常磐松町

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常磐松町(ときわまつちょう)は、かつて東京・渋谷にあった町である。

概要[編集]

常磐松町は、旧(あざ)名をもとに1928年昭和3年)に設置された[1]

常磐松の地名の由来は、古くからのこの地に「千両の値打ちが付くほどの銘木」と賞賛されていた松の古木、「常磐松」があったことによる[1]。もとの漢字表記は「常盤」であったが、「皿は割れるから」と、「常磐」と改められた[1]

この一帯には幕末薩摩藩島津家の地所であり、これが明治時代以降、1912年明治45年)頃まで皇室の「御料乳牛場」となっていた[2]大正時代の始め頃までの地形図によれば、「御料乳牛場」は現在の常陸宮邸から青山学院初等部にかけて所在し、ここでとれる牛乳は皇室に献上されていた[1]

歴史ある常磐松の地名であったが、1966年(昭和41年)に住居表示が実施され、「」という記号的地名に変えられてしまい消滅した[1]。現在、常磐松の地名は、かつての町域に建つビルやマンションの名称などに冠されているのがみられるほか、渋谷区立常磐松小学校の名前に残っている。

常陸宮邸[編集]

常陸宮邸(常盤松御用邸)の杜

1964年(昭和39年)、大東亜戦争後初の宮家として常陸宮家が創設されると、常陸宮邸は常磐松町の常盤松御殿に定められた。

常盤松御殿はそれまで皇太子明仁親王(当時)の御殿(東宮御所)であったもので、大東亜戦争前までは東伏見宮邸であった[3]

常磐松に存在した諸学校[編集]

大日本農會附属私立東京農学校(後の東京農業大学)は1898年(明治31年)10月に常磐松御料地に移転・開校(常磐松校舎)したが、1945年(昭和20年)5月25日にアメリカ軍による空襲を受けて大部分を焼失、戦後は校地を青山学院に売却して世田谷に移転した。青山学院は現在も当地に校舎を設置している。

皇典講究所及び國學院大學は、1923年(大正12年)に麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)より、常磐松御料地(常磐松校地)及び道路を挟んで隣接する氷川裏御料地(若木校地)へ移転。1946年昭和21年)に國學院大學が皇典講究所を吸収した以後の現在まで当地に設置されている。

実践女学校および女子工芸学校(後の実践女子学園)は1902年(明治35年)が常磐松御料地に開校した。実践女子学園は都下日野市に移転したが、同学園の実践女子大学実践女子短期大学で毎年11月に開祭される学園祭は現在も「常磐祭」と称されている。実践女子学園中学校・高等学校は現在も当地に設置されている。

トキワ松学園1916年大正5年)、常磐松女学校として常磐松1番地に設立された[4]。しかしながら同校も1945年(昭和20年)にアメリカ軍による空襲を受けて校舎を焼失[4]、戦後1948年(昭和23年)に目黒・碑文谷に移転した。

常磐松[編集]

常磐松町の由来となった松の木は、大正期の地形図によれば現在の高松宮邸内の御用地にあった。この松は見事な枝振りの老木で、その由来には源義朝側室常磐御前が植えたという説と、世田谷城主吉良頼康の側室・常盤が植えたという説の二説があった[2]

しかしながら、その松は1945年(昭和20年)5月のアメリカ軍による空襲の被害を受けて焼失[1]、戦後は新たな松に植え替えられ、現在の渋谷区渋谷区東4-4-9にある薩摩藩士によって建てられた「常磐松の碑」の傍らに新たに存在する[2]

かつて常磐松町にあった東京農業大学のスクールカラーは「松葉緑(まつばみどり)」と呼ばれる緑色であるが、これは常磐松の緑色に由来する。

また、同大学の応援歌「青山ほとり」(通称、大根踊り)の歌い出しは、“青山ほとり常盤松”である。

常磐松に縁のある人物[編集]

作家・今井達夫慶應義塾大学在学中、常磐松で下宿生活を送っていた。

天璋院篤姫は、徳川家定への輿入れのために国元から出府した際に生活していた三田・薩摩藩上屋敷が安政大地震で被災したため、当地に所在した渋谷・下屋敷に居住して輿入れした。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 今尾恵介「失われた地名を手がかりに東京町歩き」特集・東京の地名 町それぞれの物語『東京人』(都市出版株式会社)第20巻第5号、平成17年5月3日発行
  2. ^ a b c 妙円寺『江戸東京歴史の散歩道5』街と暮らし社、平成15年7月1日発行
  3. ^ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』名著出版、昭和53年9月30日発行 p248
  4. ^ a b 沿革 トキワ松学園中学校・高等学校のウェブサイト、平成24年3月12日閲覧