彦島

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彦島
関門海峡空撮.JPG
関門海峡および彦島(左端)
所在地 日本の旗 日本山口県
所在海域 関門海峡
座標 北緯33度56分14秒 東経130度54分52秒 / 北緯33.93722度 東経130.91444度 / 33.93722; 130.91444座標: 北緯33度56分14秒 東経130度54分52秒 / 北緯33.93722度 東経130.91444度 / 33.93722; 130.91444
面積 9.8 km²
最高標高 111.8 m
最高峰 大山
彦島の位置(山口県内)
彦島
彦島
彦島 (山口県)
彦島の位置(日本内)
彦島
彦島
彦島 (日本)
Project.svgプロジェクト 地形
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彦島(ひこしま)は、日本中国地方西部の、山口県下関市の南端にある陸繋島[1][2][3]本州最西端部のの一つ。関門海峡に周囲を囲まれた島。かつては大瀬戸と小瀬戸の間の島であったが、小瀬戸が埋立てられた1937年(昭和12年)以来、人工の陸繋島となっている[1]。本州と九州が関門海峡によって分断されている地形にあって、九州側へ深く入り込んだ本州側の西南端部に当たる地域

また、歴史地名としては、近世における長門国豊浦郡彦島、江戸幕藩体制下の長門府中藩知行彦島を指す。

現在行政区画においては、旧・彦島村、旧・彦島町に相当する[4]、下関市彦島(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所彦島支所の所管する区域)をいう。この場合、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)[gm 1]、彦島の至近にある竹ノ子島(たけのこじま、彦島と道路橋で接続)[gm 2]、船島(通称巌流島[gm 3]の3島を含む。

地域概要[編集]

彦島
ひこしま
日章旗 日本
地方 中国地方
中国・四国地方
都道府県 山口県
自治体 下関市
旧自治体 彦島町
面積
11.26km²
世帯数
12,658世帯
総人口
24,979
登録人口、2020年(令和2年)4月末時点)
人口密度
2,218.38人/km²
下関市役所彦島支所
所在地 〒750-0075
山口県下関市彦島江の浦町一丁目3番1号
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竹の子島や船島(巌流島)等を含めた彦島地区の面積は11.26 km² [5]。2020年(令和2年)4月末時点での人口は 24,979人[6]と、本州北海道九州四国沖縄本島などを除くと日本有数の人口の多い島で、島内には重工業地帯が広がっている。

下関の本土とは、関彦橋(かんげんきょう)、下関漁港閘門(小瀬戸水門)、彦島大橋の3ルートでつながっている。東側(関門海峡側)の彦島江の浦町には山口県道250号南風泊港線の一部をなす関彦橋が架かり、下関駅唐戸国道9号方面に通じる。関彦橋の250mほど北西の彦島本村町6丁目に下関漁港閘門があり、閘門の上を通行することが可能である。北端の響灘沿いの彦島迫町には彦島道路が通っており、彦島大橋が架かり、国道191号東駅下関IC方面に通じる。

産業としては、造船業や重化学工業、水産加工業などが盛ん。主な企業として、三菱重工業下関造船所下関三井化学三井化学関連会社、旧・三井東圧化学彦島工場)・ 彦島製錬(三井金属関連会社) などがある。

彦島北部にある 彦島海士郷町彦島老町地区は小瀬戸の対岸に下関駅があるが架橋がされておらず、対岸に渡るには県道250号線関彦橋を経由しなくてはいけない(路線バスのルートも同様)。

公共交通[編集]

島内はJR山陽本線 が敷設されているが、大部分が 関門トンネル (本州側の入口がある)で駅は存在しない。

  • 路線バス

サンデン交通がバスを運行している。彦島営業所があり、島内各地と市中心部の唐戸・東駅・下関駅を結ぶ便がある。 [7]

70系統

  • 下関駅 - 大和町二丁目 - (関彦橋) - 本村 - 卯月峠 - 東圧正門前

71系統

72系統

  • 下関駅 - 大和町二丁目 - (関彦橋) - 荒田 - 東圧正門前

73系統

  • 下関駅 - 大和町二丁目 - (関彦橋) - 荒田 - 東圧正門前 - 竹ノ子島

74系統

  • 下関駅 - ダイハツ工場前 - (関彦橋) - 本村 - 老田 - 海士郷

竹ノ子島停留所はあるが竹ノ子島島内にはバスは乗り入れいない

対岸の西山町(竹ノ子島橋の彦島側)で折り返す

地名[編集]

地名については『日本書紀』の「仲哀紀」に「引島」とあるのが初出である[4][8][9][10]。「引島」「ヒクシマ」の名は古代から多くの和歌紀行に詠まれる[11][8]鎌倉時代の文献(『吾妻鏡』など)に、「彦島」と表記されたものがあり[10]、「引島」と「彦島」と2通りの表記が共用されながら、やがて「彦島」に統一されるようになった[9]。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「壇ノ浦の戦いの時に、『引は武士にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある[9]

歴史的事象[編集]

彦島西山の化石層[編集]

彦島西山の化石層は、新生代古第三紀漸新世チャッティアン(約2500万年前)の地層であり、彦島西山海岸(管理住所は彦島西山町2-6-7)に分布する[gm 4]。海洋生物等の化石を多く産する。1971年(昭和46年)7月22日、下関市指定文化財(天然記念物)となった。史跡。

七里七浦七曲りに足りず[編集]

瀬戸内海の制海権を握った平家(伊勢平氏)にとって重要な拠点の一つであり、実際に壇ノ浦の戦いの際には平家が本陣を置いた。また、平家ゆかりの話としては、厳島神社の建設にあたって安芸国厳島と並んで最終候補地になったが、「七里七浦七曲り」の条件のうち、わずかに長さが足りずに選ばれなかったとも伝えられる。

清盛塚[編集]

彦島の清盛塚につながる石標

彦島の清盛塚は、平清盛墓所と伝えられている場所の一つである[12][13]。彦島江の浦町4-15に所在[gm 5]史跡

寿永3年(1183年)、時の中納言平知盛は亡き父・清盛の遺骨を携えて彦島に入り、平家最後の砦・根緒城(彦島城)の築城に取りかかり、砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立したとされる[12]。知盛も平家も虚しくなった後、墓碑は永年無銘のまま荒地に放置され続けた[12]。彦島には平家の塚が数か所あったとされる[12]。地元の有志達が動いたのは1929年(昭和4年)[12]。道を整備し、現存する墓碑には郷土史家の指示で「清盛塚」と刻まれた[12]

きぬかけ岩[編集]

小瀬戸(こせと)に面した彦島老町2-24-7地先に所在する岩場で[gm 6]壇ノ浦の戦いの後、敗れた平家方の一武将とその妻がこの地で追っ手に追い詰められ、二人は最早これまでと海に身を投げたものの、妻だけは漁師に助けられて息を吹き返した。それからというもの、夫を亡くした女は魂が抜けたようになって辺りを彷徨い歩くようになったが、雨風の酷いある日、小瀬戸の岩場に立つと纏っていた衣を脱ぎ、合掌して荒れ狂う海に身を投じた。女はそのまま海中に消えてしまったが、不思議なことに衣は激しい風に吹き飛ばされることもなくいつまでも岩に掛かっていたという。それ以来、誰言うとなくこの岩を「きぬかけ岩」「きぬかけ石」「身投げ岩」などと呼ぶようになった。

彦島十二苗祖[編集]

保元の乱に敗れた河野通次や、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れた平家(伊勢平氏)の残党(落武者達)が彦島に移住し、彦島開拓の礎を築いた[8][14]。彼らは、河野通次を筆頭に「彦島十二苗祖(ひこしま じゅうにびょうそ)」と呼ばれる[14][10]。現在彦島において「河野」姓や「百合野」姓は彦島の典型で、岡野、小ヶ原、和田などは、河野を大元の出自とする。

彦島八幡宮[編集]

彦島八幡宮は彦島全島の総鎮守である。彦島迫町5-12-9に鎮座[gm 7]平安時代後期にあたる平治元年10月15日1159年11月26日)のこと、河野通次自らが祭主となり、宇佐神宮より勧請されて創建された[10]。「灘八幡」とも呼ばれ、宮の沖合を通過する船は必ず半帆の札をとったといわれる[10]。このことから造船・漁業関係者からの篤い信仰を集める[10]。安産の神としても知られ、「子安八幡」とも呼ばれる[10]

貴布祢神社[編集]

彦島老町1-11-13に鎮座する貴布祢神社(きふねじんじゃ)[gm 8]は、京都貴船神社総本社とする。社伝によれば鎌倉時代中期にあたる弘安元年(1278年)の創建という[15]。「牛の宮」と呼ばれ、牛馬安全を祈る社としてかつては大いに繁栄していた[15]

巌流島/1974年(昭和49年)撮影の空中写真

巌流島[編集]

関門海峡に浮かぶ無人島[gm 3]、元来の名称は「船島(ふなしま)」であるが、安土桃山時代末の慶長17年(1612年)に宮本武蔵佐々木小次郎決闘が行われた島として広く知られるようになり、小次郎の流派である「岩流」(異字で巌流とも記す)にちなんだ「巌流島」という通称のほうが有名になった。

塩釜神社[編集]

塩浜(彦島塩浜町[gm 9])では江戸時代後期まで塩田が営まれ、塩田の守護神として塩釜神社が祀られていた[15]祭神塩土神しおつちのかみ)は海の神で塩の精製法を伝授したという[15]

金刀比羅宮[編集]

江戸時代後期、毛利元義が海防と福浦湾の繁栄を図るため、郡代水野忠実に命じて長府忌宮神社の境内末社であった金刀比羅宮を、文政3年(1820年)に現在の彦島福浦町湾頭兜山(富観台)へ遷座させたものである。

あわや租借地に[編集]

幕末、馬関戦争(下関戦争)の講和条約の際に彦島は香港の如く租借地になりかけたが、正使の高杉晋作が突っぱねたため助かったとされる(宍戸桂馬に扮してイギリスのキューパーと交渉)[16]。実際には藩主から「租借もやむなし」と言われていたが、これを託かった通訳の伊藤博文が高杉に伝えなかったためという説(後の伊藤自身による回顧)や、そもそもイギリス側からそのような話は出なかったという説(イギリス側の会議議事録)もあり、判然としない[16]。この話の初出が伊藤の後年の回想録であるため、古川薫はこの話が真実かどうかは不明であるとしている[16]

金ノ弦岬灯台[編集]

金ノ弦岬(かねのつるみさき)は彦島の最南端にある岬で、ここで長年稼働していたのが金ノ弦岬灯台である[17][18][19][gm 10]。所在地住所は彦島田の首町2-25。今はもう灯台ではないので正確には「旧金ノ弦岬灯台」という。

彦島本島は関門海峡に大きく突き出した地形になっている。北以外の三方を海峡に囲まれている島とも言えるが、その最南端付近の海域には多くの沈瀬(しずみせ)が潜んでおり、航行には厄介な場所であった。この問題を解決するべく明治4年1871年)7月に岩礁の上に礁標(しょうひょう。現代用語では俎立標〈昼標〉)が設置された[20][21]。『日本灯台史』には「わが国最初の立標は、明治4年7月完成した関門海峡にある與次兵衛、鳴瀬、俎の3立標で、いずれも石造であった」と記している[22]。鳴瀬は金ノ弦岬の東側の海域、俎瀬は西側の海域の名称である。與次兵衛(与次兵衛)は、鳴瀬よりずっと東の方、彦島水雷衛所跡[gm 11]の真東の海上に「與次兵衛岩(与次兵衛岩)」という地名があるので、その周辺であろう。設計者は「日本の灯台の父」リチャード・ブラントン1890年(明治23年)に昼夜灯の挂灯立標(けいとうりっぴょう。現代用語では灯標)へ改変され[23]、当施設の初点灯となったが[23][注 1]、この変更は国内2例目とおいう早さであった。その後、挂灯立標は海峡の改良工事のために撤去され、1920年(大正9年)には石造の基礎を新設したうえで白塗円形石造で現在地に移築された[注 2]2000年(平成12年)には海峡に灯浮標が整備され、灯台は役割を終えて6月8日付で消灯し、2002年(平成14年)3月31日に廃灯となった。2003年(平成15年)には所有者が海上保安庁から下関市に移った。下関市指定重要文化財

彦島水雷衛所[編集]

日露戦争の勃発により、ロシアのバルチック艦隊が関門海峡に侵攻して来た際の備えとして、航路に設置した有線水雷を発火させるための施設(※有線水雷と呼ばれる浮漂水雷や電気触発水雷を、湾の入り口や海峡に線状に幾つか設置し、衛所から監視し、視発弧器〈照準器のような計器〉で敵艦の方位測定を行い、敵艦の真下の水雷〈管制水雷、視発水雷ともいう〉を電気的に爆破させる施設)。現在は史跡「彦島水雷衛所跡」となっている[24][gm 11]。所在地の現在の住所は彦島弟子待町3-1。1905年(明治38年)の日本海海戦で日本艦隊がバルチック艦隊を撃破したため、彦島水雷衛所は一度も使われずに役目を終えた[24]。1991年(平成3年)の台風19号で大破し、その後、復元されたが、さらに時が経過して今では半壊状態になっており、防波堤と火薬庫であった煉瓦積みのトンネルだけが残っている[24]

付近には文久3年(1863年)の馬関戦争(下関戦争)に備えて造られた砲台の遺構である石垣も見られる。

門司検疫所彦島措置場[編集]

海外からの入国者に対して伝染病を日本国内に持ち込まないように検疫を行う門司検疫所の一施設で、コレラの消毒業務を行う「内務省下ノ関消毒所」として1885年(明治18年)に開設された。所在していた場所は現在住所で彦島江の浦町7丁目。1915年(大正4年)になって本格的施設が竣工する。1941年(昭和16年)からは中国人強制連行者・捕虜検疫施設として利用された。1943年(昭和18年)からは彦島疾病兵捕虜収容所として利用された。 第二次世界大戦後には引き上げ援護局として利用されている。1951年(昭和26年)に門司検疫所彦島措置場となった。1976年(昭和51年)にコレラ患者6人が収容されたのを最後に措置場としての機能を終え、1999年(平成11年)3月に閉鎖された。2001年(平成13年)末に解体され、跡地は再開発されている。

下関漁港閘門[編集]

史跡・観光地等[編集]

彦島(左手)と本州を結ぶ下関漁港閘門(小瀬戸水門)。山の上にある学校は下関中等教育学校
南風泊市場
  • 彦島西山の化石層 [gm 4]
  • 船島(巌流島[gm 3]
  • 彦島宮の原遺跡 - 彦島八幡宮境内にある縄文時代前期・中期の集落遺跡[4][25]
  • 彦島杉田岩刻画(ペトログラフ)[25] - 下関市指定有形文化財(考古資料)。彦島江の浦町5-12に所在[gm 12]
  • きぬかけ岩 - 「きくかけ石」「身投げ岩」ともいう。[gm 6]
  • 小戸海岸
  • 彦島八幡宮 [gm 7]
  • 貴布祢神社 [gm 8]
  • (頭兜山の)金刀比羅宮
  • 恵比須神社 - 彦島海士郷町7-6に鎮座。
  • 塩釜神社
  • 旧・金ノ弦岬灯台 [gm 10]
  • 彦島水雷衛所跡 [gm 11]
  • 下関漁港閘門(小瀬戸水門) - ■右に画像あり。
  • 南風泊漁港
  • 南風泊市場(はえどまり しじょう) - フグの取扱量全国一位。■右に画像あり。
  • 西山海水浴場(ひこっとらんどマリンビーチ)
  • 福浦貯木場跡
  • 老の山公園
  • 彦島南公園
  • 海士郷 牡蠣小屋

公共施設・機関[編集]

  • 下関市立彦島図書館
  • 彦島公民館
  • 彦島地区公園
    • 彦島体育館

著名な出身者[編集]

政治家・経済人[編集]

芸能人[編集]

スポーツ選手[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 明治4年(1871年)7月初点灯としている資料が多いが、1890年(明治23年)まではただの立標で、灯標になって初めて点灯している。
  2. ^ 『東洋灯台表』の「金ノ弦岬灯台」には「明暗 白/明3秒 暗3秒」「白塗圓形石造」とあり、初点灯は「大正9」とある[23]
Googleマップ
  1. ^ 六連島(地図 - Google マップ)※該当地域は赤色でスポット表示される。
  2. ^ 竹ノ子島(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  3. ^ a b c 下関市大字彦島 船島(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  4. ^ a b 彦島西山の化石層(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  5. ^ 彦島 清盛塚(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  6. ^ a b きぬかけ岩 平家伝説(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  7. ^ a b 彦島八幡宮(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  8. ^ a b 下関市 貴布祢神社(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  9. ^ 彦島塩浜町(地図 - Google マップ)※該当地域は赤色で囲い表示される。
  10. ^ a b 金ノ弦岬灯台(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  11. ^ a b c 彦島水雷衛所跡(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  12. ^ 彦島杉田岩刻画(地図 - Google マップ)※上に同じ。

出典[編集]

  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  2. ^ a b 小学館『デジタル大辞泉』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  3. ^ a b 三省堂大辞林』第3版. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  4. ^ a b c d 三浦肇、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  5. ^ 下関市 20191130.
  6. ^ (2-1)人口と世帯数 最新データ(全市・地区別・町名別 登録人口)”. 公式ウェブサイト. 下関市 (2020年5月18日). 2020年5月29日閲覧。
  7. ^ サンデン交通(株) 主要バス路線図”. サンデン交通. 20200816閲覧。
  8. ^ a b c d 日立デジタル平凡社世界大百科事典』第2版. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  9. ^ a b c 『下関の地名』 2001 [要ページ番号]
  10. ^ a b c d e f g 彦島八幡宮 由緒.
  11. ^ a b 平凡社百科事典マイペディア』. “彦島”. コトバンク. 2020年5月30日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 彦島・清盛塚”. ニッポン旅マガジン. 一般社団法人プレスマンユニオン. 2020年5月29日閲覧。
  13. ^ 清盛塚<山口県下関市>”. 非公式ウェブサイト. 源平史蹟の手引き. 2020年5月29日閲覧。※案内看板の画像など、現地情報あり。
  14. ^ a b 支局長評論 下関 伝統の味わい /山口」『毎日新聞毎日新聞社、2016年9月26日。2020年5月29日閲覧。
  15. ^ a b c d 彦島八幡宮 彦島めぐり
  16. ^ a b c 古川 (1996), pp. 198-205.
  17. ^ a b 5441 金ノ弦岬灯台(廃止)”. Lighthouse-Japan.com. 2020年5月30日閲覧。
  18. ^ a b No-38 旧金ノ弦岬灯台”. 日本遺産 関門"ノスタルジック"海峡 ~時の停車場、近代化の記憶~. 2020年5月30日閲覧。
  19. ^ a b 金ノ弦岬灯台”. 日本の宝島「あまくさ」. 2020年5月30日閲覧。
  20. ^ 『日本灯台史』 (1969).
  21. ^ 『日本航路標識便覽表』 (1924), 「俎立標(昼標)」.
  22. ^ 『日本燈台史』 (1969).
  23. ^ a b c 『東洋灯台表』 (1926), 「金ノ弦岬灯台」.
  24. ^ a b c 下関港紹介① 新港地区(長州出島)みなと歴史探訪①日露戦争の遺産 水雷防波堤 - 『しものせき Port News 平成28年6月 Vol.1』 (PDF)”. 公式ウェブサイト. 国土交通省 九州地方整備局 下関港湾事務所 (2016年6月). 2020年5月30日閲覧。
  25. ^ a b 彦島八幡宮 ペトログラフ.
  26. ^ a b 『日本紳士録 第35版附録』附録 全国多額納税者 山口県63-64頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月21日閲覧。

参考文献[編集]

  • 古川薫『幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲』中央公論社中公新書 1285〉、1996年1月1日。OCLC 674834393ISBN 4-12-101285-2ISBN 978-4-12-101285-2
  • 『日本紳士録 第35版附録』交詢社編、交詢社、1931年。doi:10.11501/1145759
  • 『日本航路標識便覽表』航路標識管理所編、航路標識管理所、1920年8月作成、1924年3月最終改正。NCID BA36736038
  • 『下関の地名』下関市教育委員会編、下関市教育委員会、2001年、増補改訂版。
  • 『東洋灯台表(下巻)』海軍省水路局編、海軍省水路局、1908年(明治41年)。ASIN B0096H6LV0
  • 『東洋灯台表』海軍省水路部編、海軍省水路部、1926年1月1日(大正13年)。ASIN B0096H6LV0
  • 『日本燈台史―100年の歩み』海上保安庁灯台部編、灯光会、中央公論事業出版、1969年1月1日。ASIN B000JA1FXM

関連項目[編集]

外部リンク[編集]