鬼門

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鬼門(きもん)とは、北東=うしとら:の間)の方位方角のことである。 鬼門とは反対の、南西、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。 北東()を「鬼門」、南東()を「風門、地門」、南西の裏鬼門を(人門、病門)、北西を(天門)とし、それぞれの四隅の方位、方角のあくまでも陰陽道上の門の名である[1]

鬼門を恐れた理由[編集]

日本では、古来からが出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としているが、方位の呼び名(門)は、風水と同じく中国から伝来した陰陽道であるが、風水では鬼門を必要以上に恐れることはない[2]。陰陽道が日本に伝わり日本神仏習合思想[3]と深く関わりをもつことで、日本独自の家相の発展が鬼門を異常に恐れる大きな要因とされる[4]

陰陽道の最盛期といわれる平安時代中期頃から、病気や疾病、地震、火災、天災など、そのすべてを祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こすの存在をに例えて恐れたことが大きな理由とされる[5]。鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」とあり、竈、門、井戸、厠など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神から祟りをうけぬよう祭祀を行っていた歴史があり、の門と名の付く北東方位を他の方位方角より恐れる方位になった[4]

鬼門の捉え方 (権力者) [編集]

時の統制者は、京内を結界(聖と俗を分離)し、人々が暮らす京内に災い事が起きないよう四角四境の祭祀を行っていた。代表的なものに、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)があり、とりわけて鬼門、裏鬼門だけを恐れるのでなく、四方を平等に崇めていた[6]歴史がある。現在でも地鎮祭で四方を囲み結界をつくり、その土地に災いが起きぬよう祭礼を行う地鎮祭が引き継がれているが、同じく四方を平等に崇めている[4]

また、歴代天皇は、正月元旦、早朝から四方を拝され、年災消滅、五穀豊穣を祈る四方拝といわれる祭祀を行っている、それは寛平二年(890)から現在の天皇まで1100年以上続いている[6]

武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが常道とされていた。安土城丹波福知山城岡山城姫路城などは裏鬼門に厠が配されていたとされ[7]、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った武将の気構えと捉えることができる、論じている[8]

二代将軍、徳川秀忠は鬼門方位を心配するものがいた時、「我が敷地、領土すべてなり、ゆえに鬼門は蝦夷である。」そう笑い飛ばした逸話が記載され、六代将軍、徳川家宣に仕えた新井白石が鬼門を研究し「鬼門考」を著しており、徳川家康が江戸城構築にあたり鬼門の橋を案じる家臣に対し「名前だけを違えよ」と命じ、位置は変えず、「筋違橋門」と名をつけた[9]。白石の鬼門考では、鬼門を避けないほうが吉が重なる、鬼門を避けなければ薄命である、鬼門を恐れる世の風潮の中、両極の鬼門説の混在に迷える記載がされている[10]

鬼門の捉え方 (庶民) [編集]

十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、の像を鬼門避けとして祀ったり、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた。京都御所築地塀鬼門、北東方位を凹ませてつくられていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが鬼門を除ける手法とされてきた。東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書 「現代の家相」[11]には、「家相の教え通りに凹ませている」と書かれている。このことから現代でも人々は縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ヒイラギナンテンオモトを植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをし、家相を気にする社会通念が生まれ、根強い鬼門を恐れる社会現象につながってきた。事実、京都のNPO法人が2015年、京都市内中心部だけで、ビルや店舗、一般住宅など、約1100か所に鬼門除けがあるという調査がなされ、四角く囲って玉砂利を敷いたり、ヒイラギ、南天を植えている調査結果が発表されている[12]

京都御所の築地塀 北東角の部分

しかし、こういった長年の家相の鬼門を恐れる言い伝えは、すべて発祥する京都御所が基になっているが、京都御所の内部には鬼の間が存在していた。 鬼の間(おにのま)とは、京都御所において仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿(せいりょうでん)、南西隅の部屋であり、すなわち裏鬼門の位置にある。平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏に大和絵師、飛鳥部常則康保元年(964年、この間に鬼を退治する白沢王像を描いたとされている。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王(はかたおう)といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、順徳天皇が著した禁秘抄(きんぴしょう)(御抄)(みしょう)を解釈した『禁秘抄講義』3巻上(関根正直著)に記述されている。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない[13]。なお、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李の将軍、「白澤王」としても記されている[13]。京都御所、天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて、築地塀を凹ませていた、という解釈より、庶民に災いごとがふりかからないように、皇室が一手に凹みで受けとめて、御所内部の清涼殿鬼の間に導いて鬼を切り倒し、世の安泰を願っていた、そう解釈したほうが自然であると、家相を研究する小池康寿の著書に[13]記述がある。現代でも皇居の間取りは公開されておらず、外から見ただけの塀の凹みだけを受けて鬼門除けに繋がったと考えた方が理に適う[14]猿ヶ辻に関しても前述とは別に御所を守護する日吉神社の神の使いが猿だったことから、「猿ヶ辻」と呼ばれる記述もある。昭和43年、皇居東御苑が一般公開されたが、京都御所GHQの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開されている、しかし現在でも鬼の間は一般公開されていない[13]

小池は、鬼門方位を除ける(鬼門除け)ことが、「家相の教え通り」[15]であるのであれば、一般庶民の住まいも南西に「鬼の間」をつくらなければ、家相は成立しないと述べている[14]

鬼門の否定[編集]

大正時代、京大総長、中国古代史研究者、新城新蔵が「迷信」という書籍をだし、鬼門、方位、暦を一刀両断し、鬼門は「単なるこけおどし」と、記述されている[16]

井上円了によると、大正時代でも長野県のある村では「学校の土地が鬼門に触れている」という理由で村会で議論になったらしく、井上は「笑うべきの至り」と記している[17]

鬼門と寺院との関係 [編集]

平城京では鬼門の方向に東大寺(創建年8世紀前半)が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂 が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている。

神仏習合が大きく影響しており、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する金剛證寺(こんごうしょうじ)創建年(伝)6世紀 が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り[18]とされ、伊勢志摩最大の寺となった。虚空蔵菩薩の眷属、雨宝童子が祀られており、当時は天照大御神化現と考えられたため、伊勢皇大神宮の奥の院とされた。[19]それらから、仏事に用いられる(しきみ)ではなく、神事に使われる(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺である[19]。しかし、伊勢神宮を代表するようにすべて神仏習合時代に後付けで言われた、つくられたものである[19]


俗語の「鬼門」[編集]

以上のように、鬼門は本来呪術的な意味を持つ言葉であるが、転じて「よくない結果が起こりやすい事柄」に対してこの言葉が用いられるようになっていった。方角に限らず、場所、時間帯や特定の教科などを指すこともあり、その用途は幅広い。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 清家清『現代の家相』新潮社 (1989/01) ISBN-13: 978-4106019678
  • 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社、2015年11月。ISBN 9784833421492

関連項目[編集]