浦和レッドダイヤモンズ
浦和レッドダイヤモンズ | |
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原語表記 | 浦和レッドダイヤモンズ |
呼称 | 浦和レッズ |
愛称 | レッズ |
クラブカラー | レッド[1] |
創設年 | 1950年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | J1リーグ |
クラブライセンス | J1 |
ホームタウン | 埼玉県さいたま市[1] |
ホームスタジアム | 埼玉スタジアム2002[1](2009年J1第12節)さいたま市浦和駒場スタジアム[1] |
収容人数 |
埼玉:63,700[1] 駒場:21,500[1] |
運営法人 | 浦和レッドダイヤモンズ株式会社[1] |
代表者 | 淵田敬三[1] |
監督 | ミハイロ・ペトロヴィッチ |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
336-8505 埼玉県さいたま市緑区中野田500[1] |
設立 | 1992年7月17日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 9030001008072 |
事業内容 | サッカークラブの運営他 |
代表者 | 淵田敬三 |
資本金 | 1億6,000万円[2] |
売上高 | 57億8,600万円 (2014年1月期)[2] |
営業利益 | 1億5,300万円 (2014年1月期)[2] |
経常利益 | 1億6,100万円 (2014年1月期)[2] |
純利益 | 9,200万円 (2014年1月期)[2] |
純資産 | 6億2,000万円 (2014年1月期)[2] |
総資産 | 12億7,900万円 (2014年1月期)[2] |
決算期 | 1月期 |
主要株主 |
三菱自動車工業 50.63% さいたま市 5% 埼玉県 5%他[3] |
外部リンク | http://www.urawa-reds.co.jp |
浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、Urawa Red Diamonds)は、日本の埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)である。
概要
三菱重工業サッカー部(1950年創部)が前身であり、1991年にJリーグ加盟した10チームの一つ(オリジナル10)。ホームタウンはサッカー王国・静岡県と並び立つサッカーどころである埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002[1]、練習グラウンドはさいたま市大原サッカー場である[1]。チーム名は「ダイヤモンド」の最高の輝き、固い結束力に由来し[1]、クラブカラーである「レッド」[1] と組合わせたものである。なお、三菱グループのマークのスリーダイヤモンド・三菱自動車のイメージカラーである赤もモチーフとなっている。
国内3大タイトル(J1リーグ、天皇杯、ナビスコカップ)の全てを獲得しているクラブの一つ。獲得タイトル数(日本国内外)はJリーグ全加盟クラブ中6位である。また、観客動員と営業収入はいずれもJリーグ加盟クラブで最多である(当項目を参照のこと)。
経営母体・来歴
- 1950年 - 中日本重工業サッカー部(後の三菱重工業サッカー部)創立
- 1992年 - 4月、株式会社三菱自動車フットボールクラブ設立。(クラブの歴史については別項を参照。)
- 1993年 - 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足
- 1996年 - 2月、クラブ名を「浦和レッドダイヤモンズ」に改名
- 2005年 - 2月、埼玉スタジアム2002内に本社移転
- 運営会社は当初三菱自動車工業の完全子会社として発足したが、1996年12月に埼玉県および浦和市(当時)(第3セクター化)、2000年12月に地元企業の埼玉縣信用金庫、藤島建設、藤島住宅、エコ計画が出資。また、地元企業以外では三菱グループ7社とトーシンパートナーズなどが出資している。
- 現在の出資比率は筆頭株主が三菱自動車工業(出資比率50.625%)。なお、三菱グループ7社を除くその他の出資者で40%強。[4]。
クラブの経営状況
背景・分析
Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。
- 過去に13シーズン(1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降)でJリーグ観客動員1位を記録。2007年はカップ戦(ナビスコ杯4試合、ACL6試合)を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月3日FC東京との試合で1000万人を動員した。
- 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[5])、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2,000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
- ユニフォームサプライヤーは1997年のUMBROを除き過去一貫してプーマであったが、2004年からナイキが独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。
地域への貢献
- 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5,000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグのさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
- 埼玉県内における浦和レッズがもたらす経済波及効果 [1] は、年間127億円(2006年度ベース)[6]。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーターの交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている [2]。これにはスカパー!(スカパー!プレミアムサービス含む)や、ケーブルテレビ等のJリーグ有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。
- 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一、土橋正樹、宮沢克行ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
- Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館の指定管理者となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
- そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。
国際交流
- アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。[7] 予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
- 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード(スペイン)、チェルシー(イングランド)、ACミラン(イタリア)、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
歴史
浦和レッドダイヤモンズ発足まで
浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研サッカー部を母体にし、本田技研狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工の森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた[8][9][10]。
三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。
こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した[9][10]。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出された。
1990年代
1992年 - 1994年
- 1992年 - Jリーグ開幕前に開催されたナビスコ杯に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯はベスト4へ進出した。
- 1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:V川崎)の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の森孝慈は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。
- 当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、1994年のセカンドステージからギド・ブッフバルトやウーベ・バインが加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。
- 1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。
- 1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節(横浜マリノス戦)は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより富山県総合運動公園陸上競技場で開催。
1995年 - 1998年
- 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
- 同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
- その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。1997年、ブッフバルトが退団。1998年は三菱OBの原博実が監督の下、新加入の小野伸二を擁して2ndステージで3位となった。
1999年
- 小野や福田、外国人選手の故障、前年に好成績を残したことにより補強はいらないというフロントの判断で成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原を更迭、後任にア・デモスを迎えるが、最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で年間順位15位でJリーグ ディビジョン2(J2)へ降格し、「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。シーズン途中に中村忠、路木龍次、フェルナンド・ピクン、中谷勇介を獲得、また留学していたカールスルーエSCから永井雄一郎を、練習生としてアヤックスに参加していた岡野雅行を呼び戻すも結果には結びつかなかった。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事はテレビや新聞、雑誌などでも特集された。
2000年代
2000年(J2)
- J2で迎えた2000年シーズンは鹿島アントラーズから阿部敏之、室井市衛を獲得するなど序盤は圧倒的な攻撃力で勝ち点を伸ばし首位を独走するも、中盤から終盤にかけ苦戦が続き、一時は3位に順位を落とした。この危機的状況に、急遽横山謙三をゼネラルマネージャーから総監督に昇格させて指揮をとらせた。またアジエル・デ・オリベイラ・アモリムを獲得し終盤に勢いをつけ、最終節のサガン鳥栖戦に土橋正樹の延長Vゴールで勝利して、3位大分トリニータとの勝ち点差わずか1ながらも2位でJ1への復帰を決めた(2000年J2最終節を参照)。
2001年
- それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更を図ったが、ブラジルに強力なコネクションはなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノは全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍。川崎からエメルソンを獲得した。2ndステージも成績は振るわず、終盤5試合連続無敗(2勝3分け)により何とかJ1残留を果たした。
- 10月13日に埼玉スタジアム2002での杮落し(横浜FM戦)が行なわれ、観客動員は当時のJリーグ記録となる60,553人とリーグ戦初の6万人試合となった。なお、埼玉スタジアムは2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。
2002年
- 森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う[11][12][13]。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
- 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。
2003年
- チームスローガン:GO ON SAILING
- 11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。
- J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。
- 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
- 3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼の要求に関して大きく揉めた。その結果、オフトは、シーズン終了後に解任された。
2004年
- チームスローガン:速く、激しく、外連味(けれんみ)なく REDS GO MARCHING ON
- 浦和OBのギド・ブッフバルトが監督に就任し、ヘッドコーチにゲルト・エンゲルスを迎える。ナビスコ杯は決勝でFC東京に敗れたが、第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
- 駒場で行なわれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたりバイクでパレードをするなど過熱化したが、ケガ人や逮捕者は出なかった。
- 12月5日・12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第1戦は横浜に0-1で敗れるも第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利し延長戦に突入。延長でも決着がつかずPK戦までもつれた末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦年間総合成績では初めて1位となった。
- 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。
2005年
- チームスローガン:速く、激しく、外連味なく 〜TAKE OFF TOGETHER NOW !〜
- 開幕直前に山瀬功治が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サッドへ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も味わい、スタートダッシュに失敗。それでも途中からMFロブソン・ポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強して最終節まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝ち点差1の勝ち点59で2年連続の年間2位となった。得点はG大阪(82得点)に次ぐ65得点。更にリハビリから復帰した坪井慶介や2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王とシーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍でリーグ最少失点の37失点と、前半戦の苦しい戦いから見れば上々といえる内容であった。天皇杯はマリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾り、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝した。
- 2005年2月にさいたまレイナスFCを母体として女子チーム「浦和レッドダイヤモンズ・レディース」が発足。7月、レッズランドが仮オープンした。
- 2005年度より損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消。地域との結びつきを強めるための増資計画が公表されたが、2009年4月の時点で増資の予定は無いとリリースした[14]。
2006年
- チームスローガン:RAISE YOUR SPIRITS! 〜速く、激しく、外連味なく〜
- 東京Vを契約満了となったFWワシントンとMF相馬崇人を完全移籍で、C大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更にフェイエノールトから小野伸二が2001年以来約5年ぶりに復帰した。
- FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に3-1で勝利し、初めて同タイトルを獲得(前身の三菱重工時代にスーパーカップで3度優勝)。また、ホーム開幕戦の磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月にはフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
- ホーム開幕戦でJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数が500万人を突破した。これはJリーグ加盟クラブ初。
- 前年はスタートダッシュの失敗が結果的にリーグ優勝を逃す要因となったが、この年は開幕から好調を維持して着実に勝ち点を積み上げ、第3節以降は常に3位以内をキープすると、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ってからは1度も明け渡すことはなかった。最終節は2位のG大阪とリーグ優勝をかけた直接対決で、「勝ちまたは引き分け、もしくは得失点差が2点差以内の負けで優勝」という絶対的優位な条件の中で、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍で3-2で制し初のJリーグ優勝を果たす[15]。J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。
- リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成。また、優勝を決めた最終節の観客動員は62,241人と当時のJ1リーグ戦最多記録となった[16]。
- 天皇杯では決勝でG大阪を1-0で下してJリーグ開幕後初の天皇杯連覇を達成。同時にJリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成し、2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なお、選手・監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルトがこの試合を最後に監督を退任した。
- クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が10月にスタート。社長は藤口光紀に交代した。
2007年
- チームスローガン:Sing out Together Heartily
- 国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。
- 開幕前にオーストリアのザルツブルクで行われたBulls Cupに出場。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツのバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、レッズはザルツブルクに1-3、バイエルンに0-3と大敗した。この結果によりJリーグのレベルが欧州標準からはかなり劣っているとの指摘を日本国内だけでなく、オーストリアやドイツのメディアからも受けた。また、日本代表監督のイビチャ・オシムからレッズ所属の代表選手に対してプレー内容の苦言を呈された。[要出典]
- FUJI XEROX SUPER CUPはG大阪に敗退。3月3日の開幕戦で前年J2優勝の横浜FCに2-1で勝利して2001年のJ1復帰以降初めて開幕戦で勝利した。
- 3連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退した。
- 初出場となったAFCチャンピオンズリーグはグループ1位で決勝トーナメントに進出。準々決勝で前回王者の全北現代(韓国)、準決勝で城南一和(韓国)に勝利し、現行の大会となって以降ではJクラブ初の決勝進出を果たす。決勝ではセパハン(イラン)に1勝1分で日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した[17]。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会史上初。なお、優勝によってFIFAクラブワールドカップ2007にアジア代表として参戦することが決定した。
- Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACL優勝後に失速。33節には2位鹿島との直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終節を迎えた。最終節では最下位の横浜FCに0-1と敗戦、勝ち点差1の鹿島が勝利したため連覇を逃し2位で終了した[18]。
- 天皇杯は初戦で愛媛FCに敗れ、天皇杯3連覇は成らなかった。
- クラブワールドカップでは準々決勝(初戦)でセパハンに勝利。準決勝はACミラン(イタリア)に敗北したが、3位決定戦でエトワール・サヘル(チュニジア)にPK戦で勝利し3位の成績[19]。
- 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。しかし、ACLやクラブワールドカップでの躍進が評価され、Jリーグクラブで初となる日本プロスポーツ大賞を受賞した。
2008年
- チームスローガン:GO FORWARD HAND IN HAND
- 2008年シーズンに向けて、オフにはブンデスリーガ・フランクフルトから高原直泰、大分から梅崎司、新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクからアレックスが復帰と大型補強を敢行し、さらに福田正博がコーチとしてチームに復帰ことになった。
- 万全を期して臨んだシーズンであったが、開幕早々に連敗したことを受けてオジェックを解任し、コーチだったゲルト・エンゲルスが監督に昇格することとなった。監督交代後はセンターバックが本職の闘莉王をトップ下に起用するという奇策などで上位へと駆け上がり前半戦を首位で折り返すも徐々に失速、J1第33節のG大阪戦で黒星を喫してリーグ優勝の可能性が消滅。翌日には名古屋が札幌に勝利したためシーズン4位以下が確定して3年連続のACLの出場権も逃し、最終節で横浜に1-6と大敗して最終順位は7位となった。
- ACLは準々決勝から登場し[20]、アル・カーディシーヤ(クウェート)には2試合合計4-3で競り勝ち準決勝進出するも、準決勝でG大阪に2試合合計2-4で敗れACL連覇はならなかった。また、ナビスコカップや天皇杯でも上位進出できずに5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定し、エンゲルスはシーズン終了後に監督を退任した。
- 5月15日のG大阪戦においてG大阪サポーターに端を発する両サポーター同士が衝突する事件が起き、Jリーグは試合を主催した浦和の警備体制に不備があったとして、浦和に2000万円の制裁金を科す処分を下した。また、J1第18節の川崎フロンターレ戦でもサポーターの問題行動が起き、これを受けACL準決勝のG大阪戦では埼玉スタジアムの観客席に防護ネットが張られた。
2009年
- チームスローガン:Devotion to URAWA
- 監督にフォルカー・フィンケが就任。ディフェンスラインを3バックから4バックへと移行し、リアクションサッカーからポゼッションサッカーへの移行を図った。また、新しいチーム統括責任者として元横浜FC監督の信藤健仁のチームダイレクター(TD)就任が発表された。
- 内舘秀樹が引退、岡野雅行や相馬崇人が退団(その後、岡野はTSWペガサスへ、相馬はCSマリティモへ入団)、永井雄一郎が清水に完全移籍した一方、レンタル移籍から復帰した赤星貴文、大卒新人の野田紘史、ユースから昇格の原口元気(飛び級昇格)、山田直輝、高橋峻希、濱田水輝、永田拓也と若手選手を獲得した(赤星は山形に、野田は岡山にシーズン途中でレンタル移籍)。
- 4月に行われた定例取締役会において、2006年シーズン途中から社長を務めていた藤口光紀が2008年のホルガー・オジェックの監督解任に端を発したクラブの成績不振の責任を取り、任期を残しながらも社長を退任した。後任に三菱自動車工業元常務取締役の橋本光夫が就任した。
- ユースから昇格した若手選手を積極的に起用し、序盤は一時首位に躍り出るなど好調を維持し前半戦を鹿島に次ぐ2位で折り返した。しかし、7月にリーグ戦14連敗を喫していた大分に0-1で敗戦したのをきっかけに、9月の山形戦に勝利するまで公式戦8連敗を喫するなど大失速し、その後は持ち直したものの最終的にリーグ戦は6位に終わった。
- 天皇杯は初戦(2回戦)で北信越フットボールリーグ1部所属(当時)の松本山雅FCに敗退。
2010年代
2010年
- チームスローガン:KEEP REDS ON!
- 三都主アレサンドロ及び田中マルクス闘莉王が名古屋へ完全移籍[21]、近藤徹志が岡山へ完全移籍、橋本真人が栃木SCへ期限付き移籍、2009年シーズンから草津へ期限付き移籍していた小池純輝が水戸へ完全移籍、山形へ期限付き移籍中の赤星貴文が契約満了に伴い退団、野田紘史の岡山への期限付き移籍が延長された。
- 2009年シーズン途中から特別指定選手としてトップチームに登録していた流通経済大学の宇賀神友弥が新卒選手として正式に加入し、2009年シーズンから水戸へ期限付き移籍していた高崎寛之が復帰した。また、広島から柏木陽介を完全移籍で、ドイツ・1.FCニュルンベルクからマシュー・スピラノビッチを、ドイツ・1.FCケルンからウィルフリード・サヌを期限付き移籍で獲得した。
- 2008年12月からチームダイレクターを務めていた信藤健仁が体調不良を訴え、その後の検査で甲状腺の機能に障害があることが判明し、治療が必要と診断されたことにより、2009年限りで同職を退任。後任に、初代浦和キャプテンの柱谷幸一が2010年1月1日付でゼネラルマネージャー(GM)に就任した。
- リーグ戦は序盤こそ上位に食い込んだが、前年同様夏場に失速し10位に終わった。また、ナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯はベスト8で敗退とこの年もタイトル獲得はならなかったため、シーズン終了後にフィンケ監督を始め6人中5人のコーチが退任した。
- 5月15日の仙台戦において、レッズサポーターが仙台の北朝鮮代表MF梁勇基に対し人種差別的な発言をしたとしてJリーグから500万円の制裁金を課された[22]。差別発言による制裁は初めてで、試合の運営責任があるホームよりアウェークラブ(浦和)に重い処分が下ったのも史上初となる[23]。鬼武チェアマンは浦和の方が処分が重い理由として、以前から浦和サポーターがトラブルを起こし続けてきたことを挙げると共に、差別発言が再び繰り返されれば、その時の処分は今回の10倍の重さになると述べた[23]。また、浦和の橋本社長は「差別発言は社会通念上許される行為ではない」として謝罪した[23]。6月9日に横浜国際総合競技場で行なわれたナビスコカップの横浜F・マリノス戦においてレッズサポーター成人の多数が小中学生チケットで入場しようとする不法行為を犯し、違反者は5試合の浦和主催試合入場禁止とその期間中のアウェーの試合も入場禁止となった[24][25]。
2011年
- チームスローガン:TOGETHER FOR THE GOAL
- 監督に浦和OBのゼリコ・ペトロビッチが[26]、コーチにアドリエ・ボヘルスがそれぞれ就任した。ボヘルスの就任はペトロビッチ監督が希望した[27]。
- ロブソン・ポンテが退団、永田拓也がレンタル移籍で、林勇介が完全移籍で草津に移籍、前年草津にレンタル移籍していた西澤代志也が栃木SCに、栃木SCへ期限付き移籍していた橋本真人がV・ファーレン長崎へ完全移籍、細貝萌がブンデスリーガ1部のバイエル・レヴァークーゼンに完全移籍(その後ブンデスリーガ2部のFCアウクスブルクにレンタル移籍)、サヌはレンタル移籍期間満了に伴い1.FCケルンに復帰した。湘南に期限付き移籍していた都築龍太は契約を更新せず[28]、都築は1月27日に引退を表明した[29]。引退セレモニーは8月6日の予定であったが[30]、8月24日に延期された[31]。
- 補強は新潟からマルシオ・リシャルデス、永田充を、徳島から青山隼を獲得、サンパウロFCからマゾーラを期限付きで獲得、堤俊輔、野田紘史がレンタル移籍より復帰、レンタル移籍だったスピラノビッチは完全移籍となった。
- 6月29日にエジミウソンがアル・ガラファへ完全移籍[32]、7月14日に堤が栃木SCへ期限付き移籍[33][34] したが、7月2日にランコ・デスポトヴィッチが加入した[35]。
- タイトル獲得を目指して大型補強を敢行したものの、この年は序盤から一時降格圏内に転落するほど低迷し、9月12日にクラブは柱谷GMの契約解除と山道守彦の強化部長就任を発表[36]。さらに第29節で大宮に敗れ降格圏に順位を落としたことで、10月20日にペトロビッチ監督とボヘルスコーチを解任[37]、後任の監督にユース監督の堀孝史が、コーチにはユースコーチの天野賢一がそれぞれ就任した[38]。ヴァンフォーレ甲府との残留争いの末、最終節で15位が確定して残留を決めた。なお、リーグ戦で10得点以上を記録した選手が現れなかったのは2005年シーズン以来6年ぶりである。
- その一方でナビスコカップは1回戦から順調に勝ち上がって7年ぶりに決勝へ進出したが[39]、決勝で延長戦の末鹿島に敗れ準優勝。なお、4得点を挙げたデスポトビッチが大会得点王となった。
- 従来どおり埼玉スタジアムと駒場スタジアムの2箇所を登録上の本拠地としているが、駒場はトラック改修工事のため使用せず、ホームゲームは全試合(リーグ戦・ナビスコ杯とも)埼玉で開催した。駒場で1年を通して試合が組まれないのは1992年のJリーグカップを除けばJリーグ発足後初である。
2012年
- チームスローガン:REDS 020th We stand beside you forever always
- 監督に広島元監督のミハイロ・ペトロヴィッチが就任。堀はトップチームのコーチに就任。広島時代にペトロヴィッチの通訳を務めた杉浦大輔がコーチに就任。[40] 昨シーズンにコーチを務めた広瀬治がトップチームのコーチを退任し、ユースチームのコーチに就任。
- マゾーラがレンタル移籍期間満了、栃木SCにレンタル移籍していた堤俊輔が福岡へ、高崎寛之が甲府へ、堀之内聖が横浜FCへ完全移籍し、原一樹が京都へ、青山隼が徳島へレンタル移籍。草津にレンタル移籍している永田拓也の移籍期間も延長された。さらにシーズン途中にスピラノビッチがカタールのアル・アラビ・ドーハへ完全移籍し、高橋峻希が千葉、エスクデロ・セルヒオがKリーグのFCソウルへそれぞれレンタル移籍した。
- 新加入選手としてブンデスリーガ・1.FCケルンから広島時代にペトロヴィッチ監督のもとでプレーしていた槙野智章をレンタル移籍で、神戸からポポを、レスター・シティFCから元浦和の阿部勇樹を完全移籍で獲得。
- 6月1日、さいたま市浦和駒場スタジアムの命名権を取得(スタジアム名称は「浦和駒場スタジアム」のまま。ただし補助競技場<球技専用>については「浦和レッズハートフルフィールド駒場」に改める)。なお、Jリーグクラブがスタジアムの命名権を取得したのは初めて。
- 開幕戦こそ広島に敗れるも、前半戦は前年とは対照的に順調に勝ち点を積み上げて勝ち点30(8勝6分3敗)の3位で折り返した。その後はJ2降格が決まった直後の札幌や、下位に低迷していたG大阪に敗れるなど取りこぼしも目立ったが、最終戦で名古屋に勝利して3位でシーズンを終え、2008年シーズン以来5年ぶりにACL出場権を獲得した。なお、最終節での勝利はリーグ優勝を決めた2006年シーズンのG大阪戦以来6年ぶりとなった。
- 8月4日に開催されたFC東京戦で、Jリーグ史上初となるリーグ戦におけるホームゲーム累計観客動員数が1000万人を突破。また、最終戦での勝利によって7チーム目となるJ1リーグ戦通算300勝を達成した。
2013年
- チームスローガン:REDS TAKE A STEP FORWARD
- ペトロヴィッチ体制2年目。
- 田中達也が新潟へ、ポポが神戸へ完全移籍。また、期限付き移籍中の原一樹、エスクデロ・セルヒオ、青山隼がそのまま完全移籍。また、濱田水輝が新潟へ期限付き移籍(2014年1月31日まで)し、千葉に期限付き移籍している高橋峻希の移籍期間が2014年1月31日まで延長された。
- 前年に1.FCケルンからレンタルで加入した槙野智章が完全移籍となり、広島から森脇良太、仙台から関口訓充、鹿島から興梠慎三、柏から那須大亮をそれぞれ完全移籍で獲得。明治大学から阪野豊史が加入した。また、草津へ期限付き移籍していた永田拓也が復帰した。
- 開幕戦で前年王者の広島に勝利し、2008年から続いていた開幕戦の連敗を止めてクラブ史上初のアウェーゲームでの開幕戦勝利を達成。その後は開幕6試合負けなしと序盤から好調を維持し、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断までの時点では、横浜FMと勝点27で並び得失点差で上回る2位で、首位を独走していた大宮と勝点差5の状態だった。前半戦最終2戦でリーグ戦2度目の連敗を喫し勝点31(9勝4分4敗)の4位で折り返す。第19節終了時に3位に再浮上して以降、終盤まで3位と2位を行き来するかたちで、首位に3度までも(第22節広島、第24、31各節横浜FM)勝点差1まで迫り優勝争いに絡んだものの、いずれもその次の試合で敗れ再び差を広げられるなど勝負弱さを露呈。33節で鳥栖に敗れた時点で優勝の可能性が消滅し、最終節でもC大阪に大敗し同シーズンリーグ戦初の3連敗、かつ最終4節未勝利で6位に後退、ACL出場権を逃した。興梠慎三、柏木陽介、原口元気の1トップ2シャドーを中心とした攻撃陣は、リーグ1位の66得点をマークする等力を発揮した一方、可変フォーメーションの3バックのうちサイドバックに位置する森脇と槙野が積極的に攻撃参加する為、カウンターの対策が脆弱だった事もあり守備陣は終盤5試合で16失点を喫する等でリーグ12位タイの56失点と脆さを露見させ、この攻守のバランスの悪さが勝ちきれない試合を多く生み出し失速した要因になった。
- リーグ戦同様カップ戦でも勝負弱さを露呈し、5年ぶりの出場となったACL2013では3勝1分2敗の勝ち点10という成績であったが、同勝ち点の全北現代(韓国)との直接対決の成績で下回った(1分1敗)ためグループリーグ敗退。天皇杯では主力を温存した結果3回戦で山形に敗退し、ヤマザキナビスコカップは2年ぶり5回目の決勝進出を果たしながら柏に0-1で敗れ準優勝と、国内三冠も射程圏内でありながら結局無冠でシーズンを終えることとなった。
- 5月11日に開催されたホームの鹿島戦は、目前に控えていたJリーグ開幕20周年を記念して「Jリーグ20thアニバーサリーマッチ」として開催された[41]。
- 3月30日のアルビレックス新潟戦で、マルシオ・リシャルデスがチームのJ1通算1000ゴールを決めた。また、10月27日の柏戦で山田暢久がJリーグ通算500試合出場を達成した。
2014年
- チームスローガン:REDS-FULL of LIFE!
- ペトロヴィッチ体制3年目。
- 山田暢久が契約満了に伴い現役を引退した。
- 永田拓也が横浜FCへ、野田紘史が長崎へ、千葉に期限付き移籍中の高橋峻希が神戸へ完全移籍。また、野崎雅也が福岡へ、大谷幸輝が北九州へ、小島秀仁が徳島へ期限付き移籍し、長崎へ期限付き移籍している岡本拓也の移籍期間が延長された。
- 大宮から青木拓矢、広島から西川周作、イングランド・プレミアリーグのサウサンプトンFCから李忠成を完全移籍で獲得した。また、新潟に期限付き移籍していた濱田水輝が復帰した。
- ホーム開幕戦となった第2節鳥栖戦で、ホームゴール裏出入り口に「JAPANESE ONLY」(日本人に限る)という、人種差別と受け取れる横断幕が掲げられ、チームも、その試合終了後まで当該横断幕を撤去できなかった。これに対し、Jリーグから第4節清水戦をJリーグ開幕以後史上初の無観客試合で行うという制裁処分が下された(詳細はトラブル項詳述)。
- 序盤は前述のトラブルによる混乱もあり、5試合を消化した時点で2敗を喫するなどやや躓いたものの、その後はクラブ新記録となる4試合連続完封を記録するなど強固な守備を武器に一気に調子を上げ、ペトロヴィッチ体制となって初めて首位で2014 FIFAワールドカップによる中断期間を迎えた。中断期間明け後も記録は続き、7月23日にはJ1新記録となる7試合連続完封を達成した。
- 5月25日、原口元気がドイツ・ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンへ完全移籍。6月16日には山岸範宏の山形への期限付き移籍と、岩舘直の水戸から期限付き移籍での加入が発表された。
- 10月6日、ペトロヴィッチ監督との契約を更新した。浦和レッズの監督としては、クラブ史上最長となる4シーズン目を迎える事になる。
- 10月22日、第29節甲府戦でJリーグ初となる公式戦通算1000試合を達成するも、観客動員数は1万9977人で、埼玉スタジアム2002が2001年に開業して以来初めて、1試合の観客動員数が2万人を下回った。
- リーグ戦は、中断後も好調を維持し、一時は2位と勝ち点差7をつけて首位に立っていた。しかし相変わらずの主力偏重采配に加え、「美しく勝つ」事を求めたペトロヴィッチの悪い癖が出て前年同様終盤に失速、勝てば優勝決定という大一番となった第32節では、引き分けでも優勝に大きく近づく状況だったにも関わらず、勝って優勝を決めようとして勝ち点差5の2位G大阪に敗戦、第33節鳥栖戦では後半アディショナルタイムのラストプレーで途中出場の小林久晃に同点ゴールを決められて痛恨の引き分け、G大阪に首位を明け渡す。最終節名古屋戦では、試合開始早々に槙野のゴールで先制するも、後半にセットプレーで牟田雄祐に押し込まれ同点に追いつかれると、2006年の優勝を知る鈴木啓太が自陣でパスミスを犯しカウンターから永井謙佑に決勝弾を決められて逆転負けし、G大阪が既に最下位でのJ2降格が決まっている徳島に引き分けたにも関わらず、西川がGKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した(それまでの記録は、93年V川崎の菊池新吉、09年FC東京の権田修一が記録した15。)甲斐も空しく2007年に続くクラブ史上2度目の世紀の大失速で優勝を逃した[42]。最終成績は、18勝8分8敗の勝ち点62で2位。
- ヤマザキナビスコカップは、グループリーグを首位通過したものの、準々決勝で広島と2引き分け、アウェーゴールルールにより敗れた。天皇杯は、3回戦で群馬に2-1で敗れ、前年の山形に続きJ2相手に敗戦を喫した。
- 12月13日、天皇杯でG大阪が優勝したことにより、FUJI XEROX SUPER CUP2015へ繰り上げで出場が決まった。
2015年
- チームスローガン:WE BELIEVE in REDS
- ペトロヴィッチ体制4年目。
- 坪井慶介が湘南に、加藤順大が大宮にそれぞれ完全移籍、山田直輝が湘南に、阪野豊史が栃木にそれぞれ期限付き移籍、山形に期限付き移籍していた山岸範宏は完全移籍した。また、関口訓充(その後C大阪へ移籍)、マルシオ・リシャルデス、福岡に期限付き移籍していた野崎雅也がそれぞれ契約満了により退団した。
- 柏から橋本和、仙台から武藤雄樹、清水から高木俊幸、大宮からズラタン、広島から石原直樹、FC東京から加賀健一が完全移籍で加入、小島秀仁は徳島から岡本拓也は長崎から復帰水戸から期限付き移籍中の岩舘直は移籍期間を延長した。
- 指宿キャンプ中、この年から新設されたJリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ鹿児島ラウンドに出場し初優勝を飾った。
- リーグ戦1stステージでは、開幕戦で湘南に3-1で勝利し、その後も一度も負けることなく順調に勝ち点を伸ばすと、6月3日の柏戦でJ1新記録となる開幕14試合連続無敗を達成。そして、第16節で神戸に引き分け史上初の無敗優勝を決めた。無敗記録は最終的に、7月19日に2ndステージ第3節の広島とのホーム戦で敗れるまで続き、開幕19試合連続無敗となった。
- その一方で、4度目の出場となったAFCチャンピオンズリーグ2015では、初戦で水原三星に1-2で逆転負けを喫すると、その後3連敗と全く結果を残せず、5戦目も敗れて最下位でのグループリーグ敗退となった。
- 2ndステージは最終的に9勝4敗4引き分けとなり、年間成績ではサンフレッチェ広島に勝ち点2及ばず勝ち点2位となったため、チャンピオンシップには準決勝から挑むこととなった。準決勝のガンバ大阪戦は1-1の同点で延長に突入したが、延長後半に2点を奪われ3-1で敗戦、年間順位3位でシーズンを終えることとなった。
- ナビスコカップでは、準々決勝で、新潟と対戦し、1回戦は、0-5と大敗し、2回戦は3-0で勝利したものの、トータルスコアでは、3-5で敗れ、2年連続ベスト8で敗退となった。
- その一方で、天皇杯は、順調に相手を撃破し、9年ぶりの決勝進出を果たすものの、決勝のガンバ大阪との対戦では、先制を許した後、興梠のゴールで追いつき、1-1で前半を折り返す。しかし、後半に勝ち越しを許し、1-2で敗れ、9年ぶりの優勝を果たせなかった。
2016年
- チームスローガン:Beating Heart Together!
- ペトロヴィッチ体制5年目。
- 鈴木啓太が引退、阪野豊史、茂木力也が愛媛、斎藤翔太が水戸、岡本拓也が湘南に期限付き移籍、山田直輝、矢島慎也の期限付き移籍期間が延長した。
- 湘南から遠藤航、FCアスタナからブランコ・イリッチ、京都から駒井善成を獲得。期限付き移籍だった岩舘直が完全移籍に移行した。
成績
タイトル・表彰
国内タイトル
- Jリーグ ディビジョン1
- リーグカップ:1回
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回
- スーパーカップ:1回
- 2006年
国際タイトル
個人
- Jリーグ
- 最優秀選手(MVP)
- 得点王
- 新人王
- 最優秀監督
- 2006年 ギド・ブッフバルト
- ベストイレブン
- フェアプレー個人賞
- 功労選手賞
- 最優秀選手(MVP)
- 2003年 田中達也
- ニューヒーロー賞
- 2002年 坪井慶介
- 2003年 田中達也
- 2004年 長谷部誠
- 2011年 原口元気
- 得点王
- AFCチャンピオンズリーグ
- 最優秀選手(2007年 永井雄一郎)
その他受賞
- 1999年 Join賞(浦和レッズ、浦和市、レッズファン・サポーター)
- 2002年 Join賞(浦和レッズ)
- 2004年 Join賞(浦和レッズ)
- 2007年 Jリーグ特別賞(浦和レッズ)
- 2007年 AFC最優秀クラブ(浦和レッズ)
- 2007年 AFCチャンピオンズリーグ フェアプレー賞(浦和レッズ)
- 2007年 FIFAクラブワールドカップ FIFAフェアプレー賞(浦和レッズ)
- 2007年 日本プロスポーツ大賞(浦和レッズ)
- 2009年 最優秀育成クラブ賞(浦和レッズ)
- 2014年 J1フェアプレー賞(浦和レッズ)
クラブ記録
最多得点試合
J1
- ホーム
- 7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002)
- 7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム)
- アウェー
- 7-0 (1996年J第20節(9月21日)・対柏、国立霞ヶ丘陸上競技場)
- 7-0 (2005年第14節(7月6日)・対東京V、国立霞ヶ丘陸上競技場)
J2
- 7-0 (2000年第4節(3月30日)・対鳥栖、鳥栖スタジアム) ※J2記録タイ
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 9-0 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロックSC、駒場スタジアム)
最多失点試合
J1
- ホーム
- 0-6 (1993年2nd第9節(9月3日)・対V川崎、駒場競技場)
- 3-6 (1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜M、富山県総合運動公園陸上競技場)
- 1-6 (2008年J1第34節(12月6日)・対横浜FM、埼玉スタジアム2002)
- アウェー
- 1-8 (1999年1st第15節(5月29日)・対名古屋、名古屋市瑞穂公園陸上競技場)
J2
- 1-6 (2000年J2第18節(6月10日)・対新潟、新潟市陸上競技場)
最多失点勝利試合
- 4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、市原緑地運動公園臨海競技場)
- 4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、広島ビッグアーチ)
- 4-3 (2012年J1第17節(7月7日) ・対鳥栖、埼玉スタジアム2002)
- 4-3 (2013年J1第21節(8月17日)・対大分、埼玉スタジアム2002)
最多得点敗戦試合
- 4-5 (1994年2nd第12節(9月21日)・対清水、静岡県草薙総合運動場陸上競技場)
- 4-6 (2003年1st第5節(4月26日)・対C大阪、長居スタジアム)
最多得点(失点)引分試合
- 4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム)
- 4-4 (2014年21節(8月23日)・対FC東京、味の素スタジアム)
最多連続無敗試合
- 16試合 (2007年J1第8節(4月29日)から第23節(8月29日) - 11勝5分)
- (参考:他の公式戦込み)
- 17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)
ホーム無敗記録
- 25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)
※J1史上最多記録タイ
- (参考:他の公式戦込み) ※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合
- 37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャのホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)
アウェー無敗記録
- 17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分)
最多連勝
- 8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
- 7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ
ホーム連勝記録
- 10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日))
アウェー連勝記録
- 10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日))
最多連敗
- 9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ
ホーム連敗記録
- 6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))
アウェー連敗記録
- 10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
- 10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
- 10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
- 8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ
同一カード最多連勝
- 7連勝 (2003年1st第6節(4月29日)から2008年第17節(7月17日)-対東京V)
- 9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。
同一カード最多連敗
- 7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ
- 7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む
個人記録
通算最多試合出場
- 501試合 - 山田暢久 (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦) ※2013年11月29日現在
最多連続試合出場
- 72試合 - 坪井慶介 (2002年1st第1節(3月3日)から2004年1st第12節(6月12日))
最年少試合出場
- 16歳10か月22日 - セルヒオ・エスクデロ (2005年J1第18節(7月23日)・清水戦)
最年長試合出場
- 38歳1ヶ月17日 - 山田暢久 (2013年J1第30節(10月27日)・柏レイソル戦)
シーズンフルタイム出場
- 田北雄気 (1996年 - 30試合、1999年 - 30試合)
- 山田暢久 (1998年 - 34試合)
- 石井俊也 (2001年 - 30試合)
- 内舘秀樹 (2002年 - 30試合)
- 坪井慶介 (2002年 - 30試合、2003年 - 30試合)
- 山岸範宏 (2010年 - 34試合)
- 永田充 (2011年 - 34試合)
- 加藤順大 (2012年 - 34試合)
通算最多得点
最多連続得点試合
シーズン最多得点
1試合最多得点
- (参考:リーグ戦以外の記録)
GK通算最多得点
最年少得点
- 17歳11か月3日 - 原口元気 (2009年第5節(4月12日)・名古屋戦)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 16歳8日 - 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦)
最年長得点
ハットトリック
- J1
- 3得点
- ルル (1994年2nd第12節(9月21日)・清水戦)
- 大柴健二 (1998年1st第9節(4月29日)・柏戦)
- 岡野雅行 (1998年1st第17節(8月8日)・神戸戦)
- エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・対広島、2004年1st第6節(4月18日)・大分戦、2004年1st第9節(5月9日)・新潟戦、2004年2nd第14節(11月23日)・柏戦)
- 永井雄一郎 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
- 山瀬功治 (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦)
- マリッチ (2005年J1第27節(10月15日)・柏戦)
- ワシントン (2006年第19節(8月23日)・新潟戦)
- 田中マルクス闘莉王 (2008年第17節(7月17日)・東京V)
- エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・磐田戦)
- J2
- 3得点
- 阿部敏之(2000年2nd第15節(5月27日)・鳥栖戦)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- ヤマザキナビスコカップ
- 4得点
- 3得点
- 天皇杯
その他記録
- ゴールキーパー初の得点
- 1996年のJリーグ第30節(11月9日)の横浜F戦で、79分にペナルティーキックを田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した([43])。
- 1試合2名のハットトリック
- 2004年8月21日の東京V戦で永井雄一郎と山瀬功治の2名がハットトリックを達成。これは1998年9月26日に磐田の奥大介と高原直泰が達成して以来2例目。
- 4試合連続Vゴール負け
- 1999年2ndステージ9月4日の第6節磐田戦から9月18日の第9節名古屋戦まで(全て1-2のVゴール負け)
- 5年連続開幕戦完封負け
- 2008年(横浜FM戦)から2012年(広島戦)までの5試合で、これはJ1ワースト記録となる。なお、開幕戦成績は6勝2分13敗と黒星が大きく先行しており、特にアウェーでの開幕戦は1勝2分11敗と非常に相性が悪く、2013年シーズン開幕戦で広島に勝利するまで1度も勝つことができなかった。
スタジアム
ホームスタジアム
- ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002とJリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムの2か所であるが、駒場は2013年のみ登録から外れた[1]。ただし駒場でのレッズ主管試合の開催は天皇杯を除けば2010年を最後に行われていない。なお、Jリーグ発行のファンズガイドでは2011年より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。
年度別観客動員記録
- 「埼玉」:埼玉スタジアム2002、「駒場」:浦和駒場スタジアム、「国立」:国立霞ヶ丘陸上競技場
- 太字は歴代最多および最少
- 試合数および観客動員データはリーグ戦のみ(関連:日本プロサッカーリーグ#試合観客動員)。
年度 | 所属 | 合計 動員数 |
最多動員数 | 最少動員数 | 平均 動員数 |
試合数 | ホームゲーム開催スタジアム (太字は本拠地登録されたスタジアム) |
備考 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
動員数 | 相手 | 会場 | 動員数 | 相手 | 会場 | ||||||||||
1993 | J | 206,265 | 50,348 | 清水 | 国立 | 8,258 | 広島 | 駒場 | 11,459 | 18 | 駒場17、国立1 | ||||
1994 | 406,457 | 55,125 | V川崎 | 7,854 | 広島 | 18,475 | 22 | 駒場8、大宮7、国立4、博多陸1、神戸ユ1、富山1 | [44] | ||||||
1995 | 508,554 | 56,652 | V川崎 | 9,168 | 広島 | 大宮 | 19,560 | 26 | 駒場12、大宮10、国立3、新潟陸1 | [44][45] | |||||
1996 | 364,936 | 50,974 | 京都 | 5,611 | 福岡 | 札幌厚別 | 24,329 | 15 | 駒場11、国立3、札幌厚別1 | ||||||
1997 | 328,060 | 38,707 | 広島 | 14,937 | 横浜F | 駒場 | 20,504 | 16 | 駒場14、国立2 | ||||||
1998 | 385,994 | 46,547 | 柏 | 16,971 | V川崎 | 22,706 | 17 | 駒場14、国立3 | |||||||
1999 | J1 | 319,146 | 46,401 | 鹿島 | 13,329 | 柏 | 21,276 | 15 | 駒場12、国立3 | [46] | |||||
2000 | J2 | 338,457 | 20,207 | 鳥栖 | 駒場 | 13,408 | 新潟 | 16,923 | 20 | 駒場20 | [47] | ||||
2001 | J1 | 400,799 | 60,553 | 横浜FM | 埼玉 | 16,808 | 清水 | 26,720 | 15 | 駒場11、埼玉2、国立2 | [48] | ||||
2002 | 394,445 | 57,902 | 磐田 | 14,499 | 柏 | 26,296 | 15 | 駒場9、埼玉5、国立1 | |||||||
2003 | 432,825 | 51,195 | 鹿島 | 18,335 | 京都 | 28,855 | 15 | 駒場8、埼玉7 | [49][50] | ||||||
2004 | 549,903 | 58,334 | 横浜FM | 18,029 | 柏 | 36,660 | 15 | 埼玉9、駒場6 | [51][52] | ||||||
2005 | 669,066 | 55,476 | 名古屋 | 15,760 | 清水 | 39,357 | 17 | 埼玉13、駒場4 | |||||||
2006 | 774,749 | 62,241 | G大阪 | 16,040 | 大分 | 45,573 | 17 | 埼玉15、駒場2 | [53] | ||||||
2007 | 793,347 | 62,123 | 鹿島 | 16,709 | 神戸 | 46,667 | 17 | 埼玉15、駒場2 | [54] | ||||||
2008 | 809,353 | 57,050 | G大阪 | 16,225 | 京都 | 47,609 | 17 | 埼玉16、駒場1 | |||||||
2009 | 751,565 | 53,783 | 鹿島 | 18,777 | 神戸 | 44,210 | 17 | 埼玉16、駒場1 | |||||||
2010 | 678,994 | 55,410 | 名古屋 | 21,625 | 山形 | 埼玉 | 39,941 | 17 | 埼玉17 | [55] | |||||
2011 | 576,477 | 54,441 | 柏 | 20,240 | 福岡 | 33,910 | 17 | 埼玉17 | [56] | ||||||
2012 | 622,772 | 51,879 | 名古屋 | 25,743 | 川崎 | 36,634 | 17 | 埼玉17 | |||||||
2013 | 630,701 | 54,905 | C大阪 | 23,295 | 磐田 | 37,100 | 17 | 埼玉17 | [57] | ||||||
2014 | 603,770 | 56,758 | G大阪 | 19,777 | 甲府 | 37,736 | 17 | 埼玉17 | [58][59] | ||||||
2015 | 658,668 | 53,148 | G大阪 | 22,363 | 甲府 | 38,746 | 17 | 埼玉17 | [60][61] | ||||||
2016 | 17 | 埼玉17 |
カップ戦(ナビスコ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム
年度 | ナビスコ杯 | ACL | 備考 |
---|---|---|---|
1992 | 大宮3 川越1 |
不参加 | |
1993 | 大宮3 | ||
1994 | (主催なし) | ナビスコ杯=完全トーナメント制 | |
1995 | (非開催) | ||
1996 | 駒場7 | ||
1997 | 駒場4 | ナビスコ杯=駒場・決勝T1を含む | |
1998 | 駒場2 | ||
1999 | 駒場2 | ナビスコ杯=完全トーナメント制 | |
2000 | 駒場1 | ||
2001 | 駒場3 | ||
2002 | 駒場4 | ナビスコ杯=駒場・決勝T1を含む | |
2003 | 駒場5 | ナビスコ杯=駒場・決勝T2を含む | |
2004 | 埼玉1 駒場2 |
ナビスコ杯=埼玉・決勝T1のみ | |
2005 | 埼玉3 駒場3 |
ナビスコ杯=埼玉・駒場とも決勝T1ずつ含む | |
2006 | 埼玉1 駒場3 |
ナビスコ杯=駒場・決勝T1含む | |
2007 | 埼玉1 | 埼玉6 | ACL=埼玉・決勝T3を含む |
2008 | 埼玉2 駒場1 |
埼玉2 | ACL=埼玉・決勝T2のみ (前回優勝につき準々決勝からシード) |
2009 | 埼玉3 駒場1 |
不参加 | ナビスコ杯=埼玉・決勝T1含む |
2010 | 埼玉2 駒場1 |
||
2011 | 埼玉3 | ナビスコ杯=完全トーナメント制[63] | |
2012 | 埼玉3 | ||
2013 | 埼玉2 | 埼玉3 | ナビスコ杯=埼玉・決勝T2のみ (ACL出場につき準々決勝からシード) |
2014 | 埼玉4 | 不参加 | ナビスコ杯=埼玉・決勝T1含む |
2015 | 埼玉1 | 埼玉3 | |
2016 | 未定 | 埼玉3 | ナビスコ杯=ACL出場につき準々決勝からシード |
最多観客動員試合
J1
- ホーム
- 62,241人(2006年第34節・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)
※J1リーグ戦観客動員史上2位- 9,822人(1994年1st第22節・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前)
- 22,150人(1995年2nd第8節・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 10,354人(1995年1st第26節・横浜F戦、大宮公園サッカー場)
- 56,652人(1995年1st第13節・V川崎戦、国立競技場)
- アウェー
- 61,246人(2008年第1節・横浜FM戦、日産スタジアム)
- 参考(リーグ戦以外の最高)
- 64,899人(2004サントリーチャンピオンシップ第1戦・横浜FM戦、横浜国際総合競技場)
※Jリーグ主催公式戦史上最高観客動員 - 67,005人(FIFAクラブワールドカップ2007準決勝・ACミラン戦、横浜国際総合競技場)
※レッズ出場公式戦史上最高観客動員
J2
- ホーム
- 20,207人(2000年第44節・鳥栖戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 19,825人(2000年第25節・札幌戦、札幌厚別公園競技場)
最少観客動員試合
J1
- ホーム
- 5,611人(1996年第21節・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
- 7,854人(1994年1st第4節・広島戦、駒場競技場 - 改修前)
- 13,329人(1999年2nd第2節・柏戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 9,168人(1995年1st第22節・広島戦、大宮公園サッカー場)
- 28,054人(2002年1st第9節・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場)
- 20,240人(2011年第17節・福岡戦、埼玉スタジアム2002)
- ※2014年の無観客試合を除く
- アウェー
- 3,610人(1997年2nd第1節・市原戦、市原臨海競技場)
J2
- ホーム
- 13,408人(2000年第26節・新潟戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 4,891人(2000年第34節・甲府戦、山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場)
ユニフォーム
| ||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||
|
チームカラー
- 赤[1]
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | ポラス | POLUS | 2013年 - | Jリーグ用 |
三菱自動車工業 | MITSUBISHI MOTORS | 2013年 2015年 - |
ACL用 | |
背中上部 | 三菱自動車工業 | MITSUBISHI MOTORS | 2005年 2007年 - |
創設 - 2004年は胸(Jリーグ用)、 2006年はパンツ |
背中下部 | なし | |||
袖 | トーシンパートナーズ | トーシン | 1999年 - | |
パンツ | ディー・エイチ・エル・ジャパン | DHL | 2009年 - | 2007年 - 2008年は国際試合用の胸 |
- スポンサーではないが、背中下部に国際連合承認のNGO「国連の友アジアパシフィック(FOUNAP)」との連携による「SPORTS FOR PEACE!」のロゴが入っている。
- 左胸のエンブレム上に星(★)が横並びで3つ付けられているが、両端が2004年のJ1・2ndステージおよび2006年のJ1リーグ、真ん中の大きな星がAFCチャンピオンズリーグ2007の各優勝を表している[64]。
練習用
- カブドットコム証券
- DHL
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 - 1996年:リーグ戦はミズノ(93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
- 1997年:リーグ戦はアンブロ、カップ戦はプーマ
- 1998年 - 2003年:プーマ
- 2004年 - 現在:ナイキ
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 背中上部 | 背中下部 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1992 | GALANT | - | 解禁前 | - | - | PUMA |
1993 | MITSUBISHI MOTORS / MIRAGE |
WordPerfect | Mizuno / PUMA | |||
1994 | ||||||
1995 | COMPAQ | |||||
1996 | ||||||
1997 | UMBRO / PUMA | |||||
1998 | PUMA | |||||
1999 | MIRAGE Dingo / MITSUBISHI MOTORS |
トーシン | ||||
2000 | ||||||
2001 | PAJERO / MITSUBISHI MOTORS | |||||
2002 | Smilebit | |||||
2003 | COLT / MITSUBISHI MOTORS |
hp | ||||
2004 | MITSUBISHI MOTORS | FUSO | SEGA | NIKE | ||
2005 | vodafone | MITSUBISHI MOTORS | ||||
2006 | FUSO | MITSUBISHI MOTORS | ||||
2007 | SAVAS / DHL |
MITSUBISHI MOTORS | FUSO | |||
2008 | ||||||
2009 | SAVAS | DHL | ||||
2010 | ||||||
2011 | ||||||
2012 | ||||||
2013 | POLUS / MITSUBISHI MOTORS | |||||
2014 | POLUS | |||||
2015 | POLUS / MITSUBISHI MOTORS | |||||
2016 | - |
※国際大会(ACLなど)の試合時は規定により胸広告のみ掲出。
※2007年および2008年はリーグ戦、カップ戦は「SAVAS」・ACLは「DHL」、2013年・2015年-2016年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI MOTORS」。
パートナー(スポンサー)
下部組織
2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、下部組織の充実に力を注ぐことになる。
2008年(平成20年)、DF堤俊輔がユース出身者として初めてレギュラーに定着した(ただし、2010年シーズンは途中からレンタルで放出され、2011年に復帰したがシーズン途中に再びレンタル移籍)。他にも、FWエスクデロがU-23代表入り、ジュニアユース出身・ユース所属の高橋峻希・山田直輝・原口元気が2種登録選手として公式戦に出場している。フォルカー・フィンケが監督に就任した2009年シーズンからは、一段とその傾向が強くなっている。[要出典]
ユース
2008年の高円宮U-18で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。エスクデロ・セルヒオや西澤代志也・高橋峻希・山田直輝・原口元気など、ユース出身の選手も台頭してきている。
- 2003年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会『準優勝』。
- 2004年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会『3位』、Jユースカップ『ベスト4』
- 2008年 - 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会『優勝』
ジュニアユース
ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。
- 2001年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『優勝』
- 2005年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『優勝』
- 2005年 - 高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会『優勝』
- 2006年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
- 2008年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
- 2010年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
- 2013年 - 高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会『優勝』
ジュニア
2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。 4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。 セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。
出身選手
主な獲得タイトル
ユース
- 優勝1回: 1997年
- 準優勝2回: 2002年,2003年
- 優勝1回: 2008年
- Jリーグ インターナショナルユースカップ
- 優勝1回: 2015年
ジュニアユース
- 優勝2回: 2001年,2005年
- 優勝1回: 2005年
- 優勝1回: 2009年
ハートフルスクール
また、ハートフルクラブの一環として小学生向けのサッカースクール(「ハートフルスクール」)を浦和駒場、レッズランド、東松山、くまがやドーム、さいたまスタジアム、与野八王子で開催している。
マスコット
- レディア(Redia) (1992年3月31日誕生)
- 浦和市(当時)生まれ。この日行われたクラブ発足記者会見で発表され、同年6月10日に命名された。伊勢丹浦和店前の歩道には、選手の足型とともにレディアの足型が埋め込まれている他、北浦和駅周辺にはレディアの像がある。
- フレンディア(Friendia) (1997年1月26日にレディアと結婚)
- シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生)
- ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生)
毎試合ごとに積極的なファンサービスやパフォーマンスを行う他クラブのマスコットと異なり、浦和は「真剣勝負の場だから」というクラブ方針[65] から、マスコットをほとんど露出させていなかった。『スポーツマスコット図鑑』(綱島理友編 2009年 PHP研究所)では、「会えたらラッキー」と紹介された。レディアが登場するのは基本的に毎年1月に開催されるレッズフェスタ(ファン感謝デー)、ゴールデンウィークに開催されるファミリーJoinデイズの該当試合、J1全クラブのマスコットが集まるJリーグオールスターサッカーの余興イベント(現在はゼロックス杯に移行)、レッズランドのイベントのみである(2009年シーズンには駒場スタジアムでの試合開催日の浦和パルコや、9月の対モンテディオ山形戦の前に行われたイベントにも登場している)。このため、埼玉スタジアムには埼玉県のマスコットであるコバトンの方がレディア一家よりもやって来る回数が多い場合もある [3]。 その後、観客数の減少を受けて方針を転換し、レディア達をスタジアムに登場させるようになった。[65] 2012年シーズンでは、チーム20周年を記念しレディア一家が埼玉スタジアム広場にやってくるということで、埼玉スタジアムサブグラウンドで1年に渡りサポーターと触れ合うイベントが行われる予定だったが、ホーム開幕戦から雨が続き、結局イベントは中止となった。 その結果、レディアが「雨男」扱いされてしまい、責任をとらされる形で埼玉スタジアム広場からも出入り禁止にされることになった(これにより、レディアはJ's Goalの「第1回 輝く!Jリーグマスコット大賞」ハプニング賞を受賞している[66])。その後は個人活動が続いたが 10月27日セレッソ大阪戦で、ハロウィンイベント同時にレディアの出入り禁止が解かれ[要出典]久しぶりに一家勢ぞろいとなった。
サポーターの数ではJリーグの随一のクラブのマスコットだが、2014年のFUJI XEROX SUPER CUPに合わせて行われた「マスコット総選挙」では最下位だった[67]。
エンブレム
エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校(現在の埼玉大学教育学部の前身校の一つ)の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれている。
入場曲・ 公式ソング
- ファースト・インプレッション - J開幕当初、佐藤仁司広報グループ・チーフマネジャーを中心とした数名のスタッフが、市販されていない著作権なしのフリーユースのサウンド・ライブラリーを試聴し、7曲目辺りで流れたこの曲に皆の関心が集まったことから選ばれた。
- We are Diamonds - レッズのオフィシャルソング。原曲はロッド・スチュワートのSailing。埼玉スタジアムでのホームゲームでバックスタンドのアッパースタンドの最上部にその歌詞が掲げられていたが2014シーズンオフに撤去された。ホーム・アウェイ関わらず勝利後に歌われるのでサポーターの間では通称「勝利の歌」として親しまれているが必ずしも歌われるわけでは無く、連敗中などの理由で自粛する事がある。
- GO! REDS GO! - We are Diamondsのカップリング曲。スタジアムで選手紹介時にかかっていたが、リニューアルに伴い2012シーズンで終了。
- KEEP ON RISING! - レッズのオフィシャルサポーターズソング。2007年10月からJR浦和駅の京浜東北線南行(東京・横浜方面)ホームで、2007年11月から埼玉スタジアムでレッズ戦がある場合に限り埼玉高速鉄道浦和美園駅でそれぞれ発車メロディーに採用されている。
サポーター
1993年のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている[68]。初期の応援を担った「クレイジー・コールズ」のリーダーはロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ[68][69]、1997年から2014年にかけて活動していた「URAWA BOYS」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「Curva EST」にも受け継がれた[69]。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが[68][70][71][72][73][74][75]、経済産業省関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった[74]」、2006年12月4日付けの『読売新聞』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている[68]。
また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中で、アジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム。アジア、南米、アフリカからそれぞれ1チームとなっている[76]。
レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こす一部サポーターも存在しており、2008年のG大阪戦(ホーム)における試合後の暴動や、2013年の清水戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された[77]。さらには2014年3月8日の鳥栖戦(ホーム)で起きた浦和レッズ差別横断幕事件によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、レッズレディースを含むすべての直系育成チーム[78] の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、人文字、プラカードも含む)、大旗の使用をアウェー・セントラル開催を含め一切禁止する自主規制を、同年3月15日開催の広島戦より実施[79][80]。同年4月以降の試合ではレディース、ユースチームに関しては横断幕の掲出が解禁され、トップチームに関しては当面オフィシャルフラッグのみ解禁する形となった。3月28日には「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。横断幕に関しては、5月25日に移籍が決定した原口元気にメッセージを送りたいと言うサポーターの要望に答え、6月1日に行われたヤマザキナビスコカップ7節・名古屋グランパス戦のみ横断幕の提示が許された。同時に解禁を求めたサポータも居たがこちらは却下された。
Jリーグの多くのクラブでは12番をサポーター用の番号として欠番にするチームが多い中、選手用背番号が固定化された1997年から2014年シーズンまでの間、浦和は12番を欠番とせず選手に着用させ続けていた[81][82]。
メディア
- テレビ
- REDS TV GGR(テレビ埼玉)毎週金曜 23:30-24:00(再放送)翌日土曜 7:30-8:00
- REDS NAVI(テレ玉)2010年を持って放送終了。
- REDS! GET GOAL!(J:COM さいたま、J:COM 東上、J:COM 所沢、JCN埼玉、JCN関東:ケーブルテレビ・制作 J:COM さいたま)インタビュアー 河合貴子
- スーパーJリーグマッチ(テレ玉)ホームゲームの大半を中継
- REDS REVIEW(スカパー!・スカチャン1(CS801、Ch.581、Ch.181)、BSスカパー!、スカパー!オンデマンド)
- ラジオ
- WARMING UP MUSIC(NACK5)
- 「ALL THE REDS」 毎週月〜金曜 6:53-
- 「SPORTS SHOT」 毎週月〜金曜 7:26-
- 「HEART BEAT REDS」 毎週月〜金曜 8:26-
- FUN FUN SOCCER(NACK5) 毎週土曜 6:00-7:00
- レッズウェーブ (78.3 MHz) 「24時間いつ聴いてもレッズ」をコンセプトにしたコミュニティFM。浦和レッズと浦和の街の情報が中心で2005年12月に開局した。
- 週刊☆サッカー王国 (NHK-FM さいたま放送局) 毎週金曜 18:00-18:50
- WARMING UP MUSIC(NACK5)
- 新聞・雑誌
- 埼玉新聞 (地方紙)
- 浦和レッズマガジン(フロムワン発行、朝日新聞出版発売)浦和レッズ専門雑誌 毎月12日発売
- 浦和フットボール通信(フリーペーパー) 浦和レッズ・浦和の街の情報を集めたフリーペーパー 毎月発売
- マッチデープログラム 1992年のJリーグカップ以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた清尾淳が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。
- 朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。
- Little Diamonds ユース、ジュニアユースの活動を紹介するリポートで毎月1回発行。レッドボルテージおよび大原のクラブハウスのサポーターズカフェで閲覧できるほか、クラブの公式サイトからPDFで閲覧できる(2010年4月4日配布のNo.48が最終号となった)。
- インターネット
- 浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。
- 浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。
- レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。
ホームタウン浦和
旧浦和市域(浦和地区)には2015年現在約55万人が居住し、浦和区、南区、緑区、桜区に分かれている。今でこそサッカーの盛んな街というイメージが強いが、Jリーグ隆盛前はもっぱら浦和高校や浦和画家に由来する文教都市や高級住宅街として知られていた。 緑区の埼玉スタジアムを筆頭に、各区に浦和レッズに関連した施設が所在する。浦和区にはさいたま市浦和駒場スタジアムや大原サッカー場、レッドボルテージなどの施設があり、伊勢丹浦和店ルイ・ヴィトン前には主要選手の手形や足形のレリーフが毎年設置されている。また浦和駅1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。そして南区には漫画・アニメ『赤き血のイレブン』の舞台のモデルである浦和南高校があり、桜区にはレッズランドが所在している。サッカーの街浦和としてさいたま市役所や埼玉県庁などにおいてもポスターの掲示を行っている。
埼玉スタジアムには浦和駅からの直行バスが運行されており、駒場スタジアムがホームスタジアムだった頃と変わらず、週末には浦和駅周辺でもサポーターをみることができる。
また、各区とも駅周辺や商店街などを中心に浦和レッズの赤い幟や旗が掲げられており、中央区(本町通りや北与野駅)や岩槻区、越谷市(主要スポンサーのポラス本社が所在)などの旧浦和市域以外でも旗や幟をみることができる。
脚注・出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “クラブガイド:浦和レッズ”. 日本プロサッカーリーグ. 2014年7月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g 2013年度(平成25年度)Jクラブ個別情報開示資料 (PDF) Jリーグ公式サイト、2014年7月23日閲覧
- ^ クラブ紹介 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
- ^ 浦和レッズ会社概況
- ^ 2005Jリーグ スタジアム観戦者調査報告書
- ^ 浦和レッズがもたらす経済波及効果は年間127億円(平成19年11月)
- ^ 「ACLに挑むJクラブ」Jリーグファンズガイド2007年版(Jリーグ発行・コナミデジタルエンタテインメント発売)。同書で藤口は「ホーム不敗の埼玉スタジアムでの開催をすることによって、多くのファン・サポーターの方に来てもらって、絶対に勝つという姿勢でACLを戦う」と話している。
- ^ 『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ・ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁
山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行 論創社 1998年、68-92、101-104、236-238頁
サンケイスポーツ、2005年12月30日3面
【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話 - ^ a b Reds Resona Smiling Web そうだったんですか!?レッズ
- ^ a b ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[最終回]
- ^ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号
- ^ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー
- ^ 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁
- ^ "橋本代表就任記者会見" (Press release). 浦和レッドダイヤモンズ. 24 April 2009. 2013年3月17日閲覧。
- ^ 前身の三菱時代には4度日本サッカーリーグで優勝しており、トップリーグ制覇は24年ぶり5度目であった。
- ^ 2013年に横浜F・マリノスが第33節対アルビレックス新潟戦で62,632人を集め記録更新するまで約7年間Jリーグ記録だった。
- ^ 欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると1999年の磐田以来8年ぶりとなる。
- ^ 2位の鹿島は残り5節は全勝した(勝ち点15を稼いだ)のに対し、浦和は残り5節で僅か勝ち点3しか稼げなかった。
- ^ 3位はFIFAクラブワールドカップにおけるアジア代表の最高成績タイとなる。
- ^ 当時優勝チームはシードとして準々決勝から登場することになっていた。
- ^ 闘莉王との契約について
- ^ http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20100608-OHT1T00243.htm
- ^ a b c 『スポーツニッポン』2010年6月9日
- ^ 浦和レッズ戦での出来事について
- ^ ニュース詳細|横浜F・マリノス 公式サイト
- ^ “新監督にゼリコ・ペトロヴィッチ氏”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2010年12月7日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “2011シーズン、コーチングスタッフ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太選手、契約満了のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太が引退を決意”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月28日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太さん引退セレモニー延期のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月4日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太さん、引退セレモニー24日に実施”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月22日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “エジミウソン、アルガラファに完全移籍、”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年6月29日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堤 俊輔、栃木SCに期限付き移籍”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堤俊輔選手期限付き移籍加入のお知らせ”. 栃木SC公式サイト (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “ランコ デスポトビッチ選手、加入決定”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月2日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “山道守彦の強化部長就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年9月12日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “ペトロヴィッチ監督、ボヘルスコーチとの契約解除について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堀 孝史ユース監督、トップチーム監督就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ 東日本大震災の影響で当初予定されていたグループリーグは行なわれず完全トーナメント制となった。
- ^ “2012シーズンのトップチーム体制について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2012年1月17日). 2012年1月17日閲覧。
- ^ 当日のセレモニーではそれぞれのチームで記憶に残る活躍をした選手(レッズからはポンテ、アントラーズからはアルシンド)と、Jリーグ開幕日(1993年5月15日)生まれの尾崎千瑛がスピーチを行なった。なお、試合結果は3-1でレッズの勝利となった。
- ^ ACLを制した2007年もあと1勝すればリーグ連覇という所で、そのあと1勝を収められずに鹿島に逆転優勝を喰らっているから
- ^ 他には1999年のJリーグカップで京都の松永成立、2004年のJ2で横浜FCの菅野孝憲、2006年のJ2で東京Vの高木義成が記録している
- ^ a b 1994年第2ステージと1995年代1ステージは駒場のスタンド増築工事のため、暫定として大宮を本拠地とする
- ^ 第2ステージより駒場の本拠地再開
- ^ J2リーグ降格
- ^ J1リーグ復帰
- ^ 埼玉スタジアム完成。但し2002 FIFAワールドカップ開催に伴う芝生保護のため、本拠地は引き続き駒場のみ
- ^ この年、正式に埼玉スタジアムも本拠地登録され、駒場・埼玉併用に
- ^ ナビスコ杯優勝
- ^ 他、CS:埼玉1
- ^ J1リーグ第2ステージ優勝
- ^ J1リーグ優勝
- ^ ACL優勝
- ^ 登録上は駒場と本拠地並列も、リーグ戦は埼玉のみに統合(カップ戦は駒場も使用)
- ^ 登録上は駒場と本拠並列も、カップ戦(天皇杯除く)を含め、Jリーグ公式戦全試合を埼玉のみに会場を一本化
- ^ 駒場の本拠登録抹消
- ^ 観客動員数は無観客試合となった第3節・清水戦は除いてある
- ^ 駒場の本拠登録復帰(但し公式戦には使用せず)
- ^ 他、CS準決勝:埼玉1
- ^ J1リーグ第1ステージ優勝
- ^ フットボールガイスト
- ^ 当初は予選リーグ+決勝トーナメントを予定していたが、東日本大震災による開催日程変更によりリーグ戦中止となった
- ^ “浦和レッズトップパートナー・新ユニホームについて”. J's GOAL (2008年1月11日). 2013年3月17日閲覧。
- ^ a b 「盛り上げるJ、キャラ奮闘 子ども向けヒーロー サッカーJリーグ」 朝日新聞2013年3月5日朝刊25P
- ^ 第1回 輝く!Jリーグマスコット大賞 ハプニング賞発表!(2012年12月30日 J's Goal)
- ^ FUJI XEROX SUPER CUP:広島 vs 横浜FM(2014年2月22日 J's Goal)
- ^ a b c d “《中》圧巻 熱烈サポーター”. YOMIURI ONLINE. 2006年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月30日閲覧。
- ^ a b 清尾淳#248 歴史+追伸 - MDPはみだし話
- ^ “浦和 ACL 日本勢初V”. 埼玉新聞 (2007年11月14日). 2014年11月30日閲覧。
- ^ “【2013シーズン始動!】浦和:新加入選手・新ユニフォーム発表記者会見での出席者コメント(13.01.15)”. J's GOAL (2013年1月15日). 2014年11月30日閲覧。
- ^ “2001浦和レッズ新加入選手記者発表会”. REDS VOICE (2001年2月9日). 2014年11月30日閲覧。
- ^ 松本博之 (2005年3月31日). “特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか? “11(イレブン)”のその秘密を探る〜プロスポーツと地域社会の在り方を通して〜” (PDF). ぶぎん地域経済研究所. 2014年11月30日閲覧。
- ^ a b 松本博之 (2005年3月31日). “第3章 ベストプラクティス21選” (PDF). 経済産業省 関東経済産業局. 2014年11月30日閲覧。
- ^ 清尾淳 (2005年3月31日). “「もう」と「まだ」の間の針を動かすのは” (PDF). Weps うち明け話. 2014年11月30日閲覧。
- ^ 2013/10/28・フランス誌『So Foot』より
- ^ “浦和サポーター、警備員に暴行の疑い 4人を現行犯逮捕”. 朝日新聞デジタル. 2013年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月30日閲覧。
- ^ %99/ 全カテゴリーにおける横断幕などの掲出を禁止することについて
- ^ 広島戦以降の横断幕、ゲートフラッグ、旗類、装飾幕等の掲出について
- ^ レッズとしての考え方として、「再発防止と安全に対する方向性を見出すことが大切である」としており、「今はJリーグ発足時の原点に戻って、安全で楽しいスタジアムでの観戦を実現していくことがレッズとしての最重要課題となる。そのための第一歩となる取組みとして考えての処置である」としている。但し、タオルマフラーについては、差別的な内容でないものや、掲揚が禁止されている表示物とそれに準じるものでなければ、持ち込み禁止とはしない(持ち込みを容認する)としている。
- ^ しかし、横断幕掲示禁止措置が取られるまでは試合開始前に「12」をハートで囲んだ大型横断幕(ビッグフラッグ)を掲げていた。
- ^ 2015年以降、Jリーグ加盟クラブで12番を選手に着けさせているのはサガン鳥栖だけで、鳥栖は17番を欠番としている。
関連項目
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズレディース
- 浦和レッドダイヤモンズ・アマチュア
- レッズランド
- さいたまダービー
- REDS TV GGR (テレビ埼玉で放送されているレッドダイヤモンズ応援番組)
- 浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム
- レッドボルテージ
- 赤菱のイレブン
レッズと同じく、三菱グループ内のサッカー部を前身とする(或いは現在も同グループ内のサッカー部として活動する)クラブ
- 三菱化成黒崎サッカー部(現:ギラヴァンツ北九州)
- 三菱自動車水島FC (←三菱自動車工業水島FC)
- 三菱重工長崎サッカー部
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- 浦和レッドダイヤモンズ (urawareddiamonds) - Facebook
- 浦和レッズオフィシャル (@REDSOFFICIAL) - X(旧Twitter)
- レッズランド
- レッドダイヤモンズ後援会