田中角栄

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田中
たなか かくえい
生年月日 1918年5月4日
出生地 日本の旗 日本 新潟県刈羽郡二田村
没年月日 (1993-12-16) 1993年12月16日(75歳没)
出身校 二田高等小学校卒業
前職 田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長
所属政党日本進歩党→)
民主党→)
同志クラブ→)
民主クラブ→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党→)
無所属
称号 陸軍上等兵
西山町名誉町民
一級建築士
配偶者 妻・田中はな
親族 長女・田中眞紀子
娘婿・田中直紀
サイン

日本の旗 第64-65代 内閣総理大臣
内閣 第1次田中角榮内閣
第2次田中角榮内閣
第2次田中角榮第1次改造内閣
第2次田中角榮第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1974年12月9日
天皇 昭和天皇

内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1972年7月7日

日本の旗 第67-69代 大蔵大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1965年6月3日

日本の旗 第12代 郵政大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

選挙区 新潟県第3区
当選回数 16回
在任期間 1947年4月26日 - 1990年1月24日
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田中 (たなか かくえい、1918年大正7年)5月4日 - 1993年平成5年)12月16日)は、日本政治家建築士衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第33代)、内閣総理大臣(第6465代)等を歴任した。

来歴・人物

自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論は一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いた。その後の田中金脈問題への批判によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国航空機製造大手ロッキード社の全日空への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監され自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。また高等教育を受けていない学歴を持ちながら首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。さらに次世代のリーダーの一人として総理総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた[1]

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

経歴

小学校卒業まで

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[2]。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[3]。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり[注釈 1]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かったが、彼が学んだ当時の中央工学校は、学制上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという[4]。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ[5]

上京

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた[6]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[7]

1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[8][注釈 2]。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う[9]。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた[10]。一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた[11]

1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[11]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[11]。この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(昭和11年商業4年修了)[12]にも籍を置き、商事実務を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知される[13]1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[14]内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[15]1940年(昭和15年)3月、入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[16]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し[17]、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[17]

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る[18]。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した[18]。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた[19][20]。田中土建工業は戦災を免れる。

国政進出

長岡鉄道社長の頃

1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する[21][注釈 3]。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した[22]。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説をした[22]

1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する[23]。民主党は日本社会党国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た[24]。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く[24]

1948年10月、芦田内閣昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作をおこなった(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する[注釈 4]。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される[25]。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された[26]。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたもののわずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした[27]。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした[27]。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した[28]。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった[29]

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にもおよんだ[30]。その主なものとして建築士法[注釈 5]公営住宅法などがある。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した[31]二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた[31]。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした[31]

民主自由党は1950年3月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった[32]。1955年3月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党とともに自由民主党を結党する。

政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任した[33]。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる[33]。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった[33]。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している(1972年に退任)。

閣僚・党幹部を歴任

首相在任時

首相退陣後

全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスター
  • 1976年(昭和51年)
  • 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
  • 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
  • 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
  • 1982年(昭和57年)11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
  • 1983年(昭和58年)
    • 10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。
    • 12月 - 第37回総選挙11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
  • 1984年(昭和59年)10月 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。
  • 1985年(昭和60年)
  • 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
  • 1987年(昭和62年)
    • 7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
    • 7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告
    • 10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
    • 11月 - 竹下内閣が発足。
  • 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
  • 1990年(平成2年)
    • 1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
    • 2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
  • 1992年(平成4年)
    • 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
    • 12月 - 経世会が分裂。
  • 1993年(平成5年)
    • 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
    • 12月16日 - 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物は正二位大勲位菊花大綬章以上に叙される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。

没後

人間関係

  • 田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、三木と田中は日中国交正常化という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った(詳細は阿波戦争を参照)。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。
  • 大平正芳とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった1961年池田内閣での自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田勇人の側近でもあったからといわれる[48]。「大角連合」と呼ばれた[49]、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった[50]。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた[51]。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り[39]、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた[52]。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。
  • 党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態[53]や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした[54]四十日戦争ハプニング解散)。
  • 正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
  • 東京・神楽坂芸者辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した[55][56][57]。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
  • 2,575坪(約8,500m²)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
  • 中華人民共和国からは「日中国交正常化を決断した偉大な政治家」として尊敬され、小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国共産党政府の要人が田中邸を訪問した。
  • 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。

派閥

小沢一郎(右)と

田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は田中の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」等と評され流行語にまでなった。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜橋本龍太郎小渕恵三小沢一郎梶山静六奥田敬和渡部恒三、他に綿貫民輔野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。

派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を務めた榎本敏夫などがいる。しかし、田中が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。

ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは田中を「闇将軍」と呼んだ。田中自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲く事)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。眞紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。

典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。

芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。

選挙区

自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。

選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。

自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。それでも倒れた翌年1986年の総選挙では本人の肉声が全く伝えられない中で田中はトップ当選する。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。

浦佐駅東口には田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。

外交

ホワイトハウスリチャード・ニクソンと会談

田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。(詳しくは日中国交正常化を参照)これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。

田中はブラジル側にセラード農業開発協力事業という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001年の終了までの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆た耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。

北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せずあいまいな回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。

北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を支持した。当時の大平正芳外務大臣は、同年7月4日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います。」と答弁している[58]

アメリカ合衆国との関係では、初めてのアメリカ大統領(ジェラルド・フォード)訪日があり、日米首脳会談後の共同声明で「日米親善の歴史に新たな1ページが刻まれた」と発表した。昭和天皇香淳皇后主催の宮中晩餐会では日米から182名が出席した。戦後最大規模だった[59]

野党との関係

議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。

民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。 また、民社党の衆議院議員であった和田耕作はロッキード事件の論告求刑の数週間後、「田中前総理と政治倫理」というパンフレットを作り、「角栄の功績を法律論で縛ってはいけない。政治家としての行動規範は検察的求刑には馴染まない。仮に5億円を授受していたとしても、私的に着服したものでも無かろう。政治家の政治倫理の問題を単なる法律違反の論議に矮小化してはならない」「私は政治倫理の消極面を過小評価するつもりはないが、それを必要以上に強調すれば、何もしないサラリーマン的政治家が立派な倫理的な政治家であるかのような重大な錯誤が起こるからである」という内容で、永田町周辺にばらまいた。

公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派や竹下派(後の平成研究会)所属議員の中にも公明党議員や公明党の支持母体創価学会と親密な関係を持つ者が少なくなかった[注釈 6]。自公連立も田中派・竹下派に属した小渕恵三内閣期にはじまっている。

1981年2月に、同じ選挙区で議席を争っていた社会党の小林進の永年在職(25年)議員表彰祝賀会が行われ、その会に田中も招待されたが、田中は「私は社会党の悪口はいうが、小林君の悪口は言ったことが無い。小林君も、自民党の攻撃はするが、田中角栄の攻撃はしたことがない」と挨拶した。

闇将軍

ロッキード事件発覚による受託収賄罪の逮捕、起訴されたことによって自民党を離党したが、すぐに保釈された上に受託収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定[注釈 7]にならないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠でありキングメーカーのポジションであった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派及び田中に近い議員で多く占めた。また、田中が闇将軍として大きく影響力を与えた内閣は「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」とも呼ばれた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。

1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。

語録

  • 三国峠ダイナマイトで吹っ飛ばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」(初出馬時の演説)[60]
  • 「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理
  • 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
  • 「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
  • 「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
  • 「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」(1973年3月17日参議院予算委員会での答弁)
  • 日の丸君が代国旗国歌として定着しているという認識を示した上で)「私はやはりある時期に、もうこの時期にでもいいと思いますが、国歌や国旗というものを明確にやっぱり国権の最高機関としての院の議決を得て法律として制定をすべきときが来ておると思います。そして制定をしたら、これは少なくとも、小中学校とか、国公立の学校においてこれを歌うということは当然でございます」(1974年3月14日参議院予算委員会での答弁)
  • 「よっしゃよっしゃよっしゃ」ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言
  • 「跳ねたが地面に落ちたら干物になるだけだ。魚の干物なら食うが、の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)[注釈 8]
  • 「私は、かつて日本と朝鮮半島が合邦時代が長くございましたが、その後韓国その他の人々の意見を伺うときに、長い合邦の歴史の中で、いまでも民族の心の中に植えつけられておるものは、日本からノリの栽培を持ってきてわれわれに教えた、それから日本の教育制度、特に義務教育制度は今日でも守っていけるすばらしいものであるというように、今度のASEAN五が国訪問で、しみじみたる思いでございました。これはかっての台湾統治の中でも、そのようなほんとうに民族的に相結ばれる心の触れ合いというものが、いまでも高く評価をされておるという一事をもってしても言えるものでございます。」(1974年1月24日衆議院本会議答弁で。この発言が日韓併合を正当化するものだと南北朝鮮から批判を受けた。)
  • 「政治家は発言に、言っていい事/悪い事、言っていい人/悪い人、言っていい時/悪い時、に普段から気を配らなければならない」(伊藤惇夫が2013年6月19日TBSひるおび!』で政治家のブログ炎上に関して語った田中のエピソード)
  • 「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」[61]
  • 「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの。」(1983年10月13日、ロッキード裁判で有罪判決をうけた翌日の言葉)[62]
  • 「中曽根は象に乗っているのに、どうしてきつねやたぬきに乗り換えるのか。」(1987年ごろ、ロッキード裁判の判決直後に中曽根康弘首相が福田や三木に接触していることを聞いて)[63]
  • 「物価とかね公害なんていうのは、大したこっちゃありませんよ。こりゃね、まぁ、雨漏りがするとか、雨戸が飛んだとか、下水が溢れるとかいう程度のもんだ。」(1974年7月7日の参議院選挙へ向けた街頭演説)[64]

エピソード

田中角栄といえば、金に対する大胆さ・豪快さ、そしてわきの甘さが世間で知られており、これに関連する話は枚挙に暇がない。彼は金を最大限に生かして相手の信頼を獲得するために、相手の予想(期待)より多くの金を渡すことも多々あったが、最終的に金が命取りとなった。

  • 田中が初出馬の時、進歩党の大麻唯男から300万(現在の価値で15億)もの資金調達を頼まれ、用意した。以後大麻は田中に頭が上がらなくなり、次回の選挙のとき公認した。
  • 田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)と少し足りない。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策尽き、田中の事務所に電話をかけて借金の申し込みをした。事情を聞いた田中から「分かった。すぐに金を用意するから取りに来るように」と言われ、急いで事務所に向かうと、田中本人は急用で外出しており、議員は留守番の秘書から大きな書類袋を受け取り、その中身を確認すると300万円が入っており、同封されたメモには以下のように書かれていた。「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1. 100万円使ってトラブルを解決すること。2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4. これらの金は全て返却は無用である」その議員は感涙し、後々まで田中への忠誠を守り通した。
  • 派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、田中の事務所に来て300万円の借金を申し込んだ。田中は、わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めねばならないほど追い詰められている相手の窮状を察し、その日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言って、その議員に紙袋を渡した。その議員が、後で紙袋の中を確認すると、500万円が入っていた。実は、その議員は、田中に遠慮して、借金を申し込む際の金額を300万円としていたものの、実際には500万円を用意しなければならない状況であった。その議員は、田中に忠誠を誓った。
  • 福田派に属していた反田中派の議員が入院した際、真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で、挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込み帰った。中を見ると驚くことに300万入っていた。次に派閥のボスの福田が見舞いに来たが、一通りお見舞いの言葉を述べるとぎこちない様子で「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ」と言って白い封筒を差し出した。その議員は不自然だったため礼儀として遠慮すると、福田は封筒を懐に戻した。最後に総理の中曽根が来ると見舞いの口上の後、機械的に茶封筒を差し出した。福田の時損をしているので遠慮せず受け取ると、中曽根は政治家の心得のようなものを説いて、いつまでたっても封筒を離さないので気が引けて議員から手を離すと、中曽根は封筒をしまいこんだ。この議員は以後も福田派に所属していたものの、ピンチの時は党派を超えて田中を支えた。
  • 福田派の福家俊一が入院した時、いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に500万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後4回ほど田中は見舞いに訪れたが、その度に500万を忍ばせていたという。福家は以後、田中の批判をしなくなった。
  • お金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」「資金はあると思いますが、まげて収めてください」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
  • 田中は日本の官僚を極めて高く評価し、「歩く肥大した図書館」と呼んでいた。彼らに取り入るため以下のことを行った。田中が大蔵大臣時代に予算編成で休日返上で不眠不休で頑張っている彼らに、「大臣室に来てくれ」と一人ずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これでタオルでも買ってくれ」と現金の入った封筒を渡し、驚く官僚に田中は「こんなことで影響を受けたりしないだろう?」「お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?」「俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ」といった話術と迫力をもって黙らせた。ボーナスの時期になると、課長以上の人間に対して、総額2000万円以上ものポケットマネーをボーナスとして渡していた。
  • 大臣には、「大臣機密費」という自分の裁量で自在に使える機密費がある。しかし、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と言って、大臣機密費のすべてを事務次官に渡していた。また、それだけではなく、特に課長クラスの人間には目をかけ、飲み食いできる金額を別に渡していた。
  • 田中派ではない村岡兼造が1976年に落選したとき、田中は、村岡にすぐに連絡を入れ「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案した。村岡は断ったが、田中は、「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再び提案した。村岡が話を受け入れると、間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いが来た。「仕事できなくても肩書きだけでもいい」と、さらに30万の給料が支給された。これは、言うまでもなく、すべて田中が手を回しており、村岡は落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった。

政治家としても大胆な逸話が数多い。

  • 田中は、佐藤栄作に仕えて、3回破産したといわれている。佐藤首相との関係は、ほとんど主人と奴隷のようなもので、徹底的に尽くし恩を売っていた。そして、そこまでの佐藤政権への支えがあってこそ、次期総理の座をつかんだといえる。
  • 郵政大臣に就任した直後、田中が郵政庁を視察すると、職員は、昼休みとはいえ麻雀にふけったり、机の上に足を投げ出したりしていた。そして、こうなっている原因を調査すると、省内が二大派閥に割れていることが判明したので、二大派閥のボス同士を人事異動で勇退(更迭)させた。
  • 郵政大臣時代の1957年に全国の民放テレビ放送34社・36局の一括免許交付に踏み切った際に、国会で野党から「テレビジョン受信機が90万台しかないのに、そんなに大量免許が必要か」と追及された。田中は「(1957年から)今後15年くらいでテレビジョン受信機は1,500万台を越えると見込まれます」と答弁した。その後、全国のテレビ局が開局し、テレビジョン受信機が大量生産されて各家庭に普及していったことから、田中は自分の決断が誤っていなかったことを語っている[65]
  • 大蔵大臣時代の1962年に翌1963年度の所得税法改正の審議の際、担当官僚の大蔵省主税局税制第一課長であった山下元利のミスで、誤った税率表を使っていた。審議中であったために、訂正は不可能であったうえ、大事な箇所にも誤りがあり、その税率表を作成した役人たちは青くなっていた。これをマスコミや他の党が黙っているはずがなかったが、山下がこのことを辞表を忍ばせ田中の元に訪れると、笑いながら「そんなことで辞表は出さなくていい」と改定表を持ち、堂々と「先日提出の表には間違いがございます」と何食わぬ顔で訂正した。野党もマスコミも沈黙したままであった。もちろん田中が裏で手を回したのは言うまでもない。このように責任をかぶるということをためらわずし、想像もできないアイデアを出すため(たとえば、道路関係の法律。建設省は田中には頭が上がらなかった)、田中を慕った官僚は非常に多い。
  • 山下元利の田中と師弟コンビを結びつけたのは池田勇人と堤清二[66][67]。1964年、西武グループの創業者で衆議院議員だった清二の父・堤康次郎が亡くなり後援会は、父の秘書を務めたことのある堤清二(以下、堤)に「地盤を受け継ぎ政治に出てくれ」と頼んだ。話は自民党上層部に及び、堤は池田総理から「親父の後を継がないのか」と打診されたが、「自分は政治家に向かないと思います」と断り、池田から推薦された青山俊も堤が口説いたが断り、青山から山下を推薦され、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[66][67]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も亡くなったため、堤は佐藤栄作総理から田中幹事長を紹介され、田中が滋賀県県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビはこのとき始まる[67]
  • 田中がソビエト連邦(当時)を訪れる際、秘書から前もって「盗聴されるから気を付けて下さい」と忠告を受けた。しかし、田中はこの盗聴を逆手にとって「石鹸が悪い」「トイレットペーパーが悪い」と大声で怒鳴った。すると、翌日には上等のものに変わっていた。帰国後、田中は、その秘書官に「盗聴されるのもいいものだ!」と言ったという。
  • 田中は、中曽根とあまり仲がよくなかった。ある時、中曽根が外交のため中国訪問を希望しているという情報が田中に伝わってきた。すぐさま中曽根へ中国の要人への紹介状をしたためて送り、中曽根は大喜びした。
  • 相手を説得させる時は極力一対一で会い、一対一での説得ならば誰にも負けないと豪語した。盟友の大平正芳は「田中とは一対一で会わずに複数で会うこと。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。福田も田中の意見に流されるのを嫌って一対一で会うことは極力避けていた。
  • 決断が非常に早く、陳情等は1件約3分でテキパキこなした。できることはできると断言し、その案件は100パーセント実行され、信頼された。また、できないことはできないとはっきり言い、「善処する」といった「蛇の生殺しのような、曖昧な言い方」を嫌った。本人曰く『「できない」と断ることは勇気がいること』。
  • 交渉をする時、余計なことを言わずに相手を呑んでかかるという手法を使っていた。通産大臣時代にケネディ特使とやりあったとき、「これが決裂したらあなたの責任になる」と恫喝し、ケネディを追い払った。翌年の対米繊維輸出は約十九パーセントの増額であった。ブレジネフの時も領土問題を避けようとすることに対し「入れろ!」と机を叩きながら恫喝。最後には「入れなければ、我々は共同声明を出さずに帰国する」とまでいい口頭で了解させた。
  • 「時間を守れない男は何をやってもダメ」と、人を見る目安とした[68]。ことのほか時間に厳しく、自分も約束した時間は1分たりともおろそかにせず、他人にもそれを要求した。1970年、一年生議員・佐藤守良財界主流との付き合いがなく、田中に当時の日本商工会議所会頭永野重雄を紹介してもらい、引き合わせてもらった。六本木の料理屋で佐藤が約束の時間ギリギリに座敷に入ったら、田中が憮然とした顔で座っていて、田中より遅かった佐藤は『申し訳ありません』と畳に頭をこすりつけ、永野が現れるまでついぞ顔を上げられなかった。お前が先に来て、お客さんを待つ待つのが筋じゃないかと、田中の恐ろしい顔は、佐藤に無言で世の中の"筋"というものを教えた。佐藤は以後、「時間の厳しさは私の人生哲学にもなった」と述べている[68]。さらに「悪口を言わない」というのも持論だった。
  • 新幹線のグリーン車に乗っている時、批判的なある社会党の議員と支援の労組幹部と鉢合わせとなったが、田中は「いやー君にはまいったよ」と賞賛し、直後に支援の幹部に「彼が自民党にいたらとっくに大臣もしくは三役になっている」とおだてた。この話が労組に知れ渡り、「あの先生は本当にできる人なんだ」という噂がたち、その議員は株を大きく上げた。この手の話法を政敵を取り込む際によく使っていた。

また、カネがらみだけではなく特に下の人間を大切にし、そのための努力・気配りを怠らなかった。

  • 驚異的な記憶力の持ち主であることは衆目の一致するところであり、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していた。これらに関しては曰く「まあ美人の顔を覚えるようなものだ」。どうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ」と聞き、相手が苗字で返すと「そうじゃない。苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と言っていた。
  • 全盛期には、7,000〜8,000枚の年賀状が届いていたとされる。差出人は、ほとんど面識のない選挙民が大半であったが、田中は、これらすべてに目を通していた。
  • 秘書に対してはもちろんのこと、守衛の人間にも毎日労いの言葉をかけたり、自分の運転手にまで立派な医者を当てるなどしていた。
  • 田中の秘書の一人が、小佐野と佐藤昭子を切るように辞職覚悟で忠告した。田中は、「前者は了解したが後者は無理だ」と言い、秘書は辞職した。後に、その元秘書が心筋梗塞で倒れたとき、田中は病院へ急行した。田中は当時総理の職を辞していたものの、当然のことながら病院は大騒ぎとなった。田中は、元秘書の担当医を見つけると、いきなり土下座の格好をして、「彼を助けてくれ」と懇願した。そして、手付けとして100万円渡し、その元秘書を励ました。
  • 郵政大臣就任後に開かれたパーティーに、官僚を招き、夫婦同伴で来るように促した。行くと、田中は夫人たちを褒め、前例のないもてなし方に役人たちは田中を見直した。
  • ある時、若い青年団員たちが、新潟の田中邸を訪ねたことがあった。突然の訪問であったにも関わらず、田中は、大いにもてなした。青年団員が、自分たちは田中のライバル福田赳夫の選挙区である群馬三区から来たこと、家族が福田後援会の重鎮であることを田中に伝えると、田中はなおのこと喜び、彼らに鯛を振る舞った。「俺は尻尾を食べるから、君たちは頭を食べなさい。今後おおいに出世し給えよ。」と終始上機嫌だったという。
  • 冠婚葬祭、特に葬儀には細やかな心配りを見せ、そのエピソードは多数ある。
    • 田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターして、田中派の議員とともに葬儀に訪れた。総勢69人国会議員が、人口4,000人の村を訪れた。
    • 河本派議員の渋谷直蔵の妻が死去したとき、田中はすぐさま花を贈った。本葬まで一週間あると知ると「花が枯れてはいけない」と言って、新しい花にその都度取り替えていた。
    • 大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は、誰よりも早く花輪を届けた。そして、「花が枯れたら故人もかわいそうだ」ということで毎日花を取り替えさせた。
    • 社会党の某議員の愛妻が亡くなったとき、田中は、社会党議員の誰よりも早く式場に現れ、関係者を驚かせた。恩を感じた議員は、田中が窮地のときは、党の枠をこえて行動した。
    • 反田中派の松野頼三の妻が亡くなったとき、誰よりも早く駆けつけた。それ以降、松野は、あまり田中を批判しなくなった。
    • 政敵だった社会党委員長の河上丈太郎が亡くなったとき、田中は、わざわざ火葬場まで出向き、12月の寒さと雨の中、2時間立ち続けて野辺の送りまで行なった。
    • 盟友の石破二朗が死去したとき、田中は、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務め、鳥取県民葬より多くの弔問客を動員させた。友人葬が終わって、目白の田中邸に石破家を代表して長男である石破茂が訪れた。田中は、彼に対して「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ。日本のすべてのことはここで決まるのだ」と説き、石破茂を政界入りさせた。
    • 田中派議員の小林春一は、妻を亡くし途方に暮れていたとき、田中から連絡が入ったので、田中の事務所に向かった。そこで、田中からお悔やみの言葉をかけられ、さらに渡された封筒には100万円が入っていた。小林は、その金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。
    • 大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなったとき、田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なったため、大石に電話をして、葬儀は伸ばせないかと尋ねた。大石は断ったが、田中は、当時幹事長で激務であったにもかかわらず、なんとか時間を割いて、葬儀場に駆けつけた。
    • ロッキード事件で田中が逮捕起訴された後であったにもかかわらず、田中の実母であるフメが亡くなったときには、葬儀参列者が3000人を越えた。飾られた花輪は、600本以上あったが、それでも実際に贈られた数の半分以下だったという(あまりにも多すぎて断ったため)。また、この葬儀の前夜には、国鉄のストライキがあったので、東京から6時間かけて車を飛ばして駆けつけた議員(当時は関越自動車道が全線開通しておらず、東京からの車での移動にはこれほどの時間がかかっていた)や、飛行機で新潟へ行きそこから車を使ってまで来た議員もいた。なお、田中は、この日衆院本会議で財特法案の採決が行われるため、田中派議員を中心に、葬儀への参列を自粛し、「本会議への参加」「公務優先」を指示していた(当時は伯仲国会であり、欠席議員が増えると、法案が流れる恐れがあったため)。それでも、衆参両院で約30人の議員が参列した。もし、国鉄ストと財特法案の採決という2つの事情がなければ、相当数の議員が参列していたと言われている。
  • ロッキード事件に関して、東京地裁で169回もの公判等が行われたが、田中は、事前に届出をすませておけば必ずしも出廷する必要はないにもかかわらず、一日も休まず通った。これは、秘書の早坂茂三も同じである。田中は、絶対無罪だと確信していたという。結局、控訴審有罪に対して、上告中に死去したため公訴棄却となった。また、秘書も上告審で有罪確定となり、5億円収受が認定されている。
  • 角栄節と呼ばれる、ダミ声で非常に癖の強い話し方で知られ、長い間、多くのお笑いタレントの物真似の定番だった。首相就任直前、田中事務所の裏金集めを騙る詐欺事件が発生した。犯人は、歌手崩れの若い女性で、対面では秘書を名乗りつつ、電話口では自ら物真似で田中本人を演じるという手口だった。なお、この事件の犯人は、後に逮捕され、服役後まもなく獄中死した(顛末は、佐木隆三「犯罪百科」などに詳述されている)。
  • 軽井沢の別荘に番記者を呼び出し、俺の不都合なことを書くなという旨を言って恫喝したことがある。この暴言を書いたのは、『文藝春秋』と『週刊現代』だけで、他の番記者は記事にしなかった。なお、立花隆は、このことを猛烈に批判している。
  • 郵政大臣就任後、「三つの歌」というラジオ番組に出演し、浪花節の「天保水滸伝」の一節をうたい、「公共放送でヤクザ礼賛の浪花節を歌うな」と抗議を受けたため、あやうく大臣の椅子から落ちそうになったことがある。また、幹事長時代に、木村俊夫の選挙運動に際して、木村の後援会の宴会が催されたことがあった。しかし、木村自身がどうしてもその宴会に出席できなかったため、その代わりとして、木村の秘書が、田中に支援を要請した。田中は、快く了承し、『天保水滸伝』『杉野兵曹長の妻』などを歌って宴会を大盛り上げた。木村は当選し、田中派になった(ただし、表面的には無所属)。
  • 田中が自民党幹事長を務めていたとき、田中にあやかって「角栄」と名付けられた田中姓の少年がいた。ところが、後に田中がロッキード事件で逮捕されると、この少年は学校でいじめを受けるようになり、彼は最終的に「角栄の名が与えられた精神的苦痛は大きい」として、家庭裁判所で改名を認められている(昭和58年3月30日・神戸家庭裁判所)。

ニックネーム、渾名

  • 「今太閤」 - (太閤、豊臣秀吉参照)。
  • 「コンピュータ付きブルドーザー」
  • 「角さん」
  • 「自民党周辺居住者」
  • 「目白の闇将軍」
  • 「下町の総理」
  • 「キングメーカー」

一族

家族・親族

  • 妻:田中はな - 旧姓・坂本
  • 長女:田中眞紀子 - 第131代外務大臣
  • 長男:田中正法 - 4歳で死亡
  • 長女の夫:田中直紀 - 第10代防衛大臣。旧姓・鈴木。鈴木直人の子。
  • 娘:はなの連れ子。池田勇人の甥と結婚。
  • 甥:山科薫 - AV男優・監督※実際には辻和子の甥。
  • もう1人の長男:田中京 - 音楽評論家、作家 ※辻和子との子
  • もう1人の二男:田中祐※辻和子との子

演じた俳優

テレビ番組

田中角栄を題材にした楽曲

  • 「田中音頭」(歌:三波春夫)‐1972年発表。

論文

写真集

そばで密着し2年半で、2万カットにもおよんだ、なお葬儀の遺影にも用いられた。
  • 福田文昭撮影 『田中角栄 張込み撮影日誌1974―1993』葦書房、1994年

論文

その他

  • 初出馬の際氏名のひらがな表記は「たなか かくえ」であった。この時の政見発表演説会の演題は「若き血の叫び」。
  • 演説や答弁を始める時「まーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。
  • バセドウ病の持病があり、暑がりであったことから、東京拘置所に拘置されているときに、アイスクリームを自費で買えるように法務大臣に圧力を掛けて、購入できるようにしたらしい。現在でも東京拘置所ではアイスクリームが自費購入できるとの事。
  • 無類の暑がりで大蔵大臣だった昭和39年に大臣室に冷房を入れさせた。そして冷房の目盛りは常に“強”にして大臣室を冷やしていた。このため大臣の側近や大蔵省幹部の間では真夏の暑い日でさえ「大臣室へ行く時は上着を着ていけ、さもないと風邪をひく」と言われていたという。
  • 学生時代、英和辞典を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという。
  • 馬主としても有名で、1965年の優駿牝馬優勝馬のベロナ(名義は夫人であったが、実質上は田中自身の持ち馬)や、長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。また、1965年には東京馬主協会会長を務めている[69]
  • 中曽根康弘を「遠目の富士山」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、橋本龍太郎を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」、宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ」、池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと評していた。
  • 自らが掲げた日本列島改造論が、田中政権下での狂乱物価やオイルショックなどで頓挫した後、「列島改造と気負わずに、『日本を極楽にする方法』とした方が国民の皆に判ってもらってよかったんじゃないか」と、反省を込めた一言を秘書だった早坂茂三に対して述懐している[70]
  • 自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。
  • 小室直樹の著作を愛読し、高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
  • 味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁あんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。総理在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
  • 日本各地の選挙情勢をくまなく把握し、その見通しは滅多に狂わなかったという。
  • 家紋剣片喰(かたばみ)である。
  • 苦学生である田中は教育問題、とりわけ公教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上に努めた(人材確保法案)。これには、特に自民党文教族にとっては、労働争議の活発な日教組を懐柔し、骨抜きにするという意味合いもあった。日教組側は、(1)給与は労使交渉で決めるべきで、上から一方的に決めるのはおかしい (2)3段階の給与を5段階に細分化するのは教職員の分裂を企図するもの ――という理由で反発した[71]。しかし、待遇改善の魅力は大きく、最終的に日教組側は妥協した。
  • 1957年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に審査委員として出演した(当時、郵政大臣)。
  • 内閣総理大臣まで務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない。なお、リクルート事件で秘書が略式起訴となった宮沢喜一は勲章受章対象となった(宮沢本人の生前の意向により勲章辞退)。栄典は全くないが、名誉市民称号は得ている。
  • 倒れてからは、体力のある介護人が必要と、元十両力士の凱皇の介護を受けて過ごした。
  • 男なら「かくえい」、女なら「すみえ」と読ませるつもりで、生まれる前から「角栄」の字を当てることが決まっていたという。
  • 有権者の面倒見がいい事で知られコネで就職させた有権者の子弟は数百人に登るという。
  • 1972年7月に首相就任してから10月に国会で所信表明演説をするまで113日経過している。これは日本国憲法下で初就任した首相の中では最も遅い記録である。
  • 首相時代に石油危機を迎えたのを機に日本のエネルギー政策の見直しを図り、電源三法の制定を行い、とりわけ火力発電から原子力発電への電力エネルギーの転換を積極的に推進することとなる。自らの実家があった西山町の隣町である刈羽村原子力発電所を誘致している。電源三法制定に際しては首相秘書官を務めた小長啓一に「これからの時代は原発だ。」と述べるなど原子力時代の先見を明かしていたという。

脚注

注釈

  1. ^ 田中がのちに『私の履歴書』に記したところでは、2歳のときにジフテリアに罹患したことが原因と祖母から聞いたという(早野、p.5)。
  2. ^ 馬弓良彦著『人間田中角栄』(ダイヤモンド社)には「旧制海城中学校に編入する予定で上京した」と、書かれているが、田中自身が長い政治家人生の中でそのような発言をした事は皆無であり、上京直後に井上工業に入社していること、また、過去に田中自身が「家が貧乏だったから高小を出たらスグに働かなくてはならなかった」と述べている事等から、当該部分は創作である可能性が高い。
  3. ^ 大麻の献金要請は、進歩党党首をめぐって宇垣一成町田忠治が対立し、その仲裁として大麻が「先に300万円作った方を党首にする」と提案(大麻は町田を推していた)したことに由来する(早野、2012年、pp58 - 59)。
  4. ^ 戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、この過程で田中は山崎首班の動きに対して党総務会で「いくら占領下でも露骨な内政干渉が許されるのか」と吉田らに訴えたとされる。
  5. ^ 田中はこの法律による一級建築士資格取得者である。
  6. ^ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
  7. ^ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
  8. ^ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている

出典

  1. ^ 武部健一 2015, p. 186.
  2. ^ 早野透 2012, pp. 3–4.
  3. ^ 早野透 2012, p. 5.
  4. ^ 早野透 2012, p. 10.12.
  5. ^ 早野透 2012, p. 15.
  6. ^ 早野透 2012, pp. 17–18.
  7. ^ 早野透 2012, p. 16.
  8. ^ 早野透 2012, pp. 19–20.
  9. ^ 早野透 2012, p. 22.
  10. ^ 早野透 2012, pp. 26–27.
  11. ^ a b c 早野透 2012, pp. 28–30.
  12. ^ “『錦城百二十年史』、131-132頁”. 学校法人錦城学園 錦城学園高等学校発行. (2000年10月15日) 
  13. ^ 早野透 2012, pp. 37–38.
  14. ^ 早野透 2012, pp. 39–40.
  15. ^ 早野透 2012, pp. 41–44.
  16. ^ 早野透 2012, pp. 45–47.
  17. ^ a b 早野透 2012, p. 49.
  18. ^ a b 早野透 2012, pp. 50–51.
  19. ^ 福永(2008)、47頁。
  20. ^ 早野透 2012, p. 52.
  21. ^ 早野透 2012, pp. 57-59、63-65.
  22. ^ a b 早野透 2012, pp. 67–71.
  23. ^ 早野透 2012, pp. 75–76.
  24. ^ a b 早野透 2012, p. 83.
  25. ^ 早野透 2012, p. 86.
  26. ^ 早野透 2012, p. 88.
  27. ^ a b 早野透 2012, pp. 90–96.
  28. ^ 早野透 2012, p. 98.
  29. ^ 早野透 2012, p. 97.
  30. ^ 早野透 2012, p. 103.
  31. ^ a b c 早野透 2012, pp. 106–109.
  32. ^ 早野透 2012, p. 140.
  33. ^ a b c 早野透 2012, pp. 126–130.
  34. ^ NHKスペシャル 日中外交はこうして始まった名 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  35. ^ 諸橋(1972)[要ページ番号]
  36. ^ 諸橋(1979)[要ページ番号]
  37. ^ 諸橋(1993)[要ページ番号]
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  39. ^ a b 福永(2008)、166-173頁。
  40. ^ 福永(2008)、173-174頁。
  41. ^ 福永(2008)、175-177頁。
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  46. ^ 福永(2008)、189-191頁。
  47. ^ 「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査” (2009年3月30日). 2012年11月16日閲覧。
  48. ^ 読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965〜79年) 第23回 田中角栄」。
  49. ^ 福永(2008)、162頁。
  50. ^ 福永(2008)、266-227頁。
  51. ^ 福永(2008)、166頁。
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  54. ^ 福永(2008)、263-264頁。
  55. ^ 辻(2004)
  56. ^ 辻(2006)
  57. ^ 田中(2004)
  58. ^ 衆議院会議録情報 第071回国会 法務委員会 第40号
  59. ^ 毎日新聞(2013年3月26日)写真特集:米大統領訪日:1974年のフォード氏が初 (2009年11月掲載)
  60. ^ 『田中角栄―その巨善と巨悪』
  61. ^ 大下英治『田中角栄秘録』イースト新書 008 2013年 イーストプレス
  62. ^ 早野透『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』中公新書 2186 2012年。ISBN 978-4-12-102186-1
  63. ^ 保坂正康『田中角栄の昭和』朝日新書 244、2010年。ISBN 978-4-02-273344-3
  64. ^ 「あの時のあの人の声」に肉声のコンテンツとして収録:『日本大百科全書』(SONY電子ブック版 改訂第2版)小学館、1998年7月1日。 
  65. ^ 早坂茂三:「早坂茂三の『田中角榮』回想録」80頁 小学館 1987年
  66. ^ a b 辻井喬『叙情と闘争 ―辻井喬+堤清二回顧録―』 中央公論新社 2009年 [ISBN 412004033X] 113-118頁
  67. ^ a b c 松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 光文社 2014年 [ISBN 978-4334978013] 111-117頁
  68. ^ a b 小林吉弥『田中角栄 処世の奥義』 講談社 2006年 [ISBN 4062132699] 83-86頁
  69. ^ 『東京馬主協会三十年史』東京馬主協会 1978年
  70. ^ 『早坂茂三の「田中角栄」回想録』111頁参照 (小学館、1987年刊)
  71. ^ 「人材確保法」の成立過程 ―政治主導による専門職化の視点から― (PDF) 丸山和昭 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第56集・第1号(2007年)

参考文献

関連項目

関連人物

外部リンク

議会
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