トウ小平
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邓小平
鄧小平 Deng Xiaoping |
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鄧小平(1979年) |
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| 在任期間 1956年 – 1966年 |
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| 前任者 | 张闻天(Zhang Wentian) |
| 後任者 | 胡耀邦 |
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第3代中国共産党中央軍事委員会主席
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| 在任期間 1981年 – 1989年 |
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| 前任者 | 華国鋒 |
| 後任者 | 江沢民 |
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第3代中国人民政治協商会議主席
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| 在任期間 1978年3月 – 1983年6月 |
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| 前任者 | 周恩来(1976年から1978年のあいだは空白) |
| 後任者 | 鄧穎超 |
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| 在任期間 1975年 – 1983年 |
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| 首相 | 華国鋒 趙紫陽 |
| 前任者 | 林彪 |
| 後任者 | 万里 |
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| 生年月日 | 1904年8月22日 四川省広安市 |
| 死亡日 | 1997年2月19日 (92歳) 北京 |
| 国籍 | 中華人民共和国 |
| 政党 | 中国共産党 |
| 専門 | 経済学者 |
| 中華人民共和国 |
| 中華人民共和国の歴史 |
| 組織集団 |
| 中国共産党 · 中国人民解放軍 |
| 主な出来事 |
| 抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立 大躍進政策 文化大革命 · 林彪事件 四五天安門事件 改革開放 六四天安門事件 |
| 人物 |
| 毛沢東 · 周恩来 · 朱徳 劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平 林彪· 江青· 胡耀邦 趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬 朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝 |
| 理念 |
| マルクス・レーニン主義 毛沢東思想 · 鄧小平理論 4つの基本原則 · 3つの代表 |
| 統治機構 |
| 全国人民代表大会 中華人民共和国国務院 中央軍事委員会 |
| 地域 |
| 中国 · 華北 · 東北 華東 · 華中 · 華南 西南 · 西北 中華人民共和国の行政区分 |
鄧 小平(とう しょうへい、ドン シャオピン(Deng xiao ping)、1904年8月22日-1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって、中華人民共和国の市場経済化に着手した。1978年から1992年までの、事実上の中華人民共和国の最高権力者であった。
目次 |
[編集] 生涯
1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳でフランスへ留学。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平はこの後一度も帰郷したことはない。
[編集] フランス留学時代
鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むも、半年で生活費を稼ぐため学校を辞めてしまう。鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変えながらも、堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3ヶ月間、学び、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工として勤務。
[編集] 共産主義者として
フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年、モスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。ちなみに鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていた。
1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。
1952年毛沢東により政務院常務副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第六位になっている。
1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[1]。
[編集] 文革期
鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。
1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されず文字通り一命を取りとめた。しかし与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。
1973年8月、周恩来の失脚幹部復活工作が功を奏し第10回党大会で中央委員に返り咲いた。12月には国務院副総理に復帰し政治局を管轄、解放軍総参謀長を兼務。1974年4月、国連総会に団長として代表団を引きつれ出席し、国連総会で演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日鉄等から技術導入を図る。12月、中軍委副主席、国務院常務副総理、解放軍総参謀長に任命。
着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第一次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に三度目の復活を果たす。
[編集] 権力の掌握
1977年、大学統一入学試験を復活させ、教育改革を開始する。1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、君津市の新日鉄、京都・奈良を歴訪した(彼はこの際に日本の躍進振りに対し戸惑いを見せたとされ、後の改革開放政策の動機になったといわれる)。その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
新日鉄との提携で上海に宝山製鉄所を建設した。
1979年、訪米。
経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対する論文が胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展、北京には「民主の壁」が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。華国鋒も、毛沢東路線を自己批判した。
1980年ポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転反動化し、その後は胡耀邦を失脚させ、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部たちを自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。ただし、鄧小平は自らは決して序列一位ではなかったが、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。
後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは党大会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。
1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している[2]。
[編集] 天安門事件
生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動き(=自らに敵対する動き)には厳しい態度で臨み、1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め学生運動に理解を示していた趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。
武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定した上で、武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民を総書記へ抜擢した。
[編集] 鄧小平の政策
政治面では社会主義と中国共産党の指導性を強調し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策が鄧小平の基本姿勢である。
また、公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992年1月-2月(春節)には深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。
鄧小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」に表れている。
また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。
[編集] 死去
鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。遺言は唯物主義にのっとり、角膜などを移植に寄付し、他の遺骸は解剖学のために献体された。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。
中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。
鄧小平の死後、鄧が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、鄧小平理論として中国共産党の指導思想に残された。
[編集] あだ名
名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。
[編集] 逸話
- フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。
- フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。
- サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。
- 背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。
- 鄧小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」だとする説もある[要出典]。最も鄧が好んだ言葉であり、毛沢東が鄧を弾劾する際に弾劾理由の一つとしている。
- 1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた時、電気ショックをうけたように立ちつくした。大使館に帰って「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話した。
- 実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。
[編集] 参考文献
- 伊藤正 『鄧小平秘録』(扶桑社、2008年、上巻 ISBN 978-4-594-05547-9、下巻 ISBN 978-4-594-05572-1
- 矢吹晋 『鄧小平』 (講談社現代新書、1993年、講談社学術文庫 2003年)
- 寒山碧 『鄧小平伝』 (伊藤潔編訳、中公新書、1988年)抄訳版で品切。
- ハリソン・ソールズベリー 『ニュー・エンペラー 毛沢東と鄧小平の中国』
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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