徳川家康 (1965年の映画)

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徳川家康 (山岡荘八) > 徳川家康 (1965年の映画)
徳川家康
監督 伊藤大輔
脚本 伊藤大輔
原作 山岡荘八徳川家康
製作 大川博
出演者 北大路欣也
中村錦之助
山本圭
西村晃
有馬稲子
音楽 伊福部昭
撮影 吉田貞次
編集 宮本信太郎
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 1965年1月3日
上映時間 143分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 2億1500万円[1]
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徳川家康』(とくがわいえやす)は、1965年昭和40年)1月3日に公開された日本時代劇映画。山岡荘八の小説『徳川家康』の映画化作品[2][3]カラー富士フイルム総天然色)、シネマスコープ(2.35:1)、143分[2]映倫番号:13731[2]。製作:東映京都撮影所、配給:東映。監督・脚本:伊藤大輔

同じく山岡の小説を原作としたNET(現・テレビ朝日)系列のテレビドラマ徳川家康』(1964年)で徳川家康を演じた北大路欣也が主演[3][4](クレジット上は織田信長を演じた中村錦之助=のちの萬屋錦之介がトップである)。北大路は、その後のキャリアにおいて幾度も家康を演じることとなった。

徳川家康の出生から桶狭間の戦いまでが描かれる[3]内田吐夢監督の『宮本武蔵』シリーズのように、全5部作とし、年1~2本の頻度で公開する予定だったが、当時は東映時代劇の退潮時期であり[5]、本作以降の続編は製作されなかった。監督の伊藤大輔はこの年、東映を退社した。

ストーリー[編集]

駿府を居城とし、駿の三国を領する今川義元が強大な勢力を誇っていた。西には新鋭の織田信秀が東方に進出し、西三河は東西勢力の接触点となっていた。この地域を拠点としていた岡崎と刈谷は、両勢力いずれかにつかざるを得ず、刈谷の水野下野守信元は、刈谷の姫・於大(おだい)を和睦のしるしに三州岡崎の城主・松平広忠の許へやり、今川方の松平に属した。

天文11年、於大は男子を出生、松平竹千代と名づけた。寅の日、寅の刻という奇瑞に岡崎城下は沸いた。

3歳の春、於大の父は病死し、城主となった信元は今川の勢力を脱し織田方と盟を結んだ。於大は兄の一決で織田方阿久居の城主・久松俊勝のもとに嫁いだ。病弱な広忠は如何なる運命にも耐えて、竹千代を守れと於大を送る。今川義元は伯父・雪斎禅師の進言を容れ、岡崎を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨岡崎に伝えた。弱小国・岡崎のとる道は唯一つ、竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かった。だが途中、田原領主・戸田弾正の寝返りで、竹千代は一千貫で織田方に売られ、侍童たちは次々と割腹した。

信元は竹千代の命と引き換えに、織田方へ加担をすすめたが、広忠は武士の意地から拒否。これを聞いた於大は熱田に向かい、吉法師(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。竹千代は「母はおらん」というが、吉法師は於大の心に激しく心を揺さぶられ、竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。

天文18年、広忠が病死し、弔いにかこつけて安祥城を奇襲した岡崎勢は城主信広と交換に、竹千代を3年ぶりに三河に迎えた。それもつかの間、竹千代は岡崎を去って駿府の人質となり、三河は今川に統轄された。

10年後、吉法師は信長と名を改め、勢力を拡げ、今川方を脅す。竹千代の動静を藤吉郎を派遣し、つぶさに於大に知らせるが、信長の真意は分からなかった。竹千代も元服して元信と名を改め、義元の姪・瀬野と婚儀を結ぶ。雪斎は「お主は岡崎の者か、今川の者か」と問いつめる。

永禄3年、義元は天下統一のため上洛を決める。信長は元信の動静に眼を離すなと藤吉郎に命ずる。松平の血を継ぐ元信は岡崎譜代の家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、大高城にこもり、織田方との戦いを避ける。信長は大高城を迂回し、桶狭間の今川の本陣に入り、義元の首をはねる。報を聞いた元信は織田軍に乗り込むと義元の首を受けたいと告げる。恨みよりも恩を返そうとする元信の心に、信長は拒否するが、かねて約束の馬を与えるといい、馬と馬がぶらさげていた義元の首を手渡す。

出演[編集]

順序は本作冒頭のタイトルバックおよび国立映画アーカイブ[6]に、役名はキネマ旬報映画データベース(KINENOTE[7])に基づく。

スタッフ[編集]

監督を除く職掌および順序は本作冒頭のタイトルバックおよび国立映画アーカイブ[6]に基づく。

  • 助監督:原田隆司
  • 記録:石田照
  • 装置:矢守好弘
  • 装飾:中岡清
  • 美粧:林政信
  • 結髪:妹尾茂子
  • 衣裳:三上剛
  • 擬斗:足立伶二郎
  • 進行主任:黒木正美

製作[編集]

企画[編集]

企画は東映京都撮影所(以下、東映京都)所長・岡田茂[5][8]。当時の東映の時代劇はあまりお客は入らなかったが[5]大映の時代劇はお客を集め[5]、テレビの『隠密剣士』や『三匹の侍』などは圧倒的人気で[5]、特に『月光忍者部隊』や『風のフジ丸』などの忍者もの漫画にまで普及して大きな人気を集め[5]、1965年は時代劇のピークが来るのではと予想する映画関係者もいた[5]。岡田は大映に対抗するには東映のオールスター映画を復活させて口火をつけようとテレビで放映中の『徳川家康』の映画化に踏み切った[5]。『徳川家康』は数年来ブームを呼んでおり、吉川英治の『新平家物語』以上の読者を持ち、現代経営者から、学生サラリーマンと、老若男女すべてに必見の書といわれていた[5][9]。各映画会社とも映画化を企画していたが、山岡荘八が映画化をOKしなかった[5]。山岡は「まだ小説が継続中に映画化されてはテーマを全く別の視覚からバラバラに切りさいなまれるようなもの」などという持論をもっていた[5]。岡田は監督に伊藤大輔を起用し、脚本も執筆するという条件を提示し[5]、山岡は「伊藤さんならば安心してお願い出来る」と東映時代劇への信用と合わせて映画化を了承した[5]

1964年2月1日、大川博東映社長が社の大巾な機構改革と、それに伴う人事異動を発表し[10][11][12]、製作の中心が明確に現場に移され[12]西撮影所所長の権限増が明確にされた[12][13]。人事の目玉が東映東京撮影所(以下、東映東京)を現代劇で軌道に乗せた岡田取締役の東映京都所長復帰であった[5][10][14]。これは東映の表看板である時代劇の復興を岡田に託すという大川の肝煎りプロジェクトだったため[10][15]、岡田には直接の指揮権が移譲された[11][16]。またこの人事で東映創立以来の満映閥東急閥などが脇に回され[11]、さらに1964年9月30日、東映が東急グループから離脱し[5][17][18]、同日付けで東急から出向していた東急系の役員五島昇非常勤取締役を始め、小滝顕忠、山崎季四郎、伊勢憲三郎の他、伊藤義、吉田信、薦野直実、東映フライヤーズ代表・石原春夫ら、重鎮幹部がごっそり辞職した[5][17][18]。これにより大川の御意見番はいなくなり[12]、岡田にとっては兄貴分の五島とは表立って付き合えなくなったが[19]、上がかなり減って、思い切って腕を振れるようになった[5][12][18]

キャスティング[編集]

北大路欣也は当時、東映の青春路線の担い手だったが[5]、岡田は「北大路の個性を生かした作品をと狙い過ぎていたのかも知れない」との反省があり[20]、随時、時代劇に起用する計画を立てた[5]。また当初は三田佳子もキャスティングされていたが出演しなかった[21]。三田は佐久間良子が『五番町夕霧楼』で一気に東映の看板女優になると同じ東映京都の廓もの『廓育ち』を演じて演技開眼と騒がれ、ライバル意識を明確にし[22]、映画業界から「あれほどライバル意識を燃やしているライバルもない。リッパだ」と褒められた[21][22]。当時の各社人気のバロメーターといわれた映画会社のカレンダーに、東映は1965年度版に女優では佐久間と三田だけ単独での起用を決めると先輩の佐久間がクレームを付け、佐久間が正月、三田を九月に変更し、佐久間が矛を収めた[21]。三田の抬頭は佐久間を緊張させた[22]。東映は三田の将来性を大いに買って、一気に売り出そうと『赤いダイヤ』『仇討』の後、オールスター正月大作に起用を予定していた[21]。三田はこの頃から東映にとどまる限り、佐久間を越えるのは不可能と東映退社を考え始めたといわれる[22]

撮影記録[編集]

1964年11月10日クランクアップ[23]

評価と影響[編集]

東映時代劇の終焉[編集]

岡田茂は、早くから時代劇中心の東映京都を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた[15][24][25][26][27]。当時の東映京都は、第二東映の失敗で余剰人員が膨らんでいた[24][28][29][30]。1964年1月に東映京都所長に復帰するや、赴任早々「時代劇は一切止める」と宣言し大騒動になった[27][31]。時代劇を切り捨て、任侠映画主体に切り換えるには大変な出血を必要としたが[12][27][32] 、岡田は断々乎とこれを実行した[12] [15][26][33][34]。岡田は任侠路線を敷く布石を置きながら[12][26]、時代劇の復活にも努力したが[28][35]、作品の評価とは関係なく、興行的には凡打が続き[12]、本作『徳川家康』も亦所期の数字にまで達するに至らず[12][35]、時代劇の打ち切りを決断した[26][35]。本作と『飢餓海峡』、1965年4月10日公開の『冷飯とおさんとちゃん』と[36]、1965年度大作が相次いで不入りに終わり[36]、岡田は時代劇からの撤退を宣言[37][38][39]。1965年に予定されていた時代劇は大半を製作中止にし[36][37][38][39]、この煽りで本作も1本で打ち切りとなった。東映の財産である時代劇はテレビに徐々に移して行き[40]、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り[40][41]、映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"を推進し[30][32][40][41]アンビヴァレンツな方向性を明確に打ち出していく[30][40]。岡田が東映京都に復帰する前年1963年には、東映京都は全て時代劇を54本も製作したが[42]、1964年は時代劇27本[42]、1965年の時代劇製作は14本に減らし[42]、1966年正月映画には東映創立以来初めて時代劇を外した[12]。合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れで[31]、正統的な時代劇製作は1966年からは目立って減り[42]、1967年が3本[42]、1968年は0になった[42]

岡田は振り返って「時代の流れの変化でダメになったものを如何に切り捨てるか、切り変えて時代の流れに即したものを生み出してゆけるか。東映が今日まで生きのびて来られたのは、時代劇がダメになって、誰もなかなか止め切れん時、僕が今までの功労者を全員切ったからです。凄い反撥抵抗があったが時代劇の製作を止めた。次の10年、全盛を誇った任侠映画、寿命盡きて止める時も同じシンドイ思いをしたんだが止めた」などと述べている[43]

シーンの流用[編集]

本作の合戦シーンの一部は、ピー・プロダクション制作のTV時代劇『快傑ライオン丸』(フジテレビ)の第1話冒頭で使用されている[44]

ネット配信[編集]

「東映オンデマンド」サービス開始を記念して、YouTubeの「東映時代劇YouTube」で、2023年1月6日16:00(JST)から同年同月13日(JST)まで無料配信が行われた。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)210頁
  2. ^ a b c 徳川家康 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c 「お正月の日本映画ご案内 EIGA CORNER 『徳川家康』」『月刊明星』、集英社、1965年2月号、239頁。 
  4. ^ 大黒東洋士「今月の話題映画はこれだ!」『月刊平凡』1965年2月号、平凡出版、198-199頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、28-34頁。 
  6. ^ a b 徳川家康 - 国立映画アーカイブ
  7. ^ a b c 徳川家康 - KINENOTE
  8. ^ 「日本映画製作者名鑑」『キネマ旬報』1966年3月上旬号、キネマ旬報社、34頁。 
  9. ^ “バラエティに富む東映正月番組 話題呼ぶ超大作『徳川家康』”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 7. (1964年11月14日) 
  10. ^ a b c 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。 
  11. ^ a b c 「座談会日本映画界はどう進むべきか?―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i j k 私の東映30年 1991, pp. 139–147.
  13. ^ 井沢淳・瓜生忠夫大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。 
  14. ^ 波瀾万丈の映画人生 2004, pp. 164–165.
  15. ^ a b c “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日) 
  16. ^ 「日本映画界の巻返しと前進 各社各様の経営戦略を探る 映画界の若獅子に試練の波 東映、岡田体制の確立急ぐ」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、12-14頁。 
  17. ^ a b クロニクル東映2 1991, p. 36.
  18. ^ a b c 「座談会新しき企業路線に適した明日を背負う人々を探る企業役員構成を一新した東映大川社長、陣頭指揮の新体制」『映画時報』1964年12月号、映画時報社、12-16頁。 
  19. ^ 「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。 
  20. ^ 由原木七朗「その日のスタア」『近代映画』1964年3月号、近代映画社、158頁。 
  21. ^ a b c d 「噂のパトロール『ライバルスタアを採点する 佐久間良子vs.三田佳子』」『近代映画』1964年12月号、近代映画社、218頁。 
  22. ^ a b c d 加東康一「BIG STAR/19 三田佳子」『映画情報』、国際情報社、1977年11月号、65-66頁。 
  23. ^ “製作界近況”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 2. (1964年12月5日) 
  24. ^ a b クロニクル東映2 1991, p. 5.
  25. ^ 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 133.
  26. ^ a b c d 日本映画は生きている 2010, pp. 269.
  27. ^ a b c 「〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る」『キネマ旬報』1969年6月下旬号、127頁。 
  28. ^ a b 「全面特集 日本映画この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか 『やくざ襲撃前夜のゴールデンエージ?』 文・中島貞夫」『映画芸術』1969年10月号 No266、43-45頁。 
  29. ^ 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、95頁。 
  30. ^ a b c 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 
  31. ^ a b 「トップ戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二等瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27頁。 
  32. ^ a b 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 147–152.
  33. ^ 日本の映画人 2007, p. 122.
  34. ^ 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
  35. ^ a b c あかんやつら 2013, pp. 191–229.
  36. ^ a b c 「匿名座談会 如何にしてこの危機を乗り切るか 経営者は頂上作戦に大童わ 五社長も危機突破に陣頭指揮 東映王国も"新体制確立運動"展開」『映画時報』1965年8月号、映画時報社、15-17頁。 
  37. ^ a b あかんやつら 2013, pp. 208–209.
  38. ^ a b 仁義なき日本沈没 2012, pp. 102–107.
  39. ^ a b 由原木七郎「由原木七郎の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決」『週刊明星』、集英社、1979年5月13日号、168-167頁。 
  40. ^ a b c d 東映の軌跡 2016, pp. 564.
  41. ^ a b 浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1 
  42. ^ a b c d e f 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 399–412.
  43. ^ 「東映・岡田茂会長インタビュー『製作配給の赤字をどう止めるか』」『AVジャーナル』1994年1月号、文化通信社、27-28頁。 
  44. ^ 『うしおそうじとピープロの時代 スペクトルマンVSライオン丸』(太田出版)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

北大路欣也が徳川家康を演じた作品

外部リンク[編集]