奇譚クラブ

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奇譚クラブ』(きたんクラブ)は、1947年昭和22年)11月より1975年(昭和50年)3月まで出版された、サディズムマゾヒズムフェティシズムなどを専門に扱った性風俗雑誌[1]

B5判のカストリ雑誌として出発したが、1952年5・6月合併号よりA5判にリニューアルし、以降、本格的にサディズム、マゾヒズム、フェティシズム(ふんどしラバーほか)、切腹などを中心に扱う雑誌となった。出版社は、曙書房天星社暁出版 (大阪)と変わっている。1954年(昭和29年)3月1955年(昭和30年)5月に一時発行禁止処分を受けた。1982年に「復刊」と称して創刊されたきたん社発行の『奇譚クラブ』は後続関係にはなく、まったくの別物。全国誌であり、発行部数は1万部以上、最盛期の1950年代前半には10万部(公称)を達成した[2]

概要[編集]

SMフェティシズム[注釈 1]など、異性愛規範から逸脱する性嗜好に関心をもつ読者を対象とした[2]『奇譚クラブ』は、読み物としてだけでなく、匿名の読者のために文通の仲介や情報交換の場としての性格も有していた[3][4]。読者同士の交流の場であったことから、つづく1960年代のプライベートSMサークルの増加に先駆けて、SM愛好家の数少ないコミュニティともなった[5]。また、同誌の読者として、川端康成三島由紀夫江戸川乱歩澁澤龍彦寺山修司がいた[6]

SMを扱った文学作品としては古典の部類に入る団鬼六の『花と蛇』、沼正三の『家畜人ヤプー[7]はこの雑誌に発表されたもの。創刊当初からエログロとしての女相撲に関する記事を継続的に発信し、その後も女子プロレスなどを形容する際に使われる「女斗美[注釈 2]という言葉を誕生させた[8]。創刊年の頃から男色や男性同性愛についても取り上げており、1947年12月号には男娼男妾の記事が見られる。

ジェンダーと日本史を専門とする歴史学者河原梓水は、女性史・服装史研究家・作家の村上信彦が「吾妻新」の筆名で多数の寄稿をしていたことを実証している[9]。また、作曲家の矢代秋雄も「麻生保」の筆名で熱心に投稿していた[10][11]覆面作家)。

1997年平成9年)11月(出版50周年)に 平成版 奇譚クラブユニ報創より出版され、翌年7月(新装3号)まで断続的に出版が続けられた。新創刊ではなく新装刊としており復刊を意識した巻頭挨拶文が掲載されている。内容はSMも扱う風俗誌と言うべきもので、昭和40年代の奇譚クラブに掲載されていた記事やモノクロ写真を幾つか再掲載している。

主な作家・画家・投稿者[編集]

カッコ内は筆名。★付は本名未詳。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同誌においては、S=サディズム、M=マゾヒズム、F=フェチといった符牒が用いられた。このうち、Fは、いわゆるフェティシズムのみならず同性愛も包含していた。
  2. ^ 女闘美とも。

出典[編集]

  1. ^ 一階 2009, p. 37.
  2. ^ a b 河原 2021, p. 152.
  3. ^ 飯田 2013, pp. 38–39.
  4. ^ a b 鈴木 2010, pp. 153–154.
  5. ^ 河原 2021, pp. 152–153.
  6. ^ 飯田 2013, p. 22.
  7. ^ 鈴木 2010, pp. 154–155.
  8. ^ 一階 2009, p. 45.
  9. ^ 河原 2016, p. 699.
  10. ^ 森下小太郎「『家畜人ヤプー』の覆面作家東京高裁倉田卓次判事」(『諸君!1982年11月号)
  11. ^ 薔薇十字社とその軌跡』内藤三津子論創社 (2013/03)
  12. ^ a b 飯田 2013, p. 109.
  13. ^ 鈴木 2010, pp. 156–157.
  14. ^ 鈴木 2010, p. 159.
  15. ^ 飯田 2013, pp. 170–171.
  16. ^ a b 飯田 2013, p. 65.
  17. ^ 飯田 2013, pp. 20–21.
  18. ^ 飯田 2013, p. 128.
  19. ^ 飯田 2013, p. 159.

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • 龍之巣 - 『奇譚クラブ』全巻(本誌・増刊・別冊・限定版・復刊・平成版)の一覧と概要を閲覧できる。
  • 風俗資料館 - 目録を閲覧できる。