四五天安門事件

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四五天安門事件(4.5 てんあんもんじけん)とは、1976年4月5日中華人民共和国北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件と区別するため、第1次天安門事件ともいう。

目次

[編集] 事件の背景

1971年の林彪失脚以降、毛沢東文化大革命の行き過ぎを是正すべく、追放された鄧小平を党中央部に呼び戻して周恩来と協力して国力の復興を任せたが、江青ら文革の強硬派「四人組」と鄧小平、周恩来との対立がおこり、政治情勢は依然として不安定であった。

中国国民は打ち続く文化大革命の混乱に嫌気が差し、文化大革命に一定の距離を置いていた周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し失脚をはかった四人組による「批林批孔運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は復権した鄧小平を事態を収拾してくれる人物として喜び四人組に反感を持っていた。

ゆえに1976年1月の周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。

[編集] 経緯

1976年3月に南京で発生した周の追悼集会と四人組批判の運動が、四人組の必死の隠蔽や妨害を越えて北京に飛び火したのが発端となった。南京から北京行きの列車の車体には人民の決起を呼びかけるスローガンが書かれ、北京市民を勇気づけた。こうして3月末に天安門広場では追悼集会が自然発生の形で起こった。参加する市民の数は日を追って増え無数の花輪・幟・追悼と四人組批判の詩文などが人民英雄記念碑に捧げられた。

特に4月4日は清明節という中国のお盆にあたる日で、2万人近くの群衆が集まった。人々は花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などの形で始まっていたが、かえって逆効果となる。ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。

追い詰められた四人組は党中央を動かし、これを反革命行為ときめつけ実力行使に出る。翌5日午後9時35分ごろ、広場を包囲した警官隊が群衆を襲撃した。この事件の犠牲者や逮捕者は不明である。

[編集] 影響

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。

事件後、鄧小平が責任を問われて失脚し、魏京生は入獄。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、半年後の四人組失脚の一因となる。

[編集] 参考文献

  • 厳家祺・高皋 共著、辻康吾訳 『文化大革命十年史』上・下、岩波書店、1996年。