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「敬称は原則として使用しません。事件・災害等の被害者や、「ある特定の集団からは○○と敬称をつけて呼ばれる」のような中立的な観点から敬称を記述するのは問題ありません」 |
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中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの「[[陛下]]」の[[敬称]]付で呼ばれるのが通常である<ref>{{cite web|url=http://www.fmprc.gov.cn/chn/pds/gjhdq/gj/yz/1206_25/xgxw/t473255.htm|title=胡锦涛主席会见日本首相福田康夫|accessdate=2009-12-13|author=[[中華人民共和国]]外交部|date=2008-07-09|language=[[中国語]]}}</ref>。 |
中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの「[[陛下]]」の[[敬称]]付で呼ばれるのが通常である<ref>{{cite web|url=http://www.fmprc.gov.cn/chn/pds/gjhdq/gj/yz/1206_25/xgxw/t473255.htm|title=胡锦涛主席会见日本首相福田康夫|accessdate=2009-12-13|author=[[中華人民共和国]]外交部|date=2008-07-09|language=[[中国語]]}}</ref>。 |
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==== 朝鮮半島 |
==== 朝鮮半島と天皇の呼称 ==== |
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{{See also|日朝関係史|皇帝|日本国王}} |
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⚫ | [[朝鮮半島]]の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の[[冊封国]]として存在しており、[[華夷思想]]では「天子」・「[[皇帝]]」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「[[倭国王]]」「[[日本国王]]」等の称号で呼んでいた。[[清]]の[[冊封体制]]から離脱し[[大韓帝国]]となると初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国統治下]]では天皇の称号が用いられた。朝鮮半島独立後は[[英語]]で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「[[皇室]]」を「王室」、「[[皇太子]]」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し[[産経新聞]][[ソウル]]支局長[[黒田勝弘]]に拠れば、[[2006年]][[9月]]の[[悠仁親王]]誕生時、[[韓国日報]]を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという。<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/18461/]</ref>。 |
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{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}} |
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[[金大中]]は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては[[1998年]]から「天皇」の称号を使用するようになったが<ref name="chuounippo20090918">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100§code=140|title=【コラム】「日王」と「天皇」の間|author=盧在賢|newspaper=[[中央日報]]|date=2009-09-18|accessdate=2009-12-13}}</ref>、次の大統領[[盧武鉉]]は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領[[李明博]]は「天皇」の称号を用いている<ref name="chuounippo20090918" />。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している<ref name="chuounippo20090918" /><ref>{{cite news|url=http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948|title=「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる|newspaper=東亜日報|date=2009-09-17|accessdate=2009-12-13}}</ref>。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている<ref name="chuounippo20090918" />。[[李明博]]は[[2009年]][[9月15日]]に[[インタビュー]]を受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた<ref>{{cite news|url=http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022|newspaper=[[朝鮮日報]]|language=[[朝鮮語]]|title={{lang|ko|이 대통령, 일본 천황 표현 논란}}(李大統領、日本天皇表現論議)|2009-09-16|accessdate=2009-12-13}} [http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fread.nhn%3Fmode%3DLSD%26mid%3Dsec%26sid1%3D100%26oid%3D023%26aid%3D0002083022&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+自動翻訳]</ref>。 |
[[金大中]]は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては[[1998年]]から「天皇」の称号を使用するようになったが<ref name="chuounippo20090918">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100§code=140|title=【コラム】「日王」と「天皇」の間|author=盧在賢|newspaper=[[中央日報]]|date=2009-09-18|accessdate=2009-12-13}}</ref>、次の大統領[[盧武鉉]]は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領[[李明博]]は「天皇」の称号を用いている<ref name="chuounippo20090918" />。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している<ref name="chuounippo20090918" /><ref>{{cite news|url=http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948|title=「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる|newspaper=東亜日報|date=2009-09-17|accessdate=2009-12-13}}</ref>。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている<ref name="chuounippo20090918" />。[[李明博]]は[[2009年]][[9月15日]]に[[インタビュー]]を受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた<ref>{{cite news|url=http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022|newspaper=[[朝鮮日報]]|language=[[朝鮮語]]|title={{lang|ko|이 대통령, 일본 천황 표현 논란}}(李大統領、日本天皇表現論議)|2009-09-16|accessdate=2009-12-13}} [http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fread.nhn%3Fmode%3DLSD%26mid%3Dsec%26sid1%3D100%26oid%3D023%26aid%3D0002083022&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+自動翻訳]</ref>。 |
2018年4月28日 (土) 06:11時点における版
天皇 | |
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在位中の天皇 | |
今上天皇 1989年(昭和64年)1月7日より | |
詳細 | |
敬称 | 陛下 |
法定推定相続人 | 皇太子徳仁親王 |
初代 | 神武天皇 |
成立 |
神武天皇即位元年1月1日 (グレゴリオ暦に換算すると西暦紀元前660年2月11日) |
宮殿 | 皇居(東京都千代田区) |
ウェブサイト | 宮内庁 |
称号:天皇 | |
---|---|
敬称 |
陛下 His Imperial Majesty (H.I.M.) |
皇室 |
---|
|
天皇(てんのう)は、日本国憲法に定められた日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[1][2][3]。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている[3]。別称や呼称の仕方も、「帝・天子様・我が君・大君」など、時代によって様々で多種多様である。現代では「天皇(陛下)」と呼称することが主である。英語における呼称は「emperor」である。
今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁[4]。
概要
「てんのう」は、「てんおう」の連声(れんじょう)とされる[5][6]。古代日本では、権力の頂点をオオキミ(大王)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[6]。「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、奈良時代 ~ 平安時代には政治・祭祀の頂点だったが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった[5]。室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、明治憲法における天皇制へとつながった」という[5]。
大日本帝国憲法では、国家元首であって、神聖不可侵であり、かつ統治権を総攬[注釈 1]するものとして規定されていた[8][9]。「皇帝」と「天皇」は併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された[1]。
君主とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり[10]、王・帝王・天子・皇帝・きみなどとも言う[11]。『日本大百科全書』は、天皇は通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[12]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[13]。
大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある[14]。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または首相)を元首とする説、元首は不在とする説等がある[15]。学説の多くは、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、行政権の首長としての内閣代表の内閣総理大臣を元首としている[14]。
『世界大百科事典』によると、日本国憲法によって主権者は国民となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている[16]。「象徴規定にはとくに法的意味はなく、また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない」という[16]。天皇へ認可された権能は極めて限定されており、「行政権ももたず国を対外的に代表することもない天皇を君主とか元首とみることは困難」とされる[16]。天皇の地位は主権者である国民の総意に基づいており(第1条)、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている[16]。「神勅主義は明確に否定されているので、神秘的・宗教的要素がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は公的な宗教的活動が禁止されている(第20条)こともあって、「天皇、国家の世俗化が要求されている」[16]。「神道が特別な地位を与えられることはもはや許されない」のであり、皇位継承の際に行われた大嘗祭や三種の神器の継承は、「天皇家の私事としてのみありうる」とされる[16]。
天皇は憲法が限定的に列挙している国事行為だけを行い、国政に関する権能は一切持たない(第4条、第6条~第7条)[16]。国事行為は国家意思形成に関わらない形式的・儀礼的行為であり、天皇が国事行為を行うには常に内閣の助言と承認が必要であって、内閣は自らの助言と承認に責任を負う(第3条)[16]。天皇は国事行為の責任を負わないが、民事責任は負っている[16]。天皇の刑事責任を免責する明文規定は無いが、摂政はその在任中は訴追されないと定める皇室典範21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある[16]。
天皇制
『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、日本の君主制を指す[17]。「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から敗戦までの近代天皇制を指す」語であり[17]、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている[18]。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている[19]。
「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、Kotobankに登録されている辞事典としては『デジタル大辞泉』、『大辞林』(第三版)、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『百科事典マイペディア』、『世界大百科事典』(第2版)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』がある[20]。辞書はその他にも『岩波 日本史辞典』[17]、『日本史広辞典』等がある[21]。2017時点で「天皇制」を使用している研究論文は、Google Scholarでは約16,000件[22]、CiNii Articlesでは6156件がある[23]。
語源
古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ[24]。元は皇帝・天子[25]・君主の敬称であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[26]である。語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[27](この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れた[28])。天皇という二字は、「是全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ漢風諡ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる[29]。また、ある分野で強大な権力を持つ人を指す[9]。なお、天皇(てんこう)は三皇の一種である他に、天帝・天子も意味し天皇(てんのう)に通じる他[9]、皇天(こうてん)は天皇・皇室・天の神・上帝・天帝などを意味する[30]。
皇位継承
皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。皇位継承が世襲により行われることは、大日本帝国憲法においても日本国憲法においても明文で規定されており、詳細なルールは皇室典範において定められる。
憲法の規定
日本国憲法と大日本帝国憲法における天皇の規定について説明する。
日本国憲法における天皇
現在、天皇については日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられる。憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。
大日本帝国憲法における天皇
大日本帝国憲法においては、その第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、「元首」と規定されている。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあった。
三種の神器
日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられた神器。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物。
天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される(剣璽等承継の儀)。[31]
称号・日本国外での呼称
称号の由来と歴史
「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。戦前に津田左右吉が唱えた推古天皇期という説が、過去には有力だった。13世紀以降、「天皇」号の使用は一時廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が中世までに連声により「てんのう」に変化したとされる。 中国の唐の高宗は 「天皇」と称した。(上元元年(674年)八月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と為し、皇后を天后と為す」(巻八)とある。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。(681年)中国ではこの時のみ天皇号が使われ、以後使われていない。
日本では「天皇」という文字は大和の法隆寺の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は推古天皇(在位592~628)の御代である。 又、推古天皇十六年(607年)隋の煬帝に遣わされた国書の中に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀に伝えてあり、我が国の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られる。いずれも日本の方が中国より早い時に用いており、これらから天皇の文字は我が国がつくり、用いた可能性が高い。
「天皇」という称号の由来には、紀元前に書かれた中国の淮南子に出てくる東海の海の島(日本)の義和(天照大神)の夫である天帝(天皇)である帝俊(スサノオ)から来ているという説がある。|date=2017年1月}}実際に日本書紀は冒頭部分をこの淮南子から引用している。[32]
文書・銘 | 年代 | 抜粋 | 出典 | 現存 |
---|---|---|---|---|
遣隋使国書 | 607年 | 日出處天子致書日沒處天子無恙 | 隋書(636年成立) | |
法隆寺金堂 薬師如来像光背銘 |
607年 | 池辺大宮治天下天皇 | ||
隋への国書 | 608年 | 東天皇敬白西皇帝 | 日本書紀(720年成立) | 日本書紀以外に記録がない。 |
法興寺丈六 釈迦像光背銘 |
609年 | 多知波奈土與比天皇 | 元興寺伽藍縁起 並流記資財帳 (746年成立) |
現物が失われている。 |
天皇記 | 620年 | (書物の題名自体に「天皇」を含む) | 日本書紀 | 現物がない。 日本書紀以外に記録がない。 |
天寿国繍帳 | 7世紀 | 斯帰斯麻宮治天下天皇 悲哀嘆息白畏天皇前日啓 |
上宮聖徳法王帝説 (成立年不明) |
かろうじて現存。 |
野中寺弥勒菩薩像 | 666年 | 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 | 野中寺弥勒菩薩像銘文 | 現物が存在。 |
木簡 | 677年 | 天皇聚露忽謹 | 飛鳥池工房遺跡出土 |
日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。
天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物
- 唐の第三代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
- 日本の第四十代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
- 南漢の初代皇帝劉龑は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。
天皇の称号を存命中に自ら付した歴史上の人物
- 太平天国の洪秀全(在位1851-1864)は、在位中に「太平天皇」を自称した[33] 。
- 日本の明治天皇(在位1867-1912)、大正天皇(在位1912-1926)、昭和天皇(在位1926-1989)、今上天皇(在位1989-)は、大日本帝国憲法及び日本国憲法にしたがって自らに天皇の称号を付した。
古代
倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[注釈 2]。
訓読みの語源
古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[24]。
“スメル”については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット 'sume:ru'(“須弥山”)と音韻・意味が一致し、モンゴル語 'sümer'(“須弥山”)と同源であろうとしている[要ページ番号]。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない[35]。
万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が“オオキミ”、5例が“スメロキ”と訓ませている。それぞれの文意の比較から、“オオキミ”は今上天皇、“スメロキ”は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても“スメロキ”と訓ませているため、過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている[36]。
律令制での称号
律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。
死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。
奈良時代、天平宝字6年に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されている。この「諡号」とは、一人一人の名前であって、たとえば神武天皇といった時の前半の「神武」の部分が諡号である。後半の「天皇」という称号とは関係ない。
中世
順徳天皇(在位1210年 - 1221年)以来、光格天皇(在位1791年 - 1817年)で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[37]。
在位中の天皇は、帝、御門(みかど)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)、禁中(きんちゅう)、御所(ごしょ)などと呼ばれた。「みかど」とは本来、御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏・御所は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。
また、主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらき、などとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。
今上天皇は「当今の帝」(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)後に皇嗣が即位すると定めたためである。
明治以降
大日本帝国憲法(明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。
口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。
また、天皇は陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道するマスメディア等において用いられた。
現在
一部の出版物[どこ?]においては、平成28年(2016年)現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られた追号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また追号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇の崩御後に平成天皇という追号が贈られると確定している訳ではない。[要出典]
憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」の称号が用いられることもある[38]。
天皇の配偶者の称号と通称
天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后と中宮)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降皇室でも一夫一妻制が定着した。[要出典]
時期 | 天皇の配偶者 | ||||
---|---|---|---|---|---|
大宝律令制定前 | 大后 | 后 | |||
大宝律令の制定 - 平安時代初期 | 皇后 | 妃 | 夫人 | 嬪 | |
平安時代初期 - 南北朝時代頃 | 中宮 | 女御 | 更衣 | ||
南北朝時代 - 江戸時代初期 | 上臈 | 典侍 | |||
江戸時代初期 - 明治維新 | 中宮 | ||||
明治天皇 | 皇后 | ||||
大正天皇から現在 |
姓氏
日本国外での天皇の呼称
英語における呼称
天皇は、英語でthe Emperor of Japanまたはthe Tennoと称され、今上天皇をNow on the EmperorまたはNow on the Tennoと称される[39]。ただし、英語で公式に初めてthe Emperor of Japanと称された人物は、第十二代将軍徳川家慶であった[注釈 3]。1852年のミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領の親書の宛て名には、"His Imperial Majesty, the Emperor of Japan"と記されている[41]。
日本語においては天皇と皇帝とは明確に区別された異なる言葉として使用されるが、英語においては天皇にも皇帝にも同じく「(the) Emperor」という語が宛がわれている。宮内庁もウェブサイトの英語版ではEmperorを使用している。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は「His Majesty」または「His Imperial Majesty」である。略して「H.M.」または「H.I.M.」と記す場合もある。天皇は男性であるため、「Her Majesty」は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。[要出典]
天皇皇后両陛下という場合は、「Their (Imperial) Majesties Emperor and Empress」となる。天皇に対する呼びかけは一般的に「Your (Imperial) Majesty」である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は「His/Her Imperial Highness」であるが、この場合は「Imperial」を省略できない。[要出典]
中国における呼称
中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの「陛下」の敬称付で呼ばれるのが通常である[42]。
朝鮮半島と天皇の呼称
朝鮮半島の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。朝鮮半島独立後は英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し産経新聞ソウル支局長黒田勝弘に拠れば、2006年9月の悠仁親王誕生時、韓国日報を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという。[43]。
金大中は大統領在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[44]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[44]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[44][45]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[44]。李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた[46]。
天皇と宗教
神道との関係
神道は日本古来の宗教である。古代の日本は祭政一致であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。仏教が伝来した後の用明天皇は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は天武天皇の大宝律令などで定められてゆき、奈良時代から平安時代にかけて、天皇は新嘗祭などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る伊勢神宮に斎宮を遣わし、延喜式に定められた神社などに奉幣を供えた。鎌倉時代の順徳天皇は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、戦国時代の後柏原天皇などは大嘗祭を執り行えなかった。江戸時代には江戸幕府の要求と金銭補助の下、徳川家の神格化を目的とする日光東照宮への奉幣なども行われた。明治時代になると、神道は国家神道となり、神武天皇を祭る橿原神宮、桓武天皇を祭る平安神宮、明治天皇を祭る明治神宮などが創建され、戦前戦中の昭和天皇は現人神として崇拝された。戦後は政教分離となり国家神道は廃止され、昭和天皇は人間宣言により自らの神格化を否定した。現在は宮中祭祀として新嘗祭などが執り行われ、皇女が伊勢神宮の祭主となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている。
仏教との関係
『日本書紀』によると552年に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺や法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。
また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。
平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海と最澄を遣唐使とともに唐に送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。
その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年(明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により廃仏毀釈が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。
職能神・芸能神との関係
天皇という王は、本来自然の領域に属する超越性を人間社会内へ奪取する媒介者の働きをしており、その多義性は宗教や儀礼、技芸の神にまつわっている[47]。天皇と職人とには、内密な関係が見られる。金春禅竹が『明宿集』で語るところによると、芸能や職人の守護神である宿神(翁)は、宇宙の中心、王の中の王であると諸職の民によって考えられていた。これは、大蛇(自然)の力から剣(レガリア)を取り出すスサノオのように、宿神が荒々しい自然から美や富を人間の社会に持ち込む離れ業を演じる霊であったことによるという。すなわち天皇の権力は、芸能者や職人の日々行う業と似通った性格となっている[48]。
『明宿集』は、星宿神を北極星とし、「翁」を宿神と呼ぶことは太陽・月・星宿の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王を鳥に喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている[49]。また、本地垂迹はすべて本体は一つであり、不増不減、常住不滅の一つの神に集約されるともいう[50]。『明宿集』の末尾では、翁とは日月星宿がすべての人の心に宿ったものであり、俗体は翁の化身であり、それを知っていると知らないとの違いがあると説かれている[51]。
天皇は、律令制という合理的制度が導入された以後も、自然の内奥との深い結び付きを主張する王の宿神的身体(翁的身体)を、あるいは「王の熊の身体」を、様々な宗教儀礼や神話的観念を通して維持しようとしてきた[52](神やカムイという言葉は、熊や狼のような強力な森の住人を指していた[53])。特に古代的天皇の復活を目指した後醍醐天皇による建武の中興では、密教の道具立てを使って、自然の内奥から超越的主権を取り出してくる異形の王としての天皇、という大規模な演出まで試みられた。網野善彦の『異形の王権』はこの問題を主題としている[54]。
天皇の歴史
『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、学問上確定できないとしている。『古事記』『日本書紀』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、皇統譜で神武天皇を第一代とし弘文天皇を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。継体天皇と安閑天皇・宣化天皇との両朝併立を推定する学説を除いても、後鳥羽天皇と安徳天皇は一時期相並んで天皇とされており、南北朝時代には、北朝の光明・崇光・後光厳・後円融・後小松(南北合体以前)各天皇と、南朝の後醍醐・後村上・長慶・後亀山各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた[13]。
大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される。三輪王朝・河内王朝など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を応神天皇の子孫とする系譜の信用性を疑う学説もある。6世紀初頭の武烈天皇の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。皇位継承の資格は父系血族であれば足り、傍系や女性で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した制度や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、8世紀以後は天皇生前の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。天武天皇が内乱(壬申の乱)の勝者として、先帝天智天皇の子大友皇子を倒して天皇となった例や、淳仁天皇・陽成天皇・仲恭天皇のように、それぞれ太上天皇・摂政・幕府の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・光厳天皇の交替、南北両朝への分裂のように、武力抗争に基づく非常事態の発生もある[13]。
天皇がいつどのように成立したかは、現在の学界では学説が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす大王が遅くとも5世紀にはのちの畿内の地の政権の首長として存在したこと、その後、7世紀にかけて勢力圏を拡大し、はじめは毛野・吉備・出雲・筑紫その他の各地政権と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から8世紀初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている。『古事記』『日本書紀』が伝える物語は、歴史的事実や慣行習俗をいくらか反映しているにせよ、その基本構想は大王政権が君主の地位を得た後に、その支配権を正当化するため造作され、記紀成立まで潤色が重ねられたこと、神武天皇が日向から大和に入り、その地の支配者を破って第一代の帝位についたという説話もまた、「神代」の延長線上に造られた物語であること、綏靖天皇から開化天皇までの八代は、その名号・相続方式などから実在の人物と認めがたいこと、以上は「現在の学界でほぼ共通の認識」とされている[13]。
神代と天皇の発祥
皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話・伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に欠史八代の天皇については、古代中国の革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄である。
3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、弥生時代の近畿地方にあった場合の邪馬台国の卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。[要出典]
古代の天皇
倭の五王
中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等に比定する説や仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。
これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて(百済以外の)朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」(おおきみ)が用いられていたと考えられている。
『宋書』には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。
皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。
ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。
もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。[55]
この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇・顕宗天皇が皇位を継いだとされているが、実際は皇位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。
また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が皇位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、皇統交代があったとする説もある。
しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が大王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で大王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。
以降
不安定な基盤に乗っていた皇統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。[要出典]
この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称した[56]と『隋書』に見える。
大化の改新から摂関政治まで
天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。
律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。
摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。
もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。
これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。
院政期
平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。
後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。
この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。
治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。
後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。
院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
鎌倉・室町時代
中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。
しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。
鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝が南朝を吸収することで収拾された。なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。
また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞しており、真相は定かではない。
戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。
江戸時代
江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。
しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道・俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名の官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。
しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末の尊皇攘夷運動へと繋がった。
明治維新
幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。
このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。
その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。
戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。
なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制および皇室というしくみ自体を指して、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられており、通常「王制」あるいは「君主制」などと同様の性質を持つ用語として扱われる。そのいっぽう、この言葉を最初に使いはじめたのがコミンテルンであるという説から、反共的な政治思想を持つ立場からは使用を忌避されることがある。戦前は国体と称された。
一方、海外から見た別の視点もある。権力が将軍制度に移ってから1868年までの間、世に知れずに続いてきた貧困な皇族は、薩長土肥が武装反乱を正当化するために、「日本の天皇は神」という8世紀の神話の再興によってその革命政権の表看板になった。そして、現人神としての天皇が強調され、新しい公立学校教育システムの核として思想教化されていった。[57]
1898年(明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井・三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。
1901年〈明治34年〉4月29日、裕仁親王(のちの昭和天皇)が誕生。
1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。
大正
その後、2度にわたる護憲運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。
しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。
昭和
1933年〈昭和8年〉12月23日、昭和天皇初の皇男子である明仁親王(のちの第125代今上天皇)が誕生。
1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。
世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。
この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは太平洋戦争(大東亜戦争)時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。
第二次世界大戦終結後
第二次世界大戦の終戦後、連合国 (UN) の間では天皇を、枢軸国の国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても君主制を存続させたが、国家元首としての地位は日本国憲法に明記させていない。
これと似たような例があり、ベルギーの場合レオポルド3世は対独戦での敗戦の責任を追及されて国王支持派と反国王派に分かれたため、国家の分裂を避けて君主制を維持するためボードゥアン1世に王位を継承した。しかし日本の皇室との最大の違いは在命中に退位した事である。
昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書を策定した。また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、津田左右吉なども天皇自体の存在は否定しないと言明した。天皇の廃位を唱える見解や昭和天皇の退位と高松宮を摂政として皇太子の即位により元号を改正するのが妥当とする意見を昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王、要人では近衛文麿・木戸幸一・南原繁・佐々木惣一・中曽根康弘が唱えたが、一部にすぎなかった。昭和天皇自身は退位の意向を示したが、かえって戦争責任を認めることになるとして周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂とダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた[58]。
天皇退位論への反応は天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった[59]。
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。 1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており[60][61]、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった[60][62][63]。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけあり天皇の神話そのものは否定していない[60]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された[60]。1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった[60]。
昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。(昭和天皇#行幸)。
日本国憲法下の天皇の法的地位
国籍
研究者による憲法論においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[64]。記帳所事件における1989年(平成元年)7月19日の東京高裁判決では「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」と判断されている。
天皇に対する裁判権
刑事裁判権については、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定することから、いわゆる勿論解釈として、天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。
民事裁判権については、1989年(平成元年)11月20日の記帳所事件における最高裁判決で
天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである
としている。
天皇と世界各国
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天皇の外国訪問は国事行為の臨時代行に関する法律が整備されておらず長年実現されていなかったが、1971年(昭和46年)、昭和天皇が天皇として初めて外遊し、イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待により、天皇として初のアメリカ合衆国公式訪問をした。第125代今上天皇も1991年(平成3年)にタイ王国などを訪問したのを始め、年に1、2回のペースで海外訪問している。
第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝のハイレ・セラシエ1世、1957年(昭和32年)にインドのジャワハルラール・ネルー首相、1958年(昭和33年)にインドネシアのスカルノ大統領、1960年(昭和35年)にアデナウアー西独首相の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[65]。
昭和天皇の大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。ベルギー・ブータン・ブルネイ・ヨルダン・レソト・ニジェール・トンガの国王、バングラデシュ・ブラジル・ブルンディ・ジブティ・エジプト・フィジー・フィンランド・フランス・ガンビア・ドイツ連邦共和国・ギリシャ・ホンデュラス・アイスランドインド・インドネシア・アイルランド・イスラエル・イタリア・ケニア・モルディヴ・ミクロネシア連邦・ナイジェリア・パキスタン・フィリピン・ポルトガル・スペイン ・スワジランド・トーゴ・テュニジア・トルコ・ウガンダ・タンザニア・アメリカ合衆国・ヴァヌアツ・ザイール・ザンビアの大統領・首相、国際連合の事務総長が参列した。[66]
天皇と組織
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宮内庁
宮内庁[67](くないちょう、英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。
なお、宮内庁はかつて総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)[68]。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ宮内省が設置された。1947年には宮内府となり、さらに1949年に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。
幹部
内部部局
皇宮警察本部
皇宮警察本部[69](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[70]。天皇及び皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[70]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。
本部長は、皇宮警視監の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。
本部の紋章は五三桐である。桐紋は菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署が設置されている。[71][72]。
役職
天皇についての学術的言説
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- ベン=アミー・シロニー(歴史学者):
天皇と課題
皇位継承権論争
注釈
出典
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- ^ 宮内庁公式ホームページ
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- ^ 皇宮警察本部
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- ^ 皇宮警察本部とは
- ^ 平成25年警察白書 P201「皇宮警察本部の活動」
- ^ 長野五輪 天皇陛下の名誉総裁就任を発表 宮内庁
- ^ 下中 邦彦 編『平凡社大百科事典』 10巻(初版)、平凡社、1985年、388頁。ASIN B000J6VWO8。
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参照文献
関連項目
外部リンク
天皇
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