倭の五王

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倭の五王(わのごおう)は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史『宋書』に登場する倭国の五代の王、をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの諸帝国に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与された。倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある(後述)。

概要[編集]

中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続くの正史『南斉書』(537年)、の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は遣使の事実を記していないが、倭の五王に比定される歴代大王(天皇)の時代に「」との間で遣使の往来があったとする[注 1]。「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる[1]

倭の五王の遣宋使の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に、中国皇帝の威光を借りることによって当時の倭(ヤマト王権)にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある[2]。438年の遣使では、「珍」が「」ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、このとき「珍」が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える[注 2]。451年にも、やはり倭済が23人に軍群(将軍号・郡太守号)の授与を申請している[3]

また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め[注 3]、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも遣宋使の重要な目的であった[4]。倭王たちは宋帝に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」授与され[注 4]新羅任那加羅秦韓慕韓の統治についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗(『宋書』における呼称は高驪)の反発を避けようとしたものと考えられる[5]。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる[6]

478年の遣宋使を最後として、倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣宋使を打ち切っている。『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」及び「武」の遣使時期と重なり(後述)、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある[7][8][9]

年表[編集]

413年 から502年の間の中国正史の記録を年表にまとめると以下の通り。この中には倭王自身が使者を送ったか判然としないもの、倭王の名が伝えられないものもあるが、晋・呉・斉・梁の四代において、のべ9次の遣使及び迎使(中国皇帝からの使者の受け入れ)と除正(官職授与)をおこなっている。

倭の五王 遣使年表
西暦 中国王朝 中国元号 倭王 用件
413年 東晋 義熙9 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 永初2 に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」。(『宋書』夷蛮伝)
425年 元嘉2 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
430年 元嘉7 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年 元嘉15 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)
443年 元嘉20 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』夷蛮伝)
451年 元嘉28 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東大将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人も宋朝から将軍号・郡太守号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)
460年 大明4 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 大明6 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年 昇明1 興( 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
478年 昇明2 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 建元1 南斉高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 天監1 4月、武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀)[注 6]

最初の413年の遣使入貢は宋帝国に先立つ晋帝国(東晋)に対してのもので、『晋書』(648年)によると、「高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が方物を献上した」とある。この記述について、高句麗と倭国の共同入貢とする解釈[注 7]、高句麗が倭人の戦争捕虜を伴ったとする解釈、単に個別の入貢を一括して記したものとする解釈もあるが、詳細は不明である[10]。ただし、後の『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。

479年と502年の記録はそれぞれ斉帝国(南斉)、梁帝国の建国時(479年・502年)のもので、これらは帝国建設・王朝交替に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない[11]。確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年607年遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記における「倭が斉の建元年中に表を持ってきた」という記述から、斉への遣使を事実とする説もある[12]

天皇と倭の五王[編集]

比定[編集]

倭の五王系譜・天皇系譜
宋書』倭国伝 梁書』倭伝
 
 
 
 
 
 
 

(421, 425年)

(438年)
 

(443, 451年)
 
 
 
 
 
 

(462年)

(478年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本書紀』の天皇系譜
(数字は代数、括弧内は和風諡号)
15 応神
(誉田別)
 
 
16 仁徳
(大鷦鷯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中
(去来穂別)
18 反正
(瑞歯別)
19 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康
(穴穂)
21 雄略
(大泊瀬幼武)

有力な仮説として、オホハツセノワカタケル=大泊瀬幼武天皇(雄略)を「武」(倭武)とする説がある。『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の記述の内容が、『宋書』(513年ごろ)、『梁書』(619年)や『三国史記』(1145年)などが伝える5世紀末の朝鮮事情とよく符合し、諱の一部である「ワカタケル」と思しき名が刻まれた鉄剣がやはり5世紀末頃の遺跡で見つかっていることから、同時代に在位していたオホキミ=大王(スメラミコト=天皇)である可能性があり、「武」という名も諱の一部である「タケ」または「タケル」を意訳したものと考えられる[13]。『日本書紀』によれば先代のアナホ=穴穂天皇(安康)は大泊瀬幼武天皇(雄略)の兄であり、先々代のオアサヅマワクゴノスクネ=雄朝津間稚子宿祢天皇(允恭)は穴穂(安康)、大泊瀬(雄略)の父であり、その系譜は倭済の子が倭興でありその弟が倭武であると記す『宋書』の系譜と一致する。また、478年に「武」が奉った上表文に「にはかに父兄をうしなひ」(奄喪父兄)とあり、宿祢(允恭)の死後に跡を継いだ穴穂(安康)がわずか3年で暗殺されたという『古事記』『日本書紀』の記述とも整合性がある[14]。このように「済」・「興」・「武」の人物比定については研究者の間で有力な仮説があるが、「讃」と「珍」の人物比定については『宋書』と『古事記』『日本書紀』の伝承に食い違いがあるため諸説あって特に有力な仮説は無い[15]

倭の五王といわれるが、倭王自身が使者を送ったか判然としないもの、倭王の名が伝えられないものもある。『宋書』倭国伝に見える倭人はのべ7人であり(・隋・祢・)、このうち宋帝に朝貢の表をおくったことが確実であるのが五王()である。五王のうち、『梁書』は「珍」ではなく「弥」を記す。右掲の系図に見られるように、『宋書』では「讃」・「珍」二代と「済」・「興」・「武」三代の間の系譜(続柄)が記されていない。このことから、「讃」・「珍」と「済」・「興」・「武」との間に王統の断絶があったとする王朝交替説も存在する[16]

『梁書』は倭珍を記さず、『宋書』に載っていない倭弥を挙げて、倭弥と倭済の関係を父子であると記す。これは「珎(珍の俗字)」と「弥(彌の俗字)」を混同したものと解されるが、倭珍と倭弥とは別人であり倭王は6人いた(倭の六王)とする説もある[17][18]。『宋書』倭武上表文に「祖祢(祖禰)」と見えることから、倭武の祖父は「祢」(倭祢)であったと解釈でき、これと倭珍を同一視する説もある[19]。ただし「祢」は廟の意であり、「祖祢」は祖廟や遠祖とも解釈できる[20]

他の説として、「讃」は15代ホムタワケ=応神で、「珍」をオホサザキ=仁徳とする説や、後述する「讃」が16代オホサザキ=仁徳で、「珍」をオアサヅマワクゴノスクネ=反正とする説などがある。上述のように「武」の名が雄略の諱の一部「タケル」の意訳とみられることから、他の王も同じであると考え、「讃」を応神の諱「ホムタワケ」[注 8]の「ホム」から、「珍」を反正の諱「ミヅハワケ」[注 9]の「ミヅ」から、「済」を允恭の諱「オアサヅマワクゴノスクネ」[注 10]の「ツ」から、「興」を安康の諱「アナホ」[注 11]の「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ているという説もある。しかし、字義や語音の解釈は恣意的な解釈も可能であり、傍証にはなり得ても決め手になるとはいい難い[21]

一方、中国皇帝からヤマト王権への遣使については『日本書紀』にみられるが、ヤマト王権から中国への遣使については『古事記』『日本書紀』にみられないことや、ヤマト王権の大王が讃・珍・済・興・武などといった漢字一字の中国名を名乗ったという記録が存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に一部齟齬が見られること[注 12]などから「倭の五王」はヤマト王権とは別の国の王とする説も江戸時代から存在した。特に九州の首長であるとする説は根強く、古くは本居宣長熊襲による僭称を唱えていたほか、戦後も古田武彦九州王朝説を唱えて一時期は学術誌に掲載されることもあった[22]

『古事記』『日本書紀』の紀年との対応関係[編集]

『古事記』に紀年の記述は無いが、分注として一部天皇の崩年干支(没年干支)を記す。この崩年干支を手がかりに歴代天皇を倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の崩年(没年、崩御の年)を次のように記す。

『古事記』の天皇崩年干支
西暦 干支 名前
394年 甲午 15代 応神
427年 丁卯 16代 仁徳
432年 壬申 17代 履中
437年 丁丑 18代 反正
454年 甲午 19代 允恭
489年 己巳 21代 雄略
527年 丁未 26代 継体

『古事記』の天皇崩年干支がある程度正しく、また五王がすべて王(大王)であったとすれば、「讃」=オホサザキ=大鷦鷯天皇(仁徳)、「珍」=ミヅハワケ=瑞歯別天皇(反正)、「済」=オアサヅマワクゴノスクネ=雄朝津間稚子宿祢天皇(允恭)、「興」及び「武」=オホハツセノワカタケル=大泊瀬幼武天皇(雄略)となる(数年程度の誤差は存在する)。1箇所、『宋書』の倭王系譜と明らかに矛盾する箇所がある。すなわち「珍」を「讃」の弟とする点である。

「讃死弟珍立遣使貢献」(讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。) — 『宋書』倭国伝

『古事記』が丁丑年=437年に崩御したとする瑞歯別天皇(反正)は、『古事記』『日本書紀』によれば大鷦鷯天皇(仁徳)とは父子継承である。「讃」を大鷦鷯天皇(仁徳)、「珍」を瑞歯別天皇(反正)に比定すると、『宋書』倭国伝における「珍」を「讃」の弟とする記述と矛盾する。また、『宋書』によれば「興」(倭王世子興)と「武」とは兄弟継承であるが、いずれも『古事記』の天皇崩年干支に従えば大泊瀬幼武天皇(雄略)の治世である460~479年に宋・斉に遣使しており、「興」と「武」は同一人物でなければならなくなって、「五王」の枠組みが破綻する。このように一定の限界はあるものの、『古事記』の天皇崩年干支により倭の五王が推測できる。一方、『日本書紀』の記述からは天皇崩年干支は次のように計算される。

『日本書紀』の天皇崩年干支
西暦 干支 名前 説明
405年 乙巳 17代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年 庚戌 18代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年 癸巳 19代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年 丙申 20代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年 己未 21代 雄略 允恭天皇の第五皇子

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『書紀』の応神天皇紀三十七年二月条「遣阿知使主都加使主於呉令求縫工女」、四十一年二月条「阿知使主等自呉至筑紫」、仁徳天皇紀五十八年十月条「呉国高麗国並朝貢」、雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」など。
  2. ^ ただし、倭隋の「倭」を姓として倭王の一族と見る説もある。
  3. ^ 倭の遣使が東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭および三韓からの南朝への航海の安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったという見解を大庭脩川本芳昭はとっている。
  4. ^ 「使持節」とは皇帝から節(旗印)を得て委任を受けたことを示し、「都督……諸軍事」とはその地域の軍事権を承認されたことを意味する。ただし倭王が認められたのは軍事権であり、現地の行政権ではないことに注意が必要である。
  5. ^ 「開府儀同三司」は官庁を開き官僚を置くことのできる名誉職で、当時倭国と対立する高句麗の長寿王が任ぜられていた。
  6. ^ 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる
  7. ^ しかし当時激しく敵対していた高句麗と倭国が共に入貢するとは到底考えづらい。
  8. ^ 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記逸文凡牟都和希王
  9. ^ 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
  10. ^ 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
  11. ^ 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
  12. ^ 通説通り「済=允恭」とすると「珍=反正」となるが、反正は437年に没しており、珍は438年に朝貢している。

出典[編集]

  1. ^ (安本 1992)P133-135
  2. ^ (瀧音 2018)P132-133
  3. ^ (森 2010)P47-50
  4. ^ (瀧音 2018)P130-132
  5. ^ (佐伯 1988)P26-27 鈴木靖民による論考。
  6. ^ (森 2010)P20-24
  7. ^ (佐伯 1988)P75-76 鈴木靖民による論考。
  8. ^ (森 2010)P64-67
  9. ^ (瀧音 2018)P154-157
  10. ^ (森 2010)P7-10
  11. ^ (森 2010)P11
  12. ^ (河内 2018)P207-228
  13. ^ (安本 1992)P69
  14. ^ (森 2010)P38
  15. ^ (瀧音 2018)P128-129
  16. ^ (森 2010)P38
  17. ^ 倭の五王(国史).
  18. ^ 倭の五王(日本大百科全書).
  19. ^ (上田 2012)P226-231
  20. ^ (森 2010)P4
  21. ^ (安本 1992)P48-49
  22. ^ 本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』、古田武彦『失われた九州王朝説』他)

参考文献[編集]

  • 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6
  • 佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6
  • 安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3
  • 安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8
  • 直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0
  • 森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2
  • 上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7
  • 河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1
  • 瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。ISBN 978-4-413-04548-3

関連項目[編集]