鬼龍院花子の生涯

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きりゅういんh

鬼龍院花子の生涯』(きりゅういんはなこのしょうがい)は、宮尾登美子の著した中編小説である。『別冊文藝春秋』145号から149号に連載された。大正昭和高知を舞台に、侠客鬼龍院政五郎(通称・鬼政)とその娘花子の波乱万丈の生涯を、12歳で鬼政のもとへ養女に出され、約50年にわたりその興亡を見守った松恵の目線から描いた作品。

概要[編集]

宮尾の土佐花街を舞台にした小説は、置屋の紹介人だった宮尾の父が残した14冊の日記、営業日記、住所録を主に参考として取材し創作されている[1]。鬼龍院政五郎は父の日記にあった父にお金を借りに来た親分の話で、モデルになった人物が当時まだ存命で取材に協力してくれ、話を聞いたそのままの実話だという[1]。 

あらすじ[編集]

幼い松恵が鬼政の家族へ養女として迎えられるくだりから物語は始まる。やはり少年時代に関西へ移り無宿渡世の門をくぐった恒吉(鬼政)は故郷に戻り乾物商の看板を掲げながら興行を成功させ世間の耳目を引く一方、小林佐兵衛の薫陶を受けたところから米騒動労働争議調停にも顔を出し売り出していく。高知の紳商財閥として川崎と覇を争う宇田の殿様(宇田友四郎)を背景としてまさに華やぐ日々を送る鬼政だが、妾のつるとの間に待望の実子の花子を得たあたりから陽が傾いていく。

一匹狼のやくざ者である荒磯との抗争が原因で一家の多くが収監されたことを期に、その人生は急速な下降線を辿る。鬼政とつるの急死、そして鬼龍院一家の二代目すなわち花子の新婿となった権藤の死によって、花子もまた極道と人生の荒波に翻弄されることとなる。極道の養女となった自らの運命を早くに達観した松恵は、その鬼龍院一家の興亡に自身もまた翻弄されつつ、その最期を見送るのであった。

登場人物[編集]

林田(白井)松恵
本作の語り手。12歳の時鬼龍院政五郎の養女となる。鬼政の後援する労働活動家・安芸盛との縁談を鬼政自身の手によって裂かれ、また教師・田辺恭介との恋愛も恭介の両親の反対によって困難を極める。戦後服飾学校の教員となり、花子の菩提を弔う。
鬼龍院政五郎(林田恒吉)
本作の最初の主人公。高知の宇佐に生まれる。幼くして出奔した後、阪神で渡世に入り明石屋万吉の子分となり、のち高知に戻り鬼龍院一家を興す。四国の興行界を握った実在の人物、鬼頭良之助こと森田良吉がモデル。
鬼龍院花子
鬼政が妾・つるとの間にもうけた実子であり、本作もうひとりの主人公。幼いころから何不自由せず成長したため、のちの動乱に翻弄されることとなる。

映画[編集]

鬼龍院花子の生涯
監督 五社英雄
脚本 高田宏治
原作 宮尾登美子
製作 奈村協・遠藤武志
製作総指揮 佐藤正之・日下部五朗
出演者 仲代達矢
夏目雅子
音楽 菅野光亮
撮影 森田富士郎
編集 市田勇
製作会社 東映俳優座映画放送
配給 東映
公開 日本の旗 1982年6月5日
上映時間 146分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
興行収入 日本の旗 \1,100,000,000[2]
配給収入
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1982年(昭和57年)6月5日に封切り公開。製作は東映。宮尾登美子最初の映像化作品。配給収入は11億円[2]
松恵(夏目雅子)の凄味のきいたセリフ「なめたらいかんぜよ!」が当時の流行語となり、夏目のヌードも話題となった[3][4][5]。夏目は第25回(1982年度)ブルーリボン賞で主演女優賞を獲得[6]。映画の大ヒットで宮尾登美子も流行作家にのし上がった[7]

製作経緯[編集]

五社の芸能界復帰

五社英雄は1980年に娘・巴が交通事故に遭い重体となり、自身も銃刀法違反の容疑で逮捕されフジテレビも退職[8]芸能界から干され[9]妻にも逃げられ意気消沈し自殺も考えていた[10][11]。業界から離れて飲み屋を経営して生計を立てようと新宿ゴールデン街で開店の準備をしていたが、それを見かねた親友・佐藤正之と佐藤から頼まれた岡田茂東映社長(当時)の尽力により映画界に復帰した[12][13][14][15]。岡田は自伝『悔いなきわが映画人生』で、佐藤と同時にフジテレビ鹿内春雄から「五社はよくやってくれたから可愛いいんだけれども、何とかならんか」と連絡があったと述べている[16]。「死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ」と岡田社長に言われ[12]、五社が提出した企画は、宮尾登美子の小説『』だった[11][12]。しかし『櫂』は話が暗く、地味過ぎると岡田社長はOKを出さなかった[13]。後述するエピソードにより日下部五朗プロデューサーが持ってきた同じ宮尾原作の『鬼龍院花子の生涯』の採用が決定し、岡田社長が「これを五社にやらせい。あいつはこういうものがうまい」と、五社を監督に起用し五社の復帰が決まった[13][17]。五社は本作に再起を賭けた[18]。ただテレビ出身の五社に果たして女性を撮れるのかと反対する声も多かったが[11]、原作者の宮尾が「修羅場を経験してきているから」とOKを出した[4][11]

企画

当時の東映は男性客一辺倒で、岡田社長は「男の客はもうおらん。女を入れな、しゃあないわ」と東映京都撮影所(以下、京撮)のプロデューサーに発破をかけていたが[19]、何をやってもダメで行き詰っていた。しかし日下部には一つだけ腹案があった。それは梶芽衣子が日下部に読んで欲しいと送ってきた宮尾の小説『鬼龍院花子の生涯』だった[19][20][21]。日下部は「これは映画になる」と直感した。地回りのヤクザ・鬼奴とその娘・花子、鬼奴の養女・松恵との五十年におよぶ相克を描いている。これなら、父娘の物語や女の一生を描くことで女性客にも訴求できる上に、任侠の世界を舞台にした京撮が得意とする情念的な泥臭さもある。日下部は原作小説を買い取り映画化の準備をはじめた。しかし岡田社長に企画を何度提出しても「(『櫂』同様)暗い。当たらん」と却下された[19]。日下部は攻め方を変え、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出た[19][20][21]

ヒロインの交替

女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが日下部は「松恵」を梶が演じるには大人過ぎると判断[19]、梶には「松恵」以外の役なら誰でもキャスティングすると説得したが梶は譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は決裂した[20][21][22]。最終的に夏目雅子をヒロインに起用を決めたのは日下部であるが、その前に長い期間、ヒロインは大竹しのぶで交渉を続けていた[3]。大竹が出演を頑なに拒んだことで、日下部が和田勉が演出したNHKドラマザ・商社』(1980年)で、毅然と脱いでヌードを披露していた夏目を「この子は脱げる」と推薦したといわれる[21]

大竹しのぶの主役抜擢は五社の希望だったといわれる[19]。東映の社史『クロニクル東映』での五社の証言でも「主演は大竹しのぶさんを候補に挙げていたのだが、どうしてもOKがとれなかった。『アクションの五社作品では(出演したくない)』ということではなかったかと思う」と書かれている[18]。またスタッフの厳しさが東京で評判になっていた京撮での仕事を嫌がり、頑として出演を拒んだといわれる[19]。その他、当時の五社の評判は、芸能界であまり好ましいものではなく「あの監督にかかったら、何をされるか分からない。間違いなく脱がされるだけ」と、特に女優の間で敬遠されていた[12]。大竹が降りると言ってきて五社は連日酒を飲み、「上等だ!大竹しのぶがなんぼのもんじゃい!」と息巻いていたといわれる[12]。五社は自分からは頑として女優に頭を下げることはなく、頭を下げたのは遺作となった『女殺油地獄』(1992年)の樋口可南子だけだったという[23]。五社は「大竹がダメなら他の女優で」と要請したが、東映の製作サイドが「せめてヒロインだけは大物女優にして箔をつけないと文芸作品として成り立たない」と拒否。当時の大竹は演技派女優として飛ぶ鳥を落とす勢いだった。クランクインを半年延期して、さらに大竹の出演交渉を粘り強く続けたがやはり大竹は辞退した[12]。この時点で岡田社長は「製作は一時中断に追い込まれた」と話している[13]。スタートから頓挫しかけてきたころ、夏目の名が挙がり、夏目が五社に電話してきた。「わたしはモデル上がりの女優の卵です。今度の映画の企画のことを知りました。ぜひ、わたしにやらせてください」。ハキハキした声でこう話すと10分もたたぬうちに、五社の自宅に夏目が訪問してきた。直接交渉には応じない流儀の五社は、直ちに「帰ってくれ」と口を出しかけたとき、いきなり夏目は『鬼龍院花子の生涯』の台本を玄関の土間に置くと、その上に正座して両手を突いて「このホンにのりました」と言った。テレビドラマ西遊記』での 三蔵法師のイメージしか、五社は夏目に対して持っていなかったが、意表を突かれ思案する余裕も与えない夏目の火の様な熱意を感じたと述べている[18]。東映の社史に書かれたこの五社の話は作り話で、実際はプロデューサーの事務所で、夏目はマネージャー同伴で五社と初めて逢い、初対面の時から物怖じすることなく、人懐っこい笑みで「松恵の役を自分ができたらラッキーだ」と屈託なく話した夏目の度胸と凛とした美貌を大層気に入り抜擢が決まった、というのが真相と五社の娘・巴が著書で書いている[24]。五社巴は「サービス精神が旺盛な父が、ときとして会話さえも相手が喜ぶように自分流に脚色したのではないか」と述べている[24]。夏目は当時既に人気を得てはいたが、映画のヒロインを張るにはまだ新人。映画はヒットしないんじゃないかと思われた[12]。東映の製作サイドは最後まで渋ったが、セットが完成していたこともあり、どうにかクランクインとなった[12]

鬼龍院政五郎(鬼奴)

今回は女性客を呼び込むため「文芸作品」の構えを見せなければならないが、従来の東映生え抜きの役者では「いつものように男臭い東映ヤクザ映画」と敬遠される恐れがある[19]。そこで東映東京撮影所で製作された大ヒット戦争映画『二百三高地』(1980年)に主演していて、本社の営業サイドにも信頼のあった仲代達矢に日下部が出演依頼した[19]。日下部は「プロデューサーとしては、監督の前に主演を誰でやるかが最初に来る」「佐藤正之さんに『仲代さんを貸してくれ』と言ったら『五社と仲代をパッケージでつけたい』と言われた」などと話している[7]

正妻歌

五社が岡田社長に「岩下志麻と組みたい」と直談判[16]。岩下は松竹の至宝で、松竹は貸し出しを渋ったといわれる[7]。五社から「この役は粋で仇っぽくて、岩下さんは今までそういう役をやっていないから、そういうものを引き出したい。この役で、そういう芸域を広げていくきっかけにしたらどうか」とアドバイスを受け承諾した[16]。岩下のヤクザの姐御役は本作が初めて。岩下は太もも入れ墨を見せる官能的なシーンを自ら提案し、東映という縁遠かった世界に一気にのめり込んだ[25]。本作では夏目に持っていかれたが[26]、これが1986年からの当たり役「極道の妻たちシリーズ」に繋がる[27]。『極妻』では凄みの効いた低い声で「あんたら、覚悟しいや!」とピストルをぶっ放し"姐御"イメージを決定的にした[25][28]松竹育ちの岩下は京撮の初日はびくびくだったと話している[16]。仲代と岩下は『雲霧仁左衛門』(1978年)で五社と一緒に仕事をしており気心が知れていた。

五社の監督起用

五社に期待したのは、女優を脱がす能力だった。硬派なアクション演出に定評のあった五社であるが『人斬り』(1969年)で倍賞美津子を、『出所祝い』(1971年)で、江波杏子をヌードにさせて激しい濡れ場を演じさせた実績があった[19]。東映もそれまでポルノをたくさん製作したが、脱いでいたのはポルノ専門の女優で、トップどころの女優を脱がせるには別の才能が必要だった[19]。五社は本作の濡れ場の演出でも、自ら裸になり、同じく裸になった助監督を相手に実演しながら、濡れ場の動きを女優たちに伝えた[16]。助監督の足の指まで舐めた[16]。羞恥心をかなぐり捨てた演技指導の迫力に圧倒され、夏目、夏木マリ佳那晃子ら女優たちが次々とヌードになり、濃厚な濡れ場を展開した[19]。五社は「女優はいくら金を積んで拝み倒しても、そう簡単に映画で脱ぐものではないし、ハードな濡れ場はやりたがらない」「相手を信用させること。信用させるために自分が率先して恥をかく。ラブシーンは、助監督と一緒になって動きの全てを細大漏らさず女優の前でやって見せる。組んずほぐれつを汗だくだくで真剣そのものをやって見せる。濡れ場を撮影するとき、役者と同じに演じて見せる監督は俺ぐらいだろう。たいていは、現場に来て役者に『好きなようにやってみてください』と言うのがおちなんだ。誰だって恥はかきたくない。しかし監督は女優の恥の限りを引き出して見せるのが商売だ。それには、こっちが先に恥をかかなければ相手を安心させることなんてできない」などと話していた[29]

その他

鬼政と敵対する組の姐御役を演じた夏木マリは当時、歌手の仕事を専らにしていたが、歌手時代の夏木のショーを観ていた五社が大抜擢した[30]。夏木は「売れない歌手がふてくされて舞台をやっていたトンネル時代だったので、また夢が見れればいいな、と思いながら、それでも売れない歌手が起死回生を狙うチャンスと思った」などと話している[30]

脚本

当初、野上龍雄が担当する予定だったが、「自分の出生と重なり過ぎている」と降板、高田宏治が起用された[31]。高田はヤクザ映画一筋で『仁義なき戦い 完結篇』を始めとした実録ヤクザ映画の脚本家として知られていたが、本作の成功で仕事の幅を広げた[32][33]。当初五社は高田に対して尊大な態度を取ったが、高田の脚本のアイデアを聞いて態度を一変させ意気投合し、その後もコンビで多くの作品を世に出した[19][32][31][34]。「なめたらいかんぜよ!」の名台詞は、宮尾の原作にはない高田の創作。五社の芸能界復帰から本作のクランクインまで1年もかかり、五社は高田との電話での打ち合わせで、自分をなかなか認めてくれない世間に対して怒りをぶちまけ、この言葉をよく吐いた[34][35]。高田が五社の心中を思いやり「なめたらいかんぜよ!」という台詞を重ねた[3][19]。夏目は見事に本番一回でこの台詞を決めた[36]。試写を見た宮尾は、この台詞にビックリ仰天し、映画公開後は「なめたらいかんぜよの宮尾さん」と言われることになり、困惑したと話していたという[5]。五社は日常の中でぽんぽん素晴らしい言葉を出す人で、高田が記憶して幾つかシナリオで起用しているという。このためシナリオは五社と一緒に書いている感覚があり、五社自身の生理がシナリオに多く入っている、と高田は話している[35]。 

撮影

初日の撮影が終わった後、夏目が五社に「隠していたことがあります」と話を切り出し「もう降ろされる心配はないと思うので申します。実はバセドー病が悪化して入院することになりました。手術のため1ヶ月休ませてください。だましてごめんなさい。どうしてもこの仕事をやりたかったのです」と言い出した[18]。最初から病気のことが分かっていたら「松恵」役を降ろしていた。ルール違反をあえてするほど、夏目はこの役に執着していた。主役が急に休み混乱したが、夏目の病気療養中は、先に仙道敦子による子供時代の「松恵」の撮影を進めた。1ヶ月後、約束どおり夏目は復帰し、手術跡が痛々しかったが、仲代との濡れ場を始め、以前に勝る体当たり演技を見せた[19]。夏目の復帰は5ヶ月後だったともいわれる[37]。しかし撮影が終わると酒を過度に飲むようになった。ウイスキーをボトル1本、それもストレートであける。しかしどんなに飲もうと、翌朝はきちんと時間通りに撮影現場に来るので文句は付けようがなかった[18]。完成後のキャンペーンで高知に行った時、旅館で五社と仲代達矢が夏目を酔わせて口説こうとしたが、夏目は酒が滅法強く先に五社と仲代がひっくり返ったといわれる[22]。主演の仲代は、後年の回想録で、共演者に気を遣う夏目を褒めている[38]

美術の西岡善信と撮影の森田富士郎は、五社が1969年の『人斬り』で腕前に惚れこみ、本作でも指名され参加した。西岡・森田は、文豪の小説を数多く映画化した大映京都撮影所の出身で、それまでの京撮作品には見られなかった気品が漂っていた。上品で高級感のある映像は、それまで京撮作品を避けてきた女性客にも受け入れられ大ヒットに繋がった。本作以降、京撮の映画作りは一気に、女性客を意識した「高級な作り」へ傾斜していった[19]

宣伝

本作には鬼龍院政五郎役の仲代達矢を始め、荒々しい男たちが登場する。しかし宣伝ポスターにはそうした雰囲気は全く見せず、和服姿の夏目雅子だけを写した。予告編も女優の濡れ場を前面に押し出した作りで、それまでの泥臭い「男の世界」東映のイメージを意図的に隠し、妖艶な美しさに溢れる「女の世界」を強調した[19]1960年代から1970年代にかけて京撮で製作した作品に女性客はほとんどいなかった、或いは恐れて近寄らなかった[19]。そのため女性客を東映の劇場に呼び込むためには、今度の作品は今までとは違うというアピールが特別に必要だった[19]。取り立てて期待を寄せていなかった新人女優・夏目雅子の豹変に、現場スタッフも度肝を抜かれ、京都から送られてきたプリントを見た宣伝スタッフも夏目の台本には書かれてなかった「なめたらいかんぜよ!」の啖呵を切るシーンを見て予告編とテレビスポットに使うことを決めた[39]。その結果、「なめたらいかんぜよ!」の言葉は世間に知れ渡り、『鬼龍院花子の生涯』が大ヒットするきっかけとなった。本作の新聞広告は、1982年度の朝日広告賞を受賞している[40]。  

公開

東映の営業も劇場の支配人も誰一人、本作のヒットを予想する者はおらず[12]、女性層を取り込むのは難しいのではという前評判だった[14]。岡田社長は「(お客が)来ると読んだのはワシだけ」[14]、「五社君も昔の『三匹の侍』の彼とはガラリと変わったからねえ。彼、行き詰まってぼくを頼って来たとき、言ったんですよ。チャンバラなら東映はやりたくないと。そういって男と女のからみ、情念の世界を画かせたんですが、誰もあんなに五社君が変わるとは思っていなかったでしょうよ、新しい才能を開いてみせましたわね」などと岡田は自慢している[14]。各地の劇場では女性客が6割以上を占め、女性客の獲得が課題になっていた東映にとって久しぶりの快挙であったと同時に、興行的にも大成功を収めた[40][31]

後続作品への影響[編集]

五社は「『鬼龍院花子の生涯』がヒットしたら『』も『陽暉楼』も撮らせて下さい」と岡田社長に約束を取り付けていたため[12]本作の成功を修めて監督として復活し『陽暉楼』『櫂』の撮影に入ることが出来た[17][39]

『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』は、五社と宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」とも呼ばれた。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた[16][18][32][41][42]

東映は男性路線中心だった1963年に東撮所長時代の岡田茂が、プロデューサー生命を賭けて佐久間良子を『五番町夕霧楼』(水上勉原作、田坂具隆監督)のヒロインに抜擢して大ヒットさせ、東映に“女性文芸路線”を開拓したことがあったが[4][43][44]1970年代には影を潜めていた[4]。大きなムーブメントになったのは『鬼龍院花子の生涯』の大ヒットが切っ掛け[4][40][45]。文芸原作に東映お得意の任侠に加えて、女優たちのエロチシズム。ここに新たな鉱脈を見出した東映は、宮尾登美子の原作を続々映画化[11]。男顔負けの啖呵を切る土佐の女性たちのイメージは1986年から始まる「極道の妻たちシリーズ」に受け継がれた[4][19][41][46]。テレビドラマでも女子高校生刑事が最後に啖呵を切って悪を倒す『スケバン刑事』が1985年から始まり、土佐弁の啖呵が決まった『二代目スケバン刑事』の南野陽子が、シリーズ最高の人気を集めた[4]

逸話[編集]

  • 花子の婚約者という設定の人物は、山口組二代目組長・山口登用心棒だった人で、1940年広沢虎造の争奪戦に絡み下関籠寅組と揉め、浅草田島町で襲われ殺された[11]。事件現場のごく近くに五社の実家があり、浅草の顔役だった五社の父が警察とあとの始末をした[11]。五社自身も子ども心に鮮明に覚えているという。
  • 五社はテレビ出身の映画監督の先駆けであるが[47]、岡田茂が京撮所長時代の1966年、時代劇が低迷した京撮に新しい血の導入を模索し、中村錦之介と親しかった本田延三郎からの推薦で五社を招き、錦之介主演で 『丹下左膳 飛燕居合斬り』と、新人・夏八木勲主演で「牙狼之介シリーズ」を撮らせたことがあり、岡田と五社は長い付き合いがあった[16][19][47]。この時、五社と京撮の剣会との殺陣の流儀が違いトラブルが起きて以降、五社は京撮ではテレビも映画も撮っていなかった[19]。ただテレビ出身の五社が、余所者に厳しいことで知られる京撮が全くの初めてでなかったのは良かったかもしれない。
  • 本作の大ヒット以降、五社は大監督の道を、夏目雅子は大女優の道を歩むが、夏目はこの僅か3年後に亡くなった。五社は夏目の葬儀の後、亡くなる2週間前に夏目の弟が撮った夏目の写真を渡された。黒いカーテンの前に、赤い長襦袢しごき1本の姿で立ち、両手で紙吹雪を中空に散らしている写真だった。五社は「あの紙吹雪はカルテを破った紙片ではなかったか。わたしは、女優の凄まじいばかりの執念を見た思いがした。夏目さんは外見のさっぱりさに似ず、計り知れない魔性の呻きがけたたましく、わたしを途方にくれさせた。彼女の魔性こそが、あの映画を活かした。しかしなぜか、詳しい説明はできないのだ。わたしのこの映画は女の魔性のにおいを強く包んだ。28歳の短命を知ったひとりの女の憶いをわたしごときが計り知ることができるはずがあろうか」などと述べている[18]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

テレビドラマ (1984年)[編集]

1984年(昭和59年)7月17日 - 8月21日まで毎日放送制作・TBS系列にて放送。放送時間は毎週火曜日21:00 - 21:54。全6話。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

サブタイトル[編集]

  1. 逃げたらいかんぜよ(7月17日)
  2. 惚れたらいかんぜよ(7月24日)
  3. 死んだらいかんぜよ(7月31日)
  4. 負けたらいかんぜよ(8月7日)
  5. 泣いたらいかんぜよ(8月14日)
  6. なめたらいかんぜよ(8月21日)

テレビドラマ (2010年)[編集]

2010年(平成22年)6月6日テレビ朝日系にてスペシャルドラマとして放映。主演は観月ありさ。視聴率13.9%。

メインの観月と岡田浩暉フジテレビ系ドラマで映画化もされた『ナースのお仕事』でも共演していた。また“御前”こと須田役の夏八木は、映画版(当時は「夏木勲」名義)では兼松を演じていた。

ストーリー[編集]

貧しい家に生まれた主人公・松恵は6歳のとき、跡継ぎにと望まれた兄の"おまけ"として、子どものいない鬼龍院政五郎の養女に入る。成長した松恵は政五郎の反対を押し切って進学し小学校教師として働きはじめる。やがて初めての恋を経験。しかし、その恋に訪れたのは、酷く、悲しい結末だった。"おまけの子"である自分にとって、この家での居場所はどこにもない……そう感じていたはずの松恵。だが、大きな悲しみの中で、次第に血のつながらない妹・花子、義理の母・歌、そして義父・政五郎への愛を見出し、自分が"鬼龍院の娘"であることを痛感していく。  

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

遅れネット局[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b #小さな花、42、66-71、84-86、149頁
  2. ^ a b 1982年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c 早世のマドンナたち③ 夏目雅子 死の12年後に公開された幻のヌード秘話(3). アサ芸プラス
  4. ^ a b c d e f g 東映キネマ旬報 2010年春号 Vol.14 2-7頁
  5. ^ a b 宮尾登美子さん逝く あの名セリフ「なめたらいかんぜよ!」に隠された真実
  6. ^ 昭和の微笑 夏目雅子29年目の真実|BSジャパン
  7. ^ a b c #極彩色、「日下部五朗インタビュー」121-125頁
  8. ^ #五社巴、10-59頁
  9. ^ 「あなたは魔界を信じますか? 角川春樹 山田風太郎 特別対談」、『パンフレット魔界転生』、角川映画東映1981年6月6日、 23頁。
  10. ^ "女優 夏目雅子 笑顔に秘められた執念". 邦画を彩った女優たち. 2013年4月18日放送.
  11. ^ a b c d e f g #小さな花、76-94頁
  12. ^ a b c d e f g h i j #五社巴、78-82頁
  13. ^ a b c d #悔いなき、185頁
  14. ^ a b c d #活動屋人生、189-191、215-216頁
  15. ^ キネマ旬報』2011年7月上旬号、62-63頁、山口猛(編)『映画美術とは何か:美術監督・西岡善信と巨匠たちとの仕事』平凡社、2000年、221頁
  16. ^ a b c d e f g h #悔いなき、286-301頁
  17. ^ a b 『キネマ旬報』2011年7月上旬号、62-63頁
  18. ^ a b c d e f g #クロニクル「証言 製作現場から 『夏目雅子に見た"魔性"』 五社英雄」、314-315、342-343頁
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v #あかん、400-410頁
  20. ^ a b c 週刊現代』2010年1月23日号、62-67頁
  21. ^ a b c d 「東映伝説のプロデューサー日下部五朗の『無頼派活動屋人生』」『東京スポーツ』2010年4月6日 - 4月30日
  22. ^ a b #高岩、166-175頁
  23. ^ #五社巴、212-213頁
  24. ^ a b #五社巴、86-88頁
  25. ^ a b #伊良子、171-172頁
  26. ^ 鬼龍院花子の生涯|一般社団法人日本映画製作者連盟
  27. ^ 「極妻」岩下志麻 当初は戸惑いと葛藤があったことを明かす
  28. ^ 岩下志麻、女優人生と代表作『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』、『秋刀魚の味』を語る@第19回神戸100年映画祭「覚悟しいや!」"極妻(ごくつま)"シリーズ歴代姐さん頂上決戦ランキング
  29. ^ #五社巴、154-155頁
  30. ^ a b #極彩色、「夏木マリインタビュー」151-154頁
  31. ^ a b c #高田163-170頁
  32. ^ a b c (人生の贈りもの)脚本家・高田宏治:4 女たちの情念、輝かせた啖呵
  33. ^ 鉄腕脚本家 高田宏治/ラピュタ阿佐ケ谷
  34. ^ a b #極彩色、「高田宏治インタビュー」135-140頁
  35. ^ a b #高田180-181頁
  36. ^ #五社巴、89頁
  37. ^ #五社巴、89頁
  38. ^ 「仲代達矢が語る「昭和映画史」第四回 「Voice」2011年12月号221-222頁」春日太一
  39. ^ a b #五社巴、96-97頁
  40. ^ a b c #クロニクル2、72頁
  41. ^ a b 歴史|東映株式会社(任侠・実録)
  42. ^ #五社巴、71-108頁
  43. ^ ( ... 私の履歴書)佐久間良子(11) ヤクザの情婦 体当たりでの真剣勝負 「人生劇場」“汚れ役”に開眼.日本経済新聞2012年2月11日岡田茂 告別式( 岡田茂) - 女性自身日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る
  44. ^ #クロニクル、「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」、174-175頁
  45. ^ 東映京都のあゆみ - 東映京都ナビ
  46. ^ 東映ヤクザ映画の系譜 石飛徳樹が選ぶ本 - BOOK asahi.com
  47. ^ a b 春日太一「夏八木勲さん 五社監督と「刀を当てる」殺陣の流儀を貫いた」、『週刊ポスト』2013年4月26日号、NEWSポストセブン、2013年5月13日2015年3月3日閲覧。
  48. ^ #高岩、174-177頁

参考文献・ウェブサイト[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]