和の文化

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和の文化(わのぶんか)、あるいは、和の精神(わのせいしん)、和の心(わのこころ)とは、一部の(保守的な)知識人評論家思想家らが日本の精神文化・社会特性を説明するときに用いる用語、およびその用語を用いた日本の文化に関するナラティブ(日本人論)の一つである。「日本民族文化本質は、個性重視とする文化ではなく、集団の秩序と安寧、また礼儀と作法を重視した文化である。」といったものである。但し「同調圧力」という言葉もあり、風潮自体は日本に限られたものではない。

概要[ソースを編集]

日本では、個性や自由より秩序や安寧を重視する人々が、「日本人は和の文化を持っている民族であり、秩序や安寧を乱すような個性や自由は許されない」と主張し、集団の和を大切にすることがある。逆に集団主義を嫌う人々が、それを“遅れた日本民族の本質”とし、“進んだ欧米の個人主義”と対比させるという形で、この種の言動を唱えることもある。

「和の文化論」に対しても、他の日本人論と同様に、日本民族の文化と述べたとき、その“日本民族”とはいつの時代の、どの地域の、どの階層に属する“日本民族”なのかを無視しているのではないかという批判や、サンプルを恣意的に選別し、日本民族の“本質”を述べているのではないかという批判、さらに“個性重視の欧米”の実態如何についての疑問などが提示されている。

また、同様の概念をアジア(ヨーロッパを除くユーラシア大陸)の諸文化にも波及させ、「本質的に集団主義文化のアジア」と、「本質的に個人主義文化の欧米」という言説がなされることもある。

アメリカ国務省日本部長ケヴィン・メア(元・沖縄領事)は「日本人にとっては強請りの手段だ」と発言した(2010年12月3日、研修旅行に出るアメリカン大学の学生対象に国務省で行った講義)。

歴史的材料[ソースを編集]

十七条憲法[ソースを編集]

7世紀初頭に成立したとされる十七条憲法では、第一条と第十条、第十七条にそれぞれ協調の精神が謳われている。なかでも第一条の冒頭「和を以て貴しと為し」は非常によく知られており、十七条憲法を作ったとされる聖徳太子や、その思想性によって支えられている天皇天皇制)・国体皇国)に対する信仰心とも相まって、日本人の間における「和」概念の普及・浸透に多大な影響を及ぼし続けている。ちなみに第十条では「人それぞれ考えに相違があるので、他人と考えが相違しても怒らない」こと、第十七条では「独断に陥らず、他者とよく議論をする」ことが、述べられている。

儒教[ソースを編集]

十七条憲法は、儒教思想と仏教思想が混合する形で成立しているが、第一条に見られる「和」概念の直接の由来は、儒教にあると考えられる。

論語』の第一篇である「学而」の12節には、十七条憲法第一条の直接の典拠と考えられる以下の文がある。

礼之用和為貴。
(礼はこれ和を用うるを貴しと為す。) — 『論語』学而12

また、『論語』の第十三篇である「子路」の23節では以下のような文が見られる。

君子和而不同、小人同而不和。
(君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。) — 『論語』子路23

また、『孟子』の「公孫丑」篇では、俗に「天の時、地の利、人の和」と短くまとめられて言及される以下の文が見られる。

天時不如地利、地利不如人和。
(天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。) — 『孟子』公孫丑

このように元来、「和」の概念は儒教においても一定程度の重要な地位を占める概念であった。そして、これが十七条憲法の冒頭に持って来られた背景には、当時の「崇仏論争・崇仏戦争」などと呼ばれるような内紛的事態の影響があったと考えられる。

大和[ソースを編集]

古来、日本は「」(わ、やまと)の名を用いていたが、7世紀頃から国号を「日本」へと改め、また旧来の呼称である「わ、やまと」の漢字表記として、「和、大和」の表記を用いるようになっていった。その背景には、当然上記した十七条憲法にも現れているような、当時の朝廷の意向・思想があったことは言うまでもない。

そしてその後も、「和魂漢才」「和魂洋才」「和字」「和歌」「和書和装本」「和服和装」「和食」「和風和様」「和様建築」「漢和辞典英和辞典」「大和民族」「大和魂大和心」といったように、今日に至るまで、「大和(和)」は「日本(日)」と並ぶ自称として日本人に併用され続けている。

このように、「和」という文字が自称として用いられるようになったことも、「和」という概念・思想性が日本人の間に普及・浸透し、それをアイデンティティ・拠り所とする日本人を今なお一定数生み出し続ける要因となっている。

脚注・出典[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]