石原裕次郎

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いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎
石原 裕次郎
本名 同じ
生年月日 (1934-12-28) 1934年12月28日
没年月日 (1987-07-17) 1987年7月17日(52歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市須磨区
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院[1]
民族 日本人
身長 178 cm
血液型 A型
職業 俳優歌手司会者モデル実業家ヨットマンマルチタレント
活動期間 1956年 - 1987年
活動内容 1956年:『太陽の季節』でデビュー。
配偶者 石原まき子(北原三枝)
著名な家族 父:石原潔
母:石原光子
兄:石原慎太郎
甥:石原伸晃石原良純石原宏高石原延啓
公式サイト 石原裕次郎/石原プロモーション
主な作品
映画
太陽の季節
狂った果実
嵐を呼ぶ男
銀座の恋の物語
テレビドラマ
太陽にほえろ!
大都会』シリーズ
西部警察』シリーズ
 
受賞
ブルーリボン賞
新人賞
1957年『勝利者』
企画賞
1964年太平洋ひとりぼっち
その他の賞
石原裕次郎賞(追悼創設)
映画の殿堂(1990年)
毎日映画コンクール(特別賞:死後)
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石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本俳優歌手石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。ヨットマンとしても活動していた。昭和を代表する俳優・タレントとされている。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。全国のファンからは親しみをこめて「裕ちゃん」「裕次郎さん」「裕次郎」などと呼ばれ、石原プロ関係者からは「ボス」「社長」などと呼ばれていた。

兄は、学生時代に芥川賞を受賞し小説家(そして裕次郎の映画初出演作品の原作者)となり、演劇作品作家、後に政治家参議院議員、衆議院議員、東京都知事を歴任)としても広く知られることになった石原慎太郎

本項目では、呼称についてそれぞれ「裕次郎」「慎太郎」と記載する。

生涯

生い立ち

石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)を父として、光子(広島県宮島の出身)を母として[2][3]兵庫県神戸市須磨区で誕生。北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。

小樽のマリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、小樽の稲穂国民学校時代に、競泳や(天狗山 で)スキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中した。慶應義塾高等学校の受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に進学したが、1951年に慶應義塾高校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、放蕩生活に明け暮れる。

映画デビュー、映画スター、歌手活動

大学在学中から俳優を目指し、東宝大映日活オーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、同映画作品の端役で映画デビューした。

大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では主演。相手役は人気女優の北原三枝(後の裕次郎夫人)。その後は俳優・歌手として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に日活の看板スター、そして映画界を代表するスターの一人となった。映画時代のキャッチコピーは「タフガイ」だった。出演映画作品の数は多く、たとえばデビュー後3年だけでもおよそ30作品にも及んだ(具体的な出演作品については、#映画を参照のこと。歌手としての活動については石原裕次郎の作品石原裕次郎のシングル一覧石原裕次郎のアルバム一覧を参照のこと)。

石原プロモーション設立、映画製作、テレビドラマ制作

1963年に石原プロモーションを設立。石原プロモーションの社長・リーダーとして石原プロ所属の映画職人らや俳優らを束ねつつ、映画作品の企画者ともなりつつ、同時に俳優としてスクリーン上にも登場するという難しいことをこなし『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』『富士山頂』『ある兵士の賭け』などの骨太の映画作品をいくつも世に送り出した。こうして裕次郎は石原プロの人々から「社長」「ボス」などと呼ばれるようになってゆき、石原プロモーションは特に結束が強固な集団として業界で知られるようになり「石原軍団」と呼ばれるようになっていった。

1970年代以降は映画作品からは離れ、石原プロの未来をテレビドラマの世界に見出し、『太陽にほえろ!』、『大都会シリーズ』などの企画・主演など多面的に活躍しつづけた。

ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動

裕次郎は日本のセーリング界でもその歴史に名を残している人物[4]である。

もともと父親が郵船会社の社員、つまりの世界に生きていた人物で、父親の転勤の折、父親の判断で海の近くの逗子、逗子湾近くに住居を構え、その地で裕次郎がヨットに興味を持ち、裕次郎の熱烈な希望に応える形で父親が木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合いの始まりとなった[5]。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法を会得し[5]、兄弟でヨットを楽しむようになり、主に逗子湾や葉山などをフィールドに経験を深めていった。当時の日本ではそもそもセーリング・ボートを所有している人が大人を含めてほとんどおらず、ましてや学生の身分ですでに自分のセーリング・ボートを所有している人は(ほぼ)いなかったので、二人は日本のセーリング界では稀有な存在となってゆくことになった。

その後、裕次郎が俳優として映画界で活躍するようになると、石原兄弟のセーリングへの情熱、その経験や技術は、映画作品のシーン構築や撮影でも活用されるようになった。結果として日本の映画のシーンにセーリング・ボートが何度も登場するようになり、それを見た映画観客がセーリングに興味を持ち、結果として日本のセーリング人口を増やすのにも貢献した。石原兄弟は有名人となり裕福になるにつれ、艇をディンギーからセーリング・クルーザーへと、そして徐々に高級な艇へとグレードアップしていった。艇には、兄・慎太郎の趣味で「コンテッサ」という名(フランス語で「伯爵夫人」の意)をつけ、その名はその後 艇を買い替えても「コンテッサII」「コンテッサIII」...と継承されてゆくことになり、この名は他には無い独特のものなので、日本のセーリング界では、ヨット・レースなどの出場艇のリストに「コンテッサ」とあれば、誰でも即「石原兄弟の艇だ!」と分かる存在となっていった。コンテッサには、主に石原兄弟の地元の逗子や葉山在住の古くからの仲間などが、クルーとして乗り込んだ。

コンテッサ号は、いくつもの国内ヨット・レースに参加し日本のセーリング界を盛り上げる一翼を担いつづけたが、中でも特筆すべきことは、1963年、裕次郎がトランスパシフィック・ヨット・レースに兄弟の愛艇「コンテッサⅢ」で参加したことである[4]Transpacific Yacht Race(トランスパシフィック・ヨット・レース、略称「Transpac(トランスパック)」)とは、米国西海岸から出発し、太平洋を渡るようにして進み、ハワイでゴールするセーリング・クルーザーのためのレース。当時、日本から国際的なヨットレースに参加できる人はほぼ皆無であり、裕次郎は日本のセーリング界の歴史に名を残す人物にもなった。

なお裕次郎の歴代の愛艇のうちひとつは、1991年開館の石原裕次郎記念館の入り口付近に展示された(2017年の閉館とともに小樽港マリーナに寄贈)。

闘病

1978年、舌下潰瘍のため入院・手術。その後悪性腫瘍舌癌)との診断を受けたが、本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する。

1981年4月、『西部警察』のロケ撮影中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後解離性大動脈瘤と診断され大手術を決行。生還率3%と言われたが、奇跡的な回復を遂げ無事退院した(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、発熱が続き、右耳が難聴となった。

1984年、肝臓癌が発覚した。前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知をされなかった。

1986年5月、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断され、7月の退院後はハワイで静養した。

死去

1987年4月20日、体調不良を受けてハワイから急遽帰国し、慶應義塾大学病院へ検査入院[注釈 1]。5月2日に一旦退院したものの、3日後に再入院し、容態が悪化。幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開するが、16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。

戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には妻まき子の直筆で次のような言葉で綴られている。

美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。
没後

1991年7月22日、裕次郎ゆかりの品々を展示する石原裕次郎記念館が、裕次郎が幼少時に過ごした小樽、しかもヨットマンだった裕次郎にふさわしい場所である小樽港マリーナの隣に開設された。開設後は多数のファンが訪れ裕次郎をしのぶ場となっていたが、2017年8月31日、入場者減少や施設の老朽化もあり、閉館。

2018年7月17日に行われた32回忌法要では、妻である石原まき子や舘ひろし神田正輝ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した[6]

2020年7月には「株式会社石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」との名目で、2021年1月16日を以て芸能事務所としての業務を終了することが発表された[7]

エピソード

映画デビューについて
  • 1956年3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが、日活での初仕事であった[8]
  • 『太陽の季節』のカメラマンを務めた伊佐山三郎は水の江瀧子を呼び、エキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「阪妻がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった[9]
仕事に対する姿勢
  • セリフ覚えが悪いことで知られ、開いた状態の台本を机の中に置いて演技を行ったこともあったが、その分、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。
  • ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから[10]
  • 銀座の恋の物語」、「二人の世界」、「夜霧よ今夜も有難う」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『紅白歌合戦』には1957年第8回雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。
  • ヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌をカバーすることに消極的だった時代に、積極的に他人の持ち歌(当時のヒット曲や古い流行歌など)をレコードに吹き込んだ。ただ、梶芽衣子の「怨み節」のカバーについては断ったという[11]
性格
  • 性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという[12]。また人前で食事をすることも嫌っていた。
  • 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。また、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな」というポリシーを持っていた。
  • スポーツ界や政財界などを問わず広い交友関係を楽しんだ人物で、誰かに会ったときは必ず、上下関係分け隔てなく、あいさつのときは立ち上がり、握手をするという礼儀正しさでもよく知られていた。
  • 気遣いのできる優しい性格と豪快な人柄から、石原プロの俳優達からはもちろん、『西部警察』で共演した三浦友和柴俊夫らからも『社長』と呼ばれていた。さらに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。また、石原プロの名物である炊き出しは、裕次郎が考案したものである。
趣味・嗜好
交友
  • 勝新太郎とは家族ぐるみの付き合いで[16]、互いを「兄弟」と呼び合った仲。裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ[17][18]
  • 1学年下の長嶋茂雄とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した[19]
  • 裕次郎と同じ12月28日生まれの渡哲也は日活所属だった際、1970年の映画『ある兵士の賭け』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した[20][21]
  • 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた[22]
  • 当時放送作家ジャズ評論家として活動していた大橋巨泉と、映画『嵐を呼ぶ男』で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、お互い昭和9年生まれ(巨泉は早生まれ)という繋がりで意気投合。バラエティー番組『今晩は裕次郎です』に巨泉は構成作家として参加し、テコ入れに成功した。
その他
  • 前述の通り公式上の生年月日は1934年12月28日だが、運転免許証によると戸籍上の生年月日は6日後の1935年(昭和10年)1月3日とされている[23]
  • 1960年、日本の芸能界で初めて記者会見を開いた[24][信頼性要検証]。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後に妻となる北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長・堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。
  • 1961年の大けがの際、赤木圭一郎の訃報の直後に入院していたため、アメリカ支配権下時代沖縄琉球放送が偽の訃報を流すというハプニングがあった。
  • 1965年には國粹会ピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、後に銃刀法違反で有罪となる。
  • 主演した『赤い波止場』はジャン・ギャバン主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『望郷』が元ネタである。『赤い波止場』のリメイクである渡哲也主演の『紅の流れ星』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドがモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている[25][26]
  • 1962年、渡米した時「夢の渚」を撮影中のエルビス・プレスリーと対面した。2人が談話している写真が残されている。
  • 慎太郎が政界入りすると、慎太郎の応援演説を行った。また自民党橋本登美三郎は裕次郎を慕っており、石原プロが抱えていた借金を全額肩代わりするから参議院選挙に出馬しないかと要請したが、裕次郎は断っている。
  • 向井千秋は外科医時代に裕次郎の担当医を務めている。この時の白衣がカンフーの道着に似ていたため、裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名をつけられたという。
  • 1980年1月に成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロの俳優だった苅谷俊介は、裕次郎邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった[27]

家族・親族

小樽にて家族写真
(左から父・潔、裕次郎、母・光子、兄・慎太郎
兄・石原慎太郎
2009年8月28日
東京都庁第一本庁舎
都知事執務室

石原家

愛媛県松山市八幡浜市大洲市兵庫県神戸市須磨区北海道小樽市神奈川県逗子市東京都
1899年明治32年)12月生 - 1951年昭和26年)10月没
  • 母・光子
1909年明治42年)9月生 - 1992年平成4年)6月没
1932年昭和7年)9月生 -
1933年(昭和8年)7月生 -

裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて関連会社役員にまで出世した人物である。戦後の新興中流階級に属する。

略系図

         石原潔━光子
           ┣━━━━━━━━━━━━━┓
       石原慎太郎━典子         石原裕次郎━まき子
           ┃
           ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
        石原伸晃  石原良純  石原宏高   石原延啓

出演

映画

  • 太陽の季節』(古川卓巳監督、1956年5月17日公開、日活、伊豆役)
  • 狂った果実』(中平康監督、1956年7月12日公開、日活、滝島夏久役)
  • 乳母車』(田坂具隆監督、1956年11月13日公開、日活、相沢宗雄役)
  • 地底の歌』(野口博志監督、1956年12月12日公開、日活、ダイヤモンド冬役)
  • 月蝕』(井上梅次監督、1956年12月19日公開、日活、松木役)
  • 『若ノ花物語』(森永健次郎監督、1956年12月26日公開、日活)
  • 『人間魚雷出撃す』(古川卓巳監督、1956年12月26日公開、日活、黒崎中尉役)
  • 『お転婆三人姉妹 踊る太陽』(井上梅次監督、1957年1月1日公開、日活、大助君役)
  • 『ジャズ娘誕生』(春原政久監督、1957年4月3日公開、日活、南条春夫役)
  • 『勝利者』(井上梅次監督、1957年5月1日公開、日活、夫馬俊太郎役)
  • 『今日のいのち』(田坂具隆監督、1957年6月26日公開、日活、岩本岩次郎役)
  • 幕末太陽傳』(川島雄三監督、1957年7月14日公開、日活、高杉晋作役)
  • 海の野郎ども』(新藤兼人監督、1957年8月20日公開、日活、千鳥松役)
  • 鷲と鷹』(井上梅次監督、1957年9月29日公開、日活、千吉役)
  • 『俺は待ってるぜ』(蔵原惟繕監督、1957年10月20日公開、日活、島木譲次役)
  • 『峠』(齋藤武市監督、1957年11月5日公開、日活)
  • 嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督、1957年12月28日公開、日活、国分正一役)
  • 『心と肉体の旅』(舛田利雄監督、1958年1月9日公開、日活)
  • 『夜の牙』(井上梅次監督、1958年1月15日公開、日活、杉浦健吉役)
  • 錆びたナイフ』(舛田利雄監督、1958年3月11日公開、日活、橘役)
  • 陽のあたる坂道』(田坂具隆監督、1958年4月15日公開、日活、田代信次役)
  • 明日は明日の風が吹く』(井上梅次監督、1958年4月29日公開、日活、松山健次役)
  • 『素晴しき男性』(井上海次監督、1958年7月6日公開、日活、団武男役)
  • 『風速40米』(蔵原惟繕監督、1958年8月12日公開、日活、滝颯夫役)
  • 赤い波止場』(舛田利雄監督、1958年9月23日公開、日活、富永二郎役)
  • 『嵐の中を突っ走れ』(蔵原惟繕監督、1958年10月29日公開、日活、吉良千吉役)
  • 紅の翼』(中平康監督、1958年12月28日公開、日活、石田康二役)
  • 若い川の流れ』(田坂具隆監督、1959年1月15日公開、日活、曽根健助役)
  • 『今日に生きる』(舛田利雄監督、1959年3月10日公開、日活、城俊次役)
  • 『男が爆発する』(舛田利雄監督、1959年4月29日公開、日活、室戸謙作役)
  • 『山と谷と雲』(牛原陽一監督、1959年5月31日公開、日活、牧戸次郎役)
  • 『世界を賭ける恋』(滝沢英輔監督、1959年7月12日公開、日活、村岡雄二役)
  • 『男なら夢を見ろ』(牛原陽一監督、1959年8月9日公開、日活、木島夏雄役)
  • 『欧州駈けある記』(1959年8月30日公開、日活)
  • 『清水の暴れん坊』(松尾昭典監督、1959年9月27日公開、日活、石松俊雄役)
  • 『天と地を駈ける男』(舛田利雄監督、1959年11月1日公開、日活、稲葉鉄男役)
  • 『男が命を賭ける時』(松尾昭典監督、1959年12月27日公開、日活、小室丈太郎役)
  • 『鉄火場の風』(牛原陽一監督、1960年1月15日公開、日活、畑中英次役)
  • 『白銀城の対決』(齋藤武市監督、1960年3月6日公開、日活、伊庭俊介役)
  • 『あじさいの歌』(滝沢英輔監督、1960年4月2日公開、日活、河田藤助役)
  • 『青年の樹』(舛田利雄監督、1960年4月29日公開、日活、和久武馬役)
  • 『天下を取る』(牛原陽一監督、1960年7月13日公開、日活、大門大太役)
  • 喧嘩太郎』(舛田利雄監督、1960年8月10日公開、日活、宇野太郎役)
  • 『やくざ先生』(松尾昭典監督、1960年9月21日公開、日活、新田悠三役)
  • 『あした晴れるか』(中平康監督、1960年10月26日公開、日活、三杉耕平役)
  • 『闘牛に賭ける男』(舛田利雄監督、1960年12月27日公開、日活、北見徹役)
  • 『激流に生きる男』(野村孝監督、1962年5月1日公開、怪我で出演断念)
  • 『街から街へつむじ風』(松尾昭典監督、1961年1月14日公開、日活、正木晋一役)
  • あいつと私』(中平康監督、1961年9月10日公開、日活、黒川三郎役)
  • 『堂堂たる人生』(牛原陽一監督、1961年10月22日公開、日活、中部周平役)
  • 『アラブの嵐』(中平康監督、1961年12月24日公開、日活、宗方真太郎役)
  • 『男と男の生きる街』(舛田利雄監督、1962年1月14日公開、日活、岩崎捷夫役)
  • 銀座の恋の物語』(蔵原惟繕監督、1962年3月4日公開、日活、伴次郎役)
  • 『青年の椅子』(西河克己監督、1962年4月8日公開、日活、高坂虎彦役)
  • 『雲に向かって起つ』(滝沢英輔監督、1962年5月1日公開、日活、坂木武馬役)
  • 憎いあンちくしょう』(蔵原惟繕監督、1962年7月8日公開、日活、北大作役)
  • 『零戦黒雲一家』(舛田利雄監督、1962年8月12日公開、日活、谷村雁役)
  • 若い人』(西河克己監督、1962年10月6日公開、日活、間崎慎太郎役)
  • 『金門島にかける橋』(松尾昭典監督、1962年11月3日公開、日活、武井一郎役)
  • 花と竜』(舛田利雄監督、1962年12月26日公開、日活、玉井金五郎役)
  • 『何か面白いことないか』(蔵原惟繕監督、1963年3月3日公開、日活、早坂次郎役)
  • 『太陽への脱出』(舛田利雄監督、1963年4月28日公開、日活、速水志郎役)
  • 夜霧のブルース』(野村孝監督、1963年6月30日公開、日活、西脇順三役)
  • 太平洋ひとりぼっち』(市川崑監督、1963年10月27日公開、日活、青年役)
  • 赤いハンカチ』(舛田利雄監督、1964年1月3日公開、日活、三上次郎役)
  • 夕陽の丘』(松尾昭典監督、1964年4月29日公開、日活、篠原健次役)
  • 『鉄火場破り』(齋藤武市監督、1964年7月12日公開、日活、関東政役)
  • 『殺人者を消せ』(舛田利雄監督、1964年9月19日公開、日活、早川次郎/泉信夫役)
  • 『敗れざるもの』(松尾昭典監督、1964年10月30日公開、日活、橋本鉄哉役)
  • 『黒い海峡』(江崎実生監督、1964年12月31日公開、日活、槙明夫役)
  • 城取り』(舛田利雄監督、1965年3月6日公開、日活、車藤三役)
  • 青春とはなんだ』(舛田利雄監督、1965年7月14日公開、日活、野々村健介役)
  • 『泣かせるぜ』(松尾昭典監督、1965年10月1日公開、日活、響伸作役)
  • 素晴らしきヒコーキ野郎』(ケン・アナキン監督、1965年10月9日公開、20世紀フォックス、Yamamoto役)
  • 『赤い谷間の決斗』舛田利雄監督、1965年12月29日公開、日活、風間信吾役)
  • 二人の世界』(松尾昭典監督、1966年2月25日公開、日活、北条修一役)
  • 『青春大統領』(江崎実生監督、1966年4月27日公開、日活、峰岡鷹志役)
  • 『夜霧の慕情』(松尾昭典監督、1966年6月1日公開、日活、堀部良郎役)
  • 『夜のバラを消せ』(舛田利雄監督、1966年7月9日公開、日活、徳川新六役)
  • 『帰らざる波止場』(舛田利雄監督、1966年8月13日公開、日活、津田史郎役)
  • 『栄光への挑戦』(舛田利雄監督、1966年10月8日公開、日活、宗吾郎役)
  • 『逃亡列車』(江崎実生監督、1966年12月24日公開、日活、有坂大作役)
  • 夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生監督、1967年3月11日公開、日活、相良徹役)
  • 『嵐来たり去る』(舛田利雄監督、1967年5月3日公開、日活、富坂の英五郎役)
  • 『波止場の鷹』(西村昭五郎監督、1967年8月12日公開、日活、久須見健一役)
  • 『東京の田舎っぺ』(千野皓司監督、1967年8月12日公開、日活、声のみ)
  • 『君は恋人』(齋藤武市監督、1967年11月3日公開、日活、石崎監督役)
  • 『黄金の野郎ども』(江崎実生監督、1967年12月23日公開、日活、立原英次役)
  • 『遊侠三国志・鉄火の花道』(松尾昭典監督、1968年1月13日公開、日活、小村伸次郎役)
  • 黒部の太陽』(熊井啓監督、1968年2月17日公開、日活、岩岡役)
  • 『昭和のいのち』(舛田利雄監督、1968年6月22日公開、日活、日下真介役)
  • 『忘れるものか』(松尾昭典監督、1968年12月28日公開、日活、岡部司郎役)
  • 風林火山』(稲垣浩監督、1969年3月1日公開、東宝、上杉謙信役)
  • 栄光への5000キロ』(蔵原惟繕監督、1969年7月15日公開、松竹、五代高之役)
  • 人斬り』(五社英雄監督、1969年8月9日公開、大映、坂本竜馬役)
  • 『嵐の勇者たち』(舛田利雄監督、1969年12月31日公開、日活、島地陶介役)
  • 富士山頂』(村野鐵太郎監督、1970年2月28日公開、日活、梅原悟郎役)
  • 待ち伏せ』(稲垣浩監督、1970年3月21日公開、東宝、弥太郎役)
  • ある兵士の賭け』(キース・ラーセン/千野皓司/白井伸明監督、1970年6月6日公開、松竹、北林宏役)
  • スパルタ教育くたばれ親父』(舛田利雄監督、1970年8月12日公開、ダイニチ、田上悠三役)
  • 戦争と人間(1部)』 (山本薩夫監督、1970年8月1日公開、ダイニチ、篠崎書記官役)
  • 『男の世界』(長谷部安春監督、1971年1月13日公開、ダイニチ、紺野忠夫役)
  • 『甦える大地』(中村登監督、1971年2月26日公開、松竹、植松一也役)
  • 影狩り』(舛田利雄監督、1972年6月10日公開、東宝、十兵衛役)
  • 『影狩り・ほえろ大砲』(舛田利雄監督、1972年10月10日公開、東宝、室戸十兵衛役)
  • 『反逆の報酬』(澤田幸弘監督、1973年2月17日公開、東宝、沖田徹男役)
  • 『凍河』(斎藤耕一監督、1976年4月24日公開、松竹、竜野一郎役)
  • わが青春のアルカディア』(勝間田具治監督、1982年7月28日公開、東映、(声)ファントム・F・ハーロックI世役)
  • 『アゲイン』(1984年、新撮部分への出演なし)
  • 零戦燃ゆ』(舛田利雄監督、1984年8月11日公開、東宝、主題歌のみ)

テレビドラマ

テレビ・ラジオ

レギュラー番組

  • 『石原裕次郎アワー』(1957年-1959年、文化放送
  • 『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』(1963年-1964年日本テレビ
  • 『すてきな仲間』(1966年NET
  • 『ラジオ広場 やあ!裕次郎です』(1982年、ニッポン放送)
  • 『THE YUJIRO』(2003年-ミュージックバード
  • 『石原裕次郎チャンネル』(有線ラジオ放送

ラジオドラマ

CM

※放映されなかったCMであり、死去直後に『幻のCM』として放送されたほかDVD「生誕80周年記念 石原裕次郎 松竹梅CM集」に収録。

大会出場

  • 大島ヨットレース(1959年・1963年)
  • トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
  • アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
  • パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
  • インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
  • 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)

パチンコ

歌手活動

書籍

写真集

出版

連載

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ この時裕次郎を治療したチームの中に、後にオウム真理教にて地下鉄サリン事件などを引き起こした林郁夫がいた。
  2. ^ ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている。

出典

  1. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  2. ^ 石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜”. グレートマザー物語. テレビ朝日 (2002年2月24日). 2002年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月9日閲覧。
  3. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社 2003年)
  4. ^ a b 日本セーリング連盟の歴史(日本ヨット界の歴史)
  5. ^ a b このあたりのいきさつは、石原慎太郎の小説『弟』にも(断片的に)出てくる。
  6. ^ “石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表” (日本語). スポーツ報知. (2018年7月17日). https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180717-OHT1T50105.html 2018年7月20日閲覧。 
  7. ^ 石原プロモーションよりご報告”. 株式会社石原プロモーション (2020年7月17日). 2020年7月19日閲覧。
  8. ^ 近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。
  9. ^ 石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊
  10. ^ 以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。
  11. ^ 高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1
  12. ^ 村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」 村西とおる日記 2009年10月9日より。
  13. ^ さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年
  14. ^ (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月17日
  15. ^ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値! - JCCテレビすべて フジテレビ【バイキング】2018年7月19日放送
  16. ^ 【石原裕次郎32回忌でまき子夫人&舘ひろしが坂上に秘話告白】 - gooテレビ番組(関東版) 直撃!シンソウ坂上 2018年7月19日
  17. ^ (2)「兄弟」勝新、最後の晩餐(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月3日
  18. ^ (5)勝新と玉緒のケンカ仲裁(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月6日
  19. ^ (1)昭和に風、長嶋さん語った(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月02日
  20. ^ 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔 - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日
  21. ^ (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年7月4日
  22. ^ 太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの(PHP研究所増田久雄
  23. ^ 2012/9/3 石原裕次郎記念館 | 国立ロクの撮影日記
  24. ^ 有吉弘行&劇団ひとり&ビビる大木の天才リトル(2014年3月30日、フジテレビ[信頼性要検証]
  25. ^ 洋泉社 2016年11月『映画秘宝コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p
  26. ^ キネマ旬報オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より
  27. ^ 「土と役者と考古学」苅谷俊介 近畿医学検査学会

関連項目

関連人物

外部リンク