薄熙来
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| 生年月日 | 1949年7月3日(63歳) |
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| 出身校 | 北京大学 |
| 所属政党 | |
| 親族 | 薄一波(父) |
| 配偶者 | 谷開来 |
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| 内閣 | 温家宝内閣 |
| 任期 | 2004年2月29日 - 2007年12月29日 |
| 薄熙来 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 薄熙來 |
| 簡体字: | 薄熙来 |
| ピン音: | Bó Xīlái |
| 和名表記: | はく きらい |
| 発音転記: | ポー・シーライ |
薄 熙来(はく きらい、ポー・シーライ、1949年7月3日 - )は中華人民共和国の政治家。国務院副総理などを務めた薄一波を父に持ち、太子党に属する。保守派の旗手として第17期中国共産党中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めたが、胡錦濤派との権力闘争に敗れて失脚した。
目次 |
経歴 [編集]
生い立ち [編集]
中華人民共和国建国直前の1949年7月3日、薄一波の次男として北平市(現在の北京市)で生まれる。本籍は山西省定襄県。北京市第四中学校卒業後の1968年1月に就職。同時期に展開されていた文化大革命では紅衛兵組織「連動」の一員であったが、薄熙来は父の失脚にともない投獄された(公式履歴では学習班で労働とされている)。1972年より北京市第二軽工業局五金機修工場に勤務。1977年2月、北京大学歴史系世界史専攻に入学[1]。1979年9月、中国社会科学院研究生院(大学院に相当)国際新聞(報道)専攻に入学。1982年8月に修了して修士号を授与された。
中国共産党入党 [編集]
中国社会科学院在学中の1980年10月、中国共産党に入党。修了後の1982年8月、党中央書記処研究室に配属され、党中央弁公庁幹部となる。
遼寧省での活動 [編集]
1984年10月、遼寧省に転出し同省金県党委員会副書記となる。その後、遼寧省大連市金州党委書記、大連市経済技術開発区党委書記などを歴任。1988年2月、大連市党委宣伝部長兼市党委常務委員となる。翌年3月、大連市党委常務委員兼常務副市長に就任。1992年8月、大連市党委副書記兼市長代理となり、翌年3月、大連市長に昇格。同月、第8期全国人民代表大会遼寧省代表(議員)に選出。以後、第9期(1998年 - 2003年)・第10期(2003年 - 2008年)と全人代遼寧省代表として再選される。1999年9月、遼寧省党委常務委員・大連市党委書記兼市長に昇進。大連市長在任中は環境政策に力を注ぐ一方、日本企業など外資を呼び込んで地元経済の発展に力を尽くした[2]。2000年8月、大連市長を退き、遼寧省党委常務委員・大連市党委書記の職に専念する。2001年1月、遼寧省党委副書記に就任し、1月10日の同省第9期人民代表大会常務委員会第20回会議において同省副省長・省長代理に選出され、2月24日、正式に遼寧省長となる[3]。2002年11月、第16回党大会において党中央委員に選出される。薄熙来はこの年、瀋陽などで暴力を用いて他人の財産を奪い、中国東北部で巨万の富を得た劉湧を拘束し、処刑した[4]。薄は暴力団と民間企業の癒着を許さず、徹底して摘発していき民衆の支持を得た。遼寧省での経験は、積極的な外資導入による経済発展と暴力団に対する厳しい姿勢といった薄の政治姿勢を涵養し、後に赴任する重慶市での施政でも活かされることになる。
閣僚就任 [編集]
2004年2月29日、薄熙来は、経済・貿易を管掌する商務部長(大臣)に就任した。在任中、対外貿易摩擦が激しさを増すなか、繊維製品の輸出について欧州連合との交渉を開始した。
重慶に「独立王国」を築く [編集]
薄熙来は、2007年10月の第17回党大会で中央委員に再選され、党中央政治局委員に昇格した。同年11月30日、重慶市党委書記に任命される。12月29日、商務部長を退任。2008年3月、第11期全人代重慶市代表に選出される。
薄が赴任した重慶市は、1997年に「西部開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた都市であった。しかしながら、薄が赴任するまでの10年間は外資投資が進展しなかった。2003年までの投資総額は5億ドルに届かず、2003年から2007年の合計もわずか10億ドルだった。ところが、薄が赴任し外資導入に着手すると、2008年の外資の投資額は対前年比170%増の27億ドルとなり、翌年には39億ドルを達成した[5]。薄は年16%を超える超高度経済成長をつくり上げ、重慶の庶民に発展の恩恵を実感させた[6]。
その一方で薄は、貧富の格差が深刻で、腐敗した役人や警察ら権力者が威張り散らし、それに大衆の不満が爆発している重慶社会の危険な現実を的確に把握していた[6]。重慶での政治実績を以て、来る第18回党大会で最高指導部である中央政治局常務委員会入りを目論む薄は、低所得者層に未だ根強い毛沢東の政治手法をまねて民衆の支持を獲得しようとした。「共同富裕」のスローガンを掲げて格差是正や平等・公平をアピールし、民衆をひきつけた。そして、大衆を動員し毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」を展開した[6]。「唱紅」の目的は古き良き共産党のアピールであったが、これが思わぬ懐古ブームを巻き起こし、人々から好評を得た[5]。また、2009年6月からは犯罪組織一斉検挙キャンペーンである「打黒」を展開した。同年7月より市公安局などを巻き込んだ大規模汚職事件の摘発に乗り出し、1500人以上を摘発。この事件の捜査は翌年3月に終了した。薄は成果を強調したが、「行き過ぎだ」、「個人的な人気取りだ」などと批判された[7]。改革派知識人たちは、「打黒」の過程で無罪の者を有罪にしたり、死刑に値しない者も処刑したりするなど、法を無視した捜査に最大の問題があると指摘するが、薄熙来は毛沢東が文革時に実践したように、法やルールより、大衆からの喝采を重視した[6]。薄は「打黒」によって、自らの政敵を大衆の忌み嫌う「腐敗幹部」として徹底的に排除していったが、「打黒」によって地方の利益を壟断する黒社会・地下経済に正面からメスを入れたことで、薄が大衆から大喝采を浴びたこともまた事実である[5]。
重慶における薄の施政は、中央の幹部にも好意的に評価する声が多かった。江沢民派(上海閥)の呉邦国(党中央政治局常務委員・全人代常務委員長)、李長春(党中央政治局常務委員)、賀国強(党中央政治局常務委員)や、太子党の習近平(党中央政治局常務委員・国家副主席)などは、薄の施政を「重慶モデル」と称賛した[5]。薄の施政は、行き過ぎた市場経済を追求した改革の結果、平等・公平という社会主義の本質が失われたと批判し、毛沢東時代への郷愁を前面に出している。これは胡錦濤・温家宝が目指す「鄧小平路線の進化」と対立するものであった[6]。薄は重慶市民の支持を背景に胡温体制と対峙し、重慶を独立王国と化していった。
失脚 [編集]
2011年11月中旬、重慶のホテルで大連時代から薄熙来一家と懇意であった英国人実業家のニール・ヘイウッドが死亡しているのが発見された。当初、重慶市当局はすぐに死因を急性アルコール中毒としていたが、のちに関係者の証言からヘイウッドが禁酒家であることが明らかとなり、殺人の疑惑が急浮上した[8]。イギリスは中国に英国人実業家死亡事件の全容解明を要請した。重慶市公安局長で薄の腹心であった王立軍が捜査責任者として、重慶市公安局が英国人実業家死亡事件について再捜査に着手した。重慶市公安局は捜査によって、薄の妻の谷開来と薄の生活秘書が英国人実業家を毒殺したこと、英国人実業家が関与した薄一家が数十億ドルにものぼる不正蓄財した財産を海外送金していた疑惑があること、薄一家が不正蓄財した財産について谷開来とヘイウッドとの間に諍いがあったことが事件のきっかけであることを把握した。
薄は王による英国人実業家事件の捜査に危惧を抱き、2012年2月2日に王を重慶市公安局長から解任し、役職を政治的実権のない重慶市副市長のみとした。身の危険を感じた王は2月6日、四川省成都のアメリカ合衆国総領事館に駆け込む亡命未遂事件を起こした。この事件が発覚したことをきっかけに、薄の妻が関与した英国人実業家殺害事件や薄一家の不正蓄財など、薄を巡るスキャンダルがメディアで報道されるようになった(薄熙来事件)。
王立軍亡命未遂事件は、薄の政治生命に大きな影響を及ぼした。2月中には薄に対する専門調査グループの設置が噂された[9]。去就が注目されるなか、薄は翌月に開催された第11期全人代第5回会議に出席したが、3月8日、「刑事訴訟法修正案」の審議の際、薄は会議を欠席して様々な憶測を呼んだ[10]。3月9日、薄は記者会見を開き、「自分は汚職の調査対象ではない」と述べたが[11]、3月14日、国務院総理の温家宝は、全人代閉幕後の記者会見で、薄の「唱紅・打黒」運動を文化大革命になぞらえて批判した。3月15日、党中央組織部は、王立軍亡命未遂事件の責任により、薄の重慶市党委書記職解任を発表した[12]。
4月10日、新華社は、ニール・ヘイウッドは他殺であり、この事件に薄熙来の妻・谷開来らが関与していること、谷開来らがすでに司法当局に身柄を送られたことを公表した。そしてこの日、党中央は、薄熙来に重大な規律違反があったために中央政治局委員・中央委員の職務を停止し、党中央規律検査委員会に審査をゆだねたことを公表した。
9月28日、党中央は中央規律検査委員会の調査結果を受け、薄を党より除名、公職より追放し、また刑事訴追することを決定した[13]。10月26日、全人代常務委員会は薄熙来の代表資格の取り消しを決定[14]。これにより、薄は全ての公職から追放された。薄には「職権乱用」と「巨額の収賄」での刑事訴追の可能性が報じられている[13]。
家庭 [編集]
薄熙来の現在の妻である谷開来は、弁護士であり北京で法律事務所所長を務めている。1997年に中国人弁護士としてアメリカで中国企業を勝訴させて名を挙げ、訴訟の経緯を記した著書はテレビドラマ化されるなどし、「中国のジャクリーン(ケネディ元大統領の夫人)」とも呼ばれた。谷開来との間に長男の薄瓜瓜がおり、ニール・ヘイウッドの紹介で最初にイギリスのハロー校に留学・卒業、ついでオックスフォード大学政治哲学部を2010年に卒業し、2012年5月、ハーバード大学大学院を修士で卒業した[15]。
薄熙来は離婚歴があり、北京市党委第一書記などを歴任した李雪峰の娘で、301医院(人民解放軍総医院)に務める軍医だった李丹宇と結婚していた[16]。彼女との間にも一男・李望知がおり、北京大学法学院で学び更にアメリカのコロンビア大学に留学して修士号を取得後、米シティグループに勤務していた[17]。
脚注 [編集]
- ^ 高橋・21世紀中国総研(2009年)、674ページ。なお、新華社発表の公式経歴では北京大学入学を1978年としている。
- ^ 多部田俊輔「薄熙来・前重慶市トップの全役職を停止 殺人容疑で妻を捜査」『日本経済新聞』2012年4月11日付記事(2012年9月30日閲覧)。
- ^ 「2001年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2001年度版(2012年12月14日閲覧)。
- ^ 陳言「政商『実徳』の急成長と窮地で読む 失脚した薄熙来氏の政治手法と金脈」ダイヤモンド・オンライン、2012年4月16日付配信記事(2012年9月30日閲覧)。
- ^ a b c d 富坂聰「中国共産党の『台風の目』薄熙来とは何者か」『WEDGE Infinity』、2011年9月20日付配信記事(2012年9月30日閲覧)。
- ^ a b c d e 城山英巳「『毛沢東』になれなかった薄熙来の悲劇 ついに政治生命絶たれる」『WEDGE Infinity』、2012年4月11日付配信記事(2012年9月30日閲覧)。
- ^ “行き過ぎと批判も=犯罪組織の一斉検挙終了-中国重慶=”. 時事通信. (2010年3月2日) 2010年3月2日閲覧。
- ^ Britain asks China to probe death of UK citizen in Bo Xilai's Chongqing telegraph.co.uk 26 Mar 2012
- ^ “薄煕来氏専門調査グループが設立?”. サーチナ. (2012年2月17日) 2012年2月22日閲覧。
- ^ 「薄熙来氏、異例の欠席=中国全人代の重要会議」時事通信、2012年3月8日付配信記事。
- ^ 「監督責任認める 重慶副市長事件 薄氏が健在強調」『東京新聞』2012年3月10日付記事。
- ^ 「中国:共産党、重慶市トップ・薄熙来氏を解任 指導部入り絶望か 」『毎日新聞』2012年3月15日付記事。
- ^ a b “中国、薄煕来氏の刑事訴追決定…党籍・公職剥奪”. 読売新聞. (2012年9月28日) 2012年9月29日閲覧。
- ^ 「中国、薄氏の全人代代表資格取り消し 党大会前にも起訴」『産経新聞』2012年10月26日付記事(2012年12月17日閲覧)。
- ^ 「『父は公明正大、容疑は信じ難い』 薄熙来氏の息子が声明」『ウォール・ストリート・ジャーナル』(日本語版)、2012年10月1日付記事(2012年12月17日閲覧)。
- ^ 藤田洋毅「薄熙来の『紅い王朝』(上)薄父子と胡総書記の『とても複雑な因縁』」『フォーサイト』(新潮社)、2012年7月5日付配信記事(2012年12月17日閲覧)。
- ^ 「失脚した薄熙来氏のもう1人息子、過去に米シティに勤務」ブルームバーグ日本語版、2012年4月23日付配信記事(2012年12月17日閲覧)。
参考文献 [編集]
- 高橋博・21世紀中国総研編『中国重要人物事典』(蒼蒼社、2009年)
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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