日本料理

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和食
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「和食:日本の伝統的な食文化、特に新年祝賀」魚、野菜、食用野草など地域の食材を使った自然を尊ぶ心との結びつきは、天然資源の持続可能な利用にも通じる。特に新年祝賀では餅をつき、意味のこもった美しい料理を用意し共同体で分けられる。
登録基準 R1, R2, R3, R4, R5 [1]
参照 869
登録史
登録年 2013

日本料理(にほんりょうり・にっぽんりょうり)は、日本でなじみの深い食品を用い、その風土の中で発達した伝統的な料理をいう[2]和食とも呼ぶ[2]。食品そのものの味を利用し、などの季節感を大切にする特徴がある[2]。2013年に「和食」は無形文化遺産に登録された。

広義には日本に由来して日常作り食べている食事を含むが、狭義には精進料理懐石料理などの一定の形式をふまえたものや、御節料理彼岸ぼたもち花見月見における団子冬至カボチャなど伝統的な行事によるものである[3][4]

言葉[編集]

料は会意で、米などの体積を斗などの計量器ではかる意味を持つ。加えて食料など食品の意味も持つようになり、また料理という言葉ができてからはその略ともなる。理はが意符で(り)を声符とする形声で、玉のすじやきめを美しく磨くことから、物事の筋道やおさめるという意味を持つ。平安時代に登場する料理という言葉は物事をはかりおさめるという意味で、うまく処理することである。またすぐに現在に通じる調理やそれによってできる食品を意味するようになる。[2][5][6][7]

料理の意味するところは、家庭台所飲食店厨房などで行われる食品加工の最終段階とすることが多い。現在では食品工場などで広く行われる脱穀精米豆腐かまぼこの製造なども、地域や時代や集団によっては料理の範疇である。広義では、米の量をはかりどれだけ食べてどれだけ種籾とするかなど、家庭や国家の献立や食料計画をも意味する。また焼けた獣骨の遺物の発見から北京原人などと呼ばれるホモ・エレクトスの火の利用や、宮崎県幸島ニホンザルの群れがサツマイモ海水で洗い味付けして食べるということも、料理と考える場合もある。[8][9]

料理の概念は言語によっても異なる。中国語では烹調などが調理の料理をあらわし烹で煮ること加熱することを意味する。割鮮は加熱を伴わず切るなどを意味する。またが食品の料理をあらわしこれは採集した植物などを意味する。英語でもcookingは加熱することを意味し、加熱しない生のものをrawと区別する。またdishで食品の料理をあらわす。フランス語のcuisineは台所や厨房をあらわし、また調理食品の料理もあらわす。[10][5][6][11][12]

「日本料理」と「和食」と言う言葉は文明開化の時代に日本に入ってきた「西洋料理」や「洋食」に対応する形でできた言葉であり、「日本料理」は石井泰次郎[13] による1898年(明治31年)の『日本料理法大全』により一般化され、「和食」はそれ以降に現れたものであると見られている[14]

「日本料理」には料理屋で提供される高級料理のイメージがある一方、「和食」は家庭食も含む日本食文化全体を表す言葉としてよりふさわしいとする意見もある[14]

特徴[編集]

飯碗汁物に複数の惣菜漬物などを並べた定食

日本料理の特徴として、多様な食品の持ち味を利用し、自然や季節の表現、一汁三菜など栄養に優れる、正月等行事との関わりが挙げられる[2][15][16]

食品と調味料[編集]

日本の風土は、アジアの東に位置し大部分が温帯で南北に長く海洋に囲まれているため、四季がはっきりして降水量も多い。このため、野菜や果物、魚介類や海藻などの食品が量とともに種類も豊富である。[8][9][17]一方で歴史的に哺乳類などを対象とした肉食が禁止されたことや牧畜が普及しなかったことなどから食肉は普及せず乳製品醍醐が例外的にあるだけで欠如した。脂質の利用も動物性植物性を問わず発展せず、例外的に唐菓子や寺院を中心とした油揚げなどや南蛮料理に由来する天ぷらなどで用いた。現在の日本では食肉や乳製品や脂質は広く普及し、また日本料理へ応用し使われている。[8][9]

調味は食肉や脂質の欠如をおぎなうためうま味を含んだだしが発達した。味噌醤油大豆を発酵させた調味料でこれもうま味を伴う。甘みには水飴みりんが使われ現在は砂糖も使うが、歴史的には高価であまり普及しなかった。また新鮮な魚介類を中心に食品そのものの味を重視することから、香辛料ハーブは少量を用いるに留められている。[8][9]

現在の日本では流通が発達し世界中の食品や調味料が入手でき、それの日本料理への応用も行われている。[18]

食品[編集]

明治以降に普及した食品[編集]

調味料香辛料ハーブなど[編集]

明治以降に普及した調味料など[編集]

旬、季節感、自然の表現[編集]

季節感が重視される。旬の食品は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなるため、味を楽しむ好機と考えられている。七草がゆのように、野草特有の自然なあく強さや苦味も味わう。また初鰹のような季節を先取りする「走り」、落ち鮎のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、同じ食品でも走り、旬、名残と三度の季節感が楽しまれる。

季節の表現は切り方や色でも表現される。春は淡いウドなどをサクラの花びらに見立てて切る。夏は青みのシロウリキュウリを雷や蛇腹に切る。秋は鮮やかなニンジンなどをモミジイチョウの葉に切る。冬や新年はユズ松葉に切ったり、ニンジン梅の花に切ったり、ダイコンニンジンで紅白を表現したりする。 [3][4][27][28]

また山水盛りや吹き寄せ盛りのように、自然そのものを表した盛り付けもなされる。[3][4]

割主烹従[編集]

調理場を「板場」、料理人や料理長を「板前[2]まな板と関連付けて呼び、切ること自体を煮炊きから独立した調理のひとつとしている。「切る」ことを重視する姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが主で、「烹る(火を使う)」ことが従うとされ[29]、食品そのものの味を重視することにつながる。また「割主烹従」から「割烹」という言葉も生まれ、日本料理そのものやそれを提供する店を表す[2]

椀刺(椀差)[編集]

日本料理の椀物(吸物)と刺身は、合わせて「椀刺」や「椀差」と呼ばれ、重視される[30][31][32][33][34]。その味によって腕前を確かめられるともされる[29]

献立とメニュー[編集]

日本料理の献立やメニューは、を中心とした穀物生理的熱量栄養を依存するものであった。穀物はなどに料理されて食事の主たる主食として扱われる。主食に対する副食の惣菜は、飯を食べるための食欲刺激として用いられ、御飯の友などという概念もある。また飯の代わりに米による日本酒伴う宴会などでは、惣菜がそのままとしても用いられる。汁物惣菜からなる、一汁一菜一汁三菜など複数の料理からなることが多い。複数の料理を摂取することなどから、現在の日本では比較的栄養に優れているとされている。伝統的に左を上位とする風習があるため、主たる飯を左側に置いたり、魚の頭を左向きに置いたりして配膳することが多い。日常の食事などでは、これらの料理は一度にまとめて配膳されることが多いが、懐石料理などでは、一品(あるいは一膳)ずつ順番に配膳される。[8][9]

食器[編集]

食器は、漆器陶器磁器など。家庭では、ご飯茶碗・箸は、各人専用のもの(属人器)を用いる習慣がある。 暖かい時期には、薄手で浅めの磁器を主に、暑くなるとガラスの器なども使われる。涼しい時期には、厚めで深手の陶器を主に、寒くなると蓋付きの器なども使われる。また漆器では、蒔絵沈金などの絵柄で季節を表現することがある。 [3][4][27][28]

提供場所[編集]

日本料理は各家庭の他に、蕎麦屋寿司屋などの専門店、居酒屋料亭割烹、また待合お茶屋行楽地宇宙食など、様々な場所で食事ができる。[27]

歴史[編集]

旧石器時代[編集]

日本の旧石器時代に調理に用いられたとされる礫群

群馬県の岩宿遺跡更新世ローム層から旧石器時代の石器が発見された。岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、ヤベオオツノジカヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。これらの化石の骨は石器で切るなどした解体痕がある。また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。また長野県の野尻湖立ヶ鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。東京都の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。礫群は焼けたこぶし大の石が数十から百個ほど1ヶ所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。また木器や樹皮などによる容器に水や食品と共に礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。礫群のような焼け石を用いた料理は、現在の日本でも新潟県粟島浦村わっぱ煮のように残っている。当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっていて、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。哺乳類などの動物はフグなどの毒のあるものが少なく、内臓や筋肉、皮膚や脂肪や血液、骨髄や脳髄など、骨や毛などを除けば、大部分が可食部である。寄生虫や微生物など病原体の問題もあるが、生でも食べることができる。レバ刺しカルパッチョユッケやタルタルステーキのような料理や、火が使える状況であれば礫群などを利用して、石焼や蒸し焼きやホルモン焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。またさいぼしジャーキーなどのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。骨や角や歯などは骨角器に、毛は繊維や毛皮として用いたと考えられている。 [35][36][37][38][39]

縄文時代[編集]

日本の縄文時代に用いられた水煙土器

約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシシイクスノキなどの照葉樹林が広がる。ナウマンゾウやヤベオオツノジカなど大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカイノシシなど中小哺乳類が増える。また海面の上昇に伴い対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側と共に暖流と寒流の交わる良漁場となる。このような風土の変化に伴い縄文時代が始まり磨製石器と共に縄文土器が用いられる。世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟漁撈を主とする生活である。[35][36][37][40]

土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。クルミドングリクリトチなどの堅果類竪穴式住居の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。クルミは脂質を多く含み生でも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含む。生のベータデンプンは消化されにくいため、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿磨石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮ることで灰汁抜きをした。またクズワラビヤマノイモウバユリヒガンバナなど野生の芋類も、アルカロイドなどの毒を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。動植物の遺物による調査と、遺骨のコラーゲン同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。植物性の食品の利用が増えたのに伴い、従来の食肉やレバーや血液などから摂取していた塩の必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。また栽培作物であるソバやオオムギやアワエゴマリョクトウヒョウタンなどが、少ないながら出土している。[35][36][40][39]

縄文時代中期、紀元前4000年後半より日本列島でのダイズやアズキの栽培化が見られることが2015年の研究で判明し、この時期以降に野生種からの人為的な栽培に特徴的な種子の大型化がみられる[41][42]

狩猟による食肉は大半がイノシシニホンジカによるもので、その他カモシカエゾヒグマツキノワグマタヌキアナグマなど様々である。またキジカモガンなどの鳥類も対象とした。狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、罠や落とし穴なども用いた。またイヌは飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。北海道ではアザラシやトド、オットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されていて、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。[35][36][37]

漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリアサリカキシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキボラクロダイコチなどを対象とし、骨角器によるヤス石錘を利用した漁網も用いた。またイワシサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。東北地方の三陸沿岸では外洋性のマグロカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。九州北西部でも外洋性のマグロやサワラシイラサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。内陸河川でのサケマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。[35][36][37]

料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのような縄文クッキーが出土している。また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられている。食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のようなや、鍋料理のようなものが考えられている。[35][36][39][43]

採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。宮城県の里浜貝塚による調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジやサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけてニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史や社会的な文化にもより異なる。沖縄諸島や奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期ともよび、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型石器、イノシシの骨が出土していて、この頃先島諸島では漁撈とともにイモやアワの畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、台湾や中国大陸江南の影響を受けた独自の文化と考えられている。このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、様々な定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年の頃まで続いたとされる。[35][36][37]

弥生時代[編集]

日本の弥生時代の登呂遺跡での水田高床式倉庫竪穴式住居

稲作と栽培種イネは、アフリカニジェール川周辺に起源するアフリカイネと、アジアに起源し世界各地に伝搬したアジアイネとの2つがある。中国大陸長江流域では、紀元前1万年頃のイネの資料の発見、紀元前6000年頃の湖南省彭頭山遺跡から籾殻の混じった土器の発見、紀元前5000年頃の浙江省河姆渡遺跡が発見されている。河姆渡遺跡は約400平方メートルの範囲に籾殻などが堆積していて、なども伴うほぼ完成された水田稲作が行われた。紀元前3000年頃の浙江省銭山漾遺跡などの良渚文化に続き、紀元前1000年頃の江南江淮地域に幾何学印文陶文化が表れる。 また黄河流域では、紀元前1万年頃アワキビの利用があり、紀元前6000年頃中流域でアワと農具が発見で栽培が考えられ、紀元前3000年頃に長江流域からのイネと西アジアからのムギが伝来し、紀元前2000年頃にマメの栽培で五穀が揃うことになる。[35][36][40]

朝鮮半島では紀元前4000年頃の黄海北道知塔里遺跡から炭化したアワもしくはヒエの粒の発見、紀元前2000年頃の京畿道欣岩里遺跡から陸稲と思われる粒がオオムギやアワなど作物と共に発見、紀元前8世紀頃には忠清南道松菊里遺跡などで炭化米が発見、紀元前7から6世紀の無去洞峴遺跡などから水田が発見されている。[35][36][40]

中国大陸東北部とロシア東部では、紀元前1000年頃のアムール州黒竜江省アムール川沿いや沿海地方では、ウリル文化やヤンコフスキー文化や鶯歌嶺上層文化で、それぞれアワやキビの栽培ブタ飼育する農耕が行われた。 [35][36][40]

日本列島では、縄文時代の北海道で、早期の中野B遺跡からヒエ類が発見、前期の美々貝塚遺跡から畑跡と考えられる遺構が発見されている。また中期の臼尻B遺跡からアワの発見、晩期の塩屋3遺跡からオオムギとアワが発見されている。これらの縄文時代の北海道から出土する穀物類は、沿海地方などからの伝搬が考えられている。縄文時代中期以降の本州や九州などの遺跡では、イネやオオムギやコムギ、アワやヒエやキビなどが発見されて、福岡県のクリナラ遺跡からは畑跡が発見されている。縄文時代に大陸から畑作物としてイネを含めた穀物が伝搬し、陸稲栽培を含む畑作が行われたと考えられている。また福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などで、用水路が整備された縄文水田が、木製の石包丁などの農具を伴い発見されている。この九州北部で発見された整備された水田や農具を伴う完成された水田稲作文化は、陸稲栽培を含む畑作が発展したのではなく、紀元前2000年紀後半から紀元前1000年紀前半にかけて中国大陸の江南や江淮地方に展開していた金石併用期の幾何学印文陶文化の前期における完成された水田稲作農耕文化が、朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海から直接に、九州北部に移民と共に伝わったと考えられている。[35][36][40]

九州北部に伝わった水田稲作文化は、急速に西日本を中心に近畿地方まで伝わるが、東日本には伝わらず停滞する時期がある。これは西日本の照葉樹林に比べて東日本の落葉広葉樹林の方が食品が豊富だったこと、西日本を中心に陸稲栽培を含む畑作が普及し水田稲作を受け入れやすかったこと、当時の稲が寒冷地である東日本に適していなかったことなどが考えられている。紀元前後になると寒冷地に適した稲の品種などにより、本州最北端の青森県まで水田稲作文化が伝わる。紀元前後にはまた製の農工具が普及した。日本列島の水田稲作文化が普及した時代は、従来の縄文土器と比べて薄く整形されより高温で焼かれた弥生土器を伴っていて、弥生時代と呼ばれる。弥生時代は紀元前900年頃に始まり紀元後400年頃まで続いたとされる。一方で寒冷な北海道では、この時代には稲作文化がおよばず、縄文時代から続く採集や狩猟や漁撈による文化が続き、続縄文時代と呼ばれ紀元1000年頃まで続いた。また沖縄など南西諸島では、貝塚時代の後期とも呼ばれ、これは紀元1300年頃まで続いた。[35][36][40]

弥生時代の日本列島の様子は、漢書地理志で紀元前後には100あまりの小国が分立していたと記録されている。魏志倭人伝では紀元後239年に複数の首長国がある中卑弥呼の統治した邪馬台国に朝貢し、また魏の使節が訪れたと記録されている。魏志倭人伝ではまた、「水に潜り貝や魚を採る」「稲や粟を栽培する」「温暖な気候で通年生野菜を食べる」「ショウガや柑橘類、サンショウやミョウガがあるが料理に利用しない」「木や竹の器を用いて手で食べる」「飲酒を好む」など料理や食事に関する記録もある。[35][36]

アジアイネは、丈が高く熱帯に適し寒さに弱い長粒で粘りが少ないインディカ種と、丈が低く低温にも対応し短く丸みのある粒で粘りの多いジャポニカ種とに大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネはジャポニカ種であり、11世紀以降になってインディカ種が何度か持ち込まれたが現在に至るまで広く普及はしていない。 またインディカ種とジャパニカ種と共に、デンプンのひとつであるアミロースの含有量で、糯(もち)粳(うるち)とも大別される。弥生時代に日本列島に伝わったイネは、中国で粳の栽培が先行したこと、記紀などに糯やが登場しないこと、糯という字が奈良時代の「正倉院文書尾張正税帳」が初出であること、などから粳であったと考えられている。しかし縄文時代の陸稲などは中国南部や東南アジアから糯が伝わり、弥生時代には糯と粳が混在していたという考えもある。[35][40][44]

水田稲作が普及しても農耕のみを基盤としたわけではなく、農耕を行いながら従来の狩猟採集漁撈も行っていた。またプラント・オパールの調査から、全面的にイネを長期にわたって栽培したわけではなく、キビ属なども栽培され生産量も多かったと考えられている。種子の遺物からも雑穀などと呼ばれるアワヒエキビそしてムギなどの穀物や、マメソバなどの準穀物も多い。またドングリなどの堅果類はイネを超えて多く出土する。イノシシとシカは引き続き狩猟の重要な対象であったが、田畑を荒らす害獣駆除の側面もあったと考えられている。またシカに対するイノシシの割合が増え、頭蓋骨の変化からイノシシが家畜化されブタとなったものも含まれていると考えられている。ブタに加えてウシウマニワトリが持ち込まれ飼われていたが多くは出土せず、またニワトリは食べる対象では無かった。イヌは猟犬としても用いられたが、埋葬されず解体痕などから食用の対象にもなった。ブタやウシやウマなどの飼育は、農耕の傍らの小規模なものでの利用などを目的としたものではなく牧畜ではない。漁撈では従来のものに加えて、水田や用水路などでコイフナナマズドジョウタニシなどを対象とした淡水での漁撈が行われる。また内湾での漁撈では管状土垂を用いた網漁や蛸壺漁などが行われるが巨視的には衰退する。また東日本太平洋側や西北九州での外洋漁撈への特化拡散もみられる。農耕による環境や社会の変化が狩猟や漁撈にも変化をもたらしている。[35][36][40][37]

料理は米などの穀物を炊いたがある。弥生土器には外側に煤が内側に米粒が付いたものが出土することから、現在と同じ炊き干し法による飯である。米は竪杵による精米で、現在販売されている籾殻をはずし果皮に覆われた玄米とは異なり、9分撞き程度であったと考えられている。また飯を唾液により糖化した口噛み酒やを利用したりしてを醸造した。フナなどで塩辛魚醤なれずしなども作ったと考えられている。弥生土器の中には煮炊きに用いた鍋などだけでなく、食器の形状のものも出土する。[35][43][40][37]

古墳時代[編集]

古墳時代のの形をした埴輪

3世紀に奈良県纒向遺跡に登場した巨大な王墓前方後円墳などの古墳は、各地に広がり古墳時代と呼ばれる。6世紀後半から7世紀にかけて水田の大規模な開発が近畿地方を中心に行われた。5世紀中期の高度な技術による鉄製U字型先や曲刃、6世紀後半に登場し代掻きに用いる馬鋤や7世紀に登場し耕起に用いるによるの利用、7世紀初頭の大阪府狭山池などため池の築造や長大な堤防による河川の制御、7世紀後半の条里制の登場など、これらが背景にある。古墳の周囲や上に並べられた埴輪には、シカやイノシシやイヌなどの狩猟を描いたもの、ウマやニワトリを形取ったものなど、支配者による狩猟や乗馬があった。朝鮮半島から伝わった須恵器にはが多数発見されることから、米を蒸しおこわにしていたと考えられている。また従来のに変わってが住居に設けられる。[35][45][40][37]

飛鳥・奈良時代・平安時代[編集]

『日本書紀』に料理の記述がある。主食副食による食事構成が定着しアワなどをおこわにして食べていた。 副食に用いる食品は、野菜海藻魚介類が用いられた。獣肉等は天武天皇の675年に、ウシウマイヌサルニワトリの殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。またイノシシシカは殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物、焼物煮物に加えて、茹物和え物、炒り物などがある。加工法としては干物塩辛漬物寿司などがあった。遣唐使によるの影響から、料理も影響を受ける。大饗(だいきょう/おおあえ)では、飯に干物に加えて、干物揚げ物を含む唐菓子、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。と共にスプーンも使われた。調味は食べる際に塩や酢、(ひしお)、酒で味を付けた。[45]

鎌倉時代[編集]

鎌倉時代には、禅宗と共に精進料理が伝わり、煮染や酒煎など調味の技法が発達する。 に加えて、豆腐金山寺味噌など食品加工技術が伝わった。寺院の点心からうどんまんじゅう羊羹などが民間に広まった。[45]

室町時代[編集]

室町時代の「一服一銭」での抹茶

大饗料理から派生した本膳料理が確立した。後の懐石料理や会席料理にも影響を与えており、出汁と合わせて日本料理の基礎が確立されたと評する論もある[46]醤油が作られ用いられた[45]。鰹や昆布を使い、火を使った焼き物、煮物、汁物がたくさん出されるようになり、武家特有の料理が整い日本料理が誕生する[47]

室町時代に料理書『四条流包丁書』が書かれたとされる。精進料理が発達し、出汁の概念が生まれた。安土桃山時代に来日したジョアン・ロドリゲスは著書『日本教会史』の中で「能」(実践的な教養)として、「弓術・蹴鞠・庖丁」を挙げている。

醤油が作られ用いられた。[45]

安土桃山時代[編集]

懐石料理が成立する。茶の湯の発達に伴うものであり千利休の影響が大きい。 南蛮船によりてんぷらがんもどきなどの南蛮料理や、南蛮菓子カステラコンペイトウなど)が伝わった。[45]

江戸時代[編集]

江戸時代の魚売り

関東の料理[編集]

江戸料理と呼ばれる[48] 地元の材料を使用した料理が発展した[49]

『絵本江戸風俗往来』に「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし」と焼き芋屋が大人気[50] であった。 初ガツオ・初ナスなど縁起を担ぐ事もあった[48]。 だしは鰹節を使い、醤油は濃口醤油[51] が使われた。 こしょうなど香辛料も利用され[52]芳飯も鶏飯なども取り入れられ[52]、おじや、ねぎぞうすい[53] も食べられるようになった。

外食産業も栄えており、文化8年(1811年)に江戸の町年寄が「食類商売人」の数を奉行所に提出した資料によると、煮売居酒屋(1808軒)、団子汁粉(1680軒)、餅菓子干菓子屋煎餅等(1186軒)、饂飩蕎麦切屋(718軒)、茶漬一膳飯(472軒)、貸座舗料理茶屋(466軒)、煮売肴屋(378軒)、蒲焼屋(237軒)、すしや(217軒)、煮売茶屋(188軒)、漬物屋金山寺(130軒)、蒲鉾屋(59軒)、醴(あまざけ)屋(46軒)、獣肉(9軒)という記録が残っている。煮売り屋は惣菜の持ち帰りすなわちの中食の役割も担っていた。

関西の料理[編集]

京都、大阪の料理は「上方料理」と呼ばれた。北前船で北海道産の昆布が輸送された。 瀬戸内の魚介類や近郊の野菜に加えて、全国の産物も集められた。そのため「諸国之台所」と評された。

その他[編集]

それまで公家武家などの階級、もしくは寺が独占してきた料理技法が出版という形で広く庶民に知れ渡った。『料理切形秘伝抄』、『料理物語』などさまざまな料理本が出版された。本格的な外食産業に関しては江戸時代初期には寺院が金銭を受取り料理を提供していたが江戸中期にかけて料理茶屋・料理屋が市中に数多く出現した[54]

江戸後期には会席料理が登場する。本膳料理を簡略化し、酒の席で楽しむ料理として成り立った。

明治時代以降[編集]

明治には、肉食が解禁され、江戸期には細々と食べられていた牛鍋などが流行した。

柳田國男は『明治大正史 世相篇』の中で「明治以降の日本の食物は、ほぼ三つの著しい傾向を示していることは争えない。その一つは温かいものの多くなったこと、二つは柔らかいものの好まるるようになったこと、その三にはすなわち何人も心付くように、概して食うものの甘くなってきたことである」という[55]

明治には海外と交渉のある階層を中心に西洋料理が食べられるようになった。各地の西洋料理店(洋食店)では、西洋料理の他に、日本人の手で日本風に作り変えた料理が生み出された。家庭では銘々膳の風習にかわり、ちゃぶ台が使われるようになった。

戦後物資不足の中、アメリカからの食糧援助として小麦粉が大量に輸入され、学校給食でもパンが提供された。安価に大量供給された小麦粉により、お好み焼きなど小麦の粉食による鉄板焼き料理も発達した。 また国内外の中国人、朝鮮人との交流でそれらの影響のある料理も登場した。

現在の日本料理は、寿司カリフォルニアロールのように海外で発展するものもある。国内でも刺身や寿司に真空調理法や低温調理法を取り入れたり、食肉の応用で大型の魚類であるマグロブリなどを対象に熟成させて用いるなど、世界や歴史、科学などの知見などを取り入れて発展しているものもある。[18]

無形文化遺産への登録[編集]

ユネスコ無形文化遺産に登録された和食は、「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」である[56]。日本は「和食」を料理や調理法だけでなく「いただきます」や「もったいない」といった食事という空間に付随することがらも含めた「自然の尊重という日本人の精神を体現した食に関する社会的慣習」として提案[57][58][15]年末年始における餅つき御節料理食育教育を中心にプレゼンテーションを行った[59]

分類[編集]

伝統形式と料理[編集]

百日祝い儀式における日本料理

伝統的な形式が現在に伝わる料理を挙げる。

行事と料理[編集]

正月に食べる雑煮御節料理

年中行事冠婚葬祭など行事と結びついた日本料理も多い。赤飯団子寿司など、季節や地域によらず広く共通するものもある。また色や姿形からタイエビなどもよく用いられる[4]

日常生活の汁物惣菜においては、豆腐コンニャクワカメなど広く共通して用いられる[27][28]。春のフキ味噌やニシン、夏の麦飯はったい粉、秋の芋茎干柿、冬の煮こごり凍豆腐、新年の鏡餅や初餅花など、料理の季語もある[2][60]

かて飯かてものなどの救荒食物がある[2]

郷土料理[編集]

郷土料理のうち日本の地方で古くから食べられてきた料理である。 アイヌ料理沖縄料理奄美料理くさや島寿司皿鉢料理などもある。

様々な一品料理[編集]

新しい日本料理[編集]

外国で変化した日本料理[編集]

Hibachiでの玉ねぎ火山
  • 寿司 - カリフォルニアロール、スパイダーロール、スパイシーツナロールなど、果物や日本では使わない食品、調理法で構成された新しい寿司。酢飯が使われない例も多い。
  • 照り焼き-多くの場合、焼き方の一種のことではなく、醤油味を基本とした「テリヤキソースを使った付け焼きグリル料理」のことをテリヤキと称する。
  • 魚肉練り製品 - Surimiの名称で、いわゆるカニカマを中心にして欧米の消費量が急上昇している。
  • 鉄板焼き - 焼きごて捌きや玉ねぎ火山といった調理人の演出要素がふんだんに盛り込まれた鉄板焼き。欧米ではHibachiと言う名称で呼ばる。


日本の飲物と菓子[編集]

日本の飲物[編集]

現在は日本のビール日本のワインジャパニーズ・ウイスキーなども作られ普及している。

日本の菓子[編集]

日本の菓子は和菓子駄菓子などがある。果物のことを水菓子とも言う。[2]

その他[編集]

日本食レストラン推奨制度[編集]

2007年に、正統的な日本料理店に認証を与える「日本食レストラン推奨制度」を日本貿易振興機構(JETRO)がフランスで始めた。制度の目的として、道標の提供と日本食文化の認知度向上・普及・浸透、正統的日本料理レストランにチャレンジする機会の提供、日本の食品などジャパン・ブランド輸出促進を挙げている。制度の対象は、日本で一般に「和食」のカテゴリーに入る食事がメニューのほぼ全てを占めるレストランで、その料理は懐石、寿司、天ぷら、うなぎ、焼き鳥、そば、うどん、丼物、その他伝統の日本食(フランスで創作されたそれに準拠するものも含む)としている。[62]

競技[編集]

  • 日本料理コンペティション[63]
  • 和食ワールドチャレンジ - 日本人以外の調理師による日本料理コンテスト[64]

出典[編集]

  1. ^ Decision (unesco)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 広辞苑第5版
  3. ^ a b c d e f g h i 『四季日本の料理 春』講談社 ISBN 4-06-267451-3
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『四季日本の料理 秋』講談社 ISBN 4-06-267453-X
  5. ^ a b 字統
  6. ^ a b 大漢和辞典
  7. ^ 日本国語大辞典
  8. ^ a b c d e 日本大百科全書
  9. ^ a b c d e 世界大百科事典
  10. ^ 『日中辞典』小学館
  11. ^ リーダーズ英和辞典第2版
  12. ^ 『小学館ロベール仏和大辞典』小学館
  13. ^ 著者は1923年(大正12年)に石井泰次郎 『日本料理法大成大倉書店1923年OCLC 673989417を著した四条流九代目家元石井泰次郎ではなく、八代目家元石井治兵衛(石井治兵衛 『日本料理法大全博文館1898年OCLC 40587513)とみられる。
  14. ^ a b 熊倉功夫 「1.日本の伝統的食文化としての和食」『和食;日本人の伝統的な食文化』(pdf) 日本食文化テキスト作成共同研究会・熊倉功夫編、農林水産省2012年3月、3-12頁。
  15. ^ a b 日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会 (2012年2月). “日本食文化の無形文化遺産記載提案書の概要”. 農林水産省. 2013年11月24日閲覧。
  16. ^ 我が国の食文化”. 農林水産省. 2013年12月3日閲覧。
  17. ^ 日本の伝統的食文化としての和食」農林水産省
  18. ^ a b 『刺身百科』柴田書店 ISBN 978-4-388-06020-7
  19. ^ 川上行蔵、小出昌洋『完本 日本料理事物起源』岩波書店 ISBN 9784000242400
  20. ^ a b 『旬の食材 春・夏の野菜』講談社 ISBN 4-06-270135-9
  21. ^ a b 『旬の食材 秋・冬の野菜』講談社 ISBN 4-06-270136-7
  22. ^ 『旬の食材 四季の果物』講談社 ISBN 4-06-270137-5
  23. ^ 『旬の食材 春の魚』講談社 ISBN 4-06-270131-6
  24. ^ 『旬の食材 夏の魚』講談社 ISBN 4-06-270132-4
  25. ^ 『旬の食材 秋の魚』講談社 ISBN 4-06-270133-2
  26. ^ 『旬の食材 冬の魚』講談社 ISBN 4-06-270134-0
  27. ^ a b c d e 『四季日本の料理 夏』講談社 ISBN 4-06-267452-1
  28. ^ a b c d 『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8
  29. ^ a b 4時間目 鯛をおろす”. 日本料理一年生. 辻調グループ校 (2006年7月20日). 2013年11月10日閲覧。
  30. ^ 阿部孤柳 『日本料理の真髄』 講談社+α新書, 2006, p. 53-81. 「第二章 さしみは日本料理のメインディッシュ」 ISBN 978-4062723923
  31. ^ 特定非営利活動法人四條司家食文化協会監修 通信教育講座用 公式テキスト 「第1回 日本料理とは 第3項 日本料理の特色 1 椀差」, 日本食文化検定協会, accessdate=20110127.
  32. ^ 『粋』第80回 半べえ 料理長 川村 満(かわむら みつる)さん, 広島ホームテレビ, 2010年07月29日.
  33. ^ 國府田宏行 酒道第八話 酒席の礼『刺身は淡白のものから』, 菊水酒造株式会社, accessdate=20110127.
  34. ^ 別冊[専門料理 『日本料理の四季』 第41号 【特集】献立の華、椀ものと刺身の技術, 柴田書店, 2010. ISBN 978-4-388-80754-3
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 石毛直道『日本の食文化史』岩波書店 ISBN 978-4-00-061088-9
  36. ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐々木高明『日本の歴史1 日本史誕生』集英社 ISBN 4-08-195001-6
  37. ^ a b c d e f g h 西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06275-6
  38. ^ 竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』講談社 ISBN 978-4-06-258496-8
  39. ^ a b c 『講座 食の文化 人類の食文化』 味の素食の文化センター ISBN 4-540-98052-1
  40. ^ a b c d e f g h i j k 木村茂光編『日本農業史』吉川弘文館 ISBN 978-4-642-08046-0
  41. ^ 那須浩郎、会田進、佐々木由香、中沢道彦、山田武文、輿石甫「炭化種実資料からみた長野県諏訪地域における縄文時代中期のマメの利用」 (pdf) 、『資源環境と人類 : 明治大学黒耀石研究センター紀要』第5号、2015年3月、 37-52頁、 NAID 120005642393
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  43. ^ a b 『講座 食の文化 日本の食事文化』味の素食の文化センター ISBN 4540980882
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  45. ^ a b c d e f 『講座 食の文化 調理とたべもの』味の素食の文化センター ISBN 4-540-98218-4
  46. ^ 日本食の歴史」農林水産省、2016年5月14日閲覧
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  48. ^ a b 高橋達郎「第12回 江戸っ子は、毎日旬のものを食べていた」クリナップ
  49. ^ 『江戸料理百選』
  50. ^ 川柳:花嫁の閑談さつま芋のこと
  51. ^ 裏話 色が濃いほどにうま味成分は多くなる(2002年10月16日時点のアーカイブ) - キッコーマン
  52. ^ a b 『江戸時代の料理書』に見る私たちの食卓
  53. ^ 守貞漫稿
  54. ^ 農林水産省/日本食の歴史 2017年6月1日 閲覧
  55. ^ 柳田國男『明治大正史 世相篇』新装版講談社学術文庫p.63f.
  56. ^ 日本食文化を、ユネスコ、無形文化遺産に。”. 農林水産省. 2013年12月26日閲覧。
  57. ^ 「和食;日本人の伝統的な食文化」の内容”. 農林水産省. 2013年11月24日閲覧。
  58. ^ “「和食;日本人の伝統的な食文化」のユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(代表一覧表)」への記載に関する補助機関による勧告について” (プレスリリース), 農林水産省, (2013年10月22日), http://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/kihyo02/131022_1.html 2013年11月24日閲覧。 
  59. ^ Draft decision No.8.17. Washoku, traditional dietary cultures of the Japanese, notably for the celebration of New Year” ((英語)(フランス語)). Evaluation of nominations for inscription in 2013 on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity (item 8 on the agenda). 国際連合教育科学文化機関. 2013年11月24日閲覧。
  60. ^ 『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5
  61. ^ 東京都北区
  62. ^ 日本食レストラン推奨制度(pdfファイル)”. 日本貿易振興機構. 2013年12月3日閲覧。
  63. ^ 日本料理コンペティション公式サイト
  64. ^ 和食ワールドチャレンジ2015公式サイト

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]