波照間島
波照間島 | |
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所在地 |
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所在海域 | 東シナ海・太平洋(フィリピン海) |
所属諸島 | 八重山諸島 |
座標 |
北緯24度3分33秒 東経123度46分57秒座標: 北緯24度3分33秒 東経123度46分57秒 |
面積 | 12.73 km² |
海岸線長 | 14.8 km |
最高標高 | 59.7 m |
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波照間島(はてるまじま)は、沖縄県の八重山諸島(八重山郡竹富町波照間)にある日本最南端の有人島である。面積12.73 km2[1]、人口は489人(2020年3月末現在[2])。
概要[編集]
有人島として日本最南端の島であるとともに、民間人が日常的に訪問できる日本最南端の地[注 1] でもあり、「日本最南端の碑」と「日本最南端平和の碑」が建てられている。また、島内にある波照間郵便局は「日本最南端の郵便局」である。緯度が低く、日本国内で南十字星を好条件で観測できる数少ない島である。
波照間島のさらに南に「南波照間島」(パイパティローマ)があるという伝説がある。重税から逃れるため、1648年に島人が南波照間島に渡ったという伝聞が、琉球王府の記録である『八重山島年来記』に記されている[3]。
歴史[編集]
波照間島に人が住み始めたのは、八重山列島では西表島に次いで2番目に早かったと推定されている。それは下田原貝塚に残る痕跡からも確認されて、3700年前まで遡るとされる。遺跡から出土した土器は「下田原式土器」と呼ばれる。八重山地域の文化は縄文文化の圏外で、インドネシア系文化と深い関係があったと推測される[4]。しかし、この後、人の生活の痕跡は途絶え、3 - 12世紀頃の無土器文化までの間が空白になっている。下田原貝塚のすぐそばにあったこの文化は、フィリピン系文化との関連性が指摘されている。14 - 15世紀に至ると、群雄割拠時代に入り八重山は中国や日本との私貿易で力を付けるようになる。波照間でも競合が起こり、独自貿易の結果、下田原城、マシク村のような要塞集落が築かれる。また、このころには、オヤケアカハチ、長田大主など歴史に残る英雄も輩出する。
しかし、沖縄本島の統一を成し遂げた琉球王府が西へと進出、ついには1500年、オヤケアカハチが琉球王朝側に付いた宮古の仲宗根豊見親に敗れ、八重山は琉球王府の支配下に入った。17世紀には琉球王府が薩摩藩の支配下に置かれると人頭税制度が導入され、過酷な支配の始まりとなり、重税から逃れるため「南波照間島」(パイパティローマ)をめざし、島を離れる人々の伝説も残されている。さらに18世紀に入ると、島分けがたびたびおこなわれるようになり明和大津波で壊滅した集落の復興という名目で他島への強制移住が実施された。19世紀後半に至り、明治政府により琉球王国が日本へ編入されるが、その後も人頭税は課され20世紀に至りようやく廃止された。また、波照間島は首里から最も離れた島であったため、政治犯などの流刑地でもあったとされる[要出典]。
第二次世界大戦末期には、陸軍軍曹山下虎雄を名乗る諜報員が陸軍中野学校より送り込まれ、その指揮により西表島の南風見への強制疎開が行われた。住民の多くは反対したが、軍の命令であったため仕方なく従ったものの、西表島は当時マラリア発生地帯で、島民のほとんどがマラリアに感染し、3分の1が死亡した。南風見田の浜の石には、当時の学校長が刻んだ「忘勿石」の文字が今も残されている(詳しくは「戦争マラリア」を参照)。
島名の由来[編集]
古くから「ハティローマ」と呼ばれていたと考えられており、15世紀中頃の『李朝実録』でも「補月老麻伊是麻」(ホティローマイジマ)と記されている。現在は、波照間島では「パチラー」、石垣島では「パチルマ」、「ハティローマ」、「ハティロー」などと呼ばれる。このような名称は「果てのうるま」(「うるま」は、琉球または珊瑚礁の意味)に由来するという説が一般的であり、波照間という表記は当て字である[5]。
これに対して、金関丈夫はインドネシア系言語であるアミ語(台湾のアミ族の言語)で「沖の島」を「ボトル」と呼ぶことと関係があるのではないかとの説を唱え、宮良当壮と論争になった[6]。
現地では「ベスマ」と呼ばれることがあるが、これは「我らの島」という意味で、島名ではない[5]。
地理[編集]
地勢[編集]
島の成因は隆起珊瑚礁であるが、比較的起伏が大きい。中央部には標高60 mに達する地点もあり、この付近に波照間島灯台が立つ。
気候[編集]
年間の平均気温は24.1℃。冬季には北東風を中心に強い季節風が吹く。降水量は1,789 mmと日本平均よりやや多い[7]。7月から9月にかけてはしばしば台風の直撃を受け大きな被害が出ることがある。一方、台風が少ない年は少雨となり農作物のできに悪影響が出たり、海水温の上昇でサンゴが死ぬなどの影響がある。
波照間 1981年から2010年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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熱帯雨林気候 (Af) に属する。
- 最寒月平均気温 18.8℃(1月)
- 最暖月平均気温 28.9℃(7月)
- 年間平均気温 24.1℃
- 乾燥限界 622 mm<年平均降水量 1789.7 mm
- 最少雨月降水量 106.2 mm(12月)
集落[編集]
島の西(イリ)に最初の集落とされる冨嘉(フカ)があり、中央部に前(メー)、名石(メーシ)の2集落、東(アリ)には、南(ペー)、北(ニシ)の2集落、総計5つから構成される。小中学校・診療所・郵便局が存在する。それぞれの集落には小さな共同売店がある。社会関係は、兄弟(ビギリ)と姉妹(ブナリ)の結びつきと、双系的親族を基本とする[8]。島全体が西(イリ)と東(アリ)に分かれ、その境界はタカナブチという。富嘉が西でブナリで、東はビギリとされ、姉妹の兄弟に対する霊的優越の考え方から、西が全てにおいて優位にたつ。かつて行われていた綱引きでは必ず西が勝ち、東から綱に託して、豊穣(ユー、世)を引き込むとされていた。
住所[編集]
全域が沖縄県八重山郡竹富町波照間となっている。郵便番号は907-1751である。
産業[編集]
農林水産業[編集]
1960年代まではカツオ漁が盛んで[5]、鰹節に加工して出荷していたが、近年[いつ?]の漁業専従者は一桁となっている[9]。
就業人口の約3分の1が農業に従事する[9]。かつては米、麦、粟が作られたが、1960年代初頭に製糖工場が立地したことを契機にサトウキビ栽培への転換が進んだ[10]。2001年には、75億円の事業費と22年間の歳月を費した土地改良(ほ場整備)事業が完了した。一方でスイカ、メロン、パッションフルーツ、モチキビなどの栽培も試行されている。ヤギが2005年(平成17年)調査時で登録数で411頭、さらに野生のヤギがその数倍いるといわれる。また和牛の飼育も約30戸ほどが行い、2005年(平成17年)当時で5百数十頭を飼育している。
観光[編集]
入域観光客数は、1989年(平成元年)から2005年(平成17年)までは13,000人 - 14,000人を中心に推移していた[11][注 2]。2007年(平成19年)から20,000人以上に急増し、2016年(平成28年)は過去最高の約36,000人に上った[注 3]。
2006年(平成18年)の時点では宿泊施設は民宿10軒のみで収容能力も69室・189人しかなかったが、同年にペンション[12]、2008年(平成20年)にはホテル[13] が開業し、2015年(平成27年)時点の宿泊施設は21軒(うち民宿16軒・233人収容、旅館2軒・47人収容、その他3軒・44人収容)に増加している[14]。
製造業[編集]
島内唯一の酒造所である波照間酒造所では「泡波」という泡盛を生産しているが、基本的に島内消費分のみの製造のために製造量が極端に少なく、島外での入手が極めて困難なことから「幻の泡盛」とも呼ばれている[15][16]。
1963年(昭和38年)に操業を開始した[5]波照間製糖が、特産のサトウキビから製糖を行っている。
教育[編集]
島内には高校がなく、航路がある石垣市の高校への通学も困難なため、高校に進学する生徒は島を出る。
民俗[編集]
島の祭祀は女性の司(ツカー)が行う。富嘉に草分け筋の家があり最高位である。各集落には拝所(ウツ・ヌ・ワー)があり、南方の三つの森の御嶽(ピティ・ヌ・ワー)を拝む。富嘉は真徳利、名石と前は阿幸俣、南と北は白郎原の各御嶽を拝む。年間の祭祀は数多く、拝所や御嶽での祈願や島の各所を拝む行事が行われ、豊富な神歌が伝えられてきた[17]。
島には天変地異によって兄と妹が生き残り、この2人から生まれた子孫が島民であるという人類起源神話と、粟や稲などの穀物が海の中からもたらされたという穀物起源神話が語られていた[18]。
旧暦7月の盆の時期はソーリンといい、ミチサネーと呼ばれる行列が各集落から出て、島の中央の旧オーセー(役所)の広場で様々な芸能が奉納される。これをムシャーマという[19]。
交通[編集]
島内[編集]
島内に国道、県道はない。また、島内には信号機が一箇所も設置されていない[20]。島内レンタカー業者は二社。民宿がレンタサイクルを行っている場合もある。坂が多く徒歩観光には向かない。
航路[編集]
波照間港と石垣島の石垣港などとの間の航路に安栄観光が就航している。また、八重山観光フェリーが2018年(平成30年)8月から新造船による参入を検討中と報じられた[21] が、不定期航路への就航は果たした[22] ものの、定期航路への参入には慎重な姿勢を示している。
- - 石垣港(石垣島)
- 高速船(旅客船)
- 夏季4便・冬季3便。片道 3,090円(2017年10月現在)[23]。
- 石垣港では離島ターミナルに発着。
- 黒島付近で石西礁湖から外洋に出るため、波浪が高く、揺れが激しくなる。このため、冬季を中心に欠航率が50%を超えることも少なくない。2015年度の欠航率は下記のとおり[24]。
- 2017年10月8日に旅客定員210名、284tの大型双胴客船「ぱいじま2」が就航。就航率を10%程度改善することが期待されている。一方、所要時間は従来の約60分から約80分に長くなる[25][26][27][28] 上、実際には90-120分程度での運航が常態化している[29]。
- かつて波照間海運が同じ航路で高速船「ぱいぱてぃろーま」を運航していたが、2011年に運航休止となった[30]。
- 貨客船(フェリー)
- 毎火曜日、木曜日、土曜日、第2・第4金曜日に1日1便運航[31]。片道 1,540円(2017年8月現在)[31]。
- 石垣港では離島ターミナルではなく、八島フェリーターミナルに発着。切符は、離島ターミナル内の安栄観光カウンターではなく、旧離島桟橋近くの安栄観光貨物事務所で発売している。
- 高速船が高波で運休する場合でも貨客船は運航できることが多いが、旅客定員が52名[32] のため、発売後すぐに切符が売り切れることもある。
- かつては貨客船「フェリーはてるま」で運航。この貨客船はかつて波照間海運が同航路で運航していた船舶であるが、2012年に同社による運航が休止された後、安栄観光が受け継いで運航していた[30]。老朽化のため、2019年に同規模の代替船として「フェリーはてるま2」が就航している[25]。
- 高速船(旅客船)
年月 | 2015年 4月 |
5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 2016年 1月 |
2月 | 3月 |
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欠航率 | 13.3% | 13.7% | 41.7% | 50% | 26.6% | 10% | 29% | 21.1% | 50.5% | 53.8% | 56.3% | 20% |
空路[編集]
- 波照間空港
- 2007年11月30日までは琉球エアーコミューターが、同年12月28日より2008年10月まではエアードルフィンの石垣空港便が就航していた。が、エアードルフィンの運行停止に伴い、現在は路線がない。
名所・旧跡・観光スポット[編集]
文化財[編集]
- 史跡
- 下田原城跡 - 国の史跡[34]。
- 下田原貝塚 - 県指定史跡(1956年(昭和31年)10月19日指定)。
- コート盛 - 先島諸島火番盛(国の史跡)のひとつ。
- シムスケー - 竹富町指定史跡(1972年(昭和47年)8月30日指定)。
- 長田御嶽 - 竹富町指定史跡(1972年(昭和47年)8月30日指定)。
- アカハチ誕生の地 - 竹富町指定史跡(1972年(昭和47年)8月30日指定)。
- 名勝
- 天然記念物
- 浜シタン群落 - 竹富町指定天然記念物(1972年(昭和47年)8月30日指定)。
- 無形民俗文化財
- 波照間島のムシャーマ - 選択無形民俗文化財(1993年(平成5年)11月26日選択)。
- 波照間島節、夜雨節、祖平花節、波照間口説、波照間口説 - 竹富町指定無形民俗文化財(民謡の部)
- 太鼓(テーク)、波照間島節、夜雨節、祖平花節 - 竹富町指定無形民俗文化財(舞踊・狂言の部)
名所・観光スポット[編集]
海岸[編集]
- ニシ浜 - 「ニシ」とは方言で「北」の意味。島の北側にある延長約1.5 kmの海岸[36]。トリップアドバイザーによる2017年の「日本のベストビーチトップ10」で1位に選ばれている[37]。
- ぺムチ浜 - 有人島の名の付けられたビーチでは、日本最南端。
島の周囲にはニシ浜、ペー浜、ペムチ浜など白砂の美しい砂浜が多いが、ニシ浜以外は基本的に遊泳禁止。ニシ浜も竹富町の指定海水浴場ではなく[38]、監視員も配置されていない[39]。シャワー、トイレ、ベンチはあるが、売店はない[40]。
2006年5月17日には、修学旅行に来ていた横浜市立鶴見工業高等学校の男子生徒3名が遊泳区域外の海に入り、1名が死亡、1名が行方不明(後に死亡認定)になる事故が起きている[41]。
波照間島を舞台とする作品[編集]
- 太陽の子 - 小説。
- Qシリーズ - 波照間島出身の凜田莉子を主人公とする小説シリーズ。
- 本日も晴れ。異状なし - 波照間島をモデルとした架空の島「那瑠美島」を舞台としたドラマ。
- 火線上のハテルマ - 漫画。主要人物の波照間猛らの故郷である。
- 金田一少年の事件簿(怪盗紳士の殺人) - 漫画、テレビドラマ、アニメ。事件解決の鍵となる南十字星が描かれた絵画の場所、及び犯人の父親が被害者達から薬物中毒にされ、入院させた先の病院が所在する場所として登場。
- うしおととら - 漫画、アニメ。大妖である白面の者を封じる結界の場の1つとして登場。
- ディスアポイントメント・ハテルマ - オーストラリアにあるディスアポイントレイクと、波照間島の位置関係をコンセプトに作られた、坂本龍一、土取利行のコラボレーションアルバム。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “平成28年全国都道府県市区町村別面積調 島面積 (PDF)”. 国土地理院. p. 108 (2014年10月1日). 2015年3月16日閲覧。
- ^ “竹富町地区別人口動態票(令和2年3月末) (PDF)” (日本語). 竹富町. 2020年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月4日閲覧。
- ^ 「石垣市史叢書13 八重山島年来記」p.28, 石垣市、2009年2月13日発行
- ^ 金関丈夫・国分直一・多和田真淳・永井昌文「琉球波照間島下田原貝塚の発掘調査 (PDF) 」『水産大学校研究報告 人文科学編』第9号、1964年
- ^ a b c d 島村修 (1998). “波照間島総合調査にあたって” (PDF). 波照間島総合調査報告書 自然・歴史・民俗・考古・美術工芸. 沖縄県立博物館
- ^ 谷川健一『日本の地名』岩波新書、1997年4月21日[要ページ番号]
- ^ 波照間 平年値(年・月ごとの値) 気象庁、2011年9月6日閲覧
- ^ 宮良高弘『波照間島民俗誌』木耳社、1972年[要ページ番号]
- ^ a b 竹富町総合戦略 資料集 (PDF) 竹富町、2016年3月
- ^ 仲底善章「波照間島の神行事について -プーリン(豊年祭)を中心に- (PDF) 」(『波照間島総合調査報告書 自然・歴史・民俗・考古・美術工芸』沖縄県立博物館、1998年)
- ^ a b c 竹富町公式サイト - 平成元年~平成28年 竹富町入域観光客数(年別)
- ^ a b 波照間島の星空観測タワー 八重山毎日新聞、2006年8月12日
- ^ 波照間島初のホテル誕生 by 【波照間島】 仲底美貴 - 島々からの便り やいまねっと
- ^ 高山クミ他「沖縄県八重山諸島・波照間島の現状と未来 : 持続可能な観光マネジメントを考える」 ホスピタリティ・マネジメント 6(1), 179-238、2015年、亜細亜大学経営学部
- ^ 幻の泡盛「泡波」を飲む方法とは マイナビニュース、2013年12月2日
- ^ 波照間酒造所公式サイト
- ^ Ouwehand, Cornerius, Hateruma:Socio-religious aspects of a South-Ryukyuan Island, E.J.Brill, Leiden, 1985 コルネリウス・アウエハント『HATERUMAー波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』(中鉢良護訳)榕樹書林、2004年[要ページ番号]
- ^ 鈴木正崇「波照間島の神話と儀礼」『民族学研究』42巻1号、日本民族学会、1977年。『祭祀と空間のコスモロジーー対馬と沖縄』春秋社、2004年に再録
- ^ “島挙げて「ムシャーマ」”. 八重山毎日新聞. (2017年9月5日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “横断歩道の渡り方など学ぶ 波照間で交通安全教室”. 八重山毎日新聞. (2005年4月22日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “石垣―波照間航路 観光フェリーが参入検討”. 八重山毎日新聞. (2018年3月14日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “波照間島フリープラン予約受付開始”. 八重山観光フェリー (2019年7月2日). 2019年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月1日閲覧。
- ^ 石垣島 ⇔ 波照間島 安栄観光
- ^ 波照間航路も町長選の争点に 八重山毎日新聞、2016年7月27日
- ^ a b “大型高速船の導入検討 石垣-波照間”. 八重山毎日新聞. (2016年12月15日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “石垣ー波照間 大型高速船、9月就航予定”. 八重山毎日新聞. (2017年6月17日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “ムシャーマに就航間に合わず 大型高速船、9月末に延期 波照間航路”. 八重山日報. (2017年8月22日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “高波に強い!就航率向上! 島民待望の大型高速船、石垣─波照間航路で運航開始”. 沖縄タイムス+プラス. (2017年10月13日) 2018年3月15日閲覧。
- ^ “船舶の安定運航など要請 町長「強く申し入れる」 波照間公民館”. 八重山日報. (2018年1月12日) 2018年1月20日閲覧。
- ^ a b 装い新たに運航再開 ニュー「フェリーはてるま」 八重山毎日新聞、2012年10月6日
- ^ a b 貨客カーフェリー 安栄観光
- ^ 貨客船時刻表 (PDF) 安永観光
- ^ 島間航路 安栄観光
- ^ 竹富町の文化財 竹富町
- ^ “竹富町波照間島星空観測タワー”. 竹富町波照間島星空観測タワー. 2020年2月24日閲覧。
- ^ 『るるぶ情報版 石垣・宮古・西表'12-’13』
- ^ 波照間ニシ浜1位 国内ビーチトップ10 琉球新報、2017年2月24日
- ^ イメージダウン懸念 ニシ浜で死亡事故の波照間 八重山毎日新聞、2014年7月27日
- ^ 監視員を配置してと訴え 八重山毎日新聞、2015年8月6日
- ^ ビーチ特集 ニシ浜 美ら島物語(日本トランスオーシャン航空)
- ^ “鶴見工業高生2人死亡の水難事故判決、横浜市に1600万円賠償命令/横浜地裁”. カナロコ (2011年5月14日). 2013年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月28日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 竹富町ホームページ(公式サイト)
- 竹富町観光協会
- 波照間島 - DOR39(沖縄39離島観光情報サイト)
- 波照間島 - 八重山物語(石垣市経済振興公社)
- 波照間島 - おきなわ物語(沖縄観光コンベンションビューロー)
- 波照間島 - リトハク(沖縄観光コンベンションビューロー)
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