アンティーク・ジュエリー

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アンティーク・ジュエリー: antique jewellery: antique jewelry)とは、製作されてから100年以上を経過した宝飾品で、骨董的価値を持つ装身具のこと。主に欧米で作られたものについていう。 市場に出回るのは製作から200年以内のものがほとんど、という事情もあり、アール・ヌーボーアール・デコ期のジュエリーについては、正確にはまだ100年を経ていなくてもアンティーク・ジュエリーとして認められることが多い。

あまり高価な素材を使わずに大量生産されたアクセサリーの場合は、コスチューム・ジュエリーと呼ばれる。

近代ではもっぱら装飾のために用いられるが、ジュエリーはもともと衣服を留めるための実用品に、富の保管の役割を兼ね備えさせるところから始まった。 初期のジュエリーは、骨や歯、貝や木や石といった自然物から作られた。多くの場合、それをつける人のステイタスを示すために作られ、その人物が死ぬと埋葬品ともなった。

形状と機能[編集]

部族のビーズをつけたケニアの男性

古来、ジュエリーはさまざまな理由で用いられてきた。

  • 通貨、富の誇示、及び保管
  • 実用(留め金、ピン、ベルト留めなど)
  • 象徴(地位や所属を示す)
  • 護符(魔除けや魔方陣の形で)
  • 芸術性の表現

ほとんどの文化はある時点で、多量の富をジュエリーという形で保管しようとする。 多くの文化で、結婚持参金としてジュエリーを贈ったり、お金を納めたり飾ったりするためにジュエリーを作ったりする。 またさらに、ジュエリーは通貨や取引の材料として使われてきた。

ジュエリーは早くから実用品として使われてきた。事実、ブローチやバックルなど、ジュエリーの多くのアイテムは純粋な実用品から始まり、その機能が満たされるとさらに装飾品として発展したのである。[1]

ジュエリーはまたグループへの所属を象徴するものでもあり、キリスト教十字架ユダヤ教ダビデの星などがこれに当たる。また身分を表す場合には、西洋の夫婦が着ける結婚指輪などが相当する。

護符や信仰の証を身に着けて保護を願ったり悪を避けようとするのは万国ほぼ共通で、アンクのようなシンボル、石、植物、動物、ハムサのような体の一部などが例に挙げられる[2]

芸術性の表現はごく初期のジュエリーにおいても明らかに意識されていたが、他の上記のような役割を優先させることが多かった。 19世紀の終わりごろにようやく、ピーター・カール・ファベルジェルネ・ラリックのような巨匠の作品では実用性や財産性よりも優先されるようになった。 この傾向は現代まで続き、ロバート・モリスのような芸術家へと引き継がれた。

ジュエリーと社会[編集]

一つの普遍的要素として、誰がどんなジュエリーを着けることができるか、つまりジュエリーを身に着けることによって示す強力なシンボリズムには、コントロールが働いてきた。

たとえば古代ローマでは、ある階級に属する人間だけが、指輪を着けることができた。[3] のちには奢侈抑止法で、誰がどんなタイプのジュエリーを着けることができるかが定められたが、基準はやはり階級であった。

文化による要求もまた影響を与えた。例えば19世紀から20世紀初期にかけての西洋社会では、男性がイヤリングをつけることは「めめしい」と考えられた。 逆に、20世紀初期には宝石産業界は、男性用の婚約指輪を流行させることには失敗したものの、男性用の結婚指輪を定着させるキャンペーンには成功した。 時には偽りの歴史を作り上げ、そのルーツは中世にあると主張しさえしたのである。 1920年代の米国では、結婚式で指輪交換の儀式の行われる率は15%に過ぎなかったが、1940年代の中ごろには85%にまで上昇している。[4]

宗教もまたジュエリーに関わりがある。たとえばイスラム教では、男性が金を身につけることは社会的タブーとされており、[5] 他にも多くの宗教が過度の装飾には警告を発している。 [6]

歴史[編集]

ジュエリーの歴史は長く、その使用法も文化ごとに様々なものがある。ジュエリーは数千年もの年月を経て、古代の文化の営みの様子を伝えてきた。

古代[編集]

ジュエリーの最古の痕跡は、アフリカのホモサピエンスにみられる。ブロンボス洞窟英語版ではカタツムリの殻に穴を開けて作ったビーズが見つかっており、ケニアのエンカプネ・ヤ・ムト(黄昏洞窟とも)の、ダチョウの卵殻に穴を開けたビーズは4万年以上昔のものとみられている。

アフリカ以外にも、クロマニョン人は骨・歯・石を紐・動物の腱・曲がった骨にとりつけた天然のネックレス、もしくはブレスレットを所持しており、服を留めるのに使用していた。このジュエリーに貝殻真珠層のかけらが加わることもあった。ロシア南方では、マンモスの牙からつくられた彫刻ブレスレットも見つかっている。ホーレ・フェルスのヴィーナスには頂部に特徴的な穴があり、ペンダントとして着用するためのものだったことがうかがえる。

銅を使ったジュエリーの最古の痕跡は、7千年前ごろにみられる。[1]

エジプト[編集]

紀元前254年の魔除けのペンダント。ラピスラズリトルコ石カーネリアン製。幅14cm
An エジプト第18王朝時代の王女の冠

古代エジプトにおけるジュエリー製作に関する最古の痕跡は、3千年から5千年前ごろにみられる[7]。エジプト人は、豪華さ・稀少さ・加工しやすさの点で、金属の中でも金を特に好んだ。エジプト先王朝時代英語版において、ジュエリーはコミュニティ内の政治権力・宗教権力を象徴するようになった。富裕なエジプト人は、生きている間だけではなく、死してからもジュエリーを副葬品として身につけていた。

金のジュエリーと同時期に、エジプト人は彩色ガラスを宝石として扱っていた。宝石も手に入ったが、エジプト人は自然な石の色よりも、ガラスにみずから作り出せる色をむしろ好んだのである。たいていの宝石について、それぞれの色を真似るためのガラス製法が存在した。ジュエリーの色はきわめて重要であった。というのも、それぞれの色に違った意味合いがあったためである。たとえば『死者の書』によれば、ミイラの首にかけるイシスの首飾りは、血を求めるイシスを満足させるため赤でなければならず、一方で緑のジュエリーは作物の成長や肥沃さを意味した。

ラピスラズリと銀は国外から輸入しなければならなかったが、それ以外のジュエリー素材は、ほとんどがエジプト内もしくは周辺地域に存在した。たとえば紅海ではクレオパトラのお気に入りだったエメラルドが採取された。

エジプトのジュエリーは、主に神殿や宮殿に備え付けられた大規模な工房で作られた。

エジプトのジュエリーデザインは、フェニキアのものと最もよく似ている。また、ペルシアのジュエリーに、古代トルコのデザインがみられることを考えても、中東とヨーロッパの間の交易は珍しいものではなかったことがうかがえる。女性達は、式典で利用する精緻な金・銀細工を身につけていた[7]


ヨーロッパ・中東[編集]

メソポタミア[編集]

約4千年前、ジュエリー製作技術はシュメール・アッカドの諸都市において重要な技術になっていた。紀元前2900年-2300年ごろの人物が数百人眠るウルの王墓が発掘され、考古学上最も重要な証拠となっている。プアビなどの墳墓には、金の小立像の装飾が施されたラピスラズリの王冠など、金銀や準宝石を使った工芸品が多数納められていた。アッシリアでは、護符・足輪・複数の紐を使った重々しい首飾り・円筒印章など、男性・女性ともに数多くのジュエリーを身につけていた。[8]

メソポタミアのジュエリーは薄い金属板をもとに、数多くの明るい色の宝石(瑪瑙・ラピスラズリ・カーネリアン・碧玉など)をあしらうことが多く、形は葉型・らせん型・塩水型・ぶどう房型などが好まれた。ジュエリー職人は、七宝焼きエングレービング粒細工細線細工英語版など多くの複雑な金属加工技術を駆使し、人間用に加えて像の装飾のための作品をも製作した。[9]

ジュエリーの製造・交易に関する膨大で詳細な記録が、メソポタミアの遺跡から発掘されている。マリの王家の書庫を例に挙げれば、さまざまなジュエリーの構成について、以下のように記している。

斑点つき平型玉髄ネックレス1点の内容:斑点つき平型玉髄ビーズ34粒・縦溝装飾の金ビーズ、5粒1組で35粒
斑点つき平型玉髄ネックレス1点の内容:斑点つき平型玉髄ビーズ34粒・吊し具を作る縦溝装飾ビーズ41粒1組
円形ラピスラズリビーズネックレス1点の内容:円形ラピスラズリビーズ28粒、留め具として縦溝装飾ビーズ29粒 [10]

ギリシャ[編集]

ミケーネ、紀元前16世紀頃の金のイヤリング

ギリシャ人は紀元前1400年ごろから金と宝石をジュエリーに使用しはじめた。とはいえ、それ以前にも貝殻や動物の形をしたビーズは以前の時代にも広く作られていた。ギリシャ人は、紀元前300年ごろにはすでにアメシスト真珠エメラルドを使用し、また色つきのジュエリーも製作していた。また、インドのサードニックス(紅縞瑪瑙)を使用してカメオを製作した最初の痕跡もみられる。ギリシャのジュエリーは、通常他の文化のものよりもデザイン・製造過程においてシンプルであったが、時代が下るにつれてデザインの複雑性は増し、様々な素材が使われるようになった。

裸婦のペンダント。エレクトラム製、ロドス島紀元前630年-620年

ギリシャのジュエリーはめったに着用されず、主に公的な会見や特殊な状況で用いられた。ジュエリーはしばしば贈り物として与えられ、持ち主の富・社会的ステータス・美しさを示すため、主に女性が着用した。ジュエリーは着用者を「邪視」から防いだり、霊的な力を付与するものとされた。宗教的な象徴として扱われるものもあった。当時発見された、さらに古代のジュエリーは神に捧げられた。当時、ジュエリーの最大生産地はギリシャ北部およびマケドニアであった。ギリシャのジュエリーの多くは金・銀・象牙・宝石で作られていたが、青銅や粘土のコピー品もまた製造されていた。


古代ギリシャのジュエリー、紀元前300年

ギリシャのジュエリー製作には、鋳物と板金からのハンマー加工との二通りがあった。鋳物ジュエリーの製造数は比較的少ない。鋳物ジュエリーは、金属を二つの石・粘土の鋳型で鋳造し、半分ずつ作ったものを合わせ、その間に蝋や融解した金属を入れる、という手法で作られた。この手法は青銅器時代の終わり頃から行われてきたものである。板金ハンマー加工のほうが鋳物よりも普及していた。これは板金の厚みをハンマーで延ばし、半田付けする加工法である。二枚のシートの内側には、加工を保護するために蝋その他の液体が注入され、その後で刻印や彫刻などの様々な技法を用いてジュエリーの意匠が作り上げられた。 ギリシャのデザインは、アレクサンドロス大王が一部を征服した際のアジアなど、ギリシャ外部の起源も多い。また初期のデザインにはヨーロッパ他地域の影響も見てとれる。ローマ帝国の支配がギリシャに及んだ時期は、ジュエリーのデザインに関する変化は見られない。しかし紀元前27年には、ギリシャのデザインはローマ文化の影響を強く受けていた。とはいえ固有のデザインが育たなかったわけではなく、紀元1世紀の、銀のフォックステイルチェーンのついた多色英語版仕立ての蝶のペンダントがオルビア付近で見つかっており、同様の品は他の地域では1例しか見つかっていない。[11]

ローマ[編集]

Roman アメシスト インタリオのペンダント。紀元212年ごろ。後世に聖ペテロのメダリオンに作り替えられた

古代のジュエリー作品、特にケルト人などの非ローマ部族のものはすぐれた多様性を持っていたが、ローマ帝国がヨーロッパのほとんどを征服すると、ジュエリーはローマのデザインを基調とした小さな派閥を形成するようになった。古代ローマにおいて最も一般的な工芸品は、衣服を留めるブローチであった。ローマ人は、大陸中に広がる資源から集めた様々な種類の素材をジュエリーに用いた。ローマ人は金だけでなく、青銅や骨、初期にはガラスのビーズや真珠も用いた。ローマ人は、2000年前にはすでにスリランカからサファイアを、インドからダイヤモンドを輸入し、エメラルド琥珀も使用していた。ローマ支配下のイングランドでは、北イングランドの黒玉(化石化した木)が彫刻され、ジュエリーになった。古代のイタリア人は、天然の金を加工して留め金・ネックレス・イヤリング・ブレスレット・香水を入れることができる大きなペンダントなどを作った。

ギリシャ人と同様、ローマのジュエリーは、他人の邪視を防ぐのが主な目的のひとつであった。女性は多くのジュエリーを身につけていたが、通常男性が身につけるのは指輪のみであった。指輪は最低1つ身につけることになっていたが、全ての指に指輪をはめた者や全くはめていない者もいた。ローマ人の男性・女性は、彫刻された石のついた指輪をはめており、この指輪は蝋で文書に封をするのに使われた。この風習は中世まで続き、王侯貴族が同様の方法で文書の封をしていた。ローマ帝国の没落後、ジュエリーのデザインは近隣諸国・部族に吸収された。[7]

中世[編集]

メロヴィング朝の留め針、ビブリオテーク・ナショナルより
6世紀、西ゴート風青銅鷲型留め針。スペイングアダラハラ

ローマ帝国以降のヨーロッパにおいても、ジュエリー製作技術は発展を続けていた。特にケルト人やメロヴィング朝はジュエリーの品質の点で東ローマ帝国に優るとも劣らなかった。服の留め具や護符や印章(印章はやや数が少ない)が、分かっているうちで最も一般的な工芸品である。ケルトではタラ・ブローチが最も有名。 トルクはヨーロッパ全体でステータスや権力の象徴として一般に広まっていた。 8世紀には、宝飾付きの武器類が男性用として一般的になる一方で、他のジュエリーは(印章指輪以外)女性のものとなっていた。シャロン=スュル=ソーヌ近くにある、6-7世紀の墓所の副葬品はこのことを実証している。ここで埋葬されている若い女性の副葬品の内容は、2片の銀のフィビュラ、ネックレス(コイン付き)、ブレスレット・金のイヤリング・2個1組のヘアピン・櫛・バックルであった[12]。ケルト美術は、くり返しのパターン及びデザインに特化しており、一方でメロヴィング朝のデザインは様式化された動物像で知られている[13]。また、これらの他にも上記の西ゴート族や、イングランドサフォーク州のサットン・フー船葬(en:Ship burial)跡で見つかった、アングロ・サクソン人による数々の装飾品などが特に有名な例である。[7]ヨーロッパ大陸では、この時代七宝焼き柘榴石が主に使われていた。

ローマ帝国の東側を引き継いだ東ローマ帝国は、宗教こそ違えど、ローマ帝国の手法を多く受け継いだ。だが、ローマ帝国・フランク帝国・ケルトとは違い、東ローマ帝国は金塊ではなく軽い金箔を用いて、石・宝石により力を注いだ。ローマ帝国と同様に、東ローマ帝国のジュエリーは富裕層の女性が着用する者であって、男性のジュエリーは印章指輪に限られた。同時代の他の文化と同様、ジュエリーは一般に所有者とともに埋葬された。[14]

ルネサンス[編集]

ルネサンスと探検は、ヨーロッパのジュエリーの発展に大きなインパクトを与えた。 17世紀までに探検と貿易の増加により、他文化の芸術への影響と同様、多種多様な宝石を使用できる可能性の増加をもたらした。 一方、金と貴金属の作品作りの現場では、この期間に宝石の品質とセッティングの技術の向上が見られた。

Cheapside Hoard のおもしろい例を挙げると、英国ロンドンのある宝石商が共和国の期間に在庫を隠して、1912年にようやく発見された。 そこに含まれたものには、コロンビアのエメラルドトパーズ、ブラジルのアマゾナイトスピネルアイオライト、スリランカのクリソベリル、インドのルビー、アフガンのラピスラズリ、ペルシャのターコイズ、紅海のペリドット、ボヘミアとハンガリーのオパールガーネット、そしてアメジストがあった。 大きな石はよくエナメルの指輪のボックス・ベゼルにセットされた。[15]

この期間の小売商で注目に値するのが、ジャン・バティスト・タヴェルニエである。彼は1660年にホープダイヤモンドを買い取ってフランスに運んでいる。

ナポレオン・ボナパルトは1804年にフランス皇帝に即位すると、宝石やファッションに復古調のアンピール様式を流行させた。 ナポレオンの指示のもと、宝石商はパリュールを作製した。パリュールとはそろいのジュエリーを組んだもので、例えばダイヤモンドのティアラ、ダイヤモンドのイヤリング、ダイヤモンドの指輪、ダイヤモンドのブローチ、ダイヤモンドのネックレスといった様子である。 ナポレオンの妻たちも、このような美しいセットを持ち、本式に着用した。

ナポレオンが復活させた、もう一つのファッション・トレンドがカメオである。 彼が、カメオを飾った王冠を披露するとすぐに、カメオは熱心に収集されるようになった。

この時代には、コスチューム・ジュエリーの台頭も見られる。真珠の代わりに魚のウロコで覆ったガラス玉、ストーン・カメオの代わりにコンク・シェルのカメオ、といったぐあいである。 新しい用語が芸術を区別するために作り出された。卑金属で製作する宝石商を「bijoutiers」、貴金属で作製する宝石商を「joailliers」と呼び分けるのである。この慣習は今日まで続いている。

ロマンティシズム[編集]

モーニング・ジュエリーの例。ジェットのブローチ。19世紀

18世紀の終わりに始まって、ロマン主義は西洋のジュエリーの発展に大きな影響を与えた。おそらく人々にとってもっとも魅惑的だったのは、現代考古学の誕生によって発見された財宝や、中世ルネサンス期の芸術であろう。

産業革命の結果、いわゆる「ミドル・クラス」の人々が財を成し、ジュエリーを必要として購入に走った。その結果、工業的技術、安い合金、代替宝石などが適用されてペースト(人造宝石)やコスチューム・ジュエリーが開発された。優れた技術を持つ金細工職人は引っ張りだこになった。それは、より裕福な後援者たちが、自分たちの着けるジュエリーは一般大衆のものとは別格であることを明らかにしようとして、高価な金属や宝石を使用するだけでなく、芸術的にも技術的にも優れた作品を求めたからである。

モーニング・ジュエリー(喪のジュエリー/Mourning jewellery)はこの時期に特有のもので、ロマン主義的な考え方に基づいたものである。英国のビクトリア女王が、夫君のアルバート公亡きあと黒玉のジュエリーをしばしば身につけたことから、この慣習が始まった。これにより、愛する者の死に遭って喪に服している間も、ジュエリーを着け続けることが可能になったのである[16]

ピーター・カール・ファベルジェのイースター・エッグ

米国では1837年に、チャールズ・ルイス・ティファニーによってティファニー商会が創設された。ティファニーの出現で米国は宝石業界から注目されるようになり、例えばエイブラハム・リンカーン夫人のような人々から目のくらむような注文を受けて、名声を獲得した。のちにティファニーは映画「ティファニーで朝食を」を通して、大衆人気を得ることになる。

フランスではルイ=フランソワ・カルティエが1847年にカルティエ商会を創設し、イタリアでは1884年にブルガリが創設される。こうして近代的な工房が生まれ、これまでのような個々の職人と後援者との関係が崩れてゆくきっかけとなった。

またこの時期には、東洋と西洋の美が初めて出会い、融合を試みた。ドイツの Pforzheim では、ドイツと日本の芸術家が共同作業で赤銅のフィリグリーを生み出した[17]

次の時代へのおそらくは移行期間に当たる時期に現れたのは、偉大なロシアの芸術家のピーター・カール・ファベルジェである。彼はロシア皇帝のために作品を作り、「ファベルジェのインペリアル・イースター・エッグ」とジュエリーの数々は、いまだ宝飾職人の芸術の粋と考えられている。

アール・ヌーボー[編集]

1890年代、時代を席巻するアールー・ヌーボーのスタイルの可能性を宝石商たちは模索した。 密接に関連するのが、ドイツのユーゲント・シュティールや、英国(また少しは米国も)のアーツ&クラフツ運動である。 ルネ・ラリックは、パリのサミュエル・ビングの店で働き、現代ではアール・ヌーボーの旗手とされている。 ダルムシュタットの芸術家村、ウィーンヴェルクシュタットは、ドイツにこの潮流を運ぶ源となった。 その間、デンマークではジョージ・ジェンセン(現在では銀器でよく知られる)が優れた作品を生み出し、英国ではリバティ商会チャールズ・ロバート・アッシュビーによるアーツ&クラフツ運動が流線型の特徴あるデザインを提供した。

この新しいスタイルは、宝石商たちのこだわりを、宝石のセッティングからジュエリーそのものの芸術的デザインに変化させた。 ラリックの有名なトンボのデザインは、その良い例である。 エナメルが技術的に大きな役割を果たし、うねるような有機的ラインが最も特徴的である。 第一次世界大戦が終わると流行は変化し、新しいスタイルが取って代わるようになった。 [18]

アール・デコ[編集]

高まる政治的緊張、戦争の余波、そして世紀の変わり目に見られた退廃への反動から、デザインはさらにシンプルな方向に流れた。その結果、製造効果も上がり、高品質なジュエリーが大量生産される時代になった。 この1920年代から1930年代にかけてのスタイルは、アール・デコとして今日までよく知られている。 ヴァルター・グロピウスとドイツのバウハウス様式は、「芸術家と職人の間に壁はない」という彼らの哲学のもと、様式化されたシンプルなスタイルへと流行を導いた。

現代的な素材も生み出された。プラスチックやアルミニウムは早くからジュエリーに取り入れられ、有名なものには、ロシア生まれのバウハウスの教師、ナウム・スルツキーのクロム・ペンダントがある。

技術は、素材そのものと同じくらい重要になり、西洋ではこの時期に、ドイツのエリザベス・レスコーによってグラニュレーション(古代エトルリア遺跡から出土したジュエリーに見られる粒金細工)の技術が再発見された。この技術の再開発は、1990年代まで続いた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Holland, J. 1999. The Kingfisher History Encyclopedia. Kingfisher books.
  2. ^ Morris, Desmond. Body Guards: Protective Amulets and Charms. Element, 1999 ISBN 1-86204-572-0
  3. ^ Pliny the Elder. The Natural History. ed. John Bostock, H.T. Riley, Book XXXIII The Natural History of Metals Online at the Perseus Project Chapter 4. Accessed July 2006
  4. ^ Howard, Vicky. "A real Man's Ring: Gender and the Invention of Tradition." Journal of Social History, Summer 2003, pp 837-856.
  5. ^ ユースフ・アル=カラダーウィー. The Lawful and Prohibited in Islam (online)
  6. ^ Greenbaum, Toni. "SILVER SPEAKS: TRADITIONAL JEWELRY FROM THE MIDDLE EAST". Metalsmith, Winter2004, Vol. 24, Issue 1, p.56. グリーンバウムは、歴史的実例の少なさに関して次のように述べている。『イスラムのジュエリーの大部分は、花嫁の持参金という形を取り、伝統的に次世代に受け継がれるものではなかった。代わりに、女性が死ぬとジュエリーはスーク(市)で売られて再利用されたり、通行人に売られたりした。このように、19世紀以前のイスラムのジュエリーは非常にまれである。
  7. ^ a b c d Reader's Digest Association. 1986. The last 2 million years. Reader's Digest. ISBN 0-86438-007-0
  8. ^ Nemet-Nejat, Daily Life, 155–157.
  9. ^ Nemet-Nejat, Daily Life, 295–297.
  10. ^ Nemet-Nejat, Daily Life, 297.
  11. ^ Treister, Mikhail YU. "Polychrome Necklaces from the Late Hellenistic Period." Ancient Civilizations from Scythia to Siberia 2004, Vol. 10 Issue 3/4, p199-257, 59p.
  12. ^ Duby Georges and Philippe Ariès, eds. A History of Private Life Vol 1 - From Pagan Rome to Byzantium. Harvard, 1987. p 506
  13. ^ Duby, throughout.
  14. ^ Sherrard, P. 1972. Great Ages of Man: Byzantium. Time-Life International.
  15. ^ Scarisbrick, Diana. Rings: Symbols of Wealth, Power, and Affection. New York: Abrams, 1993. ISBN 0-8109-3775-1 p77.
  16. ^ Farndon, J. 2001. 1,000 Facts on Modern History. Miles Kelly Publishing.
  17. ^ Ilse-Neuman, Ursula. Book review “Schmuck/Jewellery 1840-1940: Highlights from the Schmuckmuseum Pforzheim.’’ ‘’Metalsmith’’. Fall2006, Vol. 26 Issue 3, p12-13, 2p
  18. ^ Constantino, Maria. Art Nouveau. Knickerbocker Press; 1999 ISBN 1-57715-074-0 as well as Ilse-Neuman 2006.

参考文献[編集]

  • Borel, F. 1994. The Splendor of Ethnic Jewelry: from the Colette and Jean-Pierre Ghysels Collection. New York: H.N. Abrams. (ISBN 0-8109-2993-7).
  • Evans, J. 1989. A History of Jewellery 1100-1870. (ISBN 0-486-26122-0).
  • Nemet-Nejat, Karen Rhea 1998. Daily Life in Ancient Mesopotamia. Westport, CT: Greenwood Press. (ISBN 0-313-29497-6).
  • Tait, H. 1986. Seven Thousand Years of Jewellery. London: British Museum Publications. (ISBN 0-7141-2034-0).

外部リンク[編集]