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文仁親王妃紀子

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秋篠宮文仁親王妃 紀子
秋篠宮
Princess Kiko 20091223.jpg
2009年(平成21年)天皇誕生日一般参賀にて
続柄 川嶋辰彦第一女子
身位 親王妃(秋篠宮妃)
敬称 殿下
お印 檜扇菖蒲
出生 1966年9月11日(49歳)
日本の旗 日本 静岡県静岡市
配偶者 秋篠宮文仁親王
子女 眞子内親王
佳子内親王
悠仁親王
父親 川嶋辰彦
母親 川嶋和代
役職 公益財団法人結核予防会総裁
恩賜財団母子愛育会総裁
日本赤十字社名誉副総裁
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文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ きこ、1966年昭和41年)9月11日 - )は、日本皇族秋篠宮文仁親王の妃。旧名は川嶋 紀子(かわしま きこ)。身位親王妃皇室典範における敬称殿下お印檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等勲一等宝冠章学位博士人文科学)(お茶の水女子大学2013年)。

略歴

結婚以前

1966年昭和41年)9月11日川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市で誕生。父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカで過ごす。この間に自由学園幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。

父の仕事の都合から、小学校の転編入を繰り返す。1976年(昭和51年)、父が学習院大学教授に就任したことから、学習院初等科へ編入。しかし、翌年の1学期を終えた段階で、父がオーストリアウィーン郊外ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所(IIASA)の主任研究員に招かれたため、一家で渡墺。約2年間を同地で過ごす。ウィーン滞在中は現地のアメリカン・スクールに通い、英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなった[1]

1979年(昭和54年)9月、日本へ帰国。学習院女子中等科へ編入し、学習院女子高等科に進む。女子高等科時代には、クラスで選ばれて厚生委員を務め、街頭に立ってハンセン氏病患者を始め恵まれない人たちへの募金を呼びかけたり、身体障害者の人たちが作った絵葉書をすすめたりする活動に取り組んだ。

1985年(昭和60年)、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の礼宮文仁親王(当時)と出会う。以降、サークル活動を通して交際を深めた。1986年(昭和61年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。早い段階から宮中にも招かれ、皇太子明仁親王(当時)らとも面会していた。礼宮が主宰するテニスサークルでは、皇太子明仁親王美智子妃(当時)も参加してダブルスの試合に興じ、楽しんだという。明仁親王は、「キコちゃん」と気さくに呼びかけたり軽食をすすめたりするなど、ごく自然に一家に溶け込めるよう心配りをしたという[2]

大学では礼宮との出会いの場となった自然文化研究会のほか、心理研究会、手話サークルに所属。手話は、文化祭で手話劇を観て感動したことをきっかけに始めた。言葉が不自由な学生に付き添って講義を受け、通訳をしたりノートを取ったりもしていた。身障者の車椅子を押したり、自閉症の子どもの面倒を見るなどのボランティア活動も行っている。

また、大学内外の国際交流団体で留学生の世話をしたり、アジア問題など興味を持つ分野の講義を、他大学で聴講したこともあった。

婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と表記した報道機関も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた[3]

1989年平成元年)、学習院大学を卒業し同大学院進学、社会心理学を専攻する。同年8月26日、婚約内定が報道される。9月12日に開かれた皇室会議において可決され、同日午後、文仁親王同席の記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された[4]。昭和天皇の喪が明けた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約が成立した。

当時の住居が学習院大学教職員用の共同住宅だったことから、マスコミは「3LDKのプリンセス」「一般家庭から誕生した現代のシンデレラ」と彼女を呼んだ。

結婚の儀の当日、自宅を出発する際に
お印に選ばれた檜扇菖蒲

同年、6月29日に結婚の儀が行なわれ、これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。

秋篠宮妃

1991年(平成3年)10月23日眞子内親王が誕生。1994年(平成6年)12月29日には、佳子内親王誕生。

愛子内親王の誕生以降、皇太子夫妻に懐妊の兆候が無く、皇室は男系男子による相続が絶える危機に直面していた。2003年(平成15年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮ご夫妻に)第三子を強く希望する」と発言。2006年(平成18年)の歌会始では、夫妻ともに昨2005年(平成17年)9月24日コウノトリ放鳥に関する和歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、夫妻にも第三子を望む気持ちがあったと考えられる。

2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、紀子妃の懐妊がスクープされる。その後2月25日に宮内庁から懐妊が正式発表された。

しかし、同年7月18日、部分前置胎盤による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる帝王切開による出産が実施されることが宮内庁より発表された[5]。特に、皇后は紀子妃の身を非常に案じたと言う。8月16日より、東京都港区愛育病院に入院。

9月6日午前8時27分、悠仁親王を出産。身長48.8 cm、体重2558g[6][7]。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と臍帯血の提供を申し出ていたことが話題となる[8]

2009年日本学術振興会が、出産育児で研究を中断させた女性の研究員を研究現場に復職させるために設けた制度を適用し、「名誉特別研究員」となって研究活動を再開する。お茶の水女子大学が紀子妃の受け入れ先となり、公務の合間を縫って研究室に通い、そのつど、専門の教授らを招き、健康心理学の観点から結核にかかわる意識と行動についての研究を進めた。

お茶の水女子大学論文を提出し、2013年3月、博士人文科学)の学位が授与された。夫の文仁親王も博士号取得者である。

年譜

子女

天皇一家と諸親王

逸話

  • 本籍地は川嶋家父祖の地である和歌山県和歌山市だった。
  • 「紀子」という名前は、和歌山県の旧国名紀伊国に由来するという説と、父方の祖母・紀子(いとこ)に顔立ちが似ていたからという説がある[9]
  • 成婚を記念する番組内で、「平成のシンデレラ 紀子さま物語(制作スタジオコメット。1990年〈平成2年〉6月29日フジテレビ系特番)」というアニメが放送された。川嶋紀子と礼宮文仁親王の出会いと苦悩を描いた作品で、紀子の声優は歌手の石川秀美が、文仁親王は同局アナウンサー笠井信輔が担当した。皇室に関するアニメは極めて珍しい。
  • 結婚に際し、ナマズをあしらった婚約指輪を文仁親王に贈った[10]
  • 楽器は、ピアノの他にチターの演奏が出来る。天皇一家は各自演奏の出来る楽器を持ち寄り合奏を楽しむことがあり、時々、皇室ニュースにも取り上げられることがある。ピアノは皇后が得意とする楽器であり、合奏の際には皇后と同じ楽器ではなく別の楽器で参加を、との考えから、以前より興味のあったツィターを内藤敏子に師事し本格的に習い始めた(実母もチターを習っている)。今では趣味のひとつに挙げている。眞子内親王出産後にはウィーン民謡を弾き語りしたことも報じられた[11]
  • 学生時代より手話を習っており、手話を行いながらの演説や、外国訪問の際には現地語の手話を披露している。
  • 滞米中の4歳頃からピアノを習い始める。その後、高校3年生まで個人レッスンを続けている。
  • 5歳の時に乗馬を習い始める。ウィーン滞在中には、郊外にある乗馬訓練学校でキャンプ生活も体験している。
  • スキーオーストリア仕込みで、高校2年生の時のスキー教室では学年でただ一人の上級コースを滑る腕前。高校3年生の時は学年で2番の成績であった。
  • 中学一年の時に、硬式テニスを自宅近くのテニススクールで習い始め、学習院女子高等科時代には院内ダブルス戦で優勝を果たしている。
  • 学生時代の愛読書は、神谷美恵子の『こころの旅』。また絵本児童書への関心を示し、海外の絵本などの翻訳構成を手がけている。
  • 宮中儀礼の指導役は、皇后美智子と同じく、岩国藩吉川氏末裔で宮内庁官僚吉川重国

家系

紀子 父:
川嶋辰彦
学習院大学教授
祖父:
川嶋孝彦
(元内閣統計局長)
祖母:
川嶋紀子
母:
川嶋和代
祖父:
杉本嘉助
(元満鉄
祖母:
杉本栄子

訳書

ちきゅうのなかまたちシリーズ
ビッキー・イーガン著、ダニエラ・デ・ルカ画)新樹社
秋篠宮紀子として、絵本を翻訳した。

備考

政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王妃紀子」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であっても、ホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮妃」の表記も用いられる。マスコミ等では「紀子さま」と、表現されている。

脚注

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  1. ^ 読売新聞 1989年8月26日
  2. ^ 産経新聞 1989年8月27日
  3. ^ 静岡新聞 1989年8月27日
  4. ^ 讀賣新聞1989年8月27日 社説「皇室にとっては久しぶりの慶事である。心からお祝いを申し上げたい」
  5. ^ “紀子さま、出産早まる可能性 「部分前置胎盤」で帝王切開の見通し”. 読売新聞. (2006年7月19日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_06071901.htm 2013年10月18日閲覧。 
  6. ^ 部分前置胎盤の場合、胎盤の位置によっては通常分娩できることもあるが、本ケースの場合は全前置胎盤に近い状態であったため、主治医の中林正雄ら医師団は「自然分娩はリスクが大きいと判断した」と報道されている
  7. ^ “前置胎盤、実は重い状態…万全を期した医師チーム”. 読売新聞. (2006年9月7日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6800/news/20060907i101.htm 2013年10月18日閲覧。 
  8. ^ “秋篠宮ご夫妻、さい帯血提供申し出る…愛育病院長”. 読売新聞. (2006年9月6日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6800/news/20060906i214.htm 2013年10月18日閲覧。 
  9. ^ 1989年8月27日 毎日新聞
  10. ^ 入倉康ジュエリー工房>ナマズの婚約指輪
  11. ^ “紀子さまがご退院、お元気な眞子さま抱かれ”. 読売新聞. (1991年11月1日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_91110101.htm 2013年10月18日閲覧。 

外部リンク