竹本綱太夫

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竹本 綱太夫(たけもと つなたゆう)は、義太夫節の太夫。江戸中期より九代を数える。定紋は三代目竹本綱太夫より抱き柏に隅立て四つ目。

抱き柏に隅立て四つ目

「綱太夫の代々は「浄瑠璃大系図」にも記されているように「綱太夫内」として斯道に重きをなして来ましたのは、その芸統に混乱がなく、名人を排出したからでありましょう。初代綱太夫は二代目政太夫という名人の門から出まして、二代目は初代式太夫の弟子が継いだことになっておりますが、これまた初代政太夫(後の播磨少掾)の流れをくまれた方であります。その後三代、四代、五代、とつづきまして、六代目になって山城掾の門下に移りましたが、山城掾は三代目と同門であり、師匠の没後、四代目の預かりとなっておりますから、芸統はずっとつづいていることになります。そして七代目も山城掾の弟子、私どもの祖父師匠に当る三代目津太夫が継がれました。このように純粋な系譜も珍しいのではないでしょうか。」―八代目竹本綱太夫『でんでん虫』[1]

初代[編集]

(生年不詳 - 安永5年10月13日1776年11月23日))

本名:平野屋嘉助、通称:新ろうじ 紋は丸に違い鷹の羽。[2]

初代竹本政太夫事二代目竹本義太夫(竹本播磨少掾)の弟子である二代目竹本政太夫の門弟。

「わざ知り」(今日でいう技巧派)と言われ、できるだけ淋しく陰気に語ってしかも人情を漂わし、逆に三味線を派手に賑やかに弾かせて調和させるという綱太夫風を後世に伝えている。[1]

宝暦11年(1761年)正月、竹本座『安倍晴明倭言葉』にて初出座。翌宝暦12年(1762年)閏4月豊竹座『岸姫松轡鑑』に豊竹綱太夫として出座。初代豊竹鐘太夫と並び二代目豊竹此太夫より上位に綱太夫の名が浄瑠璃太夫連名に記されている。同月伊勢の巡業にも参加。同年12月の『恋女房染分手綱』では竹本座に出演しているため、豊竹座への出演はこの公演のみである。[3][4]

宝暦13年(1763年)には、竹本伊勢太夫座の巡業に出演し、4月『ひらかな盛衰記』では「あんな茶呑みが宇治にも有るか」と持て囃され、10月のお名残り興行「小野道風青柳硯」では、毎日舞台の上まで人の山となる程の大入りになり「古今無類の大当り」との評判を取った。先輩の染太夫と人気を分かつほどの威勢があったと言われている。[1]

三代目竹本政太夫相続争いと義太夫の追善興行を誰が行うのかの争いの両方に負けた初代竹本染太夫が竹本座に籠城したため[5]、竹本座での興行ができなくなった初代綱太夫は、京都の初代竹本春太夫を紋下に据え、自らを「竹本義太夫座再興座本」とし、春太夫が後継指名した三代目政太夫を自身の竹本座に引き入れ、明和6年(1769年)2月12日、大坂阿弥陀池東ノ芝居にて『裙重浪花八文字』を初演。後に本作を『恨鮫鞘(桜鍔恨鮫鞘)』「無筆書置(鰻谷の段)」として初代綱太夫が一幕物化(竹本綱太夫著)。[6][7][8]同様の初代竹本綱太夫著の作品として、『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」が挙げられる。[2]

『増補浄瑠璃大系図』には、明和6年(1769年)12月『近江源氏先陣館』九つ目の切「佐々木高綱隠家の段」佐々木のシイシイにて大当たりを取り、安永2年(1773年)2月堀江市の側芝居にて『摂州合邦辻』下の巻「合邦住家の段」で大当たりを取ったと記されている。[9]

『音曲高名集』では、「三ケ津ニ而評判よく」と評され、「別而生涯語り物の内名高き戯題」として『近江源氏先陣館』「佐々木高綱隠家の段」『妹背山婦女庭訓』「芝六住家の段」「鱶七上使の段」『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」が挙げられている。[10]

『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」は、昭和5年(1930年四ツ橋文楽座の杮落し興行にて、その年の勅題「海辺の巌」に因み二代目豊竹古靱太夫により復活され、「本年の勅題(海辺の巌)に因み平家女護島鬼界ヶ島の段を語る事に相成りました。是れは近松門左衛門翁六十七歳の作享保四年八月十二日初日にて、竹本座に書卸し初代竹本政太夫師後に二代目義太夫を襲名致され、後年竹本播磨少掾藤原喜教と受領せられました名人が、床にかけまして以来安永元年八月同じく竹本座にて初代竹本綱太夫師が語られ此時大々的の好評でありました事が高名集と申す小冊子に書いて御座ります。」と古靱太夫は四ツ橋文楽座開場記念小冊子に著している。[11]

安永5年(1776年)に持病の治療で湯治に但馬城崎を訪れるが、その帰路10月13日に死去。墓は法善寺[1]

初代竹本綱太夫著[編集]

  • 『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」―原題『関取二代勝負附』(明和5年初演)※竹本綱太夫章句
  • 恨鮫鞘(桜鍔恨鮫鞘)』「無筆書置(鰻谷の段)」―原題『裙重浪花八文字』(明和6年初演)[12]

二代目[編集]

寛延元年(1748年) - 文化2年8月16日1805年9月8日))

初代竹本浜太夫 → 二代目竹本綱太夫[10]

本名:津國屋甚兵衛。通称:猪熊。紋は二つ釘抜に閂[2]

初代竹本政太夫事二代目竹本義太夫(竹本播磨少掾)の弟子である竹本式太夫の門弟。元は京都の猪熊仏光寺にて菅大臣縞を織る津國屋という織物業を営んでいたが、幼少から音曲に長じて三梛と号しており[1]、素人にて天晴の語り人とて人すゝめて太夫となり、天明2年(1782年)10月西の芝居にて二代目竹本綱太夫を襲名。[9]

寛政2年(1790年)10月『箱根霊験躄仇討』「黒百合献上の段」「阿弥陀寺の段」を勤め、古今の大当りを取る。[9]寛政4年(1792年)11月大坂道頓堀東芝居『摂州合邦辻』「合邦内の段」にて大当たりをとり、「聞く子や妻は内と外、顔と顔とは隔たれど。心の隔て泣き寄りの。親身の誠ぞ哀れなる」―この母子の情を十分に訴える耳ざわりのよいフシは、今に至るまで猪熊風(二代目綱太夫風)として崩せないことになっている。また、寛政5年(1793年)4月名古屋稲荷社内芝居にて『花上野誉の旧跡』「志渡寺の段」を、寛政8年(1796年)9月大坂北堀江市ノ側東側芝居にて『勢州阿漕浦』「平治住家の段」を、寛政9年(1797年)2月大坂道頓堀東芝居にて『中将姫古跡之松』「雪責めの段」を、同年3月大坂道頓堀東芝居『増補紙屋治兵衛』「紙屋の段」をそれぞれ著している。[12][2][1]

『音曲竹の響』という当時の評判記には、「かたり口に伝授の多い菅原」と記されているように、初代竹本綱太夫から直接教えを受けなかったとはいえ、初代綱太夫の芸風(=綱太夫風)を追求したと推察される。[2][1]

墓は京都の真如堂にあり、「朝顔の 身のあきをしる ゆふへかな」と辞世が刻まれている。戒名は最勝軒奏譽道雅禅定門。法善寺にも初代綱太夫と並び墓碑が建立されている。[1]

二代目竹本綱太夫著[編集]

  • 摂州合邦辻』下の巻「合邦内の段」―原題『摂州合邦辻』(安永2年初演)※六代目竹本織太夫襲名披露狂言
  • 『花上野誉の旧跡』四ツ目「志渡寺の段」―原題『花上野誉石碑』(天明8年初演)※竹本綱太夫章句 ※三代目竹本綱太夫襲名披露狂言
  • 『勢州阿漕浦』「平治住家の段」―原題『田村麿鈴鹿合戦』(寛保元年初演)※竹本綱太夫章句
  • 『中将姫古跡之松』「雪勢免(雪責め)の段』―原題『鶊姫舎(捨)松』(元文5年初演)※竹本綱太夫章句
  • 『増補紙屋治兵衛』「紙屋の段」―原題『置土産今織上布』※竹本綱太夫章(安永6年初演)[12][2]

三代目[編集]

宝暦12年(1762年)- 没年不詳)

二代目竹本浜太夫 → 三代目竹本紋太夫 → 三代目竹本綱太夫 → 竹本三綱翁

本名:人見万吉。大菱屋万右衛門とも。通称:飴屋。紋は「抱き柏に隅立て四つ目」(以来竹本綱太夫の定紋となる)

二代目竹本綱太夫の門弟。二代目浜太夫、三代目紋太夫を経て、文化3年(1806年)11月京四条寺町道場芝居にて三代目竹本綱太夫を襲名。襲名披露狂言は二代目綱太夫著の『花上野誉石碑』「志渡寺の段」、文化4年(1807年)正月には大坂でも披露。文政六年(1823年)には紋下となり、天保5年(1834年)に弟子の二代竹本むら太夫に四代目竹本綱太夫を襲名させ、自身は天保7年(1836年)に竹本三綱翁を名乗り引退した。[13][1]その語り口は「天晴名人にて一流を語る飴屋風(三代目綱太夫風)」と評される。[9]

初代・二代の衣鉢を継ぎ、前名三代目紋太夫時代の『時雨の炬燵』「紙屋の段」を皮切りに(師匠二代目綱太夫の『増補紙屋治兵衛』「紙屋の段」が基)、文化5年(1808年)9月大坂御霊社内芝居にて『艶容女舞衣』「酒屋の段」を安永元年(1772年)の初演以来36年ぶりに上演(半兵衛の咳とお園が剃刀で自害仕掛ける件を追加)、文化12年(1815年)京四条道場芝居にて『関取千両幟』「猪名川内の段」を(主人公名を岩川から猪名川へ変更)、文化14年(1817年)大坂いなり境内芝居『薫樹累物語』「土橋の段」を、文政7年~文政8年(1824年1825年)の江戸結城座上演時に『本朝廿四孝』「勘助住家の段」をそれぞれ著している。[12]

「酒屋」の半兵衛の咳については、二代目古靱太夫(山城少掾)が文化5年の上演時の番付に「三世飴屋綱太夫也此時半兵衛ノセキの工夫有テ入ル」と書き込みをしている。[14]

師匠二代目綱太夫場(風)である『勢州阿漕浦』「平次住家の段』『摂州合邦辻』「合邦住家の段』『花上野誉石碑』「志渡寺の段」を得意とし、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」『彦山権現誓助剱』「毛谷村の段」『新版歌祭文』「野崎村の段」を主な当り役とした。[1]

江戸の曳尾庵が記した『我衣』の文政7年(1824年)の条に、「綱太夫ノ甚面白キ語リ口ニテ、素人婦女ノウツツヲヌカサセタリ」とあるように、飴屋風とは、太夫にとっては非常に語りづらく、難しいものである反面、逆に観客にとってはとてもわかりやすい、受けの良いものであったと推察される。[1]

京都東山長楽寺竹本綱太夫塚という碑が建てられている。これは文政四年(1821年)に子徳と号する越前の医師が建立したもので、その碑文に門弟の数は「百有余人」とあり、四代目竹本綱太夫が嘉永3年(1850年)に板行した「竹本綱太夫門弟見立角力」にも門弟の一覧が記されている。[15]

墓は現存しないが、専定寺が人見家の菩提寺であり、抱き柏に隅立て四つ目を刻む墓碑があったと伝えられている。[1]

三代目竹本綱太夫著[編集]

  • 『時雨の炬燵』「紙屋の段」―原題 二代目綱太夫著『増補紙屋治兵衛』※三代目竹本紋太夫章(京板)※竹本綱太夫章(大坂板)
  • 艶容女舞衣』「酒屋の段」※八代目竹本綱太夫襲名披露狂言
  • 『関取千両幟』「猪名川内の段」―原題「岩川内の段」※竹本綱太夫章[13]
  • 『薫樹累物語』「土橋の段」―原題『伊達競阿国戯場』※竹本綱太夫場
  • 本朝廿四孝』「勘助住家の段」[16][12]

四代目[編集]

(生年不詳 - 安政2年7月26日1855年9月7日))

二代目竹本むら太夫 → 四代目竹本綱太夫 → 竹本四綱翁

本名:近江屋吉兵衛。通称:江戸堀。号は四綱翁

近江国八日市の出身。三代目竹本綱太夫の門弟。「古今美音成ば人の勧めに依て(三代目)綱太夫を師匠と頼み名をば」二代目竹本むら太夫と名乗り、文化9年(1812年)正月大坂いなり境内芝居(文楽の芝居)に初出座。天保5年(1834年)12月大坂いなり境内芝居『祇園祭礼信仰記』「冷光尼庵室の段」にて四代目竹本綱太夫を襲名。天保8年(1837年)には紋下に就任。大坂は江戸堀二丁目に住居を構えていたため通称「江戸堀」と呼ばれる。[9][1]

師匠三代目綱太夫著『本朝廿四孝』「勘助住家の段」を天保元年(1830年)10月大坂いなり境内芝居で語っている。以後も三代目綱太夫著の「勘助住家の段」は大坂いなり境内芝居(当時の「文楽の芝居」と呼ばれ、今日の人形浄瑠璃文楽に繫がる本流の劇場)で再演が重ねられ、現在上演される「勘助住家の段」は三代目綱太夫著のものである。[16]

「勘助住家の段」の他、綱太夫場(風)の『勢州阿漕浦』「平次住家の段」や、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」『義経千本桜』「すしやの段」を当り役とした。[1]

天保14年(1843年)「文楽の芝居」の紋下であった四代目綱太夫は、29歳の鶴澤庄次郎を三味線に抜擢しようとしたが、庄次郎の名前では紋下を弾くには不釣り合いであるために、庄次郎の師匠である二代目鶴澤傳吉に掛け合い、傳吉を名を三代目として庄次郎に譲らせ、二代目傳吉には大名跡である鶴澤友次郎を四代目として襲名させた。あまりに急なことで大坂若太夫芝居は「鶴澤傳吉」で看板と番付を作成済であったが、綱太夫は看板と番付を「鶴澤友次郎」に書き直させたという。若太夫芝居の紋下である五代目竹本染太夫(後の越前大掾)をも承諾させるほど四代目綱太夫の力は強かったのである。また、この際に抜擢した鶴澤庄次郎改め三代目鶴澤傳吉は、後に五代目鶴澤友次郎(通称建仁寺町)から五代目野澤喜八郎を襲名することになり(後に友次郎に復す)、生涯にわたり四代目綱太夫を徳とした。[17]『野澤の面影』の五代喜八郎事五代鶴澤友次郎略歴欄にも「四代竹本綱太夫引立テニテ師ノ前名ヲ譲リ受ケ三代鶴澤傳吉ト改ム」とある。[18]

師匠三代目綱太夫の門弟一覧を記した「竹本綱太夫門弟見立角力」を嘉永3年(1850年)に板行している。

三代目長門太夫は、「其頃評判のよきむら太夫後四代目綱太夫なり此人を頼みて江戸堀迄稽古に通ひ」と『増補浄瑠璃大系図』にあるように、むら太夫時代の四代目綱太夫に師事している。[9]

大坂と江戸で活躍したが、安政2年(1855年)7月27日に死去。墓は碑文谷正泉寺に六代目綱太夫が建立したものが現存。戒名は眞綱慈教信士

五代目[編集]

(生没年不詳)

竹本芝太夫 → 竹本綱戸(登)太夫 → 竹本加太夫 → 初代竹本対馬(津島)太夫 → 五代目竹本綱太夫

本名・大坂屋喜兵衛

越中富山の出身。四代目竹本綱太夫の門弟。天保3年(1832年)4月14日より文楽の芝居にて『彦山権現誓助剱』の大序を語り竹本芝太夫として初出座。竹本綱戸(登)太夫となり、淡路座へ出勤するも、帰阪し竹本加太夫、竹本対馬(津島)太夫を名乗り、慶応元年(1865年)には大坂天満芝居にて紋下となる。明治元年(1868年)7月四条道場北ノ小家『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」にて対馬太夫改め五代目竹本綱太夫を襲名。その後、堂上方(公家)へ出入りし、公家侍となり名を瓜生隼人を改めたと伝えられている。[1][9]

妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事を当り役とし、生涯に6回勤め、内4回は五代目竹本春太夫が定高を勤めている。[1]

その他にも、綱太夫代々の演物である『摂州合邦辻』「合邦内の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」を得意とした他、『仮名手本忠臣蔵』「山科閑居の段」『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」も度々語っている。[1]

五代目綱太夫を「盛綱陣屋の段」で襲名した後も、『佐倉曙』「宗五郎内の段」『箱根霊験躄仇討』「滝の段」『五天竺』「長者館の段」『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」『本朝廿四孝』「勘助住家の段」『仮名手本忠臣蔵』「判官切腹の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」等、歴代綱太夫の演物や紋下太夫に相応しい語り物を勤めている。[1][19]

六代目[編集]

天保11年(1840年) - 明治16年(1883年9月24日

竹本小定太夫 → 初代豊竹錣太夫 → 初代竹本殿母太夫 → 二代目竹本織太夫 → 六代目竹本綱太夫

本名:斎藤太市。通称:左官の綱太夫、織太夫の綱太夫。

江戸生まれ。嘉永4年(1851年三代目竹本長門太夫に入門し竹本小定太夫を名乗る。四代目豊竹岡太夫の門弟で初代豊竹錣太夫、その後竹本山城掾(二代目竹本津賀太夫)の門弟になり元治元年(1864年)初代竹本殿母太夫、明治3年頃には二代目竹本織太夫とそれぞれ改名。明治9年(1876年)9月大江橋席『夏祭浪花鑑』「九郎兵衛住家の段(田島町団七内の段)」にて六代目竹本綱太夫を襲名。以来、竹本織太夫が竹本綱太夫の前名となっている。[1][9]

「初代政太夫事播磨少掾門弟京初代式太夫系譜の続猪の熊綱太夫より飴屋綱太夫是三代なり四代吉兵衛綱太夫五代隼人綱太夫六代太市綱太夫是を号て綱太夫内と云なり」と四代目竹本長門太夫は『増補浄瑠璃大系図』に記しており、竹本綱太夫の名跡には芸統に混乱がなく、一門のみにて継承されてきたことを「綱太夫内」という言葉で表現している。[9]

全身に見事な彫り物をいれていた粋な江戸っ子で、その美声は類稀なものであり、江戸浄瑠璃の『恋娘昔八丈』「城木屋の段」『明烏六花曙』『碁太平記白石噺』や、『三十三間堂棟由来』『傾城阿波鳴門』『中将姫』『酒屋』を得意としていた。元は左官をしていたため、街角を塗っていた左官を鼻で笑ったところ、左官が憤慨し「おかしければてめぇが塗ってみろ」と言ったのを小耳に挟み、羽織を脱いでポンと投げ尻端折のコテの鮮やかさに見るものを驚かせたという逸話も残っている。[1]

初代豊竹古靱太夫とは義兄弟の間柄で、つねに「兄貴」「兄貴」と慕っていたが、芸に於いては非常におそれをなし、当時美音無比と評されていた二代目竹本越路太夫(後の摂津大掾)は眼中にはなく、ただただ古靱の浄瑠璃を目の上のこぶとしていた。そのため、初代古靱太夫が明治11年(1878年)に殺害されたときには、長嘆息をしその死を悼むとともに「もはや天下に怖い語り手は一人もいない」と六代目綱太夫は語ったという逸話がある。[1][20][21]石割松太郎はこの逸話について「六代目綱太夫のその心持ちは、やがては綱太夫の浄瑠璃の風を如実に物語り、その語り口をも暗示するものとみてよかろうかと私は思っている」と評している。[21]

『三十三間堂棟由来』は二代目竹本織太夫時代に初代豊澤新左衛門と組んで流行させたもので、「書きおろされてから長い間廃滅していましたが、法善寺の津太夫さんのもう一代前の綱太夫(※六代目)が新左衛門さんとのコンビで流行し出したもので、勇み肌の綱太夫がいなせな声の「和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島、三に下り松、四に塩釜よ、ヨーイ、ヨーイ、ヨイトナ」と木遣り音頭がうけたそうです。わかの浦の「わか」の所が現在も綱太夫の語った通りにナマッて語られますし、また「切り崩されて枯柳」も下におとして節尻の音調も、その特色を残しています。摂津大掾も綱太夫の生きている間は、これは織さんが語り生かされたものだからと遠慮された程のもので、この話は美談だと思っています。」と二代目野澤喜左衛門が語っている。[22]

『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷の段」を明治5年(1872年)9月堀江芝居にて『仮名手本忠臣蔵』「桃の井別荘の段」として初演。[23][19]

明治6年(1873年)9月道頓堀竹田芝居にて『佐倉曙義民物語』「牢屋拷問の段」を語り「古今ノ絶品ニテ大当リ」と評される。[19]この『佐倉曙』「牢屋」については、二代目古靱太夫が織太夫時代の床本を買い求めた際に、「その許殿へ候上者出語り及び不申床内にても決して語り間敷候 借主竹本織太夫、貸主浅野常次郎殿」との三十両の証文が挟み込まれていたそうで、質入れできるほど織太夫の「牢屋」には価値があった。大評判を取る2年前の明治4年(1871年)のことである。次に、古靱太夫が六代目綱太夫時代の「牢屋」の床本を求めると、「給銀は二杯半」と綱太夫の直筆があった。「二杯半」とは「給銀十五割増し(+150%)」とのことである。また、明治9年(1876年)4月に土佐高知へ巡業に行った際には「牢屋」を語るにあたり、餘賂(本給銀とは別の特別の謝礼金)として三十五両を受けた。その高知の小屋の木戸は通常16銭のところ、20銭、30銭とプレミアムが付き、客をすし詰めにしたそうである。六代目綱太夫の人気の凄まじさを物語る。[21]

明治7年(1874年)4月道頓堀竹田芝居『仮名手本忠臣蔵』七段目「祇園一力茶屋の段」にて端役の亭主の役を割り振られ、大いに憤慨するも、「離れ座敷へ灯をともせ仲居ども」の「仲居ども」に新しい工夫を加え、特有の仇な美声も相まって満場を唸らせ、忽ち大評判となり、以後この六代目綱太夫のように語るようになり、今日に至っている。[19][1][20]

明治14年(1881年)3月市村座で四代目助高屋高助が「日高川」を初代花柳壽輔振付の人形振りで演じた際に、六代目竹本綱太夫と初代豊澤新左衛門が演奏を受け持ち、33日間の公演で五百円の給金を得る。[19]

交友関係も広く、都々逸坊扇歌と義兄弟の盃を交わし、この仲介をした講釈師の石川一口の法善寺の席で、扇歌が三味線を弾き、六代目綱太夫が端唄を歌ったところ、大喝采だったという逸話も残っている。[20]

先祖崇拝の念がすこぶる厚く、法善寺には初代綱太夫の墓の花入れ、二代目綱太夫と二番目の師匠である四代目岡太夫の墓をそれぞれ建て、碑文谷正泉寺には四代目綱太夫の墓を建立している。[1][9][24]また、三番目の師匠である竹本山城掾は晩年六代目綱太夫の仕送りを受けていたと伝わる。[25]

川崎大師に知友や門弟の建立した立派な碑が現存している。戒名は竹薗院綱譽業徳義本居士[1]

七代目[編集]

(天保10年(1839年) - 明治45年(1912年7月23日

初代竹本緑太夫 → 三代目竹本津太夫 → 七代目竹本綱太夫

本名:桜井源助。通称:法善寺

実家は公家雲州(出雲国)薩州(薩摩国)に出入りする名鳥・狆を商う唐鳥屋を営んでいた。祖父は唐鳥屋松五郎といい、二代目竹本綱太夫の門弟で、素人で名を挙げていたが、師匠二代目綱太夫の営んでいた津國屋から津の字を取り初代竹本津太夫を名乗る。28歳の際に二階より落ち耳が不自由となったため、津太夫の名跡を息子である小鳥屋松蔵に譲り、初代竹本蟠龍軒を名乗る。

その小鳥屋松蔵が七代目竹本綱太夫の父であり、三代目竹本綱太夫の門弟で竹本山城掾とは相弟子。父同様素人で活躍したのち、津太夫の名跡を父より譲られ二代目竹本津太夫を名乗り、後に二代目竹本蟠龍軒を名乗る。

父二代目津太夫が山城掾とは相弟子であった関係から18歳の時に山城掾の師匠である三國屋巴太夫の門弟となり、初代竹本緑太夫を名乗り初出座。後、竹本山城掾の門弟となり元治元年(1864年)京道場亀屋粂之丞座に出座し、三代目竹本津太夫を名乗る。[26][27]

「私の家は祖父の代から浄るりが好きで、祖父は津太夫と云ひまして、私の父も津太夫、都合、私で三代目津太夫になるので御座います」ー本人談[27]

その後、明治8年(1875年)11月松島文楽座『伊賀越道中双六』「沼津の段 (前半)」にて文楽座に初出座。明治22年(1889年)8月紋下に準ずる地位である「庵」に入り、重きをなす。当時の紋下であった二代目竹本越路太夫(後摂津大掾)が東京で長期公演を行っていた間に、文楽座の留守を預かり、当時のライバルであった彦六座に劣ることなく奮闘した功に報いる形で、明治24年(1891年)2月興行では文楽座紋下に就任。披露狂言は『近頃河原達引』「堀川猿回しの段」。明治41年(1908年)11月28日に喀血し、静養に入る。明治43年(1910年)七代目竹本綱太夫を襲名するも、引退し、 明治45年(1912年7月23日逝去。戒名は雲龍軒響譽津海居士[19]住居を法善寺に構えていたことから、通称「法善寺」「法善寺の津太夫」と呼ばれる。[1]門弟に二代目豊竹古靱太夫(後の豊竹山城少掾)がいる。

※「庵」―「明治の文楽座の庵は津太夫一人で、津太夫は紋下になるだけの技量と年功を持っていながら紋下の越路太夫を押しのけるわけにはいかぬから、紋下と同じ紋下格の意味で置いたのが庵である。」[19]

「文楽座の直系といふと、まづ五代目春太夫を中心にして、摂津大掾の一派と、千日前の法善寺に住んでゐた故に、「法善寺」の名で呼ばれる竹本津太夫、その他文楽座土着の人々です。」[28]石割松太郎が記しているように文楽系の重鎮である。

明治35年(1902年)9月9日、京都河原町田中市兵衛の別荘にて、小松宮の前で『仮名手本忠臣蔵』「九段目 山科閑居の段」を御前演奏。その際に、二代目竹本越路太夫は『本朝廿四孝』「謙信館(十種香)の段」を披露、竹本摂津大掾たる令旨の仮書を拝領している。[19]

伴侶は初代鶴澤清六の娘である鶴澤きくで、竹本津太夫家=竹本綱太夫家と鶴澤清六家は一緒となり、この後八代にわたり家が続き、八代目竹本綱太夫五十回忌追善での六代目竹本織太夫襲名へつながっている。

主な一族に、初代豊澤新左衛門(鶴澤きくの前夫)、二代目豊澤団平(娘婿)、三代目竹本大隅太夫(娘婿)、四代目鶴澤清六(曽孫婿・名跡養子)がいる。

弟子である二代目古靱太夫は、師匠の養子であり自らの相三味線である四代目清六のことを「息子はん息子はん」と呼んでいたと八代目竹本綱太夫は記している。[29]

八代目[編集]

(明治37年(1904年)1月3日 - 昭和44年(1969年1月3日

二代目豊竹つばめ太夫 → 四代目竹本織太夫 → 八代目竹本綱太夫

本名:生田巌。通称:二ツ井戸。子息は初代豊竹咲太夫

明治37年(1904年)1月3日に、父生田勇、母れつの長男として出生。その年の勅題である「巌上の松」に因み生田巌と名付けられる。父方の祖父は生田甫善といい延岡藩内藤家の御典医。母の姉が瀧廉太郎の実母であり、八代目綱太夫とは従兄弟同士となり、[1]その縁でキャスターの筑紫哲也とも縁戚となる。[30]

近所に五代目竹本春太夫の弟子の竹本春之助とその娘の竹本春子という女義太夫の師匠が住んでおり、「鈴ヶ森」や「裏門」を習い、竹本春尾という名前をもらう(因講には加入せず)。[1]

明治44年(1911年)8月15日、8歳で二代目豊竹古靱太夫(のちの豊竹山城少掾)に入門。師匠の前名である津葉芽(つばめ)太夫を二代目豊竹つばめ太夫として名乗る。後に、子息の陽三(豊竹咲太夫)を9歳で山城少掾に入門させた際も、昭和28年(1953年)の8月15日を選んでいる。[1]

初舞台の前に、師匠の男衆であった浪花軒に天満や松島の千代崎橋の寄席に子供太夫として売り込まれ出演。後に師匠に露見し大目玉を食らう。

14歳の時、大正6年(1917年)2月御霊文楽座で師匠二代目古靱太夫が初代古靱太夫所縁の『蘆屋道満大内鑑』「葛の葉子別れ」を勤めた際に「乱菊」のツレへの出演を八代目鶴澤三二が打診するも師匠古靱太夫が首を立てに振らず、正式な初舞台は同年10月25日初日の御霊文楽座『仮名手本忠臣蔵』の「大序」で、豊竹つばめ太夫の名が初めて文楽座の番付に載る。語ったのは「国に羽をのす鶴ヶ岡」と紙半枚ほどであった。[1]

翌大正7年(1918年)2月、師匠古靱太夫が三代目越路太夫の『絵本太功記』「尼ヶ崎」の代役で大評判を取った公演で、「鉄扇」の掛け合いの代役に抜擢される。通常大序を抜けるには早くて3年かかるが、同年11月『仮名手本忠臣蔵』で「恋歌の段」の師直を勤め、序中へ昇進する。大序在籍は1年ほどであった。[1]

その当時、三代目竹本伊達太夫(後六代目竹本土佐太夫)宅で開かれていた「大序会」で『融通大念佛』「亀井太郎住家」『往古曽根崎村』「教興寺」といった珍しいものから、『一谷嫰軍記』「流しの枝」『妹背山婦女庭訓』「芝六住家」『奥州安達原』「宗任物語」『加賀見山旧錦絵』「長局」『鎌倉三代記』「三浦別れ」『冥途の飛脚』「封印切」「淡路町」などを勤める。[1]

大正11年(1922年)2月師匠古靱太夫の代役として『一谷嫰軍記』「流しの枝の段」を19歳で勤める。また、昭和2年(1927年)1月にも師匠古靱太夫の代役として『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」を24歳で務める。この「尼ヶ崎」の代役が大評判をとり、松竹のマークの入った白金のメダルをもらう。この代役が認められ、翌2月の『伽羅先代萩』「埴生村の段」の端場を勤め、抜擢を受ける。更に昭和5年(1930年)2月には綱太夫場である『摂州合邦辻』「合邦住家の段」においても師匠古靱太夫の代役を10日間ほど勤め、松竹白井会長から褒状と金時計を、師匠古靱太夫からは床本を記念にもらっている。翌昭和6年(1931年)3月には『義経千本桜』「河連館の段」にても師匠の代役を勤める。「河連館」は19年ぶりの上演であり、覚えのないものであったため、1日だけ四代目清六の稽古を受け、初日の舞台に上がった。この「河連館」を聞いた石割松太郎は「生れて初めて、拍手の経験をした」と本人に伝え、「この「川連舘」を恐らく二、三度の急稽古であれだけ語ってのけたつばめ太夫の芸、といはんより私はこの人の明敏なる頭の働きとあの熱とを涙ぐましいまでに買ったのである。それで日頃の浄瑠璃のテクニックに対する彼の研究が仇おろそかでない事を証明される。この点を双手を挙げて褒めたい―私が拍手した条件の半ばはここにある」と劇評に記している。[1]

昭和11年(1936年)12月、加藤亨博士宅で開かれていた若手勉強会である「研声会」を発展させる形で、新義座を結成。結成メンバーは野澤勝平(後二代目野澤喜左衛門)を上置きに、四代目竹本南部太夫、竹本叶美太夫、豊竹小松太夫(後四代目竹本越路太夫)、竹本津磨太夫、竹本越名太夫(後五代目竹本南部太夫)、豊竹つばめ太夫、豊澤猿糸(後七代目豊竹岡太夫)、竹澤團二郎(後十代目竹澤弥七)、野澤勝芳(後二代目野澤勝太郎)、鶴澤綱延(後四代目野澤錦糸)、野澤勝之輔の十二名。素浄瑠璃で旅公演を行った。この頃から三味線は竹澤團二郎(後十代目竹澤弥七)が務める。[1]

2年後の昭和13年(1938年)文楽座へ帰るように師匠古靱太夫から声が掛かり、同年3月新町演舞場『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」の雛鳥で復帰。背山の三味線は初代鶴澤道八で、妹山を弾く團二郎の復帰には、幕内ではいろいろな声があったが「わしは團二郎であろうと誰であろうと勤めるで」と発言した。[1]

同年5月四ツ橋文楽座『ひらかな盛衰記』「松右衛門内から逆櫓の段」にて四代目竹本織太夫を襲名する。同時に相三味線の竹澤團二郎が七代目竹澤團六を襲名。竹本綱太夫の名跡は師匠古靱太夫がその師匠である七代目竹本綱太夫から預かっており、いっぺんに竹本綱太夫を襲名するのは早すぎるため、前名である竹本織太夫を襲名した経緯がある。[1]

「もともと津太夫の名跡は、私にやると師匠はいつてゐられたのです。ちよいちよい法善寺のお宅へ伺つてゐた父に、早くからさういつてゐられたのを、私は父から聞いてゐました。ずつとあと……明治四十一年の十一月、文楽座の部屋で中風で倒れられてからは、舞台はその時を名残りに、師匠はお宅で臥りつきりにしてゐられましたが、その頃になつて話の模様が変はつて、兄弟子の文太夫が三代目を継ぐことになつて、私には替りに綱太夫をやるといはれたのですが、そのやうな斯道で晴れがましい名跡を穢すのが憚られましたので、私は辞退いたしました。」[31]と師匠古靱太夫は語っている。

昭和19年(1944年)1月『摂州合邦辻』「合邦住家の段』の後半を勤めた際に、番付に初めて「切」の字が付き、切り場語りに昇進。初舞台から27年目、41歳でのことであった。[1]

終戦後の昭和22年(1947年)3月師匠古靱太夫が秩父宮家から受領し、豊竹山城少掾藤原重房を名乗る。その披露興行である同年5月四ツ橋文楽座にて綱太夫場である『艶容女舞衣』「酒屋の段」で八代目竹本綱太夫を襲名。相三味線の竹澤團六も十代目竹澤弥七を襲名した。[1]

戦後は近松物に力を入れ、大序会の折に19歳で勤めた『心中重井筒』「六軒町」を始め、『心中天網島』「紙屋内から大和屋」『冥途の飛脚』「淡路町から封印切」『心中宵庚申』「上田村」『国性爺合戦』「楼門から獅子ヶ城」『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」『増補恋八卦』「大経師内」『信州川中島合戦』「輝虎配膳」等をレパートリーとした。「六軒町」の床本は六代目綱太夫のもので師匠古靱太夫から譲られたものである。[1]

また、野澤松之輔(西亭)作曲物の初演として、昭和30年(1955年)1月『曾根崎心中』「天満屋の段」、同年4月『長町女腹切』「石垣町井筒屋の段」、同年6月『鑓の権三重帷子』「浅香市之進留守宅より数寄屋の段」を勤め、成功を収める。[1]

さらに、八代目竹本綱太夫十代目竹澤弥七作曲として昭和31年(1956年)3月四ツ橋文楽座にて『今宮の心中』を上演、その他にも『女殺油地獄』「豊島屋油店の段」『平家女護島』「朱雀御殿」を残している。近松物の他にも、菊池寛恩讐の彼方に』、安藤鶴夫『藝阿呆』、折口信夫『死者の書』を綱太夫弥七で作曲している。[1]

六代目鶴澤友治郎からも教えを受け、『新薄雪物語』「園部館の段(三人笑い)」『碁太平記白石噺』「逆井村の段」『鬼一法眼三略巻』「菊畑の段」『祇園祭礼信仰記』「金閣寺の段」「爪先鼠の段」『敵討襤褸錦』「次郎右衛門出の段」「大晏寺堤の段」等珍しい曲を教わり、後世に遺している。また『競伊勢物語』「春日村の段」は直接友治郎から教わっていないものの、その高弟である鶴澤友造に習っている。また、豊澤松太郎からは、『近江源氏先陣館」「盛綱陣屋の段」『信州川中島合戦』「輝虎配膳の段」教わるなど、上演頻度の低い演目の継承に努めた。[1]

それまでタブーとされていた歌舞伎役者との共演を昭和34年(1959年)4月27日,28日新橋演舞場『嬢景清八嶋日記』「日向嶋」にて八代目松本幸四郎他と行う。2年後の昭和36年(1961年)4月には東京歌舞伎座にて『義経千本桜』「四の切」を十七代目中村勘三郎を25日間共演した。[1]

昭和30年(1955年)2月、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の第一次指定を師匠山城少掾ともに受ける。昭和38年(1963年)4月15日「義太夫多年の業績に対し」日本芸術院賞を受け、翌日天皇陛下皇太子殿下高松宮殿下にご進講を行う。昭和44年(1969年)日本芸術院会員となる。

昭和44年(1969年)1月3日、自らの65回目の誕生に逝去。戒名は至寶院綱誉義月松巌大居士。墓は安楽寺。

著書に『でんでん虫』(布井書房, 1964年)、『芸談かたつむり』(同、1966年)があり、山川静夫による評伝『綱大夫四季』(現在、岩波現代文庫)がある。

九代目[編集]

(昭和7年(1932年2月14日 - 平成27年(2015年7月20日

竹本織の太夫 → 五代目竹本織太夫 → 九代目竹本綱太夫 → 九代目竹本源太夫

本名・尾崎忠男。通称・北畠。祖父は七代目竹本源太夫、大叔父は十代目豊竹若太夫、父は初代鶴澤藤蔵、義兄は七代目竹本住太夫、子息は二代目鶴澤藤蔵

昭和7年(1932年)2月14日に祖父は七代目竹本源太夫、父は初代鶴澤藤蔵という「文楽の家」に生まれる。[32]大阪市立精華小学校卒業。昭和19年(1944年)パイロットを目指し大阪府立航空工業学校へ入学するも、翌年に終戦を迎える。東京の割烹での料理人修行という話もある中で、祖父・父同様に文楽入りを志す。父藤蔵は息子の文楽入りに難色を示したが、鶴澤綱造の父藤蔵への後押しもあり「文楽の家」三人目の誕生が決まる。入門先について父藤蔵は、過去に八代目綱太夫に相三味線解消を切り出された経緯があったことから、四代目竹本南部太夫への入門も考えたが、「やはり生田(八代目綱太夫の本名)しかいない」と結論を出し、昭和21年(1946年)4月1日の午後、四代目竹本織太夫(後八代目竹本綱太夫)に入門し、竹本織の太夫を名乗る。この日午前中には、古靱太夫宅にて豊竹古住太夫(後七代目竹本住太夫)の入門があった。古住太夫、織の太夫、織部太夫(四代目南部太夫門弟の南都太夫が織の太夫に続き入門)の三人が戦後初めての入門者となった。[32][33]

入門の翌月、5月22日京都西洞院錦小路「にしき」で開かれた武智鉄二主催の「古靱を聞く会」にて『加々見山旧錦絵』「草履打の段」の善六と腰元で初舞台を踏む。本興行の初舞台は同年8月『新版歌祭文』「野崎村の段」の段切れのツレであった。[33]

入門当初は師匠綱太夫が京都に住んでいたため、大叔父である十代目豊竹若太夫に稽古をつけてもらっていた。目が不自由な大叔父を四ツ橋文楽座へ手引をし、お迎えに行くと「組討」「金閣寺」「岸姫」「勘作住家」を稽古してくれたという。また、祖父師匠である山城少掾には「尾崎(七代目源太夫)の孫」ということで大変に可愛がられ、白湯汲みをしたり、山城少掾の「寺子屋」で「寺入り」の端場という破格の役がついたこともあった。若手勉強会では「又助住家」(三味線:藤蔵)、「実盛物語」(三味線:藤蔵)、「桜丸切腹」(三味線:寛弘(後七代目寛治))、「勘助物語」(三味線:弥七)を勤める。[33]

昭和38年(1963年)1月道頓堀文楽座『御所桜堀川夜討』「弁慶上使の段」にて竹本織の太夫改め五代目竹本織太夫を襲名(3部制興行で1部の『寿式三番叟』、2部の口上幕、「野崎村」の久松も勤める)。翌2月は東京東横ホールの「お名残自主公演」昼の部『壺坂観音霊験記』「沢市内」、夜の部は口上幕と『義経千本桜』「鮓屋の段 前」にてそれぞれ披露。口上は五代目竹本南部太夫、初代鶴澤藤蔵、五代目竹本織太夫、八代目竹本綱太夫、竹本綱子太夫(豊竹咲太夫)という親子・一門にて行われた。[32]

織太夫襲名にあたり、織太夫の名跡は次期綱太夫が名乗る名跡であり、また実家尾崎家は竹本源太夫家であることから、師匠綱太夫は「あっ、お前とこの源太夫という名前な…」と心配するも、母(七代目源太夫娘)から「尾崎家は源太夫の家やけど、あんたは結構なお師匠はんに恵まれて、その師匠の前名の織太夫を頂戴できるなんて、こんな幸せはない。あんたはそっちの道を師匠の言いはる通りにありがとう歩ませていただきなさい。源太夫を継ぐということは考えんでいいから」と後押しを受けた。[32]

襲名を期に父藤蔵が相三味線となるも、2年後の昭和40年(1965年)1月21日に急逝。そのすぐ後に師匠綱太夫宅の二階で開かれた「大序会」で『加々見山旧錦絵』「長局の段」を五代目鶴澤燕三と勤める。「お初の「御無念の魂は、まだこの家の棟にお出なされふ」へ来ると泣けて泣けて言えまへんね。藤蔵(おやじ)の遺体と二人きりになった時のことが浮かんできて、藤蔵(おやじ)早よ死んで無念やろ……、そればっかり思えて。本番は泣かんとやれましたけど、お初の気持ちちょっと出たんでっしゃろか。すんだあと綱太夫(ししょう)は、現住太夫(あにき)と僕と二人並べて、二人共八十五点やる言うてくれはって。あくる日お礼のご挨拶に伺うたら綱太夫(ししょう)、「山城少掾師匠ところへ、やっと太夫といえる者が二人出来ましたと報告するわ」、にこにこしてそうおっしゃって。あとにも先にもこんなお言葉戴いたことおまへん」[33]

師匠八代目綱太夫同様に代役を多く勤める。入門翌年の昭和22年(1947年)11月『仮名手本忠臣蔵』「下馬先進物の段」にて大叔父若太夫の弟子の豊竹英太夫の代役を勤めたのを皮切りに、昭和30年(1955年)4月には『一谷嫰軍記』「熊谷陣屋の段 奥」で四代目津太夫の代役を稽古も何もなしに23歳で勤める。これが初めての切り場の代役であった。この後も津太夫の代役で昭和31年(1956年)3月「合邦」8月「鮓屋」や勧進帳の弁慶も勤める。師匠綱太夫の代役を初めて勤めたのは24歳の時、昭和32年(1957年)1月『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」であった。稽古どころか白湯汲みもしていなかったが、師匠の稽古を毎日聞いていたので勤めることができた。その後、昭和34年(1959年)『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」でも代役を勤める。「強烈に印象に残っている」と本人が語るのが、昭和36年(1961年)7月『新薄雪物語』「園部館(相腹)の段」の代役。陰腹の口伝として「お前ナ、何でもええよって痛いもん腹に当てて、そいで腹帯して詞言う稽古しいや」と師匠綱太夫から言葉を貰うも、それを伝える師匠綱太夫も、それを聞く弟子の織太夫も双方がボロボロ泣いていたという。[33]

これより以前、10代の際にも師匠綱太夫の代役の話があり、父藤蔵が「生田、忠男に代わりをさしてもわし気わるせえへんで」と綱太夫に勧めるも、「尾崎、わしもそれは思わんでもなかったけど、忠男は今まで一つもつまずかんとここまで来てる、今恥かかすのはちょっと早い」と答えたという。父藤蔵は息子に「お前、生田のこんな気持がわかるか、罰当るで」と伝えた。[33]

平成6年(1994年)4月『妹背山婦女庭訓』「妹山背山の段」大判事で切り場語りに昇格。平成8年(1996年)33年間名乗った織太夫の名から、五代目竹本織太夫改め九代目竹本綱太夫を襲名。襲名披露狂言は1月大阪『絵本太功記』「尼ヶ崎の段」、2月東京『国性爺合戦』「甘輝館の段」。襲名を期に子息、鶴澤清二郎を相三味線に起用。これは五代目織太夫襲名を期に父藤蔵が相三味線になってくれたことと重なる。[32]

当人の現藤蔵は「父(竹本綱太夫)の三味線を弾くようになり、最初は父の勢いに僕はついていくだけで精一杯。「お前の三味線は太鼓よりマシや」と悪態をつかれました。周囲も驚くほどコワい父でした。ある年の10月、僕が巡業に出ていて11月の稽古がよう出来んかって、巡業を終えて稽古に行ったら「ようそれでワシの前に出てこれたな。顔洗って出直して来い!」、と机をたたかれ叱られました。曲はこの11月公演でやっていた九段目(山科閑居の段)の奥でした。晩年父は体力が弱ってきたせいか、舞台を終えると「それで良かったかいな」、「お前の三味線でないとわしはよう語らん」って僕をあてにしていましたが、60代のころはメチャメチャ怖かったですよ、それだけ芸に厳しかった人でしたが。」と語っている。[34]

竹本綱太夫を15年名乗るも、尾崎家の名前である竹本源太夫を今一度世に出したいと考え、同じく尾崎家の名前である鶴澤藤蔵を子息に二代目として名乗らせ、自身は九代目として竹本源太夫を平成23年(2011年)4月『源平布引滝』「実盛物語の段」で襲名した。襲名に際しての思いを、自書『文楽の家』にてこのように語っている。

「私の親は八代竹本綱太夫師匠に私の指導をお願いし、師匠は厳しく厳しく芸を教えてくださいました。おかげをもちまして師匠のお名前を継ぐことができ、十五年間名乗らせていただきましたが、その間にありがたいことにいろいろと栄誉にも浴しました。私がこんにち在ることを考えますと、師匠のご恩、先輩のご恩、また、祖父や父母、家族の恩を深く感じます。倅も彼の祖父、すなわち私の父・藤蔵に対するあこがれがございまして、いつの日か芸名を継承いたしたく修業しておりましたが、このところ周囲よりのお勧めも高まり、襲名が具体化してまいりました。私は祖父、源太夫の芸名も世に出したくかねがね考えておりましたが、この機会に家族で考えまして、私が名乗ってまいりました師匠のお名前は、師匠のお宅へお返しに上がり、親子で尾崎の家の先祖が名乗った芸名を継ぐことにいたしました。九代竹本綱太夫改め、九代竹本源太夫。五代鶴澤清二郎改め、二代鶴澤藤蔵。このたびその襲名をご披露させていただきます。」

「九代綱太夫を名乗らせていただき、十五年間なんとかやってまいりましたが、いつぽう、祖父の芸名「源太夫」が気になり始めました。「綱太夫」という名前は、太夫の芸名の数ある流れの中で、ひとつの頂点に立つ名前です。しかし、私は、源太夫というかつて尾崎家で名乗りました名前を今一度世に出したいと思うようになりました。まあ祖父へのあこがれと申しましょうか……。息子が清二郎から父の名である「藤蔵」の二代目を襲名する機会に、私が源太夫の九代目を継ごう―と決心しました。ここへきて源太夫を襲名しようという気持ちになったということは、やはり母の魂がまだこの辺にいるのでしょうか……。母は亡くなる前、「源太夫という名前は、あんたがこれと思うお方があったら、継いで貰ろうたらよろしいわナ」と言い遣してあちらへ逝きました。同様に「藤蔵」の名前も、今生きていたら息子に、「おじいちゃんの名を継いだら」と言っていたに違いありません。平成二十二年(2010年)の正月公演千穐楽の日に、うちの師匠のご子息、豊竹咲太夫君に、正式にこの旨を申し上げ、二月に記者会見をしまして、皆様にお知らせしました。」[32]

しかし、平成26年(2014年)7月14日「芸への情熱は薄れることなく 舞台復帰のため懸命に努力してまいりましたが 気力体力の衰え如何ともし難く 引退を決意した次第」と引退を発表。翌平成27年(2015年)7月20日逝去。戒名 慈徳院釋源信。墓は四天王寺元三大師堂「尾崎累代之墓」の中に祖父・父と共に眠っている。[35]

平成2年(1990年)大阪府知事表彰、平成4年(1992年芸術選奨文部大臣賞、平成6年(1994年紫綬褒章、平成8年(1996年)京都府文化賞功労賞、平成9年(1997年)大阪舞台芸術賞、平成15年(2003年日本芸術院賞、平成16年(2004年)大阪芸術賞、平成19年(2007年)、重要無形文化財保持者人間国宝)認定、平成21年(2009年)旭日小綬章ほか受賞多数。

妻は小唄の春日流「春日とよ子」で、「竹本織太夫・春日とよ子の会」を昭和54年(1979年)11月より平成7年(1995年)10月までの10回開催。綱太夫襲名後は、「竹本綱太夫の会」を3回開催している。

著書に『織大夫夜話―文楽へのいざない』(1988年)『文楽の家』(2011年)がある。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 八代目竹本綱大夫『でんでん虫』. 布井書房. (1964) 
  2. ^ a b c d e f 神津武男 (2017). “『摂州合邦辻』下の巻切「合邦内」現行本文の成立時期について―二代竹本綱太夫の添削活動について―”. 歴史の里 20: 20-44. 
  3. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1263972059870158849” (日本語). Twitter. 2020年9月15日閲覧。
  4. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1263970608095703040” (日本語). Twitter. 2020年9月15日閲覧。
  5. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1240478981020733442” (日本語). Twitter. 2020年9月15日閲覧。
  6. ^ 【岩波講座】歌舞伎・文楽 第9巻 黄金時代の浄瑠璃のその後. 岩波書店. (1998/3/20) 
  7. ^ 【対談】「文楽」で大阪を再起動する/CEL【大阪ガス株式会社 エネルギー・文化研究所】”. www.og-cel.jp. 2020年9月14日閲覧。
  8. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1227357707335655424” (日本語). Twitter. 2020年9月15日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j 四代目竹本長門太夫著 法月敏彦校訂 国立劇場調査養成部芸能調査室編『増補浄瑠璃大系図』. 日本芸術文化振興会. (1993年-1996年) 
  10. ^ a b 竹本豊竹 音曲高名集”. www.ongyoku.com. 2020年9月14日閲覧。
  11. ^ 吉永孝雄『私説 昭和の文楽』. 和泉書院. (1995年5月20日) 
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