薄一波
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| 生年月日 | 1908年2月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 2007年1月15日 |
| 死没地 | |
| 所属政党 | |
| 配偶者 | 胡明 |
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| 内閣 | 周恩来内閣 華国鋒内閣 趙紫陽内閣 |
| 任期 | 1956年11月 - 1975年1月17日(1969年失脚) 1979年7月1日 - 1982年5月4日 |
| 国家主席 | 毛沢東 劉少奇 董必武(国家主席代理) |
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| 内閣 | 趙紫陽内閣 |
| 任期 | 1982年5月4日 - 1983年6月20日 |
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| 内閣 | 周恩来内閣 |
| 任期 | 1956年5月 - 1970年6月 |
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| 内閣 | 周恩来内閣 |
| 任期 | 1954年11月 - 1956年8月 |
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| 内閣 | 周恩来内閣 |
| 任期 | 1949年10月19日 - 1953年9月18日 |
| 薄一波 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 薄一波 |
| 簡体字: | 薄一波 |
| ピン音: | Bó Yībō |
| 和名表記: | はく いっぱ |
| 発音転記: | ボー・イーボー |
薄 一波(はく いっぱ、ボー・イーボー、1908年2月17日 - 2007年1月15日)は中華人民共和国の政治家。国務院副総理、中国共産党中央顧問委員会副主任などを務めた。中共八大元老の一人とされている。本名は薄書存。次男に重慶市党委書記の薄熙来。
1925年4月、中国共産党に入党。山西省党委員などを務め、太原の学生・労働者運動を指揮するが失敗し、晋北地区に移る。1931年に北平で国民党に逮捕され投獄、獄中にあっても中共支部書記も務めた。
その後、張聞天や劉少奇の指示により1936年に「反共宣言」を発表して(偽装転向する形で)出獄、再度山西で活動を再開して山西犠牲救国同盟会(犠盟会)を結成し軍隊の育成に携わる。1943年に延安へ赴いて中共中央党校で学習、1945年に第7期中共中央委員に選出される。日本軍降伏後の国共内戦では華北軍区の政治委員として平津戦役などに参加した。
中華人民共和国成立後は、政務院財政経済委員会副主任、財政部部長に就任。1954年、国家建設委員会主任。1956年から国務院副総理、国家経済委員会主任、第8期中共中央政治局委員候補。しかし、経済政策の違いから毛沢東に疎まれていく。
文化大革命が最高潮となった1969年4月の第9回党大会では康生が江青に渡した中央委員のブラックリストに「叛徒、特務(スパイ)、外国と結託した者」とされていたために中央委員再任はならず、「六十一人叛徒集団事件」(薄一波、安子文ら61人の自首変節に関する資料)で失脚。かつて党活動継続のために行った偽装転向と出獄が(既に失脚していた)張や劉の指示で行ったことが追及と弾圧を受ける一因となり、薄が失脚している最中に胡明夫人も睡眠薬自殺を遂げてしまう。
1978年、胡耀邦が中央組織部長となり、失脚した党員の名誉を回復すると、第11期3中全会で薄一波は中央委員に再選される。翌1979年には国務院副総理にも復帰した。1982年、党中央顧問委員会副主任となり現役を退くが、保守派として胡耀邦の総書記解任(1987年)に動いた。また、インフレなどの経済混乱を引き起こしたとして、後任の総書記趙紫陽を批判、趙紫陽は党内における指導力を失っていった。
2002年の第16回党大会に出席、元老健在を見せ付けた。2007年1月15日、北京にて病死。99歳の誕生日を迎える1ヶ月前の死だった。
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