海瑞罷官

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海瑞罷官』(かいずいひかん拼音: Hǎi Ruì Bàguān、「海瑞の罷免」)は1959年4月、上海で湘劇(湖南省の地方劇)を見た毛沢東が、海瑞の「直言敢諫」精神を宣伝するように秘書の胡喬木に指示したことを受け、当時の北京市副市長で北京大学教授の明代史の研究者である呉晗が書いた戯曲作品。1960年に完成した。

『海瑞罷官』の内容は、明朝の大臣の海瑞が当時の皇帝、嘉靖帝に対し諫言したため、官職を罷免され投獄されたというもので多くの群衆に歓迎された。呉晗はその後も『海瑞を論ず』、『海瑞罷官』等の文章や京劇の台本を作成した。

1965年11月10日姚文元は、上海の日刊紙『文匯報』に、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した論文([1])を発表した。この論文は、海瑞を先年の廬山会議で毛沢東の大躍進運動における失政を批判して失脚した彭徳懐、皇帝は毛沢東の比喩であると主張し、『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃するものであった。当初、なぜ突然この劇を批判したのか姚の真意を疑うものが多かったが、姚の意図は毛沢東の意向を受け、呉晗の上司である彭真を失脚に追い込むことであった。結果として、この論文が文化大革命の序幕であり、その後彭真を始め、陸定一羅瑞卿楊尚昆の四人が失脚した。呉晗は文革中に投獄され自殺した。

海瑞罷官前の「海瑞罷官」[編集]

周小舟

毛沢東が海瑞についての劇を見たのは、1958年12月に湖南省長沙で上演された「生死牌」が最初である。

これは、湖南省党委員会第一書記の周小舟が見せたものであり、周自身も毛沢東の推し進めた大躍進に反対し、廬山会議彭徳懐に連なる「反党集団」として批判・左遷された身の上であった。大躍進をめぐって批判を受けながらも周は自らが管轄していた湖南省では大躍進政策を積極的に行わず、結果として大躍進の失敗から全国的に餓死が蔓延した中にあって湖南省では餓死を食い止めることになった。周小舟は、自らを海瑞に見立てて劇を上演した。