阿知使主

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阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半[1])は、応神天皇時代の漢人渡来人で、東漢氏の祖と言われる。

阿智使主阿知王[2]阿知吉師ともいう[1]

渡来[編集]

日本書紀応神20年(289年)九月条には、「倭漢(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。

続日本紀延暦四年(785)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守坂上苅田麻呂が述べた[3]

右衞士督從三位下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条


新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等を連れてきたとある[3]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[4]

  • 段 (古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、(こほり )、民使主首の祖。
  • 李 - 刑部史の祖。
  • 郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
  • 朱 - 小市、佐奈宜の祖。
  • 多 - 檜前非調使の祖。
  • - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
  • 高 - 檜前村主の祖。

また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸(きそ)村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、田賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸(いわれ)村主、金作村主、尾張の次角村主があるという[4]

漢人族は大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだ[5]。一時は9割が漢人族となり、漢人族の民忌寸、蔵垣忌寸、蚊屋忌寸、文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた[5]。蚊屋(かや)氏には蚊屋木間がいる。

その後、摂津参河近江播磨阿波にも移住した[5]。ほかに美濃越前備中周防讃岐伊勢、三河、甲斐河内丹波美作備前肥前豊後にも住んだ[5][6]

親族[編集]

阿知使主の長男は都加使主、次男は坂上志拏直、三男は東漢爾波伎直[5]

都加使主は子に東漢山木直がある[5]

志拏直には、長男・坂上阿素奈直、次男・坂上志多直、三男の坂上阿良直、四男の坂上刀禰直、五男の坂上鳥直、六男の坂上駒子直、七男の坂上韋久佐直がいる[7]

末裔[編集]

忌寸は「氏」と表記した。

  • 「坂上系図」によれば阿智使主の子・都加使主の長男・山木直からは民氏、檜原氏、平田氏、粟村氏、小谷氏、軽氏、夏身氏、韓口氏、新家氏、門氏、蓼原(たてはら)氏、高田氏、田井氏、狩氏、東文部氏、長尾氏、檜前氏、谷氏、文部谷氏、文部岡氏、路氏が出た[5]
  • 阿智王(または都加王)の次男・志拏直からは、東漢費氏、成努氏が出た。
    • 志拏直の長男阿素奈直は田部氏の祖となった[7]
    • 次男志多直からは黒丸、拾、倉門、呉原、斯佐、石占(いしうら)、くにまぎ[国+(不の下に見の字)[8]]、井上、石村、林氏らの姓氏が出た[7]。石占氏は摂津の倉人・蔵人氏とも同祖と伝わる[9]。石村氏はのち三河国碧海郡に定住し、坂上石楯などが出た。
    • 三男の阿良直からは、郡、榎井、河原、忍坂、与努、波多氏長尾氏らが出た[7]
    • 四男の刀禰直からは畝火、荒田井、芸垣が出た[7]荒田井氏には都城建設時の官僚倭漢荒田井比羅夫がいる[10]
    • 五男の鳥直からは酒人氏が出た[7]
    • 六男の駒子直は宗家東漢氏を継いだ[7]
    • 七男の韋久佐直からは白石氏が出た[7]
  • 阿智王の三男の爾波伎直からは、山口氏、文山口氏、桜井氏[要曖昧さ回避]、調(つき)氏[11]谷氏、文氏、文池氏らが出た[5]

伝説[編集]

鈴木靖民は、阿知使主は倭漢氏によって作られた渡来伝承上の人物で、子の都加も6世紀の東漢直掬を投影したものと指摘している[1]

寺社[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 朝日日本歴史人物事典、kotobank「'阿知使主」鈴木靖民
  2. ^ 続日本紀』延暦四年(785)六月条
  3. ^ a b 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)p.9.
  4. ^ a b 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p12-13
  5. ^ a b c d e f g h 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p10-11
  6. ^ 太田亮「姓氏家系大辞典」
  7. ^ a b c d e f g h 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p12
  8. ^ 「くにまぎ(国覓)」とは、国土開発の意味。竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p15。日本国語大辞典
  9. ^ 新撰姓氏録摂津国諸蕃、日本国語大辞典
  10. ^ 朝日日本歴史人物事典,kotobank,「倭漢荒田井比羅夫」
  11. ^ 竹内理三『古代から中世へ』上、1978年,p16
  12. ^ 阿智神社

参考文献[編集]

関連項目[編集]