喪服

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喪服(もふく)とは、葬儀法事などに参加する際に着用する礼服である。藤衣や喪衣(もぎぬ、もごろも)などとも呼ぶ。

概要[編集]

現代の日本において、喪服はや薄墨色が一般的である。また、和服の場合は喪主と喪主の配偶者がを着用することもある。逆になどの派手な色はふさわしくないとされている。なお、喪主(葬家)の家族・親族または会葬者で学生生徒児童・園児などがいる場合で学校などの制服がある場合は、その制服を着用する(させる)ことが多い。

また、警察官自衛官消防官海上保安庁等の官公庁職員等の葬儀で部隊規模での参列の場合、同僚等は喪服の代わりに制服を着用して参列する事が多い。その場合、記章・略章等を外す事が望ましい。

本来喪服とは、遺族が「に服している」ということを意味するもので、正式と略式と呼ばれるものがあり、親族は正式のものを着用する。

洋装を着用する女性は、真珠、黒真珠、ジェットアクセサリーを1連のみ付けることができる。2連以上のものは「悲しみが繰り返す」といわれ忌避される。は留め口などに金属を用いない布製が良いとされる。皮製品仏教における殺生を連想される理由から、色が黒であっても身に付けない方が無難、革靴は靴紐のない物を選ぶべきであるという意見がある一方で、草履雪駄革靴パンプスの代わりになる履物は提示されていないが、エラスティックシューズのように靴紐がなく、靴紐なある様に見える革靴やパンプスを選ぶ方法は存在するが対応はまだ難しい。

キリスト教系の宗派では、ベールで女性の顔を覆うことが喪の正装とされる。縁取りの幅は、近親者は太く、縁の遠いほど細くなる。また目の細かいチュールの頭だけ覆う小さなベール、ベールハットが略式のものとして用いられることもある。(文化出版局発行 服飾辞典)

喪服の英名は、モーニング・ドレス(mourning dress)やモーニング・クローズ(mourning clothes)である。なお、礼服の一種であるモーニングコートmorning coat, morning dress)のモーニングは「朝」を意味する単語で、喪とは無関係である。モーニング・ドレス(mourning dress)は、喪の期間の死後6ヶ月から1年で、その間、故人の死を悼む心情をあらわすためにモーニング・ドレス(mourning dress)を着たが、近年はこの習慣はうすらいできている。(文化出版局 1979)

歴史[編集]

江戸時代まで、喪服は喪主に限らず白が関西では一般的であった[1]。親族は白または水色の無紋の麻の上下で、夏は白の晒を着用した[1]。庶民は貸衣装を利用したが、裕福な者は自前のものを用意し、葬儀ごとに作る者もあった[1]。女性も白絹白麻布の着物に白絹白綸子の帯を着用した[1]。これに対し、江戸では親族でも染服に小紋上下を着用した[1]

明治11年大久保利通の葬儀の際多くが黒の大礼服で出席し、上流階級において黒が喪の色として認識され、次第に明治期を通じて黒に変わっていった。和服では、男性は紋付地黒の羽織袴、女性は黒色の紋付が着用されるようになった[2]

昭和30年代には、喪主や親族以外は洋服の喪服を着用するようになった。このころから黒色のネックレスが、昭和39年ごろからは真珠のネックレスが喪服のアクセサリーとして用いられるようになった[3]

和装の喪服[編集]

黒喪服[編集]

現代の和服での喪の礼装である。五つ紋をつけ、黒の帯を合わせる。 関東では羽二重、関西では一越ちりめんで作る。を染めた上から黒に染めると関東風、を染めた上から黒に染めると関西風になる[4]

黒喪服は、明治維新後に西洋のブラックフォーマルにならったものである。以前は白の下着を重ねていたが、昭和10年頃より不幸が重なるという迷信から省略されるようになった。帯についても、現在は同様の理由で袋帯を避け、名古屋帯を合わせるようになった[5]

色喪服[編集]

法事や通夜のときに着る喪の略礼装である。黒地か寒色の帯を合わせる。故人が亡くなってから何年後の法事から色喪服を着用するかは、地方により異なる[6]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]