度島

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度島
Takushima Hirado Nagasaki.png
所在地 日本の旗 日本 長崎県平戸市
座標 北緯33度26分18.7秒
東経129度31分26.9秒
面積 3.47 km²
海岸線長 12.0 km
最高標高 103 m
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度島(たくしま)は、長崎県平戸市に属する

江戸時代の家光所用日本地図には多久嶋(たくしま)と記載されていた。

江戸時代の地図.jpg

地理[編集]

平戸島の北方4kmに位置する。北東から南西に向かって細長く伸びた形をしており、東西3.5km、南北1kmの長さである。

島には、浦・中部・三免の3つの集落が存在する。

古代遺跡キリシタン遺跡がある。戦国時代イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラルイス・デ・アルメイダらによってキリスト教カトリック)の布教が行われ、全島民が信者(キリシタン)となった[2]が、後のキリシタン弾圧で殉教したり逃亡や改宗を余儀なくされた。現在ではキリスト教信者はおらず、仏教浄土宗)が大半を占めている。昔の風習が色濃く残っており、盆行事「盆ごうれい」は県の文化財に指定されている[1]

◆平成30年6月30日に「長崎と天草の潜伏キリシタン遺産」で平戸市も春日集落と中江島が世界遺産に登録されました。キリシタン時代には島民の全員が信徒となり「天国の島」或いは「天使の島」と呼ばれた度島、今回はキリシタン時代に大きく影響を与えたポルトガル宣教師、ルイス・デ・アルメイダとルイス・フロイスについて紹介します。フロイスは日本史を書いて戦国時代の信長や秀吉に謁見とし歴史的にも貴重な足跡を残しました。アルメイダは長崎県では初めて医師で布教を兼ねながら五島や長崎へと病院の建設などが知られてます。

インターネットの情報通信が無い時代は度島のキリシタンについては地元の人さえ、宣教師の事はほとんど知らず、唯一の郷土史家、森重郎氏が古老からの言い伝えをまとめて残した物が基礎となっています。他には平戸切支丹資料館やルイス・フロイスの日本史が度島に関する文献として残ってます。度島のキリシタン遺跡は平戸や生月に劣らない価値ある遺跡がたくさんあり、観光の面からも見直しが必要と思われる

◆ルイス・デ・アルメイダ(南蛮医師)

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から非難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[5]。(ウィキュベアより)

長崎開港に先立ち本県に初めて西洋医術を伝えたのは、宣教師・医療伝導師のルイス・アルメイダであり、外科的技術は特に優れていたという。来日したアルメイダは豊後(現大分県)の府内(現大分市)で日本初のヨーロッパ式医学教育を行なった後、本県平戸へ入り度島、生月島、大村、有馬、島原、口之津、福田浦など巡回し布教と医療に従事。永禄9年(1566年)冬の五島灘を渡り、五島藩主五島純定や島民の病気を治療、それまで祈祷などにばかり頼っていた島民から感謝される。永禄10年(1567年)長崎浦を訪れ長崎甚左衛門純景の館の近くに布教所(現春徳寺)を設け、布教と医療を行った。

こうして天正11年(1583年)長崎の本博多町(現万歳町)にミゼリコルデイアの組(慈悲屋)がつくられ、癩病院・老人病院・孤児院など経営された(長崎県医師会より)

◆アルメイダは表の顔は外科医として医療に貢献する一方で裏の顔として奴隷売買の仲介をしていたと伝らえれています。 秀吉が伴天連追放のひとつにこの奴隷売買がありました。(教科書には出て来ませんが)

秀吉が天正十五年(1587)六月十九日にイエズス会日本準管区長のガスパル=コエリョに詰問した際には、 「予は当地にやってくるポルトガル人と、シャム人と、カンボジア人が大量の人間をここで買い取り、故国の日本人、その親族、息子や友人を捨てさせて、奴隷として彼らの国に連れていくことを知っている。」 と語ったと、フロイスの書簡(1587年10月2日付、平戸・度島発、イエズス会総長宛)に記されています。

◆ルイス・アルメイダ(度島での治療逸話)

東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には森重郎氏からの聞き取りで医に関する伝承が紹介されている。

「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」

アルメイダにお世話になった多久島と言う姓の人が佐賀から年に1回は診療所跡にあるツクシ様に供養に訪れてます。

◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。 フロイスは度島滞在中に「度島書簡」としてたくさんの手紙をイエスズ会に送り、当時の平戸やキリシタン事情を詳細に書いてます。 (1587年10月2日付、平戸・度島発、イエズス会総長宛)に記されています。

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)

◆フロイスの日本史第五十章には度島の事について10ページほど記載されてます。最初に「ばあでれ(神父)ルイス・フロイスがいるまん(修道士)ファン・フェルナンデスと共に度島に移った次第」記述がある。これは柳谷武一氏の和訳です。一方、松田毅一氏の第五十章には「ルイス・フロイス師がジョアン・フェルナンデス修道士とともに度島に移った次第。清涼院流水氏のルイス・フロイス戦国記「ジャパゥン」には第5章キリシタンの島(クリスタウン イーリヤ)と紹介されてます。

当時は平戸ではポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件があった。宮の前事件と言われ、平戸では布教どころでは無く、宣教師への風当たりが強かった。横瀬浦の暴動で焼き討ちにあい平戸から籠手田安経の手配の小型船が迎えに来て度島にそのまま行った。平戸瀬戸から北西に向かうと、茜色の夕陽を反射する海上に左右一直線に広がる島が見え、フロイスが度島に近づくと島民も船で漕いだり、あるいは海岸まで行ってばあでれ様(神父様)迎えた。この暖かい島民の心にフロイスは大いに感激し喜んだと言われます。フロイスも何か月も熱病で苦しめれたが度島での療養が功を奏した。

◆復活祭  イエス・キリストの復活を祝うキリスト教最古,最大の祝日。春分のあとの満月に続く日曜日がこの祝日となり,3月 21日から4月 25日の間を年によって移動する。復活祭に先立つ 40日を四旬節,その最後の1週間を聖週間という。この間教会では,キリストの受難を記念する典礼が行われ,復活祭前夜からキリストの復活を祝う喜びに包まれ,カトリック教会では復活祭前夜の典礼が行われる。度島でもルイス・フロイスの日本史に書かれている。4月2日の復活祭ではキリシタンたちはいちばん上等な着物に身を包み、誰もが笑顔で、見違えるほど輝いていた。フェルナンデスと共に私も頭に花の冠を載せ私たちを先頭にキリシタンたちは行列をつくって、島内を練り歩いた。浦地区の高台にあった十字架敷石跡まで足を運んだに違いない。 かってキリシタンの聖地となるはずだった横瀬浦には異教徒がいたが、この度島は島民全員がキリシタンであり、島外からの訪問者もキリシタンのみと言う、まさに我らの天国であった。(ジャパゥンより)度島は基礎となるフロイス日本史の歴史の島として名を残す事になりました。アルメイダは度島を「天使の島」呼び、キリシタンの信愛の深さが良く書かれている。今でも当時、南蛮医師アルメイダにお世話になった佐賀県に移られた多久嶋と言う名前のご子孫が年に1回はアルメイダの供養に度島に訪れている。フロイスは住居のテッペスの石段の上で遠くに平戸が眺める風景に何を思ったのだろうか・・450年前にタイムスリップして見るのもいいかも知れない。

◆日本初の聖書は度島にあったとも言われる

日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が初めて鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まると言われている。しかし、現在記録は残っていない。

フロイスの『日本史』によると、ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力によって和訳の計画をしていたことは確かである。

ザビエルに同行した修道士イルマン・フェルナンデス(1525-1568)は、このヤジロウの協力を得て信仰問答をローマ字に訳している。この中には、モーセの「十戒」や「主の祈り」が入っていたはずだから、聖書の一部は既にこの時代に日本語にされていたようである。

フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが、それに関する詳しいことは不明である。しかし、彼とともに同地に布教していたフロイスの記録によれば、1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で、この稿本が無惨にも焼失したと言われている。(日本聖書協会より)

この火災は待隆節(クリスマス前の4週間)の大雪の日に一人の日本人がミサ用の蠟燭(ろうそく)を作るため、蠟を溶かしていた。風が強く吹いていて火は炎々と燃え上がり、台所はたちまち焼け、焼けたばかりか近くの貧しい信徒の家も十数軒ほど類焼してしまった。マラリヤで臥せていたフロイスとフェルナンデス修道士は祭壇用の飾りとミサ用の葡萄酒の小壺を持ち出すのがやっとであった。(フロイスの日本史より)この火災で1軒だけ焼けなかった家がひのみずと言う名称で度島浦地区は呼ばれている家もある。浦集落にあった教会が火災で消滅したので6日後風があまり直撃しない、丘の麓の内陸寄りの場所に藁葺き家、2棟を建ててもらい、ひとつを教会、ひとつを居館として使用。この場所が下のテッペスと言われたフロイス書斎跡。フロイスは熱病の発作に妨げられない時に、フェルナンデスと協力して日本で書かれた最初の分法書を著文す企画を始め、その動詞の変化と文章論とを整理し、同時に辞書の一部分も始めた。しかしフロイスはまだこの国に来て新しく日本語の知識も少なかったのでそれはその後の20年たって著わされた分法書と辞書との為に役立ち得た草案にすぎなかった。(フロイスの日本史より)


◆度島のキリシタン時代と言われたのは布教が始まった1557年から禁制による取り締まりがはじまった1597年の約40年間、その後も隠れキリシタンとしてナンドサンナンドの洞窟やウドの洞窟が密かに信仰の場として行われていたようです。

◆度島、最後の秘境 ナンドサンナンド洞窟

•450年も経って洞窟の内部は浸食が進んでいる。遠くから見るとハート型の洞窟ですぐに分かるが、何故この場所なのか?誰にも知られたくない秘密の場所がこの洞窟だったのか?謎は深まるが、近年はイエスズ会の公文書で明らかになり、浪漫が深まる度島最後の秘境の洞窟でもあります。

•この場所が登場するのは平戸切支丹資料で「クエリヨ以下度島の北海岸に集合し協議を行い」とある。

•コエリヨからの通報に接した長崎の宣教師たちは教会の品々を船に乗せて平戸に集まり、沖合に浮かぶ度島の洞窟のなかで緊急会議を開いた。

•これは豊臣秀吉の伴天連追放令で日本副管区長だったコエリヨが全会員を平戸に集め、今後、どうするか話あった場所がここナンドサンナンド。

•宣教師たちがひそかに集まって会議を行い、田ノ浦(平戸島)から信徒がう船で食料を運んだという伝承がある。中は6畳ほどの広さで壁に日本語でない文字と十字が刻まれていたとか。(森重郎氏)

•中山にある鬼の岩と勘違いするようだが、そうでもないらしい。ここは船でしか行けれない場所だからで、松田毅一氏の秀吉、南蛮人からは8月5日付けでフロイスが平戸で年報を執事しているところを見れば、「この平戸にはドミンゴス・モンティロのポルトガル船が碇泊していたから、はじめは船内で協議していたかもしれぬが、各地からコエリョの指令に接して多数の会員が集結してきたので付近の度島に移ったと思われる。さらにフロイスの10月2日付けの2つの年報が日付けを同じくするにもかかわらず、一は「平戸」他は「平戸に近い度島」とあるのはこの間の事情があるようで、この島は平戸の北側、3.5平方メートル(畳2畳分)の小島でキリシタンの籠手田氏の所領であった。(秀吉、南蛮人から)

•イエズス会日本占領計画(この洞窟でコエリヨが会議して話あったとされる記事) https://s.maho.jp/book/2e0a56e1d38e2d28/6960570777/ 1587年5月、イエズス会日本準管区長、ガスパル・コエリヨは、宣教師たちの緊急会議を開く。

場所は、平戸の沖合いにある度島の洞窟である。 「日本のキリスタン領主を集めて秀吉に反乱を起こす、イエズス会は軍資金武器を集める。スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」 をガスパル・コエリヨは提案した。 伴天連追放令が出たのが7月ですから2か月前にこの洞窟で話合われたようです。 コエリヨは博多に滞在中の秀吉に日本に無い軍艦を見せて、秀吉がこれに驚き、危機感を抱き翌日に伴天連追放令をだしています。 1587年7月24日(天正15年6月19日)

ナンドサンナンド洞窟(平戸・度島).jpg

後年、隠れキリシタンが住んだ島のひとつでオラショで知られる生月島とは目と鼻の距離にあり、やがてキリシタンが根こそぎ殲滅された悲劇の島である。宣教師たちの緊急会議が開かれたこの洞窟は北側の絶壁に現在も遺っており、波立つ暗然とした玄界灘に臨んで切り立つ岩山の斜面にある洞窟への道は崩れていて海上からでないと近づけない。席上、コエリヨは「日本のキリシタン領主を集めて秀吉への反乱を起こさせ、イエスズ会はそのための軍資金や武器を集めること、スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」などの強硬意見を出した。それは否決されたが、武力による日本布教が公然と動き始めたのはこの時からである。(ザビエルの謎、日本占領計画から)

•日本占領計画、この衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後(バチカンにとり)不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。 もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。(日本でのイエズス会が採った軍事戦略)

•平戸市の松浦資料館にはこの伴天連追放の書状が展示されており何回も拝見しましたが、度島のこの洞窟が貴重な歴史の場所になるとは、さすがに誰も想像しなかった。今後、バチカンにあるイエスズ会の秘密の公文書が公開されていけば歴史の証人の島として後世に語り継がれるかも知れません。


◆度島に来た主な宣教師

  1. ルイス・フロイス(神父・ポルトガル人)
  2. ルイス・デ・アルメイダ(修道士・南蛮医師外科医・ポルトガル人)
  3. ガスバル・ヴィレラ(神父・ポルトガル人、都地方の責任者)
  4. ジョウアゥン・フェルナンデス(修道士・スペイン人)
  5. ガスバール・コエリヨ(神父・クエリヨとも言う)イエズス会日本支部の準管区長
  6. コメス・デ・トルレス(神父)スペイン人、ジャパウン布教長
  7. ジョウアゥン・カブラル(神父・インド人)
  8. ベルショール・デ・フィゲイレド(神父・インド人)
  9. バルタザール・ダ・コスタ(神父・ポルトガル人)

◆「度島の盆ごうれい」は無形民俗文化財(県指定)。長崎県平戸市度島町に江戸時代から伝わる民俗芸能で、伝承によると寛文10年(1670)に島民の平和と豊年、豊漁を祈願して起こったと伝えられています。旧暦の7月16日、総勢200名以上の参加者が大名行列の形態をとり、幟組・棒組・須古踊組・奴踊組・子踊組に分かれ、島内の神社仏閣を中心に奉納が行われます。盆ごうれいの象徴である幟は、御霊が宿る最も神聖なもので、見せ場である「吹き渡し」「逆起し」の演技の成否がその年を占うとされ、幟さしの若者の力と技と心意気が求められるものです。これほど昔ながらの姿で保存伝承されているのは、数多くの伝統芸能をかかえる長崎県内でも他に例がありません。浦集落に伝えられるこんな歌がある。雲のテッペショウに星のおやじが降りて来た・・目玉おに出て・・ぬけでて・・しこでこにらんだ・・だるま仏がさ・・はいや・・ぬいとせ・・ああ目出度い・・こんだとさ。

幟.jpg

◆度島の盆ごうれいの祝祭の特定の特徴であり、特にお盆祭りに関連した幟の掲揚は、日本の他の場所では一般的ではないようです。これらすべてのパフォーマンスの中で最も印象的なのは、幟の掲揚です。昨年まで、すべての病棟には長さ11メートルの竹の棒と、上部に別の3.66メートルの細長い竹の棒が付いた2つの幟がありました。これらの旗の掲揚は島の若い男性によって行われ、男らしさのかなりの証拠として見られています。浦区の立願寺の前にある狭い階段でこれを行うと、特に力の偉業と見なされます。幟は長さ11メートルの竹の棒に取り付けられ、白黒の水平線に分割されます。幟の白い部分は空の神々を、黒い部分は土地の神々を表しています。幟自体の形は、博多の商人たちが貿易に使用した「天満船」の幟の形に似ています。 3.66メートルの竹の棒には、いわゆる「マンド」が取り付けられています。マンドは、度島の本殿の名前が書かれた小さな箱であり、島の神道神の存在を表していると見られています。幟は神聖な物体と見なされているため、地面に触れないように細心の注意が払われています。したがって、若い男性が幟を掲げることは非常に重要です。最近まで、すべての病棟には2つの幟がありましたが、2014年の夏には、それらを運ぶ若者が不足していたため、この数は1つに減少しました。女性は幟に触れることはできません。(平戸でのイエズス会と度島の消えたキリシタン山下龍)英文の為グーグル翻訳にて記述

◆度島の主なキリシタン遺跡

  1. 上のテッペス(秋葉神社の広場周辺にある教会跡さらに左側に宣教師7人が住んでた住居跡)
  2. 下のテッペス(秋葉神社に向かう道の曲がり角にテッペスの石段有り、その上が有名な日本史を書いたフロイスの教会住居書斎跡)テッペスの住居跡に住んでた藤本家は毎年、正月の4日に雨戸を閉めて他者には見せない秘密の行事を行っていた。遺品にマリア観音像があり、隠れキリシタンだったのでは無いか。
  3. 十字架敷石跡(浦地区の西側では一番高い場所で現在のヘリポート周辺) 大きな石がたくさん散財していたが現在は大きな石が1個だけ見えるが改造前は2つの上に平たい石を載せてあったとか、復活祭とかで十字架まで行列を作って島内を練り歩いた時にも来たと思われる。上のテッペスからぼうず道を通って上がった高台には大きな敷石の十字架があり「森重郎氏は子供時分に母親から「その石には神様が宿ってるから踏んでは行けない」と厳しく禁じられていた。
  4. 千人塚(中部地区の高台にあり殉教したキリシタンが葬られている。キリシタン征伐の元締の井元権右衛門の墓が近くにある)
  5. ツクシ様(中部地区に在る中部公民館の横にあるアルメイダの治療所跡)ツクシ様とは古語のくすし(医者)の訛りで前のやくし様と後のやくし様が祀られている。前者がルイス・アルメイダを祀った物でふたかかえほどの大きな石が2段に重ねられている。
  6. ナンドサンナンド(島の裏側にあるハート型の洞窟 豊臣秀吉の伴天連追放によりクエリヨ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し、協議の結果、中国に帰る者以外は、全員九州に潜伏する決意を固めています。田ノ浦(平戸島)の信徒が船で食料を運んだ言う伝承がある。 中は6畳ほど広さで壁に日本語でない文字と十字が刻まれていたと言う・・森重郎氏)(キリシタン史の謎を歩く 森禮子より)
  7. 井元権右衛問墓(中部地区にある小高い山にある)何でも遺言で大島や周囲が良く見えるような場所との説もある。度島のキリシタン征伐は1597年、いよいよ平戸のキリシタン取り締まりが、平戸の役人、井元権右衛門によって開始されました。キリシタンにとって事態は最悪の結果となりました。それまでは度島全島がキリシタンと言うほど、熱心な信仰が続けられていましたが、この取り締まりによって、あるものは殉教し、あるものは逃亡もしくは転びといった具合いに度島のキリシタンは壊滅しました。墓石には井元右衛門の名前は記載されてませんが延享丁卯天(1747年)月十有六日にに建立との記載があります。盆ごうれいには午前中に井元権右衛門の墓を訪問。さらに井元権右衛門の大刀が紫の袋に包まれて披露され、その後、松浦資料館に寄贈されたそうだが、行方不明との事。
  8. 立願時の供養塔サバ大師(境内には等身大ほどの碑が2基建っている。一基はキリシタンの棄教者たちが建てた殉教者の供養塔でもう一基は元禄9年に佐川主馬が建立したキリシタン供養塔のサバ大師。佐川主馬は平戸藩の家老。佐川主馬は1624年に死去、平戸の最教寺に葬らています。立願寺は 1616年に度島での虐殺されたクリスチャンへの祈念として設立された伝統によると、島で唯一の寺院。(度島の消えたキリシタンより)立願時にはキリシタン時代の殉教者200名ほどの過去帳があったが3代前の住職の婿が私には関係ないと言って燃やしたしまったと言われる。(キリシタン史の謎を歩く 森禮子より)
  9. 六済供養塔(中部地区にある)キリシタン供養塔で施主はキリシタン征伐をやって島に住みついた者の子孫で毎年供養が行われている
  10. キリシタン供養塔(中部地区の小川集落海岸沿いにある)
  11. 飯盛山(三免地区、丸島)頂上には十字を彫った石が置いてあったが現在は行方不明。
  12. ドンドン山(三免)不意の射手にキリシタンたちがどんどん逃げたのでドンドン山と呼ばれた。
  13. ウドの洞窟(中部)信徒たちが隠れた洞窟(周辺には2mを超す岩の集団がたくさんある)このウドの海岸線先約100mの所にナンドサンナンドがあります。
  14. テッペス近くのゴンパチ川(浦)戦前までは一尋ほどのまな板のような石がありキリシタン時代にはそこでおさずけ(洗礼)した言う伝承がある。
  15. 寺屋敷教会跡(中部地区)平戸、度島の観光案内板では井元権右衛門の墓近くにある。平戸市の観光案内板とかにこの場所が出てくるが、文献には詳しく出てないので謎である。ここは火災後の一時的な引っ越し場所かも知れません。この教会跡は山の頂上にあるので、海岸から長い坂を歩くのは大変で多くの信徒にとっても苦痛でしょう。ずっと住み続けるのは無理があります。唯一、フロイスの日本史では火災後、司祭と修道士はペトロと言う教名の一人の非常に善良な老いたキリシタンの家に引っ越した。と書いてあります。浦地区での火災ですから、お隣の中部地区に引っ越しが自然かと思われます。その引っ越し先が寺屋敷教会跡で無いかと推測。フロイスの日本史では藁葺きを手に入れる為に別の島に行き、ある農民から貧素な藁葺き小屋を買ってそれを教会として役立てる事にした。その上、同じく藁葺き小屋である第2の小屋も購入され、そこで司祭と修道士は食事をしたり、就寝したり、来客を迎えた。この第2の小屋が下のテッペスと言われるフロイスの住居跡と思います。つまり、上のテッペスを信徒が多く集まる教会に下のテッペスを住居跡と住み分けたのではと推測されます。現在下のテッペスの場所は周囲が石垣で覆われ、当時の様子を垣間見る事が出来ます。ここには藤本家が長く住まれており隠れキリシタンではないかと言われてます。


度島に関するキリシタン年表
西暦 元号 概要
1549年 天分18年 8月にフランシスコ・ザビエル来日鹿児島に来日
1550年 天分19年 ザビエル平戸を訪れ松浦隆信に会う
1552年 天分21年 8月アルメイダ、貿易商として初来日
1555年 弘治1年 7月アルメイダ、再来日平戸から豊後の府内へ
1557年 弘治3年 アルメイダ府内に育児院と病院創設
1557年 弘治3年 平戸についで、度島でも布教が始まる
1558年 弘治4年 ガスパル・ヴィレラ神父の活躍で平戸のキリシタンが1500人を数えるまたヴィレラ神父はガーコ神父の支援で度島を訪れ信者を獲得
1561年 永禄4年 アルメイダ、豊後から博多にそして7月に度島に初来日 度島に15日間滞在
1561年 永禄4年 アルメイダ、度島、生月、獅子、飯良、春日を巡回し度島では約500人の住民全員が信者に、生月では住民1500人の内半数以上が信者に
1563年 永禄6年 7月6日にフロイス、横瀬浦に入港
1563年  〃 7月16日、アルメイダ、豊後より書状を持って横瀬浦に到着、フロイスと初めて会う
1563年  〃 7月20日、フロイス、船でやって来た大村藩主、大村純忠と会う
1563年  〃 8月15日、横瀬浦で暴動襲撃、火災発生、フロイスも捕まり4日間勾留される。釈放後、船の上での生活を3か月ほど余儀なくされる
1563年  〃 11月20日、フロイス、横瀬浦から度島に移動する。ここで日本語や風習をフェルナンデスから学びフロイス日本史の基礎が出来る
1563年  〃 12月1日、浦地区で教会より火事が発生数十軒が焼ける
1563年  〃 12月7日、丘の麓の内陸寄りの場所に藁葺きの家2棟を建ててもらい教会と居館に使う。
1563年  〃 12月25日、降誕祭にドナ・イザベル(籠千田夫人)は彼女の子供たちをミサに参列させるために平戸から度島に寄越した
1564年  〃 4月2日、度島で初めて復活祭が行われる。頭に花の冠を載せ、キリシタンたちが行列を作って島内を練り歩く。
1564年  〃 8月24日、平戸の肥州の許可によりフロイス、平戸に上陸、布教を始める。ザビエルが去って以来6年ぶりの出来事
1564年 永禄7年 10月23日アルメイダが度島に来てフロイスと会う、11か月ぶりの再会
1564年  〃 10月24日フロイスが度島のキリシタンたちに教会に集まってもらい都へ赴くことを自分の言葉で告げた
1569年 永禄12年 4月16日、フロイス、二条城で織田信長に会う
1582年 天正10年 6月2日、織田信長、本能寺の変で自害 48歳
1583年 天正11年 アルメイダ、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した
1586年 天正14年 フロイス、イエズ会の日本副管長のガスバル・コエリヨ一行と共に大阪城を訪問し秀吉に謁見する
1587年 天正15年 7月、秀吉、伴天連追放令を発す 1587年7月24日(天正15年6月19日)
1587年  〃 フロイスの書簡(1587年10月2日付、平戸・度島発、イエズス会総長宛)に記されています。度島発と言う書簡は多く紹介されてます
1588年 天正16年 伴天連追放令により、クエリヨ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し協議を行う
1597年 慶長2年 松浦法印、キリシタン禁制。井元権右門によるキリシタン征伐が度島で始まる。立願時には殉教者200名の過去帳があった。
1597年 慶長2年 フロイス二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日5月24日)大村領長崎のコレジオにて没した。65歳
1598年 慶長3年 豊臣秀吉没
1599年 慶長4年 平戸のキリシタン、松浦氏に追われ長崎へ逃れる。籠手田一門、生月島より追放される。
1600年 慶長5年 関ヶ原の戦い
1612年 慶長17年 徳川家康、キリシタン禁止を表明
1616年 元和2年 度島・立願寺が設立される。
1747年 延享元年 井元権右衛門の墓石が建立される
2018年 平成30年 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で平戸市の春日集落と中ノ江島が世界遺産に登録される

自然[編集]

離島であるがゆえに数々の希少な生物が生息している。島外からの観光客の流入を嫌い見送られたものの、島を国立公園にしようという話が持ち上がったことがある。ただ、下水浄化施設がないこともあり、生活廃水や農薬の使用、新しい道路や港の建設などが、環境を破壊する要因となっているとの指摘もある[誰によって?]

ネット上には度島摺墨と言うヤブツバキの長崎県産の物が紹介されてるが詳細は不明。

度島の一番高い所は丸島で103m。頂上には小さな神社があり、信仰の大きさが伺える。

崎瀬は小学校のキャンプ地として毎年開催されていた。

行政[編集]

明治時代初期は1島1村の北松浦郡多久島村となっていたが、1889年(明治22年)4月1日の町村制度施行時の際、平戸島内の一部の地域を行政区域とする平戸村と合併し、平戸村に属した。1925年(大正14年)4月1日に平戸村が平戸町と合併したことで平戸町に属し、1955年(昭和30年)1月1日に平戸町を含む平戸島内の全町村が合併して平戸市が発足したことで、島も平戸市に属することになった。2005年(平成17年)10月1日に平戸市が周辺市町村と対等合併したため、市名は平戸市のままだが新市制となっている。

産業[編集]

主産業は漁業農業である。

農業は古くから、稲作が行われている。多くの世帯が小麦を栽培していたが、農産物輸入自由化により価格が下落したために減少した。かつては肉牛を飼っている世帯が大半を占めていたが、現在は1軒だけとなってしまった。

男性は、大半が1ヶ月ほどの遠洋漁業に従事している。

教育[編集]

島の中央に小中併設校の平戸市立度島小学校・中学校がある。校舎や校庭を共用しており、運動会遠足などを合同で行っている。保育所を合わせ、10年以上同じクラスで過ごす子供もいる。

交通[編集]

平戸港に停泊中の「第二フェリー度島」

島外からの交通手段としては、平戸市中心部の平戸港と度島を結ぶフェリーが定期的に運航されている[3]。フェリーターミナルは島の東部の飯盛地区と島の西部の本村地区の2ヶ所に設けられている。

島内の道路は、国道県道はなく、市道のみである。かつてはバス・タクシーなどの公共交通機関は無かったが 2018年1月現在、コミュニティーバスが運行されている(月曜から金曜のみ)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 「玄海の小島に生まれて[4]」(著 - 森優)
  • 『南蛮医アルメイダ』 東野利夫・著 柏書房
  • 横瀬浦の開港と焼亡について  五野井 史
  • 長崎異聞2015(2)平戸・度島
  • キリシタン時代の初期の聖書 日本聖書協会
  • キリシタン史の謎を歩く 森禮子 教文館 2005年
  • 平戸市切支丹資料館
  • フロイスの日本史 柳谷武一 平凡社 1965年
  • フロイスの日本史 松田毅一 中央公論新社 2000年
  • 長崎年表
  • 『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』清涼院流水 幻冬舎 2018年
  • 平戸・度島のキリシタン物語
  • 平戸でのイエズス会と度島の消えたキリシタン 山下龍
  • 秀吉と南蛮人 松田毅一
  • 第三章-3 歴史に見るキリスト教国家のアジア侵略と日本の危機 愚谷軒黙雷
  • https://zen-life.jimdo.com/2018/12/01/第三章-3-歴史に見るキリスト教国家のアジア侵略と日本の危機/
  • ザビエルの謎 古川薫 (イエズス会日本占領計画)文藝春秋 1997年
  • 日本でのイエズス会が採った軍事戦略

脚注[編集]

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  1. ^ a b ながさきのしま|長崎のしま紹介【平戸】|平戸のプロフィール 長崎県 企画振興部 地域振興課
  2. ^ 『キリシタン史考 - キリシタン史の問題に答える』p330-p337(H.チースリク 著)聖母の騎士社 ISBN 4882161249
  3. ^ 平戸~度島【フェリー度島】 平戸市役所
  4. ^ 平戸市度島町出身の著者が大正時代から2001年(平成13年)までをまとめた個人史。度島の方言、歴史等も記載。

外部リンク[編集]