波照間島
| 波照間島 | |
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波照間島(1977年度撮影)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 |
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| 座標 | 北緯24度3分33秒 東経123度46分57秒座標: 北緯24度3分33秒 東経123度46分57秒 |
| 面積 | 12.73 km² |
| 海岸線長 | 14.8 km |
| 最高標高 | 59.5 m |
| 所在海域 | 太平洋 |
| 所属諸島 | 八重山諸島 |
| 所属国・地域 | |
| 地図 |
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波照間島(はてるまじま)は、沖縄県の八重山諸島(八重山郡竹富町波照間)にある日本最南端の有人島である。面積12.73km2[1]、人口は490人(2017年3月末現在[2])。
目次
概要[編集]
有人島として日本最南端の島であるとともに、民間人が日常的に訪問できる日本最南端の地[3]でもあり、「日本最南端の碑」と「日本最南端平和の碑」が建てられている。また、島内にある波照間郵便局は「日本最南端の郵便局」である。
緯度が低く、日本国内では南十字星を好条件で観測できる数少ない島であり、高那崎に程近い島の南海岸には星空観測タワーが立つ。周囲に人工的な灯りが極めて少ないため、他所では見えにくい星を肉眼で観測することができる。同タワーには200mmの屈折式天体望遠鏡やプラネタリウムが設置され、観光客の見学が可能である。
波照間島のさらに南に「南波照間島」(パイパティローマ)があるという伝説がある。重税から逃れるため、1648年に島人が南波照間島に渡ったという伝聞が、琉球王府の記録である『八重山島年来記』に記されている[4]。
波照間島にはサキシマハブなどハブ類は生息していない。また島内には信号機が一箇所も設置されていない。
歴史[編集]
波照間島に人が住み始めたのは西表島に次いで2番目に早かったと推定されている。それは下田原貝塚に残る痕跡からも確認されて、3700年前まで遡るとされる。遺跡から出土した土器は「下田原式土器」と呼ばれ、八重山地域の文化は縄文文化の圏外で、インドネシア系文化と深い関係があったと推測される[5]。しかし、この後人の生活の痕跡は途絶え、3~12世紀頃の無土器文化までの間が空白になっている。下田原貝塚のすぐそばにあったこの文化は、フィリピン系文化との関連性が指摘されている。14~15世紀に至ると、群雄割拠時代に入り八重山は中国や日本との私貿易で力を付けるようになる。波照間でも競合が起こり、独自貿易の結果、下田原城、マシク村のような要塞集落が築かれる。また、このころには、オヤケ・アカハチ、長田大主など歴史に残る英雄も輩出する。
しかし、沖縄本島の統一を成し遂げた琉球王府が西へと進出、ついには1500年、オヤケ・アカハチが琉球王朝側に付いた宮古の仲宗根豊見親に破れ、八重山は琉球王府の支配下に入った。17世紀には琉球王府が薩摩藩の支配下に置かれると人頭税制度が導入され、過酷な支配の始まりとなり、重税から逃れるためパイパティローマをめざし、島を離れる人々の伝説も残されている。さらに18世紀に入ると、島分けがたびたびおこなわれるようになり明和大津波で壊滅した集落の復興という名目で他島への強制移住が実施された。19世紀後半に至り、明治政府により琉球王国が日本へ編入されるが、その後も人頭税は課され20世紀に至りようやく廃止された。また、波照間島は首里から最も離れた島であったため、政治犯などの流刑地でもあったとされる[6]。
第2次世界大戦末期には、陸軍中野学校より送り込まれた山下虎雄陸軍軍曹を名乗る諜報員によって、西表島の南風見への 強制疎開 が行われた。住民の多くは反対したが、軍の命令であったため仕方なく従ったものの、西表島は当時マラリア発生地帯で、島民のほとんどがマラリアに感染し、3分の1が死亡した。南風見田の浜の石には、当時の学校長が刻んだ「忘勿石」の文字が今も残されている[6](詳しくは「戦争マラリア」を参照)。
島名の由来[編集]
八重山方言では「我らの島」を意味する「ベスマ」と呼ばれ、現地でもこの呼び方を使うことがある。 波照間という表記は当て字であり、「果てのうるま」(「うるま」は、琉球、または珊瑚礁の意味)に由来するという説が一般的である。これに対して、金関丈夫はインドネシア系言語であるアミ語(台湾のアミ族の言語)で「沖の島」を「ボトル」と呼ぶことと関係があるのではないかとの説を唱え、宮良当壮と論争になった[7]。
地形[編集]
島の成因は隆起珊瑚礁であるが比較的起伏が大きく、中央部には標高60mに達する地点もあり、この付近に灯台が立つ。
産業[編集]
1960年代まではカツオ漁がさかんで、鰹節に加工して出荷していたが、現在漁業専従者は一桁となる。就業人口の半数が農業に従事し、かつては米や粟が作られたが、1960年代初頭にサトウキビ栽培への転換が進み、現在島の主力産業は製糖である。一方でスイカ、メロン、パッションフルーツ、モチキビなどの栽培も試行されている。2001年には、75億円の事業費と22年間の歳月を費し土地改良(ほ場整備)事業が完了し、島は一面のサトウキビ畑となる。ヤギが2005年調査時で登録数で411頭、さらに野生のヤギがその数倍いるといわれる。また和牛の飼育も約30戸ほどが行い、2005年当時で500数十頭を飼育している。島内の唯一の酒造所である波照間酒造所では、泡盛の中でも、製造量が少なく入手困難なことで有名な「泡波」という銘柄を生産している[8][6]。
観光[編集]
1990年代半ばまでは宿泊施設は民宿が7軒しかなく、観光地化されていなかったが、その後観光客が急増し、民宿は約倍に増え、さらにペンション、ホテルも開業した。 入域観光客数は1987年の3700人ほどであったものが、1991年(平成元年)から2005年(平成17年)までは13,0000人~14,000人(1998年~2001年の3年間に限っては急増し20,000人以上を超える年もあった)と4倍ほどに増えた状態で安定して推移したていたが、2007年(平成19年)から20,000人以上に急増し2016年は過去最高の36,000人に上った(ちなみに竹富島は48万人、西表島は33万人)[9][6]。
海岸[編集]
島の周囲にはニシ浜、ペー浜、ペムチ浜など白砂の美しい砂浜が多いが、ニシ浜以外は基本的に遊泳禁止である。
2006年5月17日には、修学旅行に来ていた横浜市立鶴見工業高等学校の男子生徒3名が遊泳禁止区域の海に入り、1名が死亡、1名が行方不明(後に死亡認定)となった[10]。
ニシ浜ビーチは2016年にトリップアドバイザーが発表した「トラベラーズチョイス世界のベストビーチ2016」の日本国内のランキングで2位となった[11]。
集落[編集]
島の西(イリ)に最初の集落とされる冨嘉(フカ)があり、中央部に前(メー)、名石(メーシ)の二集落、東(アリ)には、南(ペー)、北(ニシ)の二集落、総計五つから構成される。小中学校・診療所・郵便局が存在する。それぞれの集落には小さな共同売店がある。行政区上はすべて八重山郡竹富町に属する。かつては漁業とサトウキビで栄えていた。社会関係は、兄弟(ビギリ)と姉妹(ブナリ)の結びつきと、双系的親族を基本とする[12]。島全体が西(イリ)と東(アリ)に分かれ、その境界はタカナブチという。富嘉が西でブナリで、東はビギリとされ、姉妹の兄弟に対する霊的優越の考え方から、西が全てにおいて優位にたつ。かつて行われていた綱引きでは必ず西が勝ち、東から綱に託して、豊穣(ユー、世)を引き込むとされていた。
学校[編集]
島内には、小学校および中学校があるが高校は無いため、島の生徒のうち進学希望者は、中学校を卒業すると島外の高校へ通うために島を出る。
民俗[編集]
島の祭祀は女性の司(ツカー)が行う。富嘉に草分け筋の家があり最高位である。各集落には拝所(ウツ・ヌ・ワー)があり、南方の三つの森の御嶽(ピティ・ヌ・ワー)を拝む。富嘉は真徳利、名石と前は阿幸俣、南と北は白郎原の各御嶽を拝む。年間の祭祀は数多く、拝所や御嶽での祈願や島の各所を拝む行事が行われ、豊富な神歌が伝えられてきた[13]。島には天変地異によって兄と妹が生き残り、この二人から生まれた子孫が島民であるという人類起源神話と、粟や稲などの穀物が海の中から齎されたという穀物起源神話が語られていた[14]。旧暦7月の盆の時期はソーリンといい、行列が各集落から出て、島の中央の旧オーセー(役所)の広場で様々な芸能が奉納される。これをムシャーマという。
気候[編集]
年間の平均気温は24.1度。冬季には北東風を中心に強い季節風が吹く。降水量は1829mmと日本平均よりやや多い。7月から9月にかけてはしばしば台風の直撃を受け大きな被害が出ることがある。一方、台風が少ない年は少雨となり農作物のできに悪影響が出たり、海水温の上昇で珊瑚が死ぬなどの影響がある[6]。
| 波照間 1981年から2010年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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熱帯雨林気候(Af)に属する。
- 最寒月平均気温18.8℃(1月)
- 最暖月平均気温28.9℃(7月)
- 年間平均気温24.1℃
- 乾燥限界622mm<年平均降水量1789.7mm
- 最少雨月降水量106.2mm(12月)
住所[編集]
全域が沖縄県八重山郡竹富町波照間となっている。郵便番号は907-1751である。
アクセス[編集]
石垣島との間を結ぶ。
航路[編集]
- 波照間港
- 安栄観光
- 石垣港(離島ターミナル)から高速船が1日数便が発着するほか、フェリー発着場から貨客船(フェリー)が毎火曜日、木曜日、土曜日、第2・第4金曜日に1日1便発着する。
- 高速船は、高波で運休することがあるが、その場合も貨客船は運航できることが多いため、高速船が運休となった場合には定員54名の貨客船の切符が発売後すぐに売り切れることもある。また高速船乗り場は大きな目立つ離島ターミナルからなのに対し、貨客船チケット売り場は離島ターミナルから離れた小さなプレハブ小屋であるため、目立たない。
- 黒島を越えたあたりから外洋となるため揺れが激しくなる。このため、特に冬場などは高速船は運休が多く、12月から1月にかけては欠航率が50%を超えることも少なくない[15]。
- 高速船:片道 3,090円、貨客船は1540円(2015年12月現在)[16][17][18]。
- - 西表島・大原港 ※不定期便。高速船が就航。
- 安栄観光
かつては波照間海運も 石垣港との間にフェリー・高速船を就航させていたが、運航休止となった。
空路[編集]
- 波照間空港
- 2007年11月30日までは琉球エアーコミューターが、同年12月28日より2008年10月まではエアードルフィンが石垣空港へ就航していたが、エアードルフィンの運行停止に伴い、現在は路線が無い。
観光[編集]
文化財[編集]
- 下田原城跡 - 国の史跡。
- 下田原貝塚 - 県指定史跡 昭和31年10月19日指定。
- コート盛 - 先島諸島火番盛(国の史跡)のひとつ。
- シムスケー - 竹富町指定史跡 昭和47年8月30日指定。
- 長田御嶽 - 竹富町指定史跡 昭和47年8月30日指定。
- アカハチ誕生の地 - 竹富町指定史跡 昭和47年8月30日指定。
- 波照間島のムシャーマ - 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 平成5年11月26日選択。
竹富町指定無形民俗文化財[編集]
- 民謡の部、波照間島節、夜雨節、祖平花節、波照間口説、波照間口説。
- 舞踊・狂言の部、太鼓(テーク)、波照間島節、夜雨節、祖平花節。
名所・観光スポット[編集]
- 高那崎 - 日本最南端之碑、日本最南端平和の碑がある。竹富町指定名勝 昭和47年8月30日指定。
- 星空観測タワー
- ニシ浜 - 「ニシ」とは方言で「北」の意味であり、島の北側にあるパウダーサンドが約1.5㎞続く海岸でシュノーケルや海水浴場として人気[19]。
- 浜シタン群落 竹富町指定天然記念物 昭和47年8月30日指定。
- 底名溜池展望台。
- 毛崎 - 浜シタン群落を抜けた先の岬。夕日の名所。
- 集落の町並み。
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ニシ浜ビーチ
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八重山諸島の中でも比較的かつての伝統的建築の趣がよく残された赤瓦の家が多い。
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コロマンソウ(キツネノマゴ科)
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「ガイラルディア」 別名:テンニンギク
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集落を外れると見渡す限りに農地が広がりヤギが多く飼われているほか、野生のヤギもいる。
脚注[編集]
- ^ “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 島面積 (PDF)”. 国土地理院. p. 108 (2014年10月1日). 2015年3月16日閲覧。
- ^ 竹富町地区別人口動態票(平成28年) (PDF)
- ^ 領土としての日本最南端は東京都小笠原村の沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒)だが、ほかの有人島から遠く離れたフィリピン海に浮かぶ無人の孤島であり、満潮時には大半が海面下になる小さな環礁である。定期航路もないため、民間人が訪れることは極めて困難である。
- ^ 「石垣市史叢書13 八重山島年来記」p28 石垣市 平成11年2月13日発行
- ^ 金関丈夫・国分直一・多和田真淳・永井昌文「琉球波照間島下田原貝塚の発掘調査」『水産大学研究報告人文学編』第9号、1964年
- ^ a b c d e 波照間島あれこれ - 波照間島の概要ー日本最南端の島
- ^ 「日本の地名」 谷川健一、岩波新書、1997年4月21日
- ^ 波照間酒造所公式サイト
- ^ 竹富町公式サイト - 平成元年~平成28年 竹富町入域観光客数(年別)
- ^ “鶴見工業高生2人死亡の水難事故判決、横浜市に1600万円賠償命令/横浜地裁”. カナロコ (2011年5月14日). 2013年12月28日閲覧。
- ^ 「日本のベストビーチ10選」2位以下は沖縄が独占! それでは1位は? 沖縄タイムス、2016年2月20日閲覧。
- ^ 宮良高弘『波照間島民俗誌』木耳社、1972年
- ^ Ouwehand,Cornerius,Hateruma:Socio-religious aspects of a South-Ryukyuan Island,E.J.Brill,Leiden,1985アウエハント、コルネリウス『HATERUMAー波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』(中鉢良護訳)榕樹書林、2004年
- ^ 鈴木正崇「波照間島の神話と儀礼」『民族学研究』42巻1号、日本民族学会、1977年。『祭祀と空間のコスモロジーー対馬と沖縄』春秋社、2004年に再録
- ^ 波照間島 フェリー・高速船の欠航率まとめ
- ^ 安永観光公式サイト
- ^ 安永観光公式サイト - 貨客船
- ^ 波照間島ねっと - 波照間島へのアクセス
- ^ 『るるぶ情報版 石垣・宮古・西表'12-’13』
関連項目[編集]
- 竹富町
- 沖縄県の歴史
- 戦争マラリア
- 本日も晴れ。異状なし - 本島をモデルとした架空の島「那瑠美島」を舞台としたドラマ
- 太陽の子
- Qシリーズ (小説) - 波照間島出身の凜田莉子が主人公の小説シリーズ
- 日本の地理
- 日本の島の一覧
- 日本の端の一覧
外部リンク[編集]
- 竹富町ホームページ(公式サイト)
- ぱいぬ島ストーリー - 竹富町観光協会
- 八重山諸島・沖縄探検隊公式サイト
- 波照間島 沖縄39離島情報サイト
- 波照間島あれこれ
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