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しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王は、姓を有していたとされる。[[5世紀]]の[[倭の五王]]が、倭讃、倭済などと称したことが『[[宋書]]』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、[[宋 (南朝)|宋]]との冊封関係を結ぶ上で、[[ヤマト王権]]の王が姓を称する必要があったのだと考えられている<ref name="yoshida">吉田孝 『日本の誕生』 [[岩波書店]]<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101</ref><ref>吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 [[角川書店]]<角川選書>、2005、ISBN 4047033731</ref>。
しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王は、姓を有していたとされる。[[5世紀]]の[[倭の五王]]が、倭讃、倭済などと称したことが『[[宋書]]』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、[[宋 (南朝)|宋]]との冊封関係を結ぶ上で、[[ヤマト王権]]の王が姓を称する必要があったのだと考えられている<ref name="yoshida">吉田孝 『日本の誕生』 [[岩波書店]]<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101</ref><ref>吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 [[角川書店]]<角川選書>、2005、ISBN 4047033731</ref>。


また、『[[隋書]]』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、[[7世紀]]初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある<ref name="yoshida"/>(ただし、中国にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、中国の[[冊封体制]]から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ[[5世紀]]末から[[6世紀]]前半までの間に放棄されたとする説も提出されている<ref name="yoshida"/>。
また、『[[隋書]]』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、[[7世紀]]初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある<ref name="yoshida"/>(ただし、中国にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、中国の[[冊封体制]]から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ[[5世紀]]末から[[6世紀]]前半までの間に放棄されたとする説も提出されている<ref name="yoshida"/>。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり<sup>[[多利思比孤#cite%20note-8|[8]]][[多利思比孤#cite%20note-9|[9]]]</sup>、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「[[天子]]」(『[[通典]]』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる<sup>[[多利思比孤#cite%20note-10|[10]]]</sup>。一方で、[[熊谷公男]]は『[[万葉集]]』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く '''天足らしたり'''」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している<sup>[[多利思比孤#cite%20note-11|[11]]]</sup>(この説は[[森田悌]]も支持している<sup>[[多利思比孤#cite%20note-12|[12]]]</sup>)。森田悌は[[邪馬台国]]の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし<sup>[[多利思比孤#cite%20note-13|[13]]]</sup>、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている<sup>[[多利思比孤#cite%20note-14|[14]]]</sup>(また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。王仲殊も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする<sup>[[多利思比孤#cite%20note-15|[15]]]</sup>。


吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている<ref name="yoshida"/>。
吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている<ref name="yoshida"/>。

2019年7月22日 (月) 07:45時点における版

皇室
日本の旗 日本
創設 伝・神武天皇即位元年1月1日
紀元前660年2月11日
家祖 神武天皇
(初代天皇)
現当主 徳仁
(第126代天皇)
(在位:2019年5月1日 - )
民族 日本人大和民族
皇室






皇居・正門石橋
2019年(令和元年)5月4日撮影

皇室(こうしつ、: Imperial House of Japan)は、日本天皇および皇族の総称[1]

狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。

近代(明治維新)以降は、天皇・皇后と内廷皇族を家族とする内廷と、皇太子皇太子妃とその未婚の子女[2]以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。

概要

剣璽等承継の儀
1989年(昭和64年)1月7日
三種の神器(イメージ)時計回りに 草薙剣八咫鏡八尺瓊勾玉

皇室の身位には天皇、皇室典範第5条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王女王がある。親王妃王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法旧皇室典範施行下)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。

一般人(皇室に嫁ぐのに国籍条項はない。外国籍の女性と結婚した場合日本国籍を有しない皇族が誕生する可能性あり)の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる(臣籍降下)。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の男性と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降嫁)。

1392年南北朝合一以来、今日まで続く皇統は北朝持明院統、および北朝第三代崇光天皇の皇子・栄仁親王が創設した伏見宮の流れを汲んでいる。 また江戸時代後期の閑院宮東山天皇の第六皇子・直仁親王が創設)出身である光格天皇(直仁親王の孫)が践祚して以降、今上天皇(徳仁)までの歴代天皇は全て1親等の直系(親子関係)で皇位が継承されている。

東洋史学岡田英弘によると、712年に完成した日本最古の史書『古事記』及び、720年に完成した日本最古の官撰書『日本書紀』では、「高天原」より日向高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神天照大御神の孫邇邇芸命(天孫)の曾孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされている[3]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[4]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立[5]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[6]。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、文献に「天皇」の文字が現れたのは7世紀である[7]

一般国民との相違

皇室の構成員である天皇および皇族は、日本国憲法第10条に規定される「日本国民」ではない。一般国民が持つ戸籍ではなく「皇籍を有する者」であり、「皇統譜」にその名が記される。

皇統譜の人名は「称号+名+身位」で構成され、氏(苗字)を持たない。例えば、今上天皇(第126代)と皇后雅子の第一皇女子の敬宮愛子内親王の「敬宮」(としのみや)はあくまで「称号」であり「苗字」ではなく、内親王は身位である(詳細後述)。なお、天皇については、「日本国籍を有している」という前提で、天皇が「主権者としての国民」であるか否かが論じられ、憲法論の皇統譜についての箇所に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」と記載されている[8]

また、皇室には国民に保障されている人権が存在しない[9]とされることもある。奴隷的拘束や苦役からの自由(憲法第18条)、居住移転の自由、職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由(憲法第22条)等がない皇室の在籍者は、24時間体制で公私に関係なく所在や行動の目的を監視され、外出時も必ず皇宮警察皇宮護衛官あるいは訪問する都道府県警察警視庁および各道府県警察本部)所属の警察官による警護の下で行動しなければならないため、物品の購入方法は外出が不要な百貨店のカタログ持参による外商Amazonのような通信販売を用いることが殆どである。

また、Amazonなどの通信販売サービスの利用については宮内庁職員や私的使用人の名前で注文し、商品受取時に本人が対応することは一切ない。皇室の私的な交際相手であっても国民であれば、皇室の在籍者と電話インターネット経由の連絡までは頻繁に行えるが、対面で会話する機会は殆ど無い[10]

宗教面では、皇室内での信仰がどうであれ、信教の自由(憲法第20条)がない天皇は日本神話により天照大神の子孫とされ、宮中祭祀などの神儀祭事は神道に則って行う必要がある[11]

生活面で、日常の食事は宮内庁大膳課の料理長が皇室専属の医師と相談しながら、1日の摂取カロリーの上限を1800kcalとし、栄養価を計算した献立で作るため、品数が少ない質素であるとされている[12]。献立は「和食」と「洋食」を採用している。日本の食文化では定番である「中華料理」が食卓に上ることは殆どないと言う[13]

経済面において、皇室は皇室経済法の規定により国庫から支払われる「皇室費」を収入として生活しており、公的な活動に掛かる費用は「宮廷費」で賄い、私的な費用は、天皇・皇后と皇太子一家の場合は「内廷費」で、その他の宮家は「皇族費」で賄っている。例えば、秋篠宮家には、年間6710万円の皇族費国庫から支払われている(平成時代の場合)。警備上の理由により、皇室の在籍者はアルバイトをすることができない[14]

一般国民が婚姻などで戸籍を離れ皇籍に属し皇室の一員になった場合、上記の規則が課される事になる。

皇室の構成

新天皇即位を祝う一般参賀に姿を見せる皇室の構成員たち。ただし上皇・上皇后は出席していない。
2019年(令和元年)5月4日、宮殿東庭から長和殿を撮影。

以下、2019年令和元年)5月1日現在で構成員は18名。

内廷

天皇皇后皇居内に常時の住居である御所を構える(現在、天皇・皇后夫妻とその第一皇女子の敬宮愛子内親王は赤坂御用地にある「赤坂御所」を住居とし、皇居の「御所」には上皇・上皇后夫妻が居住する)。

宮内庁には、内部部局である侍従職が天皇・皇后とその未婚の子女に関する事務を扱う機関として、上皇職上皇および上皇后に関する事務を扱う機関として、それぞれ設置される。

天皇・皇后・皇女

身位 御名 読み 性別 生年月日 現年齢 今上天皇から
見た続柄
天皇
(第126代天皇
徳仁 なるひと 男性 1960年(昭和35年)
2月23日
64歳 本人
皇后 雅子 まさこ 女性 1963年(昭和38年)
12月9日
60歳
内親王 愛子 あいこ 女性 2001年(平成13年)
12月1日
22歳 第一子・長女・第一皇女子
出典[15]

上皇・上皇后

身位 御名 読み 生年月日 現年齢 今上天皇から
見た続柄
上皇
(第125代天皇)
明仁 あきひと 1933年(昭和8年)12月23日 90歳 実父
上皇后 美智子 みちこ 1934年(昭和9年)10月20日 89歳 実母

秋篠宮家

秋篠宮家の紋

上皇明仁所生の直宮家、筆頭宮家。当主の秋篠宮文仁親王は、皇嗣

宮邸は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内に所在。1997年平成9年)3月からは、旧秩父宮・宮邸を使用している。

御名 読み 身位 性別 生年月日 現年齢 今上天皇から
見た続柄
皇位継承
順位
文仁
ふみひと 親王 男性 1965年(昭和40年)
11月30日
58歳 皇弟 第1位
紀子
きこ 親王妃
(秋篠宮妃)
女性 1966年(昭和41年)
9月11日
57歳 義妹
ファイル:Princess Mako on the birthday of the reigning Emperor, 2016.jpg 眞子 まこ 内親王 女性 1991年(平成3年)
10月23日
32歳 皇姪 /
文仁親王第一王女子
ファイル:Princess Kako of Akishino-dec23-2016.jpg 佳子 かこ 内親王 女性 1994年(平成6年)
12月29日
24歳 皇姪 /
文仁親王第二王女子
悠仁 ひさひと 親王 男性 2006年(平成18年)
9月6日
17歳 皇甥 /
文仁親王第一王男子
第2位
出典[16]

常陸宮家

常陸宮家の紋

昭和天皇所生の直宮家。宮邸は東京都渋谷区(旧・常磐松町)の常盤松御用邸。

御名 読み 身位 性別 生年月日 現年齢 今上天皇から見た続柄 皇位継承
順位
正仁 まさひと 親王 男性 1935年(昭和10年)
11月28日
88歳 皇叔父 /
昭和天皇の第二皇男子
上皇明仁の実弟
第3位
華子 はなこ 親王妃
(常陸宮妃)
女性 1940年(昭和15年)
7月19日
83歳 上皇明仁の義妹
出典[17]

三笠宮家

三笠宮家の紋

大正天皇所生の直宮家。寛仁親王妃信子とその子女は寛仁親王家として皇室経済法で宮家としての扱いを受けていたが、寛仁親王の薨去に伴い合流となった[18][19]。当主であった崇仁親王はすでに薨去している。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の三笠宮・宮邸。

御名 読み 身位 性別 生年月日 現年齢 今上天皇から見た続柄 皇位継承
順位
百合子 ゆりこ 親王妃三笠宮妃) 女性 1923年(大正12年)
6月4日
100歳
信子 のぶこ 親王妃(寛仁親王妃) 女性 1955年(昭和30年)
4月9日
69歳
彬子 あきこ 女王 女性 1981年(昭和56年)
12月20日
37歳 皇再従妹/ 大正天皇の皇曾孫
/寬仁親王第一王女子
瑤子 ようこ 女王 女性 1983年(昭和58年)
10月25日
40歳 皇再従妹/ 大正天皇の皇曾孫
/寬仁親王第二王女子
出典[20]

高円宮家

高円宮家の紋

三笠宮崇仁親王の第三王子の高円宮憲仁親王が創設した宮家。憲仁親王は既に薨去しており、男子の後継者がいないため、妃の憲仁親王妃久子が宮家の当主を務める。2014年(平成26年)に典子女王が婚姻により皇籍を離脱し、2018年(平成30年)に絢子女王が婚姻により皇籍を離脱した。宮邸は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内の高松宮・宮邸。

御名 読み 身位 性別 生年月日 現年齢 今上天皇から見た続柄 皇位継承
順位
久子 ひさこ 親王妃高円宮妃) 女性 1953年(昭和28年)
7月10日
70歳
承子 つぐこ 女王 女性 1986年(昭和61年)
3月8日
33歳 皇再従妹/ 大正天皇の皇曾孫
/憲仁親王第一王女子
出典[21]

戦後断絶した宮家

戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下での11宮家の皇籍離脱後(=旧皇族)、大正天皇の男系子孫とその家族のみが皇族として残った。このうち、秩父宮高松宮桂宮の三家は、宮家成員の全員が薨去したことにより断絶し、消滅した。

読み 当主 創設 断絶[22][23] 備考
秩父宮家 ちちぶ 秩父宮雍仁親王
雍仁親王妃勢津子
1922年(大正11年)6月25日 1995年(平成7年)8月25日 伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のひとつ。
高松宮家 たかまつ 高松宮宣仁親王
宣仁親王妃喜久子
1913年(大正2年)7月6日 2004年(平成16年)12月18日 伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のひとつ。
有栖川宮家の祭祀や資産を継承しており、
妃喜久子は同じ弟宮家である常陸宮家の妃華子有栖川流を伝授している。
桂宮家 かつら 桂宮宜仁親王 1988年(昭和63年)1月1日 2014年(平成26年)6月8日 桂宮宜仁親王が独身で創設した、最初で最後の宮家。

皇室の構成図

[24]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
 
貞明皇后
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇
 
香淳皇后
 
 
 
秩父宮
雍仁親王
 
雍仁親王妃
勢津子
 
 
 
 
高松宮
宣仁親王
 
宣仁親王妃
喜久子
 
 
 
三笠宮
崇仁親王
 
崇仁親王妃
百合子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇明仁
 
上皇后美智子
 
常陸宮
正仁親王
 
正仁親王妃
華子
 
五女[25]
 
寛仁親王
 
寛仁親王妃
信子
 
桂宮
宜仁親王
 
高円宮
憲仁親王
 
憲仁親王妃
久子
 
二女[26]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上天皇
徳仁
 
皇后雅子
 
秋篠宮
文仁親王
 
文仁親王妃
紀子
 
黒田清子
 
彬子女王
 
瑶子女王
 
 
 
 
承子女王
 
千家典子
 
守谷絢子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬宮愛子
内親王
 
眞子内親王
 
佳子内親王
 
悠仁親王
 

最近誕生した皇室の子女

誕生 年齢 性別 続柄 皇位継承順位
1948年(昭和23年)02月11日 桂宮宜仁親王 (故人) 男子 三笠宮崇仁親王第2王男子 -
1951年(昭和26年)10月23日 容子内親王 72歳 女子 三笠宮崇仁親王第2王女子 -
1954年(昭和29年)12月29日 高円宮憲仁親王 (故人) 男子 三笠宮崇仁親王第3王男子 -
1960年(昭和35年)02月23日 天皇徳仁 64歳 男子 上皇明仁第1皇男子 -
1965年(昭和40年)11月30日 秋篠宮文仁親王 58歳 男子 上皇明仁第2皇男子 第1位
1969年(昭和44年)04月18日 紀宮清子内親王 55歳 女子 上皇明仁第1皇女子 -
1981年(昭和56年)12月20日 彬子女王 42歳 女子 寬仁親王第1女子 -
1983年(昭和58年)10月25日 瑶子女王 40歳 女子 寬仁親王第2王女子 -
1986年(昭和61年)03月08日 承子女王 38歳 女子 高円宮憲仁親王第1王女子 -
1988年(昭和63年)07月22日 典子女王 35歳 女子 高円宮憲仁親王第2王女子 -
1990年(平成02年)09月15日 絢子女王 33歳 女子 高円宮憲仁親王第3王女子 -
1991年(平成03年)10月23日 眞子内親王 32歳 女子 秋篠宮文仁親王第1王女子 -
1994年(平成06年)12月29日 佳子内親王 29歳 女子 秋篠宮文仁親王第2王女子 -
2001年(平成13年)12月01日 敬宮愛子内親王 22歳 女子 天皇徳仁第1王女子 -
2006年(平成18年)09月06日 悠仁親王 17歳 男子 秋篠宮文仁親王第1王子 第2位

皇室旗

この他、上皇の使用する上皇旗がある。上皇旗は、大きさ、菊紋は天皇旗と同様だが、旗地はより濃い赤である。

宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。

宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。

宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。

当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。

宮家 読み 現当主 創設 創設者 現人数 備考
秋篠宮 あきしの 文仁親王 1990年(平成02年)06月29日 上皇(第125代天皇明仁)第二皇男子文仁親王 4人 直宮家
常陸宮 ひたち 正仁親王 1964年(昭和39年)09月30日 昭和天皇第二皇男子正仁親王 2人 直宮家
三笠宮 みかさ 崇仁親王妃百合子 1935年(昭和10年)12月02日 大正天皇第四皇男子崇仁親王 4人 直宮家
高円宮 たかまど 憲仁親王妃久子 1984年(昭和59年)12月06日 崇仁親王第三男子憲仁親王 2人

皇室の儀式

皇室の儀式は皇室令で細かく規定され、現日本国憲法下で廃止された現在でも基本的には概ねこれに従って行われる。皇室の儀式には日本国憲法第7条で定めている国事行為の儀式と皇室の私事で行われる私的行為の儀式に区別される。

皇室の活動

天皇が行幸等する場合は国外であっても三種の神器である八尺瓊勾玉を携帯する。戦後の人間宣言後に昭和天皇による地方巡幸が行われたが、この様な大規模な巡幸はあまり行われることはない。

宮中の公務

国事行為
日本国憲法第6条および第7条により、天皇が行う。また、皇族の中から摂政、もしくは国事行為臨時代行を置き、代行させることができる。
一般参賀
2012年(平成24年)
新年一般参賀
新年祝賀と天皇誕生日祝賀に際し、皇居において一般参賀を行う。天皇と皇族が皇居長和殿のベランダに出て祝賀を受ける。なお三権の長を招いて行う「新年祝賀の儀」は国事行為に該当する儀式だが、この「新年一般参賀」は国事行為以外の公務とされている。
園遊会
天皇皇后主催の社交の会。毎年、の 2回、赤坂御苑において催される。

宮中祭祀

五穀豊穣や国家国民の安寧を祈るものである。代表的なものは主に現在の祝日(春分の日春季皇霊祭など)にあたる日に行われている。

行幸・行啓

急遽、戦災(東京大空襲)や被災した地域に行幸することがしばしばあるが、一般にかねてより計画されたものとなる。

国際親善

各国君主制国家の王室との関係は親密である。取り決めによってそれぞれの王室に不幸があった場合、半旗を掲げることと、服喪することが慣例になっている。

天皇の国事行為の「外国の外交官の接受」の一環である「信任状奉呈式」に際しては、皇室の馬車での送迎を認めている。馬車を使用した場合、東京駅から皇居宮殿御車寄までの道のりになる。自動車での送迎も可能であるが、馬車を希望する大使が多いと言われる。皇室の馬車による送迎は各国親善に役立っているという(宮内庁ホームページ)。2007年(平成19年)8月、馬インフルエンザの影響により馬車による送迎が見送られた事がある。

国民との関わり

皇室行事

明治天皇及び過去の天皇の巡行にならい、昭和天皇以降も全国への「巡幸」が行われている。 主に式典の主賓としての列席及び祝辞、弔辞、開会または閉会の「おことば」として挨拶をするなどが代表的な活動といえる。更に、医療社会福祉施設児童施設への訪問や戦没者などへの慰霊碑などへの参拝も積極的にこなしている。

一般参賀

新年の一般参賀は正月に皇居において天皇はじめ皇族が5回程度、長和殿に「お出まし」として姿を現し、国民の参賀を受ける。又、天皇誕生日にも同様、一般参賀が行われる。ちなみに、宮内庁の発表によれば、2008年(平成20年)度は過去最高の2万2655人が参賀した。この一般参賀の参列者の多くは日章旗小旗を片手に振りながら拍手で出迎えるのが恒例となっている。

歌会始

皇室の行事の一つで新年を賀するために宮中で行われる和歌の会。一定の題にしたがって国民からの詠進歌を募集している。

勤労奉仕

宮内庁では、「勤労奉仕」(きんろうほうし)の名でボランティア活動として「国民の自主的な意思に基づく無給奉仕による皇居および赤坂御用地清掃活動への参加」を受け付けている。

参加に要する交通費および宿泊費などは自己負担である。主に希望者は複数名からなる団体として申し込みをし、国民の祝日が重複していない平日の連続する4日間(月・火・水・木曜日または火・水・木・金曜日)で清掃活動を行うことになっている。基本的には4日間のうち、3日間は皇居、1日間は赤坂御用地で作業する。主な内容は敷地内の除草清掃庭園作業などである。また、宮内庁職員による、普段は関係者以外は立入不可である敷地内の案内を受けることができる。多数応募がある場合は抽選となる。毎年、全国47都道府県から、学校関係の団体、地域の婦人会など多数の申し込みがある。

これは、1945年昭和20年)の敗戦直後に宮城県民の有志「皇国奉仕団(みくにほうしだん)」が「皇居の荒れ様に心を痛めて始めたのが興り」といわれる。

この勤労奉仕の参加者には、公務に差し支えがなく非常事態などで控えられない限り、天皇皇后及び皇太子皇太子妃より「ご会釈」を賜る(面会と挨拶伝達)ことができる。また、参加最終日には記念品として、以前は恩賜のたばこが授与されたが、2018年(平成30年)現在では、和菓子が授与されている。

皇居参観

宮内庁では、事前の予約に基づき、皇居をはじめ京都御所仙洞御所桂離宮などの参観を許可している。また、日本人のみならず訪日外国人観光客にとっても人気のある観光スポットにもなっている。

年間主要祭儀

詳細は「宮中祭祀」及び各項を参照

祭儀[27]
1月 1日 四方拝
歳旦祭
新年祝賀の儀
2日 新年一般参賀
3日 元始祭
4日 奏事始
7日 先帝祭昭和天皇祭)
30日 孝明天皇例祭
2月 17日 祈年祭
23日 天長祭(天長節祭)
3月 春分の日 春季皇霊祭
春季神殿祭
4月 3日 神武天皇祭
皇霊殿御神楽
6月 16日 香淳皇后例祭
30日 節折
大祓
7月 30日 明治天皇例祭
9月 秋分の日 秋季皇霊祭
秋季神殿祭
10月 17日 神嘗祭
11月 23日 新嘗祭
12月 中旬 賢所御神楽
25日 大正天皇祭
31日 節折
大祓

皇室用財産

皇室用財産とは国において皇室の用に供し、又は供するものと決定したもののこと(国有財産法第3条第2項第3号)[28]

名称 主な施設 土地
(千m2)
建物[29]
(千m2)
所在地 位置
皇居 宮殿御所吹上大宮御所宮中三殿など 1150 107 東京都千代田区千代田 北緯35度40分57秒 東経139度45分7.56秒
赤坂御用地 東宮御所秋篠宮邸・三笠宮邸・高円宮邸 ・赤坂東邸・赤坂御苑など 508 22 東京都港区元赤坂 北緯35度40分43秒 東経139度43分30.6秒
京都御所 紫宸殿清涼殿・小御所・御学問所・御常御殿など 201 16 京都府京都市上京区京都御苑 北緯35度1分31秒 東経135度45分44秒
常盤松御用邸 常陸宮 19 1 東京都渋谷区 北緯35度39分27秒 東経139度42分46.5秒
須崎御用邸 384 6 静岡県下田市 北緯34度40分6.9秒 東経138度58分32.1秒
御料牧場 高根沢御料牧場 2518 20 栃木県塩谷郡高根沢町 北緯36度36分9.2秒 東経140度00分18.3秒
葉山御用邸 95 3 神奈川県三浦郡葉山町 北緯35度15分40.7秒 東経139度34分41.4秒
新浜鴨場 195 1 千葉県市川市 北緯35度40分20.7秒 東経139度55分3.7秒
埼玉鴨場 116 1 埼玉県越谷市 北緯35度54分38.8秒 東経139度46分31.7秒
那須御用邸 6625 5 栃木県那須郡那須町 北緯37度5分16.7秒 東経140度1分25.2秒
高輪皇族邸 高松宮 19 3 東京都港区高輪 北緯35度38分27.4秒 東経139度44分9.7秒
修学院離宮 上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋など 544 1 京都府京都市左京区 北緯35度03分13秒 東経135度43分06秒
桂離宮 古書院・中書院・楽器の間・新御殿・松琴亭など 69 2 京都府京都市西京区 北緯34度59分2.4秒 東経135度42分34.4秒
正倉院 88 5 奈良県奈良市 北緯34度41分30.7秒 東経135度50分18.8秒
陵墓 武蔵野陵伏見桃山陵大仙陵古墳など計459箇所[30][31] 6516 6 東京都八王子市
京都市伏見区
大阪府堺市
ほか
武蔵野
伏見
大仙
19507 205
皇居の全景(東京都千代田区千代田、旧千代田区一番)。手前には、国民公園である皇居外苑(皇居前広場、旧・祝田町、宝田町、元千代田町)があり、広場を内堀通りが縦貫している。北の丸地区には北の丸公園があり、和田倉地区には上皇明仁・上皇后美智子の成婚を記念し、1961年(昭和36年)に開園した和田倉噴水公園もある。

省庁

宮内省

明治21年(1888年)の宮内省庁舎。ジョサイア・コンドル設計で関東大震災で焼失した。

宮内省(くないしょう、英語: Ministry of the Imperial Household)は、かつて明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐべく設置された、皇室関連の業務を行う省庁。1943年(昭和18年)には、職員が総勢6000人を上回っていた。また、親任官という、天皇が叙任し、内閣総理大臣の副署を必要とした高級官僚が9人いた。戦後、連合国軍占領下連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求により縮小され、職員は1500人まで削減された。これにともない大部分の業務は他部局に移管された。所在地は東京府東京市麹町区であった。

宮内省について、学術的に体系的に述べた本に、アメリカの日本研究家であるデイビッド・タイタスが書いた『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』(原題は、『Palace and Politics in Prewar Japan/戦前の宮殿と政治』)

幹部

内部部局(大臣官房・外局)

宮内庁

宮内庁庁舎。昭和10年(1935年)に建築された庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間、昭和天皇香淳皇后の仮宮殿として使用された。皇太子明仁親王同妃美智子(当時)の朝見の儀はここで執り行われた。

宮内庁[32](くないちょう、英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇国事行為にあたる外国大使公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。

なお、宮内庁はかつて総理府外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)[33]。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。

1947年(昭和22年)には宮内府(くないふ)となり、さらに1949年(昭和24年)に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁再編の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。

幹部

内部部局

皇室の予算

皇室費平成28年度予算案で約61億円。皇室費は内廷費宮廷費皇族費の三つに分かれている。(皇室経済法第3条)。また、宮内庁費は109億3,979万円。皇宮警察本部人件費は72億4500万円。[34]

内廷費
天皇内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成28年度は,3億2,400万円。内廷費として支出されたものは,御手元金となる。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。この内、約3分の1が人件費内廷で私的に雇われる職員)に、3分の2が物件費に使われる。[35]
皇族費
皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。平成28年度の皇族費の総額は,2億2,997万円。皇族費として支出されたものは,各皇族の御手元金となる。なお,皇族費には,皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金として支出されるものと皇族がその身分を離れる際に一時金として支出されるものもある(皇室経済法第6条)。
宮廷費
儀式国賓・公賓等の接遇,行幸啓,外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設の整備に必要な経費などで,平成28年度は,55億4,558万円。宮廷費は,宮内庁の経理する公金である(皇室経済法第5条)。

皇室経済会議

皇室経済に関する重要な事項の審議に当たるため、合議体の皇室経済会議が設置される。同会議の議員は、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣財務大臣宮内庁の長並びに会計検査院の長の8人。議長は内閣総理大臣。

皇室経済会議の主要な職務は次のとおり。

  • 皇族が独立の生計を営むことの認定
  • 皇族がその身分を離れる際に支出する一時金額による皇族費の金額決定
  • 内廷費・皇族費の定額の変更の必要を認める旨の意見の提出

現在の議員

皇室経済会議議員
氏名 職名 生年月日(年齢) 備考
額賀福志郎 衆議院議長 (1944-01-11) 1944年1月11日(80歳)
海江田万里 衆議院副議長 (1949-02-26) 1949年2月26日(75歳)
尾辻秀久 参議院議長 (1940-10-02) 1940年10月2日(83歳)
長浜博行 参議院副議長 (1958-10-20) 1958年10月20日(65歳)
岸田文雄 内閣総理大臣 (1957-07-29) 1957年7月29日(66歳) 議長
鈴木俊一 財務大臣 (1953-04-13) 1953年4月13日(71歳)
西村泰彦 宮内庁長官 (1955-06-29) 1955年6月29日(68歳)
田中弥生 会計検査院長 (1960-03-20) 1960年3月20日(64歳)

天皇・皇后として初めて洋装をした 明治天皇と昭憲皇太后 天皇・皇后として初めて洋装をした 明治天皇と昭憲皇太后
天皇・皇后として初めて洋装をした
明治天皇昭憲皇太后
即位直後の洋装の大正天皇と貞明皇后 即位直後の洋装の大正天皇と貞明皇后
即位直後の洋装の大正天皇貞明皇后
即位直後の昭和天皇と香淳皇后 即位直後の昭和天皇と香淳皇后
即位直後の昭和天皇香淳皇后
昭和天皇と香淳皇后 昭和天皇と香淳皇后
昭和天皇と香淳皇后
左側:1990年(平成2年)天皇明仁の即位の礼 右側:唐衣裳姿の皇后美智子(当時) 左側:1990年(平成2年)天皇明仁の即位の礼 右側:唐衣裳姿の皇后美智子(当時)
左側:1990年(平成2年)天皇明仁即位の礼
右側:唐衣姿の皇后美智子(当時)
1990年(平成2年)、
天皇明仁の大嘗祭

天皇と皇族が着用する被服(御服)は、皇室令「天皇ノ御服ニ関スル件」と同「皇族服装令」に規定があるが、西洋のノブレス・オブリージュの慣習に倣い、大日本帝国憲法下であった戦前の各皇族男子はほぼ軍務に服していたためそれぞれの大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍の服制によった。また、祭儀用の御服については、その儀式において一々に規定されており、現在も慣習としてこれを踏襲している。なお、皇族女子の御服は、朝議、祭儀用ともその祭儀に一々にして規定はあるが、それ以外は別段の規定はない。

天皇の服

下記の二種は、1945年(昭和20年)までの天皇の被服に関して記す。

陸軍式
正装(フロック形式正衣に前立を附する正帽)、礼服(フロック形式正衣に前立を附さない正帽)、通常礼服(軍衣、軍帽)、軍装、略装。
海軍式
正装(燕尾形式衣に黒色天鵞絨反り形帽子、大元帥佩刀)、礼装(フロック式礼衣に黒色天鵞絨反り形帽子、佩刀)、通常礼装(フロック形礼衣に軍帽、短剣)、軍装(第一種及び第二種)であり、略装は存在しない。

なお第二次世界大戦後、傍系宮家に属する皇族臣籍降下(皇籍離脱)以後、女性はもとより男性皇族が自衛官ないし自衛隊員として自衛隊陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊)の服務に従事するようなことはないため、天皇の御服として自衛官制服(他国における軍服)が使用されることはない。

装束

袞衣
袞衣(こんえ)は、天皇の最高礼装であり、歴代天皇の即位の礼や朝賀の際にのみ用いられた服であった。着用の際には冕冠を戴冠する。明治天皇即位の礼の際に廃止された。
御祭服(束帯
御祭服(ごさいふく)は、宮中祭祀の神事の中で、最も清浄にして神聖な御服であり、練らない白生絹で製作されたもので、大嘗祭の「悠紀主基(ゆきすき)両殿親祭」、年中降霊の神事では新嘗祭の時にだけ召される。冠は幘製の御幘の冠(おさくのかんむり)で、これらは天皇が未成年の場合には一切召すことができない。
帛御服(束帯、縫腋袍)
帛御服(はくのごふく)は、前者に次ぐ祭儀服で、純白無文、冠は立纓(冠の纓が前方に立っているもの)である。ただし、未成年時はこれらを召さず「空頂黒幘」を召す。即位の礼の一部と、大嘗祭の渡御のときにしか召されず、通常は用いられることはない。
黄櫨染御袍(束帯、縫腋袍)
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)は、年中の神事、皇室行事を通じて最も多く用いられる。鳳凰麒麟の地紋が表されている。袍は禁色黄櫨染であり、嵯峨天皇以来明治天皇までの御服であり袞衣が廃止されてからは、即位の礼など重要儀式で用いられる。
御直衣
御直衣(おのうし)は、皇室または国家の大事に際し、御奉告のため臨時に行う神宮、山陵への勅使発遣の儀、紀元節祭及び先帝祭の御神楽の儀等に用いられる。また毎月(一月一日を除く)の旬祭に御親拝の節もこの御服を召される。
御引直衣
御引直衣(おひきのうし)は、御袍の丈が長く、裾を三尺以上(1メートル以上)も長く引く。即位礼後神宮の礼、神武天皇山陵と前帝四代の山陵へ勅使発遣の儀に用いられる。
御小直衣
御小直衣(おこのうし)は、年中恒例行事の御祭儀では、六月、十二月の節折の儀式等に用いられる。

皇后・皇太后の服

御洋装と御儀服(御装束)の二種に分けられる。下記の二種は、1945年(昭和20年)までの皇后および皇太后の被服に関して記す。

御大礼服 - マント・ド・クールmanteau de cour
フランス語宮廷礼服を意味する。戦前までの宮中新年儀式(現・新年祝賀の儀)においてのみ用いられた、18世紀フランスルイ王朝時代の礼服。明治19年(1886年)6月23日、伊藤博文宮内大臣内達によって宮中における皇族女性の礼服として定められた。
御中礼服 - ローブ・デコルテrobe décolletée
御通常服 - ローブ・モンタントrobe montante

氏・姓・名字

日本の皇室は、紀元前660年神武天皇即位紀元元年)2月11日の初代・神武天皇即位以来、現在の日本国につながる国家が建国されて以来継続しているため、天皇および皇族は氏姓および名字を持たないとされる。なお、宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、あくまで宮家の当主個人の称号宮号)とされており、一般国民でいう苗字には当たらない

古代日本において、氏姓(しせい)、すなわち氏(ウジ)名と姓(カバネ)ヤマト政権大王(おおきみ、のちの天皇)が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(氏姓制度)。大王は、氏姓を与える超越的な地位にあり、大王に氏姓を与える上位の存在がなかったため、大王、そして天皇は氏姓を持たなかったとされる。このことは、東アジア世界において非常に独特なものである。また、このことは古代より現在に至るまで日本で王朝が変わったことがないことを示しているとされる。延久4年(1072年)に日本の仏教僧である成尋北宋神宗への謁見で「本国の王は何というか」と尋ねられた際に「本国の王に姓なし」と答えた文献がある。

しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王は、姓を有していたとされる。5世紀倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[37][38]

また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[37](ただし、中国にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[37]。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり[8][9]、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる[10]。一方で、熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している[11](この説は森田悌も支持している[12])。森田悌は邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし[13]、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている[14](また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。王仲殊も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする[15]

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[37]

最高敬語

御写真
写真。旧字体では「御寫眞」。官衙(役所・官庁)、学校等に下賜された天皇・皇后の写真ではなく、それ以前の天皇皇后である明治天皇昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后の写真をいう。また、各皇族の場合にも用いる。戦前、宮内省(現在の宮内庁)では「御寫眞」と発表していたが、巷間の「御真影」(ごしんえい)という名称も使用可である。
御影
天皇・皇后の写真。「ぎょえい」とよむ。1910年(明治43年)以降、文部省中央省庁再編後の文部科学省)の調査委員会で定め各学校に発布した。
御尊影、御尊像、御肖像
天皇、皇后、皇太后の写真。主として、新聞・雑誌に奉載したものをいう。
自尊敬語
天皇が一人称を使うときは「朕」を使う。戦後は「私(わたし、わたくし)」を使用している。

皇室会議

皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経る」または「議に拠る」こととされ、諮問機関とは一線を画する。

  1. 皇位継承の順序変更(皇室典範第3条)
  2. 立后と皇族男子の婚姻(同第10条)
  3. 皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条)
  4. 摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)
  5. 摂政の順序の変更(同第18条)

議員

皇室会議議員
氏名 身分 生年月日(年齢) 備考
皇嗣文仁親王 皇族 (1965-11-30) 1965年11月30日(58歳)
正仁親王妃華子 皇族 (1940-07-19) 1940年7月19日(83歳)
額賀福志郎 衆議院議長 (1944-01-11) 1944年1月11日(80歳)
海江田万里 衆議院副議長 (1949-02-26) 1949年2月26日(75歳)
尾辻秀久 参議院議長 (1940-10-02) 1940年10月2日(83歳)
長浜博行 参議院副議長 (1958-10-20) 1958年10月20日(65歳)
岸田文雄 内閣総理大臣 (1957-07-29) 1957年7月29日(66歳) 議長
西村泰彦 宮内庁長官 (1955-06-29) 1955年6月29日(68歳)
戸倉三郎 最高裁判所長官 (1954-08-11) 1954年8月11日(69歳)
深山卓也 最高裁判所判事 (1954-09-02) 1954年9月2日(69歳)

皇宮警察本部

皇宮警察本部[40](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[41]天皇及び皇后皇太子[2](皇嗣)その他の皇族護衛皇居及び御所警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[41]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。

本部長は、皇宮警視監階級皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。

本部の紋章は五三桐[42]である。桐紋菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。

皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地東宮御所・各宮邸等)及び常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。東京以外では、京都府には京都御所仙洞御所京都大宮御所桂離宮修学院離宮及び正倉院の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸栃木県の那須御用邸、御料牧場静岡県の須崎御用邸、奈良県正倉院には、皇宮護衛官派出所が置かれている[43][44]

皇室系図

今上天皇の男系直系祖先

1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇
11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇
29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇
58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇
74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇
北3 崇光天皇 栄仁親王 貞成親王 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王 典仁親王 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇
124 昭和天皇 125 上皇明仁 126 今上天皇

familytree形式

  • 各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
  • 太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
  • 赤色の囲みは女性を示す。
  • カッコ付きの太数字は天皇の代数。

天照大御神
 
 
 

天忍穂耳尊
 
 
 

瓊瓊杵尊
 
 
 

彦火火出見尊
 
 
 

彦波瀲武盧茲草葺不合尊
 
 
 
前711-前585
神武天皇
前660–前585(1)
 
 
 
前632-前549
綏靖天皇
前581–前549(2)
 
 
 
前577-前510
安寧天皇
前549–前510(3)
 
 
 
前553-前476
懿徳天皇
前510–前476(4)
 
 
 
前506-前393
孝昭天皇
前475–前393(5)
 
 
 
前427-前291
孝安天皇
前392–前291(6)
 
 
 
前342-前215
孝靈天皇
前290–前215(7)
 
 
 
前273-前158
孝元天皇
前214–前158(8)
 
 
 
前208-前98
開化天皇
前157–前98(9)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前148-前29
崇神天皇
前97–前29(10)
 
 
 
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前68–紀元後70
垂仁天皇
前29–70(11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前13–130
景行天皇
71–130(12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
82?–113?
日本武尊
 
84–191
成務天皇
131–191(13)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 148? –200
仲哀天皇
192–200(14)
 
 
 
 
170-269
神功皇后
摂政 201–269
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
200-310
應神天皇
270–310(15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
257–399
仁徳天皇
313–399(16)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 336? –405
履中天皇
400–405(17)
 
 336? –410
反正天皇
406–410(18)
 
 376? –453
允恭天皇
413–453(19)
 
忍坂大中姫
 
意富富杼王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
 
 
 
 
401-456
安康天皇
454–456(20)
 
418-479
雄略天皇
456–479(21)
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
440-484
飯豊青皇女
臨朝秉政 484
 
大脚 449-498
仁賢天皇
488–498(24)
 
450-487
顯宗天皇
484–487(23)
 
444-484
清寧天皇
480–484(22)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
489-507
武烈天皇
498–507(25)
 
手白香皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
450-531
繼體天皇
507–531(26)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
509-571
欽明天皇
540–571(29)
 
465-536
安閑天皇
531–536(27)
 
高田 467-539
宣化天皇
536–539(28)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
538-585
敏達天皇
572–585(30)
 
額田部 554-628
推古天皇
593–628(33)
 
 540? -587
用明天皇
585–587(31)
 
泊瀬部  553? –592
崇峻天皇
587–592(32)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子
 
 
 
 
 
574-622
厩戸皇子
聖徳太子
摂政 593-622
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽 596-654
孝徳天皇
645–654(36)
 
宝 594-661
皇極天皇
642–645(35)
齊明天皇
654–661(37)
 
 
 
田村 593-641
舒明天皇
629–641(34)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城 626-672
天智天皇
661–672(38)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大友 648-672
弘文天皇
672(39)
 
 
 
 
鸕野讚良 645-701
持統天皇
690–697(41)
 
 
 
大海人 631?-686
天武天皇
672-686(40)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
668?–716
志貴皇子
(春日宮天皇)
 
 
 
阿閇 661-721
元明天皇
707-715(43)
 
662–689
草壁皇子
(岡宮天皇)
 
 
676–735
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氷高 680-748
元正天皇
715–724(44)
 
珂瑠 683-707
文武天皇
697–707(42)
 
 
大炊 733-765
淳仁天皇
758–764(47)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
首 701-756
聖武天皇
724-749(45)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
? -790
高野新笠
 
白壁 709-782
光仁天皇
770–781(49)
 
717–775
井上内親王
 
阿倍 718-770
孝謙天皇
749–758(46)
称徳天皇
764–770(48)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山部 737-806
桓武天皇
(柏原帝)
781–806(50)
 
750?–785
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安殿 774-824
平城天皇
(奈良帝)
806–809(51)
 
神野 786-842
嵯峨天皇
809–823(52)
 
大伴 786-840
淳和天皇
(西院帝)
823–833(53)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正良 810-850
仁明天皇
(深草帝)
833–850(54)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道康 827-858
文徳天皇
(田邑帝)
850–858(55)
 
時康 830-887
光孝天皇
(小松帝)
884–887(58)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟仁 850-880
清和天皇
(水尾帝)
858–876(56)
 
定省 867-931
宇多天皇
887–897(59)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞明 869-949
陽成天皇
876–884(57)
 
敦仁 885-930
醍醐天皇
897–930(60)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛明 923-952
朱雀天皇
930–946(61)
 
成明 926-967
村上天皇
946–967(62)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲平 950-1011
冷泉天皇
967–969(63)
 
 
 
 
 
守平 959-991
圓融天皇
969–984(64)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師貞 968-1008
花山天皇
984–986(65)
 
居貞 976-1017
三條天皇
1011–1016(67)
 
 
 
懐仁 980-1011
一條天皇
986–1011(66)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1013-1094
禎子内親王
 
敦良 1009-1045
後朱雀天皇
1036–1045(69)
 
敦成 1008-1036
後一條天皇
1016–1036(68)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊仁 1034-1073
後三條天皇
1068–1073(71)
 
親仁 1025-1068
後冷泉天皇
1045–1068(70)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞仁 1053-1129
白河天皇
1073–1087(72)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善仁 1079-1107
堀河天皇
1087–1107(73)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仁 1103-1156
鳥羽天皇
1107–1123(74)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕仁 1119-1164
崇徳天皇
1123–1142(75)
 
 
 
雅仁 1127-1192
後白河天皇
1155–1158(77)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲仁 1161-1181
高倉天皇
1168–1180(80)
 
 
 
 
 
守仁 1143-1165
二條天皇
1158–1165(78)
 
1140-1202
藤原多子
 
体仁 1139-1155
近衞天皇
1142–1155(76)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1179-1223
守貞親王
(後高倉院)
 
言仁 1178-1185
安徳天皇
1180–1185(81)
 
尊成 1180-1239
後鳥羽天皇
1185–1198(82)
 
順仁 1164-1176
六條天皇
1165–1168(79)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂仁 1212-1234
後堀河天皇
1221–1232(86)
 
 
 
為仁 1196-1231
土御門天皇
1198–1210(83)
 
守成 1197-1242
順徳天皇
1210–1221(84)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀仁 1231-1242
四條天皇
1232–1242(87)
 
 
 
邦仁 1220-1272
後嵯峨天皇
1242–1246(88)
 
懐成 1218-1234
仲恭天皇
1221(85)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1242-1274
宗尊親王
1252-1266(鎌倉将軍6)
 
 
 
 
久仁 1243-1304
後深草天皇
1246–1260(89)
 
 
 
 
 
 
恒仁 1249-1305
龜山天皇
1260–1274(90)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1264-1326
惟康親王
1266-1289(鎌倉将軍7)
 
熈仁 1265-1317
伏見天皇
1287–1298(92)
 
 
 
1279-1308
久明親王
1289-1308(鎌倉将軍8)
 
 
 
世仁 1267-1324
後宇多天皇
1274–1287(91)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
胤仁 1288-1336
後伏見天皇
1298–1301(93)
 
富仁 1297-1348
花園天皇
1308–1318(95)
 
1301-1333
守邦親王
1308-1333(鎌倉将軍9)
 
邦治 1285-1308
後二條天皇
1301–1308(94)
 
尊治 1288-1339
後醍醐天皇
1318–1339(96)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量仁 1313-1348
光厳天皇
1332–1334(北朝1)
 
豊仁 1322-1380
光明天皇
1336–1348(北朝2)
 
 
 
義良 1328-1368
後村上天皇
1339-1368(97)
 
1308-1335
護良親王
征夷大将軍 1333-1334
 
1326-1338/1344
成良親王
征夷大将軍 1334-1338
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興仁 1334-1398
崇光天皇
1348–1351(北朝3)
 
弥仁 1336-1374
後光嚴天皇
1352–1371(北朝4)
 
寛成 1343-1394
長慶天皇
1368–1383(98)
 
熙成 1350?-1424
後龜山天皇
1383-1392(99)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1351-1416
伏見宮栄仁親王
 
緒仁 1339-1393
後圓融天皇
1371–1382(北朝5)
 
参照:
南朝北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1372-1456
伏見宮貞成親王
(後崇光院)
 
幹仁 1377-1433
後小松天皇
1382-1392(北朝6)
1392–1412(100)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦仁 1419-1471
後花園天皇
1428–1464(102)
 
躬仁 1401-1428
称光天皇
1412–1428(101)
 
 
 
 
 
 
 
成仁 1442-1500
後土御門天皇
1464–1500(103)
 
 
 
 
 
 
 
勝仁 1464-1526
後柏原天皇
1500–1526(104)
 
 
 
 
 
 
 
知仁 1497-1557
後奈良天皇
1526–1557(105)
 
 
 
 
 
 
 
方仁 1517-1593
正親町天皇
1557–1586(106)
 
 
 
 
 
 
 
1552-1586
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
和仁 1572-1617
後陽成天皇
1586–1611(107)
 
 
 
 
 
 
 
政仁 1596-1680
後水尾天皇
1611–1629(108)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興子 1624-1696
明正天皇
1629-1643(109)
 
紹仁 1633-1654
後光明天皇
1643–1654(110)
 
良仁 1638-1685
後西天皇
1655–1663(111)
 
識仁 1654-1732
靈元天皇
1663–1687(112)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝仁 1675-1710
東山天皇
1687–1709(113)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1704-1753
閑院宮直仁親王
 
慶仁 1702-1737
中御門天皇
1709–1735(114)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭仁 1720-1750
櫻町天皇
1735–1747(115)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1733-1794
閑院宮典仁親王
(慶光天皇)
 
遐仁 1741-1762
桃園天皇
1747–1762(116)
 
智子 1740-1813
後櫻町天皇
1762–1771(117)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英仁 1758-1779
後桃園天皇
1771–1779(118)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1780-1843
勧修寺婧子
 
師仁 1771-1840
光格天皇
1780–1817(119)
 
1779-1846
欣子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵仁 1800-1846
仁孝天皇
1817–1846(120)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
統仁 1831-1867
孝明天皇
1846–1867(121)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
睦仁 1852-1912
明治天皇
1867–1912(122)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉仁 1879-1926
大正天皇
1912–1926(123)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裕仁 1901-1989
昭和天皇
摂政 1921-1926
1926–1989(124)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明仁 1933-
上皇明仁
1989–2019(125)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳仁 1960-
今上天皇
2019– (126)
 
1965-
秋篠宮文仁親王
 
1969-
黒田清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2001-
愛子内親王
 
1991-
眞子内親王
 
1994-
佳子内親王
 
2006-
悠仁親王

関連項目

皇室を扱うメディア

脚注

  1. ^ 三省堂『大辞林 第三版』 皇室
  2. ^ a b 2019年令和元年)5月1日以降、不在。
  3. ^ 岡田英弘「第五章 最初の王朝」(『倭国』中央公論社,1977, pp.147-183)、「神話が作った大和朝廷」(『日本史の誕生』筑摩書房,2008)pp.245-267。
  4. ^ 平凡社, “神武天皇”, 『百科事典マイペディア』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-82633#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 2018年3月6日閲覧。 
  5. ^ 新田英治, “両統迭立”, 『日本大百科全書(ニッポニカ)』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E7%B5%B1%E8%BF%AD%E7%AB%8B-150055#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 2018年8月18日閲覧。 
  6. ^ VOYAGE GROUP朝日新聞社, “南北朝時代”, 『コトバンク』, VOYAGE GROUP・朝日新聞社, https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3-108982 2015年5月24日閲覧。 
  7. ^ フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典』 14巻(第2版改訂版)、ティビーエス・ブリタニカ、1993年、9頁。全国書誌番号:74006385 
  8. ^ 憲法(1) 第3版(有斐閣)野中俊彦 中村睦男 高橋和之 高見勝利 216頁 / 憲法 新版補訂版(岩波書店)芦部信喜 86頁 / 憲法学(2)人権総論(有斐閣)芦部信喜 106頁 115頁 / 憲法 第3版(弘文堂)伊藤正己 199頁 / 憲法 第3版(青林書院)佐藤幸治 415頁 / 体系・戸籍用語辞典(日本加除出版)114頁
  9. ^ 満, 倉山 (2019年4月1日). “皇族に人権はない。当たり前の事実を、日本人は忘れてしまったのか?/倉山満”. 日刊SPA!. 2019年5月4日閲覧。
  10. ^ 小室圭さん 「皇室のしきたり」を破り記者は顔色を変えた” (jp). オピニオンサイト「iRONNA(いろんな)」. 2019年5月5日閲覧。
  11. ^ “佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係? 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット) (20141030T070000+0900). 2019年5月5日閲覧。
  12. ^ 元「天皇の料理番」に聞いてみた!天皇陛下は普段のお食事で何を召し上がっているの?”. dogatch.jp. 2019年5月5日閲覧。
  13. ^ 2017/05/17 1分. “皇族のプライベート 私生活や食事はどうなっているのか?禁止事項や買い物・テレビについて”. 皇室の話題. 2019年5月5日閲覧。
  14. ^ 皇族の買い物事情 百貨店の外商が主流、Amazonもご利用”. NEWSポストセブン. 2019年5月5日閲覧。
  15. ^ 皇太子同妃両殿下-宮内庁”. 宮内庁. 2018年4月21日閲覧。
  16. ^ 秋篠宮家-宮内庁”. 宮内庁. 2018年4月21日閲覧。
  17. ^ 常陸宮家-宮内庁”. 宮内庁. 2018年4月21日閲覧。
  18. ^ “寛仁親王家廃止、5宮家に=1年前にさかのぼり-ご一家、三笠宮家でお世話・宮内庁”. 時事ドットコム (時事通信社). (2013年6月10日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013061000502 2013年6月10日閲覧。 
  19. ^ “寛仁親王家廃し三笠宮家に合流 逝去1年、当主決まらず”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年6月10日). http://www.asahi.com/national/update/0610/TKY201306100305.html 2013年6月10日閲覧。 
  20. ^ 三笠宮家-宮内庁”. 宮内庁. 2018年4月21日閲覧。
  21. ^ 高円宮家-宮内庁”. 宮内庁. 2018年4月21日閲覧。
  22. ^ 日付は秩父宮を除き宮内庁ホームページにある「権舎一周年祭の儀」の開催日による。薨去による宮家の断絶は権舎一周年祭の儀の儀式を催すことで正式なものとなる。このため、断絶の日付は最後の宮家成員が薨去した日付と一致しない。
  23. ^ 秩父宮の日付はウィキペディア桂宮のページの注釈による。
  24. ^ 皇室の構成図”. 2012年10月16日閲覧。
  25. ^ 東久邇成子久宮祐子内親王鷹司和子池田厚子島津貴子
  26. ^ 近衛やす子千容子
  27. ^ 宮内庁 主要祭儀一覧
  28. ^ 宮内庁 皇室用財産
  29. ^ 延べ面積
  30. ^ 兆域の重複を勘案
  31. ^ 陵墓地形図集成 縮小版 & 2014年, pp. 5–6.
  32. ^ 宮内庁公式ホームページ
  33. ^ 山本淳, 小幡純子 & 橋本博之 2003, p. 23-24.
  34. ^ 宮内庁 予算
  35. ^ 『週刊ダイアモンド 2016 9/17 36号』 ダイヤモンド社
  36. ^ 皇室の経済 - 宮内庁”. 宮内庁 (2024年2月21日). 2024年4月30日閲覧。
  37. ^ a b c d 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101
  38. ^ 吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店<角川選書>、2005、ISBN 4047033731
  39. ^ 皇室会議議員名簿 - 宮内庁”. 宮内庁 (2023年12月20日). 2024年1月12日閲覧。
  40. ^ 皇宮警察本部
  41. ^ a b 警察法 第29条
  42. ^ 内閣紋章は七五桐
  43. ^ 皇宮警察本部とは
  44. ^ http://www.npa.go.jp/hakusyo/h25/pdf/pdf/11_dai6syo.pdf 平成25年警察白書 P201「皇宮警察本部の活動」

外部リンク