日馬富士公平

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日馬富士公平 Sumo pictogram.svg
Sumo May09 Harumafuji.jpg
土俵上の日馬富士関
基礎情報
四股名 日馬富士 公平
本名 ダワーニャミーン・ビャンバドルジ
Даваанямын Бямбадорж
愛称 アマ
生年月日 1984年4月14日(27歳)
出身 モンゴル国ウランバートル市
身長 185cm
体重 130kg
BMI 37.7
所属部屋 安治川部屋伊勢ヶ濱部屋
得意技 突っ張り、右四つ、寄り
成績
現在の番付 大関
最高位 大関
生涯戦歴 493勝326敗12休(66場所)
幕内戦歴 378勝255敗12休(43場所)
優勝 幕内最高優勝2回
十両優勝1回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞1回
技能賞5回
データ
初土俵 2001年1月場所
入幕 2004年11月場所
他の活動 NPO「ハートセービングプロジェクト」での慈善活動
趣味 ゴルフ
備考
金星1個(朝青龍
2012年1月24日現在

日馬富士 公平(はるまふじ こうへい、1984年4月14日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は安治川部屋)所属の現役大相撲力士。本名はダワーニャミーン・ビャンバドルジ[1]モンゴル語キリル文字表記:Даваанямын Бямбадоржラテン文字転写Davaanyamyn Byambadorj )、愛称はアマ。2008年11月場所までの四股名安馬 公平(あま こうへい)。「公平」の名は、自身が「日本の父」と慕う後援会長の小巻公平にちなんだ。実際に生まれ育ったのはウランバートル市内だが、取組前の場内アナウンスでは父親の出身地であるゴビ・アルタイ県を自身の出身地としている(モンゴル国では、フビライ帝の時代以前から、自身の名前に「○○ドルジ(朶而只)」等と「○○という父親の息子」という表現を使うことが見られるなど出自には父親の系統が重視され、父の出身地を重視する慣行から、おしなべて多くのモンゴル出身力士は父親の出身地を自分自身の本籍地として表現する傾向がある)。身長185cm、体重130kg、血液型O型。得意手は突っ張り、右四つ、寄り、押し出し。インタビューの際の口癖は「お客さんを喜ばせる激しい相撲をとりたい」。好きな言葉は「なんでやねん」。父はブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲での関脇に相当)。最高位は、東大関2009年7月・2010年5月場所・2011年9月場所)。

目次

[編集] 素質・取り口

隆の山に次いで幕内で2番目に軽量の力士。尊敬している力士は、同じく軽量だった初代貴ノ花。稽古熱心な力士として知られており、ビデオで初代貴ノ花の相撲を研究している。

非常に強気な面が目立つ力士であり、物怖じしない言動が随所に見られる。既に三役に定着していた2007年9月場所では、新入幕にして優勝争いを展開する新鋭の豪栄道の挑戦を送り吊り落としの大技で退け「三役をなめられては困る」と三役常連としてのプライドを示した。同年11月場所にも「全部勝ちたい。負ける相手はいないと思っている」と強気一辺倒の姿勢で臨み、見事2場所連続の二桁勝利を挙げて大関取りの足固めをした。2008年1月場所前の横審の稽古総見でも復帰した朝青龍白鵬の両横綱の申し合いにただ1人割って入り、朝青龍にぶつかっていく向こう意気の強さを見せるなどした。このような前向きな姿勢と場所ごとに力強さを増す取り口などから、強力な大関候補として期待されていた。

自身のブログのタイトルにもあるように「真っ向勝負」を身上としている。体の重心が低い所にある上に、足腰が非常に強く、変化を喰いにくいし土俵際での粘りもある。立合いが鋭く相手に突き刺さるようであると形容される。現代の力士の中では相対的に軽量であるにもかかわらず、突き押し相撲は出足が鋭く腕がよく伸び、相手を真っ直ぐに土俵外に出すことができるほどの力がある。廻しをとっての投げも、白鵬を下すほどの鋭さを誇る。

かつては真っ向勝負のイメージを逆手に取り、立合いの変化を使う事も多かった。2005年11月場所9日目の琴欧州(当時)戦では負けたものの、「変化はしたくなかった。これからも対戦する相手だから」と語るなど真っ向勝負をにおわせる発言をしていた。相手が変化を警戒しないので非常に決まりやすいため、[2]実際には多くの取り組みで変化を用いていた。また2008年9月場所は12勝を挙げたが、勝ちにいく相撲を取っていたために変化が目立っており、客席からも冷ややかな声があったと夕刊フジの取材に答えている[3]。だが、大関取りとなった翌11月場所では、変化を用いることなく13勝し、大関昇進を果たしている[4]。しかしながら、2009年5月場所では11日目の稀勢の里戦で立ち合い変化しとったりで勝利を収めるなど、大関となった後も完全に変化を捨てたわけではない。この取り組みでは、全勝と1敗の対戦で熱戦が期待されていただけに、館内は落胆の声に包まれた。

また、三役定着の頃から上位陣には闘志をむき出しにして強さを発揮するものの、時に同等以下の力士にあっさり取りこぼしてしまうことがあり、大関になった今もなお完全には改善されていない。

[編集] 来歴

[編集] 入門前

警察官でありブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲での関脇に相当)の父親の元、3人兄弟の末っ子として育つ。 幼少期から兄と相撲を取るのが遊びで、兄に負けても悔しがる負けん気の強い子供であった。ウランバートル柔道クラブにも通っており、後の朝青龍朝赤龍時天空らと稽古した。 一方、机に座って何時間も黙って絵を描くという一面もあり、小学校時代には絵のコンクールで入賞した経験もある。

旭鷲山の活躍をテレビで見て、2000年7月に、安治川親方モンゴルで開いた相撲大会に出場。100人近くいた志願者の中で、彼に成長欲を感じた親方がスカウト。

スカウトの決め手になったのは、「うちの子は泣いても帰らないから大丈夫です」と親方に父親が言い、この言葉を聴いて即決した。

[編集] 出世

2001年1月に安馬の四股名で初土俵を踏み、翌3月場所には早くも序ノ口優勝(西29枚目・7勝0敗)を果たす。2002年3月場所 には三段目優勝(西14枚目・7勝0敗)を果たした。2004年3月場所には前相撲から20場所で新十両を決めた。同年の9月場所には十両優勝(東4枚目・11勝4敗)を果たした。

翌11月場所は新入幕だったが、13日目北勝力を破り見事に勝ち越した。2005年1月場所では、13日目に同じモンゴル出身の朝赤龍を破って勝ち越しを決めていたものの、翌14日目に前半戦の取組で痛めた尾てい骨部分の「臀部膿瘍」(でんぶのうよう)との診断を受け、入門以来初めて休場届を出した。翌3月場所、成績は9勝6敗と2桁勝利には及ばなかったものの、相撲内容を高く評価されて技能賞を初めて受賞した。7月場所では6勝9敗と幕内で初の負け越しとなり、翌9月場所も負け越したが、この場所3日目の朝青龍横綱土俵入りで、初めて露払いを務めている(この日、露払いの北勝力と太刀持ち高見盛の対戦が組まれたため)。

2006年1月場所13日目、前場所の初対戦で送り吊り出しを喰らった相手である朝青龍を上手投げに破り、初めての金星を得た。この金星は、朝青龍にとって幕内戦績100敗目だった。翌3月場所は東前頭2枚目に上がって魁皇と琴欧州の2大関をそれぞれ引っ掛け足取りで下して8勝7敗と勝ち越し、2度目の技能賞を得た。翌5月場所はついに新小結の座を射止めたが、4勝11敗の大負けに終わった。2006年9月には平幕中位ながら11勝を挙げる準優勝の成績で、初めての(そして現在のところ唯一の)敢闘賞を受けた。

2007年1月場所、14日目に朝青龍を星1つの差で追っていた豊ノ島小褄取りの決まり手で破る「援護射撃」を果たし、朝青龍の20回目の優勝に貢献してしまった。取組後支度部屋に戻り朝青龍に最敬礼。部屋・一門を超えたモンゴル人同士の繋がりの深さを見せた。自身も千秋楽稀勢の里を破って10勝目を挙げた。翌3月場所に小結復帰を果たし、初日にそれまで4度の対戦で一度も勝てていなかった千代大海を初めて破るなどの活躍で、8勝7敗と三役で初めて勝ち越した。この場所新関脇の琴奨菊が7勝8敗で負け越し関脇のポストが空いたため、翌5月場所は新関脇となった。この場所千秋楽に、12勝を挙げていた朝赤龍を破り勝ち越しを決めた。これ以降三役に定着することになる。7月場所は一点の負け越しで小結に下がるが、翌9月場所は初日に横綱白鵬との8度目の対戦で、首投げにより初めて白鵬を破った上に、12日目には新入幕で優勝争いの単独トップに立っていた豪栄道を送り吊り落としで破った(前述)。自らも13日目終了時点で白鵬と1差につけるがその後連敗し10勝5敗に終わった。しかし横綱を破った相撲等が評価されて、初めての殊勲賞を受賞した。ただ、兄弟子の安美錦と同郷の朝赤龍の両関脇が勝ち越したため、関脇復帰は成らなかった。翌11月場所は、8日目に横綱白鵬を下手投げで連勝し、2度目の殊勲賞を受賞した。ただ、14日目に白鵬を星1つの差で追っていた把瑠都を破って、結果的に白鵬の優勝を援護してもいる。この場所も10勝5敗であり、連続の10勝でいよいよ大関獲りの機運が高まった。

[編集] 大関獲り

初めての大関獲りの場所となった2008年1月場所、10日目に横綱白鵬を上手投げで破り対白鵬3連勝を果たすも、初日にベテラン栃乃洋突き落としに屈するなど、この時点で既に6勝4敗であった。翌11日目、時天空に敗れて5敗目を喫してからは、12日目の稀勢の里戦、13日目の雅山戦と2日続けて立合いの変化で勝ち、2桁勝利に望みをつないだものの、14日目の朝赤龍戦では逆に立合い変化からの足取りで敗れ6敗目を喫した。白鵬を破ったことが評価され3場所連続で殊勲賞を受賞したが、大関獲りは振り出しに戻ってしまった。

翌3月場所は、11日目に7敗目を喫し後がなくなったものの何とか勝ち越して関脇の座を維持した。次の5月場所には10日目に4たび白鵬を破ったほか千代大海と琴光喜の2大関を下し、9勝6敗と2桁勝利とはならなかったものの相撲内容が評価されて3度目の技能賞を獲得した(殊勲賞はこの場所優勝の琴欧洲に唯一の土をつけた兄弟子の安美錦)。7月場所は、中日まで7勝1敗と優勝争いに絡むが9日目の若ノ鵬戦で不運な負けを喫し、その際に左膝を痛めた。結局10勝5敗に終わったが、2場所連続4度目の技能賞受賞をした。翌9月場所では、2日目に鶴竜を前に苦杯をなめ、10日の白鵬戦は意地を見せ付けられるも、13日目まで2敗で優勝候補に名前が上がっていた。しかし14日目に豪栄道に敗れ3敗を喫した。その日のうちに白鵬が琴欧洲に勝って優勝をさらわれてしまった。それでも、12勝3敗の好成績を挙げたほか、途中休場した朝青龍から通算2勝目を挙げるなど白鵬以外の上位陣(1横綱4大関)を総なめしており、4度目の殊勲賞を受賞した。そして、再び大関獲りの好機を迎えることになったのである。

2008年11月場所の最大の焦点は当然安馬の大関昇進であった。ところが安馬は序盤では精彩を欠いた。3日目に稀勢の里に、4日目に豪栄道に敗れ2勝2敗となったので、一時は大関取りが危ぶまれた。しかし5日目からは立ち直り、途中休場した魁皇を除く大関を総なめにする活躍を見せ、12日目には横綱・白鵬に動きで勝り下手投げで下すなど11連勝。初日に安美錦に敗れた白鵬とは2敗で千秋楽まで並走し優勝争いを繰り広げた。結局白鵬との優勝決定戦にもつれ込んだが、1分25秒の攻防の末に、頭を押さえつけながらの強引な上手投げで敗れて優勝は果たせなかった。両者ともに力を出し切った熱戦に、NHK大相撲中継の千秋楽の解説者だった北の富士も「安馬も強くなったなあ」と唸った。

11月26日、11月場所の相撲内容が高く評価され相撲協会の臨時理事会で満場一致で大関昇進が決定。昇進伝達式が行われ、その場で四股名を安馬から「日馬富士」と改めることが発表された。伝達式の際は「謹んでお受け致します。今後も『全身全霊』で相撲道に精進します。本日はありがとうございました」と口上を述べた。

[編集] 大関時代

[編集] 2009年

新大関の2009年1月場所では初日から4連敗を喫し、昭和以降の新大関の昇進直後の場所での初日からの連敗記録を塗り替える。その後は3勝6敗と黒星が先行したあと、10日目に横綱白鵬を破って勢いづき、5連勝して14日目にようやく勝ち越しにこぎつけた。千秋楽では把瑠都に敗れ、8勝7敗に終わった。3月場所も初日、苦手の琴奨菊に敗れ、大関昇進後2場所連続の黒星スタートとなった。2日目からは土俵際の逆転の連続で辛くも4連勝したが、中日までに琴奨菊、栃煌山、鶴竜と平幕力士ばかり3人に敗れて5勝3敗となり優勝争いから取り残されてしまう。しかし、10日目に朝青龍を破り、13日目に勝ち越しを決めて10勝5敗で終え、大関になってからは初めての2桁勝利となった。5月場所では初日から12日目まで自身初の12連勝(前の3月場所からは15連勝)を達成するが、全勝対決となった13日目の横綱白鵬戦では、白鵬に裾払いを決められ初黒星を喫した。だがその後は、14日目に横綱朝青龍、千秋楽に大関琴欧洲を下し、自身最高の14勝1敗を挙げ、琴欧洲に敗れて1敗となっていた白鵬との優勝決定戦にもつれ込んだ。その優勝決定戦では、横綱白鵬を下手投げで破って本割の雪辱を果たし、初の幕内最高優勝を遂成。伊勢ヶ濱部屋としては約40年ぶりの優勝力士となった。

翌7月場所は綱獲りを賭けて臨む場所となった。しかし3日目に苦手の琴奨菊に圧倒され、5日目には阿覧の土俵際の叩きに屈して2敗となり、残り全てを勝って優勝しない限り綱取りは難しくなった。しかし9日目に地元場所で好調だった琴光喜に敗れ、13日目には朝青龍に幕内では34年ぶりとなる櫓投げを見舞われて4敗目を喫し、ここに綱取りは夢と消えた。さらにその後も優勝を争う白鵬と琴欧洲に連敗し、9勝6敗と二桁勝利すら果たせずに場所を終えた。その後も9月場所と11月場所は発熱や足の怪我の影響もあって共に9勝6敗となった。

[編集] 2010年

明けて2010年1月場所は、早々に3敗を喫したものの、12日目に白鵬を下す活躍も見せ、13日目までは1敗で単独トップの朝青龍を星の差2つで追っていたが、14日目の朝青龍との直接対決で下手投げで敗北、朝青龍に優勝を献上する羽目になってしまった。結果10勝5敗に終わったが4場所ぶりの二桁勝利となった。続く3月場所は初日から7連勝したものの、中日8日目に苦手の琴奨菊に敗れてからは失速、2場所連続の10勝5敗だった。翌5月場所は直前に膝を痛めた影響もあってか初日・2日目と連敗スタート。その後7連勝して立ち直ったかに見えたが、10日目に初対戦の白馬に不覚を喫し、又終盤3連敗で結局9勝6敗に終わった。7月場所も膝の怪我が完治せず、序盤6日目までに4敗を喫する苦しい立ち上がりとなったがその後持ち直し、白鵬には敗れたものの、他の大関陣には勝ち(魁皇戦は不戦勝)、3月場所以来の二桁勝利となる10勝5敗で終わった。9月場所は場所前の稽古量の不足の影響で中盤で早々と優勝争いから後退し、8勝7敗に終わった。11月場所は場所前から体調が不十分であり、初日から自分の相撲が取れずに3連敗を喫して4日目から休場した。

[編集] 2011年

初の角番となった2011年1月場所は休場の原因となった怪我の治療のため、場所前の本格的な稽古が遅れることとなった。そのため、5日目から連敗を喫するなど精彩を欠いたが、13日目に魁皇を破り勝ち越し、角番を脱出した。最終的には14日目、千秋楽と連敗して8勝止まりに終わった。翌5月技量審査場所では中日までで4勝4敗と苦戦したが後半は6勝1敗と大きく勝ち越し10勝5敗で、12日目は琴奨菊戦の連敗を6で止め、13日目は白鵬の連勝を止めるなど存在感を見せた。

7月場所では大関昇進当時を思わせるな立会いの鋭さと早い攻めの相撲が戻り、全勝で迎えた14日目に1敗の白鵬を破り、白鵬の8場所連続優勝を阻むと同時に自身2度目となる優勝を千秋楽を待たずして決めた[5]。しかし翌日の千秋楽で稀勢の里に突き落としで敗れ、全勝優勝はならなかった。翌9月場所は2009年7月場所以来2年ぶり2度目の綱獲り挑戦だったが、場所前に臀部膿瘍の悪化により十分稽古を積めないまま場所入りとなる[6]。初日の豊ノ島戦は物言いのつく際どい取組ながら、辛うじて掛け投げが決まっての白星発進だったが、2日目の隠岐の海戦では土俵際で突き落とされて初黒星。その後も4日目の豊真将戦、5日目豪風戦と不覚を取り早々3敗を喫し、優勝争いからも完全脱落して2度目の綱取りは消滅。12日目にようやく勝ち越しを決めたが終盤3連敗を喫して結局8勝7敗に終わった。翌11月場所も不調で7日目に3勝4敗と黒星が先行、13日目に勝ち越したが2場所連続の8勝7敗と振るわなかった。

[編集] 2012年

2012年1月場所は初日から5連勝と好スタートを切ったが、6日目に鶴竜、7日目に豪栄道と連敗。11日目には全勝だった把瑠都に敗れ3敗に後退。12日目には1敗の白鵬を3場所ぶりに送り出しで下したが、千秋楽に勝ち越しを掛けた琴奨菊に敗退して11勝4敗。

[編集] エピソード

[編集] 土俵上

  • 同学年の白鵬にライバル意識を持っており、通算では10勝21敗だが白鵬の横綱昇進後は10勝16敗(優勝決定戦を含める11勝17敗)の成績になっている(いずれも2012年1月場所終了時点)。2010年3月場所から5連敗中だったが、2011年5月技量審査場所で6場所ぶりに白鵬から白星を挙げた。また、同年7月の名古屋場所でも白鵬を下し、白鵬の8場所連続優勝を阻止した。
  • その一方で琴奨菊とは非常に相性が悪く、12勝24敗(2012年1月場所終了時点)と大きく負け越している。一時6連敗を喫した事も有るが、本人は「苦手意識はない。稽古場では勝てる。相手の廻しが固すぎるからだ」と発言している。また平幕力士の中では栃煌山に相性が悪く、4勝6敗と負け越している。
    • 逆に稀勢の里には22勝13敗(2012年1月場所終了時点)と相性がよく、2009年3月場所から2010年9月場所までは10連勝も記録した。ただ、2回目の優勝を果たした2011年7月場所では千秋楽に対戦して敗れ、全勝優勝を阻まれている。他には豪風、豊ノ島に対して相性が良い。
  • 2006年10月には当時平幕だったが全日本力士選士権大会で優勝を果たした。平幕力士の優勝は26年振り3回目のことであった。なお、関脇であった2008年にもこの大会を制している。
  • 2008年5月場所8日目の若ノ鵬戦の決まり手はうっちゃりであったが、「決まり手は櫓投げにして欲しかったねえ」と北の富士に言わしめるダイナミックな一番であった(なおこの後若ノ鵬は騒動を起こす事になる)。同場所の10日目には横綱・白鵬も豪快な上手投げで破っている。
  • 2009年5月場所で初優勝した際には内閣総理大臣麻生太郎が自ら表彰式に参加したが、麻生が内閣総理大臣杯の授与を忘れかけた。また優勝インタビューでは土俵から降りるのを忘れかけ、インタビュアーのNHKアナウンサー刈屋富士雄に促された。
  • 2007年9月場所から2010年9月場所まで、当時の現役幕内力士では横綱・白鵬に次ぐ通算(幕内)連続勝ち越しを続けていたが、2010年11月場所は途中休場(0勝4敗11休)したため、連続勝越記録は19場所でストップした。
  • 最近では2度目の仕切りのときに顔を土俵ぎりぎりまで近づけることが多い。

[編集] 土俵外

  • 趣味のひとつでもある絵画はセミプロ級の腕前。13歳頃から始め、美術の専門学校であるイレドゥチョボル高校在学中に個展を開いた。2005年9月場所9日目、NHK大相撲中継の中入りの時間帯で憧れの富士山油絵で描く様子が紹介された。取材日前日までの台風の影響で少し雲がかかっていた富士山を見て「負けたり寂しいときに見る感じ」を表現したと言い、スタッフと相談して「孤高」というタイトルをつけた。次は「沖縄のきれいな海を描きたい」とのこと。
    • 解説の舞の海が、「『アマ』ではなく『プロ』ですな!」と感心した出来であった(同じ表現を舞の海は前述の豪栄道戦の相撲に対し、「(当時の)四股名は『アマ』ですが、これこそ『プロ』です!」と言い換えて用いていた)。また、師匠の伊勢ヶ濱親方も、「いつまでも安い馬はちょっとねえ」と語っていた。
  • モンゴルの心臓病の子供への医療支援NPO「ハートセービングプロジェクト(HSP)」[7]の会員として、医療の遅れているモンゴルの地方での検診活動の費用を懸賞金ですべて賄ったり、日本の小児循環器病棟への慰問活動を行ったりしている。さらには、首都ウランバートルにある視覚・聴覚障害者のための雇用施設を運営するなど、慈善活動も積極的に行っている。こうした活動の背景には、父親に子供の頃から「人のために尽くす人間となれ」と常に諭されて育ったことが挙げられる(HSPによる日馬富士関へのインタビュー記事[8] より)。
  • 2006年末に父親のダワーニャムと親族が交通事故により急死し、次兄のラグバドルジも重傷を負った。この事故のため一旦帰国したが2007年1月場所出場のため同年1月6日に日本に戻り、悲しみを押し殺して場所を勤めた。その場所では10勝5敗と好成績で、翌場所三役に昇進した。同年3月場所からは、取組前の場内アナウンスの際に読み上げられる出身地を父親の出身地であるゴビアルタイに変更した。
  • 尊敬する初代貴ノ花と同様に喫煙者である。2008年9月場所3日目の取り組み終了後に、2007年5月場所から禁煙となっている支度部屋で喫煙をしたと報道された[9]。翌日の朝稽古で師匠である伊勢ヶ濱親方に厳重注意された[10]
  • 初代若乃花こと花田勝治が相撲雑誌内で「注目している」と名を挙げる。また「現役時代の自分に似ている」とも話している。
  • モンゴルでは同じ柔道クラブに所属しており、2004年3月場所でともに十両に昇進した時天空との対決は2005年から2006年前半にかけて毎回観客の期待するところとなっていた。その後は番付差が開いたが、安馬の初めての大関獲りとなる2008年1月場所の対戦では時天空が勝ちを収めている。
  • 2010年9月にモンゴル出身の女子大生(当時)と婚約したことを発表した[11]。女子大生は第1子を妊娠しており、いわゆる「できちゃった結婚」となる。同月29日に行われた婚約会見では「愛の決まり手は何か?」の問いに「首投げ(相撲の隠語で性行為の意)です」と答え笑いを誘った。

[編集] 朝青龍との関係

モンゴルの先輩である第68代横綱・朝青龍とは部屋も一門も違っていたが、かつて場所中に何度も夜の街へ繰り出す程の仲であった。また本場所の土俵でも、幾度か朝青龍に対して「援護射撃」を果たしていた。

  • 2007年の朝青龍の出場停止処分のときはモンゴルに出迎えに行った。
  • 2009年5月場所の初優勝祝いに、朝青龍から美顔器とプラチナローラーをプレゼントされた[12]
    • なお、この5月場所の初日2日前には朝青龍の呼びかけにより日馬富士、白鵬を含むモンゴル勢9人がゴルフコンペを開き、翌日に武蔵川理事長に「こんなときにゴルフをやるとはもっての外、軽率だ」と厳重注意を受けるという騒動を起こしているが、この場所の優勝争いの主導権は皮肉にも常にモンゴル勢の手にあった[13]
  • しかし、2010年1月場所後の2月4日、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取り突如現役引退を表明。その当日の夜に日馬富士は、同じモンゴル出身で仲良しの朝赤龍らと共に、朝青龍の自宅で「引退記念飲み会」を催していたという。また朝青龍の引退には日馬富士自身も大きなショックを受け、以後マスコミ陣から朝青龍の事を聞かれても、全て「ノーコメント」を貫いていた[14][15]
  • 2010年10月3日の朝青龍の引退土俵入りでは太刀持ちを務め、引退を惜しむコメントを残した[16]

[編集] 略歴

  • 2001年1月場所 - 初土俵
  • 2001年3月場所 - 序ノ口優勝
  • 2002年3月場所 - 三段目優勝
  • 2004年3月場所 - 新十両
  • 2004年9月場所 - 十両優勝
  • 2004年11月場所 - 新入幕
  • 2005年3月場所 - 技能賞(1)
  • 2006年1月場所 - 金星(朝青龍)
  • 2006年3月場所 - 技能賞(2)
  • 2006年5月場所 - 新小結
  • 2006年9月場所 - 準優勝(1)・敢闘賞(1)
  • 2007年5月場所 - 新関脇
  • 2007年9月場所 - 殊勲賞(1)
  • 2007年11月場所 - 殊勲賞(2)
  • 2008年1月場所 - 殊勲賞(3)
  • 2008年5月場所 - 技能賞(3)
  • 2008年7月場所 - 技能賞(4)
  • 2008年9月場所 - 準優勝(2)・殊勲賞(4)
  • 2008年11月場所 - 準優勝(優勝同点)(3)・技能賞(5)。
  • 2008年11月26日 - 大関昇進。四股名を「安馬」から「日馬富士」。
  • 2009年1月場所 - 新大関
  • 2009年5月場所 - 幕内最高優勝(1)
  • 2011年7月場所 - 幕内最高優勝(2)

[編集] 主な成績

2012年1月場所終了現在

[編集] 通算成績

  • 通算成績:493勝326敗12休(66場所)
  • 幕内成績:378勝255敗12休(43場所)
  • 幕内在位:43場所
  • 大関在位:18場所
  • 三役在位:12場所
    • 関脇8場所、小結4場所

[編集] 各段優勝

  • 幕内最高優勝:2回(2009年5月場所、2011年7月場所)
  • 十両優勝:1回(2004年9月場所)
  • 三段目優勝:1回(2002年3月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(2001年3月場所)

[編集] 三賞・金星

  • 三賞:10回
    • 殊勲賞:4回(2007年9月場所、2007年11月場所、2008年1月場所、2008年9月場所)
    • 敢闘賞:1回(2006年9月場所)
    • 技能賞:5回(2005年3月場所、2006年3月場所、2008年5月場所、2008年7月場所、2008年11月場所)
  • 金星:1個
    • 朝青龍1個(2006年1月場所)

[編集] 場所別成績

                                

日馬富士 公平
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2001年
(平成13年)
(前相撲) 西 序ノ口 #29
7–0
 
東 序二段 #22
5–2
 
西 三段目 #88
5–2
 
東 三段目 #53
4–3
 
東 三段目 #42
4–3
 
2002年
(平成14年)
西 三段目 #28
4–3
 
西 三段目 #14
7–0
 
西 幕下 #15
2–5
 
西 幕下 #27
2–5
 
東 幕下 #46
5–2
 
西 幕下 #26
2–5
 
2003年
(平成15年)
東 幕下 #46
4–3
 
東 幕下 #38
5–2
 
東 幕下 #23
5–2
 
東 幕下 #11
5–2
 
東 幕下 #7
6–1
 
東 幕下 #1
3–4
 
2004年
(平成16年)
西 幕下 #2
4–3
 
東 十両 #12
10–5
 
東 十両 #7
6–9
 
東 十両 #9
9–6
 
東 十両 #4
11–4
 
西 前頭 #14
8–7
 
2005年
(平成17年)
東 前頭 #13
8–6–1[basho 1]
 
西 前頭 #11
9–6
東 前頭 # 9
8–7
 
東 前頭 # 8
6–9
 
東 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 # 5
7–8
 
2006年
(平成18年)
東 前頭 #6
9–6
東 前頭 #2
8–7
西 小結
4–11
 
東 前頭 #4
6–9
 
東 前頭 #6
11–4
東 前頭 #1
6–9
 
2007年
(平成19年)
東 前頭 #4
10–5
 
東 小結
8–7
 
西 関脇
8–7
 
西 関脇
7–8
 
西 小結
10–5
東 小結
10–5
2008年
(平成20年)
西 関脇
9–6
東 関脇
8–7
 
東 関脇
9–6
東 関脇
10–5
東 関脇
12–3
東 関脇
13–2[17]
2009年
(平成21年)
東 大関 #3
8–7
 
西 大関 #2
10–5
 
西 大関 #1
14–1[17]
 
東 大関 #1
9–6
 
東 大関 #2
9–6
 
東 大関 #2
9–6
 
2010年
(平成22年)
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
8–7
 
東 大関 #2
0–4–11[basho 2]
 
2011年
(平成23年)
西 大関 #2
8–7
 
八百長問題
により中止
西 大関 #2
10–5
 
西 大関 #1
14–1
 
東 大関 #1
8–7
 
西 大関 #1
8–7
 
2012年
(平成24年)
西 大関 #2
11–4
 
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  1. ^ 臀部膿瘍と診断され、切開手術により途中休場
  2. ^ 前距腓靱帯(ぜんきょひじんたい)損傷および右肩亜脱臼により全治3週間の安静加療が必要と診断され途中休場

[編集] 主な力士との幕内対戦成績

2011年11月場所終了現在

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
春日王 3 1 隆乃若 3 2 海鵬 0 2
普天王 9 1 玉春日 4 1 時津海 2 3
時天空 11 8 豊ノ島 22 5 闘牙 1 0
豊桜 3 0 隆の鶴 1 0 武雄山 1 2(1)
北勝力 9 3 琴欧洲 15 16 稀勢の里 21 13
十文字 4 1 霜鳳 2 1 出島 4 2
琴龍 1 0 朝赤龍 12 6(1) 琴ノ若 3 1
石出 0 1 玉乃島 4 5 高見盛 3 4
皇司 1 0 露鵬 4 2 旭鷲山 1 2
豪風 14 2 琴奨菊 12 23 琴光喜 15 12
垣添 7 2 岩木山 3 3 黒海 2 4
旭天鵬 13 6 栃栄 1 0 土佐ノ海 1 1
白露山 2 0 玉飛鳥 0 1 若兎馬 1 0
雅山 11 6 朝青龍 5 17 魁皇 16(1) 12
春日錦 0 1 栃東 1 5 白鵬 9 21
千代大海 12 7 若の里 9 1 把瑠都 12 10
豊真将 9 3 栃乃洋 3 4 鶴竜 15 5
豪栄道 10 5 若ノ鵬 1 2 豊響 2 0
栃ノ心 8 4 嘉風 2 2 栃煌山 4 6
阿覧 6 2 翔天狼 1 0 武州山 1 0
玉鷲 1 1 土佐豊 2 0 白馬 1 1
徳瀬川 2 0 北太樹 2 0 隠岐の海 2 2

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2011年9月現在、現役力士

[編集] 改名歴

  • 安馬 公平(あま こうへい)2001年1月場所-2008年11月場所
  • 日馬富士 公平(はるまふじ -)2009年1月場所-

[編集] テレビ出演

[編集] 脚注

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  1. ^ 「ダワーニャミーン」 (Даваанямын/Davaanyamyn) は「ダワーニャム(=父親名)の」という意味だが、日本語報道では属格助詞ын/yn(-ィーン)」を省略して、単に父親名をカナ転写して「ダワーニャム・―」と表記されてしまうことが多い(他のモンゴル出身力士の本名についても全く同様の傾向がある。詳細については、モンゴル人の名前#モンゴル国における用例も参照)。
  2. ^ 大相撲コラム集(キモはここなのだ!)真っ向勝負にこだわっていたから決まった変化技(幕内・安馬)-goo大相撲
  3. ^ 『変化を完全封印! 安馬、大関へ“真っ向勝負”誓う』 MSNスポーツ(夕刊フジ) 2008年11月21日
  4. ^ 『新大関・安馬の素顔(下)貴ノ花に近づきたい…真っ向勝負決意』 スポーツ報知 2008年11月26日
  5. ^ 日馬2度目V! 白鵬V8失敗/名古屋場所 日刊スポーツ 2011年7月23日閲覧
  6. ^ 日馬、尻の腫れ物悪化で綱とりピンチ! サンスポ 2011年9月8日閲覧
  7. ^ ハートセービングプロジェクト活動紹介ブログ
  8. ^ 日馬富士関へのインタビュー(HSPへの熱い想い)、ハートセービングプロジェクト活動紹介ブログ
  9. ^ 『安馬が掟破りの喫煙…「全面禁煙」の支度部屋で』 スポーツ報知 2008年9月17日
  10. ^ 『安馬「もうしません」禁煙1勝…大相撲秋場所4日目』 スポーツ報知 2008年9月18日
  11. ^ 大関の日馬富士が婚約 お相手はモンゴル出身の留学生、2010年9月16日、朝日新聞(電子版)
  12. ^ 朝青龍が日馬に美顔器、ツヤツヤ顔目指せ2009年5月26日 スポーツニッポン
  13. ^ 『平成二十二年度大相撲力士名鑑』(ベースボール・マガジン社)100頁より
  14. ^ 朝青龍“引退記念飲み会”ではショック見せず”2010年2月6日 スポニチ
  15. ^ 無傷6連勝!日馬富士“大阪男”継承だ。”2010年3月20日 スポニチ
  16. ^ 朝青、最後の土俵入り…雲竜型を披露/大相撲 サンケイスポーツ2010年10月4日配信
  17. ^ a b 白鵬と優勝決定戦

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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