ピンポン外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
1972年2月29日に対談した毛沢東(左)とリチャード・ニクソン(右)

ピンポン外交(ぴんぽんがいこう、乒乓外交)とは、1971年昭和46年)に日本愛知県名古屋市で行われた第31回世界卓球選手権の裏で、アメリカ合衆国中華人民共和国との間で交わされた外交のことである。

目次

[編集] 概要

1970年代まで、中国台湾と中国大陸支配の正統性を争っていた。また60年はじめからの中ソ対立によってソ連との友好関係も崩れつつあった。1971年の「ピンポン外交」を経て、72年にニクソン大統領の中国訪問が実現し、中国は100を越える国々と国交を結んだ[1]。 2008年に胡錦濤国家主席福原愛早稲田大学で卓球をするなど[2]、卓球を通じた外交は現代でも行われている[3]

[編集] 背景

1971年、中華人民共和国は同年3月28日から4月7日まで日本で開催される第31回世界卓球選手権への参加を表明。毛沢東が参加を承認し、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った。これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤鉀二は地元名古屋での大会が世界一のものとするべく西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断[4][5]、直接中国に渡り周恩来と交渉を行なった結果であった[6][7][5]。これに対して文部省からのクレーム、右翼からの脅迫などの反応が見られた[5]

なお参加にあたっては14年前にランガ・ラマヌジャン会長時代に加盟した台湾卓連を除名する必要があったため、交渉成立後にシンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会で「中国加入・台湾排除」を提案したが韓国マレーシアなどの反対にあい後藤は会長を辞任した[5]

[編集] 1971年4月

アメリカ代表はすでに日本に滞在していた。世界大会の行われる名古屋市愛知県体育館へ向う際にグレン・コーワンがバスを乗り間違えて中国選手団のバスに乗りこんだ[8][9]もあり3大会ぶりに出場した1971年の名古屋大会[8]という逸話がある。当時中国選手にはアメリカの選手とだけは接触していけないという鉄の規律があり、外国人と接した場合にはスパイ扱いされる時代であったが、中国のエースである荘則棟はチームメートから反対された[10]にもかかわらず参加前に周恩来総理から「友好第一、試合第二」という言葉を受けたことを思い出し「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って握手をして[11]杭州製錦織[8](西湖の風景が描かれていた)[9]をお土産として贈ったという。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中国はこれを外交的なカードとして利用することになった。

会場に到着したバスは報道陣に囲まれ、この出来事は大きく取り上げられた[10]。アメリカ代表の副団長からアメリカチームを中国に招待してほしいという申し出があり、荘はそれを外交部に伝えた。外交部は時期尚早と判断し、周恩来もそれに同調したが、毛沢東主席の鶴の一声により[10]、アメリカ卓球チームの中国への招待が実現した[8][12]。1971年4月10日、1949年に中国共産党による中国大陸制圧後初めて米国人が中国を公式訪問[10]、その後パキスタンを通じた外交交渉の結果、ヘンリー・キッシンジャーが内密に中国を訪問するなどし[10]、1972年2月にはリチャード・ニクソンが中国を訪問した[9]際に人民大会堂で開かれたパーティーでは荘則棟が周恩来から大統領に紹介された[13]。ピンポン外交により中国とアメリカが国交を回復するまで中国と国交を持っていたのはわずか32カ国であったがその後1年の間に100カ国以上が中国と国交を結んだ[1]

[編集] アメリカ人選手の反応

ある選手は記者のインタビューに答えて、中国人はそれほどアメリカ人と変わらないと述べている。

彼らは本当に僕らと同じさ。現にそこにいるんだし、純粋で、情緒的でもある。向こうで友達もできた。ほんとうの友達なんだよ。アメリカという国ともそっくりだけど、まだ結構違うかな。でも美しい国さ。万里の長城に囲まれた平野。古くからの宮殿もあれば、庭園や大きな川もある。あらゆる動物がいるんだよ。北と南では違いがあるけど、彼らは一体感を持ってる。毛沢東主義だって本当に信じているんだ[14]

[編集] その他のピンポン外交

荻村伊智朗国際卓球連盟会長を務めていた1991年の世界卓球選手権千葉大会(幕張メッセ)では統一コリアチーム(朝鮮半島をあしらった旗で出場)として出場、女子団体では優勝を果たした。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.2」、『卓球王国』2003年8月、 pp. 32-37頁。
  2. ^ 胡錦濤国家主席が早稲田大学で愛ちゃんと卓球対決”. サーチナ. 2008年5月8日閲覧。
  3. ^ 胡錦濤中国国家主席の訪日(概要及び評価)”. 外務省. 2010年8月29日閲覧。
  4. ^ 「台湾除き中国招く・名古屋で開く世界卓球後藤協会長が決意」毎日新聞 1970年12月31日
  5. ^ a b c d 鄭躍慶 (2007年). “「ピンポン外交と後藤鉀二」 (PDF)”. 愛知淑徳大学. 2011年5月14日閲覧。
  6. ^ “ピンポン外交”地球を走る”. 日本卓球協会. 2011年5月14日閲覧。
  7. ^ 中日卓球交流の50年”. 中華人民共和国駐大阪総領事館 (2006年6月1日). 2011年5月14日閲覧。
  8. ^ a b c d 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.3」、『卓球王国』2003年9月、 pp. 84-89頁。
  9. ^ a b c 選手から大臣…隔離も『ピンポン外交』荘則棟氏”. 東京新聞 (2008年7月8日). 2010年5月24日閲覧。
  10. ^ a b c d e 第2章 ピンポン外交と米中関係『米中友好の起爆剤となったピンポン外交』”. 2011年5月14日閲覧。
  11. ^ 世界卓球3連覇の荘則棟氏が東京で講演 伝説の王者、ピンポン外交を語る” (2004年10月18日). 2010年5月24日閲覧。
  12. ^ 世界卓球3連覇の荘則棟氏が東京で講演 伝説の王者、ピンポン外交を語る”. 愛知大学 (2004年10月18日). 2010年5月24日閲覧。
  13. ^ 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.4」、『卓球王国』2003年10月、 pp. 24-29頁。
  14. ^ http://www.upi.com/Audio/Year_in_Review/Events-of-1971/12295509436546-1/#title "Foreign Policy: 1971 Year in Review, UPI.com"

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語