国鉄181系電車

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第2回(1959年
ブルーリボン賞受賞車両


国鉄181系電車(こくてつ181けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流特急形電車。本項ではその母体となった151系電車および161系電車についても記述する。

目次

[編集] 基本概要

1956年秋の東海道本線全線電化に伴い、東京~大阪間を6時間30分で運転する電車特急が計画され、翌1957年に完成した国鉄初の新性能電車である101系のシステムを基本にして設計された特急電車で、1958年11月最初に投入された列車の愛称からこだま形」とも呼ばれる。東海道新幹線開業前の東海道本線のみならず、国鉄黄金時代を象徴する車両である。第2回(1959年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。

また、1962年には上野~新潟間「とき」用に製造された派生型の161系が登場。1965年には、上記の2系列からの改造と新製車の仕様を統一した系列である181系電車に発展している。

[編集] 外観・設備

本系列を最も特徴付けるのはその前頭部である。高速運転に備えて運転士の視界を確保するため、運転台は高く上げられ、電動発電機(MG:150kVA)、空気圧縮機(CP:3,000l/min)といった騒音発生源を客室からできるだけ遠ざけるため、運転台前部にボンネットを設けてその中に収納した。前灯[1]と尾灯はボンネットの両側面に設けられたケースに収められ、さらに前灯1灯は運転台屋根上に設置された。当時の日本国有鉄道運転規則(省令)では前灯は1灯と決められていたが、110km/hという未曾有の高速運転実施のために運輸大臣の特認を得て、遠方視認性向上を目的に増設された。屋根上前灯横左右には青紫色に点灯するマーカーライト(交互点滅灯またはウインカーランプとも呼称)を設置。これはアメリカなどで高級車両を表す表示として用いられていたもので、また後方防護用として編成後部の下部前灯に赤色フィルタを取り付け、不時停車時用に交互点滅回路が設定された。

車体幅は2,946mm。高速運転に備え重心を低くするため乗客全員の着席乗車を前提に天井高は2,100mm、屋根高さも3,350mmと極力低く抑えられ、客室床面高さは1,110mmとした。車体長は20,000mm[2]で、先頭車は21,000mm[3]である。この設計は特急列車専用車として徹底的な配慮がなされたもので、登場後50年近く経た現在においても十分通用する車体形状である。

塗色は、当時話題になっていた欧州TEE列車にならいクリーム4号を車体に、窓回り・裾・雨樋に赤2号の帯を通し、ライトケースの側面も赤色に塗ってクリーム色の細線を3本通し、羽根をイメージさせるものとした。窓回りとライトケース回りの帯の端部は、運転台前部窓の傾斜角度60度[4]に合わせられ、スマートでスピード感にあふれるものとされた。また側面の赤帯を前面へ回すことも検討[5]されたが、前面帯は不採用[6]となった。

また、国鉄特急の象徴として前頭部に設置された特急の"T"を意匠化した逆三角形のマスコットや側面に貼付されたステンレス製のJNRマークも本系列のために用意されたもので、デザインは一般からの公募によるものである。これらは国鉄特急の一貫したイメージとして後に登場したほとんどの国鉄特急用電車・気動車に連綿と受け継がれた[7]

車内設備については、三等車は2人掛けの回転クロスシート、二等車は2人掛けのリクライニングシート。車内は完全空調とし、側窓は乾燥空気を封入した二重ガラスの複層固定窓とした。屋根上には前年サロ85020に試用して開発されたAU11形ユニットクーラー(後期車はAU12形。前期車も一部を除き後にAU12形に交換[8])を独特のキノコ型のカバーに2台ずつ納め、各車に6台(先頭車は5台)搭載。トイレと洗面所は各車両(モハシ150形は洗面所なし)に設け、外国人客を考慮してサロ151形には洋式トイレを採用した。トイレ側窓は小さくして外部から影が見えないように配慮し、臭気抜き窓は上部が内折式で7センチだけ開く[9]

[編集] 車両形式

[編集] モハ20系→151系

1958年に「こだま」用として登場。当初はTcMMb'Tsの4両編成を基本にTs車には回送運転台を装備し、背中合わせに連結した8両編成で1958年11月1日より営業運転を開始した。

走行システムはMM'ユニット方式台車DT21系を基本に枕バネを空気バネに改めたDT23(T車はTR58)とし、主電動機や制御器もMT46A[10]が採用されたが、高速運転に備えて歯車比は3.50、弱め界磁率35%とされ、実用に当たっては4M4Tのちに6M6T編成として10‰勾配均衡速度103km/h(速度種別A3)となっている。起動加速度はMT比1:1で1.3km/h/s、同2:1で1.6km/h/sとされている。

防振・防音対策には台枠と車体の間にゴムを置く他[11]、二等車(現在のグリーン車)にはじゅうたんを敷き、防音に努めている。また三等車のうち1両の半室は軽食堂車「ビュフェ」となっている。

[編集] 形式

新製当時は20系電車と称したが、翌1959年6月の車両称号規程改正により151系電車と改められた。当初より形式称号規定が検討中であったため、改番に備えて別の鋼板に形式番号を取付けて車体にネジ止めされ、改番にあたってはこれを外して新形式番号板を取り付けた。

  • クハ26形→クハ151形
  • サロ25形→サロ151形
  • モハ20形→モハ151形
  • モハシ21形→モハシ150形
クハ151-1~12
ボンネット形先頭部を持つ制御車で定員56名。後方確認用にバックミラーを取付け。運転台後部にはパンタグラフなどの監視用窓を設けた。
1960年の編成替えにより東京方先頭車となる。1961年以降増備車の7~はボンネット内空気取入グリルが、それまでの片側1個から2個に増設されたほか、ボンネット上部に天蓋と運転台直後のユニットクーラーに外気取入口が設けられた。
クロ151登場に合わせ、1~6の屋根上前灯の左右に予備笛を増設した。
ウインカーランプは1~6は円形平型の物であったが、7~12は砲弾型となった。
サロ151-1~6
2人掛けのリクライニングシートを装備した二等車で定員52名。AMラジオの聴取ができるようにイヤホンジャックが装備され、車掌室前には2人用のビジネスデスクが設置されていた。また回送運転台を装備する。
モハ151-1~6・11~30
モハ150形・モハシ150形とユニットを組む中間電動車で定員68名。
1960年度増備車より乗務員室が乗客専務車掌室に変更されたため、10番台に区分されている。
後期製造の電動車は、将来の交直流化改造に備えて台枠が強化されている(モロについても同様)。
モハシ150-1~13
モハ150形とユニットを組むビュフェと三等の合造中間電動車で客室定員36名。客室部とビュフェ部のクーラーユニットを分けて設置しているために、どちらも2台と1台、都合4つの大小のカバーに収納されており、後のモハ180形50番台改造後もそのままの状態で残されたために識別は容易である。
ビュフェには、スピードメーターと電話室が設けられ、1960年8月20日から供用が開始された。通話可能区域は東京23区名古屋市大阪市であった。

「こだま」即ち151系電車は速達性のみならず当時の水準を超越した快適性などが好評を得て、1960年6月1日からの「つばめ」「はと」の置換えも決定。1959年12月には年末年始における輸送力増強と置換え準備のため、モロ151・150形ユニットとサハ150形を落成させ、従来編成の神戸方4両ユニットにモロ2両を、東京方4両ユニットにサハ2両を組込み「こだま」の暫定12両編成化[12]が行われた。

モロ151・150-1~13
従来の電車では二等車は騒音を避けるため付随車としていたが、初の二等電動車として誕生した形式である。車体設計はサロ151形と同様で定員も同様の52名であるが、モロ151形は後位に乗務員室と荷物保管室を設置、モロ150形の後位には乗務員室兼荷物保管室と1~6はビジネスデスク、7~12は荷物保管室を配置した。また、トイレはモロ151形は和式、モロ150形は洋式として「つばめ」「はと」電車化時点でビジネスデスクと洋式トイレが1両おきに配置されるようになっている。
1959年製造車は、1・3・5と飛び番となっている。
サハ150-1~24
付随車のサハ150形は第2次増備車で製造されたモハ150形を付随車化した構造のため、サハ151形とせずに偶数形式であるサハ150となっており、定員は本系列最大の72名。
1959年製造車は、1~6でモロユニットのような飛び番ではない。

続いて「つばめ」「はと」置換えの際に登場したのが次の形式である。

クロ151-1~12
クロ151(イラスト)
クロ151(イラスト)
それまで「つばめ」「はと」に連結されていた展望車の後継車両として計画されたもので、運転台の後に4人用の個室があり、VIPや貴賓客用に備えられ、客用扉を挟んで車体後部に位置する開放室には、左右各1列ずつの乗客が座席の向きを任意に変えられる回転式リクライニングシートが7列配置された。座席は、1~6は窓方向28度の位置に合せて窓寄りに足乗せ台を設置したが、7~12では足乗せ台を座席に取付け、どの回転方向でも使用できるように改良された。シートピッチは1100ミリと2等車標準の1160ミリより僅かに狭い。また、定員は18名で、側窓は当時としては世界最大級である縦1m×横2mのガラス[13]が用いられるなど、21世紀初頭の現代の視点から見ても群を抜いて豪華な車両であった。
なお7は、1964年に事故廃車となっている。
サロ150-1~6・11
車体設備上はモロ151形と同一の二等付随車。車掌室が乗務員室に変更され、トイレは和式でビジネスデスクと回送運転台は設置されていない。
1962年増備の11は当初より回送運転台を装備するための番号区分である。
なお3は、クロ151-7の事故廃車に伴い1964年にクロ150-3に改造された。詳細についてはこちらを参照。
モハ150-1~13
モハ151形とユニットを組む三等中間電動車で定員72名。
サシ151-1~12
国鉄電車初の全室食堂車で、食堂定員は40名。客席側の妻面に回送運転台を装備する。また、調理設備については完全電化されており、自車給電用として70kVAのMGを搭載している。客席側の貫通路上部には列車位置表示装置が設けられた。仕込まれた指標が時計仕掛で移動する仕組である。1960年の「つばめ」「はと」151系時に1~6が、1961年の増発時に7~11が、1962年の山陽本線広島電化増発用に12が製造された。
全車とも新製配置は田町電車区であったが、1964年の東海道新幹線開業に伴い、6・8を除いて向日町運転所に転属するも181系改造後は最終的に全車新潟運転所に集結している。

また同年7月1日には、三等級制から二等級制への移行に伴いモロ・クロ・サロの二等車を表す"2"の文字が一等車の"1"に改められた。

[編集] 運用実績

東海道本線優等列車沿革山陽本線優等列車沿革こだま_(列車)#東海道本線電車特急「こだま」号、および つばめ_(列車)#1960~1964年 東海道本線電車特急「つばめ」・「はと」も参照

1958年11月1日の登場時は、24両(8両編成・使用2本予備1本)を田町電車区(現・田町車両センター)に配置し、東京大阪神戸間の新設特急「こだま」2往復に充当した。それまでの電気機関車牽引による客車特急「つばめ」「はと」が同区間を7時間30分で運行していたのに対し、電車特急である「こだま」は当初6時間50分[14]で運行され、東京~大阪間の日帰りを形式的に可能とした。

「こだま」の三等乗車率は運転開始から好評で平均95%を上回っていたために1958年12月28日~31日・1959年1月4日~7日、5月3日~5日、26日を除く8月18日~29日に予備編成のMMb'ユニットを5~6号車間に増6・7号車として増結し、10両編成[15]での運転を行い、1959年12月6日から13日にかけてモロ151・150形とサハ150形2両を組込んで順次編成変更が行われ暫定12両編成に増強された。

  • 「こだま」暫定12両化時の編成
  • (←大阪)TcMMb'MsMs'TsTsT'T'Mb'MTc(東京→)

1960年5月31日には方向転換を伴う大規模な編成変更[16]が行われて、翌6月1日から「つばめ」「はと[17]」を電車化して本数が倍増[18]。この編成では客車特急で連結されていた一等展望車を廃止する代わりに「パーラーカー」クロ151形を大阪寄りに連結し、食堂車も連ねた12両編成で日本の電車特急としては空前絶後の豪華編成[19]であった。

  • 「つばめ」151系12両化時の編成
  • (←大阪)TscMsMs'Ts'TsTdMb'MT'M'MTc(東京→)

1961年10月のダイヤ改正では、新たに東京~宇野・神戸間の「富士」、東京~大阪間の「はと」の他、東京~名古屋間の「おおとり」と間合い運用で大阪~宇野間の「うずしお」が設定され、東京~大阪間には157系電車使用の不定期特急「ひびき」を加えて7往復14本の電車特急が運転されることとなり、151系も56両が増備され、編成は一等車1両が減車され11両編成11本が揃えられた。

1962年6月には「つばめ」1往復が広島まで延長され、11両編成1本が増備された。広島延長に際して瀬野八本松間の急勾配でMT比1:1の151系では出力が不足することが問題になった。電動車を増やせば自力登坂も可能だが、編成が変わり他の列車と共通に使用できなくなるデメリットや変電所容量などで問題があるため、上り列車の広島~八本松間でEF61形電気機関車補機として連結[20]することになった。また、10月には余裕時分を活かして静岡にも全列車が停車[21]すことになった。

1963年8月にはサハ150形が1両増結され、再び12両編成[22]となった。これをもって151系の増備は終了。形式名と同じ151両全車が田町電車区に配置されたが、1964年に1両が事故廃車。東海道新幹線開業により向日町運転所(現・京都総合運転所)に転属し山陽本線に活躍の場を移すグループ120両と田町電車区に残るグループ30両に分かれる。

田町残留車は、特6編成が東京オリンピックに合わせて10月3日から25日まで東京~熱海間の臨時急行オリンピア」に充当されたが、余剰車となるサロ151-6・150-2を除いた28両は上越特急「とき」に転用されることになり、大井工場(現・東京総合車両センター)と浜松工場に入場して出力増強・勾配抑速ブレーキの装備・耐寒耐雪装備の施工などいわゆる181系化改造工事を施工した。このうち大井工場で改造の17両は同年の年末輸送に間に合わせるため暫定的に151系の元のナンバーのまま出場したが、ボンネットには161系と同様の赤帯が入り、車体側面のナンバーを白く塗装[23]して未改造車と区別した。また浜松工場入場の11両にはクロ151・150形とモハシ150形が含まれていたが、上越特急では使用しないためクロはクハ181形50番台に、モハシはモハ180形50番台に車種変更の改造が併せて施工されて、1965年1月~3月に181系となって出場している。

向日町転属車は、大阪・新大阪発着の特急「つばめ」「はと」「しおじ」「うずしお」「ゆうなぎ」の5往復に投入。1965年から181系化改造工事が施工されたが、機関車運用の都合で瀬野八での補機連結は1966年10月のダイヤ改正まで続けられた。

こうして1966年の夏までに営業用の151系はすべて181系に改造され表舞台から姿を消した。なお、余剰休車の2両も後に「あさま」増発用として181系化改造がされ、1969年に151系は形式消滅した。

[編集] 特殊な運用・試験運転

営業運転では、1959年4月10日皇太子(現・今上天皇)御成婚奉祝記念列車として、東京~伊東間に本系列を使用した座席指定臨時準急ちよだ」が同日と12日に運転された。本系列を使用した唯一の準急列車となった。8月には滋賀県で開催の日本ジャンボリー臨席の皇太子乗用として、7日の101T、10日の102TがTs1両増結の9両編成で運転された。

1960年10月15日~22日、東京で開催されたアジア鉄道首脳者会議(ARC=Asisn Railways Conference)出席者のため、専用臨時列車が東京~京都間で運転された。

1963年9月17日昭和天皇香淳皇后岡山大学付属病院に入院中の池田厚子見舞いの帰途、上り「第2富士」のクロ151-12の区分室に岡山→大阪間に乗車した。これは前日往路のキハ80系特急「みどり」(キロを含む後部3両増結)と共に昭和天皇夫妻が営業運転列車に初めて乗車したものである。また1964年には香淳皇后が東京~岡山間で、2月15日の下り「第1富士」翌16日の上り「第2富士」のクロ151形区分室に乗車している。

1965年5月27日台風6号の影響で東海道新幹線が不通となったが代替として在来線東京~大阪間に臨時急行が運転されたが、東京発13時の列車に田町電車区の181系10両編成、大阪発13時の列車に向日町運転所の151系12両編成が投入された。

1959年7月27日31日にB3・B4編成(当時)を使用して高速度試験を東海道本線金谷焼津間の上り線で行い、31日に藤枝付近で163km/hという当時の狭軌鉄道の世界最高速度を記録した。その功績を讃えるため、この試験に使用されたクハ151-3・4の前頭部にチャンピオンマークが廃車直前まで付けられていた。

151系は異常時を除き他形式との併結運転は実施していないが、153系電車との併結試験運転が2回にわたり実施されている。

1回目
1960年9月8日9日に1ユニット不動時における主電動機温度上昇試験を次の編成を用いて東京~大阪間で実施した。
  • 大阪←クロ151-5+モロ151・150-5+サロ150・151-5+モハシ150・モハ151-2+モハ150-5+モハ151-15+サハ153-220+サハ153-29+モハ152・153-48+クハ153-43→東京
※モハ152・153-48、 モハシ150・モハ151-2は死重
試験結果では1ユニット不動時で6時間30分の定時運転を行った場合は、主電動機温度が限界を超えることが確認された。
2回目
1961年10月ダイヤ改正で151系も四国連絡特急として宇野線に乗入れることとなるが、前年電化の同線は変電所容量の関係で電動車3ユニット運転が出来ず、準急「鷲羽」は153系4M6T10両編成で運転されていた。この様な条件下で運転した際の主電動機温度上昇などを確認する試験が7月27日28日の両日次の編成を用いて大阪~宇野間で実施された。
  • 宇野←クロ151-7+モロ151・150-7+サロ152-21+サハシ151-21+サシ151-7+モハシ150-7+モハ151-18+サハ150-7+モハ150-7+モハ151-17+クハ151-7→大阪
※サシ151-7は死重
試験の結果、宇野線内での営業運転は1ユニットカットの特殊運転が行われることとなったが、その後の変電所容量増強に伴い1965年10月ダイヤ改正でこの特殊運転にも終止符が打たれた。

[編集] 161系

161系電車は、上野新潟間の特急「とき」用に製造された151系の派生型である。1編成9両と予備車6両の15両が1962年に製造された。1964年にも増発用に3両の増備が計画されたが、この分は製造途中で181系40番台に変更された。

1962年6月に信越本線長岡~新潟間の電化が完成し、上越線経由で特急電車を運転するという計画がなされた。全線が直流区間ということもあり、151系投入に白羽の矢がたったが、本来は平坦区間用の電車が山岳路線で20‰勾配の続く上越国境での運用に耐えられるのかの疑問が残った。そこで1961年6月21日22日にいわゆるサン・ロク・トオダイヤ改正用に早期落成した151系電車と157系電車を持ち込み、上越線の新前橋~長岡間での比較走行試験を行った。

151系走行実験編成(4M3T)
  • ←(新前橋)クロ151-11+モロ151-11+モロ150-11+サシ151-11+モハ150-11+モハ151-26+クハ151-11(長岡)→

その結果は、連続勾配での151系4M3Tでは電動機への過負荷による発熱が見られ、初日は土合で運転を打切り。さらに2日目はサシ151-11を外した4M2Tで再度試運転を行っても同様な状況で問題が残った。一方、この1週間前に同時刻で試験を行った157系では何も問題はなく安定した走行を得られたために、157系の走行機器と151系の車体を組合せた設計の161系を開発することになった。 走行性能的には157系に準じており、実際営業運転でも157系との併結運転が行われた。

1965年5月~6月に15両全車が181系40番台に改造され、わずか3年余りで消滅した。これは国鉄新性能電車として初めての系列消滅である。

[編集] 形式

モロ161・160-1・2
モハ161・160-1~3
電動車は151系のMT比を1:1から2:1と高くし、歯車比は151系よりも低速寄りの設定(4.21)とした。台車は枠板を強化して車軸を中実軸に変更したDT23C形とTR58B形で、主抵抗器は耐雪面で有利な強制通風式のMR22A形とした。さらに、長い下り勾配での安全な降坂のため、大容量の発電ブレーキである抑速ブレーキを装備した。
またモロ161・160形ではシートラジオ・列車電話も使用線区の電波事情を考慮して廃止されたが、雪に閉じ込められた場合などを考慮してラジオ放送は車掌室で受信して、必要に応じて放送装置を通じて全車に放送できるようになっている。
クハ161-1~3
外観上は、スノープラウ(排雪器)取付けのため前面のスカートが短くなったのと、識別のためボンネットに赤帯が入れられた点が151系と異なる点である。
全車共通の装備として、ドアレールヒーターなど耐寒装備も強化して、寒冷な山岳地帯での運転に対応した。
151系で採用された外幌は効果が少なく、保守に手間がかかるため廃止された。151系についても同年製の増備車から廃止され、それ以前の車両も撤去されている。
サシ161-1・2

基本的にサシ151形の構造を踏襲する。

[編集] 181系

181系電車は、上記の2系列を1965年以降に仕様を統一して統合した系列である。主電動機を100kWのMT46系から120kWのMT54系に変更[24][25]し、出力の余裕ができたことから歯車比は高速寄り(3.50)に統一された。さらに、上り勾配対策でノッチ戻し機構を搭載したCS15B形制御装置を搭載し主抵抗器は強制通風式に変更した。上越線系統に転用されたグループは耐寒耐雪対策を併施している。出力増強によって10‰勾配における均衡速度は120km/h(速度種別A20)に上がり、481系電車と足並が揃った。

[編集] 形式

181系となったのは151系からの改造車150両、161系からの改造車18両[26]、新製車59両[27]、485系からの改造車3両の総計230両である。そのために細かい区分番台がされている。本項では区分番台による形式解説を行うものとする。

[編集] 0・40番台
クハ181-45(2007年5月6日、新潟車両センター)
クハ181-45(2007年5月6日、新潟車両センター)

151系・161系から改造されたグループ。当初は山陽向け改造車は183系、上越向け改造車を185系とする計画[28]であった。しかし新幹線の延伸に伴って広範囲な配転が予想されたことから性能を統一することになり、151系からの改造車は0番台、161系からの改造車は40番台に編入された。また台車も、DT23C形を除いて強度を増した改良型のDT23Z形・TR58Z形に交換されている。

車体・車内設備は151・161系の物が踏襲され、新製される3両についても同様な構造となっている。モロ150形の乗務員室はモロ160形と同様な乗客専務車掌室に変更され、151系で使用していたシートラジオ・列車電話・食堂車の列車位置表示装置は改造時に撤去されている。このとき新製されたクハ181-44・45は前頭部の赤帯を従来車との区別のために太く塗装して落成した。

モロ181形・180形
  • モロ151・150-1~13→モロ181・180-1~13
  • モロ161・160-1・2→モロ181・180-41・42
モハ181形
  • モハ151-1~6・11~30→モハ180-1~6・11~30
  • モハ161-1~3→モハ181-41~43
モハ180形
  • モハ150-1~13→モハ180-1~13
  • モハ160-1~3→モハ180-41~43
モハシ180形
  • モハシ150-1~5・7・10~13→モハシ180-1~5・7・10~13
クロ181形
  • クロ151-1~5・8~12→クロ181-1~5・8~12
クハ181形
  • クハ151-1~12→クハ181-1~12
  • クハ161-1~3→クハ181-41~43 
  • 44・45(161系として製造、落成時に181系として登場)
サロ181形
  • サロ151-2~4・6→サロ181-2~4・6
サロ180形
  • サロ150-1・2・4~6・11→サロ180-1・2・4~6・11
サハ180形
  • サハ150-1~24→サハ180-1~24
サシ181形
  • サシ151-1~12→サシ181-1~12
  • サシ161-1・2→サシ181-41・42 
  • 43(161系として製造、落成時に181系として登場)

[編集] 50・60・70番台 クロハ181形・サハ181形

151・161系が181系に改造された際に、もしくは後に車種間改造されたグループである。

クロハ181形を除くこの時の改造では、後述の100番台に準じた「山用改造」が施工された。同時に耐寒・耐雪工事も施工されたが、十分ではなく、また長年の高速走行による各部の疲労も相まって後年の豪雪時に故障が多発することとなった。後継車の登場により全車1979年にまで廃車されている。

モハ180形50番台
モハシ180形→モハ180形の改造車。関東地区に残った車両については181系化の際に改造されているが、向日町に転属した車両についてはビュフェの利用率低下を受け1970年10月の営業廃止後、1971年にかけて11を除いて[29]改造された。
種車の客室部は流用のうえ、ビュフェ設備および中央出入台・前位側トイレ・物置の撤去、後位側に出入台・トイレ・洗面所の新設などが行われているが、屋根上クーラー配置や出入台寸法などがオリジナルのモハ180形と異なる。
  • モハシ150-6・8・9→モハ180-56・58・59
  • モハシ180-1~5・7・10・12・13→モハ180-51~55・57・60・62・63
クロハ181形
パーラーカー特別座席料金は、東海道時代の1,650円から500円に大幅値下げしたにも拘らず利用率が低く、貴賓用として残された11・12以外は開放室を二等室に改造し、クロハ181形となって運用された。開放室割付の関係から二等室客室のシートピッチは在来車よりも広い980mmとし、荷物棚は強度の関係で吊り下げ型のパイプ式に変更されている。外観はサハ181形と異なり窓割は変更せず、等級表記文字の取付位置が区分室寄に変更した以外は種車と同一となっている。
  • クロ181-1~5・8~10→クロハ181-1~5・8~10→1~5・8~10
クハ181形50・60番台
このグループはオリジナルのクハ181形と比較すると車体長が500mm短いため、出入台部とトイレ・洗面所部の寸法を短くしたほか、定員をオリジナル車と同一の56名に合わせたため、シートピッチを5mm狭くし窓間柱も狭くなり、トイレ・洗面所の側窓は種車の窓ガラスを流用したことから小窓としたことが相違する
  • クロ150-3→クハ181-53
  • クロ151-6→クハ181-56
  • クロ181-11・クロハ181-4・8~10→クハ181-61~65
クハ181形70番台
山陽特急には1965年以降485系・583系が投入され、余剰となった181系は上信越・中央東線への転出を開始するが(転出は1973年に完了)、先頭車不足のためにサハ180形を浜松工場で改造した。種車の前位寄りに100番台に準じた前頭部が追設され、連結面間長さなどの諸元は台枠を延長改造しておりオリジナルのクハ181形と同様である。本区分番台は一次車(1~6)、クロ150形改造車の53とともに運転台直後のユニットクーラーに外気取入口が装備されていない点が特徴となっている。
  • サハ180-1・13→クハ181-71・72
クハ180形50番台
信越特急「あさま」「そよかぜ」増発用に改造されたが、すべてクロ181・クロハ181形からの改造車であり、特徴あるパーラーカーの車体は姿を消した。
  • クロ181-12・クロハ181-3・1・2・5→クハ180-51~55
サハ181形
種車から専務車掌室・ビジネスデスク・回送運転台・前灯・標識灯を撤去、窓幅・窓配置も全面的に変更している。トイレ・洗面所がサロ時代のまま前位にあるのがサハ180形と異なる点だが、定員は同一の72名。出入台妻面に回送運転台の窓が残っているのが特徴となっているほか、後位寄り車端部屋根上の排気送風機取付位置に種車の面影が残されている。
1・5は直接サロ151形から改造されているが、4は一旦サロ181形に改造後の再改造で竣工している。
  • サロ151-1・サロ181-4・サロ151-5→サハ181-1・4・5

[編集] 100番台

1966年に「とき」増発、新たに設定された「あさま」「あずさ」用として45両、1969年に増発用として8両が製造された。当初から181系として新製されたグループで、台車はDT32C形とTR69C形を使用し、他のDT32系列と比較してマクラバリ高さが低くなっているのが特徴である。また、100番台にグループ分けされるものの、クハ180形は新形式のために車番は1~となっている。

碓氷峠通過のため「あさま」「そよかぜ」に充当される車両では「横軽対策」が、中央東線の狭小トンネル対策である通称「山用対策」が施工され、山陽本線系統の車両とは異なる形態を見せることになった。この山用対策は、以後関東地区への転属車すべてに行われることになる。

モロ181・180-101~103
モハ181-101~114
モハ180-101~115
冬季、主電動機への雪の吹込みを防止するため、電動車の室内に冷却風取入口が設けられた。この設備は同線に使用される改造車にも施工されている。
モハ180形がユニット数より1両多いのは、山陽本線でのビュフェ営業休止に伴い、モハシ180形→モハ180形への改造工事を行うことになった際に休車を少なくするための措置である。モハ180-115は当初モハ181-4とユニットを組むが、その後はモハ181-23→モハ181-43と生涯で3度もユニットの相方が変わるという希有な経歴を残した。
クハ181-101~109
クハ180-1~5
クハ180形は、信越本線横川~軽井沢間でEF63形との連結のために製造された。自動連結器カバーは省略され、開放テコやジャンパ連結器などの装備が備えられている。
前面スカートはスノープロー取付のため、161系(→181系40番台)同様ミニスカートとなった。
1969年製造のクハ180-5・181-109のタイフォンには中折れ式のシャッターが装着され、ボンネット内外気取入グリルが同年製造のクハ481-30以降と同型の縦型スリットに変更されている。
サロ180-101
1969年の増備車。100番台唯一のサロで新製配置は長野運転所であった。
サシ181-101~103
サシ181形100番台にはベネシャンブラインドが設置されたことも特筆され、また当初は「あずさ」にも使われることから車内壁面に中央東線沿線の名峰(101・穂高、102・槍ヶ岳、103・白馬)のレリーフが各車個別に飾られるなどの配慮がなされていた。

[編集] 200番台

1978年10月2日の白紙ダイヤ改正で、「とき」は183系電車1000番台と編成を統一することになったが、余剰となったモロ181・180形は車齢の若い100番台のみが普通車に格下げ改造されることになり誕生した区分番台である。

上越新幹線開業時に廃車が予想されていたため改造は最小限に留められ、グリーン車特有の小窓のままであり、シートピッチと窓割が一致しないままであった。モロ180形の洋式トイレは和式に変更されている。モハ181形は改造時に乗務員室を客室化したため、定員がオリジナルのモハ181形より4名多い72名[30]となっている。
  • モロ181・180-101~103→モハ181・モハ180-201~203

[編集] 1000・1050・1100番台

1978年「とき」の編成変更により、モロ181・180形ユニット・サハ180形・サシ181形が編成から外されたが、新たにサロの必要性が生じたために新造もしくは改造によって落成したグリーン車のグループである。

サロ180-1001
「あさま」「あずさ」からの181系撤退後も長野運転所で休車のまま保留されていたサロ180-101を新津工場(現・新津車両製作所)で整備改造と改番を行った。
  • サロ180-101→サロ180-1001
サロ181形1050・1100番台
新製車は上越新幹線開業後の転用を考慮してサロ481形1000番台を基本に設計されており、MG・CPを装備する。また181系としてはクーラーが唯一AU13EN形を搭載している。
改造編入車は上越新幹線開業後は廃車とする計画であったことから初期のサロ481形が種車に選定された。改造編入車とともにオリジナルの181系と床面高さが揃っておらず、貫通路に桟板を置き対応した。このため改造内容は幌及び桟板は1100番台と同様なものを取付け、車端ダンパの移設、サボ受けの追設など最小限にとどめられた。また181系としては唯一側面方向幕を装備していた。
  • サロ481-26~28→サロ181-1051~1053
  • サロ181-1101~1106(新製車)

1982年11月の181系引退後には、1100番台は当初の予定通りにサロ481形1500番台にサロ180-1001・181-1051・1052はサロ110形に改造され、1053のみが廃車となった。サロ181形は、1976年に一旦全車廃車となり廃形式となっているために2回廃形式になったという珍しい経歴を持っている。

[編集] 運用実績

各列車項目と山陽本線優等列車沿革の項目も参照のこと。

[編集] 田町電車区→新潟運転所・長野運転所

1964年末に田町電車区残留の151系を出力増強・耐寒耐雪化改造[31]の上で臨時「とき」から運用を開始した。1965年3月には「とき」は2往復に増強。編成もサハ180形を組込み10両化したが、1966年3月にはMG負荷平均化のためサハの連結位置を7号車から方向転換のうえ4号車に変更された。同年10月ダイヤ改正には新製車の100番台も登場し、「とき」はさらに1往復増発の3往復に。また、信越本線上野~長野間の「あさま」2往復に碓氷峠通過の制約で食堂車不連結の8両編成になるも投入された。さらに12月には「とき」と共通運用となる中央東線新宿松本間に「あずさ」2往復が運転開始[32]

1967年10月1日、新清水トンネル開通に伴うダイヤ改正において「とき」1往復が東京駅乗入れを開始。
1969年7月1日付で181系運用移管が行われ、田町電車区から新潟運転所(現・新潟車両センター)に94両、長野運転所(現・長野総合車両センター)に32両が転出し、田町区から姿を消した。
立山黒部アルペンルートの開通にともない、1971年4月26日から「あずさ」のうち1往復が大糸線[33]に季節列車として延長運転される。

1973年10月改正では、東京~上野間の回送線が東北・上越新幹線工事の影響で廃止されることになり、同年3月31日をもって「とき」「あさま」「そよかぜ」の東京駅乗入れは中止。「あずさ」運用が新潟運転所から長野運転所に移管され食堂車が不連結となり、一部車両が新潟から長野に転属している。また、増発分の一部列車には幕張電車区(現・幕張車両センター)の183系0番台が投入された

増発用車両は1969年6月新造された9両の他は、向日町運転所車の転属によって確保されており、1968年1972年1973年の3回に渡ってまとまった両数の転属が行われた。

山陽系統から撤退し上信越・中央東線での181系運用も安泰と思われていたが、1973年のクリスマス前後から中越地方に豪雪が襲い、12月28日までに上越線を中心に233本の列車が運休し、181系でも雪が原因となる故障が目立ち始め翌1974年1月には「とき」最大5往復が運休する事態に発展した。

耐寒耐雪装備を備えているものの勾配線区かつ冬期間は豪雪となる上越線を120km/hで走行する運用には相応の負荷がかかり、経年変化も相まって不良動揺や貫通扉のガタつき、厳寒時における扉前席への寒気侵入などの不具合や走行にまで影響を与える故障が続発[34]した[35]

このため、国鉄は耐寒耐雪装備を大幅に強化した183系電車1000番台を急遽開発・投入[36]することとし、同年12月28日から12両編成で使用が開始され、「とき」13往復中3往復を置換えた。この183系は次第に数を増やし、翌1975年10月には過半数の7往復を占めるまでになり、181系も183系に合わせて12両編成に増強された。1975年7月には、碓氷峠での連結両数制限のため8両以上での運転ができなかった「あさま」の輸送力増強のため、EF63形との協調運転により12両編成が可能な189系電車に置換えられた。長野車は、「あずさ」用の30両を除いて主に車齢の若い100番台車は「とき」用として新潟へ転属、玉突きで初期車は新潟車も含めて余剰廃車[37]された。また、同年12月には「あずさ」も189系および183系0番台に置換えられて消滅。この時点で181系109両は保留車のサロ180-101を除く、108両が新潟に集結し「とき」に使用されることとなる。なお、翌年9両が廃車となり1977年4月の段階で、本系列は長野保留車1両・新潟99両の計100両となった。

1978年10月のダイヤ改正では、抜本的な体質改善と183系との編成統一が実施され、それに先立ち183系の追加投入により老朽車が淘汰され64両に減少。運用は14往復中わずか4往復となった。

1982年11月15日国鉄ダイヤ改正の上越新幹線開業に伴い、全車が営業から退いた。改正に先立ち同年春に本系列充当「とき」4往復のうち1往復が183系に振替となり3往復での運用が最後となったが、9月からは新幹線の開通を待たずに検査期限が切れた車両が多発し、新潟運転所と幕張電車区の183系による代走や運休としたため、末期は全く走らなかった日もあった。一部の車両はすぐに廃車されることなく保留車とされていたが、他形式への改造も含め1986年までに181系はすべて廃車・廃形式となっている(詳細は「改造工事の項」も参照のこと)。

[編集] 季節列車への投入

1960年代後半、好景気と所得倍増計画などにより以前にも増してレジャーの多様化が進んだ。また国際的避暑地である軽井沢のみならず、新たに開発された首都圏周辺のリゾート地やスキー場も脚光を浴びてきたこともあり、当時の国鉄は旅客輸送での増収を図ろうと臨時特急列車を多数設定し、本系列も投入された。

「そよかぜ」東京・上野~中軽井沢
1968年7月に157系電車で運転が開始されたが、同年9月に「あさま」用の8両編成による運転に置換えられた。その後1975年の189系置換えまで181系での運転が続けられる。
くろいそ」上野~黒磯
リゾート別荘地として開発が注目されはじめた那須高原へのアクセスのため1969年10月から主に「あさま」用8両編成を充当して運転が開始された。181系電車が唯一担当した東北本線特急でもあったが、1973年10月1日改正で廃止された。
新雪」上野~石打浦佐小千谷・長岡
豪雪地帯で沿線にスキー場が多数存在する上越線で1969年シーズンから運転が開始されたスキー特急。「あさま」用8両編成。「とき」用10両編成、さらにそこからMM'ユニット1組をカットした8両編成が充当された。
「あさま銀嶺」上野~長野・黒姫妙高高原関山
1971年12月から信越本線沿線のスキー特急として運転された。初年度の行先は関山であったが、後年には黒姫・妙高高原なども設定されている。また、下りの一部列車は夜行運転。上りは長野始発の設定などの変則運転も行われた。
長野運転所の8両編成と共に金沢運転所の489系も投入されたが、1974年のシーズンを最後に運転が終了した。
「あずさ銀嶺」新宿~松本・白馬
1972年12月~翌1973年3月にかけて新潟運転所の10両編成を使用して、運転。下りは中央東線初の夜行特急で大糸線白馬までの運転。上りは松本始発という変則運転だった。
なお、前面の愛称表示は「あさま」「あずさ」のままで銀嶺[38]は付与されなかった。

[編集] 向日町運転所

東海道新幹線開業で向日町運転所に転属した151系120両も1965年夏頃から、181系化改造工事を受けることになるが、山陽本線系統では一等車の利用減少に伴い同年12月からサロ1両を減車。これらの車両は、一部格下げの上で田町に再転属となった。また、パーラーカーのクロ181形も利用者の減少から1966年から翌年にかけて貴賓車予備の11・12を除いて順次開放室を二等車に改めてクロハ181形に、さらに1973年まで新潟・長野転属時にクハ181形またはクハ180形に改造されている。

1968年10月のダイヤ改正では、軌道強化工事完了に伴い最高速度が120km/hに向上し運転時分の短縮が実現。山陽系統の181系使用特急は「しおじ」「うずしお」の2本建となり、MG負荷の平均化のため7号車に連結するサハ180形は方向転換の上4号車に変更された。

山陽新幹線岡山開業による1972年3月15日国鉄ダイヤ改正では岡山~下関間の「はと」3往復と新大阪~下関間の「しおじ」1往復となり、余剰となった24両が新潟・長野に転属。さらに「はと」から485系への置換えが行われ、1973年5月には最後まで残っていた「しおじ」1往復の運用も失い、全車が上信越・中央東線へ転用され向日町運転所から181系が消滅した。

[編集] 151系・181系の主な改造工事

151系・161系⇒181系に改造する工事、またクロ・クロハ181形→クハ180形、クハ181形やモハシ180形→モハ180形以外にも数々の改造工事が行われている。ここでは、上記改造工事を除いた車両性能の変更や車体構造に関係する工事について触れる。

[編集] 1958年製造車改良工事

いわゆる20系として落成した、1958年製の24両に行われた工事である。新性能電車のフラッグシップ的存在であった電車でもまだまだ改良の余地が多く、151系としても増備車が登場する度に微妙なマイナーチェンジともいえる改良が加えられているためにある意味で試作車の量産化改造に近い部分もある。改造工事は1959年の暫定12両化時と1960年の「つばめ」「はと」151系化時、1961年ダイヤ改正前の3回にわけて行われた。改造施工はいずれも大井工場。

第1回改良工事
AU11形ユニットクーラーに単独操作スイッチ取付。車端ダンパ設置、三等車カーテン取替、主抵抗器・減流抵抗器改造。運転台上部前灯電源の直流化。MGフラッシュオーバー対策。
第2回改良工事
普通車座席の改良。無線室の改造。排気送風機の設置。外幌をジッパー式に交換。クハ151形については、前面連結器を簡易連結器から並形自動連結器に交換。連結器カバーの大型化。予備笛、ホイッスルカバーの取付。前面愛称表示名板を交換できるタイプに取替が行われている。
第3回改良工事
主抵抗器交換。主抵抗器・補助抵抗器側面に着脱可能な覆いの取付け。主電動機冷却風を妻面風洞からに変更[39]。雨水漏入防止対策として主電動機点検フタの密着を強化。

[編集] サロ150形回送運転台取付工事

1961年10月1日のダイヤ改正ではサロ1両が減車されることになったが、同時に増発され編成も5本増備されることになったために余剰となったサロ150形を新編成に組込むと同時に回送運転台を取付ける改造工事[40]を行った。3位側に回送運転台と妻部に窓・前灯・尾灯等の新設、又後位寄りの貫通引戸を4位側に引くように変更などが施工された。なお、1962年増備の11は当初より回送運転台を設置して登場している。

[編集] サロ150-3→クロ150-3改造工事

詳細は、こちらを参照のこと。

[編集] サロ151形トイレの和式化改造

サロ151形は洋式トイレ付で登場したが、1961年10月からの11両編成化により、和式トイレ付のサロ150形と共用で洋式トイレ付のモロ150形の次位に連結されるため、1962年6月から翌年3月にかけて大井工場で和式トイレに改造した。

[編集] 台車枠交換

151系・161系の台車枠は、DT23・TR58系の台車を履くが、厳密には次のように分類される。

  • 1958年製造車(20系として落成した車両)
  • DT23・TR58
  • 台車枠6mm、ナイフエッジ式揺れ枕つり、上下分割式補助空気室、マイクロスイッチ式空気バネパンク検出装置
  • 1959年製造車(「こだま」暫定12両化増備車として落成した車両)
  • DT23・TR58
  • 台車枠6mm、丸ピン式揺れ枕つり、上下分割式補助空気室、差圧式空気バネパンク検出装置
  • 1960年・1961年製造車
  • DT23A・TR58A
  • 台車枠6mm、丸ピン式揺れ枕つり、上下分割式補助空気室、差圧式空気バネパンク検出装置、セルフシール式空気バネ
  • 1962年製造車
  • DT23B・TR58B(161系は、DT23C・TR58B)
  • DT23C・TR58Bのみ台車枠9mm、丸ピン式揺れ枕つり、上下分割式補助空気室、差圧式空気バネパンク検出装置、セルフシール式空気バネ

1963年9月8日に上り「第1こだま」の東京折返し点検時、モロ151-8の台車側はりに亀裂が発見された。151系全車を点検したところ、6mm厚の台枠鋼板を使用していた台車が運転の酷使により亀裂を生じたもので、時を同じくして大井工場で中空車軸の亀裂が発見された。中実車軸への交換をかねて同年の電動車21両・付随車6両から台車枠鋼板を9mmとした改良型のDT23Z・TR58Z形への交換が開始され、181系改造時にDT23C形以外の全車の台車をDT23Z・TR58Z形に交換している。

[編集] シンクロファックス取付

増加する外国人客に対して、英語の車内放送を行うことになり、サロ151・サロ150形、モロ161形の乗客専務車掌室に磁気録音されたシートの再生装置シンクロファックス[41]が取付けられ、1963年6月10日より使用開始した。

[編集] 九州乗入れ対策改造

1964年10月1日のダイヤ改正で120両が向日町運転所に転属したが、その運用の中には新大阪~博多間運転の「つばめ」「はと」も含まれており、電気機関車牽引で交流電化九州島内へ乗入れ、電源車サヤ420形からサービス用電源の供給を受けられるように6編成が改造された。改造内容は下記の通り。

  • 全車に補機駆動電源帰線引通しの設置
  • クロ・クハ151形にブレーキ管・元空気溜管延長・ジャンパ栓増設とこれに伴うスカートへの切欠きを実施
  • クロ151-1・4・5・8・9・11 クハ151-1・4・5・7・9・11に施工
  • モロ151形とモハ151形はパンタグラフを二重鎖錠のPS16E形に交換
  • モロ151-1・4・5・7・9・11 モハ151-1・4・5・11・14・15・17・18・22・23・26・28に施工

田町区所属の特1・4・5・7・9・11編成に1964年4月~8月にかけて浜松工場で改造が行われ、改造車は側面ナンバーを赤く塗装して他の編成と区別した。翌1965年に481系が増備されたために151系の九州乗入れは中止され、乗入れ対策車は181系化改造時と同時に復元されて[42]いる。その際に一部のクロ・クハ181形はスカート警笛部の穴が完全に埋め込まれるなどの変形車が出現している。

なお、九州乗入れ改造が決定するまでに次の4案が考慮された。

  • 1案 151系を現行交直流電車と同様な方式の交直流電車に改造
  • 2案 交流区間の補機電源をサシ151形に搭載
  • 3案 交流区間の補機電源として全編成分の容量を持つ電源車を新製
  • 4案 交流区間の補機電源として全編成分の容量を持つ交直流電気機関車を新製

交直流化改造は、予想以上に改造費が大きく工期も少なくとも8ヵ月必要であることから断念、サシ151形改造案も工期・費用が予想外に大きいことから選に漏れた。専用機関車案は特殊な少数の新形式がおこされることになるため好ましくなく[43]、電源車方式は編成組成上は芳しくないが、準備が出来次第直ちに運転可能という大きな利点があることから決定された。電源発生装置は最も手戻りの少ないこと及び運転上支障の少ないこと等を考慮して、将来モハ420形への転用を前提としたサヤ420形電源車が新製され、暫定的に151系による鹿児島本線乗入れが実施されることになった。

[編集] 山用改造

1966年12月、中央東線新宿~松本間で「あずさ」の運転を開始したが、高尾以西の狭小トンネル対策として行われた改造。

  • クハ181形運転台屋根上の前灯、補助警笛、ウィンカーランプの撤去。
  • モロ・モハ181形パンタグラフ折畳み高さを40mm低くする(パンタグラフ台の高さを詰めることで対応)。

この処置は、100番台車では製造時から行われているが、田町電車区所属の0・40番台車にも施行された。また、向日町運転所所属の車両が関東地区に転属する際にも施行された。

[編集] 横軽対策

信越本線横川軽井沢間の碓氷峠は最大66.7‰の急勾配のために同区間を通過するためには、専用補機のEF63形の連結が必要とされる上、8両までの制限で推進・牽引運転が行われていた。信越特急「あさま」に181系を投入する際に、電気連結栓などの装備が備えられたクハ180形が製造された他、この区間を通過する181系には次の改造が施行された。

  • 空気バネパンク装置の設置
  • 非常ブレーキ吐出弁絞り追加
  • 台枠ならびに連結器の強化、連結器緩衝装置容量の増大。

[編集] 「ロールマーク」改造

1970年代前半に向日町運転所属のクロハ181-3・5・8・9とクハ181-3・5・7・9・11が、吹田工場ヘッドマークを独特の「ロールマーク」式に改造された。これは、盗難防止とヘッドマークがかなりの重量を持っていたため、交換作業の省力化という見地から行われた改造で電動の自動巻取式。故障時には、ヘッドマーク正面の向かって右側に取付けられた対応用クランクハンドルの差込口で手動で動かすことも可能なものであった。

もちろん従来のプラスチックヘッドマークも装着可能である。向日町から転出後は、ロールマークは使用されていないが、クランクハンドルの差込口が残されているので識別は可能である。難点は、奥まって付いているため晴天の日中判読しにくいことであった。

[編集] クハ・サハ180形両渡り改造工事

181系では、サロ並びにサシ・クハ181形が両渡り構造になっており、この車両を境に引通線がクロスされていた。信越特急「あさま」運転開始時には8両編成までの制限があったためにサシを組込めず、また碓氷峠通過車両は安全上、峠の下側に重量のある電動車を集中させる策が取られたためにサロを長野方のクハ181形の次位に組込む形になった。そのため引通しをクロスさせることが出来ず、クハ180形は偶数向固定となり片渡り構造となっていた。しかし、「あさま」「あずさ」189系化で捻出したクハ180-4・5を新潟運転所に転属させ「とき」に転用することになるが、そのままでは編成に組込めないために転出前に長野工場で両渡り構造への改造工事を行っている。

サハ180形の両渡り改造工事は、「とき」の第一次12両化[44]の際に行われた。

  • 「とき」10両編成と第一次12両編成
  • (上野)TcMsMs'TTdM'MM'MTc(新潟)(6M4T)
  • (上野)TcM'MTMsMs'TdM'MM'MTc(新潟)(8M4T)

12両化の際にモロユニットを方向転換して組込めば、サシ181形を通して引通しがクロスされるのでそのまま組込めることになるのだが、作業時間や保守の問題からサハ180形を両渡り構造に改造して12両化することになった。

なお、参考までにこの12両化前の1975年4月14日に上越線で土砂崩落事故が発生し、5月26日の復旧までに運転本数が削減されたために輸送力増強のために4月26日から5月26日まで「とき」が暫定12両で運転を行った。この時の編成はサハ180形の改造工事が完了していないために下記の編成となっている。

  • 「とき」上越線土砂崩落事故による暫定12両編成
  • (上野)TcMsMs'TTdM'MM'MM'MTc(新潟)(8M4T)

[編集] 191系電車への改造

走行中に架線信号設備を同時に検査する事業用車に1973年5月、小倉工場で改造した。改造後は、田町電車区に配置され主に首都圏の通勤路線で使用された。

  • サハ180-5→クモヤ191-1(改造:1973.5.23 廃車:1983.2.28)
  • モハシ180-11→クモヤ190-1(改造:1973.5.23 廃車:1983.2.28)

[編集] サシ489形への改造

サシ181形100番台を1972年に長野工場で489系に転用改造した形式である。台車を改造の上で床面高さを揃えているが、181系と485系列では車体断面が微妙に違うために若干の違和感が見られる。また、回送運転台の増設も施工している。

  • サシ181-102→サシ489-101(改造:1972.2.7 廃車:1986.12.23)
  • サシ181-103→サシ489-102(改造:1972.3.17 廃車:1986.12.23)

[編集] 485系への改造

1978年に投入された新製グリーン車は計画どおり485系に編入され、先頭車化改造を経て現在も4両が残存している。ジョイフルトレインへの改造車は構体を新規に製作しているため当時の面影はない。

  • サロ181-1101→サロ481-1501→クハ481-1104→クロハ481-1501 元「ビバあいづ」用。勝田電車区(現・勝田車両センター)波動・臨時輸送用K40編成
  • サロ181-1102→サロ481-1502→クハ481-1105→クロ485-5 新前橋電車区(現・高崎車両センター)「せせらぎ」
  • サロ181-1104→サロ481-1504→クハ481-1107→クロ484-7 新前橋電車区「せせらぎ」
  • サロ181-1106→サロ481-1506→クロ484-5 幕張電車区(現・幕張車両センター)「ニューなのはな」
クハ481-501 赤帯あり(元・クハ181-109)
クハ481-501 赤帯あり(元・クハ181-109)
クハ481-502(元・クハ180-5)
クハ481-502(元・クハ180-5)

また1984年には、2両が特急列車の短編成化に伴う先頭車不足のため485系に改造され九州に転出した。国鉄分割民営化後もJR九州に承継され、最後の1両は1993年に廃車となった。これをもって、「こだま形」の流れを汲む181系はすべて姿を消している。

  • クハ181-109→クハ481-501(1993.11.17廃車)
  • クハ180-5→クハ481-502(1991.8.19廃車)

[編集] サロ110形への改造

改造グリーン車の一部が1983年東海道本線東京口ローカル列車の113系用に転用された。しかし、これらの改造グリーン車は老朽化や2階建てグリーン車(サロ124・125形)の登場による置換えで全車廃車となった。

  • サロ180-101→サロ180-1001→サロ110-301(1990.12.26廃車)
  • (サロ481-26)→サロ181-1051→サロ110-302(同上)
  • (サロ481-27)→サロ181-1052→サロ110-303(1991.1.28廃車)

[編集] 事故廃車

151・161・181系の総製造両数は231両であるが、そのうち2両が事故廃車により車籍を抹消されている。

[編集] クロ151-7脱線大破事故

東海道新幹線開業直前の1964年4月24日、東海道本線草薙静岡(当時)間を運転中の下り「第1富士」が踏切を横断中のダンプカーと衝突。この事故で大破したパーラーカークロ151-7は廃車となったが、すでに東海道新幹線開業後に備えて九州乗入れ改造をはじめとする転用計画がはじまっており、深刻な車両不足状態[45]となってしまった。なお、これは国鉄新性能電車の廃車第1号でもある。

[編集] 運用面での対応

直後にゴールデンウィークを控えていたこともあり、翌日から次のような運用で運転が確保された。

4月25日~5月6日までは上り「第2こだま」と下り「第1こだま」は、宮原電車区の153系電車11両編成による代替運転(いわゆる「替えだま」)とする。
  • (←大阪)TcM'MTs'Ts'TbM'MM'MTc(東京→)
5月7日~5月31日までは不定期特急「第2ひびき」を運休とし、下り「第1こだま」上り「第2こだま」は捻出した157系電車9両編成による代替運転とした。
  • (←大阪)McM'McM'TsTsTM'Mc(東京→)
もしくは、
  • (←大阪)McM'TsTsTM'McM'Mc(東京→)
このため、定期「ひびき」は増結を中止し7両編成での運転となった。
6月1日~6月30日までは「特8編成[46]」の大阪方先頭車をクハ161-3に差し換えて投入する。
  • (←大阪)クハ161-3+モロ151・150-8+サロ150-2+サシ151-8+モハシ150-9+モハ151-21+サハ150-20・8+モハ150-8+モハ151-20+クハ151-8(東京→)
この影響で上越特急「とき」は157系+161系の混成編成となったが、6月16日新潟地震が発生し、17日以降26日まで運休となった。その際の暫定編成は次に示す。
  • (←上野)クハ161+モロ161+モロ160+サシ161+モハ160+モハ161+サハ157+モハ156+クモハ157(新潟→)
7月1日~9月30日までは「特8編成」のクハ161-3をクロ150-3に差し替えた編成での運転とする。
このため、当時の編成案内には「1号車は日により展望車でない1等車の場合がある」との注意書きが記されることになった。

[編集] 代替改造車クロ150-3

代車としてサロ150-3[47]を緊急に浜松工場で先頭車化改造することになり、クロ150-3となった。改造内容は、車内設備はサロのまま回送運転台側の12名分の客室をつぶし運転台を設置したために(定員は40名に変更)、乗務員室扉の直後に客用扉がある構造になり、クハ181形とも後のクロ481形とも形の異なる構造であった。

6月27日には落成して7月1日より投入されたが、わずか3ヵ月後には東海道新幹線開業と181系化改造のために戦線離脱し、再度浜松工場に入場。今度は運転室部分を残し客室部分を新製し、クハ181-53に再改造された。しかし、元々が中間車で前回改造時は時間的制約から台枠を延長しなかったためオリジナルのクハに比べて車体が60cmも短く、新しく製造された客室部分は窓間の柱をつめ、シートピッチも5mmずつ縮め出入台・トイレ・洗面所全てにわたり寸法を切詰めての改造となった。181系時代には、田町電車区→新潟運転所と渡り歩き「あずさ」「とき」で活躍した。

この2回の改造により、サロ時代の車両構体は全く使われていない。2回の継ぎ接ぎ改造、いわゆるニコイチ車体」により新車時から引継いでいる物は台枠と一部機器のみとなってしまう。またこの改造による構造上の問題からか。乗務員からは「変な振動や挙動を示す」と評判もよくなく、1975年の「とき」への183系1000番台投入により最初の余剰車となり廃車解体されている。

なおクロ150形は誕生から廃形式までわずか4ヶ月ほどで、国鉄新性能電車としても最初の廃形式でもある。

  • サロ150-3→クロ150-3→クハ181-53

[編集] モハ181-202踏切炎上事故

1979年1月、上越特急「とき」運転中にモハ181-202は踏切事故に遭遇し炎上。事故廃車となって