板東英二

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ばんどう えいじ
板東 英二
本名 板東 英二
生年月日 (1940-04-05) 1940年4月5日(84歳)
出生地 満洲国の旗 満洲国吉林省図們市
(のちの中華人民共和国の旗 中国吉林省延辺朝鮮族自治州
国籍 日本の旗 日本
血液型 O
職業 プロ野球選手野球解説者タレント司会者俳優
活動期間 1959年 -
配偶者 あり
公式サイト http://bandoeiji.nucella.jp/
 
受賞
日本アカデミー賞
第13回日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1989年あ・うん
その他の賞
第2回日刊スポーツ映画大賞助演男優賞
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板東 英二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県板野郡板東町(のちの鳴門市
生年月日 (1940-04-05) 1940年4月5日(84歳)
身長
体重
170 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月15日
最終出場 1969年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本プロ野球選手野球解説者タレント司会者俳優。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)。「東英二」は誤記。

満州国生まれで、徳島県板野郡板東町(のちの鳴門市)育ち。スターダストプロモーションと業務提携をし、個人事務所のオフィスメイワークに所属している。

来歴

旧満州国と朝鮮の国境に近い吉林省図們市で生まれ、終戦後父親の故郷である徳島県板野郡板東町のかつて板東俘虜収容所であった引き揚げ者用住宅で過ごす。

なお、生年月日は「4月5日」としているが、2009年8月22日放送の『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』(ニッポン放送)にゲスト出演した際、板東自身「高校1年生までは3月31日なんです」と語っている。パーソナリティの和田アキ子に「どっちやねん!」と突っ込まれるが、板東は「(満州から引き上げた時には)もう日本では学校が始まっており、(3月31日のままだと)1年ダブった形で入ることになるが、夏の高校野球大会は規定で4月1日までが、ちゃんとしておかなければならないことが分かり、裁判所で50円で(=50円を支払って)1週間ずらした」とその経緯を語っている。4月1日にせず4月5日にした理由は、「いろいろモメたらいかんので、1週間ぐらい遅らせた方がいいのではないか」としている。当時は、世間的にもこうした誕生日の変更が行われていたという。このエピソードは、自著「赤い手」にも書かれている。

選手時代

高校時代

1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。当時の練習は非常に厳しく(監督は須本憲一)、流感台風による休校時も年中無休・23時頃まで行われていたほか、試合前には近くの高校で300球を投げ、試合直前のブルペンでも150球を投げていた。後述の延長18回を完投した翌日の再試合も300球の投げ込みを行ってから登板した[1]。1年生時に第38回全国高等学校野球選手権大会へ出場するも1回戦で敗退。1958年の第40回全国高等学校野球選手権大会に出場すると、対秋田市立秋田商業高等学校戦(相手は石戸四六)、対福岡県立八女高等学校戦で勝利し、準々決勝に進出した。

準々決勝の対富山県立魚津高等学校戦は18回で25個の三振を奪うが、相手の村椿輝雄も譲らず、0対0のまま引き分け・翌日再試合となった[2]。魚津高戦の4ヶ月前に春季四国地区高校野球大会が行われたが、板東は徳島のエースとして、対高知市立高知商業高等学校戦で16回、翌々日の対香川県立高松商業高等学校戦で25回[3]を1人で投げ抜いた(この時の高松商業・石川陽造も25回を完投)。この事態を重く見た日本高等学校野球連盟はこの年から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定していた[4]。引き分け再試合になった理由について板東は「四国のピッチャーは速球でガンガン来るタイプがほとんどで、魚津高の村椿(輝雄)君のような、打たせて取る軟投派のピッチャーとは対戦が無かったからタイミングが合わず、戸惑ったまま試合をしたから」と発言している。

延長18回を投げきった試合直後の記者会見の場では、集まった記者に対して開口一番「いやぁ~、記者の皆さん、遅くまでどうもお疲れ様でした!」と発言し、記者は板東の驚異的なスタミナに唖然とした。再試合が決定した日の夜、村椿は宿舎に帰ると食事も摂らずに眠ってしまったのに対し(後年、村椿はこれを否定)、板東は宿舎に戻った後、しっかり食事を取って風呂に入った上で寝たという。

準々決勝の再試合も完投して勝利を収め、準決勝で対作新学院高等学校戦を制すが、決勝で対山口県立柳井高等学校に敗れた。この大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録で、Template:CURRENTISOYEAR年現在も破られていない[5]王貞治とは同学年でともに甲子園で活躍したが、高校野球時代の両者の対戦はない[6]

高校時代に華やかな活躍をしたため、高校野球の歴史を扱う雑誌・著書・番組にたびたび登場するが、その実績には強い誇りを持っており、プロ野球時代の自分をお笑いのネタにすることは多いが、高校野球時代をネタにすることは全くと言っていいほどない。

プロ野球選手時代

1959年、中日ドラゴンズに入団。動機については講演会で「母親が契約金に釣られたから」「球団職員が高額紙幣を使わずに、わざと半端な紙幣を使って札束の山を大きく見せ、そんなもの見たことがない徳島の親を買収したから」と冗談交じりに告白している。契約金は王・長嶋よりも高額[7]で、ジャンクSPORTS出演時には「小切手に1だけ書き込まれ、『後は好きなだけ0を書いてください』と言われた」と話したこともある。

2年目の1960年、オールスターゲームに監督推薦で選出され、第2戦(後楽園球場)でセントラル・リーグの4番手として登板。先頭は田宮謙次郎だったが、田宮のネームバリューに圧倒されたことから板東自らの意思で敬遠、小柄のカールトン半田(南海)に対しては、おちょくったつもりで甘い球を投げたところを痛打され、球宴史上初のランニング本塁打を献上、一死も取れずに降板した[8]。ベンチに戻ると水原茂(巨人)から「板東、もう名古屋へ帰れ。お前を選んだ俺が馬鹿だった!」と言われた。1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢されている(Template:CURRENTISOYEAR年現在も最年少記録)。

巨人が2000勝を達成した1965年7月25日の試合(中日球場)で先発すると、8回1死まで巨人打線を無得点に抑えていた。しかし、柴田勲に逆転本塁打を浴びて敗戦投手となる。巨人が5000勝を達成した2007年には日本テレビの野球中継で放送されたほか、日テレの子会社であるバップが同年に発売した「ジャイアンツ栄光の5000勝 永久不滅版」に収録された。

1960年代後半には「投手分業制」を提唱する近藤貞雄の勧めで抑え投手となり、中日で初めて本格的な中継ぎ投手となった。板東の現役時代、当時は「中継ぎ=敗戦処理」の考えが根強く、「先発投手の完投が当たり前」「抑え投手の重要性がそれほど認識されていなかった」「同じ時期に『20時30分の男』として注目を集めていた宮田征典の陰に隠れてしまったこと」は、板東にとって不幸だった[9]

しかし肘を故障して球威が落ちて以降は中継ぎ失敗も増え、板東が登場するとネット裏の観客から、板東自身と板東を起用した近藤に対し「くそたわけ」などと野次る声が聞こえた。怒った板東はきっちり抑えると一目散にネット裏に向かい、ネットをよじ登って野次主のいる方向へ唾を吐きかけた。ふと隣で同じようにネットによじ登って唾を吐き飛ばしている者を見るとそれは近藤で、この行為に対して球団から制裁金5万円が課された。[10][11]

1966年8月26日の対読売ジャイアンツ戦に中継ぎで登板し、塩原明を1球で打ち取って降板。これによりプロ野球史上2人目、セントラル・リーグ初、日本人投手として初の1球勝利投手に輝いている[12][13]

1967年は好調で中継ぎもほとんど成功していたが、ルー・ジャクソンデーヴ・ロバーツを苦手として、ON砲より上だと公言していた。

右肘故障のため、現役時代は短かった。板東によれば、右肘は高校時代から悪く、「肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。

1968年に右肘軟骨除去手術を受けるも、翌年1969年限りで自由契約となり引退。現役引退については球団から板東自身に言い渡される前に新聞で見て知ったと著書で語っている。このときスカウト転身を勧められたが、自分に合わないとして断っている[14]。引退の直接の引き金になったといわれる肘の状態は相当悪く、現在も肘がまっすぐに伸びない。引退後20年以上経ってテレビ番組で腕相撲への参加を勧められたときも、肘の故障を理由に断っている。

プロ11年間で77勝65敗の成績を残した。太田幸司同様甲子園での投げ過ぎで選手生命が縮まったと言われる事が多い。

現役時代の武器はフォークボール。入団当時の監督杉下茂に伝授された。板東は指が短く、習得には相当苦労したことを自著『プロ野球知らなきゃ損する』の中で記している(どれだけ泣き言を言っても「やったらできる!」の一点張りで杉下茂は決して練習を止めさせなかった、とも)。ほかにシュートスライダーチェンジアップも投げたが、カーブは苦手だった。前述の1球勝利の際はこのカーブを試しで投げたところ、たまたま初球から打者が手を出してくれたためだという。ちなみに高校時代はナックルボールも投げていたとされるが、プロ入り後でナックルに関するエピソードは伝えられていない。

現役時代からしゃべりがうまいことでも知られ、同期入団でバッテリーを組んだ元ヤクルトの名スカウト・片岡宏雄は著書で板東のあまりのおしゃべりで具合を悪くしたと回想している。

引退後

1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任(1980年まで専属契約)。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。そしてこの年、この番組に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。同曲は、現在では、準球団歌的な扱いとなっており、歌の中に選手名が織り込まれている事もあって、折々に新しいバージョンがリリースされている。板東はオリジナル版の他、82年版、2000年版も歌っている。

CBCラジオで野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。このため、野球解説のときにしばしば居眠りをしていたという。当時のテレビによる野球中継では、バックネット側からの画面が映し出されるのが当然の時代であったため、あるときテレビカメラには通常映し出されないバックネット側のラジオ中継ブースで油断してデスクの上に足を放り出して眠っていたところ、当日のテレビ中継がたまたまセンター側からの映像で中継されていたため、ふてぶてしい姿で爆睡する板東の姿が全国ネットの野球中継で流されてしまったことがある。

タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった。活動が落ち着いてきた現在は他の解説者同様に出演するほか、近年ではニッポン放送とも契約し、達川光男同様関東・関西をまたにかけ活躍している。また、解説に関しては、うたばん増田政夫及びますだおかだの応援ゲストとして登場した際に、2人から「東京では巨人ファン、中京圏では中日ファン、関西では阪神ファンになっている」と揶揄された事もある。

上記の地域によって異なる「ひいき解説」について板東はラジオ番組の中で、「そうでしょう!そら~、その土地に合わさないとね。言い続けると世間は甘い!受け入れる。…処世術ですよ」と語り、番組パーソナリティの和田アキ子に「誰からも文句言われないの?いい加減なヤツとかって。…ある意味、せんだみつおの兄貴や言うてもエエんちゃう?こんないい加減なら」と突っ込まれている。(2009年8月22日 ニッポン放送ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」)

板東が元プロ野球選手であることを知らない者が若い世代には多く、テレビの野球解説でもっともらしい解説を板東が行ったことに対し、視聴者から「板東はタレントにすぎないではないか。何故偉そうに解説しているのか」等の抗議電話が相次いだことがあるらしい。また苦情電話の相手に対し直接電話に出て口論したこともあり、前述の爆睡事件と続けて問題を起こしたという理由でCBC野球解説者としての契約をシーズン途中で打ち切られてしまった。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、これ以降もプロ野球解説者ではなくタレントとして現在に至るまでテレビ・ラジオに出演を続けており、野球解説も本数契約で数回出演している。また、毎日放送・ニッポン放送は板東とCBCの関係を考慮して東海ラジオへネットされる中日戦ビジター中継への板東の出演を極力避ける様に配慮している。

1985年のペナント開幕前に上岡龍太郎と、当時上岡が司会をしていたKBS京都の番組『タイガースフィーバー』内で「阪神タイガースが優勝したら、番組視聴者をハワイ旅行へペアでプレゼントする」と発言。その年阪神は日本一に輝き、テレビ視聴者にハワイ旅行をペアでプレゼントした。同様に島田紳助も「タイガースが優勝したら丸坊主にする」と約束したが、紳助は「仕事上丸坊主はまずいので勘弁してください」ということで、放送関係者などに「日清どん兵衛」を配った。

2007年12月12日放送の『笑っていいとも!』(フジテレビ)にて、巨人の監督原辰徳より2008年の投手コーチ就任を要請されていたが、当時の巨人軍コーチの年俸が8000万円の上限でそれ以上出せないと言われたため、板東は1億円以上じゃないと引き受けないとして、固辞したことを明かした。

2010年7月13日放映の「『ぷっ』すま」(テレビ朝日系)のギリギリマスターの企画、「ギリギリ板東英二」にて、どこまで速い球を投げられるか、と云うことに挑戦し、70歳の身で98km/hの球速を記録している。さら、同番組8月17日放映分において、出演者が板東と体力テストで勝負するという企画において、長座体前屈55cm、立ち幅跳び1m80cm、縄跳び30秒間56回、反復横跳び30秒間62回と言う、70歳では通常考えられない成績をたたき出した(ハンデ戦だったため、板東は4戦全勝した。中でも、長座体前屈においては、競った板野友美の記録が48cm、立ち幅跳びにおいては、競ったユースケ・サンタマリアの記録が1m69cmと、ハンデ無しでも勝利となる記録を出した)。

本人は球速が100km/hを超えなかったのが悔しくてしょうがなかった、と云うことで2011年9月27日放映の同番組(生放送)でリベンジ企画を行い、見事に101km/hを記録した。因みに、この際捕手を務めたのは翌週から同番組の枠で放映される「白黒ジャッジバラエティ 中居正広の怪しい噂の集まる図書館」のMC、中居正広であった。この時板東は中日のユニフォームを着ていたが、巨人ファンである中居も中日のユニフォームを、背中に番宣を張り付けて着ていた。

星野仙一は、板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)であり、中日の先輩後輩にも関わらず、板東は星野のことを「監督!」と呼び、敬語でしゃべる(板東は著書の中で、星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」などの記述が見られる)。また、星野は板東に対し「板ちゃん」と呼び、敬語を使わない。これについて、明石家さんまからは「板東さん、チームの先輩だから『星野』って呼んだらいいのに」とネタにされるが、本人は変える気はない。ただし王貞治に対しては同学年のライバル・親友であることから「王監督」とは言っておらず、「王」と呼び捨てにしている。

関西のテレビ番組『ちちんぷいぷい』において、渡邉恒雄を「もうボケたじじぃが出てくんな! プロ野球のことも大して知らんくせに偉そうなことばかりほざくなっちゅうねん!」と発言し、この番組を見ていた視聴者から板東の発言を絶賛する投書が多く寄せられた。板東と同じく番組に出演していた元NHKアナウンサー宮川俊二に至っては「もう、お亡くなりになられた方がいいですね」と発言をしスタジオを凍りつかせてしまった。

2011年2月に京セラドーム大阪で日本プロ野球OB・タレントの混合チーム対韓国タレントチームで行なわれる「日韓親善野球2011」で日本チーム「板東ジャパン」を率いて監督に「挑戦」する[15]

日本で初めて野球帽、球団マスコット、ユニフォームパジャマを考案した[16]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1959 中日 33 12 1 1 1 4 4 -- -- .500 411 97.0 89 6 29 0 4 69 3 0 37 34 3.15 1.22
1960 44 20 6 0 3 10 11 -- -- .476 703 174.2 145 17 35 4 1 126 0 0 57 51 2.62 1.03
1961 47 33 8 4 2 12 10 -- -- .545 795 193.1 166 14 48 0 4 108 2 0 65 56 2.60 1.11
1962 28 13 2 1 0 2 9 -- -- .182 364 88.2 85 10 25 1 3 56 3 0 44 42 4.25 1.24
1963 30 6 2 1 1 3 1 -- -- .750 314 73.2 77 2 26 3 2 39 3 1 32 25 3.04 1.40
1964 53 9 2 0 0 6 7 -- -- .462 600 140.1 144 13 44 2 3 73 3 0 60 48 3.09 1.34
1965 55 8 0 0 0 12 7 -- -- .632 617 156.1 120 11 45 4 3 87 3 1 47 39 2.25 1.06
1966 60 1 0 0 0 13 5 -- -- .722 520 133.0 103 14 30 7 1 91 5 0 44 38 2.57 1.00
1967 51 1 0 0 0 14 6 -- -- .700 485 119.2 110 11 28 5 2 72 4 0 37 34 2.55 1.15
1968 18 0 0 0 0 1 4 -- -- .200 108 21.2 29 3 11 0 0 12 2 0 23 16 6.55 1.85
1969 16 0 0 0 0 0 1 -- -- .000 102 22.1 23 1 11 1 1 15 2 0 11 9 3.68 1.52
通算:11年 435 103 21 7 7 77 65 -- -- .542 5019 1220.2 1091 102 332 27 24 748 30 2 457 392 2.89 1.17

記録

背番号

  • 30 (1959年 - 1960年、1963年 - 1964年)
  • 14 (1961年 - 1962年、1965年 - 1969年)

芸能人として

現役引退後は名古屋を中心に野球解説の他、タレント活動もしていたが、中日時代の後輩(詳細不明)に中部日本放送の野球解説者を追い落とされて収入が無くなり、上岡龍太郎と上岡に紹介された横山ノックを頼って名古屋から一時関西を拠点中心にタレント活動を行う。東京進出で全国的に知名度が上がって以降、名古屋からの出演依頼が舞い込む様になった[17]

東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。星野仙一らとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや!」に代わり「売れたいんや!」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たす。

司会者・解答者

1979年頃に、朝日放送ABCテレビ)の深夜の視聴者参加型ビンゴゲーム番組『THE ビッグ!』メイン司会者を担当したのが、事実上の芸能界デビュー。ここでは「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。当時、中京エリアだけでのローカルタレントであった板東を、上岡龍太郎が関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったことによる。この時、上岡は板東に「君のセールスポイントは元気なところやから、常に全力で、大きな声で番組をやっていけ!」とアドバイスしていた。 この時の恩から「上岡さんは恩人であり師匠でもある」と語っている[18]

これ以降、関西地区の各メディアの番組に多数出演するようになる。1980年代の土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』(関西テレビ)では司会として、横山ノック桂文珍と共に人気を博す。1983年、フジテレビ主催の「第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している(ホープ賞はコント赤信号片岡鶴太郎桂文福斎藤ゆう子三遊亭小遊三山田邦子で、大賞はタモリが受賞しているなど、逸材が揃っていた)。

1980年代以降、クイズ番組司会および解答者として多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。特に『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ)では、パネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となった。番組内容によって関西弁標準語を使い分ける。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。

1984年に、児玉清が盲腸の破裂に因る急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日21日の2週にわたり、抜擢されたことがある。その他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)などでも代理司会として担当したこともある。板東は後年『クイズ!紳助くん』(朝日放送)で行われた「アタック25」のパロディに解答者として出演している。

俳優活動

1984年には『金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』(TBS)でドラマ初出演し、俳優デビューを果たした。翌1985年には人気ドラマ『毎度おさわがせします』(TBS)に中山美穂の父役で出演し、その後、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』にも小川知子演じる山下由子の夫、山下宏治役で出演した。そして、この金妻シリーズは板東が後に俳優としての道を歩む大きな一歩になったといえる。1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演し、第2回日刊スポーツ映画大賞助演男優賞、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している。高倉とは『鉄道員』でも共演する。2007年の『華麗なる一族』(TBS)第4話で、水谷通産大臣役として出演した。2010年の映画「きな子〜見習い警察犬の物語〜」の舞台挨拶では、ワンシーンの出演のみにも関わらず、17回もNGを出したことを監督から暴露されている。

演じている役のほとんどが関西出身の設定である事から、関西弁で演じることが多い。金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した縁で、香坂みゆき篠ひろ子佐藤B作とは現在でも親交が深く、後に始まった『土曜大好き!830』(関西テレビ)で、香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。後述するが、2009年3月で放送が終了した「ひるドラ」の『オーバー30』(中部日本放送)と、「愛の劇場」の『大好き!五つ子完結編』(TBS)という、TBS系の2つの帯ドラマの最終作品[19]にもレギュラー出演した。

NHKの『ええにょぼ』では戸田菜穂が演じるヒロインの父親役を演じたが、自らがガンで息を引き取るシーンでその日が終了した直後、朝8時30分に自ら司会を務める『土曜大好き!830』(関西テレビ)の冒頭に大アップで登場し、にこやかに自分の臨終を報告した。

ラジオパーソナリティ

1980年代、『それゆけ金曜!!板東英二』(毎日放送)の放送が始まると毎週、実の母親から放送局に苦情の電話が入っていた。内容は、「板東の母です!」「お願いですから英二を黙らせて下さい!」「あの子はホンマに嘘ばっかり吐いて…」「英二の言う事は信じんといて下さい!」「皆さんにはご迷惑ばっかりお掛けしまして」といったものであった。あまりにしつこいのでスタジオに繋いだ事も複数回あり、放送中に板東は怒られ、共演者はひたすら謝られていた。

この頃、電話コーナー「おばあちゃんと喋ろう」がスタートする。

  • 聴視者から田舎のおばあちゃんを紹介してもらい、板東が事前連絡なしで直接電話をする。
  • 板東は絶対に名乗らず、名前を聞かれると「僕やがなー!」「忘れたんかいな!かなんなー!」「名乗るほどの者でもございませんが…○○さんのおばあちゃんですね?」を繰り返しながら、巧みにおばあちゃんの近況を聞き出したり、電話口で十八番を唄ったりという電話のやりとりをそのまま放送。
  • 20分程度喋ったところで「(名産品やお金を)送ってーな!」とねだりだす。
  • 最後に「わたくし板東と申しますがー!」と正体を明かすが、声で早々に判る人や最後まで信じない人も居た(名乗りそびれも複数回あった)。
  • このコーナーで話したおばあちゃんが感激し、生きたニワトリ100羽を、当時千里丘にあった毎日放送に送ってきた事があり、大混乱の末送り返した事態は語り草となっている。
  • オレオレ詐欺(振り込め詐欺)が流行し始めると、所轄の警察幹部から「オレオレ詐欺の考案者は板東さんですよ!!」と怒られ、『板東英二金曜生BAN BAN』等で複数回ネタにしている(これ以降、事前連絡が入る様になる)。
  • このコーナーは好評で、『金曜生BAN BAN』が終了した2009年7月現在も、『板東英二のおばあちゃんと話そう』という番組で存続している。

1990年代後半になると、テレビでニコニコしながら司会を務める「良い板東」と、おばあちゃんから物をせびったり、他人の悪口を放送で言う「悪い板東」というキャラクターが、『金曜生BAN BAN』を中心に関西で定着しかけるが、「どっちも俺やから!」の一言でこの呼称は消えた。

2008年秋に東京ヤクルトスワローズ監督就任を目指すも失敗。その後スワローズ監督に就任した高田繁にゴマをすってみたが、コーチでの入閣も失敗。2009年のワールド・ベースボール・クラシック代表監督に立候補するも、門前払いされてしまった。『金曜生BAN BAN』では「板東ジャパン」というキャッチフレーズまで披露し、本気で狙っていたが(本人は大真面目でも)「全部ネタ扱いやで!」と怒っていた。ちなみにこの「板東ジャパン」は、前述の通り、2011年に形を変えて実現することになった。

2011年秋に中日ドラゴンズの次期監督に高木守道の就任が決定した際、直後に高木が出演したCBCのテレビ番組で「高木さんと親しいと一方的に言っている徳島出身の人(板東)が『高木が監督なら、俺がコーチやったる!』と言っているそうだが、そういう考えは…」とアナウンサーの質問を受け、高木は「ありません!」と即座に却下した。但し、その後高木から要請を受けて「球団外広報兼営業マン」に就任。ファンサービスの企画を担当する事になった[20]

交友

プロ野球、芸能界の双方で一定の実績を残している板東は幅広い交友関係を持つ。前述のようにプロ野球関係では王貞治、権藤博らと仲が良い。

10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれている(和田は芸能人としては先輩)が、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる。年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている。

黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』(TBS)で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。

島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し、躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え、紳助は意気に感じたという。その後、珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。

1983年第37回衆議院議員総選挙の最中、全く面識のない内閣官房長官後藤田正晴の選挙事務所を突如訪問した[21]。自分の番組に後藤田を出演させたいと秘書に交渉し始めたため、応待した事務所スタッフらを困惑させた。直談判に及んだ理由は、後藤田と面識があると思われれば視聴者が板東を見直すだろうと計算しての暴挙だったという。この縁から後藤田の知遇を得ており、後年の後藤田の追悼文集には、歴代の内閣総理大臣衆議院議長ら並み居る政官界の重鎮の寄稿と肩を並べ、板東の追悼文も掲載されている。

2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。

執筆活動

1984年に、当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた『プロ野球知らなきゃ損する』『プロ野球これだけ知ったらクビになる』を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。

その他

2009年夏頃から、出演するテレビ番組で黒ぶちのメガネをかけるようになっている。

事業家として

野球選手時代から芸能界で言う「サイドビジネス」にも手をかけている。1年目からオフシーズンにジュークボックスの営業を始めていた[22]。語り草にするサウナ経営を始め、ナイトクラブ、麻雀荘、割烹料理店[22]、株取引や通販事業などを手がける。事業によって成功・失敗は様々だが、ほとんどが失敗に終わっており、テレビやラジオでは失敗談を話のネタにしている。牛乳の宅配業[22]は板東自ら宅配を行うなどの営業努力もむなしく失敗した。これらは、1960年のオールスターで周囲の選手と自分の体格差を痛感し、限界がすぐに来ると悟ったためである[22]。2010年、『安住紳一郎の日曜天国』にゲスト出演した際、サイドビジネスを始めた遠因として板東の入団契約金を父が株式投資に注ぎ込み失敗したことを挙げている(ポッドキャストで聴取可能)。

中日入団時から現役引退後を見すえていたのか、現役時代から財テクに長けていたことでも知られている。1990年代前半のバブル崩壊に伴い、大きな経済的損失を出し、自身が還暦を迎えた頃にようやく借金が完済したと『クイズ!紳助くん』で打ち明ける。バブル絶頂期には島田紳助に財テクを教え込んだとも言われている(紳助はその後、不動産などの面でも大きな収益を得ており、総資産20億(元々は40億だったが、下落により現在の額になっている)、年商6億とも言われている)。1996年の『スーパークイズスペシャル』(日本テレビ)で「板東・板東・バブルで弾けた」とネタにされた(2008年にテレビ東京の『やりすぎコージー』でも語っている)。

ある日、板東は島田紳助と株式投資の相談をしていた。そのとき、当時大阪府知事であった横山ノックが、板東らに「養命酒、いけるぞー!!」と通りかがりに発言した。板東と紳助は、ノックの一言が「政治家が投資関連の情報をもっていて、政治家の立場上はっきり言えないのでヒントを与えてくれた」と思い込んだ。早速、板東と紳助は養命酒製造株式会社の株式を購入したが、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗したので)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒(の株)はいいと教えてくれたのはどこの誰ですか?」とノックに言ったが、ノックは「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックは、ただ「薬味酒の養命酒が健康に良い」と言ったつもりだった。

大阪市の西天満にビルを所有し、自動車では日産・プレジデントトヨタ・istを購入したという。

1990年代から通販事業を開始。最初は通販番組に出演するだけだったが、その後自ら運営に携わるようになる。

人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ)における紳助の話では、『クイズ!!ひらめきパスワード』(毎日放送)の収録時、楽屋で紳助とラサール石井に「板東が書いた銀行の口座にお金を振り込め」と言われ、其々1000万円振り込んだ。その2ヶ月後、板東が「お前らの銀行口座をメモに書け」と言って書いたら、其々1000万円ずつ翌日には振り込んだ。紳助が板東に聞いたところ「投資に失敗して急に金が必要だった」と呆れたエピソードで暴露している。

めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ)の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときに、カレービビンバを食べて、「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。

現在

東京・名古屋・大阪で活動を行ない、それぞれに住居を構える。後述のように、名古屋で毎年確定申告を行なっていることから、名古屋が住民票上の住所地と思われる。(2005年3月12日放送の『晴れ・どきドキ晴れ』(中部日本放送)で、愛知万博のアクセス口・名古屋市名東区藤が丘に現在住んでいることを公表した。)。所属事務所およびサイドビジネスの拠点は大阪にあり、家族は東京に住んでいる。奥さんは「神聖にして侵すべからずですから」と語り、名古屋に帰るのを嫌がっている。

仕事の関係で東名阪を頻繁に往復しており、2010年2月に『関ジャニ∞のジャニ勉』(関西テレビ)にゲスト出演した際には「新幹線で1週間に東名阪を3往復している」「(仕事の調整のため)東名阪にそれぞれマネージャーがいる」と語っている。ちなみに新幹線に乗る際は、必ず「9号車(グリーン車)の15番のD」の席を取ることに決めているというドラゴンズのゆかりで、東海地方にレギュラー番組を持っている。『そこ知り板東リサーチ』(中部日本放送)において、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く様子が好評で、現在も名古屋の顔として定着している。確定申告の時期になると、名古屋国税局に出向く姿がイメージキャラクターとして映像が使われている。

ニッポン放送MBSラジオの野球解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属の野球評論家として活躍している。彼が試合の解説・評論をする時には早くから球場に入って、両軍の選手・監督・解説者にまで精力的に取材を行う。解説は的確であるが「もうこんだけ負けてたら聞かんでも良いです!今日は寝ましょう!」や「もう帰りたい」等、試合展開によってバラエティ色が強くなる。

タレント業の傍ら、自身(の事務所メイワーク)が運営するECサイト「板東商店.com」や、テレビ・プラス社との共同事業で運営する、こだわりの食材ECサイト「美味!ニッポン」などを手がけるなど、手広く事業を行っている。特に「美味!ニッポン」は放送番組との連動企画で、この番組に関連したブログを執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいる。

また同じく甲子園優勝して鳴り物入りでドラゴンズ入団し高卒新人時代から活躍した立浪和義も板東の経営する会社の所属芸能人である。

大阪滞在時は「お前の店高いねん!」「ボッタクリやで!」と言いつつ、仲の良いリリアンの店に飲みに行き、カラオケ(2009年4月時点では吾亦紅)を練習している。

著書はゴーストライターを使わない、自らの執筆であると強調している。また、自分を事実上の中日初代リリーフエースに育て上げてくれた近藤貞雄から、スポーツ新聞への寄稿に関しても、「自ら書かないとボケますよ」とアドバイスを送られている。

エピソード

野球関連

  • 1958年の第40回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1試合25奪三振及び大会通算83奪三振を記録した。これらの記録は2011年現在でも破られていない。
  • セントラル・リーグ初の1球勝利を挙げている。打ち取った球は板東が苦手とするカーブで、試しに投げたら偶然にも打者が手を出してくれたためだという。
  • オープン戦ながら、ニューヨーク・ヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマーと対戦したことがある。
  • 現役時代、自宅の庭で娘と写っている写真が新聞に載ると、警察官数人がやってきた。自生していた、モルヒネアヘンの原料となるケシの花が偶然写っていたためである(板東はケシと知らずに育てていた)。しかし特に罰金などは無く、警察はケシの花を抜いて帰った。それ以降「球界の麻薬王」とからかわれた[23]
  • 巨人の星で、星一徹(中日ドラゴンズ)が名を挙げて賞賛したことでも知られる。実際は、来日して日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野仙一山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。
  • 選手生命を縮めた原因である右肘の状態は相当悪く、現在も真っ直ぐ伸ばせない。引退から20年以上経過し、テレビ番組で腕相撲企画への参加を勧められたときも、右肘の故障を理由に断っている。
  • 1982年シーズンは中日と巨人が熾烈な優勝争いを展開していた。そんな時、徳光和夫が『ズームイン!!朝!』で「もし巨人が優勝できなかったら丸坊主になる」と発言。脇田義信も広島が優勝しなかった場合の丸坊主を公約した。この年は中日が優勝したため、徳光と脇田はきくち教児と板東から丸坊主にされた。

ゆで卵に関して

ゆで卵が大好物なことで知られている(著書『ホンネで勝負』にもそのエピソードは綴られている)。売店で売っているとついつい買ってしまい地下鉄車内でも食べてしまうという(1996年3月21日放送の『スーパークイズスペシャル』にてマネージャー発言)。また、地下鉄車内で化粧をしていた女子高生を注意した際に、逆にゆで卵を食べている事を注意された事もある。2009年6月12日放送の関西テレビ快傑えみちゃんねる』でこの事についての真相を語った際に、ゆで卵を食べている事を注意されたのは車掌だったことを明かした。さらに、その駅売店で売っているゆで卵が最近2個入りで味がついている事に不満を漏らしていた。

ここまでゆで卵を好む理由として、終戦により旧満州から着の身着のままで難民同然に日本へと帰る際、空腹のあまり夜中に中国人の農家の鶏小屋から卵を盗んだが、見つかってしまう可能性があるため火も焚けず、生のまますすり飲むことで命を保った経験から、当時食べたくても食べられなかったおいしいゆで卵に特別の思い入れがある、と読売新聞のインタビューに答えている。しかし、ブランド卵をゆで卵にして食べるなど、「このゆで卵が好きである」というこだわりはなく、「板東さんはとにかく何でもいいからゆで卵が食べられればそれでいい」と明石家さんまがMBSのラジオ番組で、「吉澤ひとみがブランド卵をゆで卵にして食べる」話題(吉澤もゆで卵好きで知られる)になったときに、ラジオで発言している。

新大阪でゆで卵を6つ買い、東京に着くまでの新幹線車内で全部食べてしまうほど(2007年10月20日放送のフジテレビ『めちゃイケ』のコーナー「やべっち寿司」での本人談)。SMAP中居正広や、ナインティナイン岡村隆史に、このことをよく物真似される。また、地下鉄でゆで卵食べていたら、駅員に「車両の中で、物は食べないで下さい」と指摘を受けたと、2008年4月9日放送の『ザ!世界仰天ニュース 4時間30分スペシャル』(日本テレビ)で話していた。また、2008年4月21日放送『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際、タモリへのお土産として、やはり大量のゆで卵を持参した。2009年7月2日放送の逃走中上野編)ではミッション挑戦中にも関わらず、ゆで卵を食べながら走るシーンが放送された(どこで購入したかなどの出所は不明)。2009年10月15日放送『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ)の「ゴチになります!」では、1回目のオーダーでゆで卵が入ったメニューを注文したが、半分しか入っていなかったため、ラストオーダーの時に同じメニューを再び注文した(この時の結果は板東が最下位)。

ゆで卵が好物であることが知れ渡った現在では、テレビ番組に出演する度に大量のゆで卵が板東の目の前に用意され、本番中でもゆで卵を黙々と食べるシーンが放送されている。ゆで卵にサインを書いて見に来た観客に渡すこともある。黄身は半熟ではなく、固い物(板東曰く「カチンカチンのやつ」)が好み。卵は黄身よりも白身が好き。ニッポン放送の松本秀夫アナウンサーが自身のブログに書いたところによると、横浜スタジアムの報道陣向けの食堂で目玉焼きのせチャーハンを頼み、両面焼きで普通は1個のところを2個のせてもらい、しかも黄身の部分は残して白身の部分だけ食べたという。前出の「『ぷっ』すま」出演時[24]には、「黄身が負担になるので、黄身の割合が多い烏骨鶏の玉子よりは普通の玉子がいい」と発言している。

秘密結社鷹の爪劇場版第3弾」では、新幹線でひたすらゆで卵を食べながらマイペースにつぶやくおじさん役として出演している。声も板東が担当している。

全国にゆで玉子好きが知れ渡った2009年春頃、ロケで訪れた四国で軽トラック一杯の玉子を差し入れされ、処分に困ったと最終回直前の『板東英二金曜生BAN BAN』で語り「頂きながら失礼なんですが、いや、有り難いんですけどね、限度っちゅうもんがあるやろう!」と困惑していた。

世間では『板東英二=ゆで卵』というイメージが強く定着しているが、実は卵かけご飯も同様に好物である。

しかし実際は赤飯の方が好きと2011年5月17日放送のトリハダ(秘)スクープ映像100科ジテンで証言している。

その他

  • ずるいゴルフをすることも知られ、周りとしゃべりながら自分のボールをクラブで引きずるなど、ルール違反もはなはだしいゴルフを展開する。
    • 2003年の正月には、オーストラリアで板東・明石家さんま・星野仙一の3人でゴルフをし、何時も通りのせこいプレイをしていた上にスコアを改ざんするという暴挙が見つかる。これを指摘するさんまに対して、板東は「イカサマしてでも勝ちたいんや!!」と言い放った。その場で爆笑を取った、このフレーズを星野が気に入り、「勝ちグセつけんかい!!」と共に、同年シーズン中に多用したのがきっかけで、全国的に有名になる。故に、メディアを中心に世間では星野考案とされている「勝ちたいんや!」というフレーズは、不名誉なエピソードながら板東が発案したといえる。[25](ただし、この説は『人生が変わる1分間の深イイ話』の視聴者の投稿では、「上岡龍太郎、村上ショージとゴルフをした時、板東がルール違反して、2人にとがめられて勝ちたいねんと言って、後日星野の耳に伝わった」というのもある。ちなみにこの再現VTRには坂東本人が出演した)。
      • 板東は、自分の発した言葉が想像以上にヒットし、「勝ちたいんやドリンク」などの商品名にも使われ始めたことから、当時さんまに会う度、「あれは僕の言葉なのに……」とか「あの(ゴルフの)こと、もっとテレビでしゃべってほしい」とせがんでいた。
      • 「ゴルフは負けるわ、俺の言葉が流行語になるわってホンマ最低やで!」と、『金曜生BAN BAN』で数十回ボヤき、「おばあちゃんと話そう」のコーナーで話すおばあちゃんにも「星野って知っとるやろ?あれがやな…」と度々ボヤいていた。
      • 2007年頃からは「(孫のため、再度芸能界で)ブレークしたいんや!」とも口にするようになる。『ネプリーグ』ではクイズに間違えて、これを見ていた娘が帰ったことがある。
    • 上方芸人が多数参加する、お笑い芸人を対象としたゴルフ大会に何故か毎年参加している。また、90年代に東西の芸人が集結し、数度に渡って行われていたコンペ「素人名人会」でも他の出場者から「部外者」「出場資格なし」とネタにされながら「オブザーバー」出場を認められていた。
    • 70歳を過ぎたので、レディースティーから打たせて欲しいとゴルフ仲間に懇願したところ、明石家さんまから、「打っても良いけどレディースティーは女性用やから、ブラジャーしてくれたらいいわ」と言われ、現在は芸能人の仲間内のゴルフの際には、ブラジャーを着用しレディースティーからプレイしている。明石家さんまは「やんわりと断ったつもりやったのに、まさか本当に付けてくるとは」と語っている。
  • お酒を飲む際、小指を立てながら飲む。
  • 持ち歩く現金は財布ではなく、ジップロックに入れている。あまりにも見栄えが良くないため、島田紳助からルイ・ヴィトンの手提げタイプの大きな財布を貰う。だが、相変わらず現金をジップロックに入れており、紳助から貰った財布はカード入れ、特にほとんどが診察券である。
  • 次女は板東のマネージャーを務める。また次女の話によると、大学時代に車の免許を取ろうと板東に相談するが、板東はガソリン代・駐車場代・税金が掛かり、それならタクシーを使った方が安いという合理的な考えからタクシーチケットの束を受け取った事がある。
  • 徳島ヴォルティスサポーターが、「勝ちたいんや!」との言葉が添えられた板東の顔を模した、横断幕を掲げている。
  • Qさま!!」の漢字検定SPにおいて2級に挑戦したが、初回はわずかの点数で不合格、2回目に見事に合格をした。

家庭

福岡藩家老の子孫の旧男爵家の出身で常陸宮妃華子とは学習院女子短期大学時代の学友。5歳年上の姉さん女房。

関連情報

放送メディアへの出演

テレビ番組

現在
過去
上記2番組は同じ土曜日の生放送であったため、「晴れドキ」は11:30までの出演であった。
ドラマ
連続ドラマ

※ゲスト出演含む。

単発・スペシャルドラマ等
  • 恋はミステリー劇場「嘘つきは恋のはじまり」(1984年12月19日・26日(全2回)、TBS)
  • 日立テレビシティ「王貞治の母」(1985年6月8日・15日、TBS)
  • 水曜ドラマスペシャル「僕らの夜は終らない」(1986年7月9日、TBS)
  • 東芝日曜劇場「振り向けば通り雨」(1987年6月21日、毎日放送)
  • 土曜ドラマスペシャル「一発逆転夫婦」(1988年7月23日、TBS)
  • 東芝日曜劇場「ちょっとだけの離婚」(1988年9月4日、毎日放送)
  • 土曜ドラマスペシャル「奥さま株をどうぞ」(1988年10月29日、TBS)
  • 土曜ドラマスペシャル「風よ、鈴鹿へ」(1988年11月5日、TBS)
  • 年末年始ホテル物語(1988年12月30日、TBS)
  • 水曜グランドロマン「危険な愛情」(1989年3月15日、日本テレビ)※主演
  • 時代劇スペシャル「田村正和・刀化粧」(1989年9月12日、TBS)
  • 閨閥(1990年4月7日、TBS)
  • 月曜ドラマスペシャル「さそり」(1991年6月10日、TBS)
  • カネボウヒューマンスペシャル 「翼をもがれた天使たち」(1995年2月14日、日本テレビ)
  • 月曜ドラマスペシャル「ミニパト婦警の事件簿」(1995年8月21日、TBS)
  • 君は時のかなたへ(1995年8月18日、テレビ朝日)
  • 大追跡! 江戸〜上州〜みちのく〜四国(1997年5月5日、テレビ朝日)
  • Christmas FOOL(1997年12月25日、TBS)
  • 幽婚(1998年9月5日、中部日本放送)
1998年度文化庁芸術祭優秀賞受賞、1999年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞、第25回放送文化基金賞受賞、第36回ギャラクシー選奨受賞作品

ラジオ番組

現在
MBSでタイガース戦ナイター放送が出来ない場合(デーゲーム、および雨天中止の予備カード繰り上がり)、あるいはタイガース戦であってもMBS側の人材派遣の都合上出演できない場合にニッポン放送側が制作・送出・ネットする関東のチーム主催試合の中継(火-木・土・日曜)を担当することもある。
過去

出演したCM

  • メナード青山リゾート(上岡龍太郎と共演)
  • サンポール(1986年 - 1988年、当時はサンポール、現在は金鳥
  • ミドリ電化(2002年 - 2004年)
  • 阿波銀行
  • 宝酒造「宝焼酎」「宝烏龍酎」
  • 中外製薬「中外胃腸薬」
  • GREE 「釣り★スタ!」「ハコニワ」「クリノッペ」「探検ドリランド」(ハコニワ以外、板東の好きなゆで卵を織り交ぜている)
  • 司法書士法人 杉山事務所(2010年 - )※大阪、名古屋のみ

出演した映画

評論

著書

  • ホンネで勝負―板東英二の球際人生(1984年 日之出出版 ISBN 978-4891980429
  • プロ野球知らなきゃ損する―ドえらいこの事実すべて実名です(1984年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413013512
  • プロ野球 これだけ知ったらクビになる―プロ野球 知らなきゃ損する Part2(1984年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413013604
  • プロ野球 殺られても書かずにいられない―ここまで知ったらヤミツキになる(1985年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413013765
  • プロ野球 ここを喋る奴はウチから出ていけ―ここまで知られたら非常事態(1986年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413014076
  • 恐いものなし 人間しゃべり方一つ―いつまでも引っ込み思案じゃ楽しくない(1986年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413014236
  • 言いたい放題アッコとバンちゃん(1986年 日音ブックス ISBN 978-4543025089
  • 板東英二の金はこうして儲けるんや―とっておき「オレの方法」全公開(1986年 主婦と生活社 ISBN 978-4391109849
  • プロ野球 この極秘事項を知ったら100倍面白い―他人(ひと)にもらせばクビになる61条(1986年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413014335
  • 板東英二が明かします―楽屋裏を覗いてみれば…(1988年 日之出出版 ISBN 978-4891980702
  • 板東英二のもっと言わせろ、プロ野球!―オレだから知っている「まさか!あいつが!そこまで!」(1994年 情報センター出版局 ISBN 978-4795808232
  • プロ野球 ことしは黙ってられないゾ―球界大変化のウラの裏、ぜんぶ実名で明かします(1995年 青春出版社プレイブックス ISBN 978-4413016339
  • 天然 板東英二のゆでたまご伝説(2009年 ワニブックス ISBN 978-4847018480

脚注

  1. ^ 投げ合いについては「練習に比べると、試合の半分(攻撃時)は(ベンチで)座っていられるし、水も飲める。それに野球(試合)が2時間や3時間で終わるなんて天国だ」と語っている。
  2. ^ この試合は18回引き分け再試合が適用された最初の試合である(詳細は魚津対徳島商延長18回引き分け再試合を参照)。ちなみに、このルールが導入されるきっかけを作ったのが板東であることはよく知られている。
  3. ^ 徳島県高等学校野球連盟・記録
  4. ^ この際、悲壮な投げ合いに球審が感極まって途中から声を出せなくなり、動作のみでコールしたことから「無声延長戦」と呼ばれた(試合は2-1で高松商業が勝利)。
  5. ^ この記録に関しては自らも相当誇りに思っている様子で、斎藤佑樹(早稲田実業)が話題となった2006年にも出演番組で「甲子園の奪三振の記録は僕(板東)の方が上」と何度も語っていた(斎藤の一大会の奪三振記録は78個)ほか、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!においても「(甲子園での通算奪三振記録は)83個やでぇ!いま(2007年当時)でも破られてへんねんで~!」と発言していた。
  6. ^ しかし王と板東は仲が良く、プロ入り後に対戦する前日には一緒に夕食を取るほどだった。また、板東が金曜日の妻たちへシリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度(「金曜日の妻たちへ」に)出てみたいよ」と非常に羨ましがったという。
  7. ^ 著書の中では「2000万円」と公表している。王、長嶋はともに推定1500万円~1800万円と言われる。
  8. ^ 板東は、2007年のMLBオールスターにおいて、イチローシアトル・マリナーズ)が同大会史上初のランニング本塁打を記録した際にも「日本のオールスター史上初のランニング本塁打を献上したのは僕なんですよ!」と語っている。
  9. ^ 島田紳助からは「板東さんは『プロで77勝した』なんて言っているが、ほとんどがオープン戦やら高校時代の勝ち星で、本当はプロで4勝ぐらいしかしなかった」とネタにされている。板東自身は「当時セーブ制度があれば100セーブはしていた」と語ったこともある。なお、現役時代の映像が少ない中で、打者として打席に立つ映像が残っているほか、辛うじて写真がベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」別冊に写っている。
  10. ^ なお、板東は引退時の監督だった水原については著書で「名将といわれるが、監督として優れたものは何一つなかった。あったのは頑固さだけだ」と語るなど尊敬できない人物としているが、自分の生き残る道を模索してくれた近藤には引退後も頭が上がらなかった。
  11. ^ のちにフジテレビの「プロ野球珍プレー好プレー」の司会を務めた際、ゲストとして呼ばれた当時日本ハム監督だった近藤に「あのような(個性的な選手がそろった)チームをまとめるのは大変でしょう」と話題を振ると、近藤は「全然平気。だって板東君を使えていたんだもん。」と答え、板東は赤面して恐縮する場面もあった。その時、一緒に司会をしていた島田紳助に「この際だから聞きましょう。この人いつも77勝したって威張ってるんですが、どんなピッチャーだったんですか?」と問われ、近藤は「はっきり言ってボールは2流だった。気持ちで投げるタイプだった。」と答えている。
  12. ^ 『板東英二金曜生BAN BAN』で複数回語っている。
  13. ^ 2009年7月13日放送の『痛快!明石家電視台』(毎日放送)でクイズの問題になった。
  14. ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」権藤の項
  15. ^ “大魔神で抑えて勝つ!板東ジャパンVs超新星”. サンケイスポーツ. (2011年2月8日). http://www.sanspo.com/geino/news/110208/gnj1102081131021-n1.htm 2011年2月9日閲覧。 
  16. ^ 「天然 板東英二のゆでたまご伝説」
  17. ^ 『板東英二金曜生BAN BAN』で「あの時が一番苦しかった。仕事の大切さを知ったからオファーは断らない」と振り返っていたが「副業(財テク)の重要さを更に肝に銘じたけど、これが上手い事いかんねやー!」とも語っている。
  18. ^ 『金曜生BAN BAN』で板東本人が語っている。
  19. ^ 「ひるドラ」自体の最終はMBS製作の「おちゃべり」だが、こちらには出場していない
  20. ^ 中日スポーツ 2011年12月9日付
  21. ^ 板東英二「後藤田正晴は真夜中に二度眼を覚ます」(『私の後藤田正晴』 「私の後藤田正晴」編纂委員会編 2007年 講談社 ISBN 978-4062139342 pp.259-262)
  22. ^ a b c d ツーシームみたいに『週刊ベースボール』2012年2月6日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/6, 81頁。
  23. ^ 2009年10月18日放送『誰だって波瀾爆笑
  24. ^ 2010年7月13日放映分
  25. ^ 『痛快!明石家電視台』等複数番組の番組で(経緯を聞かれた場合や時間のある場合)星野本人も証言しているが、スポーツマンシップの観点から公にはしにくい。

関連項目

外部リンク