竹本紋太夫

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竹本 紋太夫(たけもと もんだゆう)は、義太夫節の太夫。江戸中期より九代を数える。 四代目が三代目竹本綱太夫を襲名して以降、その門弟が紋太夫を襲名していることから綱太夫系の名跡として知られる。

初代[編集]

(生年不詳 - 寛延3年(1750年)4月16日)

初代竹本紋太夫 → 初代竹本上総太夫(豊竹座出演時は豊竹上総太夫を名乗る)

初代竹本政太夫事二代目竹本義太夫(竹本播磨少掾)の門弟。[1]

元文6年(1741年)正月 竹本座『伊豆院宣源氏鑑』にて初出座(同芝居で竹本百合太夫も初出座)[2]。寛保元年(1741年)5月 竹本座『時代世話 新うすき物語』の初演にて大序と道行のツレを語る。延享元年(1744年)11月 竹本座『ひらかな盛衰記』にて大序と道行のシンと、五段目竹本播磨少掾追善出語 八曲篋掛絵節事を勤める。[1]この公演について、『浄瑠璃譜』には「右相勤。此時錦太夫・杣太夫出座し、是も出語り相動、はなはだ大入り也。播磨少掾死去の後、浄瑠璃のれつを定め、初段の切錦太夫、貳の切政太夫、三の切此太夫、四の切島太夫、其外紋太夫・百合太夫・杣太夫・其太夫、いづれも浄瑠璃の高下にて役場を割、三絃は鶴沢友次郎・同平五郎、人形は、吉田文三郎・同才次・桐竹助三郎・同門三郎・山本伊平次、是らにて相勤たり」とある。[3]

延享2年(1745年)2月 竹本座『軍法富士見西行』にて序切の大役を勤める。同年7月竹本座『夏祭浪花鑑』初演では、「第二殿の諚意を巻込だおやま絵の拝領物」と「第五道行いもせの走書」を勤める。延享3年(1746年)正月 竹本座『楠昔噺』初演にて「旗印公家之短冊 附リ七月七夕おどりの事 段切」を勤め、竹本座を退座[1]と『増補浄瑠璃大系図』には記載されているが、同年8月 竹本座『菅原伝授手習鑑』初演にては「道行詞甘替」「二段目 杖折檻の段」「五段目 大内天変の段」を勤めている。[2]

延享4年(1747年)2月 豊竹座『裙重紅梅服』にて竹本紋太夫改豊竹上総太夫として出座し、上の巻の切を語る。しかし、前年11月豊竹座『花筏巌流島』にも豊竹上総太夫の名前があることから、豊竹座出演はこの時からであったと考えられる。寛延元年(1748年)8月 竹本座『仮名手本忠臣蔵』初演時のいわゆる「忠臣蔵騒動」で竹本座へ復帰し、竹本上総太夫を名乗る。寛延2年(1749年)7月 竹本座『双蝶々曲輪日記』の初演で「第四大ほうじ町のたて引に きやうだいのちなみ(米屋)」を語る。同年11月 竹本座『源平布引滝』の初演では、「大序」「二段目 切 義賢館」を語り、この端場(二段目 中)を二代目竹本政太夫が語る。「三段目 段切 九郎助住家」では、中を上総太夫が、切を政太夫がそれぞれ勤めたが、病に倒れ、寛延3年(1750年)4月16日に死去。墓は大坂法善寺と伝わる。戒名は誉音弘覚睡信士。[1][2]

『浪花其末葉』には「上上吉 豊竹上総太夫紋太夫事 大臣「此人竹本座にて紋太夫(初代)と申て、是迄評判よくお勤めなされ、此度上総太夫と改め豊竹座へ御すみ、相かはらず何ンでも御功者に、しつかりとして人々のうけもよく、実(み)をいれて語り給へば、きめなどもよふきくゆへ、次第に御出世、先達て『手ならひ鑑』の道行、二の口など語られた、それより此度などは、なを/\聞増ておもしろふ覚へまする、」とある。[4]

二代目[編集]

(生没年不詳)

二代目竹本紋太夫

通称:堺屋半兵衛。初代の門弟。芝居への出座を師の初代紋太夫に願うも、寛延3年(1750年)4月16日に死去したため、二代目竹本政太夫に頼み込み門弟となる。同年11月竹本座 『文武世継梅』「三段目 道行」の初代竹本長門太夫のツレ、「五段目」を勤め、二代目竹本紋太夫として初出座。『浄瑠璃譜』に「はなはだ不入。此時二代目の紋太夫始て出座。」とあるように、芝居は不入りであった。[3]

宝暦7年(1757年)竹本座『姫小松子日の遊』では「二段目 口」「三段目 奥(中)」を勤め、『操西東見台』に「此度姫小松のニノロ次郎九郎のことばかなふ御語り。まくまへの文弥。道具や。何れもやう付ました。後三ノ中。申やうなき語うち。ニノロとは。はるかのきてのふし付ヶ」と絶賛されている。同年以降休座と出座を繰り返し、宝暦11年(1761年)10月『冬籠難波梅』にて「いとまごひ 四季の放下僧」を10日間勤め、退座。それよりは出座せず、弟子の初代竹本倉太夫に竹本紋太夫の名跡を三代目として譲ったが、没年は不詳[1][2]

三代目[編集]

(生年不詳 - 寛政5年(1793年)12月3日[5]

初代竹本倉太夫 → 三代目竹本紋太夫(豊竹諸座や江戸肥前座、外記座出演時には豊竹紋太夫を名乗る)

二代目の門弟。通称:此村屋治兵衛。明和2年(1765年)9月 竹本座『姻袖鏡』にて大門口の段を語り初代竹本倉太夫を名乗り初出座と『増補浄瑠璃大系図』は記すが[1]、同年6月 竹本座『御祭礼棚閣車操』にて「座摩もみぢかり剣本地」を竹本文太夫のツレを語る竹本倉太夫の名前がある。[2]

明和4年(1767年)12月 竹本座『三日太平記』にて「三日太平記此時序切の大役を勤め追々評判宜敷尤此人古今の上手にて今に此村屋の一流を残す也」と大評判を取る。[1]この後、江戸にて紋太夫名跡を三代目として襲名する[1]。襲名の時期は明らかでないが、『伊勢歌舞伎年代記』に明和5年(1768年)「倉太夫 後江戸ニテ紋太夫」、安永2年(1773年)「後ニ紋太夫 倉太夫」と記述があり[2]、『増補浄瑠璃大系図』では同年8月 竹本座(道頓堀大西芝居)『島原千畳敷』にて竹本紋太夫が大阪へ下り、二冊目掛け合いと四冊目の切と七冊目の奥を勤めたと記載があることから[1]、遅くとも安永2年(1773年)には三代目竹本紋太夫を名乗っていたことがわかる。

また、安永4年(1775年)9月 名古屋 若宮御社地興行『妹背山婦女庭訓』にて二段目 切、道行、四段目 切を語っており、『評判鶯宿梅』に「豊竹紋太夫 去る安永四年の秋、尾州名古屋若宮八幡の社内におゐて七月朔日より女庭訓、岡太夫と三段目切かけ合、役場は二の切、九月潜りより剣の紅葉縁切の場古今の大あたりにて有しとなり」と記述がある(妹背山の役場には相違がある)[2]。翌安永5年(1776年)同芝居『倭歌月見松』にも出演している。

更に、安永7年(1778年)正月 江戸肥前座『菅原伝授手習鑑』の番付に「御目見 下り 豊竹紋太夫」と記されていることから、名古屋から江戸に下ったことがわかる。[2]また『評判鶯宿梅』に「豊竹紋太夫其後安永七年当地へ初て下られ、菅原三の切の出詔は、諸人きもをおどろかしたる事、言語に絶したり」とあり、『義太夫執心録』には「紋太夫安永七戌ノ春肥前座へ下られ目見へ菅原三の切茶せん酒より切迄此評判大体成し」とあるように[2]、『菅原伝授手習鑑』三段目切を語り大評判を取っている(番付に「下り 豊竹倉太夫」の名前があることから[2]、倉太夫の名跡を門弟へ譲っていることがわかり、『増補浄瑠璃大系図』の「倉太夫名前は後に鐘太夫清右衛門に譲り」という記述と一致する[1]

安永8年(1779年)江戸外記座『田村麿鈴鹿合戦』の番付には「名代 薩摩屋小平太」「座元 豊竹新太夫」に続き「後見 豊竹紋太夫」と記されている。安永9年(1780年)正月江戸外記座『碁太平記白石噺』の番付に「紋太夫義大坂表へ罷登り申候筈之処達而相とめ」とあり、紋太夫の人気ぶりが窺える。『義太夫執心録』の「紋太夫 中の芝居で白石の五シ目とセツめヲゝホゝでどっと嬉しがらせサハリから惣六の意見迄近来稀成大評判其時隣芝居は大物揃ひ住筆氏内匠と下り伊太夫なれとも紋太にひしぎ付ヶられて春より五月節句迄名題看板が五度替りしと云」との記述からあまりの評判に5月まで演目が5回も変わったことがわかる。同年9月甲府での興行『ひらかな盛衰記」では「座元 豊竹紋太夫」と番付にあり、紋下に座っている。

その後、江戸にて活躍するが、寛政2年(1790年)正月 名古屋稲荷御社内『石田詰将棋軍配』にて第三 中と第七 奥を語っており、名古屋での出演が確認できる。その後も名古屋の同座に出演したが、同年10月「天網島紙屋の段 切」を語り名古屋を後にする。[6]

寛政3年(1791年)3月 大坂北堀江市の側芝居(豊竹此母座)にて「御目見江浄瑠璃」と謳い『増補天網島』「紙屋の段 切」(口は豊竹岡太夫)を語り大坂へ上る。[6][7]同芝居の辻番付に口上があり「太夫 江戸 竹本紋太夫事豊竹紋太夫 三味線 江戸 野澤庄次郎 罷出相勤申候」と記されている。[6][7]

寛政4年(1792年)正月四条南側芝居『妹背山婦女庭訓』では、二段目 中と三段目カケ合(妹山)を語る。この『妹背山婦女庭訓』には二代目竹本綱太夫二代目竹本濱太夫(後四代目紋太夫から三代目綱太夫)が同座している。翌2月同座『木下狭合戦』では「太夫 竹本紋太夫」と紋下に座っている。その後大坂での出演が続くが、寛政5年(1793年)には名古屋稲荷御社内に出座し、4月『花上野誉の旧跡』にて第三 中と第七 切を語ったのが、番付上は最後の出演歴とされる。[7][6]

同年12月3日に死去。戒名は釋了樹信士[5]。両国回向院に昭和5年(1930年)10月に因會が再建した墓碑が現存する(元々の墓碑については、『夢跡集』に掲載がある[8]

三代目竹本紋太夫墓

神津武男「『時雨の炬燵』成立考―三代竹本綱太夫の添削活動について―」によれば、『増補天網島』「紙屋の段」を紋太夫が江戸で上演した際に刊行されたと推定される江戸板六行本が現存している。[7]「内題「増・補/天網島紙屋の段 豊竹紋太夫改章」、前表紙に「豊竹紋太夫改章 増補天網島 上 紙屋の段」と記す。江戸「本材木町一丁目西宮新六板」(前表紙)。ただし上冊のみが残(る)」とし、変更点を「第一に『置土産今織上布』の拡大した人物関係を、原作『心中天の網島』の範囲に収め直すこと」「第二の変更点は、銀貨から金貨への変換(略)銀貨の換算は上方の観客には嫌が上にも真実味を増す要素となったと考えるが(近世期上方では銀貨、江戸では金貨が通用した)、江戸の観客に合わせて金貨に改めている」としている。紋太夫名跡の後継者である三代目竹本綱太夫も『時雨の炬燵』「紙屋の段」―原題 二代目綱太夫著『増補紙屋治兵衛』※四代目竹本紋太夫章(京板)※竹本綱太夫章(大坂板)として「時雨の炬燵」を著している。[7]

『音曲高明集』には、「前名倉太夫 二代目竹本紋太夫 此村屋治兵衛と云 取分け江戸ニ而評判よく、中にも生涯の内評判の戯題、白石噺五ッ目七ツ目 伊達競とうふや土ばし 花上野品川 増補紙屋治衛内の段」とあるが[9]、上記の通り此村屋治兵衛は三代目であるため、この項では三代目とする。

四代目[編集]

宝暦12年(1762年)- 没年不詳)

二代目竹本濱太夫 → 四代目竹本紋太夫 → 三代目竹本綱太夫 → 竹本三綱翁

本名:人見万吉。大菱屋万右衛門とも。通称:飴屋。紋は「抱き柏に隅立て四つ目」(以来竹本綱太夫の定紋となる)

二代目竹本綱太夫の門弟。二代目濱太夫、四代目紋太夫を経て、文化3年(1806年)11月京四条寺町道場芝居にて三代目竹本綱太夫を襲名。襲名披露狂言は二代目綱太夫著の『花上野誉石碑』「志渡寺の段」、文化4年(1807年)正月には大坂でも披露。文政六年(1823年)には紋下となり、天保5年(1834年)に弟子の二代竹本むら太夫に四代目竹本綱太夫を襲名させ、自身は天保7年(1836年)に竹本三綱翁を名乗り引退した。[10][11]その語り口は「天晴名人にて一流を語る飴屋風(三代目綱太夫風)」と評される。[1]

初代・二代の衣鉢を継ぎ、前名四代目紋太夫時代の『時雨の炬燵』「紙屋の段」を皮切りに(師匠二代目綱太夫の『増補紙屋治兵衛』「紙屋の段」が基)、文化5年(1808年)9月大坂御霊社内芝居にて『艶容女舞衣』「酒屋の段」を安永元年(1772年)の初演以来36年ぶりに上演(半兵衛の咳とお園が剃刀で自害仕掛ける件を追加)、文化12年(1815年)京四条道場芝居にて『関取千両幟』「猪名川内の段」を(主人公名を岩川から猪名川へ変更)、文化14年(1817年)大坂いなり境内芝居『薫樹累物語』「土橋の段」を、文政7年~文政8年(1824年1825年)の江戸結城座上演時に『本朝廿四孝』「勘助住家の段」をそれぞれ著している。[7]

「酒屋」の半兵衛の咳については、二代目古靱太夫(山城少掾)が文化5年の上演時の番付に「三世飴屋綱太夫也此時半兵衛ノセキの工夫有テ入ル」と書き込みをしている。[12]

師匠二代目綱太夫場(風)である『勢州阿漕浦』「平次住家の段」『摂州合邦辻』「合邦住家の段」『花上野誉石碑』「志渡寺の段」を得意とし、『伊賀越道中双六』「岡崎の段」『ひらかな盛衰記』「逆櫓の段」『彦山権現誓助剱』「毛谷村の段」『新版歌祭文』「野崎村の段」を主な当り役とした。[11]

江戸の曳尾庵が記した『我衣』の文政7年(1824年)の条に、「綱太夫ノ甚面白キ語リ口ニテ、素人婦女ノウツツヲヌカサセタリ」とあるように、飴屋風とは、太夫にとっては非常に語りづらく、難しいものである反面、逆に観客にとってはとてもわかりやすい、受けの良いものであったと推察される。[11]

京都東山長楽寺に竹本綱太夫塚という碑が建てられている。これは文政四年(1821年)に子徳と号する越前の医師が建立したもので、その碑文に門弟の数は「百有余人」とある。

墓は現存しないが、専定寺が人見家の菩提寺であり、抱き柏に隅立て四つ目を刻む墓碑があったと伝えられている。

五代目[編集]

竹本桐太夫 → 五代目竹本紋太夫

四代目(三代目竹本綱太夫)の門弟。

『増補浄瑠璃大系図』に「三代綱太夫門弟にて東京にて紋太夫と改彼地古老と成」とある。[1]

六代目[編集]

三代目竹本濱太夫 → 六代目竹本紋太夫

四代目(三代目竹本綱太夫)の門弟。

『増補浄瑠璃大系図』に「三綱翁門弟にて師に付添芝居出勤有共委敷は追て調て出すなり、後紋太夫」とある。[1]

七代目[編集]

(生没年不詳)

竹本阿蘇太夫 → 七代目竹本紋太夫

万延元年(1860年)8月 座摩社内『奥州安達原』「朱雀野ノ段」にて阿蘇太夫事七代目竹本紋太夫を襲名。

『増補浄瑠璃大系図』では、五代目竹本綱太夫欄に「天保十三年寅九月北の新地芝居にて竹本紋太夫と改」とあるが、①阿蘇太夫が紋太夫を襲名した芝居に、五代目綱太夫は前名の竹本対馬太夫として出座しているため、もし紋太夫を名乗っていた時期があるとすれば、対馬太夫よりも前となること、②嘉永4年(1851年)3月改正「次第不同 三都太夫三味線操改名録」にて竹本津島(対馬)太夫の改名歴が「芝太夫 綱戸太夫 加太夫」となっていること(即ち紋太夫がない)、③同改名録に「浜太夫 江戸 竹本紋太夫」と三代目竹本濱太夫から六代目竹本紋太夫を名乗った人が掲載されていること(即ち対馬太夫を名乗る時点でまだ六代目紋太夫がいた)ことから、本項では五代目竹本綱太夫が七代目竹本紋太夫を名乗っていたのではなく、竹本阿蘇太夫を七代目竹本紋太夫とする。[1][13]

八代目[編集]

竹本淀太夫 → 八代目竹本紋太夫

竹本山城掾(二代目竹本津賀太夫)門弟。慶応2年(1866年)9月四条道場北の小家「矢口渡 頓兵衛住家の段」にて淀太夫事八代目竹本紋太夫を襲名(同公演で阿蘇太夫事六代目竹本むら太夫も襲名)[1]

「八代目紋太夫元淀太夫京之太夫也/死去年月日行年不明」と豊竹山城少掾は書き残している。[14]

九代目[編集]

詳細は不明ながらも、豊竹山城少掾が「紋太夫ハ九代目迄御座ります」と書き残していることから、九代目竹本紋太夫が存在したことは確認できる。

八代目紋太夫の前名「淀太夫」名跡の後継者である竹本津磨太夫から竹本淀太夫を名乗った人[15]が、九代目紋太夫を継承した可能性が考えられる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 四代目竹本長門太夫著 法月敏彦校訂 国立劇場調査養成部芸能調査室編『増補浄瑠璃大系図』. 日本芸術文化振興会. (1993年-1996年) 
  2. ^ a b c d e f g h i j 『義太夫年表 近世篇 第一巻〈延宝~天明〉』八木書店、1979年11月23日。
  3. ^ a b 情報31 竹本豊竹浄瑠璃譜”. ongyoku.com. 2021年2月28日閲覧。
  4. ^ 浪花其末葉”. www.ongyoku.com. 2021年2月28日閲覧。
  5. ^ a b 義太夫関連 忌日・法名・墓所・図拓本写真 一覧”. www.ongyoku.com. 2021年3月2日閲覧。
  6. ^ a b c d 『義太夫年表 近世篇 第二巻〈寛政~文政〉』八木書店、1980年10月23日。
  7. ^ a b c d e f 神津武男 (2017). “『時雨の炬燵』成立考―三代竹本綱太夫の添削活動について―”. 早稲田大学高等研究所紀要 9: 1-42. https://www.waseda.jp/inst/wias/assets/uploads/2017/03/RB009-121-162.pdf. 
  8. ^ 夢跡集. [19 - 国立国会図書館デジタルコレクション]” (日本語). dl.ndl.go.jp. 2021年3月2日閲覧。
  9. ^ 竹本豊竹 音曲高名集”. www.ongyoku.com. 2021年3月2日閲覧。
  10. ^ 神津武男 (2018). “『関取千両幟』「猪名川内」現行本文の成立時期について―本文と「櫓太鼓」「曲引」演出の三次の改訂とその時期―”. 歴史の里 21: 21-36. 
  11. ^ a b c 八代目竹本綱大夫『でんでん虫』. 布井書房. (1964) 
  12. ^ 義太夫年表 近世篇 第2巻 本文篇 寛政~文政. 八木書店. (1979-11-23) 
  13. ^ 『義太夫年表 近世篇 第三巻下〈嘉永~慶応〉』八木書店、1982年6月23日。
  14. ^ “鴻池幸武宛て豊竹古靱太夫書簡二十三通 - 鴻池幸武・武智鉄二関係資料から-”. 演劇博物館紀要. (2012). https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=27345&file_id=162&file_no=1. 
  15. ^ 竹本淀太夫”. www.ongyoku.com. 2021年2月23日閲覧。