一龍斎貞山

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一龍斎 貞山(いちりゅうさい ていざん)は、講釈師の名跡。

初代[編集]

本名:中村貞之助、寛政11年(1799年) - 安政2年9月2日1855年10月12日)。享年57。

初代錦城斎典山の門下。隻眼だったために同じ隻眼の伊達政宗法名の「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」に因んで貞山と号した。

得意演目は「伊達評定」。

2代目[編集]

天保10年(1839年) - 明治7年(1874年3月14日。享年36。夭折。

姓:杉江、名:不明。江戸の生まれ、元は幕府の小禄の士。初代の門下で初代双龍斎貞鏡初代真龍斎貞水を経て2代目一龍斎貞山を襲名。

矢ノ倉に住み。俗に「矢ノ倉の貞山」という。世話物を得意とした。

1858年に「岩見重太郎実記」を上梓。

3代目[編集]

本名:内山孝七(孝吉とも)、天保6年(1835年) - 明治22年(1889年3月21日。享年55。

初代伊東潮花に入門して花林。話術ない事で破門を宣告され2代目貞山の門下に転じ、初代邑井貞吉となって真打に昇進。1874年に師匠が夭折し、3代目一龍斎貞山を襲名。講談組合の大看板。1885年に弟子に4代目一龍斎貞山の名を譲り、自ら初代錦城斎一山を襲名した。

「義士伝」「黒田騒動」「石山軍記」等を読んだ。俗に源頼朝に風貌がそっくりだった為「頼朝公」と言われた。また尊敬す人は大石内蔵助であった。

墓は渋谷区千駄ヶ谷の高雲山瑞円寺にある。戒名は一山真透居士。

4代目[編集]

本名:杉江勝太郎、安政元年(1854年) - 明治23年(1890年5月19日。享年37。

地方廻りの講釈師を父に持ち、3代目一龍斎貞山に入門し初代一龍斎貞花から初代昇龍斎貞丈を経て1885年に師が初代錦城斎一山に改名に伴い4代目一龍斎貞山を襲名するが間もなく夭折した。

5代目[編集]

本名:青山 獄次郎、文久4年2月3日1864年3月10日) - 昭和10年(1935年1月7日。享年72。

江戸の生まれ、母は娘義太夫の竹本越花。14歳の時にたまたま聞いた3代目貞山の「曽我物語」に感銘を受け弟子入り、その後4代目貞山門下。2代目貞花、2代目貞丈を経て、1890年明治23年)に5代目貞山、1907年明治40年)に弟子の貞丈に貞山を譲り3代目錦城斎典山を襲名。俗に「名人典山」「お玉ヶ池の先生」。

次男は花柳流舞踊家人間国宝2代目花柳壽楽

6代目[編集]

本名:桝井 長四郎(ますい ちょうしろう)、東京府生れ。明治9年(1876年11月26日 - 昭和20年(1945年3月10日

大正から昭和初期に、3代目神田伯山2代目大島伯鶴と共に売り出し確固たる地位を築き、ラジオ放送の出演回数もトップクラスだった。

多様な演目を持っていたが中でも「義士伝」はお家芸であった。

また、講釈師であるのに、講釈の席はもちろん「落語協会」の頭取をつとめて勢力をふるい、出世するのも落ち目になるのも貞山次第という勢いだった。色物の寄席にも積極に出演。

講談落語協会会長も歴任。流れるような名調子からあだ名を「水道の蛇口」。

7代目[編集]

七代目貞山(1955年)

本名:佐藤 貞之助(さとう ていのすけ)、東京府生まれ。明治40年(1907年6月2日 - 昭和41年(1966年12月7日、東京市猿江尋常小学校(現在の東京都江東区立毛利小学校)[1]卒業。

道具仕掛けの怪談物を得意とし「お化けの貞山」の異名を取った。また講談組合の副頭取を長らく務めた。

落語家の5代目古今亭志ん生の芸を、その無名時代から高く評価し、何かと援助した事でも知られる。

8代目[編集]

本名:小村井 貞夫(こむらい さだお)、東京都牛込生まれ。昭和22年(1947年9月3日 -

実の娘は一龍斎貞鏡

脚注[編集]

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  1. ^ 元々は深川区深川猿江町(現在の江東区猿江)のに建てられていたが、関東大震災で校舎内部全焼したため、同区猿江裏町(現在の江東区毛利)に新校舎移転し、現在に至る。