田行進曲]]』(1982年)は、[[角川春樹]]が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな[[楽屋落ち]]の話なんか当たるわけない」と断り<ref name="映画監督 深作欣二397399">深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』、p397-399</ref><ref>『[[キネ報]]』2000年10月下旬号、[[キネマ旬報社]]、p69</ref>[[松竹]]に話を持って行ったもの<ref name="スポーツ報知2011510"/>。しかし深作欣二が、[[松竹大船撮影所]]の雰囲気は違う。撮るのは[[東映京都撮影所]]じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の[[角川映画]]は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった<ref name="映画監督 深作欣二397399"/>深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』、p398</ref>。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、[[配給収入]]も17億6千万円という大ヒットを記録した<ref name="映画監督 深作欣二397399"/>。
*[[つかこうへい]]の[[戯曲]]を映画化した『[[蒲田行進曲]]』(1982年)は、[[角川春樹]]が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな[[楽屋落ち]]の話なんか当たるわけない」と断り<ref name="深作欣二_397-399" /><ref name="キネ旬2000102_69" />[[松竹]]に話を持って行ったもの<ref name="スポーツ報知20110510_19"/>。しかし深作欣二が、[[松竹大船撮影所]]の雰囲気は違う。撮るのは[[東映京都撮影所]]じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の[[角川映画]]は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった<ref name="深作欣二_397-399"/>。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、[[配給収入]]も17億6千万円という大ヒットを記録した<ref name="深作欣二_397-399"/>。


*『[[修羅の群れ]]』(1984年)は映画制作にクレジットはないが、岡田が[[稲川聖城]]の半生を映画化しようと懇意の[[大下英治]]に原作を書かせたもの<ref name="実話時代"/><ref name="トップ屋魂"/>。大下はこれをきっかけにヤクザをテーマにした小説を書くようになった。小説及び映画のタイトルは大下と俊藤で決めた。「修羅」という言葉は大下が好きで入れた。ヤクザ映画のタイトルに「修羅」という語が多く使われ始めたのはこの作品以降である<ref name="トップ屋魂"/>。1982年の『[[誘拐報道]]』は[[伊藤俊也]]が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたもの<ref>週刊新潮、1982年2月11日号、p13</ref>。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌[[経済界 (出版社)|経済界]]の主幹・[[佐藤正忠]]が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった<ref>『映画はやくざなり』笠原和夫、p106</ref><ref>『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p556</ref>。
*『[[修羅の群れ]]』(1984年)は映画制作にクレジットはないが、岡田が[[稲川聖城]]の半生を映画化しようと懇意の[[大下英治]]に原作を書かせたもの<ref name="実話時代200802_9"/><ref name="トップ屋魂_280-282"/>。大下はこれをきっかけにヤクザをテーマにした小説を書くようになった。小説及び映画のタイトルは大下と俊藤で決めた。「修羅」という言葉は大下が好きで入れた。ヤクザ映画のタイトルに「修羅」という語が多く使われ始めたのはこの作品以降である<ref name="トップ屋魂_280-282"/>。1982年の『[[誘拐報道]]』は[[伊藤俊也]]が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたもの<ref name="週刊新潮_19820211_13" />。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌[[経済界 (出版社)|経済界]]の主幹・[[佐藤正忠]]が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった<ref name="やくざなり_106" /><ref name="昭和の劇_556" />。


*岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、[[内田裕也]]が[[1983年]]、初めて脚本を書いた『[[十階のモスキート]]』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「[[警察官]]がね、最後は挫折して、ついに[[郵便局]]に[[強盗]]に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で映画化され[[崔洋一]]が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に[[安藤昇]]が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」コミック雑誌なんかいらない「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、[[リポーター|テレビレポーター]]がガーって行って、それで[[フィクション]]と[[ノンフィクション]]を交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、[[マイク]]を股間から取り出して、[[ホームベース]]に投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画は[[アルゴ・ピクチャーズ|ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]]で製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし[[早稲田大学]]の反映研グループの上映からスタートし、[[奥山和由]]が「僕に任せてくれ」と言って[[松竹]]の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところが[[カンヌ映画祭]]の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『[[コミック雑誌なんかいらない]]』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。[[毎日映画コンクール]]でも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。[[高岩淡]]が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」と[[しかと]]。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございます」と言ってやった。これは俺の人生でも最高の[[リベンジ]]だった、と内田は話している。[[2009年]]、内田の娘婿・[[本木雅弘]]が企画した(内田はまったく係わっていないが)『[[おくりびと]]』が[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、配給を[[松竹]]が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/87495/ 内田裕也「かわいがってくれた」]</ref><ref name="日刊スポーツ2011510"/><ref name="岡田茂"/><ref name="スポーツッポン2011510"/>。
*岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、[[内田裕也]]が[[1983年]]、初めて脚本を書いた『[[十階のモスキート]]』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「[[警察官]]がね、最後は挫折して、ついに[[郵便局]]に[[強盗]]に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で映画化され[[崔洋一]]が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に[[安藤昇]]が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」コミック雑誌なんかいらない「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、[[リポーター|テレビレポーター]]がガーって行って、それで[[フィクション]]と[[ノンフィクション]]を交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、[[マイク]]を股間から取り出して、[[ホームベース]]に投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也脚本置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画は[[アルゴ・ピクチャーズ|ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]]で製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし[[早稲田大学]]の反映研グループの上映からスタートし、[[奥山和由]]が「僕に任せてくれ」と言って[[松竹]]の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところが[[カンヌ映画祭]]の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『[[コミック雑誌なんかいらない]]』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。[[毎日映画コンクール]]でも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。[[高岩淡]]が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」と[[しかと]]。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございます」と言ってやった。これは俺の人生でも最高の[[リベンジ]]だった、と内田は話している。[[2009年]]、内田の娘婿・[[本木雅弘]]が企画した(内田はまったく係わっていないが)『[[おくりびと]]』が[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、配給を[[松竹]]が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという<ref name="オリコンdeadlink_内田裕也" /><ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="俺は最低な奴さ_280"/><ref name="スポニチ20110510_17"/>。


*内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り([[東宝]]は俳優や映画監督([[黒澤明]]以外)は会長室に絶対に入れない)[[岡田裕介]]は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が[[岸恵子]]と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが[[鶴田浩二]]とな、付き合ってたんだけど、ワシが[[箱根]]の[[旅館]]に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。[[田岡一雄|山口組の三代目]]が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」と話している<ref name="岡田茂"/><ref>[http://twitter.com/#!/UCHIDAYUYA/status/67588685733953536 Twitter / 内田裕也: 尊敬する先輩 東映 岡田 茂さん~]</ref>。
*内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り([[東宝]]は俳優や[[黒澤明]]以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)[[岡田裕介]]は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が[[岸恵子]]と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが[[鶴田浩二]]とな、付き合ってたんだけど、ワシが[[箱根]]の[[旅館]]に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。[[田岡一雄|山口組の三代目]]が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」と話している<ref name="俺は最低な奴さ_280"/><ref name="twitter_内田裕也" />。


*[[吉田拓郎]]と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ''[[ニューミュージック]]的映画作り'' という意味不明の題名を付け、東映の社内誌東映に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席も[[リクライニングシート|リクライニング]]のいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明<ref>現代・河原乞食考~役者の世界って何やねん?、山城新伍、解放出版社、p49-50</ref>。 
*[[吉田拓郎]]と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ''[[ニューミュージック]]的映画作り'' という意味不明の題名を付け、東映の社内誌東映に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席も[[リクライニングシート|リクライニング]]のいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明<ref name="河原乞食考_49-50" />。


*岡田と40年以上の付き合いがあったという[[日枝久]]は、[[フジテレビ]]の編成局長時代に長寿ドラマ[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110516/ent11051607340002-n1.htm 追悼 岡田茂・東映名誉会長 豪放磊落、最後の活動屋」]</ref>。「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、[[大川橋蔵]]の説得を得られたのも岡田の計らいという<ref name="財界201167"/>。
*岡田と40年以上の付き合いがあったという[[日枝久]]は、[[フジテレビ]]の編成局長時代に長寿ドラマ[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した<ref name="産経MSN20110516_最後の活動屋" />。銭形平次の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、[[大川橋蔵]]の説得を得られたのも岡田の計らいという<ref name="財界20110607_60-62"/>。


*[[1986年]]、当時26歳の[[黒木瞳]]の映画主演デビュー作『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で[[ホステス]]役をさせるため、実際に[[銀座]]の[[高級クラブ]]で[[アルバイト]]させた<ref name="スポーツッポン2011510"/><ref name="スポーツ報知2011510"/><ref name="sponichi20110511"/><ref name="NEWS24"/><ref name="yomiuri20110510"/><ref>[http://www.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201105090131.html?ref=reca 「活動屋一代」岡田茂さん死去、県内からも悼む声]<br />[http://www.pressnet.co.jp/vip/vip_08.shtml ザ・ウィークリープレスネット VIPインタビュー 岡田 茂 東映 相談役]</ref>。
*[[1986年]]、当時26歳の[[黒木瞳]]の映画主演デビュー作『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で[[ホステス]]役をさせるため、実際に[[銀座]]の[[高級クラブ]]で[[アルバイト]]させた<ref name="スポニチ20110510_17"/><ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポニチ20110511web_北大路欣也"/><ref name="NEWS24_20110510_思い出"/><ref name="スポーツ報知20110510web_志穂美悦子"/><ref name="朝日新聞20110509web_広島" /><ref name="プレスネットnodate_インタビュー" />。


*[[若松孝二]]は[[パレスチナ]]の[[日本赤軍]]と交流を持ったため、10数回警察から[[捜索|ガサ入れ]]を受け『[[赤軍-PFLP・世界戦争宣言]]』(1971年)は[[シネマート新宿|新宿文化]]で上映禁止にされ、『[[天使の恍惚]]』(1972年)は、公開を延ばされ、『[[キスより簡単]]』(1989年)は、神奈川県警が[[バンダイ]]を訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、[[公安警察|公安]]が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している<ref>[[若松孝二]]『時効なし。』、ワイズ出版、2004年、p87-89</ref>。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、[[若松プロダクション|若松プロ]]があった[[原宿]]セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという<ref>『時効なし。』、p120</ref>。[[横山博人]]は1986年に東映から『[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、[[全共闘世代]]を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している<ref>[http://ateliercat.exblog.jp/758858/ 映画監督 横山博人ブログ : 『フリーター』のあいだ 1]</ref>。
*[[若松孝二]]は[[パレスチナ]]の[[日本赤軍]]と交流を持ったため、10数回警察から[[捜索|ガサ入れ]]を受け『[[赤軍-PFLP・世界戦争宣言]]』(1971年)は[[シネマート新宿|新宿文化]]で上映禁止にされ、『[[天使の恍惚]]』(1972年)は、公開を延ばされ、『[[キスより簡単]]』(1989年)は、神奈川県警が[[バンダイ]]を訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、[[公安警察|公安]]が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している<ref name="時効なし。_87-89" />。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、[[若松プロダクション|若松プロ]]があった[[原宿]]セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという<ref name="時効なし。_120" />。[[横山博人]]は1986年に東映から『[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、[[全共闘世代]]を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している<ref name="横山博人公式_卍とフリーター1" />。


*[[1987年]]、[[松竹]]の[[奥山和由]]が企画した『[[ハチ公物語]]』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は[[渋谷]]が舞台なので[[東急グループ]]に出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え[[五島昇]]を紹介。東急グループは出資を決め、さらに[[三井物産]]も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力な[[プロモーション]]や大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった<ref>[[大高宏雄]]『日本映画 逆転のシナリオ』、[[WAVE出版]]、2000年、p33-34</ref>。
*[[1987年]]、[[松竹]]の[[奥山和由]]が企画した『[[ハチ公物語]]』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は[[渋谷]]が舞台なので[[東急グループ]]に出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え[[五島昇]]を紹介。東急グループは出資を決め、さらに[[三井物産]]も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力な[[プロモーション]]や大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった<ref name="逆転のシナリオ_33-34" />。


*[[1989年]]の映画『[[社葬 (映画)|社葬]]』は、[[鶴田浩二]]の[[葬儀]]で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア<ref>『クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ]』、p346</ref>。
*[[1989年]]の映画『[[社葬 (映画)|社葬]]』は、[[鶴田浩二]]の[[葬儀]]で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア<ref name="クロニクル1_346" />。


*[[白倉伸一郎]]は、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に[[仮面ライダーシリーズ]]を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。
*[[白倉伸一郎]]は、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に[[仮面ライダーシリーズ]]を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。


*[[渡辺淳一]]の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんは[[性行為|アッチ]]の方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した<ref>『僕らはそれでも生きていく!』小石原昭、p154</ref>。
*[[渡辺淳一]]の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんは[[性行為|アッチ]]の方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した<ref name="それでも_154" />。


*[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]が[[孫正義]]と組んで[[旺文社]]から[[テレビ朝日]]の全[[株式]]を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、[[20世紀フォックス|FOX]]とも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、[[朝日新聞社]]がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した<ref name="財界201167"/>。
*[[1996年]]、[[ルパート・マードック]]が[[孫正義]]と組んで[[旺文社]]から[[テレビ朝日]]の全[[株式]]を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、[[20世紀フォックス|FOX]]とも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、[[朝日新聞社]]がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した<ref name="財界20110607_60-62"/>。


*1996年、[[萬屋錦之介]]が[[文化庁]]から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。
*1996年、[[萬屋錦之介]]が[[文化庁]]から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。


*[[2002年]]、[[日刊スポーツ映画大賞]]の表彰式で『[[たそがれ清兵衛]]』で主演男優賞を獲得した[[真田広之]]について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した<ref>[http://www.nikkansports.com/news2/entert2/02movie/021229movie00.html nikkansports.com / Entertainment / 日刊スポーツ映画大賞 / 表彰式]</ref>。真田も東映が『[[忍者武芸帖 百地三太夫]]』(1980年)、『[[魔界転生]]』(1981年)、『[[吼えろ鉄拳]]』(1981年)、『[[冒険者カミカゼ]]』(1981年)、『[[燃える勇者]]』(1981年)と、主演映画を連打させ、アクションスターとして売り出された人だが、初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、[[ジャッキー・チェン]]の[[カンフー映画|香港カラテ映画]]を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという<ref>[[佐藤忠男]]、[[山根貞男]]責任編集『シネアルバム 日本映画1981 1980年公開映画全集』芳賀書店、1981年、p154、155<br />シネアルバム 日本映画1982 1981年公開映画全集』、p0-5</ref>。
*[[2002年]]、[[日刊スポーツ映画大賞]]の表彰式で『[[たそがれ清兵衛]]』で主演男優賞を獲得した[[真田広之]]について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した<ref name="ニッカンdeadlink_映画大賞" />。真田も東映が『[[忍者武芸帖 百地三太夫]]』(1980年)、『[[魔界転生]]』(1981年)、『[[吼えろ鉄拳]]』(1981年)、『[[冒険者カミカゼ]]』(1981年)、『[[燃える勇者]]』(1981年)と、主演映画を連打させ、アクションスターとして売り出された人だが、初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、[[ジャッキー・チェン]]の[[カンフー映画|香港カラテ映画]]を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという<ref name="シネアルバム82_154-155" /><ref name="シネアルバム88_0-5" />。
*[[1994年]]、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は[[田部文一郎]])会員が急に増え、現在4000人と在京[[県人会]]の中で一番多いともいわれる<ref name="プレスネット20110521_巨星墜つ"/><ref name="中国放送20000429_ふるさと" />。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため<ref name="中国新聞別冊20090129_1-7" />。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚([[東京ドーム (企業)|東京ドーム]]社長)。


*出身地の東広島市西条の[[フジ (チェーンストア)|フジグラン]]西条店内に東映系初の[[シネマコンプレックス|シネコン]]「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している<ref name="プレスネット20110521_巨星墜つ"/>。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、'''東映の役者がみんな来た'''、という話がある。
*[[1994年]]、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は[[田部文一郎]])会員が急に増え、現在4000人と在京[[県人会]]の中で一番多いともいわれる<ref name="pressnet"/><ref>[http://www.1350.jp/furusato/furu001.htm ふるさとを想う]</ref>。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため<ref>[[中国新聞]]・別冊、2009年1月29日、p1-7</ref>。毎年1月にある総会には出席者が1200~1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(八代目)は林有厚([[東京ドーム (企業)|東京ドーム]]社長)。 


*映画雑誌『[[プレミア (雑誌)|プレミア]]』([[ハースト婦人画報社|アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「決定! プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で[[角川歴彦]]、[[徳間康快]]、[[宮崎駿]]、[[北野武]]、[[出井伸之]]らを抑えて第1位に選ばれた。「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された<ref name="プレミア200104_83"/><ref name="彩流社20110510_御大追悼"/>。
*出身地の東広島市西条の[[フジ (チェーンストア)|フジグラン]]西条店内に東映系初の[[シネマコンプレックス|シネコン]]「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している<ref name="pressnet"/>。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、'''東映の役者がみんな来た'''、という話がある。


== 注釈 ==
*[[映画]][[雑誌]]「[[プレミア (雑誌)|プレミア]]」([[アシェット婦人画報社]])2001年4月号の特集「'''決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング'''」で[[角川歴彦]]、[[徳間康快]]、[[宮崎駿]]、[[北野武]]、[[出井伸之]]らを抑えて'''第1位'''に選ばれた。「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された<ref name="プレミア"/><ref name="sairyusha"/>。
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== 脚注 ==
== 出典 ==
書名とページのみの出典は[[#参考文献|参考文献]]へリンクしている。
{{Reflist|3}}
{{Reflist|3|refs=
<ref name="0東映_京都のあゆみ">[http://www.toei-kyoto.com/about/hisory.html 東映京都のあゆみ|東映京都ナビ|]</ref>
<ref name="0東映_渡瀬恒彦">[http://www.toei.co.jp/meister/vol9/detail/01.html 渡瀬恒彦さん登場!奈村所長と語る『東映京都撮影所』| 東映]</ref>
<ref name="0東映_任侠・実録">[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社[任侠・実録<nowiki>]</nowiki>]</ref>
<ref name="0東映_年表京都">[http://www.studios.toei-kyoto.com/about/history.html 撮影所年表|東映株式会社 京都撮影所|Toei Studios Kyoto]</ref>
<ref name="0東映キネマ旬報_2">[http://toei-video.book10.jp/book.php?tId=ssk47KMltG&p=11 東映キネマ旬報vol.2]</ref>
<ref name="0東映京都25年_1">東映太秦映画村映画資料館(企画編集)『東映京都・テレビ映画25年』東映京都スタジオ、1982年、p1<!-- ISBNなし --></ref>
<ref name="0東映三十年_125">『[[#東映三十年|東映映画三十年]]』P125</ref>
<ref name="0東映三十年_188-189_201_212">『[[#東映三十年|東映映画三十年]]』p188-189、201、212</ref>
<ref name="0東映三十年_226">『[[#東映三十年|東映映画三十年]]』p226</ref>
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<ref name="ANPA200404_吉田達">[http://www.producer.or.jp/kaiho/kaiho-2004/kaiho-0404/kaiho0404-02.htm 私の新人時代:吉田達(東映)]:日本映画テレビプロデューサー協会報</ref>
<ref name="BIGtomorrow200910_52">『[[BIG tomorrow]]』[[青春出版社]]、2009年10月号、p52</ref>
<ref name="en-taxi200509_83">『[[en-taxi]]』2005年9月号、p83</ref>
<ref name="EX大衆200510_XX">『[[EX大衆]]』2005年10月号</ref>
<ref name="facebook私と東映中島貞夫_2">[http://www.facebook.com/note.php?note_id=229534770394519 第2回『私と東映』x 中島貞夫監督 (全5回) | Facebook]</ref>
<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3">[http://www.facebook.com/note.php?note_id=235528236461839 第3回『私と東映』x 中島貞夫監督 (全5回) | Facebook]</ref>
<ref name="flowerwild20090701_内藤誠3">[http://www.flowerwild.net/2009/07/2009-07-01_190000.php flowerwild.net - 内藤誠、『番格ロック』を語る vol.3]</ref>
<ref name="Geocities資料庫_沢島忠">[http://www.geocities.jp/kmkr_01/stage02.html 映画監督による舞台演出 沢島忠]</ref>
<ref name="Hotwax2_136">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』2、p136</ref>
<ref name="Hotwax2_20">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』2、p20</ref>
<ref name="Hotwax3_70">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』3、p70</ref>
<ref name="Hotwax7_120-121_135">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』7、p120-121、135</ref>
<ref name="Hotwax7_135">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』7、p135</ref>
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<ref name="Hotwax8_16">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』8、p16</ref>
<ref name="Hotwax8_18">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』8、p18</ref>
<ref name="Hotwax8_43">『[[#Hotwax|Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲]]』8、p43</ref>
<ref name="Hotwax和モノ事典_21">『[[#和モノ|和モノ事典 1970's 人名編]]』p21</ref>
<ref name="moment_仙元誠三">[http://www.moment.gr.jp/2/interview.html talk & interview: 仙元誠三]</ref>
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<ref name="So-net_nodate_訃報">[http://news.so-net.ne.jp/article/detail/579048/?nv=c_cat_latest 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん | エンタメ | ニュース | So-net]{{リンク切れ|date=2011年9月}}</ref>
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<ref name="twitter_内田裕也">[http://twitter.com/#!/UCHIDAYUYA/status/67588685733953536 Twitter / 内田裕也: 尊敬する先輩 東映 岡田 茂さん〜]</ref>
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<ref name="ZAKZAK20040908_球界">[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_09/g2004090811.html 映画界のドン、球界のドンをチクリ]</ref>
<ref name="ZAKZAK20110509_死去">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110509/enn1105091555017-n1.htm “映画界のドン”東映名誉会長、岡田茂氏死去 87歳肺炎で - 芸能 - ZAKZAK]</ref>
<ref name="ZAKZAK20110510_仁義">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110510/enn1105101600017-n1.htm 東映ドン岡田茂さん死去…健さん、文太、松方が通す“仁義” - 芸能 - ZAKZAK]</ref>
<ref name="ZAKZAK20110511_通夜">[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110511/enn1105111250012-n1.htm 東映・岡田茂名誉会長しめやかに通夜 健さんは弔電 - 芸能 - ZAKZAK]</ref>
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<ref name="サンスポ20110510_訃報">{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/geino/news/110510/gnj1105100506010-n1.htm|title=“ヤクザ映画の父”岡田茂氏が死去|newspaper=サンケイスポーツ|date=2011-05-10|accessdate=2011-05-20}}</ref>
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<ref name="戦う女たち_266-267"><!-- 実物が確認できれば相当する論文を選んでコメントアウト解除。内容:四方田犬彦「女の戦いはなぜ悲しいのか」・鷲谷花「撮影所時代の『女性アクション映画』」・板倉史明「視線と眩暈」・斉藤綾子「緋牡丹お竜論」・志村三代子「アクション・ヒロインとしての安田道代」・真魚八重子「気高き裸身の娘たち」・四方田犬彦「志穂美悦子必殺・追跡・13階段」・内藤誠「東京ローカルとしての『女性アクション』」・鷲谷花「ポスト撮影所時代の『女性アクション映画』」・石田美紀「『美』に抗うアニメーション」 -->[[四方田犬彦]]・鷲谷花(編)『戦う女たち:日本映画の女性アクション』[[作品社]]、2009年、p266-267。ISBN 978-4-86182-256-8</ref>
<ref name="戦後史_269-270">[[武井昭夫]]『戦後史のなかの映画』スペース伽耶<!--[[星雲社]]は発売-->、2003年、p269-270。ISBN 4-434-03555-X</ref>
<ref name="争議あり_349">[[荒井晴彦]]『争議あり:脚本家・荒井晴彦全映画論集』[[青土社]]、2005年、p349。ISBN 4-7917-6211-8</ref>
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}}


==著書==
==著書==
*悔いなきわが映画人生/自著 財界研究所
*{{Cite book | 和書 | title = 悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年 | author = 岡田茂 | publisher = 財界研究所 | year = 2001年 | id = ISBN 4-87932-016-1 | ref = 悔いなき }}
*波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝/自著 [[角川書店]]
*{{Cite book | 和書 | title = 波瀾万丈の映画人生岡田茂自伝 | author = 岡田茂 | publisher = [[角川書店]] | year = 2004年 | id = ISBN 4-04-883871-7 | ref = 波瀾 }}


==参考文献==
==参考文献==
*[http://www.toei.co.jp/annai/outline/history.html 社史|東映株式会社]
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*{{Cite book | 和書 | title = 東映十年史 | author = 東映十年史編纂委員会(編) | publisher = 東映 | year = 1962年 | id = | ref = 社史十年 }}
*東映十年史/東映(1962年)
*{{Cite book | 和書 | title = 東映映画三十年:あの日、あの時、あの映画 | author = 東映株式会社映像事業部(企画・編集) | publisher = 東映 | year = 1981年 | id = | ref = 東映三十年 }}
*東映映画三十年/東映(1981年)
*クロニクル東映 1947-1991 [Ⅰ][Ⅱ][Ⅲ]/岡田茂発行 東映(1992年)
*{{Cite book | 和書 | title = クロニクル東映:1947-1991 | volume = 1, 2, 3 | author = 東映 | publisher = 東映 | year = 1992年 | id = | ref = クロニクル }}
*小説東映 映画三国志[[大下英治]] 徳間書店(1990年)
*{{Cite book | 和書 | title = 映画三国志:小説東映 | author = [[大下英治]] | publisher = 徳間書店 | year = 1990年 | id = ISBN 4-19-124210-5 | ref = 映画三国志 }}
*[[私の履歴書]] 経済人38/[[日本経済新聞社]](2004年)
*{{Cite book | 和書 | title = [[私の履歴書]] | volume = 経済人38 | author = [[日本経済新聞社]](編) | publisher = 日本経済新聞社 | year = 2004年 | id = ISBN 4-532-16901-1 | ref = 私の履歴書 }}
*私の東映30年渡邊達人著(1991年)
*{{Cite book | 和書 | title = 私の東映30年 | author = 渡邊達人 | publisher = 渡邊達人 | year = 1991年 | id = | ref = 私の30年 }}
*風雲映画城 下[[松島利行]] [[講談社]](1992年)
*{{Cite book | 和書 | title = 風雲映画城 | volume = | author = [[松島利行]] | publisher = [[講談社]] | year = 1992年 | id = ISBN 4-06-206226-7 | ref = 風雲 }}
*日本の映画人 -日本映画の創造者たち-/[[佐藤忠男]] [[日外アソシエーツ]](2007年)
*{{Cite book | 和書 | title = 日本の映画人日本映画の創造者たち | author = [[佐藤忠男]](編) | publisher = [[日外アソシエーツ]] | year = 2007年 | id = ISBN 978-4-8169-2035-6 | ref = 日本の映画人 }}
*[[キネマ旬報]]2011年7月上旬号他
*{{Cite journal | 和書 | journal = [[キネマ旬報]] | volume = 2011年7月上旬号他 }}
*[[映画秘宝]][[洋泉社]](2011年8月号他)
*{{Cite journal | 和書 | journal = [[映画秘宝]] | publisher = [[洋泉社]] | volume = 2011年8月号他 | ref = 秘宝 }}
*{{Cite book | 和書 | title = 鎧を着ている男たち:やくざは男社会のパロディ | author = [[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]] | publisher = [[徳間書店]] | year = 1987年 | id = ISBN 4-19-553454-2 | ref = 鎧 }}(増補改題:{{Cite book | 和書 | title = 破滅の美学:ヤクザ映画への鎮魂曲 | series = 幻冬舎アウトロー文庫 | author = | publisher = 幻冬舎 | year = 1997年 | id = ISBN 4-87728-506-7 }})
*鎧を着ている男たち/[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]著 [[徳間書店]](1987年)
*一言いうたろか山城新伍 広済堂出版(1993年)
*{{Cite book | 和書 | title = 一言いうたろか:新伍の日本映画大改造 | author = [[山城新伍]] | publisher = 広済堂出版 | year = 1993年 | id = ISBN 4-331-50421-2 | ref = 一言 }}
*現代・河原乞食考役者の世界って何やねん?/[[山城新伍]]著 [[解放出版社]](1997年)
*{{Cite book | 和書 | title = 現代・河原乞食考役者の世界って何やねん? | author = 山城新伍 | publisher = [[解放出版社]] | year = 1997年 | id = ISBN 4-7592-5120-0 | ref = 河原乞食考 }}
*仁義なき戦い 浪漫アルバム杉作J太郎、植地毅 徳間書店(1998年)
*{{Cite book | 和書 | title = 仁義なき戦い浪漫アルバム | author = 杉作J太郎、植地毅 | publisher = 徳間書店 | year = 1998年 | id = ISBN 4-19-860846-6 | ref = 浪漫アルバム }}
*丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ丹波哲郎 [[キネマ旬報]]社(1999年
*{{Cite book | 和書 | title = 丹波哲郎の好きなヤツ嫌いなヤツ | author = 丹波哲郎 | publisher = [[キネマ旬報]]社 | year = 1999年 | id = ISBN 4-87376-229-4 | ref = 丹波哲郎 }}
*東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム[[杉作J太郎]]・植地毅著 徳間書店(1999年)
*{{Cite book | 和書 | title = 東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編) | publisher = 徳間書店 | year = 1999年 | id = ISBN 4-19-861016-9 | ref = ピンキー }}
*僕らはそれでも生きていく!小石原昭 財界研究所(2000年)
*{{Cite book | 和書 | title = 僕らはそれでも生きていく!:読むと元気がでる本 | author = 小石原昭 | publisher = 財界研究所 | year = 2000年 | id = ISBN 4-87932-014-5 | ref = それでも }}
*男気万字固め[[吉田豪]] [[エンターブレイン]](2001年)
*{{Cite book | 和書 | title = 男気万字固め | author = [[吉田豪]] | publisher = [[エンターブレイン]] | year = 2001年 | id = ISBN 4-7577-0488-7 | ref = 男気 }}
*楽天楽観 映画監督 [[佐々木康]]円尾敏郎 [[ワイズ出版]](2003年)
*{{Cite book | 和書 | title = 楽天楽観映画監督佐々木康 | author = [[佐々木康]](著)、佐々木真・佐々木康子(監修)、円尾敏郎・横山幸則(編) | publisher = [[ワイズ出版]] | year = 2003年 | id = ISBN 4-89830-160-6 | ref = 佐々木康 }}
*映画はやくざなり笠原和夫 [[新潮社]](2003年)
*{{Cite book | 和書 | title = 映画はやくざなり | author = 笠原和夫 | publisher = [[新潮社]] | year = 2003年 | id = ISBN 4-10-460901-3 | ref = やくざなり }}
*濃厚民族[[浅草キッド]] [[スコラマガジン]](2003年)
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*「仁義なき戦い」調査・取材録集成笠原和夫 [[太田出版]](2005年)
*{{Cite book | 和書 | title = 「仁義なき戦い」調査・取材録集成 | author = 笠原和夫 | publisher = [[太田出版]] | year = 2005年 | id = ISBN 4-87233-948-7 | ref = 調査・取材録集成 }}
*Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.2(2005年)、3(2005年)、7(2007年)、8(2007年)/シンコーミュージック・エンタテイメント
*{{Cite book | 和書 | title = Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 | publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント]] | id = | ref = Hotwax }}
**vol. 2 (2005) ISBN 4-401-75101-9。vol. 3 (2005) ISBN 4-401-75102-7。vol. 7 (2007) ISBN 978-4-401-75111-2。vol. 8 (2007) ISBN 978-4-401-75116-7。
*Hotwax presents 和モノ事典 1970's 人名編/[[シンコーミュージック・エンタテイメント]](2006年)
*{{Cite book | 和書 | title = Hotwax presents 和モノ事典 1970's 人名編 | author = | publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント]] | year = 2006年 | id = ISBN 4-401-75109-4 | ref = 和モノ }}
*[[別冊宝島]] 1499号 流行り歌に隠されたタブー事件史/[[宝島社]](2008年)
*{{Cite book | 和書 | series = [[別冊宝島]]1499 | title = 流行り歌に隠されたタブー事件史 | publisher = [[宝島社]] | year = 2008年 | id = ISBN 978-4-7966-6178-2 | ref = 流行り歌 }}
*昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫/笠原和夫・[[荒井晴彦]]・[[絓秀実]]著 太田出版(2002年)
*{{Cite book | 和書 | title = 昭和の劇:映画脚本家笠原和夫 | author = 笠原和夫・[[荒井晴彦]]・[[絓秀実]] | publisher = 太田出版 | year = 2002年 | id = ISBN 4-87233-695-X | ref = 昭和の劇 }}
*任侠映画が青春だった/山平重樹著 徳間書店(2004年)
*{{Cite book | 和書 | title = 任侠映画が青春だった:全証言伝説のヒーローとその時代 | author = 山平重樹 | publisher = 徳間書店 | year = 2004年 | id = ISBN 4-19-861797-X | ref = 任侠が青春 }}
*日本ヒーローは世界を制す/[[大下英治]]著 [[角川書店]](1995年)
*{{Cite book | 和書 | title = 日本ヒーローは世界を制す | author = [[大下英治]] | publisher = [[角川書店]] | year = 1995年 | id = ISBN 4-04-883416-9 | ref = 日本ヒーロー }}
*日本映画縦断Ⅰ 傾向映画の時代、同Ⅱ 異端の映像/[[竹中労]]著 白川書院(1975年)
*{{Cite book | 和書 | title = 日本映画縦断 | author = [[竹中労]] | publisher = 白川書院 | year = 1975年 | id = | ref = 日本映画縦断 }}
*文化通信ジャーナル2009年3月号
**{{Cite book | 和書 | title = 1:傾向映画の時代 | year = 1974年 | id = | ref = 傾向映画 }}{{Cite book | 和書 | title = 2:異端の映像 | year = 1975年 | id = | ref = 異端の映像 }}
*日本映画は生きている 第4巻/[[黒沢清]]・[[四方田犬彦]]・[[吉見俊哉]]・[[李鳳宇]]編集 [[岩波書店]](2010年)
*{{Cite journal | 和書 | journal = 文化通信ジャーナル | volume = 2009年3月号 | ref = 文化通信J }}
*{{Cite book | 和書 | title = 日本映画は生きている | volume = 4 | author = [[黒沢清]]・[[四方田犬彦]]・[[吉見俊哉]]・[[李鳳宇]](編集) | publisher = [[岩波書店]] | year = 2010年 | id = 978-4-00-028394-6 | ref = 生きている }}
*{{Cite book | 和書 | title = 時代劇は死なず!:京都太秦の「職人」たち | author = 春日太一 | publisher = 集英社 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-08-720471-1 | series = 集英社新書 | ref = 死なず }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 困った奴ちゃ:東映ヤクザ監督の波乱万丈生 | author = 小沢茂弘・高橋聰 | publisher = ワイズ出版 | year = 1996 | id = ISBN 4-948735-57-4 | ref = 困った }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 任侠映画伝 | author = 俊藤浩滋・山根貞男 | publisher = 講談社 | year = 1999年 | id = ISBN 4-06-209594-7 | ref = 任侠映画伝 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 惹句術:映画のこころ | author = 関根忠郎・[[山根貞男]]・[[山田宏一]] | publisher = [[講談社]] | year = 1986年 | id = ISBN 4-06-202005-X | ref = 惹句術 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 映画監督深作欣二 | author = 深作欣二・山根貞男 | publisher = ワイズ出版 | year = 2003年 | id = ISBN 4-89830-155-X | ref = 監督深作欣二 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 石井輝男映画魂 | author = 石井輝男・[[福間健二]] | publisher = ワイズ出版 | year = 1992年 | id = ISBN 4-948735-08-6 | ref = 石井輝男 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 沢島忠全仕事:ボンゆっくり落ちやいね | author = [[沢島忠|澤島忠]] | publisher = ワイズ出版 | year = 2001年 | id = ISBN 4-89830-096-0 | ref = 沢島忠全仕事 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 高田宏治東映のアルチザン | author = 西谷拓哉・高田宏治 | publisher = [[カタログハウス]] | year = 1997年 | id = ISBN 4905943337 | ref = 高田宏治 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = ヤクザが認めた任侠映画 | series = 別冊宝島922 | publisher = 宝島社 | year = 2003年 | id = ISBN 4-7966-3743-5 | ref = ヤクザが認めた }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 映像のスリット:わが映画人生 | author = 中島貞夫 | publisher = [[芸艸堂]] | year = 1987年 | id = ISBN 4-7538-0122-5 | ref = スリット }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = ポスターでつづる東映映画史:東映ポスター集 | author = 東映ポスター集製作委員会(編) | publisher = [[青心社]] | year = 1980年 | ref = ポスター }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = ベスト・オブ・キネマ旬報 | volume = 下 (1967-1993) | publisher = キネマ旬報社 | id = ISBN 4-87376-101-8 | ref = キネ旬ベスト下 }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->
*{{Cite book | 和書 | title = 将軍と呼ばれた男:映画監督山下耕作 | author = 山下耕作・円尾敏郎 | publisher = ワイズ出版 | year = 1999年 | id = ISBN 4-89830-002-2 | ref = 将軍と }}<!-- 2011年9月に脚注より書誌を移動 -->


==外部リンク==
==外部リンク==
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*[http://www14.ocn.ne.jp/~usubaka/link.html 全日本バイオレンス委員会 リンク集]
*[http://www14.ocn.ne.jp/~usubaka/link.html 全日本バイオレンス委員会 リンク集]
*[http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/henai.html 偏愛キネマ館]
*[http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/henai.html 偏愛キネマ館]
*<Cite id="メッセージjp" style="font-style:normal">[http://dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ]</span>


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2011年9月19日 (月) 16:39時点における版

岡田 茂(おかだ しげる、1924年3月2日 - 2011年5月9日[1])は、日本映画プロデューサー。元東映東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役を務めた。

松竹城戸四郎東宝森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり[2][3][4][5][6][7][8][9]、戦後の日本の娯楽産業を創った一人である[10]広島県賀茂郡西条町(現東広島市西条)出身[11]

長男は、映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『実録三億円事件 時効成立』などで知られる元俳優で現東映社長の岡田裕介。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子

経歴

少年時代

中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた[11][12][13]。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を首席で卒業、1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた。当地はグラマンに爆撃され宮城県古川町(現在の大崎市)に疎開。1945年8月15日、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した[11][14]

終戦後復学。東大経済学部の学友会である経友会を、日本共産党が牛耳ろうとするのを猛者を率いて大学の左傾化を阻止した[11][15]。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることを理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した[16]。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなどして、右も左もないと言われている[17][18][19]

東映入社 - 草創期

木暮剛平らが同期の親友。卒業後、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。最初は小学生からの幼馴染今田智憲の紹介で、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった[20]東横映画社長・黒川渉三に会い、永野護桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を希望していた[21]。しかし黒川から「近く映画事業を始めるからウチに来い」と誘われ、マキノ光雄、伊藤義、浅岡信夫らにも激しく説得され[22][23][24][25]、黒川に「鶏口となるも、牛後となるなかれ、だよ。岡田君」という一言で最後は決めた[26]。その言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は旧満映系の映画人を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者[27]。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた[28]。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。

1947年、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められたという[29]。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという[21][30][31][32][33]。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。翌1948年、24歳で製作主任に昇格[31]。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意[14][34]東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり[35]、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした[21][31]。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノの助け舟もあって1950年、映画は完成[35][36]。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが[37]、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった[14]。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任[38]

課長昇進 - 撮影所長へ

1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった[27][39][40][24][30][20]。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった[30][注釈 1]1951年プロデュースした『八ツ墓村』は同小説最初の映像化。1952年京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。1940年代後半の東宝争議で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した[41]

当時のNHKラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助大友柳太郎主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる[42]。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した[28]1956年には年間配給収入でトップとなった。

1955年、アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた[43][44]1956年には京撮にアルバイトに来ていた鈴木則文を入社させた[45]。1957年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う[44]1960年京撮所長。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。北大路欣也松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた[46][47]1962年取締役東京撮影所長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる[44][48][49]。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二佐藤純彌降旗康男新東宝から引き抜いた石井輝男渡辺祐介瀬川昌治ら若い才能を抜擢した[44][48][50][51][52][53][54][55][56]。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう[57]

ギャングシリーズを開拓した後[58]、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画[注釈 2]路線に転換させる[21][24][25][48][59][60][61][62]日活大映東宝など他社も追随した[63][64]。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。土曜深夜オールナイト興行には観客が押し寄せ、任侠映画70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした[48][65]東宝松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの[27][66]。『任侠映画』と後に手掛ける『実録ヤクザ映画』抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない[67]。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった[48][68]。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した[69]。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥物語』など、任侠映画、エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである[69][21][10][70][71]。『大奥物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので[21][24][72][73][74][75][76]この快挙は当時のジャーナリズムを刺激して「物語」という活字が新聞や週刊誌によく使われた[77]。「今ではどこの企業でも部外秘の書類にというハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している[78]。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴佐久間良子藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥物語』はブームを呼び[79]、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり[74]エッセンスは受け継がれ[80]現在もテレビドラマ等に繋がる[75]1964年の『二匹の牝犬』では文学座小川眞由美六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた[75]。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化[51][81]東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で[44][82]、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で[48][56][83]若山富三郎を『極道』シリーズで[71]、そして『不良番長』シリーズで梅宮辰夫を売り出す[61][50][84][85][86][87]。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた[10]。本作はの内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ[52]内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画[88][89][90]

1964年、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作るが大失敗[28][91][92]。この時撮影所に量産のため、臨時雇用の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた[93]。大川に全権委任され、揉めに揉めたものの大リストラを断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした[44][94][95][96]。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る[21][27][24][85][97][98][99]。京撮で製作された任侠映画第一作が1964年高倉健の初主演作『日本侠客伝[100][101]。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ[102]。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け[24][98][103]、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任[24][56][104][105][106][107]。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった[50]。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った[97][95][56][7]。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった[95][108]。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけだが、当時東京オリンピックを前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった[107]。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった[60][7]。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた[109]東映動画については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている[28]

テレビ映画に本格的に参入を図った岡田は、特に関西のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した[110]。当時、電通大阪支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビの芝田研三副社長と東映テレビ次長・渡邊亮徳を引き合わせた。時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの[111]。ここからは大川橋蔵の『銭形平次』、近衛十四郎の『柳生武芸帳』、杉良太郎高橋英樹の『遠山の金さん』、高橋英樹の『桃太郎侍』などを生んだ[94][106][108]。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映がフジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った[104][105][106][112]。当時フジテレビは虫プロ作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる[108]1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔から協力を依頼され製作を受注したもの[113]。本作は1967年発足した東映京都製作所(のち太秦映像)が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した[106]。その他、1968年テレビドラマ大奥』は、岡田が企画した映画『大奥物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる[106][114]。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫にテーマ曲を依頼した[115]。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった[75]。関西テレビからは、「このだけは困る。題名ははやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという[112][21][116][117][118]。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、『大奥』の成功はその後、『長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『服部半蔵 影の軍団』など、主として異色時代劇の分野を開拓した[106]。当時他の映画会社はテレビに消極的で、おかげで東映のシェアは50%超を占め、現在も40%台を確保し大きな柱となっている[24]

東映はこの年、東急グループを離脱した[23]。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた[73][119]。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年、借金で松竹をクビになった藤山寛美を一時東映に籍を置かせる[120]1967年松竹にいた菅原文太を東映に移籍させ、安藤昇を東映出演させた[121][注釈 3]1969年渡瀬恒彦をスカウト[122][123]1966年常務、1968年秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任、岡田が音頭を取った所謂「エログロ路線」「好色路線」が、この前後から本格化した[62]1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握[24]。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリングタクシーホテルなどの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた[28]。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地をロックアウトを決行し何とか乗り切った[124][125][126]

大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線だったし、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周りに「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が逝去。毅が「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇の推しもあって社長に就任する[127]。東映動画(現・東映アニメーション)会長兼任。不採算の東映フライヤーズ日拓ホームに譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営し全国32あった東映ボウリングセンターの大半を売り合理化をさらに推進した[128][125][72][129]

多角経営への道

一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜[59][130][131][132]菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「エログロ映画」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した[44][130][48][133][134]。「実録映画」という呼称は、1972年イタリア映画『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの[130][135]。「実録路線」はスタンダード化し、その後のVシネマなどでも、実録でなければ売れないという公式が確立された[136]。「エログロ路線」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった[137][138][139]。1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である[139]。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子谷ナオミ賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした[140][141]。これを皮切りに日活の『野良猫ロック』シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹大信田礼子らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ[48]梶芽衣子多岐川裕美夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出し[48][142]エロ映画を量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった[143][144]タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた[59]。しかしこの後、カンフーブームが来て併映作品として始めた千葉真一志穂美悦子らの空手映画が受けると、ポルノ映画の主流が日活、大蔵映画などに移ったこともあってポルノ路線をアッサリ切り捨てた[145][146]1972年6月、全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部(テレビランドの創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった[147]。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部がレコード原盤やPR映画の制作、演劇公演やアニメーションフェスティバル、地方博パビリオンの映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」など文化事業を手掛けた[28][148][149]1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンした[150][1][151][24][152]

大川からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出[153][154]。とくにブルース・リーアラン・ドロンの買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす[154]。この洋画部は香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった[150][148]。洋画部は『ドラゴンへの道』や『ル・ジタン』『流されて…』『課外授業』『風の谷のナウシカ』『魔女の宅急便』『四季・奈津子』『オルゴール』『黒い雨』や、後藤久美子主演の『ラブ・ストーリーを君に』『ガラスの中の少女』、ポルノ史上最高の大ヒットとなった『ディープ・スロート』やポーランド映画の名作『灰とダイヤモンド』、アル・パチーノ主演・ウィリアム・フリードキン監督のハードゲイ映画『クルージング』『樺太1945年夏 氷雪の門』などを配給した[109][12][155]。また、『それから』(1985年)などを自主製作した[156]1973年テレビランド』を徳間書店に移す[157]。東映本体の制作では『トラック野郎』シリーズや[48][158]フランスで大ヒットした『新幹線大爆破[159]、『青春の門』『河内のオッサンの唄』、横山やすし主演の『唐獅子株式会社』、田中美佐子の映画デビュー作『ダイアモンドは傷つかない』、シブがき隊主演『ヘッドフォン・ララバイ』や、『柳生一族の陰謀』『二百三高地』『動乱』『制覇[160]などの大作を生んだ。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた[161]。フジテレビを退社した五社英雄をカムバックさせ『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した[48][162]1975年香港ショウ・ブラザーズと提携[163]。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした[164]。また労組問題で混乱していた系列の東映動画1974年、親友の今田智憲を社長に据えて建て直し『キャンディ・キャンディ』や『UFOロボ グレンダイザー』『銀河鉄道999』『ドラゴンボール』『キン肉マン』『北斗の拳』『聖闘士星矢』『美少女戦士セーラームーン』『スラムダンク』などの作品を生み、日本アニメ海外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を西崎義展から買い付けしたのを手始めに、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、『銀河鉄道999』などの松本零士作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた[129][12][27][165][166]。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ[150]、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった[167]

1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした[168]。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの[169]1983年東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは0の映画であった[169]。外部ノウハウを起用し[170]角川春樹とタッグを組んで、『人間の証明』『野性の証明』『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『蘇える金狼』『野獣死すべし 』『悪霊島』『スローなブギにしてくれ』『魔界転生』『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』『探偵物語』『里見八犬伝』『麻雀放浪記』『天と地と』など、一連の角川映画を手掛け一時代を築く[146][129][56][171][172][173][174]。その他、自主上映で人気を得ていた柳町光男監督の『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』(1976年)、松田聖子のデビュー映画でサンミュージックとの提携『野菊の墓』(1981年)、日本テレビと提携した『誘拐報道』(1982年)、今村昌平の今村プロダクションと共同製作してカンヌ国際映画祭でグランプリを獲った『楢山節考』(1983年)、寺山修司監督の『草迷宮』(1883年公開)、全真言宗青年連盟との提携『空海』(1984年)などを提携(買取りを含む)、配給した[175]

テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き、制作を進め、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』などの時代劇、『特別機動捜査隊』『鉄道公安36号』などの現代劇[116]、『さすらい刑事旅情編』に始まる『刑事』シリーズ、初の2時間ドラマとして特筆される『土曜ワイド劇場』、一世を風靡した『ジャイアントロボ』『仮面ライダー』(仮面ライダーシリーズ)、『人造人間キカイダー』『超人バロム・1』などの特撮変身ヒーローもの、『秘密戦隊ゴレンジャー』などのスーパー戦隊シリーズ、『宇宙刑事ギャバン』から始まるメタルヒーローシリーズ、『柔道一直線』『スケバン刑事』などを生み出した。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている[176]。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1980年、日活から黒澤満を引きぬき、少数予算で映画を制作するセントラルアーツを設立[28][150][177][178][179][170]。ここからはカラオケビデオや『Vシネマ[48]、『最も危険な遊戯』から始まる松田優作遊戯シリーズや、『野獣死すべし』『ドラマ探偵物語』、舘ひろしの『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、『あぶない刑事』シリーズ、『ビー・バップ・ハイスクール[48]、『新宿純愛物語』などの仲村トオル主演映画、『少林寺木人拳』などのカンフー映画、『下落合焼とりムービー』『狂い咲きサンダーロード』『爆裂都市 BURST CITY』『水のないプール』『』『泥の河』『竜二』『魔の刻』、長渕剛の『オルゴール』などを生んだ(独立系作品の配給も含む)[177][175][180][181][182]家庭用ビデオデッキの普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ(アダルトビデオ)が爆発的に売れた[183]1980年東急グループの興行会社・東急レクリエーション社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、五島慶太五島昇に対する不義理を解いた[98][184]1984年日本衛星放送(WOWOW)設立で非常勤取締役(〜2001年)[185][186]1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた[146][187][47][5]1993年、東映会長。1996年ルパート・マードック孫正義によるテレビ朝日買収を阻止した[98]。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である[188]瀬川昌治は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている[30]日本経済新聞社は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、松岡功は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した[98][189][190]

親分肌で豪放な性格で知られ『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ[191]。また付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った[172]早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした[43][1][192]沢島忠は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」[43][35]北大路欣也は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」と話した[187]。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。

1971年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く[24]。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した[7]1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力[193][194][195][119]、会長・名誉会長を歴任し、第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された[146]。撮影所所長としても辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する[196]

その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館隣)の開館にも尽力した。1990年、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作とした2時間ドラマ日本テレビで同年6月1日放送され中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた。1984年藍綬褒章1995年勲二等瑞宝章受賞。

映画雑誌『プレミア』(アシェット婦人画報社)2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で第1位に選ばれた[197][198]

名誉会長へ

2006年7月、三代目社長だった高岩淡が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった[注釈 4]

死去

2011年5月9日、肺炎の為に死去[1][199]87歳没。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった[200]。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という[2]

人物

『仁義なき戦い』

仁義なき戦い』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に山口組三代目の田岡一雄組長が訪れて鑑賞した。深作欣二監督は田岡が来ることを知って席を外した。後に間に人を立てて親分が岡田に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる。このシシャの意味は岡田本人も聞かなかった[201][202]。同作品が製作された1970年代の始めは広島抗争はまだ燻っていて、いささか危険な状況であり、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫していたという、折り紙付きの難物だった。東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声も多かったが広島出身の岡田がやる気満々で製作実現までに至った[203]。『仁義なき戦い』は笠原和夫の脚本中の“血風ヤクザオペラ”[204]とも“広島弁シェークスピア[205]とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々も大きな魅力。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集めたが、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、菅原文太金子信雄のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという[191][202]

『仁義なき戦い』の中で重要な役である山守義雄役には当初監督の深作欣二三国連太郎を希望していた。しかし岡田は映画の舞台である広島弁のイントネーションのうまさを買って「金子信雄にしろ!」と鶴の一声で配役を変更。結果的にこれが大成功を収める[206][207][208][202]

『仁義なき戦い』のシリーズ化は第一作の撮影途中で決定した。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「広島事件!」と即答。「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」「お前ね、そこを考えるのがライターじゃないの」「広島事件はまあ待って下さい、もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げて、原作でチラッと出てくる、山上光治という24歳で自決する殺し屋(演者:北大路欣也)を軸に脚本を書いたのが第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』となる。第一部の大ヒットで第三部『仁義なき戦い 代理戦争』の製作が決定(第二作の公開前)。決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』と合わせて物語を終結させ笠原もようやく安堵した。ところが、岡田と深作と日下部五朗の四人で夜の京都に繰り出したおり、四条大橋の上で岡田が笠原の肩に手を掛け「お前なァ、悪いけど『仁義なき戦い』をもう一本書いてくれないか」と囁いた。笠原は「あれはもう文太の別れも書いて、二人とも刑務所に入れたし、もう書きようがない」と断った。バーに入って岡田に聞こえないように笠原が深作に相談すると、深作は「笠原さんがホン書くならやるよ」と言う。笠原は「よし。なんぼなんでもギャラが安すぎるから(一本120万円だった)ギャラを上げるなら受けることにしよう。おれが交渉するから、それまでお前は引き受けるな」「わかった。おれのぶんの交渉もよろしくな」と深作と打ち合わせをしていたが、正月に東映本社に挨拶に行った深作は、岡田から「今年はまず第五部だな、君、頼むよ」「はいっ」と二つ返事で引き受けてしまった。第五部『仁義なき戦い 完結篇』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのはこうした経緯から[209]

『三代目』

岡田が直接、田岡一雄組長と交渉し映画化の約束を取りつけて製作した『山口組三代目』(1973年)は記録的なヒットを飛ばした。本作は『ゴッドファーザー』が好きな岡田が、日本で当てはめるなら山口組だなと考え、これをやるのは自分しかないと製作に着手した[210]。小説化〜映画化にあたり徳間康快を呼んだら「頼む。これだけは俺にやらしてくれ」と飛びついてきたという。原作本が徳間書店から出ているのはこのため。後年の稲川聖城の半生記『修羅の群れ』も岡田と徳間でまず小説化を決めたもの。こちらも『アサヒ芸能』で連載された[211][212]。『修羅の群れ』の方は、岡田が大下英治に本を書かせたが、『山口組三代目』の場合は原作者を作家にすると揉める恐れがあるため、原作は田岡の自伝という形にして、実際にはアサヒ芸能の編集長をしていた人に書かせた。宣伝の必要もなく、映画はバカ当たりした。後にも先にも宣伝も何もしないで、あんなバカ当たりした映画はなかったという[210]。岡田は「この映画は暴力礼賛映画ではない」と説明したが、実際は田岡一雄組長をヒーローのように仕立てあげており、東映の観客調査の満足度は92%と、観客のほとんどは田岡組長の人間ドラマに感動したというデータが出た。全国の映画館主からも続編の要望も出て、根っからのカツドウ屋で、もうけのためなら手段を選ばない主義ともいわれた岡田ゆえ、続編の製作は当たり前と思われたが、各方面からの猛烈な批判が浴びせられた。こうした批判に対して新聞記者をいっぱい集めた前で「『ゴッドファーザー』がアメリカで出来て、日本でなぜ田岡一雄伝をやってはいけないんだ。説明してくれ」などと言ってさらに批判が増した[210]。当時の岡田は若手財界人のやり手として売り込み中でもあり思案投げ首状態となった。また『山口組三代目』では芸能界の実名人物は“広沢虎造”どまりであったが、二部以降になれば“美空ひばり”がいやでも登場することになる。かとう哲也の再逮捕で手負い獅子のようになっているひばりが、続編を許すはずがなく続編は一旦はあきらめた[213][214][215]

しかし翌1974年、続編『三代目襲名』が製作された。これは山口組の宣伝映画だと警察に睨まれ、裏金取引があるのではないか、と東映は家宅捜索も受けた。裏取引はないが前売券を組に売ったため、これを今度は共通券は商品法違反、東映と暴力団の癒着、資金源に利用されたとか警察から何かと嫌がらせを受けた[62][216]。岡田がムシャクシャした挙句、便所で浮かんだのが1975年に映画化された『県警対組織暴力』という映画のタイトル[217][218]。なお山口組のシリーズは当初、三部作の予定で三作目は『山口組三代目 激突篇』というタイトルであったが、世間を騒がせた責任をとって製作を断念、結果的に二部作になった[219]

この後も東映は山口組の全国進攻を描いた映画を多数製作するが、山口組を題材にした映画が多く量産出来たのは、田岡一雄の息子・田岡満をスタッフに入れていたため[136]。『山口組三代目』を製作する際、田岡満から自分をプロデューサーにして映画を一緒に作らせてほしい、と岡田に申し出があった[220]。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという[221]。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と高岩淡日下部五朗笠原和夫ら、多くの関係者が話している[222][223][224]

『きけ、わだつみの声』

1950年『『きけ、わだつみの声』製作時の氏家齊一郎ら東大の左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた[31]。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳でその1人が富本壮吉。富本はこれが縁で映画界入り、後に『家政婦は見た!』などのテレビドラマ演出で主に活躍した。なお監視役といっても撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句はいわせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ学生たちも手伝うようになったという。この映画のスタッフには脚本八木保太郎舟橋和郎ら、監督関川秀雄音楽伊福部昭と、レッドパージで他の映画会社を追われた人たちを起用[14]。またキャスティング俳優座佐藤正之に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が新劇の若手俳優を説得にまわり低予算で製作に至ったもの。当時は無名だった沼田曜一信欣三佐野浅夫大森義夫俳優座民芸文学座の俳優を起用、やはり感銘を受けた杉村春子も出演した。スターシステムが各社当然だった時代では異色のキャスティングだった[225][226][31]。こうした新劇の役者も当時パージにあって金に困っていて、山城新伍には「いま、金に困ってるから、20 - 30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという[227]

『きけ、わだつみの声』の試写の際東急会長の五島慶太は、目に掛けていた次男が戦死した事とオーバーラップさせて号泣。上映後、岡田に対し「よくやった。これを、とっとけ」と言ってポンと5万円(現在の100万円くらい)を渡したという[23]。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの金を撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった[21][228][23]

その他1

  • 1953年深作欣二は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり『やァ暑いですなあ、こう暑いと“お○○こ”する気にもなれませんなあ』と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の工藤栄一に『あれは誰です?』と聞くと『京撮の岡田製作課長だ』という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという[229]
  • 工藤栄一は、岡田を『色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う』と評している[230]
  • 東映が1954年から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていて『わしらも帰ってやろう』と考えた単純な動機から。『どうやるんですか』と岡田が聞いたら『何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)』と言われたという[231]。全員を集めて『やるしかないんだ。三部作を原則にいこう』と檄を飛ばした。いまでいうテレビ番組をつくる感覚であったという[28]
  • 1954年、製作課長時代に東映に移籍してきた萬屋錦之介を唯一説得できる存在であった。錦之助は『笛吹童子』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、片岡千恵蔵市川右太衛門の作品には若いファンがいない。だから錦之助や東千代之介の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると内田吐夢伊藤大輔田坂具隆ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、有馬稲子からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年棒が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『宮本武蔵』五部作の完結編『宮本武蔵 巌流島の決斗』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた[232]。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得、1966年錦之助は東映を円満退社した。
  • 予想通り『中村プロダクション』はうまくいかず11年後、錦之介は再び岡田のところへやってきた。『何かいい企画はないか』というから『『柳生一族の陰謀』をやれ』といった。これが大成功を収めて封切日の夜、錦之助と岡田は二人して抱き合いながら錦之助の母上に成功の報告をしていたという[233]。元気づいた錦之助はこの後、同じ深作欣二監督で『赤穂城断絶』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。この映画は錦之助に吉良上野介をやらせて、吉良の眼から見た忠臣蔵にしようとしたが、周囲の歌舞伎関係の人たちから猛反対に遭い断念した。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして『俺が言っておくから、松竹永山武臣会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう』と言ったが、錦之助は『俺は映画の錦之助として死にたい』と言ったという[27][234][235][236]
  • 1957年、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る[44]。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜けるその豪腕は<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000~5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中のNGも2カットに1回しか認めない。当時の東映は、すべての経費人件費がいちばん安く、フィルム代がいちばん高かったため。こうした<鬼の岡田>の厳格なスケジュール・予算管理が徹底されたからこそ、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した[237]。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した[233]。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという[233]。東映の両御大・片岡千恵蔵市川右太衛門の使う黒塗りのハイヤーを中止させ、ロケバスに同乗させた[30]

美空ひばり

マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという[28][238][15][239]

こうした一件もあってひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという[240]。岡田は神戸芸能社との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは小林旭と結婚した1962年あたりから映画や浅草国際劇場での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた[241]。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『江利チエミで大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた[241]。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で川口松太郎に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一ヶ月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から淡島千景を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』というバーター案で、これにより沢島の貸し出しが決まった[242]。沢島はこの後1967年、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の東京映画に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した[242][243][244]

社長就任時

1971年、大川博社長の逝去で、後任社長には岡田、坪井与、俊籐浩滋、片岡千恵蔵らの名前が挙がったが、やはり抜群の才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという[245]

岡田が社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時通産大臣だった田中角栄を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは住友ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて五島昇の所に行ったところ「三菱にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行頭取伊部恭之助に会うと慌てて「それは違う。堀田庄三さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった[246]


「不良性感度」

「映画は元来、不良青年がつくるもの」という意味で、岡田が言い出した有名な〔不良性感度〕なる語[247]の発想について以下のような説明をしている。「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」[248]。また「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している[28][249]

岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、江戸時代に芝居が“カワラもの”と言われたときからの見世物の役割だ。この二つが、映画にとって陰陽エレメントになっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に摑まえたがるのが困るところだ」などと話していた[250]加藤泰は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している[251]

任侠

東映任侠路線の幕開けとなった『人生劇場 飛車角』(1963年)で、そのタイトルをめぐって、『人生劇場』の作者である尾崎士郎が「飛車角を入れたらヤクザ映画だ」と主張したが一歩も譲らず押し通した[60][252][253]。『人生劇場』は元々、青成瓢吉を主人公とする青春映画で過去何度も映画化されたものだが、今までと同じでは当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据え侠客映画に変えたもの[254][255]。監督には現代的センス溢れる演出を買い沢島忠を起用した[44][253]。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた[44][60][50][48][256]。新しいチャンバラ映画の開発に賭けた岡田の目論見通りにいったのである[257]。映画が大ヒットした理由は、非常に展開がスピーディであったこと、それから当時、鶴田浩二佐久間良子が恋人関係にあって、二人が琴瑟相和すという名演技を見せたこと、ラストの斬新な点など[44][48][255]。大ヒットしたことで『続・飛車角』『新飛車角』なるものまで作られたが、『新飛車角』の脚本を岡田に書かされたのが笠原和夫だった[258]。笠原は言うまでも無く後年、数多くのヤクザ映画の傑作で名声を高めるが、当時はまだヤクザの“ヤ”の字も分からないとき。これを岡田は「原作は使わなくていい (!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎士郎にお伺いを立てに行った。既に病床に身で、声を出すのも辛そうな尾崎は説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは黙ってしまったという。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いないが、もしもあの時、尾崎が元気で突っぱねたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたものと笠原は話している[257]。1970年代に入って実録路線に転換すると1974年に『実録飛車角・狼どもの仁義』という『仁義なき戦い』と『飛車角』を合体させたようなムチャな映画を製作した。これには尾崎の遺族が抗議した[259]

この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『御金蔵破り』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『忍者狩り』『間謀』『くの一忍法』『十兵衛暗殺剣』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『徳川家康』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した[27][260]

岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた[261]

岡田が1960年代から1970年代にかけて仕掛けた「任侠映画」や「実録ヤクザ映画」は、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。武井昭夫は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。全共闘学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから日活のポルノ映画も新しい客層をつくるというより、むしろほどなくマンネリとなって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている[262]

実録モノ

1973年から始まる『仁義なき戦い』シリーズは、東映実録路線といわれ、その後、多くの実録ヤクザ映画が製作されたが、“実録”はヤクザ映画に留まらず、東映は勿論他社も“実録モノ”を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、東宝池田大作の著作で創価学会第2代会長・戸田城聖の半生を映画化した『人間革命』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった[263][264]

岡田は他の会社でレッドパージされた家城巳代治今井正にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが[265]、どちらかというと寄りの映画が多いため、その『日本共産党』の映画を企画し[266]製作しようとしたら社内から、一体うちのポリシーは何なの?と批判が出た。これを「代々木(日本共産党)が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか『赤旗』の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。ところが制作は中止された。山城新伍はやはり東映は右寄りだから、おおかた宮本顕治委員長からクレームがきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた渡辺政之輔の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説もある[266][267]。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された[268][269][270]。岡田は1976年解放同盟と組んで松本治一郎松本龍の養祖父)の伝記映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという[271][272]。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『いつかギラギラする日』の原案という[266][273]

こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、アドバルーンだけブチあげて実際は製作されないことが多かった。『田中角栄伝』や『実録・新日鉄』『実録・伊藤忠』『プロ野球黒い霧事件』『毛利郁子愛人刺殺事件』を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない[274]。1974年11月に起こった荒木虎美の「3億円保険金殺人事件」を現代版『羅生門』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明[274]。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、東海大学の創立者・『松前重義伝』の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという[275]。実録物では他に1974年に『実録・紅白歌合戦』を企画したこともある。当時の紅白視聴率が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない[276]。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた[277][278]

映画化された物では小野田寛郎を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉のルバング島での生活はまったく出てこない映画であった[279]。1974年暮れから公開されたフランス映画エマニエル夫人』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で佐久間良子を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を日活に売りつけたこともある。例によって佐久間はまったく脱がず昼メロ的な映画であった[280]。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した[277]

1975年の『実録三億円事件 時効成立』という映画は、岡田が時効が迫った「三億円事件」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の岡田裕介で、現在の東映社長。言うまでもなく岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した[281][282][283]

また実録では無いが、名作『新幹線大爆破』(1975年)は、岡田直接の企画[159]。『仁義なき戦い』を始めとする「実録ヤクザ物」が主流路線として絶好調だった1974年5月、「実録路線」だけではいずれ材料がなくなる、次にどんなものを作ればいいか、という岡田と天尾完次の話し合いで、岡田の一つの考え方として「大体アメリカでヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」というのがあり、そのときアメリカで『大地震』『サブウェイ・パニック』『タワーリング・インフェルノ』など、いわゆるパニック映画非常に受けていて、間もなく日本に輸入されてくるはず、それが『エクソシスト』などの後をうけて大当たりするはずだ、という結論に達した。では、それを日本でやるとすると材料は何かと考え、日航機乗っ取りなどが候補に上がったが、その中で日本だけにあって題材となるものといえば新幹線しかない、新幹線を乗っ取る、あるいは爆発させるというストーリーは日本だけでしか出来ないし、外国に持っていっても遜色ないものが出来るに違いない、それをやろうじゃないか、というのがこの企画のスタートだった[284]。1975年3月の山陽新幹線博多開業に合わせて公開しようとした便乗企画。当時、国鉄へ日に何回か爆破の脅迫電話がかかってくる事実をヒントに製作に着手したもので、当初のタイトルは『新幹線爆破魔を追え』というタイトルで、この年ヒットしていた『サブウェイ・パニック』(日本公開1975年)+『大空港』(1970年)の新幹線版という触れこみであった[274][278]。『新幹線大爆破』は、『タワーリング・インフェルノ』に正面からぶつけるという興業的タイミングの悪さで惨敗。『タワーリング・インフェルノ』は当時の史上最高興収を記録した[285]。便乗企画では『愛のコリーダ』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“本番”が大きな話題を呼んだ松田英子を獲得し『大奥浮世風呂』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある[286]

『驚異のドキュメント 日本浴湯物語』(1971年)は、車の中で「またドキュメント、何かないか」と岡田に言われ「いい湯だなホイホイってのはどうです。70年安保も終わってるし、何となくぬるま湯に浸かっている日本列島ってのはどうですかね」と言ったら「おう、それもいけるかもしれんな」と決まった企画。当時流行っていたザ・ドリフターズの「いい湯だな」に引っ掛けたもの。これら“風俗ドキュメント”は、出産温泉トルコのシーンなど商売になった部分を拡げろと指示を出し“セックスドキュメント”としてシリーズ化された。『セックスドキュメント エロスの女王』(1973年)のメインは、ローズ秋山夫妻のSMショウだった。こうしたシリーズ化を最初から「助平物語だ」と言ったように、最初から性風俗のドキュメントを売りにしようと考えていた岡田が企画の大本といえる。『瀬降り物語』(1985年)は、以前中島が映画化しようとして中止になった企画だが、今村昌平が『楢山節考』でカンヌ映画祭グランプリを獲ったことで、もう一度考えてみろと指示して中島に撮らせたもの[287][288]

『大奥』とポルノ路線

1966年当時、ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極めた。ソロバンをはじいてみると松竹の年間配給よりも総体で上回ることが分かったため、プロデューサーの天尾完次を呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と始まったのが「東映ポルノ映画」の誕生「エログロ路線」のスタートである[44][133]。当時は独立プロがこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があった。その第1弾は山田風太郎の原作を映画化したエロ忍者映画『忍びの卍』(鈴木則文監督、1968年)だったのだが、女優が脱がなかった為に興行的に失敗。そこで前記のような指示を出し本格的にピンク路線がスタートした。撮影ではヌード女優が大挙出演したため、素っ裸の女優が撮影所内を飛び回る状況となり、こっそり覗きにくるスターもいたが、若山富三郎鶴田浩二ら大スターや、前貼りを扱う羽目になったスタッフらが、冒涜したと声明文を発する事態となった。佐藤忠男評論家は酷評しマスコミが面白がって取り上げたが、宣伝効果抜群でいずれも大ヒットした[289][290][291][292][293]

声明文発布の問題は当時のマスコミにも取り上げられ大きな論争を巻き起こした。「東映の作る映画が社会的に不健全映画とされ、反文化的と目されるとなると、東映企業のイメージ・ダウンを招く危険がある」と言われたりしたが、岡田はそんな事にはおかまいなし。「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と反論。この騒動を結局うやむやの内にフェードアウトさせた[294][25]

『エロ将軍と二十一人の女妾』を作ったきっかけは、『徳川セックス禁止令』という映画の冒頭のナレーション「徳川家斉に二十一人の愛妾あり」を聞いて「次は『二十一人の女妾』でやろう」と簡単に決めたもの[295][296]。この映画は後に91分が30分に編集され、タイトルを『将軍と二十一人の愛妾』に変更された版が、地方の温泉宿など有料テレビ用に流された[297]。こうした東映ビデオ製作のポルノ・ビデオは、これまで製作したポルノ・フィルムをコマ切れにし、その中からベッド・シーンなどをピックアップして30分程度の別物にまとめたものだが、同社(社長は岡田が兼務)は、このビデオに勝手に映倫マークを付けていた。映倫マークは映画館で上映される際に映倫の審査をパスした上で頂く物だが、再編集すれば再度の審査が必要と映倫は怒り、警視庁防犯部も「売りさばいた形跡濃厚」と捜査に乗り出した。この1972年当時、岡田は翌年からの「日活ロマンポルノ裁判」の法廷対策などを協議する映倫維持委員会の常任委員長でもあり非常にバツが悪かった[298]

『徳川女系図』より少し前となる『大奥物語』(1967年)は最初、監督・今井正と脚本は大御所の八木保太郎で企画した。岡田は東映の屋台骨の任侠路線と並行して、新しい芽となるエロチシズム路線を打ち出す狙いを持ち、「<未知の世界><女の世界>を覗き見」という発想から、将軍以外の立ち入りを許されない男子禁制の女の園、将軍のおたねを宿すことが最上であるとする女たちの権謀術数の世界、皆が知らない大奥の秘密の部分を見せ場に考えていた[77][299]。ところが、今井と八木はテレビでよくある歴史物語に仕上げようとし、岡田の構想とはまるで違った作品をイメージしていた。八木に全面的に直して下さいとお願いしたが、言うことを聞かないので頭にきてこの二人を降ろし、脚本はチームを作り出来を競わせ、中島貞夫を監督に起用、岡田の懐刀翁長孝雄に製作させ、後の「東映エログロ路線」を決定づけた[76][80][77][300][117]キャスティングも全て岡田によるもの[80]。この映画は藤純子小川知子佐久間良子の3人を並べて主演にしたオムニバス映画だが、当時の藤と小川は新人扱い。小川は本作で先輩女優・岸田今日子とヌメヌメのレズ折檻シーンなど体当たり演技で中島貞夫に惚れられ、佐久間が下品な芝居をさせられて中島と絶交したため『続・大奥物語』(1967年)の単独主演に大抜擢された。しかし岡田に「まだ裸が足りん!」と怒られ、これ以上はムリと東映をトンズラしてフェロモン歌手としてデビュー。その後、大スターとなった[117]。岡田が中島を見限って次の監督に抜擢したのが石井輝雄であり作られた映画が『徳川女系図』となる。大奥物はその後、セットやら衣装やらを使い回して関西テレビと組みドラマ化させ(『大奥』)、エログロなしの硬い内容にして奥様族の人気を集め、その後も何度もテレビドラマ化、映画化されている[116][117][118]

石井輝男は岡田の意図を大胆に表現[77]、『徳川女系図』では待女たちに赤いをさせて女相撲をとらせ、折檻どじょう責めを行うなど大衆の喜ぶ見せ場を作り大成功をとった[77]。本作の大ヒットで、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くした。この影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした。ポスターに裸を載せて当ったこともあって、三朝れい子ら続々とレコードジャケットでヌードを披露する歌手が登場。それまでフレンチ歌謡を歌って燻っていた奥村チヨが、愛欲路線『恋の奴隷』(1969年)の宣伝でセミヌードを公開したり、1970年代に入ると渥美マリらによる露骨なエロ歌謡が量産され、エロ化の流れは『23時ショー』などの深夜番組にも及ぼし、更に山本リンダ夏木マリらによる“セクシーアクション歌謡”やピンク・レディーなど、その後の音楽界にも影響を及ぼした[140]。石井のエロ映画は「異常性愛路線」としてさらに量産され、描写が次第に激しくなり、刺激は刺激を呼び、グロテスクになって興行価値を失っていった[77]。しかしながら『徳川いれずみ師 責め地獄』『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』などは今なお稀代のカルト映画として名画座で喝采を浴び続けている[290]。また1976年に日本でも大きな話題を呼んだ『スナッフ』を狙い、牧口雄二に「牛裂き」をテーマに撮れと指示を出した『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』も、日本では現在非ソフト化ながら、海外では『SHOGUN'S SADISM』のタイトルでビデオ・DVD化され人気があるという[301][302]

『大奥物語』『徳川女系図』など「ポルノ路線」がエスカレートして、外国から人気ポルノ女優を呼び寄せ製作した。これは1970年から1971年にかけて北欧、西欧のポルノ(洋画ポルノ・洋ピン、ハードコア映画)が解禁になり、膨大な成人映画が輸入されて国産ポルノを圧迫するようになったため[303]。1973年には洋画ポルノ専門館の入場物数は229万人以上と、映画全体の一割を占める程になった[304]。外国のポルノは本番が当たり前なので、今考えたら不思議なアダ名を付けられていた“本番女優”ことシャロン・ケリーアメリカから呼んで“夜の帝王”と呼ばれた梅宮辰夫と共演させたり、“フリーセックス”の国として有名だったスウェーデンからクリスチーナ・リンドバーグイタリアからサンドラ・ジュリアンを呼び寄せ、果ては女優ではなく『ディープ・スロート』で、30センチ巨根が話題となった男優・ハリー・リームスまで呼んだ[305]。シャロン・ケリー主演作は『セックス爆弾 ダイアナ・モンロー』として企画されたが、「そんなタイトルでは商売にならない」と一蹴し『色情トルコ日記』に変更させ梅宮と共演させた。本番女優が邦画ポルノに出るという事で、メディアの興味は「果たして彼女は梅宮辰夫と本番をいたすのか?」に集中。シャロンは「梅宮サンさえよければ、ワタシOKね」とリップサービス。対する梅宮も「向うがそのつもりなら、そういう事もあるな」とやる気まんまんのコメントを各所で炸裂。東映も「その結果が知りたければ映画を見よう」とナイス戦略で煽った[306]。東映は洋画ポルノの配給もしていたため、例えばシャロン・ケリーは、この『色情トルコ日記』の後に、シャロン・ケリー主演のアメリカン・ハードコア『ポルノ捜査局 シャロン・ケリー』を輸入し配給しており、こうした話題の提供も、こちらのプロモーションの意味合いもあった[304]。この他、1975年『エマニエル夫人』の日本での大ヒットを受け、シルビア・クリステルを日本に呼び、『エマニエル夫人 京都の休日』なる、『ローマの休日』のエマニエル夫人版を企画したこともある。これには『続エマニエル夫人』を公開しようとしたヘラルド映画が「営業妨害だ」と怒り、またシルビア・クリステルの出演料も一作目の3万5000フラン(約260万円)から、続編は100万フラン(約7000万円)に跳ね上がったといわれたため、高額のギャラが払い切れず頓挫したといわれる[307]

サンドラ・ジュリアンと『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年)でベッドシーンを演じたのが宮内洋。東映はこの他、ひし美ゆり子(『好色元禄物語』1975年他)や伴大介(『処女監禁』1977年)など、子供の憧れのヒーロー俳優を惜しげもなくポルノに投入した[294]。なお、サンドラは現場スタッフがカルチャーショックを起こす程、裸が綺麗で以後、現場での前貼りが禁止になったという(下もブロンドだったという)。ひし美の場合は、当時ひし美は低迷していて『好色元禄物語』の出演が話題となって『新仁義なき戦い 組長の首』に抜擢された。この映画の最初のタイトルは『好色一代女』だったが、岡田がタイトルを変更した[308]

なお「ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが、1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した多岐川裕美の主演デビュー作として知られる『聖獣学園』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田が宣言し、この年6月に公開された前記のシャロン・ケリー梅宮辰夫のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した[309][304]。しかしこれは表向き。日活ロマンポルノの自社製作2本+外注1本の3本立ての興行形式に目を付け「自社でできることは自社でやれ」と、1973年春からポルノ補強のため、「500万(製作費)映画」「500万ポルノ」路線を発足。これは『仁義なき戦い』などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、二番館の興行収入増を目的にしたもので、東映が1972年以降外注ポルノを発注してきた若松プロ向井プロらのピンクプロダクションを切るため[310]。ところが、この1974年のクリスマス映画『エマニエル夫人』が興収17億円の大ヒット、世間にエロ映画熱が再燃した。『エマニエル夫人』の配給元は、当時まだ弱小の日本ヘラルド映画で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客も続出。エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!と、東映得意の前言撤回し1975年正月早々、『下苅り半次郎 観音を探せ』『怪猫トルコ風呂』で「ポルノ路線」を再開させた。同年7月には日活が田口久美主演で『東京エマニエル夫人』を製作するや、負けじと10月に同じ田口主演で先のハリー・リームス映画のパクリ『東京ディープ・スロート夫人』を製作した[311]

1974年、香港ゴールデン・ハーベスト社が「高度な技術水準」を誇る日本のポルノ映画に目を付け、東映ポルノの監督や女優を借り入れしたいと東映に打診してきた。当時の香港はポルノをオープンに作ることはできず、技術も未熟。また裸になる女優も少なく、女優で指名されたのが、ゴールデン・ハーベスト社のレイモンド・チョウ社長お気に入りといわれた池玲子であった。当時、ブルース・リーの4本しかない空手映画[注釈 5]の4本目『THE WAY OF THE DRAGON』を巡り、東映洋画と東宝東和が激しい争奪戦をしていた。前3作は東宝東和配給で日本でも爆発的大ヒットを記録し、ちょうど争っていたこの年の8月に『THE WAY OF THE DRAGON』もニューヨークで公開され大ヒットを記録。配給権を獲得すれば大儲けは確実という情勢で、争いは熾烈を極めた。岡田の「是が非でもとれ」の至上命令を受け[153]、池玲子を“人身御供”にし東映はこの『THE WAY OF THE DRAGON』の獲得に成功。タイトルを『ドラゴンへの道』として翌1975年公開、映画は大ヒットし東映洋画部が躍進する切っ掛けとなった[154]。この『ドラゴンへの道』を見た岡田の感想は「なんや電気紙芝居みたいやな」だったという[153]。東宝東和は配給を予定して『ドラゴン電光石火』と言うタイトルまで付けていたといわれる。なお、池は当初、出稼ぎを渋っていたが、レイモンド・チョウから“女ブルース・リーに”という殺し文句により承諾。当時は東映初の“国際女優”と騒がれ、撮影を終え帰国した池は、自分はまったく脱がなかったと説明。「香港ではスターは脱がないの。ヌード専門の代役がいて裸は要求されなかったわ。これからは演技力で勝負したい」と話したが、作られた映画は何故か『悪魔の生首(魅影心魔)』というホラー映画であった[312][313]。なお、東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け[153]、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』は大ヒット、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』をリバイバルヒットさせていたが[314]、この『ドラゴンへの道』獲得で洋画部は大きく飛躍した[154][155]

「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」

「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」と岡田は話しているが[21]、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い[10][315][316][317]。『大奥物語』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷異常虐待物語』『元禄女系図』『恐怖女子高校』『徳川セックス禁止令・色情大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『ポルノの帝王』『色情トルコ日記』『三匹の牝蜂』『ネオンくらげ』『未亡人殺しの帝王』『尼寺物語』『温泉みみず芸者』『温泉あんま芸者』『温泉こんにゃく芸者』『(女子大寮』『にっぽん’69セックス猟奇地帯』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』など[318]、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場のインスピレーションが非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している[75][319]。『エロ将軍と二十一人の女妾』は最初“エロ”はタイトルに付いてなく、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった[320][295][315][321]。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、天尾完次プロデューサーや監督の鈴木則文をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた[322]。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった[322]。この映画は17歳だった(撮影時16歳)池玲子のデビュー作[323]。天尾が池の履歴書を成人のものに100%捏造したとされる[294][324]

浅草の有名すき焼き店「いろは」をモデルにした清純派・佐久間良子の映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、佐久間を号泣させた[325]

内藤誠は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・小野竜之助ともども心底、恐怖した。黒岩重吾原作の『背徳の伝道者』を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『11PM』で大橋巨泉が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった[10][326][327]。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している[70]。「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『人生劇場 飛車角』『昭和侠客伝』『緋牡丹博徒』など[253][328]。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという[71]

『飢餓海峡』

日本映画史上ベストテンにしばしば挙がる1965年内田吐夢監督『飢餓海峡』も岡田の企画。東撮所長として『五番町夕霧楼』『人生劇場 飛車角』『王将』とヒット作を連打し、意気軒昴の岡田が東京オリンピックの行われる1964年に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが水上勉原作の『飢餓海峡』の映画化であった。「内田吐夢さんに現代劇を撮らせたい」と内田を説得し、脚本に鈴木尚之を起用したが、大川社長から労組対策で再度京撮所長に戻れと命じられ、脚本の完成を見ずに、後事を辻野力弥に託し1964年2月京撮に転任した。岡田はヒロイン・杉戸八重役には佐久間良子を推したが、内田は左幸子を起用した。脚本、撮影ともに難航、また所長が辻野の後は今田智憲と三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。撮影が終了したのが1964年12月初旬。当初、映画の公開は11月を予定していたが、封切は1965年1月に変更となった。完成時の本作は200分に及び、あまりにも長いため、東映はフィルムカットを決定した。これを内田に無断で進めたため、内田が、短縮版を封切るなら「監督・内田吐夢」の文字を外せと強く反発、「カット事件」として大騒ぎになった。スポーツ紙は競って連日、大見出しで事件を報道し映画界も騒然となった。内田が京都の岡田に相談に来たため、大川社長と二人で話してくれと段取りをつけ、大川と内田の二者面談での歩みより183分の修復版を作ることが決定。直営館では183分の修復版、その他の契約館では167分の短縮版を上映するという条件を内田に飲ませた、と岡田は自伝『悔いなきわが映画人生』には書いている。本作はこの「カット事件」と莫大な予算超過の問題で、岡田以下幹部が大川から始末書の提出、減給処分を受けた。各人が書いた始末書の全文は一字の違いもなく、撮影所の掲示板に張り出され、見学者が後を絶たない程の酷い辱めを受けた。本作の製作のクレジットは大川であるが、岡田は『飢餓海峡』は3人の所長を代表とする東撮の従業員が打ち立てた青春の記念碑であった、と述べている[88][89][90][注釈 6]

『女番長』シリーズ

1971年から始まる『女番長』シリーズは、ヤクザ映画以外にもう1本、若者のラインがないと興行が弱いとシリーズ化させたもの。この『女番長』と書いて「スケバン」と読ませるのは鈴木則文監督の発想。当時から「スケバン」という言葉はあったが、あまり出版物には出ておらず、たいていカタカナ表記であった[329]。鈴木は「岡田さんが『牝蜂』って言葉が好きで、何かと「牝蜂でいこう!」って言うから、それだけじゃつまらんと『女番長』と付けた」と話している[330]

後期の『女番長』シリーズを監督した関本郁夫は、初監督作[注釈 7]『女番長 玉突き遊び』(1974年)で、主演の叶優子を撮影中の事故で脚を骨折させ、撮影が丸一年中断、たまたま岡田が京都撮影所に来たので制作部長と謝りに行ったら、夜飲みに行くまで暇だった岡田が、「どこまで撮ったんだ、見せてみろ」と、仮つなぎもしてないバラバラのフィルムを見てくれた。試写の間は生きたここちがしなかったというが、岡田が「なかなかよう撮ってる。面白かったぞ」と言ってくれたため、制作部長もその場にいたおかげで、その後も引き続き映画が撮れるようになったという[331]


空手映画

ジャッキー・チェンの日本で最初に劇場公開された主演映画『ドランクモンキー 酔拳』は、香港のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は1979年に『トラック野郎 熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』)だけは岡田が「誰がこんなんもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である[164]

1974年『激突! 殺人拳』から千葉真一主演で始まる空手映画は、岡田がブルース・リーカンフー映画を真似て始めたもので、任侠ものが下火になっていた東映にとってもエポックメーキングな作品となった[145]。当時は何をやってもうまくいかず、久々の大当たりがよっぽど嬉しかったらしく、祝電をいっぱい打っていたという[332]。さらにニュー・ライン・シネマ社が「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と東映から興行権を買い、英題『The Street Fighter』とネーミングして、1974年11月12日からセントルイスアトランタニューオーリンズワシントンD.Cなど、主に全米中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出た[333]。その後、1975年の1月下旬から、ブロードウェイのRKO劇場やマンハッタンでも封切りされ、千葉の代表作となった[333]。過去の日本映画で、比較的入ったといわれる『砂の女』や、ニューヨーク・タイムズなどの批評欄をにぎわした黒澤明作品でさえ、アートシアター系で上映された程度であった[333]。同時期に上映されていたパニック映画エアポート'75』『オデッサ・ファイル』、ミュージカル映画星の王子さま』などの大作を押えて、『The Street Fighter』が5位進出したと[334]、アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌『Variety』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた[333]。このヒットでヨーロッパオーストラリアカナダの映画会社が、東映に『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた[333]。ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な空手と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」が挙げられている[333]。千葉真一の熱狂的ファンであるクエンティン・タランティーノが脚本を手がけた『トゥルー・ロマンス』では、主人公が映画館で『激突! 殺人拳』を観ているシーンを描いている[335]

スケ番シリーズを打ち切って、折からのブームに乗り空手路線を掲げる。「現代版お竜」を謳い文句に「日本初のスタントウーマン」と銘打ち『女必殺拳』(1974年)で主演デビューさせたのが志穂美悦子であった[336]。最初はアンジェラ・マオ主演で企画したが諸事情で実現せず、志穂美の抜擢となったとされる[337][338][339]

その他2

  • 俊藤浩滋が東映に関わるようになるのは内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座バー『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった鶴田浩二の東映移籍や、水原茂東映フライヤーズ監督招聘の仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという[340]。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった[341][342][343]
  • 若山富三郎1959年、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという[344]1960年東映に移籍した鶴田浩二は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた俊藤浩滋が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には三船敏郎がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという[50][345]
  • 1960年東映に入社した三田佳子は、『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している[3][346]
  • 1961年、東京撮影所長に着任し高倉健鶴田浩二ら男性スターの“現代アクション路線”を敷く[50][347]。その配給=ニュー東映の量産体制を担うべく、露骨に日活の『渡り鳥シリーズ』のマネをしろと抜擢したのが深作欣二らだった。深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年)は、のちに深作がアクション演出を活かしたTVシリーズ『キイハンター』(TBS系、1968年 - 1973年)の先駆けともいえる作品となっている[49]
  • 北大路欣也松方弘樹は、高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の勝新太郎が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて大映に引き抜こうとした。引き抜きは阻止したが、松方は1969年から1970年に数本、大映で主演作品がある[46][47]
  • 1962年、映画『王将』で東映作品に初主演した村田英雄に「仁王刺青を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた[78]
  • 北島三郎は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと俊藤浩滋さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している[10][146][4]
  • 東映入社後、なかなか芽の出ない高倉健をスターにしようと1962年、かつて市川崑監督が撮って大当たりした小島政二郎原作の『三百六十五夜』の再映画化を企画。美空ひばりを主演にして江利チエミ雪村いづみ三人娘を総登場させ高倉健、鶴田浩二を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した[348][349]。翌1963年、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『人生劇場 飛車角』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて1964年、岡田が「忠臣蔵を下敷きにした群集劇を」と企画し笠原和夫に命じて書かせた『日本侠客伝』シリーズ(-1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した[52][48][83][350]
  • 藤純子は京都撮影所に見学に行ったところをマキノ雅弘にスカウトされ東映入りしたというのが定説だが、岡田は自著に、高校生の藤がカメラを買いたいと「おそめ」[注釈 8]にきて俊藤浩滋にねだっていたのを見初め、映画に出てもらおうとすぐに連絡を取ったと書いている[351]。藤純子の当たり役『緋牡丹博徒』は当時、大映江波杏子で『女賭博師』シリーズをやっていて、なら東映は女の任侠ものをやろう、女剣劇物を書け、と鈴木則文に命じ始めたもので、当初考えていたタイトルは『女狼』だった[352]。藤を想定しての企画のため、藤を口説き「着物を脱いで肌の刺青を見せなければならないよ」と納得させた上で出演させた[73][353][343][354]。もともと時代劇に緋牡丹物は幾つかはあったが「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた[354]。「緋牡丹のお竜」という設定も岡田が考えたもの[21][45][351][355]
  • 佐藤純彌は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という字幕をたっぷりした墨の筆跡で、榊莫山みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった澤井信一郎は、この岡田の一言がトラウマになり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて明朝体ゴシック体にしているという[356]
  • 東急社長の五島昇はソリの合わない大川の扱いに頭を悩まし、1964年に東映を東急グループから切り離すが1967、8年頃、大川ジュニアがやるボウリング場がものすごく儲かり、猛威を振るっていて、岡田の映画づくりとまったく合わず、東大経済学部の後輩でもある岡田に「ウチ(=東急)に来い」「おまえこのまま東映にいても社長になれんぞ。やがて社長は大川ジュニアになる」「ウチで映画の製作をやらせてやる」と誘われるが、「いまは、東映はおれの子分ばかりなんだ。子分達(=撮影所の連中)を見捨てるわけにはいかない」とこれを固辞した[23][358]。五島は岡田を弟分として何かと目を掛け、相当高く評価していた。高岩淡の話では、1968年に岡田は俊藤浩滋今田智憲の3人で東映を退社し、電通と組んで独立会社を作るという案を練っていたという。しかし、現場のトップや監督、役者などが集まったこの年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、みな岡田を囲ってもの凄く、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと、それは素晴らしかったです、で退社の話はなくなったんでしょう、と述べている[126]。なお東急との関係は、1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している[359]
  • 高田宏治は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連妖術師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという[362]。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している[363]小沢茂弘も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している[364]。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している[365]
  • 1964年、大川の命で京撮のリストラ対策に京撮所長に再び戻る。「日本で最低の撮影所」ともいわれた東映東京撮影所を『人生劇場 飛車角』などで甦らせたばかりであったため、鶴田浩二などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという[366]。京撮所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう[27][50][366][367]。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた[202][131]。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという[320]。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた[368]。切られた側の松田定次や東千代之介などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある[368][369]
  • 平山が手掛けた『がんばれ!!ロボコン』(1974年 - 1977年)のアイデアは『柔道一直線』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ。『柔道一直線』は「スポ根ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える視聴率を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていたエキストラ費が膨大にかかり赤字になっていた。『ジャイアントロボ』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は東映動画の田宮武から、「『魔法使いサリー』の製作費は赤字だがキャラクター商品が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは実写だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛いロボットがやればいい」と思いつき「スポ根」に対して「ロボ根」という発想につながった」という[370]
  • 1969年から東映で制作した『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔が岡田に「松下が一人スポンサーになるから一緒にやろう。協力してくれ」と頼みに来て始まったもので[113]、「本格的な時代劇はやはり京都(東映京都撮影所)でなければ〜 すでに東映の岡田茂常務にお願いして、任せておけと胸を叩いてくれ、制作現場の態勢を整えてもらった」と、逸見は著書『黄門様はテレビ好き』に書いている[371]。岡田は水戸光圀役は片岡千恵蔵にしようと、逸見と一緒に千恵蔵を口説きにいったが、「まだまだ。映画の現役だ。テレビに出るのは早い」と千恵蔵が断ったので、発想を変えて東野英治郎にしたと話している。大川橋蔵を抜擢した『銭形平次』と『水戸黄門』の受注で、テレビ映画制作は活況を呈した[106]。岡田の長男・岡田裕介は逸見にスカウトされ芸能界入りした[372]
  • イナズマンF』の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。
  • 組合活動で会社批判をやっていた中島貞夫は、岡田に呼び出され「オイ能書きばっかりたれとらんと、何ぞ企画出さんかい」と言われ、どうせこちらの企画が通るなずもないと、茶化したつもりで『くノ一忍法帖』なんかどうです」と言うと「バカモン、あんなの映画になるかい」と言われた。当時、山田風太郎の同作はベストセラーになっていたが、男女の忍者が“アレ”と“ソレ”を駆使して闘い合うという素材で、とうてい映画になるとは思えなかった。ところが数日後、岡田にまた呼び出され「おい、アレなァ、飲み屋の女どもが面白い言うとるぞ。ほん(脚本)にしてみいや」と言われさらに数日後、「監督やるもんがおらん。お前やってみい」「裸、バンバン入れてなァ」「自分で言い出した企画で一本撮れるなんで、幸せやでえ」と言われた。脳天割りのようなショックを受け、土下座して許しを請うたが、30歳前に一本映画を撮りたいという気持ちとの葛藤で揺れ、やむなく承諾[51]萬屋錦之介からは「お前とは絶交だ」と言われたが[373]、助っ人を同窓生・倉本聰に頼み、これが自身の監督デビュー作となった。女優に裸になってもらわないといけないキャスティングは難航したが、この『くノ一忍法』には、深作欣二夫人・中原早苗野川由美子芳村真理などが出ている。映画はヒットしたため、また岡田から「裸が少ない。もっと盛大に女優を脱がせろ」と、こちらの苦しみなどどこ吹く風の第二弾製作指令が出て二作目『くノ一化粧』を製作[51]。今度は男忍者が普通では面白くないと、当時は怪優と呼ばれた西村晃小沢昭一を起用した。中島はその後も小川知子大原麗子ら、女優を脱がせる仕事が増え、女の裸を見ると胃が痛むようになり以来、治っていないという[374][375]
  • 藤山寛美1966年、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた[120]。寛美がこの頃、東映の任侠映画に出ているのはこのため。
  • 中島貞夫の三作目で出世作『893愚連隊』(1966年)は、岡田が企画を通してくれたもの[376]。五作目のオールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年) は、大川社長は猛反対したが、俊藤が「岡田さんを巻き込めば出来る」と企画を通してくれたものという[375]。1968年の『尼寺物語』は、岡田の企画で「大奥もの」の続編を命じた中島貞夫がシリーズ物を撮るのを嫌うため「大奥をやらないなら尼寺で考えろ」と命じたもので[373]藤純子出演55本目にして初めての主演映画。1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、東映と太いパイプのあったルポライター竹中労が岡田に持ち込んできた“時代の風俗ドキュメント”という企画で、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』に影響されたものであろうが、16ミリカメラを手に日本中を走りまわり、乱交パーティ、ヌード・スタジオ、浮世風呂フーテン集会、アングラ芝居、猟奇儀式、ボディペインティング赤線地帯ブルーフィルム撮影現場、関西ストリップ沖縄B52ベトナム行きの爆弾を積む現場、等を撮ろうというものであった。しかし岡田に呼びだされた中島は企画は「助平物語だ」と言われたといい、最初から全国のセックスゾーンに目を付けてこれをドキュメントでとらえることを意図していた[77]。劇映画が3000万円ぐらいの製作費のときに1900万やるから好きに使っていい」と言われ、竹中の先導で山谷の運動の他、唐十郎を起用しベトナム戦争時の沖縄を撮影、それらに性風俗を加味した[377]。この映画は大ヒットし大川社長に呼ばれ「チミィ、よくやってくれた。役者は一人も出なくて金儲け出来るなんて信じられない」とごほうびをもらったという[377]。『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』には、他に『家畜人ヤプー』の沼正三もマゾヒストとして出演している。当時はまだ『奇譚クラブ』に連載中だったが、中島は沼に薦められ『家畜人ヤプー』の映画権を代理人の康芳夫を通じて取得。シナリオも完成したが、右翼の抗議を恐れた東映が難色を示し頓挫。その後、独立プロでの製作を目指し虫プロと提携し、イタリアの映画会社との合作で映画化を試みたが資金難でやはり頓挫している[378]
  • 企画を通す際には、岡田社長の前で監督か脚本家が本(脚本)を読む作業があり、面白くないと岡田は貧乏揺すりを始めて、読み終わったら即座に「中止だ!」と叫んだ。途中で「最後はどうなるんだ?」と聞いて「何考えとるんや!」と中止させることもあったという[379]。脚本家・掛札昌裕が『セックス十番勝負』というタイトルを思いつき、天尾完次プロデューサーに「とんでもない」と言われたが、岡田の前で本読みすると「面白い!」とOKとなった[320]。脚本家の倉本聰が東京大学時代の同窓生中島貞夫監督と『くノ一忍法帖』の脚本を書いた際、岡田の本読みに立会い集中力と批評眼に感嘆した[376][380]。最初に出来た倉本脚本は、ただ助平なだけだったので、もっと女の魔性を描く内容に書き換えさせた[381]。倉本は、これが縁で「ニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない」と、東映に籍を置かせて欲しいと中島を介して岡田に頼んできたという[382]
  • 1967年、東映でも喜劇路線を敷こうと、当時東宝にいた渥美清を引き抜いた。その頃東宝には森繁久弥伴淳三郎三木のり平ら大御所がいて、渥美はほとんど売れていなかった。瀬川昌治監督の『喜劇・列車』シリーズほか数本に主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは松竹が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『男はつらいよ』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる若山富三郎の『極道』シリーズ、1975年から始まる菅原文太の『トラック野郎』シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった[383][384]
  • 安藤昇とは仲がよく、安藤が弟分の菅原文太ともども松竹に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は東映に移籍したもの[121]。安藤も東映を中心に出演するが専属ではなかったという[385]
  • 渡辺プロダクション社長・渡辺晋クレイジーキャッツを東映に売り込んできた際、岡田は谷啓を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払うギャラの三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、ハナ肇松竹、谷啓→東映、犬塚弘大映植木等東宝、とそれぞれバラで売り出す青写真を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという[386]
  • 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を共同製作した佐藤正之は岡田について「大映の永田雅一、松竹の城戸四郎芸術エンターテイメントが優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。大高宏雄は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという二分法をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「1960年代後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貧欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている[69]
  • 鈴木則文は、若い時せっせと正統社会派を目指していたが、デビュー作『大阪ど根性物語 どえらい奴』(1965年)の抜擢で、鈴木自身の中にコメディ的センスを見抜いていた「岡田さんはやっぱり眼力があったんだろうね」と話している[296][387]。それは後のトラック野郎シリーズに繋がったと話している。
  • 映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという[19]
  • 1968年、山下耕作監督、笠原和夫脚本、鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして三島由紀夫が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている[388]
  • 三島由紀夫とは任侠映画を通じて深い付き合いがあったという。三島は任侠映画のファンで、よく試写室に来ていた。「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという[389]
  • 東京撮影所所長時代、梅宮辰夫を売り出すために考えたのが『不良番長』シリーズ(1968年-1972年)。これもマーロン・ブランドの代表作『乱暴者』(1953年)をパクッたもので『不良番長』という題名も岡田が考えた[390]。シリーズ中、5作を監督した内藤誠は、岡田に「ロジャー・コーマンの『ワイルド・エンジェル』で映画をやるから観て来い」と言われ、脚本の野田幸男と一緒に観に行ったという[87]。内藤は当時がもうコーマンばかり観て『白昼の幻想』を観てヒッピー文化を研究し『不良番長 出たとこ勝負』(1970年)で「同じように暴走族を100台集めてバイクの集団を走らせた。映画の撮影なのでルールを守って走りましょうと言ったが、誰も守ってくれず、あれで初めてパトカーに連行された」と話している[391]
  • このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している[392][393]。なお『不良番長』シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、俊藤浩滋には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという[394]
  • 1969年の十月大作『日本暗殺秘録』は、岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と天尾完次に命じて始まった企画[395]。渡邊が血盟団事件井上準之助を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている[395]。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“テロ”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため[76]、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。
  • 25歳まで広告代理店サラリーマンをやっていた渡瀬恒彦が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという[122][123]
  • 1969年こむら返りの病気で苦しむマキノ雅弘を日活に売り飛ばす(マキノ談[396])。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている[397]小沢茂弘を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後易者山伏などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている[398]
  • 高倉健は1970年「ヤクザ映画で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した[400]。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない[400][401]。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)[402]。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の[400]映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる[61][400][403][404][405][406]
  • 1972年秋、経営窮状の西鉄ライオンズ東映フライヤーズ両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げてパ・リーグは崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄をロッテ・オーナー中村長芳太平洋クラブの支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌1973年1月、PR効果だけが目的と思われる不動産会社・日拓ホームにフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「今里広記を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝(西村拓郎の父)に球団経営を勧めたもの。売却額は8億円と書かれたものが多いが[246][125][72]、岡田は自伝で3億円と書いている[407]。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた[408][409]
  • テレビドラマ長谷川伸シリーズ』をやっていた頃、俊藤浩滋の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の山下耕作に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と高岩淡にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下“さん”」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している[410]
  • 藤純子は約10年間の東映専属で“任侠映画の花”として一世を風靡、90本の映画に出演し1972年歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚し引退を表明した。俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑なで諦めざるを得なかった。ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため[412]。看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。挙式3ヵ月前に封切られた『緋牡丹博徒シリーズ』第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の私鉄電車中吊り広告や、普段付き合いのない週刊誌まで広告を出した。藤は新しい企画には出ないとこちらも頑なであったが、引退記念映画の製作を俊藤に断固要求し藤を説得[413]、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけ、東映オールスター結集による引退記念映画『関東緋桜一家』を製作。これを藤の挙式直前に封切った。『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた[414][415]。藤純子引退の後、すぐに“ポスト藤純子”探しを始めた[365]トヨタタイアップし賞品付きで藤の後継者を一般募集した。映画館のロビーに「ポスト藤純子ご推薦ください、合格者は100万円、推薦者にはセリカを進呈」というポスターを張り出した。この後『緋ぢりめん博徒』に出演した中村英子、藤浩子土田早苗堀越光恵松平純子池玲子の6人を和服の似合う美人に仕立てあげ、“ポスト藤純子”として順繰り売り出したが、時代が任侠映画を求めておらず、中村は元を取る前2年で結婚引退。藤、土田、堀越はテレビに、松平は歌手に、池は別路線に転身した。
  • ただポルノにシフトした日活を辞めてフリーになった梶芽衣子は、“ポスト藤純子”として東映が呼んで、任侠路線ではなく別路線の『女囚さそりシリーズ』(1972-1973年)でスターになった[139][416][412][417][418][419][420][421][422]。『女囚701号/さそり』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『女囚さそり 第41雑居房』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は俊藤浩滋が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという[423]。岡田や俊藤の説得がなければ『女囚さそりシリーズ』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している[424]
  • この他、当時高校三年生だった檀ふみも“ポスト藤純子”と騒がれ東映入りした。壇は高岩淡の姪にあたる。壇は藤純子のキャラクターとは違うが、浪人中にNHKから声がかかり『連想ゲーム』のレギュラー解答者に登場、お茶の間のアイドルになった[425][426]
  • この頃の東映をパロディにしたくて山城新伍が作ったのが1980年の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『網走番外地』は『手錠のままの脱獄』(1958年)のパクりだ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという[432][18]。山城は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、永田雅一さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」と話していた[433]
  • 丹波哲郎から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている[434]。また丹波が親しかった元東宝副社長・藤本真澄と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこのポルノの国から来たの」などと言い非常に嫌われた[435]</ref>。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという[436]
  • 山下耕作が撮った1974年の『あゝ決戦航空隊』は、児玉誉士夫が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなくロッキード事件でペシャンコになった[437]
  • 松方弘樹が主演俳優となるのは1974年の映画『脱獄・広島殺人囚』と、NHK大河ドラマ勝海舟』からであるが『勝海舟』は当初の主演渡哲也が、急病により途中から松方に交代したもの。松方は渡、渡瀬恒彦兄弟と付き合いがあり受けるか迷ったが、最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ代役を受けるハラを決めたという[438]。しかし『勝海舟』は、神経質でひ弱な海舟が出来あがり結果的に不人気で、松方も放送終了後「NHKはくだらん」と発言したりでトラブルが多かった[439]。松方が仁科明子と恋仲になるのは、このドラマで夫婦役をやってからだが、松方は当時既婚者で、仁科の父・岩井半四郎が激怒し、マスコミを賑わせた。ドラマの評価は芳しくなかったが、彼らの知名度は飛躍的に上げた[440]
  • 1974年、山口百恵が主演した東宝『伊豆の踊子』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした[441]。翌1975年ゴールデンウイークは、東宝が山口百恵の『潮騒』、松竹が桜田淳子の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『県警対組織暴力』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる[339][442]。なお『潮騒』の併映は和田アキ子の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は中村雅俊の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した[339]。その第1作が渡瀬恒彦伊吹吾郎以来、自信を持って送り出した新人・星正人主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『愛と誠』に似ていた[339]
  • 東映映画の大ファンで関連著作も多い杉作J太郎は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さん大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている[445]
  • アラン・ドロン主演の『ル・ジタン』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった[154]。『地獄の黙示録』(1979年)もカンヌで買おうとしたが、日本ヘラルドが相当金を出して落としたという[154]
  • 1975年に開村した東映太秦映画村は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの[152]
  • 深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』(1976年)は『新・仁義なき戦い 組長の首』(1975年)のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『バニシングin60″』をミックスして作れと号令したもの[447]1979年田中健岡田奈々主演の『暴力戦士』は、ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの[448]。この『暴力戦士』には他に、欠食児童状態(石橋凌談)のARBが出演している。石橋はプロデューサーに「好きなもの食べなさい」「音楽を必ず5曲は使うから」と騙されて出演したが「うっすらとしか曲は流れなかった」「僕の中では永遠に葬りたい」などと話している[449]
  • 1977年の映画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の両津勘吉せんだみつおが演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは寅さんに負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している[451]
  • 1978年から始まった日本アカデミー賞は当時、電通開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの[193][194]。岡田が東宝専務だった藤本真澄日活社長・村上覚、松竹専務・奥山融に協力を求め創設に至った[195]。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の黒澤明の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『影武者』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。<いつか必ず、黒澤が頭を下げてくるような、権威ある日本アカデミー賞にしてやる>と心に誓ったという[452]
  • 柳生一族の陰謀』(1978年)は、千葉真一が『裏柳生』というタイトルで深作欣二に提出した企画[453]。それを岡田が『柳生一族の陰謀』という、まんまのタイトルに変えた[454]。元々、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもので、深作も『仁義なき戦い』シリーズを終えたところで、まだ一度も手掛けていない時代劇をやりたいという希望があり、時代劇の再興が悲願だった岡田にも依存はなかく、ここへ千葉がいいタイミングで、いい企画を提出した。千葉はそれまで色々企画を持って行っても、ほとんど取り入れてもらえなかったというが、この企画はよくすぐに映画化が決まったという[235][453]。みんながノッて、日下部が錦之助さんにお願いできれば」というので、高岩が錦之助に出演交渉に行き、錦之助は12年ぶりの東映作品を快諾したというが[233]、岡田は「中村プロダクション」がうまくいかなくなった錦之介が、岡田のところへやってきて「何かいい企画はないか」というから「『柳生一族の陰謀』をやれ」といった、と話しており、この辺りのいきさつは不明。映画は大ヒットし、東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた[273]。翌1979年の『真田幸村の陰謀』のタイトルも岡田の命名[455]。岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや右翼が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという[381]。なお、千葉は若い時、岡田に「海外で勝負させてください」と話したら、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対した[456][457]ジャパンアクションクラブ(JAC)のことも悩み他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた[458]
  • 角川春樹が、独立プロのプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだったと述べている。『悪魔が来りて笛を吹く』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは角川映画の2作目『人間の証明』から、具体的な仕事の縁が始まり、『野性の証明』の後、岡田からの要請で、角川は角川春樹事務所を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『魔界転生』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた[171]。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという[171]。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」[171]、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した[146][172]。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。1976年に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『犬神家の一族』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『人間の証明』で、配給が東映洋画、撮影が日活撮影所、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した[171]。また、『セーラー服と機関銃』『天と地と』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が松岡功に仁義を通して話をつけた[171]。岡田は角川によるメディアミックスを大きくバックアップした。しかし2005年に大ヒットした『男たちの大和/YAMATO』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた[459]角川映画キャッチフレーズ流行語となるなど話題を呼び[460]観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。
  • 1979年森下愛子の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と内藤誠に命じたものという[10]。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった三上寛LPレコードから自分でストーリーを作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるところが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している[461]
  • 五社英雄1980年銃刀法違反容疑での逮捕や、会社の労組問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた佐藤正之が岡田に“五社を何かに使ってやってくれ”と頼んできたので[233][462]。岡田が五社に“一度会社に顔を出せよ”と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は“お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな”と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに“負けっぷりがいい”と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。“どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ”と言われ、持って行った企画が宮尾登美子の小説『櫂』だった。しかし『櫂』は話が地味過ぎるということで、日下部五朗が持ってきた『鬼龍院花子の生涯』を映画化することになった。“これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい”と岡田が五社を監督に抜擢し[233]五社の映画界復帰が決まった。“この作品がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らして下さい”と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り『陽暉楼』『櫂』と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた[162][463][注釈 9][4]
  • 鬼龍院花子の生涯』を企画した日下部五朗によると、最初の企画会議で、この『鬼龍院花子の生涯』も岡田に「暗い」と一旦却下されたが、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから、2回目の交渉で「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出たという。流行語にもなった「なめたらいかんぜよ!」の台詞で夏目雅子の代表作となった映画として有名だが、日下部によると夏目の演じたヒロイン松恵役は当初、梶芽衣子が演じる予定であったという。梶は日下部にプロットと原作本を送ってきて、これを読んだ日下部が「これは映画になる」と直感し、原作小説を買い取り映画化の準備をはじめたと話している。女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが、日下部は和田勉が演出したNHKドラマザ・商社』(1980年)で、既に脱いでいた夏目を「この子は脱げる」と松恵役に起用しようとした。松恵役は梶がやるにはあまりにも大人びているなどと梶を説得し、松恵役以外の役の代替案を提示したが、梶は断固譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は結局決裂したという[464][465]
  • 日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。1983年カンヌ国際映画祭でグランプリを取った『楢山節考』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。1979年の映画賞を独占した『復讐するは我にあり』は、原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、佐木隆三夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に掛け合ったら「バカもん!連続殺人犯の話なんか暗くて当たるか!」と怒鳴られ、あえなく頓挫。これは今村昌平監督で松竹で映画化された。このため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ清川虹子左とん平が乗っかるシーンしかない。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している[466][465]
  • 1980年に『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという[467][468]
  • 笠原はこの後、アイドル映画(中森明菜近藤真彦共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、1989年に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している[222]
  • 奥山和由は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も勝新裕次郎松田優作と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた[469]
  • 山口百恵と結婚した三浦友和を岡田は「こいつをいつか東映のスターにする。これで成功させて次々やるんだ」と『獣たちの熱い眠り』(1981年)という映画を製作。“ウェイク・アップ友和!”という惹句を付けて、三浦をそれまでの青春スターから、ハードボイルド役者として売り出しを図ったが、三浦は東映ではスターになれなかった[470]
  • 修羅の群れ』(1984年)は映画制作にクレジットはないが、岡田が稲川聖城の半生を映画化しようと懇意の大下英治に原作を書かせたもの[211][212]。大下はこれをきっかけにヤクザをテーマにした小説を書くようになった。小説及び映画のタイトルは大下と俊藤で決めた。「修羅」という言葉は大下が好きで入れた。ヤクザ映画のタイトルに「修羅」という語が多く使われ始めたのはこの作品以降である[212]。1982年の『誘拐報道』は伊藤俊也が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたもの[473]。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が「東映が福沢諭吉を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった[474][475]
  • 岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、内田裕也1983年、初めて脚本を書いた『十階のモスキート』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「警察官がね、最後は挫折して、ついに郵便局強盗に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、ATGで映画化され崔洋一が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『コミック雑誌なんかいらない!』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に安藤昇が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」『コミック雑誌なんかいらない』「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、テレビレポーターがガーって行って、それでフィクションノンフィクションを交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、マイクを股間から取り出して、ホームベースに投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画はニュー・センチュリー・プロデューサーズで製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし早稲田大学の反映研グループの上映からスタートし、奥山和由が「僕に任せてくれ」と言って松竹の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところがカンヌ映画祭の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『コミック雑誌なんかいらない』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。毎日映画コンクールでも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。高岩淡が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」としかと。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま〜す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高のリベンジだった、と内田は話している。2009年、内田の娘婿・本木雅弘が企画した(内田はまったく係わっていないが)『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、配給を松竹が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという[476][10][188][43]
  • 内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り(東宝は俳優や黒澤明以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)岡田裕介は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が岸恵子と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが鶴田浩二とな、付き合ってたんだけど、ワシが箱根旅館に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。山口組の三代目が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」と話している[188][477]
  • 吉田拓郎と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ニューミュージック的映画作り という意味不明の題名を付け、東映の社内誌『東映』に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席もリクライニングのいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明[478]
  • 岡田と40年以上の付き合いがあったという日枝久は、フジテレビの編成局長時代に長寿ドラマ『銭形平次』の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した[479]。『銭形平次』の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、大川橋蔵の説得を得られたのも岡田の計らいという[98]
  • 若松孝二パレスチナ日本赤軍と交流を持ったため、10数回警察からガサ入れを受け『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(1971年)は新宿文化で上映禁止にされ、『天使の恍惚』(1972年)は、公開を延ばされ、『キスより簡単』(1989年)は、神奈川県警がバンダイを訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「Vシネマ」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、公安が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している[482]。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、若松プロがあった原宿セントラルアパートのマンションを売る羽目になったという[483]横山博人は1986年に東映から『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、全共闘世代を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している[484]
  • 1987年松竹奥山和由が企画した『ハチ公物語』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は渋谷が舞台なので東急グループに出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え五島昇を紹介。東急グループは出資を決め、さらに三井物産も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力なプロモーションや大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった[485]
  • 渡辺淳一の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんはアッチの方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した[487]
  • 1996年ルパート・マードック孫正義と組んで旺文社からテレビ朝日の全株式を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、FOXとも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、朝日新聞社がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した[98]
  • 1996年、萬屋錦之介文化庁から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。
  • 2002年日刊スポーツ映画大賞の表彰式で『たそがれ清兵衛』で主演男優賞を獲得した真田広之について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した[488]。真田も東映が『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)、『魔界転生』(1981年)、『吼えろ鉄拳』(1981年)、『冒険者カミカゼ』(1981年)、『燃える勇者』(1981年)と、主演映画を連打させ、アクションスターとして売り出された人だが、初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、ジャッキー・チェン香港カラテ映画を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという[489][490]
  • 1994年、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は田部文一郎)会員が急に増え、現在4000人と在京県人会の中で一番多いともいわれる[13][491]。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため[492]。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚(東京ドーム社長)。
  • 出身地の東広島市西条のフジグラン西条店内に東映系初のシネコン「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している[13]。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、東映の役者がみんな来た、という話がある。
  • 映画雑誌『プレミア』(アシェット婦人画報社)2001年4月号の特集「決定! プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で角川歴彦徳間康快宮崎駿北野武出井伸之らを抑えて第1位に選ばれた。「往年のヤクザ映画から「エロ」映画まで、幅広いフットワークで製作の陣頭指揮をとってきた。東映映画最大の「ウリ」である「不良性感度」路線を推進し、思想の左右に関係なく、遮二無二儲かる映画を生み出し続けた東映最大の功労者」と紹介された[197][198]

注釈

  1. ^ 菅原文太は「大川さんは企業家だったが映画を知らなかった。ご自分でそれを知っていて製作そのものにはタッチしなかった。東映に入ってから6年、大川さんにスタジオで逢った事がなかった。岡田さんと俊藤さんが映画を自由に作れるようにした」、深作欣二は「一回しか大川さんに逢ったことはない」と話している(『ベスト・オブ・キネマ旬報 下 1967―1993』キネマ旬報社、1994年、p543)。俊藤浩滋は「大川が作ったのは『大いなる旅路』(1960年)くらいではないか」と述べている(『任侠映画伝』p63)。
  2. ^ 当時は「やくざ映画」と呼んだ(筒井清忠編集・板倉宏臣・井上理砂子・中澤まゆみ著『銀幕の昭和「スタア」がいた時代』清流出版、p237)。
  3. ^ 安藤は松竹退社後はフリーという(『ヤクザが認めた任侠映画』p6)。
  4. ^ この点はライバルの松竹でも似たような現象が起こり、奥山融奥山和由の親子ワンツー体制を組んだが、松竹は創業家側のクーデターで現在に至っている。東宝も松岡功松岡宏泰の親子がグループ経営の中枢にいるが、松岡功は東宝、阪急の創業者、小林一三の孫である。これは日本だけでなく、ハリウッドのメジャーでも見られる現象である。いずれにせよ、親子が同じ会社にいるという事が一般的である事を取ってみても、映画界は洋の東西を問わず、前近代的な空気が色濃い世界であるという証左とも言える。
  5. ^ 本来はブルース・リーはカンフー映画なのだが、日本のマスメディアは長い間、空手映画と表記した。
  6. ^ 1965年の映画『飢餓海峡』のスタッフ・キャスト一覧(jmdb)。初公開時の完全版、およびカット版の上映状況についても記されている。
  7. ^ 公開順では『女番長 タイマン勝負』(1974年)。
  8. ^ 俊藤浩滋内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座バー
  9. ^ 五社の映画製作の経緯は、脚本でコンビを組んだ高田宏治の著作などにも詳しい(『高田宏治東映のアルチザン』)

出典

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著書

参考文献

外部リンク