厚岸小島

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小島(厚岸小島)
Akkeshi-Kojima Island Aerial photograph.1978.jpg
島の空中写真(1978年、国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。)
所在地 日本の旗 日本北海道厚岸郡厚岸町
所在海域 太平洋
座標 北緯42度58分29.5秒 東経144度52分45.7秒 / 北緯42.974861度 東経144.879361度 / 42.974861; 144.879361座標: 北緯42度58分29.5秒 東経144度52分45.7秒 / 北緯42.974861度 東経144.879361度 / 42.974861; 144.879361
面積 0.048 km²
海岸線長 0.83 km
最高標高 27 m
人口 12人
厚岸小島の位置(北海道内)
厚岸小島
     
Project.svgプロジェクト 地形
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小島(こじま)は北海道厚岸郡厚岸町の沿岸、大黒島の北に位置する島。他の小島との混同を避けて厚岸小島(あっけしこじま)と通称される。昆布漁の拠点として漁期のみ季節的な居住人口があり、北方領土を除く道東地域、また北海道太平洋岸における唯一の有人島となっている。アイヌ語の名称はポンモシリで、文字通り「小島」を意味する。明治期までは小大黒島の名でも呼ばれていた[1]

地理[編集]

太平洋に突き出た厚岸半島の南岸、ピリカオタ(ピリカウタ)集落からわずか1kmほどの距離にあり、南隣する大黒島までの中間地点にある。その名の通り、周長800mほどの小さな島で、面積は48,250m2と大黒島の20分の1程度しかない。

千島海流の影響を受けるため気温は低く、特に5~8月にかけては、 北海道東部特有の濃霧の影響を受け日照時間が短い[2]。後述のようにかつては樹木の植生があったが、今は1本の樹木もなく、岩山の斜面には雑草が繁り頂部にわずかにハマナスが繁茂している。動物は8月ごろ営巣のため飛来するウミツバメイワツバメが主なものである[3]。本土の厚岸町、釧路町浜中町の海岸線一帯とともに1955年(昭和30年)に 厚岸道立自然公園に指定されている[2]

島の東部は27mの岩山が屏風のようにそそり立って外側は断崖になっており、西側は急斜面で砂礫の平坦面に接している。この平坦面は中生代白亜層の海食台に砂礫が堆積したもので、一部ではひどく海食を受けている箇所もある。島の周囲には海食を受けた岩盤が岩礁として残り、良好な天然の昆布礁を形成している。昆布漁には干場の確保も重要な条件であるが、島の砂礫面はその適地となっている[3]

人口は2015年の国勢調査で6世帯12人が登録されている[4]が、昆布漁の行われない冬季(12月~4月)には無人島となる。北海道の太平洋岸の主要な島としては、厚岸の2島のほかに室蘭市大黒島、浜中町の嶮暮帰島根室市ユルリ島モユルリ島友知島などがあるが、いずれも無人島であり、季節的にせよ居住者があるのは厚岸小島のみである(大黒島にも漁期に番屋が置かれることがあるが、国勢調査には記録されていない)[3]

島民は冬の間は対岸の床潭に暮らし、春の海明けとともに小島に渡って様々な漁を行う。一家総出の作業で、初夏から夏の終わりまでに年間の収入を稼ぎ上げる[5]。昆布漁の行われる7月~9月には、400余隻の漁船が小島横のスタートライン(海上)から一斉に漁場へ向かう光景をみることができる[6]

目立った施設としては、岩山の山腹に厳島神社があるほか、山上まで津波や高潮の際の避難階段が設けられている。1970年代に閉校した小中学校が公民館に転用されている[7]ほかには、医療・消防などの公共施設や商店などは立地していない(2008年まで簡易水道の飲料水供給施設があったが、現在は上水道事業区域に統合されている[8])。本土までの所要時間は10分程度であり、日常生活圏は本土とほぼ一体化している[2]

本土からの定期船はなく、連絡はもっぱら漁船に頼っている[2]。学校がないため、移住漁師世帯の小中学生は夏休みを除き、親元を離れて本土で暮らすこととなる[7]。また、大黒島とともに日本郵便の定める交通困難地に該当し、郵便物は配達されない[9]。観光などで外部者が訪島する場合にはチャーター船以外の方法がない[10]が、本土側にピリカウタ展望台があり、島の全景を一望することができる。「ピリカウタから望む小島・大黒島」は厚岸町の観光十景にも選ばれている[6]

歴史[編集]

幕末期の松浦武四郎『戊午日誌』には、「ホンモシリ 従アイカツフ愛冠岬より凡廿丁、周囲十丁の丸き島なり。ホンモシリとは小島と云儀。上に赤楊多し」との記載があり、また別に「小島は周8丁、皆岩磯にして奇岩簇々たり。赤楊・の磯馴れしもの一面に生たり」と説明している。明治初期に編纂された『釧路国地誌提要』には、大黒島は「産物昆布、夏中厚岸ヨリ漁民出張」とあり、児島(小島)についても周長以外は大黒島と同様とされている[1][3]

1869年(明治2年)、旧場所請負人山田文右衛門の雇人だった林佐十郎ら3名が小大黒島の漁場を与えられ、対岸の床潭に土着した[1]。明治初年のころはアイヌ人が10数戸定住して昆布採取に従事していたようである。1982年(明治15年)ごろ、川崎氏を皮切りにして、越後や函館からの移住者があった。1897年(明治30年)には小大黒島に9戸、大黒島に2戸の住民が報告されており[3]、その後も昆布採取のため居住者があった[1]

1890年代末から1900年代にはニシンの豊漁時代を迎え、戸数40戸を数えて盛況を極めた。1904年(明治37年)には簡易教育所として学校も設立されている。その後ニシンの漁獲減少に伴って戸数が減少したが、それでも大正から昭和の初めにはタラ釣漁業、ニシンイザリ網漁業を行う家もあり、戸数24・人口140人の時期があった。それも不振に陥ると、採藻を主とするようになって、1969年には漁家は10戸まで減少した[3]。大黒島は戦後早い時期に無人化しており、1950年に中学校が小島に移転統合されている。

1963年、北岸に護岸工事が行われるとともに、共同自家発電形式で初めて島に電気が開通し、同時期にはテレビも全戸に普及した。1972年には海底水道管も敷設されている[8]。このころには通年の定住者があって人口圧も高く、島内での自給が困難であったため、対岸の末広・床潭などで蔬菜の出作りが行われていた。当時日本海沿岸の漁村では漁閑期の出稼ぎが多かったなかで、この島では沿岸での昆布採取とニシン漁、サケ・マス流し網漁で平均200万円を稼ぐことができた[3]

1955年(昭和30年)には12世帯98人、1957年には学校の児童数30人と戦後のピークを迎えたが、その後は一貫して人口減少が進み、島民の文化センターの役割を担ってきた小中学校は1975年(昭和50年)に閉校した。このころから島民は通年定住から季節居住へと転換している。今日では島の居住人口は12人を数えるのみとなっている[2]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

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  1. ^ a b c d 『北海道の地名』平凡社地方資料センター、平凡社〈日本歴史地名大系 1〉、2003年。ISBN 4582490018OCLC 53979149
  2. ^ a b c d e 北海道離島振興計画 (PDF) p.100-104. 2019年7月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 伊藤久雄「北海道の離島漁村厚岸小島」『北海道地理』第42巻、1969年、 12-16頁、 ISSN 2186-5426
  4. ^ 平成27年度国勢調査
  5. ^ 加藤庸二『原色日本島図鑑:日本の島443』新星出版社、2013年、13頁。ISBN 9784405071667OCLC 848054038
  6. ^ a b ピリカウタから望む小島・大黒島 | 観光十景 | 観光されるみなさまへ”. 北海道厚岸町. 2019年7月3日閲覧。
  7. ^ a b 生方秀紀「自然環境と自然体験が調和するエコツーリズムのあり方について(2)厚岸町の海岸・海上・島嶼における事例研究」『釧路論集』第38巻、北海道教育大学釧路校、2006年、 171-179頁。
  8. ^ a b 厚岸町要覧 資料編(平成30年改訂) (PDF) 2019年7月3日閲覧。
  9. ^ 日本郵便株式会社 交通困難地・速達取扱地域外一覧 (PDF) 2019年7月3日閲覧。
  10. ^ 厚岸小島 | 日本離島名鑑 | リトレンゴ”. 2019年7月3日閲覧。