「東映」の版間の差分
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
出典の追加と加筆 |
||
45行目: | 45行目: | ||
| 特記事項 = テレビ朝日ホールディングスと互いに[[持分法|持分法適用会社]]である。 |
| 特記事項 = テレビ朝日ホールディングスと互いに[[持分法|持分法適用会社]]である。 |
||
<!--|特記事項 = [[テレビ朝日]]は[[持分法|持分法適用関連企業]]である。<br />アニメ制作子会社の[[東映アニメーション]]はテレビ朝日である。<br />[[フジ・メディア・ホールディングス]]の持分法適用関連企業である。-->}} |
<!--|特記事項 = [[テレビ朝日]]は[[持分法|持分法適用関連企業]]である。<br />アニメ制作子会社の[[東映アニメーション]]はテレビ朝日である。<br />[[フジ・メディア・ホールディングス]]の持分法適用関連企業である。-->}} |
||
'''東映株式会社'''(とうえい {{Lang-en-short|TOEI COMPANY,LTD.}}<ref>東映株式会社 定款 第1章第1条</ref>)は、[[日本]]の[[映画]]の製作、配給、興行会社。1951年に[[東京映画配給|東京映画配給株式会社]]が[[東横映画|東横映画株式会社]]、[[太泉映画|太泉映画株式会社]]と合併して設立した<ref name="沿革">{{Cite web|url=https://www.toei.co.jp/company/info/history/|title=沿革|work=|publisher=東映|accessdate=2019-2-18|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-0118-1127-46/https://www.toei.co.jp:443/company/info/history/|archivedate=2019-1-18}}({{Cite web|url=https://www.toei.co.jp/company/infographic/index.html|title=数字で見る東映|work=|publisher=東映|accessdate=2019-2-18}})。[https://www.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/history-of-toei-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E/204187429595920/ History of TOEI - Facebook]</ref><ref name="nfaj">[https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2020/10/19811020.pdf 日本映画史研究(1)- - 東映映画30年の歩み(1)] - [[国立映画アーカイブ|東京国立近代美術館フィルムセンター]]</ref>。直営の[[映画館]]2館、2つの[[撮影所]]([[東映東京撮影所]]と[[東映京都撮影所]])を保有し、戦後の[[日本映画|日本映画史]]を綴るにあたって欠かすことのできない数々の名作、話題作を世に送り出してきた<ref name="nfaj"/>[[東宝]]、[[松竹]]と共に日本のメジャー映画会社「'''御三家'''」<ref>{{Cite news|author=黒川文雄|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210508015/|title=バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部|work=[[4Gamer.net]]|publisher=[[デジタルハーツホールディングス]]|date=2021-07-17|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210716150208/https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210508015/|archivedate=2021年7月16日}}</ref>「'''三大メジャー'''」<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.jafra.or.jp/library/letter/backnumber/1997/28/4/1.html|title=制作基礎知識シリーズVol.1 映画上映会を実施する③ 映画業界の仕組み|work=地域創造レター|publisher=[[地域創造]]|date=1997-08|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220311041639/https://www.jafra.or.jp/library/letter/backnumber/1997/28/4/1.html|archivedate=2022年3月11日}}</ref>のひとつとなっている。[[テレビ朝日ホールディングス]]の大株主であると同時に、テレビ朝日ホールディングスが東映の筆頭株主という[[株式持ち合い]]の関係にあり、互いに持分法適用関連会社である<ref>「株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ」 https://www.tv-asahihd.co.jp/pdf/ir_news/pdf/20191209_kabushikitsuikashutoku.pdf テレビ朝日ホールディングスIRニュース2019年12月9日</ref>{{refnest|group=注|[[2021年]]現在、東映は[[朝日新聞社]]に次いで第2位のテレビ朝日HD株の18.8%を保有し<ref>[https://kabutan.jp/news/marketnews/?b=n202102190278 【5%】テレ朝HDについて、東映は保有割合が増加したと報告 「変更報告書No.6」]</ref>、[[テレビ朝日]]は東映株の11%を保有。また系列局の朝日放送(現在の[[朝日放送グループホールディングス]])も2006年に東映が売却した自社保有株を0.5%取得している。}}。 |
'''東映株式会社'''(とうえい {{Lang-en-short|TOEI COMPANY,LTD.}}<ref>東映株式会社 定款 第1章第1条</ref>)は、[[日本]]の[[映画]]の製作、配給、興行会社。1951年に[[東京映画配給|東京映画配給株式会社]]が[[東横映画|東横映画株式会社]]、[[太泉映画|太泉映画株式会社]]と合併して設立した<ref name="沿革">{{Cite web|url=https://www.toei.co.jp/company/info/history/|title=沿革|work=|publisher=東映|accessdate=2019-2-18|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-0118-1127-46/https://www.toei.co.jp:443/company/info/history/|archivedate=2019-1-18}}({{Cite web|url=https://www.toei.co.jp/company/infographic/index.html|title=数字で見る東映|work=|publisher=東映|accessdate=2019-2-18}})。[https://www.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/history-of-toei-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E/204187429595920/ History of TOEI - Facebook]</ref><ref name="nfaj">[https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2020/10/19811020.pdf 日本映画史研究(1)- - 東映映画30年の歩み(1)] - [[国立映画アーカイブ|東京国立近代美術館フィルムセンター]]</ref>。直営の[[映画館]]2館、2つの[[撮影所]]([[東映東京撮影所]]と[[東映京都撮影所]])を保有し、戦後の[[日本映画|日本映画史]]を綴るにあたって欠かすことのできない数々の名作、話題作を世に送り出してきた<ref name="nfaj"/>[[東宝]]、[[松竹]]と共に日本のメジャー映画会社「'''御三家'''」<ref>「[http://www.mizuhobank.co.jp/corporate/bizinfo/industry/sangyou/pdf/1048_03_02.pdf コンテンツ産業の展望 第2章 映画産業 第2章 映画産業]」 みずほ銀行 産業調査部、p.45 {{Cite news|author=黒川文雄|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210508015/|title=バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部|work=[[4Gamer.net]]|publisher=[[デジタルハーツホールディングス]]|date=2021-07-17|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210716150208/https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210508015/|archivedate=2021年7月16日}}</ref>「'''三大メジャー'''」<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.jafra.or.jp/library/letter/backnumber/1997/28/4/1.html|title=制作基礎知識シリーズVol.1 映画上映会を実施する③ 映画業界の仕組み|work=地域創造レター|publisher=[[地域創造]]|date=1997-08|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220311041639/https://www.jafra.or.jp/library/letter/backnumber/1997/28/4/1.html|archivedate=2022年3月11日}}</ref>のひとつとなっている。[[テレビ朝日ホールディングス]]の大株主であると同時に、テレビ朝日ホールディングスが東映の筆頭株主という[[株式持ち合い]]の関係にあり、互いに持分法適用関連会社である<ref>「株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ」 https://www.tv-asahihd.co.jp/pdf/ir_news/pdf/20191209_kabushikitsuikashutoku.pdf テレビ朝日ホールディングスIRニュース2019年12月9日</ref>{{refnest|group=注|[[2021年]]現在、東映は[[朝日新聞社]]に次いで第2位のテレビ朝日HD株の18.8%を保有し<ref>[https://kabutan.jp/news/marketnews/?b=n202102190278 【5%】テレ朝HDについて、東映は保有割合が増加したと報告 「変更報告書No.6」]</ref>、[[テレビ朝日]]は東映株の11%を保有。また系列局の朝日放送(現在の[[朝日放送グループホールディングス]])も2006年に東映が売却した自社保有株を0.5%取得している。}}。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
日本で唯一、[[東京都]][[練馬区]][[東大泉]]に「[[東映東京撮影所]]」、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]に「[[東映京都撮影所]]」と2つの撮影所を有し、それらの撮影所を中心に制作された劇場用映画の制作・配給・興行や、洋画の買い付け・劇場配給・テレビ放送権販売、テレビドラマの制作、広報映画の制作や教育映画の制作・販売などを行う総合映像企業。<br />[[東映アニメーション]]や[[東映テレビ・プロダクション]]、[[東映ラボ・テック]]などの子会社を通じた劇場用・テレビ用アニメーションなどの制作、テレビCMなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売、現像所やアフレコスタジオなどの所有・貸出も行っている。 |
日本で唯一、[[東京都]][[練馬区]][[東大泉]]に「[[東映東京撮影所]]」、[[京都府]][[京都市]][[右京区]][[太秦]]に「[[東映京都撮影所]]」と2つの撮影所を有し、それらの撮影所を中心に制作された劇場用映画の制作・配給・興行や、洋画の買い付け・劇場配給・テレビ放送権販売、テレビドラマの制作、広報映画の制作や教育映画の制作・販売などを行う総合映像企業。<br />[[東映アニメーション]]や[[東映テレビ・プロダクション]]、[[東映ラボ・テック]]などの子会社を通じた劇場用・テレビ用アニメーションなどの制作、テレビCMなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売、現像所やアフレコスタジオなどの所有・貸出も行っている。 |
||
早くからテレビやアニメーションの可能性に目をつけており{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="ritsumei中川">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.34382/00012895 |author=中川涼司 |date=2020-02 |title=映像化する京都、映像化される京都 : 京都イメージの転換と映像産業における京都の意味の変化 |journal=立命館国際研究 |publisher=立命館大学国際関係学会 |volume=32 |issue=3 |pages=(428)8、(431)11-(431)12、(435)15(435)-18 |naid=120006801930 |ISSN=0915-2008 |doi=10.34382/00012895}}</ref><ref name="岡田インタビュー">{{Cite web|url=https://megalodon.jp/2014-0824-0151-22/dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf|format=PDF|title=岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・[[福田和也]]|date=2005-05-15|work=[[メッセージ.jp]]|publisher=[[BSフジ]]|page=|accessdate=2018-09-28}}(archive){{Cite book |和書 | author = 金田信一郎 | year = 2006 | title = テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史 | chapter = 岡田茂・東映相談役インタビュー | publisher = 日経BP社 | pages = 211-215 | isbn=4-8222-0158-9 }}([https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した](Internet Archive)</ref><ref name="toyokeizai2101_2">{{Cite web|author=[[早見俊]]|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043401/https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|archivedate=2021-01-23}}</ref>、先述の通りテレビ朝日とは設立以来密接な関係にあり、同局に多数のコンテンツを供給している。同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた映像以外への事業多角化も古くから行い<ref name="キネ旬860213">{{Cite journal |和書 |author = 竹入栄二郎 |title = 映画40年全記録 |chapter = 映画サヴァイヴァル作戦 |journal = キネマ旬報増刊 |issue = 1986年2月13日号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 15 }}</ref><ref name="時報197210_11">{{Cite journal|和書 |author = |title = 儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る |journal = 映画時報 |issue = 1972年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出 |journal = 映画時報 |issue = 1972年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7 - 9 }}</ref><ref name="tada3">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/64647/|title=第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101615/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/64647/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>、かつては[[日本野球機構|プロ野球]]([[東映フライヤーズ]])や[[ボウリング]]、交通事業等を手掛け{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="tada3"/>、現在も京都撮影所の一部を活用した[[テーマパーク]]「[[東映太秦映画村]]」を筆頭に、ホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}。 |
早くからテレビやアニメーションの可能性に目をつけており{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="ritsumei中川">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.34382/00012895 |author=中川涼司 |date=2020-02 |title=映像化する京都、映像化される京都 : 京都イメージの転換と映像産業における京都の意味の変化 |journal=立命館国際研究 |publisher=立命館大学国際関係学会 |volume=32 |issue=3 |pages=(428)8、(431)11-(431)12、(435)15(435)-18 |naid=120006801930 |ISSN=0915-2008 |doi=10.34382/00012895}}</ref><ref name="nagoya.repo_2">{{Cite journal |和書|author=楊紅雲 |title=「斜陽化」に生きる東映--テレビに対抗した実録映画路線(1973-1975年)を中心に |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/6631#.YlFM0JHP1PY |journal=多元文化 |year=2005 |volume=5 |pages=115-226 |month=mar |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |accessdate=2022-04-09}}</ref><ref name="岡田インタビュー">{{Cite web|url=https://megalodon.jp/2014-0824-0151-22/dodo-geneki.com/messagejp/archive/pdf/07.pdf|format=PDF|title=岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・[[福田和也]]|date=2005-05-15|work=[[メッセージ.jp]]|publisher=[[BSフジ]]|page=|accessdate=2018-09-28}}(archive){{Cite book |和書 | author = 金田信一郎 | year = 2006 | title = テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史 | chapter = 岡田茂・東映相談役インタビュー | publisher = 日経BP社 | pages = 211-215 | isbn=4-8222-0158-9 }}([https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した](Internet Archive)</ref><ref name="toyokeizai2101_2">{{Cite web|author=[[早見俊]]|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043401/https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=2|archivedate=2021-01-23}}</ref>、先述の通りテレビ朝日とは設立以来密接な関係にあり、同局に多数のコンテンツを供給している。同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた映像以外への事業多角化も古くから行い<ref name="キネ旬860213">{{Cite journal |和書 |author = 竹入栄二郎 |title = 映画40年全記録 |chapter = 映画サヴァイヴァル作戦 |journal = キネマ旬報増刊 |issue = 1986年2月13日号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 15 }}</ref><ref name="時報197210_11">{{Cite journal|和書 |author = |title = 儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る |journal = 映画時報 |issue = 1972年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出 |journal = 映画時報 |issue = 1972年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7 - 9 }}</ref><ref name="tada3">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/64647/|title=第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101615/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/64647/|archivedate=2022年1月27日}}</ref><ref name="bn220331_7">{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=7|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=3|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402022349/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=7|archivedate=2022-04-02}}</ref>、かつては[[日本野球機構|プロ野球]]([[東映フライヤーズ]])や[[ボウリング]]、交通事業等を手掛け{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="tada3"/><ref name="bn220331_7"/>、現在も京都撮影所の一部を活用した[[テーマパーク]]「[[東映太秦映画村]]」を筆頭に、ホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="bn220331_7"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}。 |
||
== 沿革 == |
== 沿革 == |
||
<!--★以下は、岡田茂中心主義者による一方的な歪曲記述としか思えない。肝心の大川博への言及が矮小化されているのは悪意を感じる。大幅に見直すべきである--> |
<!--★以下は、岡田茂中心主義者による一方的な歪曲記述としか思えない。肝心の大川博への言及が矮小化されているのは悪意を感じる。大幅に見直すべきである--> |
||
東京・[[大泉町 (練馬区)|大泉]]の旧[[新興キネマ]]東京撮影所を買収して貸[[スタジオ]]経営を始め、やがて映画製作に進出した''[[太泉映画]]''([[1947年]][[10月15日]]設立)と、[[1938年]](昭和13年)東京横浜電鉄(のちの[[東急]])の興行子会社として[[東急東横線]]の沿線開発を目的に設立され、東京の[[渋谷]]や[[横浜市|横浜]]で映画館を経営していたが、戦後[[大映]]より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した''[[東横映画]]''(1938年[[6月8日]]設立)、双方で製作された作品配給のために[[1949年]](昭和24年)10月1日設立された'''''[[東京映画配給|東京映画配給株式会社]]'''''が、制作会社2社を吸収合併。[[1951年]](昭和26年)4月1日、社名を'''''東映株式会社'''''と改めて再出発した<ref name="沿革"/><ref name="nfaj"/><ref name="toshoshimbun"> [http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3156&syosekino=7158 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)]</ref>。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。[[阪急電鉄]]創業者の[[小林一三]]が[[東宝]]を作ったように、[[五島慶太]]は東映を作った<ref name="映画なんでも小事典">{{Cite book | 和書 | author = [[田中純一郎]]| title =映画なんでも小事典|series= [[現代教養文庫]] 1015| publisher = [[社会思想社]] | year = 1980 | pages=48-51 }}</ref><ref>[https://maonline.jp/articles/archive_toho_191024 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記]</ref><ref name="経済界19800321">{{Cite journal|和書 |author = 河合基吉 | title = 五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終 | journal = [[経済界 (出版社) |経済界]] |issue = 1980年3月21日号 |publisher = 経済界 | pages = 18 - 21 }}</ref>{{refnest|group=注|東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に[[百貨店]]やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった。}}。東横映画の社長だった[[黒川渉三]]が街の[[高利貸し]]から資金を調達して映画製作を続け<ref name="toshoshimbun"/><ref>{{Cite book | 和書 | author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]| title = クロニクル東映 1947-1991 | volume = 2 | publisher = 東映 | year = 1992 | pages=1-8 }}</ref><ref name="五島慶太伝">{{Cite book | 和書 | author = [[三鬼陽之助]]| title = 日本財界人物伝全集五島慶太伝| volume = 第十五巻第八回 | publisher = 東洋書館 | year = 1954 | pages=166-170 }}</ref>、黒川の後を継いだ者も[[黒字と赤字|赤字]]を増やし<ref name="映画なんでも小事典"/><ref name="五島慶太伝"/>、設立当時の東映の[[負債]]は、当時の金額で11億円(1989年頃の貨幣価値では数百億円以上<ref name="日経19890309">{{Cite news |title =日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(9)東映再建―父に事業のオニ見る(私の履歴書)|date = 1989年3月9日 |newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher = [[日本経済新聞社]] |pages = 32 }}</ref>)にのぼった<ref name="日経19890309"/><ref name="yomiuri19950814">{{Cite news | author = 塩沢一彦 |title = 〔映画百年〕(32)東映の設立 時代劇解禁が恵の風に(連載) |date = 1995年8月14日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 7 }}</ref><ref name="実業之日本19621201">{{Cite journal|和書 |author = | title = 会社の履歴書 東映 | journal = 実業之日本 |issue = 1962年12月1日号 |publisher = [[実業之日本社]] | pages = 154 }}</ref>。当時の映画事業に[[融資]]をするような[[銀行]]はなく<ref>{{Cite news | author = [[田中純一郎]]他|title = 71年度協会扱いの諸問題72年度への対処について|date = 1972年1月1日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 6 }}</ref><ref name="悔いなき171">{{Cite book | 和書 author = 岡田茂 | year = 2001 | title = 悔いなきわが映画人生東映と、共に歩んだ50年 | publisher = 財界研究所| id = ISBN 4879320161 | pages=171-175、238頁 }}</ref>、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島一中]]の先輩だった[[鈴木剛 (経営者)|鈴木剛]][[住友銀行]][[頭取]]を[[仲介]]して<ref name="悔いなき171"/>、五島慶太は住友銀行に[[融資]]を頼み<ref name="日経19890309"/><ref name="悔いなき171"/><ref name=" ismedia20130712 ">[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/36301 第40回 五島慶太(その三)稼いだカネは「映画」に投入---時代劇によって東映を復活させた]</ref>、東急から融資することは[[背任罪|背任行為]]とみなされ出来ず<ref name="日経19890309"/>、五島は五島家の[[株式]]や自宅も含む全資産を[[担保]]に住友銀行から融資を受けた<ref name="日経19890309"/><ref name="悔いなき171"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。五島慶太は男の大勝負の席に息子の[[五島昇]]を帯同させ教訓を与えた<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。鈴木は、昇の顔を見ながら「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますが、いいですね」と一言念を押した<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。淡々と話を聞くだけで全く動じない慶太の背中に昇は身震いし「"事業家のオニ"を見た思いだった」と話している<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。東映の[[メインバンク制|メインバンク]]の一つが住友銀行になったのはこの時からで<ref name="悔いなき171"/><ref name="不良番長浪漫">{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | year = 2017 | title = 不良番長 浪漫アルバム | chapter =吉田達インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | id = ISBN 9784198643546 | pages = 251 }}</ref>、この逸話をよく知る岡田茂が[[労働争議|組合運動]]に熱心な[[野田幸男]]を辞めさせたかったが<ref name="不良番長浪漫" >{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | year = 2017 | title = 不良番長 浪漫アルバム | chapter =吉田達インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | id = ISBN 9784198643546 | pages = 251 }}</ref>、野田は[[親族]]に住友銀行の幹部がいて辞めさせられなかったという逸話は東映内では有名だった<ref name="不良番長浪漫"/>。 |
東京・[[大泉町 (練馬区)|大泉]]の旧[[新興キネマ]]東京撮影所を買収して貸[[スタジオ]]経営を始め、やがて映画製作に進出した''[[太泉映画]]''([[1947年]][[10月15日]]設立)と、[[1938年]](昭和13年)東京横浜電鉄(のちの[[東急]])の興行子会社として[[東急東横線]]の沿線開発を目的に設立され、東京の[[渋谷]]や[[横浜市|横浜]]で映画館を経営していたが、戦後[[大映]]より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した''[[東横映画]]''(1938年[[6月8日]]設立)、双方で製作された作品配給のために[[1949年]](昭和24年)10月1日設立された'''''[[東京映画配給|東京映画配給株式会社]]'''''が、制作会社2社を吸収合併。[[1951年]](昭和26年)4月1日、社名を'''''東映株式会社'''''と改めて再出発した<ref name="沿革"/><ref name="nfaj"/><ref name="toshoshimbun"> [http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3156&syosekino=7158 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)]</ref>。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。[[阪急電鉄]]創業者の[[小林一三]]が[[東宝]]を作ったように、[[五島慶太]]は東映を作った<ref name="映画なんでも小事典">{{Cite book | 和書 | author = [[田中純一郎]]| title =映画なんでも小事典|series= [[現代教養文庫]] 1015| publisher = [[社会思想社]] | year = 1980 | pages=48-51 }}</ref><ref>[https://maonline.jp/articles/archive_toho_191024 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記]</ref><ref name="経済界19800321">{{Cite journal|和書 |author = 河合基吉 | title = 五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終 | journal = [[経済界 (出版社) |経済界]] |issue = 1980年3月21日号 |publisher = 経済界 | pages = 18 - 21 }}</ref>{{refnest|group=注|東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に[[百貨店]]やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった。}}。東横映画の社長だった[[黒川渉三]]が街の[[高利貸し]]から資金を調達して映画製作を続け<ref name="toshoshimbun"/><ref>{{Cite book | 和書 | author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]| title = クロニクル東映 1947-1991 | volume = 2 | publisher = 東映 | year = 1992 | pages=1-8 }}</ref><ref name="五島慶太伝">{{Cite book | 和書 | author = [[三鬼陽之助]]| title = 日本財界人物伝全集五島慶太伝| volume = 第十五巻第八回 | publisher = 東洋書館 | year = 1954 | pages=166-170 }}</ref>、黒川の後を継いだ者も[[黒字と赤字|赤字]]を増やし<ref name="映画なんでも小事典"/><ref name="五島慶太伝"/>、設立当時の東映の[[負債]]は、当時の金額で11億円(1989年頃の貨幣価値では数百億円以上<ref name="日経19890309">{{Cite news |title =日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(9)東映再建―父に事業のオニ見る(私の履歴書)|date = 1989年3月9日 |newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher = [[日本経済新聞社]] |pages = 32 }}</ref>)にのぼった<ref name="日経19890309"/><ref name="yomiuri19950814">{{Cite news | author = 塩沢一彦 |title = 〔映画百年〕(32)東映の設立 時代劇解禁が恵の風に(連載) |date = 1995年8月14日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 7 }}</ref><ref name="実業之日本19621201">{{Cite journal|和書 |author = | title = 会社の履歴書 東映 | journal = 実業之日本 |issue = 1962年12月1日号 |publisher = [[実業之日本社]] | pages = 154 }}</ref>。当時の映画事業に[[融資]]をするような[[銀行]]はなく<ref>{{Cite news | author = [[田中純一郎]]他|title = 71年度協会扱いの諸問題72年度への対処について|date = 1972年1月1日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 6 }}</ref><ref name="悔いなき171">{{Cite book | 和書 author = 岡田茂 | year = 2001 | title = 悔いなきわが映画人生東映と、共に歩んだ50年 | publisher = 財界研究所| id = ISBN 4879320161 | pages=171-175、238頁 }}</ref>、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島一中]]の先輩だった[[鈴木剛 (経営者)|鈴木剛]][[住友銀行]][[頭取]]を[[仲介]]して<ref name="悔いなき171"/>、五島慶太は住友銀行に[[融資]]を頼み<ref name="日経19890309"/><ref name="悔いなき171"/><ref name=" ismedia20130712 ">[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/36301 第40回 五島慶太(その三)稼いだカネは「映画」に投入---時代劇によって東映を復活させた]</ref>、東急から融資することは[[背任罪|背任行為]]とみなされ出来ず<ref name="日経19890309"/>、五島は五島家の[[株式]]や自宅も含む全資産を[[担保]]に住友銀行から融資を受けた<ref name="日経19890309"/><ref name="悔いなき171"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。五島慶太は男の大勝負の席に息子の[[五島昇]]を帯同させ教訓を与えた<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。鈴木は、昇の顔を見ながら「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますが、いいですね」と一言念を押した<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。淡々と話を聞くだけで全く動じない慶太の背中に昇は身震いし「"事業家のオニ"を見た思いだった」と話している<ref name="日経19890309"/><ref name=" ismedia20130712 "/>。東映再建が失敗していたら五島家は[[破産]]していたといわれる<ref name="日経19890309"/>。東映の[[メインバンク制|メインバンク]]の一つが住友銀行になったのはこの時からで<ref name="悔いなき171"/><ref name="不良番長浪漫">{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | year = 2017 | title = 不良番長 浪漫アルバム | chapter =吉田達インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | id = ISBN 9784198643546 | pages = 251 }}</ref>、この逸話をよく知る岡田茂が[[労働争議|組合運動]]に熱心な[[野田幸男]]を辞めさせたかったが<ref name="不良番長浪漫" >{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | year = 2017 | title = 不良番長 浪漫アルバム | chapter =吉田達インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | id = ISBN 9784198643546 | pages = 251 }}</ref>、野田は[[親族]]に住友銀行の幹部がいて辞めさせられなかったという逸話は東映内では有名だった<ref name="不良番長浪漫"/>。 |
||
東横映画には、[[マキノ光雄]]と[[根岸寛一]]を中心に、大陸から引き上げた[[満州映画協会]]OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは[[松竹]]、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="中島インタビュー">[https://www.facebook.com/notes/328099280538067/ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=229534770394519 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)]</ref><ref name="unext">[https://video.unext.jp/feature/cp/toeishowa/ 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT]</ref><ref>[https://godotsushin.net/column/357/ 野武士集団の撮影所]</ref>。[[引揚者#満州、朝鮮北部|引き揚げ者]]の救済は[[社是]]にも掲げられ<ref name="nikkei20100909">{{cite news |title=太秦最後のカツドウ屋(中)東映、反骨のエネルギーを語る(ひと脈々)怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書) |newspaper=[[日本経済新聞]]夕刊 |location=大阪 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2010-9-9 |page=オムニバス関西29頁}}</ref>、彼らはスタジオの裏に板張りの家を建てて棲みつき、[[炊き出し]]をして[[ノミ]]や[[ダニ]]と共に寝食を共にしたり<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="unext"/><ref>[http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2014/03/post_4948/ 「しのぎに来たヤクザさえも撃退」伝説のアウトロー映画集団東映の血風録]</ref>、[[山陰本線|山陰線]]の脇に撮影所の廃材で[[バラック]]を造って生活する者もいた<ref name="nikkei20100909"/>。 |
東横映画には、[[マキノ光雄]]と[[根岸寛一]]を中心に、大陸から引き上げた[[満州映画協会]]OBが製作スタッフとして参加しており<ref>[https://godotsushin.net/column/357/ 野武士集団の撮影所]</ref>、そのまま東映に移行した彼らは[[松竹]]、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="中島インタビュー">[https://www.facebook.com/notes/328099280538067/ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=229534770394519 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)]</ref><ref name="unext">[https://video.unext.jp/feature/cp/toeishowa/ 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT]</ref><ref>[https://godotsushin.net/column/357/ 野武士集団の撮影所]</ref>。[[引揚者#満州、朝鮮北部|引き揚げ者]]の救済は[[社是]]にも掲げられ<ref name="nikkei20100909">{{cite news |title=太秦最後のカツドウ屋(中)東映、反骨のエネルギーを語る(ひと脈々)怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書) |newspaper=[[日本経済新聞]]夕刊 |location=大阪 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2010-9-9 |page=オムニバス関西29頁}}</ref>、彼らはスタジオの裏に板張りの家を建てて棲みつき、[[炊き出し]]をして[[ノミ]]や[[ダニ]]と共に寝食を共にしたり<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="unext"/><ref>[http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2014/03/post_4948/ 「しのぎに来たヤクザさえも撃退」伝説のアウトロー映画集団東映の血風録]</ref>、[[山陰本線|山陰線]]の脇に撮影所の廃材で[[バラック]]を造って生活する者もいた<ref name="nikkei20100909"/>。 |
||
上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は「東映設立から4、5年の頑張りが、今の東映の骨格を作り上げたと言っていい」と述べている<ref name="yomiuri19950814"/>。 |
上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は「東映設立から4、5年の頑張りが、今の東映の骨格を作り上げたと言っていい」と述べている<ref name="yomiuri19950814"/>。 |
||
[[1950年代]]に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの[[片岡千恵蔵]]・[[市川右太衛門]]・[[月形龍之介]]・[[大友柳太朗]]らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た[[萬屋錦之介|中村錦之助]]・[[東千代之介]]がデビュー。[[1954年]](昭和29年)に[[松竹]]から[[美空ひばり]]を引き抜き大きな戦力になった{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[南部僑一郎]] | title = 連載映画千一夜(8) 新しい年ホープ | journal = キネマ旬報 |issue = 1968年2月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 68-69}}</ref>{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=107-110}}<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20131229_231432.html 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂]、{{Cite book | 和書 | title = 銀幕おもいで話 | author = [[高岩淡]] | publisher = [[双葉社]]| year = 2013 | isbn = 978-4-5757-14-01-2 | pages = 47-49頁 }}</ref>。東映と[[松竹]]、[[東宝]]、[[大映]]、[[新東宝]]、[[日活]]6社による[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の激しい競争の中<ref name="nfaj"/>、[[1952年]](昭和27年)初頭には「年間50本を製作し毎週新作1本を配給(全プロ配給)」を宣言し「製作-配給-興行」の垂直統合とブロックブッキング制を最初に敷き、撮影所システムと呼ばれる量産体制を確立した<ref>前田耕作, 細井浩一、「[https://doi.org/10.34382/00007730 映画産業における寡占の形成と衰退 ―日米における「撮影所システムの黄金時代」の比較を通じて―]」『アート・リサーチ』 2012年3月 12巻 p.3-15(p.9-11), 立命館大学アート・リサーチセンター, {{hdl|10367/5467}}。</ref>。[[1953年]](昭和28年)の『[[ひめゆりの塔 (1953年の映画)|ひめゆりの塔]]』は配収1億5000万円を挙げる空前の大ヒットで、[[負債]]はあらかた完了し発展時代に突入した<ref name="実業之日本19621201"/>。続いて1954年(昭和29年)、これも他社に先駆け、新作二本立て興行を開始{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8、18}}<ref name="シネ・フロント197806">{{Cite journal|和書|author=堀江毅|date=1978年6月号No.23|title=東映労働者が語る東映映画の歴史と現状『いま必要なのは『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の厳密な総括だ』|journal=シネ・フロント|publisher=シネ・フロント社|page=14}}</ref>。東映は設立と同時に[[労働組合]]が組織され<ref name="シネ・フロント197806"/>、全員[[社員]]になっていたが<ref name="シネ・フロント197806"/>、このとき大量の[[非正規雇用|臨時労働者]]が雇われ、無権利状態に置かれた<ref name="シネ・フロント197806"/>。東映の[[労働争議|労働闘争]]はここに端を発す<ref name="シネ・フロント197806"/>。その後[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]や市川の息子・[[北大路欣也]]が[[子役]]で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、[[1956年]](昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="unext"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="tada1_2">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/series/62773/2/|title=第1回 プロローグとしての私小説的映画体験 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2021-06-30|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127102706/https://conex-eco.co.jp/series/62773/2/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>。[[高岩淡]]は1954年に東映に入社し、研修期間に東映の直営館第1号である[[渋谷TOEI|渋谷東映]]で[[もぎり]]をやらされたが<ref name="avjournal199412">{{Cite journal|和書 |year=1994 |month=12|title=東映・高岩淡社長インタビュー 『総合戦略目指し上も動く下も動く』|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=27 }}</ref>、「1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを[[肩車]]で担いでいる光景に感動した」と話している<ref name="avjournal199412"/>。当時は"ジャリすくいの東映"といわれたが<ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映 | journal = 映画時報 |issue = 1976年4月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 12}}</ref>、この時期、長編の添え物として製作された『[[笛吹童子#映画|新諸国物語 笛吹童子]]』『里見八犬伝』『[[紅孔雀#映画|新諸国物語 紅孔雀]]』などの中編の冒険時代劇は児童層から熱狂的に受け入れられ<ref name="tada1_2"/><ref name="東映キネ旬20120101">{{Cite journal|和書|author= |title=特集東映動画まつり『いま光り輝く、東映動画}文・山下彗|journal=東映キネマ旬報 2008年冬号 vol.8|issue=2008年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|isbn=|pages=2-5}}</ref>、[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[東千代之介]]といった[[アイドル]]を生み<ref name="東映キネ旬20120101"/>、東映動画、[[東映まんがまつり]]と合わせ、子どもたちに娯楽版で映画館通いを覚えさせ、未来の観客を作り育てた<ref name="東映キネ旬20120101"/>。時代劇ブームの波に乗り隣接地を買収に次ぐ買収で3万坪に拡大した<ref name="avjournal199412"/>。量産ぶりは凄まじく1959年に東西両撮影所で、年間103本の映画を製作し<ref name="シネ・フロント197806"/>、1960年170本<ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199412"/>。二日に一本の滅茶苦茶なペースで映画が量産され<ref name="シネ・フロント197806"/>、1960年の大手六社の製作総本数522本のうち、三分の一が東映映画が占めた<ref name="シネ・フロント197806"/>。専門館は1,500館<ref name="avjournal199412"/>、契約館は全国2800館<ref name="avjournal199412"/>、年間配収は当時の金額で97億5千万円に上った<ref name="avjournal199412"/>。 |
[[1950年代]]に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの[[片岡千恵蔵]]・[[市川右太衛門]]・[[月形龍之介]]・[[大友柳太朗]]らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た[[萬屋錦之介|中村錦之助]]・[[東千代之介]]がデビュー。[[1954年]](昭和29年)に[[松竹]]から[[美空ひばり]]を引き抜き大きな戦力になった{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[南部僑一郎]] | title = 連載映画千一夜(8) 新しい年ホープ | journal = キネマ旬報 |issue = 1968年2月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 68-69}}</ref>{{Sfn|あかんやつら|2013|pp=107-110}}<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20131229_231432.html 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂]、{{Cite book | 和書 | title = 銀幕おもいで話 | author = [[高岩淡]] | publisher = [[双葉社]]| year = 2013 | isbn = 978-4-5757-14-01-2 | pages = 47-49頁 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|url=https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=600&item_no=1&page_id=41&block_id=63 |author= |date=2006-10-31 |title=チャンバラ映画と大衆演劇の蜜月--美空ひばりが銀幕で果たした役割 |journal=日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 |publisher=国際日本文化研究センター |volume=33 |issue= |page=75 |naid= |ISSN=09150900 |doi=}}</ref>。東映と[[松竹]]、[[東宝]]、[[大映]]、[[新東宝]]、[[日活]]6社による[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の激しい競争の中<ref name="nfaj"/>、[[1952年]](昭和27年)初頭には「年間50本を製作し毎週新作1本を配給(全プロ配給)」を宣言し「製作-配給-興行」の垂直統合とブロックブッキング制を最初に敷き、撮影所システムと呼ばれる量産体制を確立した<ref>前田耕作, 細井浩一、「[https://doi.org/10.34382/00007730 映画産業における寡占の形成と衰退 ―日米における「撮影所システムの黄金時代」の比較を通じて―]」『アート・リサーチ』 2012年3月 12巻 p.3-15(p.9-11), 立命館大学アート・リサーチセンター, {{hdl|10367/5467}}。</ref>。[[1953年]](昭和28年)の『[[ひめゆりの塔 (1953年の映画)|ひめゆりの塔]]』は配収1億5000万円を挙げる空前の大ヒットで、[[負債]]はあらかた完了し発展時代に突入した<ref name="実業之日本19621201"/>。続いて1954年(昭和29年)、これも他社に先駆け、新作二本立て興行を開始{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8、18}}<ref name="シネ・フロント197806">{{Cite journal|和書|author=堀江毅|date=1978年6月号No.23|title=東映労働者が語る東映映画の歴史と現状『いま必要なのは『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の厳密な総括だ』|journal=シネ・フロント|publisher=シネ・フロント社|page=14}}</ref>。東映は設立と同時に[[労働組合]]が組織され<ref name="シネ・フロント197806"/>、全員[[社員]]になっていたが<ref name="シネ・フロント197806"/>、このとき大量の[[非正規雇用|臨時労働者]]が雇われ、無権利状態に置かれた<ref name="シネ・フロント197806"/>。東映の[[労働争議|労働闘争]]はここに端を発す<ref name="シネ・フロント197806"/>。その後[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]や市川の息子・[[北大路欣也]]が[[子役]]で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、[[1956年]](昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="unext"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="tada1_2">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/series/62773/2/|title=第1回 プロローグとしての私小説的映画体験 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2021-06-30|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127102706/https://conex-eco.co.jp/series/62773/2/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>。[[高岩淡]]は1954年に東映に入社し、研修期間に東映の直営館第1号である[[渋谷TOEI|渋谷東映]]で[[もぎり]]をやらされたが<ref name="avjournal199412">{{Cite journal|和書 |year=1994 |month=12|title=東映・高岩淡社長インタビュー 『総合戦略目指し上も動く下も動く』|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=27 }}</ref>、「1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを[[肩車]]で担いでいる光景に感動した」と話している<ref name="avjournal199412"/>。当時は"ジャリすくいの東映"といわれたが<ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映 | journal = 映画時報 |issue = 1976年4月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 12}}</ref>、この時期、長編の添え物として製作された『[[笛吹童子#映画|新諸国物語 笛吹童子]]』『里見八犬伝』『[[紅孔雀#映画|新諸国物語 紅孔雀]]』などの中編の冒険時代劇は児童層から熱狂的に受け入れられ<ref name="tada1_2"/><ref name="東映キネ旬20120101">{{Cite journal|和書|author= |title=特集東映動画まつり『いま光り輝く、東映動画}文・山下彗|journal=東映キネマ旬報 2008年冬号 vol.8|issue=2008年8月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|isbn=|pages=2-5}}</ref><ref>{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=2|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|pages=2|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402021955/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=2|archivedate=2022-04-02}}</ref>、[[萬屋錦之介|中村錦之助]]や[[東千代之介]]といった[[アイドル]]を生み<ref name="東映キネ旬20120101"/>、東映動画、[[東映まんがまつり]]と合わせ、子どもたちに娯楽版で映画館通いを覚えさせ、未来の観客を作り育てた<ref name="東映キネ旬20120101"/>。時代劇ブームの波に乗り隣接地を買収に次ぐ買収で3万坪に拡大した<ref name="avjournal199412"/>。量産ぶりは凄まじく1959年に東西両撮影所で、年間103本の映画を製作し<ref name="シネ・フロント197806"/>、1960年170本<ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199412"/>。二日に一本の滅茶苦茶なペースで映画が量産され<ref name="シネ・フロント197806"/>、1960年の大手六社の製作総本数522本のうち、三分の一が東映映画が占めた<ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="bn220331_3">{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=3|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=3|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402022109/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=3|archivedate=2022-04-02}}</ref>。専門館は1,500館<ref name="avjournal199412"/>、契約館は全国2800館<ref name="avjournal199412"/>、年間配収は当時の金額で97億5千万円に上った<ref name="avjournal199412"/>。 |
||
[[1954年]](昭和29年)には[[プロ野球]]の東急フライヤーズの運営を[[東京急行電鉄]]から受託し、東映フライヤーズ(現在の[[北海道日本ハムファイターズ]])とした。また、[[1959年]](昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、[[1964年]](昭和39年)[[9月30日]]には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた[[大川博]]と、東急本体を引き継ぎ[[東急グループ]]の基本を沿線開発に据えた[[五島昇]]との間に確執があったと言われている。また、[[石坂泰三]]が五島に「東急に女を売り物にする商売はいらない」と言ったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。 |
[[1954年]](昭和29年)には[[プロ野球]]の東急フライヤーズの運営を[[東京急行電鉄]]から受託し、東映フライヤーズ(現在の[[北海道日本ハムファイターズ]])とした。また、[[1959年]](昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った<ref name="nagoya.repo_2"/>。ところが、[[1964年]](昭和39年)[[9月30日]]には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた[[大川博]]と、東急本体を引き継ぎ[[東急グループ]]の基本を沿線開発に据えた[[五島昇]]との間に確執があったと言われている。また、[[石坂泰三]]が五島に「東急に女を売り物にする商売はいらない」と言ったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。 |
||
現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、[[中原ひとみ]]・[[高倉健]]・[[水木襄]]・[[佐久間良子]]・[[梅宮辰夫]]・[[千葉真一]]ら[[主演]][[スター]]を[[東映ニューフェイス]]から輩出。現代劇は[[太平洋のGメン#東映ギャング路線|ギャング映画]]、[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠映画]]、格闘映画など、迫力溢れるアクション映画を生み出した<ref name="nfaj"/>。[[1957年]](昭和32年)には[[東映東京撮影所]]の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した[[東映アニメーション|東映動画]]を移転させた<ref name="沿革"/>。[[1958年]](昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける<ref name="沿革"/>。観客動員No.1となった東映は[[1960年]](昭和35年)に'''[[第二東映]]'''を設立し<ref name="沿革"/>、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した<ref name="神先インタビュー"/>。同年に第二東映が[[新東宝]]を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の'''新東映'''の設立が仮調印直前まで進むも頓挫<ref>鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235</ref>。翌1961年に第二東映は'''ニュー東映'''と改称するが、うまくいかずに2年で解散した{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="シネ・フロント197806"/>。重役だった片岡千恵蔵は大川に面と向かって「これはあんたの責任じゃないですか!」と責め立てた{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}。映画産業の斜陽化が色濃くなった時代に無謀な計画は大失敗し<ref name="シネ・フロント197806"/>、会社は労働者の分裂と合理化の攻撃を強化し、[[労使]]は激しく対立した<ref name="シネ・フロント197806"/>。また元々映画はズブの素人だった大川から<ref name="実業之日本19621201"/>、以降、映画製作の実権は東映の[[東映東京撮影所|東]]・[[東映京都撮影所|西撮影所]]の所長が握る体制が生まれた<ref name="キネ旬19711001">{{Cite journal|和書 |author = [[竹中労]] |title = 連載・日本映画横断 その10 『大川社長の死と東映任侠路線(中) 岡田新社長の実現〈邦画五社どこへ行く・5〉』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1971年10月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 97 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 井沢淳・[[瓜生忠夫]]・[[大黒東洋士]]・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿 |title = 〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか |journal = キネマ旬報 |issue = 1965年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 16 }}</ref>。 |
現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、[[中原ひとみ]]・[[高倉健]]・[[水木襄]]・[[佐久間良子]]・[[梅宮辰夫]]・[[千葉真一]]ら[[主演]][[スター]]を[[東映ニューフェイス]]から輩出。現代劇は[[太平洋のGメン#東映ギャング路線|ギャング映画]]、[[ヤクザ映画#東映任侠路線|任侠映画]]、格闘映画など、迫力溢れるアクション映画を生み出した<ref name="nfaj"/>。[[1957年]](昭和32年)には[[東映東京撮影所]]の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した[[東映アニメーション|東映動画]]を移転させた<ref name="沿革"/>。[[1958年]](昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける<ref name="沿革"/>。観客動員No.1となった東映は[[1960年]](昭和35年)に'''[[第二東映]]'''を設立し<ref name="沿革"/>、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した<ref name="神先インタビュー"/>。 |
||
10日に一本のペースで撮影していたといわれる<ref>{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=5|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=3|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402022247/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=5|archivedate=2022-04-02}}</ref>。同年に第二東映が[[新東宝]]を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の'''新東映'''の設立が仮調印直前まで進むも頓挫<ref>鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235</ref>。翌1961年に第二東映は'''ニュー東映'''と改称するが、うまくいかずに2年で解散した{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="シネ・フロント197806"/>。重役だった片岡千恵蔵は大川に面と向かって「これはあんたの責任じゃないですか!」と責め立てた{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}。映画産業の斜陽化が色濃くなった時代に無謀な計画は大失敗し<ref name="シネ・フロント197806"/>、会社は労働者の分裂と合理化の攻撃を強化し、[[労使]]は激しく対立した<ref name="シネ・フロント197806"/>。また元々映画はズブの素人だった大川から<ref name="実業之日本19621201"/>、以降、映画製作の実権は東映の[[東映東京撮影所|東]]・[[東映京都撮影所|西撮影所]]の所長が握る体制が生まれた<ref name="キネ旬19711001">{{Cite journal|和書 |author = [[竹中労]] |title = 連載・日本映画横断 その10 『大川社長の死と東映任侠路線(中) 岡田新社長の実現〈邦画五社どこへ行く・5〉』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1971年10月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 97 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 井沢淳・[[瓜生忠夫]]・[[大黒東洋士]]・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿 |title = 〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか |journal = キネマ旬報 |issue = 1965年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 16 }}</ref>。 |
|||
しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は[[1960年代]]に入ると行き詰まり<ref name="ritsumei中川"/>、末期にリアリズムの[[十七人の忍者#東映集団抗争時代劇|集団時代劇]]を生み出すものの終焉<ref name="ritsumei中川"/><ref>関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.</ref><ref>山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71</ref>。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963年から1964年にかけて、[[東映京都撮影所]]の大リストラを敢行し<ref name="toyokeizai2101_2"/>、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="神先インタビュー"> [https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]</ref>。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い[[渡辺邦男]]・[[松田定次]]・[[佐々木康]]などの時代劇の監督も東映を退社して行った<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/><ref name="toshoshimbun"/><ref name="神先インタビュー"/><ref name="tomaritsutomu">[http://www.unabaramedia.com/tomaritsutomu/vol2 泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代]</ref><ref name="asahi20001218">{{cite news |author = 八田伸拓|title=俳優・東千代之介さん(惜別) |newspaper=[[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2000-12-18 |page= 5}}</ref><ref>{{Cite journal | 和書 | author = 由原木七朗 | title = 由原木七朗の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決| journal = [[週刊明星]] | date = 1979年5月13日号 | publisher = [[集英社]] | pages = 168-169 }}</ref>。 |
しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は[[1960年代]]に入ると行き詰まり<ref name="ritsumei中川"/>、末期にリアリズムの[[十七人の忍者#東映集団抗争時代劇|集団時代劇]]を生み出すものの終焉<ref name="ritsumei中川"/><ref>関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.</ref><ref>山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71</ref>。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963年から1964年にかけて、[[東映京都撮影所]]の大リストラを敢行し<ref name="toyokeizai2101_2"/>、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="神先インタビュー"> [https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]</ref>。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い[[渡辺邦男]]・[[松田定次]]・[[佐々木康]]などの時代劇の監督も東映を退社して行った<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/><ref name="toshoshimbun"/><ref name="神先インタビュー"/><ref name="tomaritsutomu">[http://www.unabaramedia.com/tomaritsutomu/vol2 泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代]</ref><ref name="asahi20001218">{{cite news |author = 八田伸拓|title=俳優・東千代之介さん(惜別) |newspaper=[[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2000-12-18 |page= 5}}</ref><ref>{{Cite journal | 和書 | author = 由原木七朗 | title = 由原木七朗の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決| journal = [[週刊明星]] | date = 1979年5月13日号 | publisher = [[集英社]] | pages = 168-169 }}</ref>。 |
||
1963年(昭和38年)『[[人生劇場 飛車角]]』のヒットからは時代劇に代わり<ref name="toyokeizai2101_2"/>{{Sfn|日本映画は生きている4|2010|pp=268-276}}<ref name="tada2"/>、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある[[ヤクザ映画#東映任侠路線|仁侠映画]]を東西両撮影所で量産し<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/><ref name="神先インタビュー"/><ref name="toeininkyo">[https://megalodon.jp/2015-0705-1038-32/www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08131100/?all=1|title=ヤクザ映画黄金期を支えた鶴田浩二の「芸」と「色」 山口組組員に襲われ頭と手に11針縫う大けがも|work=[[週刊新潮|デイリー新潮]]|publisher=[[新潮社]]|date=2021-08-13|accessdate=2022-03-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813034423/https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08131100/?all=1|archivedate=2021年8月13日}}[https://deagostini.jp/site/tnd/pretop/director.html 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI]、[https://godotsushin.net/column/369/ コラム|東映京撮・盟友対談②]、[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/41760 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?]、山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154</ref><ref name=" dailyshincho20151119">[https://www.dailyshincho.jp/article/2015/11190850/?all=1 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」]</ref>、[[鶴田浩二]]・高倉健・[[富司純子|藤純子]]、[[若山富三郎]]らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toshoshimbun"/><ref name="tada2">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/series/63300/|title=第2回 仁義ある男たちが去り、仁義なき男たちが登場 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127102300/https://conex-eco.co.jp/series/63300/|archivedate=2022年1月27日}}</ref><ref>{{Cite news|url =https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03821270Q6A620C1BC8000/|title = 私の履歴書 松岡功(20)外部の力 百恵・友和コンビ誕生 ホリプロと組み「伊豆の踊子」 |date = 2016-6-21|accessdate = 2018-12-30|newspaper = 日本経済新聞|publisher = 日本経済新聞社}}</ref><ref name="avjournal199212">{{Cite journal|和書 |year=1992 |month=12|title=東宝・松岡功インタビュー 『東宝の映画基本戦略は揺がない』|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=26 }}{{Cite journal|和書 |title=自由化目前で"末期症状"の映画界|journal=経済展望 |issue=1964年3月15日号|publisher=経済展望社 |page=31 }}</ref><ref name="nagoya.repo">{{Cite journal |和書|author=楊紅雲 |title=任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に |url=https://doi.org/10.18999/muls.4.191 |journal=多元文化 |year=2004 |volume=4 |pages=191-202 |month=mar |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |accessdate=2020-06-10}}</ref>。 |
1963年(昭和38年)『[[人生劇場 飛車角]]』のヒットからは時代劇に代わり<ref name="toyokeizai2101_2"/>{{Sfn|日本映画は生きている4|2010|pp=268-276}}<ref name="tada2"/>、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある[[ヤクザ映画#東映任侠路線|仁侠映画]]を東西両撮影所で量産し<ref name="ritsumei中川"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toyokeizai2101_2"/><ref name="神先インタビュー"/><ref name="toeininkyo">[https://megalodon.jp/2015-0705-1038-32/www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08131100/?all=1|title=ヤクザ映画黄金期を支えた鶴田浩二の「芸」と「色」 山口組組員に襲われ頭と手に11針縫う大けがも|work=[[週刊新潮|デイリー新潮]]|publisher=[[新潮社]]|date=2021-08-13|accessdate=2022-03-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813034423/https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08131100/?all=1|archivedate=2021年8月13日}}[https://deagostini.jp/site/tnd/pretop/director.html 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI]、[https://godotsushin.net/column/369/ コラム|東映京撮・盟友対談②]、[https://gendai.ismedia.jp/articles/-/41760 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?]、山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154</ref><ref name=" dailyshincho20151119">[https://www.dailyshincho.jp/article/2015/11190850/?all=1 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」]</ref>、[[鶴田浩二]]・高倉健・[[富司純子|藤純子]]、[[若山富三郎]]らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した<ref name="nagoya.repo_2"/><ref name="岡田インタビュー"/><ref name="toshoshimbun"/><ref name="tada2">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/series/63300/|title=第2回 仁義ある男たちが去り、仁義なき男たちが登場 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127102300/https://conex-eco.co.jp/series/63300/|archivedate=2022年1月27日}}</ref><ref>{{Cite news|url =https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03821270Q6A620C1BC8000/|title = 私の履歴書 松岡功(20)外部の力 百恵・友和コンビ誕生 ホリプロと組み「伊豆の踊子」 |date = 2016-6-21|accessdate = 2018-12-30|newspaper = 日本経済新聞|publisher = 日本経済新聞社}}</ref><ref name="avjournal199212">{{Cite journal|和書 |year=1992 |month=12|title=東宝・松岡功インタビュー 『東宝の映画基本戦略は揺がない』|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=26 }}{{Cite journal|和書 |title=自由化目前で"末期症状"の映画界|journal=経済展望 |issue=1964年3月15日号|publisher=経済展望社 |page=31 }}</ref><ref name="nagoya.repo">{{Cite journal |和書|author=楊紅雲 |title=任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に |url=https://doi.org/10.18999/muls.4.191 |journal=多元文化 |year=2004 |volume=4 |pages=191-202 |month=mar |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |accessdate=2020-06-10}}</ref>。 |
||
[[1966年]](昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を[[朝日新聞社]]へ譲渡し、成績不振と[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に[[1972年]](昭和47年)オフに[[日拓ホーム]]に売却<ref name="tada3"/><ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20141204/bbl1412041140007-n1.htm 菅原文太さん死去で思い出す東映フライヤーズ身売り話 岡田社長の懐深さが染みた夜]</ref><ref name="zaikaisapporo">[https://www.zaikaisapporo.co.jp/interview/%E3%80%9D%E7%94%BB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%9F%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AF%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%88%BA%E6%BF%80%E3%81%99%E3%82%8B 〝画になる〟北海道は映画人を刺激する|財界さっぽろ]</ref>。また1960年代後半の多角経営を支えた[[ボウリング]]事業は1976年2月に完全撤退した<ref name="tada3"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="zaikaisapporo"/><ref name="レジャー産業197410">{{Cite journal|和書 |title = 森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂 |journal = [[月刊レジャー産業資料]] |issue = 1974年10月号 |publisher = エコセン |pages = 160 - 166 }}</ref>。その一方で、[[1971年]]二代目社長に就任した[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は、映画会社で初めて事業部制を敷き<ref>{{Cite news |title = 東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行 |date = 1972年6月17日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 4 }}</ref>、[[定款]]を変更して<ref name="週刊映画721111">{{Cite news |title = 東映傍系に東盛商事を設立 定款変更の現れ 既に積極化 |date = 1972年11月11日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 4 }}</ref>、「[[泥棒]]と[[詐欺]]以外は何でもやれ」と社員に命じ<ref name="tada3"/>、[[不動産]]<ref name="tada3"/><ref group=注>千葉県[[流山市]]と[[八千代市]]にある「東映団地」は当時開発された[[団地]]。</ref>、ビデオ事業([[東映ビデオ]])の拡張<ref name="tada3"/>、[[出版]]事業(『[[テレビランド]]』等)<ref name="とうえい">{{Cite journal|和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]](代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)|title = ―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長 |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年2月号 No.172 |publisher = '''東映株式会社''' |pages = 2-11 }}{{Cite journal|和書 |author = [[渡邊亮徳]] (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・[[飯島敬]](テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長) |title = テレビ事業部" もーれつでいこう" |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年2月号 No.172 |publisher ='''東映株式会社''' |pages = 12-16 }}{{Cite journal|和書 |title = 《東映グループの動き》 五月三〇日に創刊した劇画雑誌『コミック&コミック』(前号既報)の売れ行きについて― |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年6月号 No.176 |publisher ='''東映株式会社''' |pages = 12 }}</ref>、[[パチンコ店|パチンコ屋]](東盛商事)<ref name="tada3"/><ref name="週刊映画721111"/>、[[ゴルフ場]]経営<ref name="tada3"/>、[[ホテル#シティホテル|シティホテル]]建設<ref name="tada3"/>、[[消費者金融|サラ金]]<ref name="映画界のドン12">{{Cite book |和書 |author = [[新文化通信社|文化通信社]]編 |year = 2012 |title = 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 |publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] |isbn = 978-4-636-88519-4 |pages = 12-36、74-81頁 }}</ref>、[[葬祭業|葬儀屋]]{{Sfn|クロニクル東映|1991|pp=52-59}}、[[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]の[[仮面ライダー#関連商品|キャラクターグッズ販売]]<ref>{{Cite journal|和書 |title = 警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映 |journal = 映画時報 |issue = 1973年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>、[[アニメショップ]]([[アニメポリス・ペロ]]){{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=288}}などをやらせて事業の再構築を図った<ref name="tada3"/><ref name="レジャー産業197410"/><ref name="映画界のドン12"/><ref>{{Cite news |title = 〈脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営|date = 1971年11月8日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}{{Cite journal |和書 |title = 映画街 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1973年4月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 86 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映・岡田茂会長インタビュー 『儂に残された仕事はこれなんだよ』 |journal = 映画時報 |issue = 1994年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27 }}{{Cite book|和書|author=[[朝日新聞]]「ウイークエンド経済」編集部|year=1995|title=私の「経営」説法 ―ビジネス戦記 8人のトップが語る「マネジメントの要諦」| chapter = 時代の流れについていく感覚とは義理と人情東映会長岡田茂|publisher=[[プレジデント社]]|isbn=4833415917 |pages = 47-48 }}</ref>。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、岡田 |
[[1966年]](昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を[[朝日新聞社]]へ譲渡し、成績不振と[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に[[1972年]](昭和47年)オフに[[日拓ホーム]]に売却<ref name="tada3"/><ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20141204/bbl1412041140007-n1.htm 菅原文太さん死去で思い出す東映フライヤーズ身売り話 岡田社長の懐深さが染みた夜]</ref><ref name="zaikaisapporo">[https://www.zaikaisapporo.co.jp/interview/%E3%80%9D%E7%94%BB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%9F%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AF%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%88%BA%E6%BF%80%E3%81%99%E3%82%8B 〝画になる〟北海道は映画人を刺激する|財界さっぽろ]</ref>。また1960年代後半の多角経営を支えた[[ボウリング]]事業は1976年2月に完全撤退した<ref name="tada3"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="zaikaisapporo"/><ref name="レジャー産業197410">{{Cite journal|和書 |title = 森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂 |journal = [[月刊レジャー産業資料]] |issue = 1974年10月号 |publisher = エコセン |pages = 160 - 166 }}</ref>。その一方で、[[1971年]]二代目社長に就任した[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は、映画会社で初めて事業部制を敷き<ref>{{Cite news |title = 東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行 |date = 1972年6月17日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 4 }}</ref>、[[定款]]を変更して<ref name="週刊映画721111">{{Cite news |title = 東映傍系に東盛商事を設立 定款変更の現れ 既に積極化 |date = 1972年11月11日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 4 }}</ref>、「[[泥棒]]と[[詐欺]]以外は何でもやれ」と社員に命じ<ref name="tada3"/>、[[不動産]]<ref name="tada3"/><ref name="bn220331_7"/><ref group=注>千葉県[[流山市]]と[[八千代市]]にある「東映団地」は当時開発された[[団地]]。</ref>、ビデオ事業([[東映ビデオ]])の拡張<ref name="tada3"/>、[[出版]]事業(『[[テレビランド]]』等)<ref name="とうえい">{{Cite journal|和書 |author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]](代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)|title = ―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長 |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年2月号 No.172 |publisher = '''東映株式会社''' |pages = 2-11 }}{{Cite journal|和書 |author = [[渡邊亮徳]] (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・[[飯島敬]](テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長) |title = テレビ事業部" もーれつでいこう" |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年2月号 No.172 |publisher ='''東映株式会社''' |pages = 12-16 }}{{Cite journal|和書 |title = 《東映グループの動き》 五月三〇日に創刊した劇画雑誌『コミック&コミック』(前号既報)の売れ行きについて― |journal = 社内報とうえい |issue = 1973年6月号 No.176 |publisher ='''東映株式会社''' |pages = 12 }}</ref>、[[パチンコ店|パチンコ屋]](東盛商事)<ref name="tada3"/><ref name="週刊映画721111"/>、[[ゴルフ場]]経営<ref name="tada3"/>、[[ホテル#シティホテル|シティホテル]]建設<ref name="tada3"/>、[[消費者金融|サラ金]]<ref name="映画界のドン12">{{Cite book |和書 |author = [[新文化通信社|文化通信社]]編 |year = 2012 |title = 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 |publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] |isbn = 978-4-636-88519-4 |pages = 12-36、74-81頁 }}</ref>、[[葬祭業|葬儀屋]]{{Sfn|クロニクル東映|1991|pp=52-59}}、[[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]の[[仮面ライダー#関連商品|キャラクターグッズ販売]]<ref>{{Cite journal|和書 |title = 警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映 |journal = 映画時報 |issue = 1973年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>、[[アニメショップ]]([[アニメポリス・ペロ]]){{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=288}}などをやらせて事業の再構築を図った<ref name="tada3"/><ref name="bn220331_7"/><ref name="レジャー産業197410"/><ref name="映画界のドン12"/><ref>{{Cite news |title = 〈脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営|date = 1971年11月8日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}{{Cite journal |和書 |title = 映画街 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1973年4月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 86 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映・岡田茂会長インタビュー 『儂に残された仕事はこれなんだよ』 |journal = 映画時報 |issue = 1994年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 27 }}{{Cite book|和書|author=[[朝日新聞]]「ウイークエンド経済」編集部|year=1995|title=私の「経営」説法 ―ビジネス戦記 8人のトップが語る「マネジメントの要諦」| chapter = 時代の流れについていく感覚とは義理と人情東映会長岡田茂|publisher=[[プレジデント社]]|isbn=4833415917 |pages = 47-48 }}</ref>。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、岡田は「いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ」<ref name="nagoya.repo"/>「不良性感度のある映画しか観客は見ないんだ」{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}等と発言し、[[テレビ]]に取り込まれない客層を狙い{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="nagoya.repo_2"/>、[[ヤクザ映画]]や、[[実録シリーズ|実録ヤクザもの]]や<ref name="tada3"/>、エログロもの([[東映ポルノ]])を量産した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="ritsumei中川"/><ref name="tada3"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="toshoshimbun"/><ref name="tomaritsutomu"/><ref name="不良性感度">[https://www.cinematoday.jp/news/N0033507 スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝 - シネマトゥデイ]、[https://www.bunkatsushin.com/varieties/article.aspx?bc=1&id=1058 大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.29]、[https://eiga.com/movie/86671/critic/ 孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com]{{Cite journal | 和書 | author = | year = 2011 | month = 7 | title = <small>東映不良性感度路線の父</small> 岡田茂逝去 | journal = 映画秘宝 | volume = | publisher = 洋泉社 | page= 52 }}</ref><ref name="ds20151119" > |
||
[https://www.dailyshincho.jp/article/2015/11190850/?all=1 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」]</ref><ref>{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=3|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=6|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402022109/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=6|archivedate=2022-04-02}}{{Cite journal|和書 |author = | title = この最大の危機をどう切り抜けるのか?映画経営者の英断の年がきた。| journal = 映画時報 |issue = 1966年1月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 19-20頁 }}[https://www.toei.co.jp/release/bb/1213224_971.html “ JUNK FILM by TOEI ” が、8月23日(木)より「Amazon Prime Videoチャンネル」にてサービス開始!!]、[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20161111/enn1611111700006-n1.htm 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】偉人編(上)“経済界のフィクサー”暗躍で柴田恭兵主演「福沢諭吉」実現へ (1/2ページ)]、[https://mag.mysound.jp/post/233 Californian Grave Digger ~極私的ロック映画セレクション(日本映画編)~]</ref><ref name="nagoya.repo_3">{{Cite journal|和書 |author=王温懿 |title=東映ポルノのジェンダー・ポリティクス : 1970年代の日本映画と女性 |journal=Juncture : 超域的日本文化研究 |ISSN=1884-4766 |publisher=名古屋大学大学院文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター |year=2017 |month=mar |issue=8 |pages=150-166 |naid=120006778961 |doi=10.18999/juncture.8.150 |url=https://doi.org/10.18999/juncture.8.150 |accessdate=2022-04-09 }}</ref>。岡田は「路線は少しづつ変わってもいいが、野性味を失ったら、東映という会社はダメになってしまうんだ」と述べていた<ref name="yomiuri19950814"/>。岡田の社長就任で大手映画会社で東映は唯一、実質オーナーのいない会社になり<ref name="映画時報197503">{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界東西南北談議 企業防衛を運営方針の基本に各社、合理化と収益部門の拡大を意図| journal = 映画時報 |issue = 1975年3月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 36-37頁 }}</ref>、結果的に岡田が長く居座ったが、役員の中に自分が次期社長になれるかもしれないと仕事のやる気も上がった<ref name="映画時報197503"/>。 |
|||
1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250~260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340~350館<ref name=" 映画時報197007">{{Cite journal|和書 |author = 岡田茂 (東映・常務取締役映画本部長)・[[渡邊亮徳|渡辺亮徳]] (東映・[[東映テレビ・プロダクション|テレビ企画]]営業部長)・神英彦 (東映・教育映画営業部長)・小林秀次([[東映ビデオ]]・取締役営業部長)、司会・北浦馨| title =多面的活躍を続ける東映映像産業の現況と新路線| journal = 映画時報 |issue = 1970年7月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 19 }}</ref>。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり<ref name=" 映画時報197007"/>、これを実態のつかみにくいフラット館と呼んだが<ref name=" 映画時報197007"/>、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100~1200館あった<ref name=" 映画時報197007"/>。第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った<ref name=" 映画時報197007"/>。 |
1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250~260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340~350館<ref name=" 映画時報197007">{{Cite journal|和書 |author = 岡田茂 (東映・常務取締役映画本部長)・[[渡邊亮徳|渡辺亮徳]] (東映・[[東映テレビ・プロダクション|テレビ企画]]営業部長)・神英彦 (東映・教育映画営業部長)・小林秀次([[東映ビデオ]]・取締役営業部長)、司会・北浦馨| title =多面的活躍を続ける東映映像産業の現況と新路線| journal = 映画時報 |issue = 1970年7月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 19 }}</ref>。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり<ref name=" 映画時報197007"/>、これを実態のつかみにくいフラット館と呼んだが<ref name=" 映画時報197007"/>、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100~1200館あった<ref name=" 映画時報197007"/>。第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った<ref name=" 映画時報197007"/>。 |
||
[[1973年]]の『[[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]]』でヤクザ映画を[[実録シリーズ|実録もの]]に切り替える<ref name="ritsumei中川"/><ref name="tada3"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="unext"/><ref name="tomaritsutomu"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="toyokeizai2101_3">{{Cite web|author=[[早見俊]]|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=3|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043703/https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=3|archivedate=2021-01-23}}</ref><ref>[https://www.facebook.com/note.php?note_id=315515601796435 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=328099920538003 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]、{{Cite book | 和書 | author = [[佐藤忠男]](編)| title = 日本の映画人 -日本映画の創造者たち- | publisher = [[日外アソシエーツ]] | year = 2007 | id = ISBN 978-4-8169-2035-6 | page = 122 }}{{Cite book | 和書 | author = [[中原早苗]] | title = 女優魂 中原早苗 | publisher = [[ワイズ出版]] | year = 2009 | id = ISBN 9784898302354 | pages = 176 }}</ref>。格闘映画では千葉真一と[[志穂美悦子]]の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした<ref name="ritsumei中川"/><ref>[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]、1974年12月18日付。</ref><ref>「本家[[ブルース・リー]]をしのぐ[[千葉真一]]」 [[報知新聞]]、1974年12月27日付朝刊。</ref><ref>{{Cite journal |和書 |year = 1981 |month = 8 |journal = SPORTS CITY |volume = 1 |issue = 2 |page = 32 |publisher = 鎌倉書房 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 中村カタブツ |year = 1999 |title = 極真外伝 〜[[極真空手]]もう一つの闘い〜 |publisher = ぴいぷる社 |pages = 172 - 186 |isbn = 4893741373 }}</ref>。[[プログラムピクチャー]]としてのヤクザ映画路線は[[1977年]]に終了した<ref>大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.</ref>。正統的[[教養主義]]と闘う[[カウンターカルチャー]]が世界中で沸騰した1970年前後<ref name="東京20110306" >{{Cite news |author = [[中条省平]] |title = BOOK ナビ フィクション |date = 2011年3月6日 |newspaper = [[東京新聞]]朝刊読書3面 |publisher = [[中日新聞東京本社]] |page = 9 }}</ref>、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった<ref name="unext"/><ref name="東京20110306" /><ref>{{cite news |title=アプローチ'69読者とともに|newspaper=[[スポーツニッポン]] |location=東京 |publisher=スポーツニッポン新聞社|date=1969-11-23 |page=10}}</ref><ref>{{Cite book | 和書 | author =浅野潜| title = 吶喊 映画記者―持続と信義| publisher = [[ブレーンセンター]] | year = 2002 | isbn = 4-8339-0420-9| pages=17 }}</ref>。1975年(昭和50年)に新たなジャンルである[[パニック映画]]『[[新幹線大爆破]]』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『[[トラック野郎]]』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された<ref name="tada3"/>。 |
[[1973年]]の『[[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]]』でヤクザ映画を[[実録シリーズ|実録もの]]に切り替える<ref name="ritsumei中川"/><ref name="tada3"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="unext"/><ref name="tomaritsutomu"/><ref name="toeininkyo"/><ref name="toyokeizai2101_3">{{Cite web|author=[[早見俊]]|title=「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼|url=https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=3|website=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|date=2021-01-23|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123043703/https://toyokeizai.net/articles/-/396351?page=3|archivedate=2021-01-23}}</ref><ref>[https://www.facebook.com/note.php?note_id=315515601796435 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=328099920538003 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]、{{Cite book | 和書 | author = [[佐藤忠男]](編)| title = 日本の映画人 -日本映画の創造者たち- | publisher = [[日外アソシエーツ]] | year = 2007 | id = ISBN 978-4-8169-2035-6 | page = 122 }}{{Cite book | 和書 | author = [[中原早苗]] | title = 女優魂 中原早苗 | publisher = [[ワイズ出版]] | year = 2009 | id = ISBN 9784898302354 | pages = 176 }}</ref>。1973年から1975年の三年間は実録映画が会社総製作本数のほぼ30%を占めたが<ref name="nagoya.repo_2"/>、1976年からは大幅に減少した<ref name="nagoya.repo_2"/>。格闘映画では千葉真一と[[志穂美悦子]]の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした<ref name="ritsumei中川"/><ref>[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety]]、1974年12月18日付。</ref><ref>「本家[[ブルース・リー]]をしのぐ[[千葉真一]]」 [[報知新聞]]、1974年12月27日付朝刊。</ref><ref>{{Cite journal |和書 |year = 1981 |month = 8 |journal = SPORTS CITY |volume = 1 |issue = 2 |page = 32 |publisher = 鎌倉書房 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 中村カタブツ |year = 1999 |title = 極真外伝 〜[[極真空手]]もう一つの闘い〜 |publisher = ぴいぷる社 |pages = 172 - 186 |isbn = 4893741373 }}</ref>。[[プログラムピクチャー]]としてのヤクザ映画路線は[[1977年]]に終了した<ref>大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.</ref>。正統的[[教養主義]]と闘う[[カウンターカルチャー]]が世界中で沸騰した1970年前後<ref name="東京20110306" >{{Cite news |author = [[中条省平]] |title = BOOK ナビ フィクション |date = 2011年3月6日 |newspaper = [[東京新聞]]朝刊読書3面 |publisher = [[中日新聞東京本社]] |page = 9 }}</ref>、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった<ref name="unext"/><ref name="東京20110306" /><ref>{{cite news |title=アプローチ'69読者とともに|newspaper=[[スポーツニッポン]] |location=東京 |publisher=スポーツニッポン新聞社|date=1969-11-23 |page=10}}</ref><ref>{{Cite book | 和書 | author =浅野潜| title = 吶喊 映画記者―持続と信義| publisher = [[ブレーンセンター]] | year = 2002 | isbn = 4-8339-0420-9| pages=17 }}</ref>。1975年(昭和50年)に新たなジャンルである[[パニック映画]]『[[新幹線大爆破]]』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『[[トラック野郎]]』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された<ref name="tada3"/>。 |
||
映画部門が斜陽となってからは、[[東映アニメーション|アニメ部門]]、[[東映テレビ・プロダクション|テレビ事業部]]、[[東映ビデオ|ビデオ部]]、不動産部門などが、映画製作を支えて行く<ref name="ritsumei中川"/><ref name="経済界19990817">{{Cite journal|和書|title=『鉄道員』は日本映画界を蘇らせるか、岡田茂・東映会長が吠える!|journal=[[経済界 (出版社) |経済界]]|issue=1999年8月17日号|publisher=経済界|page=42}}</ref><ref name="シネフロント198608">{{Cite journal|和書|author=|title=撮影所は今 『映画界の疲弊が撮影所をおおう』文・浜田佳代子| quote = 大手三社の最近の業績をみると、東宝は今年8月中間期の見通しを映画の好調、ビル賃貸の増収で[[利益#経常利益|経常利益]]が30億円と予想し、通期でも過去最高を更新すると見ています。東映は映画の低迷をビデオと不動産部門の伸びで補い、経常利益は30%増の30億円と予想し、松竹も演劇部門の伸びで経常利益は20%増の4億5千万円になり、通期で20%近い経常利益増の見通しを立てています。映画状況の深刻さとは裏腹に企業業績は一定の数字を挙げ、内容的にもビデオ、ディスク、不動産等の[[多角化]]効果を示しています。会社側にしてみれば、何も映画づくりでリスクを負わなくても、配給、興行、さらには不動産ででも"もうけ"られればいいということになるのでしょう。|journal=シネ・フロント|date=1986年8月号 No.118|publisher=シネ・フロント社|pages=39}}</ref><ref name="日金19890629">{{cite news |author = 水野|title=企業業績この業界(9)映画―不動産事業展開に活路、ニューメディア進出|newspaper=[[日経金融新聞]] |publisher=日本経済新聞社 |date=1989-6-29 |page= 19}}</ref>{{refnest|group=注|1975年9月~1976年8月期[[売上高]]390億4367万円(映画製作配給126億3300万円、興行114億5100万円、テレビ90億1000万円、教育15億6300万円、観光不動産43億8300万円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談 正月興行に大きな期待をかける邦洋各社とも来年は飛躍の年に……|journal = 映画時報 |issue = 1976年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 34-35頁 }}</ref>。1980年9月~1981年8月期売上高596億円(映画製作配給162億円、興行127億円、テレビ147億円、教育24億円、観光不動産139億円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title =東映58期決算売上高596億円3千万円で12%減|journal = 映画時報 |issue = 1981年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 15 }}</ref>。1988年4月~1989年3月期売上高960億円(映画製作配給226億円、興行127億円、テレビ147億円、ビデオ195億円、教育27億円、観光不動産238億円)<ref>{{Cite journal|和書 |year=1989 |month=11|title=フラッシュ映画 東宝、東映が増収増益 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=22頁 }}</ref>。1960年代まで収益の柱だったボウリング事業は1972年を境に急激に衰退したが、ボウリング場は立地条件がよいため、この転換事業に手掛けたマンション販売や建売りがよく売れ、観光不動産部は他に全国の劇場再開発やホテル建設を推進し大きな収益の柱になった<ref name="映画時報197904">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議必死の巻返し計る映画界決算・人事と話題の豊富な各社|journal = 映画時報 |issue = 1979年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 8頁 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映、福岡みなと東映跡に『福岡東映ホテル』建設|journal = 映画時報 |issue = 1979年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19頁 }}{{Cite journal|和書 |year=1995 |month=9|title=東映5番目の『広島東映プラザ』がオープン邦洋2劇場と東急ハンズ、プローバが出店 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=106頁 }}</ref><ref name="映画時報198005_12">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-13頁 }}</ref>。1991年4月~1992年3月期売上高1022億円(映画製作配給258億円、興行106億円、テレビ184億円、ビデオ249億円、教育29億円、観光不動産293億円)<ref>{{Cite journal|和書 |year=1992 |month=9|title=東映69期1022億円 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |pages=24-25頁 }}</ref>。1995年4月~1996年3月期売上高899億円(映画製作配給222億円、興行94億円、テレビ169億円、ビデオ180億円、教育24億円、観光不動産207億円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 決算東映(第73期)|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 35-38頁 }}</ref>。}}。1988年4月~1999年3月期[[決算]]で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した<ref name="キネ旬19890701">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル東映が映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成/東宝も好決算をまとめ、松竹はまずまずの決算に。| journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1989年7月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 148-149 }}</ref>。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく<ref name="シネフロント198608"/>、ビデオや不動産を中心とした[[多角化|多角]]経営戦略で[[利益#経常利益|利益]]自体は上げていた<ref name="シネフロント198608"/>。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた<ref name="日金19890629"/><ref name="キネ旬19890701"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル| journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1992年6月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 167 }}</ref>。[[1972年]]に[[東映洋画]]を設立し{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}、洋ピンと呼ばれる欧米の[[ポルノ映画]]を配給したのを手始めに<ref name="沿革"/><ref>[[新文化通信社|文化通信社]]編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』[[ヤマハミュージックメディア]]、2012年、p.144</ref>、[[1975年]]の『[[ドラゴンへの道]]』や[[1979年]]の『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ブルース・リー]]や[[ジャッキー・チェン]]といった[[香港映画]]を中心に配給{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="キネ旬1592">「東映が新レーベル発足 外国映画の配給を復活」『キネマ旬報』2011年9月上旬号、p.135</ref>。東映洋画部ではその他にも[[1977年]]から『[[宇宙戦艦ヤマト]]』シリーズなどアニメ映画を配給して<ref name="岡田インタビュー"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 東映会長・岡田茂』財界研究所、2001年、p.183</ref><ref name="tada220304">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/71698/2/|title=第6回 1977年『宇宙戦艦ヤマト』大ヒットの舞台裏を語った東映会長・多田憲之 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220311075542/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/71698/2/|archivedate=2022年3月11日}}</ref>、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外に[[テレビ映画]]の制作にも積極的に取り組んだ。[[時代劇]]が斜陽になったことから[[1975年]](昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を[[東映太秦映画村]]とした{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="神先インタビュー"/>。 |
映画部門が斜陽となってからは、[[東映アニメーション|アニメ部門]]、[[東映テレビ・プロダクション|テレビ事業部]]、[[東映ビデオ|ビデオ部]]、不動産部門などが、映画製作を支えて行く<ref name="ritsumei中川"/><ref name="経済界19990817">{{Cite journal|和書|title=『鉄道員』は日本映画界を蘇らせるか、岡田茂・東映会長が吠える!|journal=[[経済界 (出版社) |経済界]]|issue=1999年8月17日号|publisher=経済界|page=42}}</ref><ref name="シネフロント198608">{{Cite journal|和書|author=|title=撮影所は今 『映画界の疲弊が撮影所をおおう』文・浜田佳代子| quote = 大手三社の最近の業績をみると、東宝は今年8月中間期の見通しを映画の好調、ビル賃貸の増収で[[利益#経常利益|経常利益]]が30億円と予想し、通期でも過去最高を更新すると見ています。東映は映画の低迷をビデオと不動産部門の伸びで補い、経常利益は30%増の30億円と予想し、松竹も演劇部門の伸びで経常利益は20%増の4億5千万円になり、通期で20%近い経常利益増の見通しを立てています。映画状況の深刻さとは裏腹に企業業績は一定の数字を挙げ、内容的にもビデオ、ディスク、不動産等の[[多角化]]効果を示しています。会社側にしてみれば、何も映画づくりでリスクを負わなくても、配給、興行、さらには不動産ででも"もうけ"られればいいということになるのでしょう。|journal=シネ・フロント|date=1986年8月号 No.118|publisher=シネ・フロント社|pages=39}}</ref><ref name="日金19890629">{{cite news |author = 水野|title=企業業績この業界(9)映画―不動産事業展開に活路、ニューメディア進出|newspaper=[[日経金融新聞]] |publisher=日本経済新聞社 |date=1989-6-29 |page= 19}}</ref>{{refnest|group=注|1975年9月~1976年8月期[[売上高]]390億4367万円(映画製作配給126億3300万円、興行114億5100万円、テレビ90億1000万円、教育15億6300万円、観光不動産43億8300万円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談 正月興行に大きな期待をかける邦洋各社とも来年は飛躍の年に……|journal = 映画時報 |issue = 1976年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 34-35頁 }}</ref>。1980年9月~1981年8月期売上高596億円(映画製作配給162億円、興行127億円、テレビ147億円、教育24億円、観光不動産139億円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title =東映58期決算売上高596億円3千万円で12%減|journal = 映画時報 |issue = 1981年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 15 }}</ref>。1988年4月~1989年3月期売上高960億円(映画製作配給226億円、興行127億円、テレビ147億円、ビデオ195億円、教育27億円、観光不動産238億円)<ref>{{Cite journal|和書 |year=1989 |month=11|title=フラッシュ映画 東宝、東映が増収増益 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=22頁 }}</ref>。1960年代まで収益の柱だったボウリング事業は1972年を境に急激に衰退したが、ボウリング場は立地条件がよいため、この転換事業に手掛けたマンション販売や建売りがよく売れ、観光不動産部は他に全国の劇場再開発やホテル建設を推進し大きな収益の柱になった<ref name="映画時報197904">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議必死の巻返し計る映画界決算・人事と話題の豊富な各社|journal = 映画時報 |issue = 1979年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 8頁 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映、福岡みなと東映跡に『福岡東映ホテル』建設|journal = 映画時報 |issue = 1979年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19頁 }}{{Cite journal|和書 |year=1995 |month=9|title=東映5番目の『広島東映プラザ』がオープン邦洋2劇場と東急ハンズ、プローバが出店 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=106頁 }}</ref><ref name="映画時報198005_12">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-13頁 }}</ref>。1991年4月~1992年3月期売上高1022億円(映画製作配給258億円、興行106億円、テレビ184億円、ビデオ249億円、教育29億円、観光不動産293億円)<ref>{{Cite journal|和書 |year=1992 |month=9|title=東映69期1022億円 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |pages=24-25頁 }}</ref>。1995年4月~1996年3月期売上高899億円(映画製作配給222億円、興行94億円、テレビ169億円、ビデオ180億円、教育24億円、観光不動産207億円)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 決算東映(第73期)|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 35-38頁 }}</ref>。}}。1988年4月~1999年3月期[[決算]]で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した<ref name="キネ旬19890701">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル東映が映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成/東宝も好決算をまとめ、松竹はまずまずの決算に。| journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1989年7月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 148-149 }}</ref>。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく<ref name="シネフロント198608"/>、ビデオや不動産を中心とした[[多角化|多角]]経営戦略で[[利益#経常利益|利益]]自体は上げていた<ref name="シネフロント198608"/>。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた<ref name="日金19890629"/><ref name="キネ旬19890701"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル| journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1992年6月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 167 }}</ref>。[[1972年]]に[[東映洋画]]を設立し{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}、洋ピンと呼ばれる欧米の[[ポルノ映画]]を配給したのを手始めに<ref name="沿革"/><ref>[[新文化通信社|文化通信社]]編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』[[ヤマハミュージックメディア]]、2012年、p.144</ref>、[[1975年]]の『[[ドラゴンへの道]]』や[[1979年]]の『[[ドランクモンキー 酔拳]]』など[[ブルース・リー]]や[[ジャッキー・チェン]]といった[[香港映画]]を中心に配給{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="キネ旬1592">「東映が新レーベル発足 外国映画の配給を復活」『キネマ旬報』2011年9月上旬号、p.135</ref>。東映洋画部ではその他にも[[1977年]]から『[[宇宙戦艦ヤマト]]』シリーズなどアニメ映画を配給して<ref name="岡田インタビュー"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 東映会長・岡田茂』財界研究所、2001年、p.183</ref><ref name="tada220304">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/71698/2/|title=第6回 1977年『宇宙戦艦ヤマト』大ヒットの舞台裏を語った東映会長・多田憲之 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220311075542/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/71698/2/|archivedate=2022年3月11日}}</ref>、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外に[[テレビ映画]]の制作にも積極的に取り組んだ。[[時代劇]]が斜陽になったことから[[1975年]](昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を[[東映太秦映画村]]とした{{Sfn|教科書|2016|pp=179-189}}<ref name="神先インタビュー"/>。 |
||
80行目: | 82行目: | ||
[[1978年]]正月公開の『[[柳生一族の陰謀]]』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着<ref>{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/69183/2/|title=第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101258/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/69183/2/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>。それとともに、子会社に[[東映セントラルフィルム]]を設立して同年に『[[最も危険な遊戯]]』を第1作として公開<ref>[https://www.toei.co.jp/release/dvd/1208705_965.html セントラル・アーツ 起動40周年記念!【初回生産限定】 遊戯シリーズ - 東映]</ref>。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した<ref>梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357</ref><ref>高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95</ref>。1970年代後半から[[映画プロデューサー]]として[[角川春樹]]と提携し<ref name="tada4">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/69183/|title=第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101203/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/69183/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>、『[[悪魔が来りて笛を吹く#1979年版|悪魔が来りて笛を吹く]]』、『[[白昼の死角#映画|白昼の死角]]』、『[[魔界転生]]』<ref>{{Cite journal |和書 |date = 1981-06-06 |title = あなたは魔界を信じますか? [[角川春樹]] [[山田風太郎]] 特別対談 |journal = [[小冊子|パンフレット]] : [[魔界転生#1981年|魔界転生]] |page = 21 |publisher = 角川春樹事務所 / 東映 }}</ref>を手始めに、[[角川映画]]を数多く配給し始める<ref name="tada4"/><ref name="tada220304"/>。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った<ref>『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』[[佐藤忠男]]、[[山根貞男]]責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 pp.62-64</ref>。 |
[[1978年]]正月公開の『[[柳生一族の陰謀]]』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着<ref>{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/69183/2/|title=第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101258/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/69183/2/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>。それとともに、子会社に[[東映セントラルフィルム]]を設立して同年に『[[最も危険な遊戯]]』を第1作として公開<ref>[https://www.toei.co.jp/release/dvd/1208705_965.html セントラル・アーツ 起動40周年記念!【初回生産限定】 遊戯シリーズ - 東映]</ref>。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した<ref>梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357</ref><ref>高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95</ref>。1970年代後半から[[映画プロデューサー]]として[[角川春樹]]と提携し<ref name="tada4">{{Cite news|author=|url=https://conex-eco.co.jp/column/%e6%9d%b1%e6%98%a0/69183/|title=第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)|work=コモ・レ・バ?|publisher=CONEX ECO-Friends|date=2022|accessdate=2022-03-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127101203/https://conex-eco.co.jp/column/%E6%9D%B1%E6%98%A0/69183/|archivedate=2022年1月27日}}</ref>、『[[悪魔が来りて笛を吹く#1979年版|悪魔が来りて笛を吹く]]』、『[[白昼の死角#映画|白昼の死角]]』、『[[魔界転生]]』<ref>{{Cite journal |和書 |date = 1981-06-06 |title = あなたは魔界を信じますか? [[角川春樹]] [[山田風太郎]] 特別対談 |journal = [[小冊子|パンフレット]] : [[魔界転生#1981年|魔界転生]] |page = 21 |publisher = 角川春樹事務所 / 東映 }}</ref>を手始めに、[[角川映画]]を数多く配給し始める<ref name="tada4"/><ref name="tada220304"/>。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った<ref>『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』[[佐藤忠男]]、[[山根貞男]]責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 pp.62-64</ref>。 |
||
[[東宝]]は1943年の[[東宝争議]]の終結以来、ほぼ一貫して、[[左翼]]的な政治性を嫌い、[[エロチシズム]]を嫌い、[[暴力]]を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた<ref name="unext"/><ref name="ca1981">『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 p.88</ref>。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた<ref name="ca1981" />。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる<ref name="ca1981" />。 |
[[東宝]]は1943年の[[東宝争議]]の終結以来、ほぼ一貫して、[[左翼]]的な政治性を嫌い、[[エロチシズム]]を嫌い、[[暴力]]を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた<ref name="unext"/><ref name="ca1981">『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 p.88</ref>。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた<ref name="bn220331_3"/><ref name="ca1981" />。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる<ref name="bn220331_3"/><ref name="ca1981" />。 |
||
[[1960年代]]から始めていた[[東映まんがまつり]]は子供向け映画として定期興行をしていたが、[[1996年]]([[平成]]8年)からは凋落していった<ref>[[大高宏雄]]『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75</ref>。洋画配給についても1987年の『[[七福星]]』をもって中止となった<ref name="キネ旬1592" />。[[1980年代]]は角川映画やアニメのおかげで東宝と互角の勝負をした{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}。東映ビデオの売上大幅増が効いて{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="キネ旬19871201">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナルビデオの大幅増収がひと際目立った東映の第64期決算案| journal = キネマ旬報 |issue =1987年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 166-167 }}</ref>、東映の第64期決算(1986年9月1日~1987年8月31日)は映画会社で初めて総売上1000億円を記録し<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="キネ旬19871201"/>、東映は映画会社で売上トップになった<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="キネ旬19871201"/><ref name="日経産業19950705">{{Cite news |title = ビデオソフト―ポニーキャニオン安定(点検シェア攻防本社100品目調査)|date = 1995年7月5日 |newspaper = 日経産業新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 9 }}</ref>。[[1990年代]]に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『[[公園通りの猫たち]]』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れ、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった<ref>『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.</ref><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/236847 「コナン」の東宝vs「相棒」の東映 2大映画会社の給与は?|日刊ゲンダイ]</ref>。岡田茂がプロデューサー出身であることから{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}<ref>{{Cite journal|和書 |year=1988 |month=12|title=東映・日下部プロデューサー『激突』を語る時代劇アクションの原点返えり|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=26頁 }}</ref><ref name="kinejun19870101">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル 印象としては本格的なビデオ時代到来などでますます厳しさが増した61年の映画界。邦画は2強2弱で浮沈がはっきりと。| journal = キネマ旬報 |issue =1987年1月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 179頁 }}</ref><ref>{{Cite journal | 和書 | author = [[松原信吾]]・[[佐伯俊道]]・[[荒井晴彦]]・満友敬司・岡田裕・[[山下賢章]] | title = 撮影所は戦場だった | journal = [[映画芸術]] 2014年夏 No.448 | publisher = 編集プロダクション映芸 | pages = 67-68 }}</ref>、自社制作にこだわってきた東映と差が付いた<ref name="経済界19990817"/>{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}<ref name="日経19980602" /><ref name="映画時報197712">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議人材の話題も豊富だった映画界今後も一層の活躍が期待される人々|journal = 映画時報 |issue = 1977年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 36 }}</ref><ref>{{Cite news |author = |title = 加速する『国際化』 (89映画展望・ここがポイント下)|date = 1989年1月4日 |newspaper = 朝日新聞夕刊 |publisher =朝日新聞社 |page = 9 }}</ref><ref name="日産19990214">{{Cite news |author = |title = 美学捨てた東宝笑う、映画、一強二弱鮮明に―外部と組みヒット連発。|date = 1999年2月14日 |newspaper = 日経産業新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 16 }}</ref>。東宝は1968年から1972年まで製作配給で毎年7億円の[[黒字と赤字|赤字]]を出していたが<ref name="avjournal199212"/>、1970年代に入り製作機能を三つの別会社に分離し[[1972年]]に本社での映画製作を停止させ、五核を相互に連携させる製作体制に切り替えた<ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199212"/>。1970年代後半から、東宝はリスクの高い制作への投資を削って劇場整備に力を注ぐ手法を取り<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199212"/><ref name="日金19890629"/><ref name="日経19980602">{{Cite news |author = 遠藤繁 |title = 迷走松竹(下) 外部制作路線に転換―『ジブリ』獲得、復活のカギ。|date = 1998年6月2日 |newspaper = 日本経済新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 3 }}</ref><ref name="日産19990214"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 東宝・石田敏彦社長インタビュー『それは組織崩壊に繋がりますから』|journal = 映画時報 |issue = 1996年1月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26 }}</ref>、映画業界では当時「映画会社でなく[[不動産会社|不動産業者]]のやり方」などと風当たりは強かったが<ref name="日経19980602" />、自社制作にこだわってきた東映と差が開いていった<ref name="日経19980602" /><ref name="日産19990214"/><ref>{{Cite journal|和書 |year=1988 |month=11|title=文化通信情報 『利休』『ガンヘッド』など来年邦画の作品群 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=6 }}</ref><ref>「特別対談 李鳳宇 大高宏雄 日本映画は本当に元気か?」『キネマ旬報』2017年1月上旬号、pp.52-53</ref>。東宝は元来が製作から発足した映画会社でない強味もあり<ref name="映画時報197712"/>、また他の映画会社と違い、[[阪急阪神東宝グループ|阪急グループ]]の中に位置し<ref name="映画時報197310">{{Cite journal|和書 |author = |title = 警戒警報の諸問題安定ムードのなかの危機邦画界の最新情報岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映|journal = 映画時報 |issue = 1973年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>、金融もある程度阪急の裏づけがあってやれるという強味があった<ref name="映画時報197310"/><ref name="映画時報197705">{{Cite journal |和書 |author = |title = 日本映画界の大転換期重役とMSの若返り人事と企画製作派大作主義に重点|journal = 映画時報 |issue = 1977年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 9 }}</ref><ref name="映画時報198005">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 10-11 }}</ref>。東宝は阪急グループの文化商品提供部門という側面を持つ映画産業の不沈戦艦でもあった<ref name="映画時報198005"/>。岡田茂は1998年6月2日の『[[日本経済新聞]]』で「二十年たって振り返ると東宝のやり方は正しかったのかもしれない」と述べた<ref name="日経19980602" /><ref name="日産19990214"/>。松竹に言わせれば「ウチは製作から出発してますけど、東宝は興行からの出発ですから。会社の性格が違います。あの劇場網は羨ましい」となる<ref >{{Cite journal|和書 |author = [[大谷隆三]] | title = 大谷社長大いに語る『桜の花は散ったけど松竹大船は花ざかり』|journal = 映画時報 |issue = 1982年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 10 }}</ref>。東映も1990年代に「列島改造計画」などと名付け<ref name="avjournal199401">{{Cite journal|和書 |title =『渋谷東映プラザ』を第一弾に列島改造計画|journal = AVジャーナル |issue = 1993年3月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 95 }}</ref>、渋谷を始め、全国の劇場再開発を手掛け<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="avjournal199401"/>、岡田は「今後は映画興行にプラス[[賃貸]]収入で収益を図っていく」と宣伝したが<ref name="avjournal199401"/>、いかんせん、一等地に先代が仕込んでくれて[[減価償却]]を終えた大きな土地・建物を持つ東宝や松竹は<ref name="映画時報197310"/><ref name="読売19711108">{{Cite news |title = 脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営|date = 1971年11月8日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}</ref><ref name="映画時報197304">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本映画界の巻返しと前進各社各社各様の経営戦略を探る|journal = 映画時報 |issue = 1973年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12 }}</ref>、それを利用して[[高層ビル]]を建てて、[[不動産賃貸業|不動産賃貸料]]で大きな利益を出せるが<ref name="映画時報197310"/><ref name="読売19711108"/><ref name="映画時報197304"/><ref>[https://maonline.jp/articles/archive_toho_191024?page=3 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記]</ref>、戦後の会社である東映は代替地もままならぬ程、所有する土地が小さく、賃貸収入でも東宝や松竹と大きく差を付けられた<ref name="映画時報197310"/><ref name="映画時報197304"/>。東宝が[[日比谷]]の映画街を[[再開発]]して1987年10月にオープンした[[東宝日比谷ビル#日比谷シャンテ|日比谷シャンテ]]は[[賃貸借|賃貸収入]]が年間30億円といわれ<ref name="新潮19880324">{{Cite journal |和書 |title = タウン 映画会社が主役で『東京再開発物語』 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1988年3月24日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 15 }}</ref>、当時東映は不動産の賃貸収入がほとんどなく<ref name="kinejun19871101">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナル東映の岡田社長が3年後をメドに本社ビルの再開発構想を打ち出す。完成時には超近代的な映画館3館も同時オープン | journal = [[キネマ旬報]] |issue =1987年11月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 162-163 }}</ref>、これに驚いた岡田茂は「シャンテに続け!」と「[[丸の内TOEI|東映本社]]を[[丸の内]]に置かなくてもいいだろう」と丸の内から[[小日向|茗荷谷]]へ本社を移転させて跡地に賃貸ビルを建て、賃貸料を稼ごうと構想したが実現はしなかった<ref name="新潮19880324"/><ref name="kinejun19871101"/><ref>{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナル東映の本社ビル再開発に伴う新社屋建設予定地に茗荷谷が決まる| journal = キネマ旬報 |issue =1987年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 166-167 }}</ref>。 |
[[1960年代]]から始めていた[[東映まんがまつり]]は子供向け映画として定期興行をしていたが、[[1996年]]([[平成]]8年)からは凋落していった<ref>[[大高宏雄]]『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75</ref>。洋画配給についても1987年の『[[七福星]]』をもって中止となった<ref name="キネ旬1592" />。[[1980年代]]は角川映画やアニメのおかげで東宝と互角の勝負をした{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}。東映ビデオの売上大幅増が効いて{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref name="キネ旬19871201">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナルビデオの大幅増収がひと際目立った東映の第64期決算案| journal = キネマ旬報 |issue =1987年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 166-167 }}</ref>、東映の第64期決算(1986年9月1日~1987年8月31日)は映画会社で初めて総売上1000億円を記録し<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="キネ旬19871201"/>、東映は映画会社で売上トップになった<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="キネ旬19871201"/><ref name="日経産業19950705">{{Cite news |title = ビデオソフト―ポニーキャニオン安定(点検シェア攻防本社100品目調査)|date = 1995年7月5日 |newspaper = 日経産業新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 9 }}</ref>。[[1990年代]]に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『[[公園通りの猫たち]]』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れ、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった<ref>『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.</ref><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/236847 「コナン」の東宝vs「相棒」の東映 2大映画会社の給与は?|日刊ゲンダイ]</ref>。岡田茂がプロデューサー出身であることから{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}<ref>{{Cite journal|和書 |year=1988 |month=12|title=東映・日下部プロデューサー『激突』を語る時代劇アクションの原点返えり|journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=26頁 }}</ref><ref name="kinejun19870101">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]] | title = 映画・トピック・ジャーナル 印象としては本格的なビデオ時代到来などでますます厳しさが増した61年の映画界。邦画は2強2弱で浮沈がはっきりと。| journal = キネマ旬報 |issue =1987年1月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 179頁 }}</ref><ref>{{Cite journal | 和書 | author = [[松原信吾]]・[[佐伯俊道]]・[[荒井晴彦]]・満友敬司・岡田裕・[[山下賢章]] | title = 撮影所は戦場だった | journal = [[映画芸術]] 2014年夏 No.448 | publisher = 編集プロダクション映芸 | pages = 67-68 }}</ref>、自社制作にこだわってきた東映と差が付いた<ref name="経済界19990817"/>{{Sfn|1980年代の映画|2016|pp=175-176}}<ref name="日経19980602" /><ref name="映画時報197712">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議人材の話題も豊富だった映画界今後も一層の活躍が期待される人々|journal = 映画時報 |issue = 1977年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 36 }}</ref><ref>{{Cite news |author = |title = 加速する『国際化』 (89映画展望・ここがポイント下)|date = 1989年1月4日 |newspaper = 朝日新聞夕刊 |publisher =朝日新聞社 |page = 9 }}</ref><ref name="日産19990214">{{Cite news |author = |title = 美学捨てた東宝笑う、映画、一強二弱鮮明に―外部と組みヒット連発。|date = 1999年2月14日 |newspaper = 日経産業新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 16 }}</ref>。東宝は1968年から1972年まで製作配給で毎年7億円の[[黒字と赤字|赤字]]を出していたが<ref name="avjournal199212"/>、1970年代に入り製作機能を三つの別会社に分離し[[1972年]]に本社での映画製作を停止させ、五核を相互に連携させる製作体制に切り替えた<ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199212"/>。1970年代後半から、東宝はリスクの高い制作への投資を削って劇場整備に力を注ぐ手法を取り<ref name="岡田インタビュー"/><ref name="シネ・フロント197806"/><ref name="avjournal199212"/><ref name="日金19890629"/><ref name="日経19980602">{{Cite news |author = 遠藤繁 |title = 迷走松竹(下) 外部制作路線に転換―『ジブリ』獲得、復活のカギ。|date = 1998年6月2日 |newspaper = 日本経済新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |page = 3 }}</ref><ref name="日産19990214"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 東宝・石田敏彦社長インタビュー『それは組織崩壊に繋がりますから』|journal = 映画時報 |issue = 1996年1月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26 }}</ref>、映画業界では当時「映画会社でなく[[不動産会社|不動産業者]]のやり方」などと風当たりは強かったが<ref name="日経19980602" />、自社制作にこだわってきた東映と差が開いていった<ref name="日経19980602" /><ref name="日産19990214"/><ref>{{Cite journal|和書 |year=1988 |month=11|title=文化通信情報 『利休』『ガンヘッド』など来年邦画の作品群 |journal=AVジャーナル |publisher=文化通信社 |page=6 }}</ref><ref>「特別対談 李鳳宇 大高宏雄 日本映画は本当に元気か?」『キネマ旬報』2017年1月上旬号、pp.52-53</ref>。東宝は元来が製作から発足した映画会社でない強味もあり<ref name="映画時報197712"/>、また他の映画会社と違い、[[阪急阪神東宝グループ|阪急グループ]]の中に位置し<ref name="映画時報197310">{{Cite journal|和書 |author = |title = 警戒警報の諸問題安定ムードのなかの危機邦画界の最新情報岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映|journal = 映画時報 |issue = 1973年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 16 }}</ref>、金融もある程度阪急の裏づけがあってやれるという強味があった<ref name="映画時報197310"/><ref name="映画時報197705">{{Cite journal |和書 |author = |title = 日本映画界の大転換期重役とMSの若返り人事と企画製作派大作主義に重点|journal = 映画時報 |issue = 1977年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 9 }}</ref><ref name="映画時報198005">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌|journal = 映画時報 |issue = 1980年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 10-11 }}</ref>。東宝は阪急グループの文化商品提供部門という側面を持つ映画産業の不沈戦艦でもあった<ref name="映画時報198005"/>。岡田茂は1998年6月2日の『[[日本経済新聞]]』で「二十年たって振り返ると東宝のやり方は正しかったのかもしれない」と述べた<ref name="日経19980602" /><ref name="日産19990214"/>。松竹に言わせれば「ウチは製作から出発してますけど、東宝は興行からの出発ですから。会社の性格が違います。あの劇場網は羨ましい」となる<ref >{{Cite journal|和書 |author = [[大谷隆三]] | title = 大谷社長大いに語る『桜の花は散ったけど松竹大船は花ざかり』|journal = 映画時報 |issue = 1982年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 10 }}</ref>。東映も1990年代に「列島改造計画」などと名付け<ref name="avjournal199401">{{Cite journal|和書 |title =『渋谷東映プラザ』を第一弾に列島改造計画|journal = AVジャーナル |issue = 1993年3月号 |publisher = 文化通信社 |pages = 95 }}</ref>、渋谷を始め、全国の劇場再開発を手掛け<ref name="キネ旬19890701"/><ref name="avjournal199401"/>、岡田は「今後は映画興行にプラス[[賃貸]]収入で収益を図っていく」と宣伝したが<ref name="avjournal199401"/>、いかんせん、一等地に先代が仕込んでくれて[[減価償却]]を終えた大きな土地・建物を持つ東宝や松竹は<ref name="映画時報197310"/><ref name="読売19711108">{{Cite news |title = 脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営|date = 1971年11月8日 |newspaper = [[読売新聞]][[夕刊]] |publisher = [[読売新聞社]] |page = 8 }}</ref><ref name="映画時報197304">{{Cite journal|和書 |author = |title = 日本映画界の巻返しと前進各社各社各様の経営戦略を探る|journal = 映画時報 |issue = 1973年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12 }}</ref>、それを利用して[[高層ビル]]を建てて、[[不動産賃貸業|不動産賃貸料]]で大きな利益を出せるが<ref name="映画時報197310"/><ref name="読売19711108"/><ref name="映画時報197304"/><ref>[https://maonline.jp/articles/archive_toho_191024?page=3 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記]</ref>、戦後の会社である東映は代替地もままならぬ程、所有する土地が小さく、賃貸収入でも東宝や松竹と大きく差を付けられた<ref name="映画時報197310"/><ref name="映画時報197304"/>。東宝が[[日比谷]]の映画街を[[再開発]]して1987年10月にオープンした[[東宝日比谷ビル#日比谷シャンテ|日比谷シャンテ]]は[[賃貸借|賃貸収入]]が年間30億円といわれ<ref name="新潮19880324">{{Cite journal |和書 |title = タウン 映画会社が主役で『東京再開発物語』 |journal = [[週刊新潮]] |issue = 1988年3月24日号 |publisher = [[新潮社]] |pages = 15 }}</ref>、当時東映は不動産の賃貸収入がほとんどなく<ref name="kinejun19871101">{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナル東映の岡田社長が3年後をメドに本社ビルの再開発構想を打ち出す。完成時には超近代的な映画館3館も同時オープン | journal = [[キネマ旬報]] |issue =1987年11月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 162-163 }}</ref>、これに驚いた岡田茂は「シャンテに続け!」と「[[丸の内TOEI|東映本社]]を[[丸の内]]に置かなくてもいいだろう」と丸の内から[[小日向|茗荷谷]]へ本社を移転させて跡地に賃貸ビルを建て、賃貸料を稼ごうと構想したが実現はしなかった<ref name="新潮19880324"/><ref name="kinejun19871101"/><ref>{{Cite journal|和書 |author =脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男| title = 映画・トピック・ジャーナル東映の本社ビル再開発に伴う新社屋建設予定地に茗荷谷が決まる| journal = キネマ旬報 |issue =1987年12月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages = 166-167 }}</ref>。 |
||
89行目: | 91行目: | ||
== 社風 == |
== 社風 == |
||
東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した<ref>星野直樹「映画に賭ける男」『真剣勝負に生きる』大川博士、ダイヤモンド社、1967年、pp.153-156.</ref><ref>山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102</ref><ref>『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.70</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.84.</ref>。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる<ref>工藤栄一、ダーティ工藤『光と影 映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p.108</ref>。 |
東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した<ref>星野直樹「映画に賭ける男」『真剣勝負に生きる』大川博士、ダイヤモンド社、1967年、pp.153-156.</ref><ref>山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102</ref><ref>『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.70</ref><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.84.</ref><ref>{{Cite web|author=吉佐美洋行|title=会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=2|website=[[日経ビジネス]]|date=2022-03-31|publisher=[[日経BP]]|page=1|accessdate=2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220402021955/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/032200339/?P=2|archivedate=2022-04-02}}</ref>。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる<ref>工藤栄一、ダーティ工藤『光と影 映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p.108</ref>。 |
||
'''[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]'''と'''[[撮影所システム]]'''によって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた<ref name="ReferenceA">中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153</ref>。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった<ref name="ReferenceA"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.291.</ref><ref>『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.72</ref>。岡田茂の[[造語]]である{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}} |
'''[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]'''と'''[[撮影所システム]]'''によって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた<ref name="ReferenceA">中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153</ref>。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった<ref name="ReferenceA"/><ref>岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.291.</ref><ref>『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.72</ref>。岡田茂の[[造語]]である{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="tada3"/>{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=1-8}}<ref>{{Cite news | title =手塚治新社長インタビュー「東映全社員が企画者」コロナ禍で映画業界大打撃も「映画とは何か、映画館に行くことの意味を再考するタイミングです」 | newspaper = [[スポーツ報知]]| date = 2020-07-10| url =https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html?page=1 | accessdate = 2022-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211110123435/https://hochi.news/articles/20200710-OHT1T50313.html?page=1 |archivedate= 2021-11-10}}</ref>「不良性感度」という言葉は<ref name="ritsumei中川"/><ref name="不良性感度"/><ref name="nagoya.repo"/>{{Sfn|日本映画発達史Ⅳ|1968|p=265}}{{Sfn|テレビ成長期の日本映画|2018|pp=134-153}}、時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画と[[アウトロー]]による暴力路線、[[アクション映画]]、[[エログロ]]など犯罪・暴力をモチーフに量産され{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="tada3"/>、東映イメージを決定付けた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="unext"/><ref name="tomaritsutomu"/>{{Sfn|日本映画は生きている4|2010|pp=268-276}}<ref name=" toeininkyo"/><ref name=" dailyshincho20151119"/><ref name="不良性感度"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=564}}<ref>{{Cite book|和書|author=川崎宏|year=2003|title=狂おしい夢 不良性感度の日本映画 <small>東映三角マークになぜ惚れた!? </small>|publisher=[[青心社]]|isbn=978-4-87892-266-4|pages=3-7}}</ref>。しかし「不良性感度」を標榜した路線は[[俳優|女優]]の受け皿を狭めることとなり、[[関根恵子]]は東映に誘われても断っている<ref>{{Cite news |author = 高橋惠子 |authorlink = 高橋惠子 |title = 引退撤回、そして大映が倒産 |url = https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/59663/ |newspaper = 東スポWeb |publisher = [[東京スポーツ]] |date = 2012-12-07 |accessdate = 2013-04-06}}</ref>。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり<ref>山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1989年、p.17.</ref>、対照的に女性客は離れていく<ref>佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1983 1982年公開映画全集』芳賀書店、1983年、p.85</ref>。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた<ref>大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、p.159.</ref>。 |
||
[https://www.dailyshincho.jp/article/2015/11190850/?all=1 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」]</ref>、時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画と[[アウトロー]]による暴力路線、[[アクション映画]]、[[エログロ]]など犯罪・暴力をモチーフに量産され{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="tada3"/>、東映イメージを決定付けた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=560-565}}<ref name="unext"/><ref name="tomaritsutomu"/>{{Sfn|日本映画は生きている4|2010|pp=268-276}}<ref name=" toeininkyo"/><ref name=" dailyshincho20151119"/><ref name="cinematoday"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|p=564}}<ref>{{Cite book|和書|author=川崎宏|year=2003|title=狂おしい夢 不良性感度の日本映画 <small>東映三角マークになぜ惚れた!? </small>|publisher=[[青心社]]|isbn=978-4-87892-266-4|pages=3-7}}</ref>。しかし「不良性感度」を標榜した路線は[[俳優|女優]]の受け皿を狭めることとなり、[[関根恵子]]は東映に誘われても断っている<ref>{{Cite news |author = 高橋惠子 |authorlink = 高橋惠子 |title = 引退撤回、そして大映が倒産 |url = https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/59663/ |newspaper = 東スポWeb |publisher = [[東京スポーツ]] |date = 2012-12-07 |accessdate = 2013-04-06}}</ref>。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり<ref>山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1989年、p.17.</ref>、対照的に女性客は離れていく<ref>佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1983 1982年公開映画全集』芳賀書店、1983年、p.85</ref>。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた<ref>大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、p.159.</ref>。 |
|||
俳優の専属制度も大手では最も長く維持された。[[千葉真一]]、[[松方弘樹]]、[[梅宮辰夫]]ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから[[渥美清]]、[[ハナ肇]]、[[ザ・ドリフターズ]]、[[石坂浩二]]ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。 |
俳優の専属制度も大手では最も長く維持された。[[千葉真一]]、[[松方弘樹]]、[[梅宮辰夫]]ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから[[渥美清]]、[[ハナ肇]]、[[ザ・ドリフターズ]]、[[石坂浩二]]ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。 |
2022年4月9日 (土) 10:55時点における版
本社が入る東映会館 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 |
大証1部(廃止) 9605
|
本社所在地 |
日本 〒104-8108 東京都中央区銀座三丁目2番17号 北緯35度40分24.4秒 東経139度45分53.2秒 / 北緯35.673444度 東経139.764778度座標: 北緯35度40分24.4秒 東経139度45分53.2秒 / 北緯35.673444度 東経139.764778度 |
設立 |
1949年10月1日 (東京映画配給株式会社) 1951年4月1日 (東映株式会社として) |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 6010001034866 |
事業内容 | 映画の製作、宣伝、配給、興行 |
代表者 |
代表取締役会長 多田憲之[2] 代表取締役社長 手塚治[2] |
資本金 |
117億0700万円 (2021年3月31日現在)[3] |
発行済株式総数 |
1476万8909株 (2021年3月31日現在)[3] |
売上高 |
連結: 1076億4800万円 単独: 323億1300万円 (2021年3月期)[3] |
営業利益 |
連結: 129億9700万円 単独: △4億3400万円 (2021年3月期)[3] |
経常利益 |
連結: 187億1600万円 単独: 18億3200万円 (2021年3月期)[3] |
純利益 |
連結: 126億5700万円 単独: 14億3100万円 (2021年3月期)[3] |
純資産 |
連結: 2441億3300万円 単独: 854億3300万円 (2021年3月31日現在)[3] |
総資産 |
連結: 3241億9700万円 単独: 1466億0800万円 (2021年3月31日現在)[3] |
従業員数 |
連結: 1,036人 単独: 357人 (2021年3月31日現在)[3] |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人[3] |
主要株主 |
テレビ朝日ホールディングス 19.61% TBSテレビ 9.43% バンダイナムコホールディングス 8.03% 東急 4.66% 日本カストディ銀行(信託口) 4.59% フジ・メディア・ホールディングス 4.44% 日本マスタートラスト信託銀行(信託口) 3.94% JP MORGAN CHASE BANK 380815 3.73% 日本テレビ放送網 3.72% GOLDMAN SACHS INTERNATIONAL 2.34% (2021年3月31日現在)[3] |
主要子会社 | #子会社参照 |
関係する人物 |
五島慶太 大川博 岡田茂 高岩淡 岡田裕介(岡田剛) 今田智憲 俊藤浩滋 日下部五朗 渡邊亮徳 白倉伸一郎 |
外部リンク | https://www.toei.co.jp/ |
特記事項:テレビ朝日ホールディングスと互いに持分法適用会社である。 |
東映株式会社(とうえい 英: TOEI COMPANY,LTD.[4])は、日本の映画の製作、配給、興行会社。1951年に東京映画配給株式会社が東横映画株式会社、太泉映画株式会社と合併して設立した[5][6]。直営の映画館2館、2つの撮影所(東映東京撮影所と東映京都撮影所)を保有し、戦後の日本映画史を綴るにあたって欠かすことのできない数々の名作、話題作を世に送り出してきた[6]東宝、松竹と共に日本のメジャー映画会社「御三家」[7]「三大メジャー」[8]のひとつとなっている。テレビ朝日ホールディングスの大株主であると同時に、テレビ朝日ホールディングスが東映の筆頭株主という株式持ち合いの関係にあり、互いに持分法適用関連会社である[9][注 1]。
概要
日本で唯一、東京都練馬区東大泉に「東映東京撮影所」、京都府京都市右京区太秦に「東映京都撮影所」と2つの撮影所を有し、それらの撮影所を中心に制作された劇場用映画の制作・配給・興行や、洋画の買い付け・劇場配給・テレビ放送権販売、テレビドラマの制作、広報映画の制作や教育映画の制作・販売などを行う総合映像企業。
東映アニメーションや東映テレビ・プロダクション、東映ラボ・テックなどの子会社を通じた劇場用・テレビ用アニメーションなどの制作、テレビCMなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売、現像所やアフレコスタジオなどの所有・貸出も行っている。
早くからテレビやアニメーションの可能性に目をつけており[11][12][13][14][15]、先述の通りテレビ朝日とは設立以来密接な関係にあり、同局に多数のコンテンツを供給している。同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた映像以外への事業多角化も古くから行い[16][17][18][19]、かつてはプロ野球(東映フライヤーズ)やボウリング、交通事業等を手掛け[11][18][19]、現在も京都撮影所の一部を活用したテーマパーク「東映太秦映画村」を筆頭に、ホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている[11][19][20]。
沿革
東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映画(1947年10月15日設立)と、1938年(昭和13年)東京横浜電鉄(のちの東急)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京の渋谷や横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年(昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した[5][6][21]。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三が東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った[22][23][24][注 2]。東横映画の社長だった黒川渉三が街の高利貸しから資金を調達して映画製作を続け[21][25][26]、黒川の後を継いだ者も赤字を増やし[22][26]、設立当時の東映の負債は、当時の金額で11億円(1989年頃の貨幣価値では数百億円以上[27])にのぼった[27][28][29]。当時の映画事業に融資をするような銀行はなく[30][31]、岡田茂が広島一中の先輩だった鈴木剛住友銀行頭取を仲介して[31]、五島慶太は住友銀行に融資を頼み[27][31][32]、東急から融資することは背任行為とみなされ出来ず[27]、五島は五島家の株式や自宅も含む全資産を担保に住友銀行から融資を受けた[27][31][32]。五島慶太は男の大勝負の席に息子の五島昇を帯同させ教訓を与えた[27][32]。鈴木は、昇の顔を見ながら「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますが、いいですね」と一言念を押した[27][32]。淡々と話を聞くだけで全く動じない慶太の背中に昇は身震いし「"事業家のオニ"を見た思いだった」と話している[27][32]。東映再建が失敗していたら五島家は破産していたといわれる[27]。東映のメインバンクの一つが住友銀行になったのはこの時からで[31][33]、この逸話をよく知る岡田茂が組合運動に熱心な野田幸男を辞めさせたかったが[33]、野田は親族に住友銀行の幹部がいて辞めさせられなかったという逸話は東映内では有名だった[33]。 東横映画には、マキノ光雄と根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており[34]、そのまま東映に移行した彼らは松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる[14][35][36][37]。引き揚げ者の救済は社是にも掲げられ[38]、彼らはスタジオの裏に板張りの家を建てて棲みつき、炊き出しをしてノミやダニと共に寝食を共にしたり[14][36][39]、山陰線の脇に撮影所の廃材でバラックを造って生活する者もいた[38]。 上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。岡田茂は「東映設立から4、5年の頑張りが、今の東映の骨格を作り上げたと言っていい」と述べている[28]。
1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵・市川右太衛門・月形龍之介・大友柳太朗らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助・東千代之介がデビュー。1954年(昭和29年)に松竹から美空ひばりを引き抜き大きな戦力になった[40][41][42][43][44]。東映と松竹、東宝、大映、新東宝、日活6社による戦後の激しい競争の中[6]、1952年(昭和27年)初頭には「年間50本を製作し毎週新作1本を配給(全プロ配給)」を宣言し「製作-配給-興行」の垂直統合とブロックブッキング制を最初に敷き、撮影所システムと呼ばれる量産体制を確立した[45]。1953年(昭和28年)の『ひめゆりの塔』は配収1億5000万円を挙げる空前の大ヒットで、負債はあらかた完了し発展時代に突入した[29]。続いて1954年(昭和29年)、これも他社に先駆け、新作二本立て興行を開始[46][47]。東映は設立と同時に労働組合が組織され[47]、全員社員になっていたが[47]、このとき大量の臨時労働者が雇われ、無権利状態に置かれた[47]。東映の労働闘争はここに端を発す[47]。その後大川橋蔵や市川の息子・北大路欣也が子役で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた[12][14][36][40][48]。高岩淡は1954年に東映に入社し、研修期間に東映の直営館第1号である渋谷東映でもぎりをやらされたが[49]、「1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを肩車で担いでいる光景に感動した」と話している[49]。当時は"ジャリすくいの東映"といわれたが[50]、この時期、長編の添え物として製作された『新諸国物語 笛吹童子』『里見八犬伝』『新諸国物語 紅孔雀』などの中編の冒険時代劇は児童層から熱狂的に受け入れられ[48][51][52]、中村錦之助や東千代之介といったアイドルを生み[51]、東映動画、東映まんがまつりと合わせ、子どもたちに娯楽版で映画館通いを覚えさせ、未来の観客を作り育てた[51]。時代劇ブームの波に乗り隣接地を買収に次ぐ買収で3万坪に拡大した[49]。量産ぶりは凄まじく1959年に東西両撮影所で、年間103本の映画を製作し[47]、1960年170本[47][49]。二日に一本の滅茶苦茶なペースで映画が量産され[47]、1960年の大手六社の製作総本数522本のうち、三分の一が東映映画が占めた[47][53]。専門館は1,500館[49]、契約館は全国2800館[49]、年間配収は当時の金額で97億5千万円に上った[49]。
1954年(昭和29年)にはプロ野球の東急フライヤーズの運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)とした。また、1959年(昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った[13]。ところが、1964年(昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。また、石坂泰三が五島に「東急に女を売り物にする商売はいらない」と言ったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。
現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、中原ひとみ・高倉健・水木襄・佐久間良子・梅宮辰夫・千葉真一ら主演スターを東映ニューフェイスから輩出。現代劇はギャング映画、任侠映画、格闘映画など、迫力溢れるアクション映画を生み出した[6]。1957年(昭和32年)には東映東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画を移転させた[5]。1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける[5]。観客動員No.1となった東映は1960年(昭和35年)に第二東映を設立し[5]、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した[54]。 10日に一本のペースで撮影していたといわれる[55]。同年に第二東映が新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の新東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫[56]。翌1961年に第二東映はニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した[40][47]。重役だった片岡千恵蔵は大川に面と向かって「これはあんたの責任じゃないですか!」と責め立てた[40]。映画産業の斜陽化が色濃くなった時代に無謀な計画は大失敗し[47]、会社は労働者の分裂と合理化の攻撃を強化し、労使は激しく対立した[47]。また元々映画はズブの素人だった大川から[29]、以降、映画製作の実権は東映の東・西撮影所の所長が握る体制が生まれた[57][58]。
しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり[12]、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉[12][59][60]。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963年から1964年にかけて、東映京都撮影所の大リストラを敢行し[15]、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される[11][12][14][15][20][54]。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男・松田定次・佐々木康などの時代劇の監督も東映を退社して行った[14][15][21][54][61][62][63]。
1963年(昭和38年)『人生劇場 飛車角』のヒットからは時代劇に代わり[15][64][65]、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある仁侠映画を東西両撮影所で量産し[12][14][15][54][66][67][68]、鶴田浩二・高倉健・藤純子、若山富三郎らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した[13][14][21][65][69][70][71]。
1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却[18][72][73]。また1960年代後半の多角経営を支えたボウリング事業は1976年2月に完全撤退した[18][20][73][74]。その一方で、1971年二代目社長に就任した岡田茂は、映画会社で初めて事業部制を敷き[75]、定款を変更して[76]、「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」と社員に命じ[18]、不動産[18][19][注 3]、ビデオ事業(東映ビデオ)の拡張[18]、出版事業(『テレビランド』等)[77]、パチンコ屋(東盛商事)[18][76]、ゴルフ場経営[18]、シティホテル建設[18]、サラ金[78]、葬儀屋[79]、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売[80]、アニメショップ(アニメポリス・ペロ)[81]などをやらせて事業の再構築を図った[18][19][74][78][82]。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、岡田は「いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ」[71]「不良性感度のある映画しか観客は見ないんだ」[11]等と発言し、テレビに取り込まれない客層を狙い[11][13]、ヤクザ映画や、実録ヤクザものや[18]、エログロもの(東映ポルノ)を量産した[11][12][18][20][21][61][83][84][85][86]。岡田は「路線は少しづつ変わってもいいが、野性味を失ったら、東映という会社はダメになってしまうんだ」と述べていた[28]。岡田の社長就任で大手映画会社で東映は唯一、実質オーナーのいない会社になり[87]、結果的に岡田が長く居座ったが、役員の中に自分が次期社長になれるかもしれないと仕事のやる気も上がった[87]。
1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250~260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340~350館[88]。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり[88]、これを実態のつかみにくいフラット館と呼んだが[88]、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100~1200館あった[88]。第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った[88]。
1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画を実録ものに切り替える[12][18][20][36][61][66][89][90]。1973年から1975年の三年間は実録映画が会社総製作本数のほぼ30%を占めたが[13]、1976年からは大幅に減少した[13]。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[12][91][92][93][94]。プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した[95][96]。正統的教養主義と闘うカウンターカルチャーが世界中で沸騰した1970年前後[97]、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった[36][97][98][99]。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された[18]。
映画部門が斜陽となってからは、アニメ部門、テレビ事業部、ビデオ部、不動産部門などが、映画製作を支えて行く[12][100][101][102][注 4]。1988年4月~1999年3月期決算で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した[111]。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく[101]、ビデオや不動産を中心とした多角経営戦略で利益自体は上げていた[101]。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた[102][111][112]。1972年に東映洋画を設立し[20]、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[5][113]、1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[20][114]。東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して[14][115][116]、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした[20][54]。
多くの映像作家を生み出した『ぴあフィルムフェスティバル』(PFF)は、1977年12月に東映東京撮影所で開催された『第一回ぴあ展』を起源としている[117][118]。
1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着[119]。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開[120]。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[121][122][123]。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し[124]、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生』[125]を手始めに、角川映画を数多く配給し始める[124][116]。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った[126]。
東宝は1943年の東宝争議の終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた[36][127]。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた[53][127]。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる[53][127]。
1960年代から始めていた東映まんがまつりは子供向け映画として定期興行をしていたが、1996年(平成8年)からは凋落していった[128]。洋画配給についても1987年の『七福星』をもって中止となった[114]。1980年代は角川映画やアニメのおかげで東宝と互角の勝負をした[129]。東映ビデオの売上大幅増が効いて[40][130]、東映の第64期決算(1986年9月1日~1987年8月31日)は映画会社で初めて総売上1000億円を記録し[111][130]、東映は映画会社で売上トップになった[111][130][131]。1990年代に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『公園通りの猫たち』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れ、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった[132][133]。岡田茂がプロデューサー出身であることから[129][134][135][136]、自社制作にこだわってきた東映と差が付いた[100][129][137][138][139][140]。東宝は1968年から1972年まで製作配給で毎年7億円の赤字を出していたが[70]、1970年代に入り製作機能を三つの別会社に分離し1972年に本社での映画製作を停止させ、五核を相互に連携させる製作体制に切り替えた[47][70]。1970年代後半から、東宝はリスクの高い制作への投資を削って劇場整備に力を注ぐ手法を取り[14][47][70][102][137][140][141]、映画業界では当時「映画会社でなく不動産業者のやり方」などと風当たりは強かったが[137]、自社制作にこだわってきた東映と差が開いていった[137][140][142][143]。東宝は元来が製作から発足した映画会社でない強味もあり[138]、また他の映画会社と違い、阪急グループの中に位置し[144]、金融もある程度阪急の裏づけがあってやれるという強味があった[144][145][146]。東宝は阪急グループの文化商品提供部門という側面を持つ映画産業の不沈戦艦でもあった[146]。岡田茂は1998年6月2日の『日本経済新聞』で「二十年たって振り返ると東宝のやり方は正しかったのかもしれない」と述べた[137][140]。松竹に言わせれば「ウチは製作から出発してますけど、東宝は興行からの出発ですから。会社の性格が違います。あの劇場網は羨ましい」となる[147]。東映も1990年代に「列島改造計画」などと名付け[148]、渋谷を始め、全国の劇場再開発を手掛け[111][148]、岡田は「今後は映画興行にプラス賃貸収入で収益を図っていく」と宣伝したが[148]、いかんせん、一等地に先代が仕込んでくれて減価償却を終えた大きな土地・建物を持つ東宝や松竹は[144][149][150]、それを利用して高層ビルを建てて、不動産賃貸料で大きな利益を出せるが[144][149][150][151]、戦後の会社である東映は代替地もままならぬ程、所有する土地が小さく、賃貸収入でも東宝や松竹と大きく差を付けられた[144][150]。東宝が日比谷の映画街を再開発して1987年10月にオープンした日比谷シャンテは賃貸収入が年間30億円といわれ[152]、当時東映は不動産の賃貸収入がほとんどなく[153]、これに驚いた岡田茂は「シャンテに続け!」と「東映本社を丸の内に置かなくてもいいだろう」と丸の内から茗荷谷へ本社を移転させて跡地に賃貸ビルを建て、賃貸料を稼ごうと構想したが実現はしなかった[152][153][154]。
1989年(平成元年)からはオリジナルビデオ「東映Vシネマ」をリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている[66]。
2011年9月17日の『アジョシ』から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を再開した[114][155]。
社風
東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[156][157][158][159][160]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[161]。
スター・システムと撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[162]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[162][163][164]。岡田茂の造語である[11][18][40][165]「不良性感度」という言葉は[12][83][71][166][167]、時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画とアウトローによる暴力路線、アクション映画、エログロなど犯罪・暴力をモチーフに量産され[11][18]、東映イメージを決定付けた[11][36][61][64][66][68][83][168][169]。しかし「不良性感度」を標榜した路線は女優の受け皿を狭めることとなり、関根恵子は東映に誘われても断っている[170]。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり[171]、対照的に女性客は離れていく[172]。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた[173]。
俳優の専属制度も大手では最も長く維持された。千葉真一、松方弘樹、梅宮辰夫ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから渥美清、ハナ肇、ザ・ドリフターズ、石坂浩二ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。
おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり[65]、早々に自社製作を事実上中止した東宝とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。しかし、テレビアニメに関しては、1970年代後半の「超電磁ロボ コン・バトラーV」をはじめとする「長浜ロマンロボシリーズ」から1980年代初頭の『百獣王ゴライオン』までの一部の作品を東映と無関係な制作会社に外注していたものもあった。
オープニング
東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった[174]。現在使われているものは4代目になり、水中をイメージしたCG画面が現れた後、一転して荒波が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。また、4代目からは東映のロゴマークの下に「TOEI COMPANY,LTD.」と社名の英語表記も追加されている。基本的なオープニング構成は半世紀以上変わっていないため、バラエティ番組やアニメ(系列の東映アニメーション制作作品)などでパロディにされる事もある。
第二東映やニュー東映のオープニングは活火山の噴火口をズームアップし、三角形のロゴマークが飛びだすシーンで、海と山を対極にしたものとなっている。
基本的に同時代に公開された作品は、全て共通のオープニングの映像が用いられている。例えば、深作欣二の『火宅の人』で作品内容に沿うように木村大作が日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとしたところ、岡田茂社長から「会社の顔を変えるとは何事だ」と一喝されて、却下された[175]。例外として、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、当時スタンダード・サイズのオープニングが紛失していたため、銚子の灯台で撮り直されている[176]。
1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄された。この言葉を誰が最初に言ったのかは不明だが、文献では『週刊映画ニュース』1972年12月2日号に東映・三越劇場提携公演の司会をした山城新伍がこの言葉を発したという記事がある[177]。
テレビ
歴史
映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品である。
映画会社の中では東映がテレビに最も積極的であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の設立にあたっては資本参加をし、1958年(昭和33年)5月にテレビ課を設けた。さらに1958年(昭和33年)7月に東映テレビ・プロダクションを設立して、東京撮影所と京都撮影所でテレビ映画の制作を開始した。1959年(昭和34年)2月から放送開始の『風小僧』がその第1弾である。初期においては制作したテレビ映画は放送の3ヶ月後に劇場向けの添え物として再編集し、東映特別娯楽版として配給も行う再利用も行っていた。そして1961年(昭和36年)にNETとテレビ映画制作の業務提携を結び、1969年(昭和44年)には年に35シリーズ、826本を制作した[178][179]。
株式会社東映テレビ・プロダクションは、放送したテレビ映画を劇場向けに配給するために1959年(昭和34年)2月に東映テレビ映画株式会社と商号を変更し、さらに5月に第二東映株式会社となったため、1959年(昭和34年)11月に新たにテレビ映画制作業務を行う法人としてかつての社名と同名の株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[180]。1964年には、東映京都撮影所の敷地内に東映京都テレビ・プロダクションが発足[181]。
東西の東映テレビ・プロは、NETが50%資本参加したために原則として筆頭株主であるNET専門の制作であった[182]。東映本体も、1960年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていた(実際には東映の方が大株主)と、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後年、雑誌『宇宙船』で回顧している。逆にNETの側は基本的に外注は東映が独占するという取り決めがあった[183]。NET以外の他局には、1965年7月[184][185]、東映東京撮影所内に新たに設けられた東映東京制作所と、京都では京都撮影所とは別機構として設けられた東映京都制作所の両制作所が制作を請け負うことになった。京都制作所は後に東映太秦映像と改称された[186]。
東映京都テレビ・プロは時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を、東映太秦映像は別会社の制作下請けを、東映東京制作所(大泉および生田スタジオ)は主に特撮キャラクターもの等子供向けの作品を、東映テレビプロ(大泉)は主に刑事ドラマ等大人向けの作品を、それぞれ鎬を削りながら量産を続けた。劇場映画においても早くから、時代劇をはじめ、『警視庁物語シリーズ』、『少年探偵団シリーズ』など、のちテレビで主流になるような娯楽分野で多くのノウハウを積んでいたことも大きな強みとなった。ライバルの東宝のサラリーマン物や喜劇、特撮物、松竹のホームドラマやメロドラマが、そのままテレビにスムーズに活用できているわけでない点と比較しても、同社のテレビ展開の速度は群を抜いていた。
テレビ参入当初からテレビ時代劇は、1959年(昭和34年)のNETの開局からレギュラー枠として制作が続けられて一時は大きな柱だったが、時代劇の減少に伴い、東映京都撮影所の本編スタッフが時代劇も手がけるようになり、1988年(昭和63年)の『名奉行 遠山の金さん』の第1シリーズが終了した時点で時代劇を主としてきた京都の東映京都テレビ・プロは解散[187]。さらに2007年(平成19年)9月をもってテレビ朝日の東映制作のレギュラー時代劇は消滅している[188]。
1964年(昭和39年)から映画館で上映されていたプログラム「東映まんがまつり」では子供向けのアニメや特撮などのテレビ作品はテレビからのエピソードがそのまま上映されていたが、1980年代頃からは新作が増えてテレビの再利用はなくなっていった。
放送枠
ここでは実写番組のみを記載し、アニメ枠は除く。
- レギュラー枠
- 現行放送枠
- テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ
- テレビ朝日日曜時代劇→テレビ朝日木曜時代劇→木曜ミステリー
- スーパーヒーロータイム
- スーパー戦隊シリーズ(日曜9:30枠)
- メタルヒーローシリーズ→燃えろ!!ロボコン→ 仮面ライダーシリーズ(日曜9:00枠)
- かつての放送枠
- テレビ朝日土曜時代劇→木曜19時枠時代劇→月曜時代劇→火曜時代劇(2007年9月で廃枠、以後年6回の特番として時代劇を放送)
- 昭和仮面ライダーシリーズ(毎日放送時代)※アマゾンまで
- 東映不思議コメディーシリーズ(1981年10月〜1993年10月)
- 朝日放送・テレビ朝日金曜9時枠の連続ドラマ(1975年4月〜1976年9月のみ)
- フジテレビ木曜夜10時枠時代劇(1984年4〜9月)
- 現行放送枠
- 準レギュラー枠
- 現行放送枠
- かつての放送枠
- 月曜ワイド劇場→火曜スーパーワイド→火曜ミステリー劇場(現在は廃枠)
- 火曜サスペンス劇場→DRAMA COMPLEX→火曜ドラマゴールド(現在は廃枠)
- 月曜ドラマランド(現在は廃枠)
- 時代劇スペシャル(現在は廃枠)
- フジテレビ水曜夜8時枠時代劇→火曜時代劇(現在は廃枠)
- 世にも奇妙な物語(現在は撤退)
- ライオン奥様劇場(現在は廃枠)
- 金曜プレステージ(現在は廃枠)
- 妻たちの劇場(現在は廃枠)
- 関西テレビ火曜夜10時枠時代劇→関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜7時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜8時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日月曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日火曜夜8時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日火曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ朝日水曜夜9時枠時代劇(現在は廃枠)
- 木曜ドラマ(現在は撤退)
- テレビ朝日木曜夜10時枠(現在は廃枠)
- テレビ朝日金曜夜7時30分枠(1974年10月〜1981年9月など(現在は撤退))
- テレビ朝日土曜夜8時枠(現在は撤退)
- 土曜ワイド劇場(現在は廃枠)
- タケダアワー(現在は廃枠)
- ブラザー劇場(現在は廃枠)
- 月曜名作劇場(現在は廃枠)
- TBS系列土曜夜9時枠(現在は撤退)
- 毎日放送制作金曜夜7時枠(現在は撤退)
- 毎日放送制作土曜夜10時枠(現在は廃枠)
- テレビ東京系列月曜夜9時枠(現在は撤退)
- テレビ東京金曜夜8時枠時代劇(現在は廃枠)
- 日本テレビ日曜夜9時枠時代劇(現在は廃枠)
映画興行成績
主要映画
主要テレビ作品
1950年代
1960年代
- アラーの使者(1960年)
- 白馬童子(1960年)
- ナショナルキッド(1960年 - 1961年)
- 少年ケニヤ(1961年 - 1962年)
- 特別機動捜査隊(1961年 - 1977年)
- 鉄道公安36号(1963年 - 1967年)
- くらやみ五段(1965年 - 1966年)
- スパイキャッチャーJ3(1965年 - 1966年)
- 素浪人 月影兵庫-素浪人シリーズ(1965年 - 1968年)
- 銭形平次 (大川橋蔵)(1966年 - 1984年)
- 俺は用心棒-用心棒シリーズ(1967年 - 1969年)
- 忍者ハットリくん(1966年)
- 悪魔くん(1966年 - 1967年)
- 丸出だめ夫(1966年 - 1967年)
- 仮面の忍者 赤影(1967年 - 1968年)
- ジャイアントロボ(1967年 - 1968年)
- 白い巨塔 (1967年のテレビドラマ)
- キャプテンウルトラ(1967年)
- 大奥(1968年)
- キイハンター(1968年 - 1973年)
- 柔道一直線(1969年 - 1971年)
- プレイガール(1969年 - 1974年)
1970年代
- 遠山の金さんシリーズ(テレビ朝日木曜時代劇、1970年 - 1979年)
- 仮面ライダーシリーズ(1971年 - )
- 超人バロム・1(1972年)
- 人造人間キカイダー(1972年 - 1973年)
- 刑事くんシリーズ(1972年 - 1973年)
- キカイダー01(1973年 - 1974年)
- イナズマン(1973年 - 1974年)
- 非情のライセンスシリーズ(1973年 - 1980年)
- ザ・ボディガード(1974年)
- がんばれ!!ロボコン(1974年 - 1977年)
- ザ★ゴリラ7(1975年)
- 燃える捜査網(1975年 - 1976年)
- 影同心(1975年 - 1976年)
- スーパー戦隊シリーズ(1975年 - 1977年、1979年 - )
- Gメン'75 (1975年 - 1982年)
- 大非常線 (1976年)
- ザ・カゲスター(1976年)
- 長浜ロマンロボシリーズ(1976年 - 1979年、アニメーション制作:創映社→日本サンライズ[注 5]
- 桃太郎侍(1976年 - 1981年)
- 5年3組魔法組(1976年 - 1977年)
- 氷河戦士ガイスラッガー(1977年、アニメーション制作:東京ムービー、オカスタジオ)
- 激走!ルーベンカイザー(1977年 - 1978年、アニメーション制作:和光プロ)
- とびだせ!マシーン飛竜(1977年 - 1978年、アニメーション制作:タツノコプロ)
- 特捜最前線(1977年 - 1987年)
- 柳生一族の陰謀(1978年 - 1979年)
- 魔女っ子チックル(1978年 - 1979年)
- スパイダーマン(1978年 - 1979年)
- レッドビッキーズシリーズ(1978年 - 1982年)
- 暴れん坊将軍(1978年 - 2004年)
- 燃えろアタック(1979年 - 1980年)
- サイボーグ009(1979年 - 1980年、アニメーション制作:日本サンライズ)
- 探偵物語(1979年 - 1980年)
1980年代
- 影の軍団シリーズ
- 柳生あばれ旅シリーズ
- 大激闘マッドポリス'80(1980年)
- 特命刑事(1980年)
- 東映不思議コメディーシリーズ(1981年 - 1993年)
- 土曜ワイド劇場 西村京太郎トラベルミステリー(1981年 - )
- メタルヒーローシリーズ(1982年 - 1999年)
- スケバン刑事シリーズ(1985年 - 1987年)
- 少女コマンドーIZUMI(1987年 - 1988年)
- フジテレビ・浜木綿子おふくろシリーズ(1985年 - 2003年)
- 火曜サスペンス劇場 弁護士・高林鮎子(1986年 - 2005年)
- 火曜サスペンス劇場 監察医・室生亜季子(1986年 - 2007年)
- 三匹が斬る!シリーズ(1987年 - 1995年)
- 花のあすか組!(1988年)
- はぐれ刑事純情派シリーズ(1988年 - 2005年)
- さすらい刑事旅情編シリーズ(1988年 - 1995年)
- 名奉行 遠山の金さんシリーズ(1988年 - 1996年)
1990年代
- 銭形平次 (北大路欣也)
- 世にも奇妙な物語
- 土曜ワイド劇場・探偵事務所シリーズ
- 風の刑事・東京発!
- 超光戦士シャンゼリオン
- 味いちもんめ
- はみだし刑事情熱系
- 隠密奉行朝比奈
- 京都迷宮案内シリーズ
- 燃えろ!!ロボコン
- 科捜研の女シリーズ
2000年代
2010年代
- 853〜刑事・加茂伸之介
- フェイク 京都美術事件絵巻
- ホンボシ〜心理特捜事件簿〜
- 遺留捜査
- 非公認戦隊アキバレンジャーシリーズ
- answer〜警視庁検証捜査官
- 警部補・杉山真太郎〜吉祥寺署事件ファイル
- スペシャリスト (テレビドラマ)
- 刑事7人
- 特捜9
- 刑事ゼロ
2020年代
海外作品
- 東星電影(台湾)との合作
- 閃電騎士大戦地獄軍団
- 閃電騎士V3
- 閃電五騎士
- サバン(アメリカ合衆国)との合作
- Masked Rider(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
- パワーレンジャーシリーズ(サバン・ブランドとの共同制作。以前はサバン・エンターテイメント(1993年 - 2001年)、ウォルト・ディズニー・カンパニー(2002年 - 2009年)との共同制作)
- バーチャル戦士トゥルーパーズ(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
- Big Bad Beetlebogs(サバン・エンターテイメントとの共同制作)
歴代社長
- 初代 :1951年 - 1971年:大川博
- 2代目:1971年 - 1993年:岡田茂
- 3代目:1993年 - 2002年:高岩淡
- 4代目:2002年 - 2014年:岡田裕介
- 5代目:2014年 - 2020年:多田憲之
- 6代目:2020年 - :手塚治[189]
出典:“沿革”. 東映. 2019年7月4日閲覧。
主な俳優(男性)
時代劇
現代劇
任侠
実録
特撮
主な俳優(女性)
- 美空ひばり
- 丘さとみ
- 長谷川裕見子
- 入江若葉
- 木暮実千代
- 桜町弘子
- 高千穂ひづる
- 花柳小菊
- 千原しのぶ
- 瑳峨三智子
- 阿井美千子(阿井三千子、百ちとせ)
- 宇治みさ子
- 久保菜穂子
- 三条美紀(三條美紀)
- 風見章子
- 大川恵子
- 田代百合子
- 雪代敬子
- 中原ひとみ
- 青山京子
- 花園ひろみ
- 浦里はる美
- 故里やよい
- 月丘千秋
- 植木千恵
- 中村雅子
- 円山栄子
- 春丘典子
- 光岡早苗
- 高島淳子
- 小林裕子
- 中里阿津子
- 小宮光江
- 三原有美子
- 御影京子
- 佐久間良子
- 星美智子
- 新井茂子
- 岡田敏子
- 園ゆき子
- 三田佳子
- 藤田佳子
- 山東昭子
- 三島ゆり子
- 喜多川千鶴
- 二階堂有希子
- 三原葉子
- 木村俊恵
- 宮園純子
- 大原麗子
- 藤純子
- 小川知子
- 浜木綿子
- 中原早苗
- 渚まゆみ
- 野川由美子
- 工藤明子
- 藤浩子(藤宏子)
- 中村英子
- 梶芽衣子
- 池玲子
- 杉本美樹
- 橘真紀
- 小泉洋子(沢野火子)
- 山内えみ子(山内恵美子、山内絵美子)
- 松平純子
- 多岐川裕美
- 堀越陽子(堀越光恵)
- 中島ゆたか
- 志穂美悦子
- 松田英子
- 若原瞳
主なプロデューサー
映画
テレビ
チームで活動し、一人の業績に出来ない場合は「八手三郎」。
主な監督
主な脚本家
主な音楽家
主なカメラマン
- 星島一郎
- 飯村雅彦
- 出先哲也
- 仲沢半次郎
- わし尾元也
- 中島芳男
- 吉田貞次
- 赤塚滋
- 坪井誠
その他の作品
その他
- 千葉商科大学サービス創造学部の公式サポーター企業
- 東京ドーム看板広告 2009年から
- 東映ホテル - 2012年10月現在、福岡・湯沢・新潟の3店舗を運営。2011年から2012年にかけて天王寺・松山を閉鎖した。
映画興行
子会社のティ・ジョイがシネマコンプレックスを運営しているほか、直営で以下の2館を営業している。
系列会社
子会社
- 東映ビデオ(完全子会社。映像作品や舞台作品の企画・製作などを手掛ける。ティ・ジョイと共に、東映の小規模配給部門も担う)
- セントラル・アーツ(東映ビデオの子会社。映画・テレビ製作や、芸能事務所としての業務を手掛ける)
- 東映アニメーション(旧東映動画。テレビ朝日やフジ・メディア・ホールディングスなども出資)
- タバック(東映アニメーションの子会社。東映、他社作品問わず、録音・編集・アフレコスタジオ運営などを手掛ける)
- 東映アニメーション音楽出版(東映アニメーションの完全子会社)
- TOEI ANIMATION PHILS., INC.(TAP。旧EEI-TOEI。東映アニメーションの完全子会社)
- 東映エージエンシー(完全子会社。広告業務や人材派遣業務、保険業務などを手掛ける)
- 東映京都スタジオ(完全子会社。東映太秦映画村を経営)
- 東映テレビ・プロダクション(完全子会社。テレビ作品制作を手掛ける)
- 東映シーエム(完全子会社。CM制作を手掛ける)
- 東映ラボ・テック(完全子会社。旧東映化学工業。フィルムの現像、加工を手掛ける)
- 東映デジタルラボ(完全子会社。東京撮影所にある東映デジタルセンター内で、ポストプロダクションを手掛ける)
- 三映印刷(完全子会社。東映、他社作品問わず、ポスターやチラシ、パンフレットなどの制作を手掛ける)
- ティ・ジョイ(ティー ワイ リミテッドなども出資。東映系のシネマコンプレックス。自社買付や他社から委託された作品の配給、東映の小規模作品の配給も手掛ける)
- AMAZONLATERNA(ティ・ジョイの子会社。映像・ゲーム・演劇・出版物などの企画、製作、販売などを手掛ける)
- 東映衛星放送(完全子会社。東映チャンネルを運営)
- 東映建工(完全子会社。ティ・ジョイや109シネマズなどのシネコンの建築・内装を手掛ける)
- 東映ゴルフ倶楽部(完全子会社。広島東映カントリークラブを経営)
- 東映ホテルチェーン(完全子会社。新潟、湯沢、福岡の3つの東映ホテルを経営する)
- 東映音楽出版(東映、他社作品問わず、映画音楽制作やサウンドトラック製作などを手掛ける)
ほか数社
関係会社
- テレビ朝日ホールディングス(互いに持分法適用関連会社の関係にある)
- TOKYO TOWER(旧・日本電波塔、東京タワー運営会社。子会社ではないが、東映が筆頭株主)
- アカデミー製作→東京動画(子会社ではないが、『宇宙大帝ゴッドシグマ』、『百獣王ゴライオン』の下請けを行った製作会社)
- 創映社→日本サンライズ(子会社ではないが、長浜ロマンロボシリーズの下請けを行った製作会社、現・サンライズ)
ほか数社
過去に存在した会社
- 東映セントラルフィルム(1988年解散。セントラル・アーツのみ存続)
- 東映化学デジタルテック(映像効果関連の業務を行う。現在は、東映ラボ・テックと合併)
- 東映貿易(現在は東映アクティスという名で、東映エージエンシーの貿易営業部内で農業機械などの貿易業務を行う)
- 東映俳優センター(現在は東映マネージメントとして、東映直営の東映東京撮影所の一部門として運営)
- 東映興業(プロ野球球団・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の運営会社。球団は1973年に日拓ホームに売却、会社自体も1985年に東映不動産と合併)
- 東映不動産(1985年に東映興業と合併して東映興業不動産となり、2006年に東映本社に吸収)
- 衛星チャンネル
- コヨーテ(配信や放送、映画のオリジナルコンテンツの企画開発などを手掛ける。2021年6月18日の定時株主総会において解散決議。[190])
ほか数社
報道
2021年11月、「仮面ライダーリバイス」の制作メンバーだった同社の女性社員がセクハラと過重労働を訴えた[191]。
脚注
注釈
- ^ 2021年現在、東映は朝日新聞社に次いで第2位のテレビ朝日HD株の18.8%を保有し[10]、テレビ朝日は東映株の11%を保有。また系列局の朝日放送(現在の朝日放送グループホールディングス)も2006年に東映が売却した自社保有株を0.5%取得している。
- ^ 東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に百貨店やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった。
- ^ 千葉県流山市と八千代市にある「東映団地」は当時開発された団地。
- ^ 1975年9月~1976年8月期売上高390億4367万円(映画製作配給126億3300万円、興行114億5100万円、テレビ90億1000万円、教育15億6300万円、観光不動産43億8300万円)[103]。1980年9月~1981年8月期売上高596億円(映画製作配給162億円、興行127億円、テレビ147億円、教育24億円、観光不動産139億円)[104]。1988年4月~1989年3月期売上高960億円(映画製作配給226億円、興行127億円、テレビ147億円、ビデオ195億円、教育27億円、観光不動産238億円)[105]。1960年代まで収益の柱だったボウリング事業は1972年を境に急激に衰退したが、ボウリング場は立地条件がよいため、この転換事業に手掛けたマンション販売や建売りがよく売れ、観光不動産部は他に全国の劇場再開発やホテル建設を推進し大きな収益の柱になった[106][107][108]。1991年4月~1992年3月期売上高1022億円(映画製作配給258億円、興行106億円、テレビ184億円、ビデオ249億円、教育29億円、観光不動産293億円)[109]。1995年4月~1996年3月期売上高899億円(映画製作配給222億円、興行94億円、テレビ169億円、ビデオ180億円、教育24億円、観光不動産207億円)[110]。
- ^ ダルタニアスを除き東北新社とともに制作協力。
出典
- ^ 有価証券報告書内2021年3月期有価証券報告書 東映株式会社 2021年6月30日
- ^ a b “東映の多田相談役が会長就任、手塚治社長の病気療養に伴い”. nikkansports.com. 日刊スポーツNEWS. (2021年6月16日) 2021年6月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 東映株式会社 (30 June 2021). 第98期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)有価証券報告書 (Report).
{{cite report}}
: 不明な引数|coauthors=
が空白で指定されています。 (説明) - ^ 東映株式会社 定款 第1章第1条
- ^ a b c d e f “沿革”. 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。(“数字で見る東映”. 東映. 2019年2月18日閲覧。)。History of TOEI - Facebook
- ^ a b c d e 日本映画史研究(1)- - 東映映画30年の歩み(1) - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- ^ 「コンテンツ産業の展望 第2章 映画産業 第2章 映画産業」 みずほ銀行 産業調査部、p.45 黒川文雄 (2021年7月17日). “バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部”. 4Gamer.net (デジタルハーツホールディングス). オリジナルの2021年7月16日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ “制作基礎知識シリーズVol.1 映画上映会を実施する③ 映画業界の仕組み”. 地域創造レター (地域創造). (1997年8月). オリジナルの2022年3月11日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ 「株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ」 https://www.tv-asahihd.co.jp/pdf/ir_news/pdf/20191209_kabushikitsuikashutoku.pdf テレビ朝日ホールディングスIRニュース2019年12月9日
- ^ 【5%】テレ朝HDについて、東映は保有割合が増加したと報告 「変更報告書No.6」
- ^ a b c d e f g h i j 東映の軌跡 2016, pp. 560–565.
- ^ a b c d e f g h i j k 中川涼司「映像化する京都、映像化される京都 : 京都イメージの転換と映像産業における京都の意味の変化」『立命館国際研究』第32巻第3号、立命館大学国際関係学会、2020年2月、(428)8、(431)11-(431)12、(435)15(435)-18、doi:10.34382/00012895、ISSN 0915-2008、NAID 120006801930。
- ^ a b c d e f 楊紅雲「「斜陽化」に生きる東映--テレビに対抗した実録映画路線(1973-1975年)を中心に」『多元文化』第5巻、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2005年3月、115-226頁、2022年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也” (PDF). メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2018年9月28日閲覧。(archive)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9。(NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
- ^ a b c d e f 早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月11日閲覧。
- ^ 竹入栄二郎「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号、キネマ旬報社、15頁。
- ^ 「儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る」『映画時報』1972年10月号、映画時報社、19頁。「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、7 - 9頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “第3回〝不良性感度〟という二代目社長岡田茂のビジョン 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p.1-2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ a b c d e 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. p. 3. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 教科書 2016, pp. 179–189.
- ^ a b c d e あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)
- ^ a b 田中純一郎『映画なんでも小事典』社会思想社〈現代教養文庫 1015〉、1980年、48-51頁。
- ^ 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記
- ^ 河合基吉「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。
- ^ 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 2巻、東映、1992年、1-8頁。
- ^ a b 三鬼陽之助『日本財界人物伝全集五島慶太伝』 第十五巻第八回、東洋書館、1954年、166-170頁。
- ^ a b c d e f g h i “日本商工会議所名誉会頭五島昇氏(9)東映再建―父に事業のオニ見る(私の履歴書)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): pp. 32. (1989年3月9日)
- ^ a b c 塩沢一彦 (1995年8月14日). “〔映画百年〕(32)東映の設立 時代劇解禁が恵の風に(連載)”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7
- ^ a b c 「会社の履歴書 東映」『実業之日本』1962年12月1日号、実業之日本社、154頁。
- ^ 田中純一郎他 (1972年1月1日). “71年度協会扱いの諸問題72年度への対処について”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 6
- ^ a b c d e 悔いなきわが映画人生東映と、共に歩んだ50年. 財界研究所. (2001). pp. 171-175、238頁. ISBN 4879320161
- ^ a b c d e 第40回 五島慶太(その三)稼いだカネは「映画」に投入---時代劇によって東映を復活させた
- ^ a b c 杉作J太郎・植地毅(編著)「吉田達インタビュー」『不良番長 浪漫アルバム』徳間書店、2017年、251頁。ISBN 9784198643546。
- ^ 野武士集団の撮影所
- ^ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)、『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)
- ^ a b c d e f g 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT
- ^ 野武士集団の撮影所
- ^ a b “太秦最後のカツドウ屋(中)東映、反骨のエネルギーを語る(ひと脈々)怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書)”. 日本経済新聞夕刊 (大阪: 日本経済新聞社): p. オムニバス関西29頁. (2010年9月9日)
- ^ 「しのぎに来たヤクザさえも撃退」伝説のアウトロー映画集団東映の血風録
- ^ a b c d e f クロニクル東映2 1992, pp. 1–8.
- ^ 南部僑一郎「連載映画千一夜(8) 新しい年ホープ」『キネマ旬報』1968年2月下旬号、キネマ旬報社、68-69頁。
- ^ あかんやつら 2013, pp. 107–110.
- ^ 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂、高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、47-49頁頁。ISBN 978-4-5757-14-01-2。
- ^ 「チャンバラ映画と大衆演劇の蜜月--美空ひばりが銀幕で果たした役割」『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』第33巻、国際日本文化研究センター、2006年10月31日、75頁、ISSN 09150900。
- ^ 前田耕作, 細井浩一、「映画産業における寡占の形成と衰退 ―日米における「撮影所システムの黄金時代」の比較を通じて―」『アート・リサーチ』 2012年3月 12巻 p.3-15(p.9-11), 立命館大学アート・リサーチセンター, hdl:10367/5467。
- ^ クロニクル東映2 1992, pp. 1-8、18.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 堀江毅「東映労働者が語る東映映画の歴史と現状『いま必要なのは『網走番外地』『緋牡丹博徒』『仁義なき戦い』の厳密な総括だ』」『シネ・フロント』、シネ・フロント社、1978年6月号No.23、14頁。
- ^ a b “第1回 プロローグとしての私小説的映画体験 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2021年6月30日). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「東映・高岩淡社長インタビュー 『総合戦略目指し上も動く下も動く』」『AVジャーナル』、文化通信社、1994年12月、27頁。
- ^ 「巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映」『映画時報』1976年4月号、映画時報社、12頁。
- ^ a b c 「特集東映動画まつり『いま光り輝く、東映動画}文・山下彗」『東映キネマ旬報 2008年冬号 vol.8』2008年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。
- ^ 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. pp. 2. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
- ^ a b c 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. p. 3. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)
- ^ 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. p. 3. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
- ^ 鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235
- ^ 竹中労「連載・日本映画横断 その10 『大川社長の死と東映任侠路線(中) 岡田新社長の実現〈邦画五社どこへ行く・5〉』」『キネマ旬報』1971年10月下旬号、キネマ旬報社、97頁。
- ^ 井沢淳・瓜生忠夫・大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。
- ^ 関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.
- ^ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71
- ^ a b c d 泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
- ^ 八田伸拓 (2000年12月18日). “俳優・東千代之介さん(惜別)”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 5
- ^ 由原木七朗「由原木七朗の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決」『週刊明星』、集英社、1979年5月13日号、168-169頁。
- ^ a b 日本映画は生きている4 2010, pp. 268–276.
- ^ a b c “第2回 仁義ある男たちが去り、仁義なき男たちが登場 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ a b c d 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)
- ^ “ヤクザ映画黄金期を支えた鶴田浩二の「芸」と「色」 山口組組員に襲われ頭と手に11針縫う大けがも”. デイリー新潮 (新潮社). (2021年8月13日). オリジナルの2021年8月13日時点におけるアーカイブ。 2022年3月13日閲覧。東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI、コラム|東映京撮・盟友対談②、高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?、山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154
- ^ a b 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」
- ^ “私の履歴書 松岡功(20)外部の力 百恵・友和コンビ誕生 ホリプロと組み「伊豆の踊子」”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2016年6月21日) 2018年12月30日閲覧。
- ^ a b c d 「東宝・松岡功インタビュー 『東宝の映画基本戦略は揺がない』」『AVジャーナル』、文化通信社、1992年12月、26頁。「自由化目前で"末期症状"の映画界」『経済展望』1964年3月15日号、経済展望社、31頁。
- ^ a b c 楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4巻、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、191-202頁、2020年6月10日閲覧。
- ^ 菅原文太さん死去で思い出す東映フライヤーズ身売り話 岡田社長の懐深さが染みた夜
- ^ a b 〝画になる〟北海道は映画人を刺激する|財界さっぽろ
- ^ a b 「森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂」『月刊レジャー産業資料』1974年10月号、エコセン、160 - 166頁。
- ^ “東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1972年6月17日)
- ^ a b “東映傍系に東盛商事を設立 定款変更の現れ 既に積極化”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1972年11月11日)
- ^ 岡田茂(代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)「―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、2-11頁。渡邊亮徳 (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・飯島敬(テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長)「テレビ事業部" もーれつでいこう"」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、12-16頁。「《東映グループの動き》 五月三〇日に創刊した劇画雑誌『コミック&コミック』(前号既報)の売れ行きについて―」『社内報とうえい』1973年6月号 No.176、東映株式会社、12頁。
- ^ a b 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、12-36、74-81頁頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ クロニクル東映 1991, pp. 52–59.
- ^ 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。
- ^ 東映の軌跡 2016, pp. 288.
- ^ “〈脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8. (1971年11月8日)「映画街」『シナリオ』1973年4月号、日本シナリオ作家協会、86頁。「東映・岡田茂会長インタビュー 『儂に残された仕事はこれなんだよ』」『映画時報』1994年7月号、映画時報社、27頁。朝日新聞「ウイークエンド経済」編集部「時代の流れについていく感覚とは義理と人情東映会長岡田茂」『私の「経営」説法 ―ビジネス戦記 8人のトップが語る「マネジメントの要諦」』プレジデント社、1995年、47-48頁。ISBN 4833415917。
- ^ a b c スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝 - シネマトゥデイ、大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.29、孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com「東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』、洋泉社、2011年7月、52頁。
- ^ 「高倉健」のお骨を口に入れ“アチチ”と火傷した「東映会長」
- ^ 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. p. 6. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。「この最大の危機をどう切り抜けるのか?映画経営者の英断の年がきた。」『映画時報』1966年1月号、映画時報社、19-20頁。“ JUNK FILM by TOEI ” が、8月23日(木)より「Amazon Prime Videoチャンネル」にてサービス開始!!、【今だから明かす あの映画のウラ舞台】偉人編(上)“経済界のフィクサー”暗躍で柴田恭兵主演「福沢諭吉」実現へ (1/2ページ)、Californian Grave Digger ~極私的ロック映画セレクション(日本映画編)~
- ^ 王温懿「東映ポルノのジェンダー・ポリティクス : 1970年代の日本映画と女性」『Juncture : 超域的日本文化研究』第8号、名古屋大学大学院文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター、2017年3月、150-166頁、doi:10.18999/juncture.8.150、ISSN 1884-4766、NAID 120006778961、2022年4月9日閲覧。
- ^ a b 「映画界東西南北談議 企業防衛を運営方針の基本に各社、合理化と収益部門の拡大を意図」『映画時報』1975年3月号、映画時報社、36-37頁。
- ^ a b c d e 岡田茂 (東映・常務取締役映画本部長)・渡辺亮徳 (東映・テレビ企画営業部長)・神英彦 (東映・教育映画営業部長)・小林秀次(東映ビデオ・取締役営業部長)、司会・北浦馨「多面的活躍を続ける東映映像産業の現況と新路線」『映画時報』1970年7月号、映画時報社、19頁。
- ^ 早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月11日閲覧。
- ^ 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)、岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第2回 / 全3回)、『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)、佐藤忠男(編)『日本の映画人 -日本映画の創造者たち-』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6。中原早苗『女優魂 中原早苗』ワイズ出版、2009年、176頁。ISBN 9784898302354。
- ^ Variety、1974年12月18日付。
- ^ 「本家ブルース・リーをしのぐ千葉真一」 報知新聞、1974年12月27日付朝刊。
- ^ 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、32頁。
- ^ 中村カタブツ『極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜』ぴいぷる社、1999年、172 - 186頁。ISBN 4893741373。
- ^ 大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.
- ^ a b 中条省平 (2011年3月6日). “BOOK ナビ フィクション”. 東京新聞朝刊読書3面 (中日新聞東京本社): p. 9
- ^ “アプローチ'69読者とともに”. スポーツニッポン (東京: スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年11月23日)
- ^ 浅野潜『吶喊 映画記者―持続と信義』ブレーンセンター、2002年、17頁。ISBN 4-8339-0420-9。
- ^ a b 「『鉄道員』は日本映画界を蘇らせるか、岡田茂・東映会長が吠える!」『経済界』1999年8月17日号、経済界、42頁。
- ^ a b c 「撮影所は今 『映画界の疲弊が撮影所をおおう』文・浜田佳代子」『シネ・フロント』、シネ・フロント社、1986年8月号 No.118、39頁。「大手三社の最近の業績をみると、東宝は今年8月中間期の見通しを映画の好調、ビル賃貸の増収で経常利益が30億円と予想し、通期でも過去最高を更新すると見ています。東映は映画の低迷をビデオと不動産部門の伸びで補い、経常利益は30%増の30億円と予想し、松竹も演劇部門の伸びで経常利益は20%増の4億5千万円になり、通期で20%近い経常利益増の見通しを立てています。映画状況の深刻さとは裏腹に企業業績は一定の数字を挙げ、内容的にもビデオ、ディスク、不動産等の多角化効果を示しています。会社側にしてみれば、何も映画づくりでリスクを負わなくても、配給、興行、さらには不動産ででも"もうけ"られればいいということになるのでしょう。」
- ^ a b c 水野 (1989年6月29日). “企業業績この業界(9)映画―不動産事業展開に活路、ニューメディア進出”. 日経金融新聞 (日本経済新聞社): p. 19
- ^ 「映画界東西南北談 正月興行に大きな期待をかける邦洋各社とも来年は飛躍の年に……」『映画時報』1976年11月号、映画時報社、34-35頁。
- ^ 「東映58期決算売上高596億円3千万円で12%減」『映画時報』1981年9月号、映画時報社、15頁。
- ^ 「フラッシュ映画 東宝、東映が増収増益」『AVジャーナル』、文化通信社、1989年11月、22頁。
- ^ 「映画界東西南北談議必死の巻返し計る映画界決算・人事と話題の豊富な各社」『映画時報』1979年4月号、映画時報社、8頁。
- ^ 「東映、福岡みなと東映跡に『福岡東映ホテル』建設」『映画時報』1979年12月号、映画時報社、19頁。「東映5番目の『広島東映プラザ』がオープン邦洋2劇場と東急ハンズ、プローバが出店」『AVジャーナル』、文化通信社、1995年9月、106頁。
- ^ 「映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌」『映画時報』1980年5月号、映画時報社、12-13頁。
- ^ 「東映69期1022億円」『AVジャーナル』、文化通信社、1992年9月、24-25頁。
- ^ 「決算東映(第73期)」『映画時報』1980年5月号、映画時報社、35-38頁。
- ^ a b c d e 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル東映が映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成/東宝も好決算をまとめ、松竹はまずまずの決算に。」『キネマ旬報』1989年7月上旬号、キネマ旬報社、148-149頁。
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1992年6月下旬号、キネマ旬報社、167頁。
- ^ 文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.144
- ^ a b c 「東映が新レーベル発足 外国映画の配給を復活」『キネマ旬報』2011年9月上旬号、p.135
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 東映会長・岡田茂』財界研究所、2001年、p.183
- ^ a b “第6回 1977年『宇宙戦艦ヤマト』大ヒットの舞台裏を語った東映会長・多田憲之 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年3月4日). オリジナルの2022年3月11日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ 竹田聡 (2003年7月3日). “ぴあフィルムフェス25周年―映画界の人材バンクに(感動を創る)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 21
- ^ “第1回ぴあ展1977”
- ^ “第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ セントラル・アーツ 起動40周年記念!【初回生産限定】 遊戯シリーズ - 東映
- ^ 梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357
- ^ 高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95
- ^ a b “第4回 北海道支社でのセールス四方山話 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2022年). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。 2022年3月11日閲覧。
- ^ 「あなたは魔界を信じますか? 角川春樹 山田風太郎 特別対談」『パンフレット : 魔界転生』、角川春樹事務所 / 東映、1981年6月6日、21頁。
- ^ 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 pp.62-64
- ^ a b c 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 p.88
- ^ 大高宏雄『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75
- ^ a b c 1980年代の映画 2016, pp. 175–176.
- ^ a b c 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルビデオの大幅増収がひと際目立った東映の第64期決算案」『キネマ旬報』1987年12月上旬号、キネマ旬報社、166-167頁。
- ^ “ビデオソフト―ポニーキャニオン安定(点検シェア攻防本社100品目調査)”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 9. (1995年7月5日)
- ^ 『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.
- ^ 「コナン」の東宝vs「相棒」の東映 2大映画会社の給与は?|日刊ゲンダイ
- ^ 「東映・日下部プロデューサー『激突』を語る時代劇アクションの原点返えり」『AVジャーナル』、文化通信社、1988年12月、26頁。
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 印象としては本格的なビデオ時代到来などでますます厳しさが増した61年の映画界。邦画は2強2弱で浮沈がはっきりと。」『キネマ旬報』1987年1月上旬号、キネマ旬報社、179頁。
- ^ 松原信吾・佐伯俊道・荒井晴彦・満友敬司・岡田裕・山下賢章「撮影所は戦場だった」『映画芸術 2014年夏 No.448』、編集プロダクション映芸、67-68頁。
- ^ a b c d e 遠藤繁 (1998年6月2日). “迷走松竹(下) 外部制作路線に転換―『ジブリ』獲得、復活のカギ。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 3
- ^ a b 「映画界東西南北談議人材の話題も豊富だった映画界今後も一層の活躍が期待される人々」『映画時報』1977年12月号、映画時報社、36頁。
- ^ “加速する『国際化』 (89映画展望・ここがポイント下)”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 9. (1989年1月4日)
- ^ a b c d “美学捨てた東宝笑う、映画、一強二弱鮮明に―外部と組みヒット連発。”. 日経産業新聞 (日本経済新聞社): p. 16. (1999年2月14日)
- ^ 「東宝・石田敏彦社長インタビュー『それは組織崩壊に繋がりますから』」『映画時報』1996年1月号、映画時報社、26頁。
- ^ 「文化通信情報 『利休』『ガンヘッド』など来年邦画の作品群」『AVジャーナル』、文化通信社、1988年11月、6頁。
- ^ 「特別対談 李鳳宇 大高宏雄 日本映画は本当に元気か?」『キネマ旬報』2017年1月上旬号、pp.52-53
- ^ a b c d e 「警戒警報の諸問題安定ムードのなかの危機邦画界の最新情報岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。
- ^ 「日本映画界の大転換期重役とMSの若返り人事と企画製作派大作主義に重点」『映画時報』1977年5月号、映画時報社、9頁。
- ^ a b 「映画界前進態勢へ布石各社の個性的な刷新人事の全貌」『映画時報』1980年5月号、映画時報社、10-11頁。
- ^ 大谷隆三「大谷社長大いに語る『桜の花は散ったけど松竹大船は花ざかり』」『映画時報』1982年5月号、映画時報社、10頁。
- ^ a b c 「『渋谷東映プラザ』を第一弾に列島改造計画」『AVジャーナル』1993年3月号、文化通信社、95頁。
- ^ a b “脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8. (1971年11月8日)
- ^ a b c 「日本映画界の巻返しと前進各社各社各様の経営戦略を探る」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、12頁。
- ^ 【東宝】会社分割が「世界の三船」を生んだ-M&Aシネマ繁盛記
- ^ a b 「タウン 映画会社が主役で『東京再開発物語』」『週刊新潮』1988年3月24日号、新潮社、15頁。
- ^ a b 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル東映の岡田社長が3年後をメドに本社ビルの再開発構想を打ち出す。完成時には超近代的な映画館3館も同時オープン」『キネマ旬報』1987年11月上旬号、キネマ旬報社、162-163頁。
- ^ 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル東映の本社ビル再開発に伴う新社屋建設予定地に茗荷谷が決まる」『キネマ旬報』1987年12月上旬号、キネマ旬報社、166-167頁。
- ^ “東映:新レーベル「東映トライアングル」発足 ジャッキーの大作など30年ぶりに外国映画配給へ”. 毎日新聞デジタル. (2011年8月11日). オリジナルの2011年8月14日時点におけるアーカイブ。 2011年8月12日閲覧。
- ^ 星野直樹「映画に賭ける男」『真剣勝負に生きる』大川博士、ダイヤモンド社、1967年、pp.153-156.
- ^ 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン全史1946-1996』キネマ旬報社、1984年初版、1997年4版、p.70
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.84.
- ^ 吉佐美洋行 (2022年3月31日). “会社員は「仁義なき戦い」「日本沈没」に学べ 『仁義なき日本沈没――東宝 vs. 東映の戦後サバイバル』著者 春日太一さんに聞く”. 日経ビジネス. 日経BP. p. 1. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月9日閲覧。
- ^ 工藤栄一、ダーティ工藤『光と影 映画監督工藤栄一』ワイズ出版、2002年、p.108
- ^ a b 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.291.
- ^ 『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.72
- ^ “手塚治新社長インタビュー「東映全社員が企画者」コロナ禍で映画業界大打撃も「映画とは何か、映画館に行くことの意味を再考するタイミングです」”. スポーツ報知. (2020年7月10日). オリジナルの2021年11月10日時点におけるアーカイブ。 2022年4月9日閲覧。
- ^ 日本映画発達史Ⅳ 1968, p. 265.
- ^ テレビ成長期の日本映画 2018, pp. 134–153.
- ^ 東映の軌跡 2016, p. 564.
- ^ 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』青心社、2003年、3-7頁。ISBN 978-4-87892-266-4。
- ^ 高橋惠子 (2012年12月7日). “引退撤回、そして大映が倒産”. 東スポWeb (東京スポーツ) 2013年4月6日閲覧。
- ^ 山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1989年、p.17.
- ^ 佐藤忠男、山根貞男責任編集『シネアルバム 日本映画1983 1982年公開映画全集』芳賀書店、1983年、p.85
- ^ 大高宏雄『興行価値』鹿砦社、1996年、p.159.
- ^ 日本雑学研究会『誰かについしゃべりたくなる話のネタ・雑学の本』幻冬舎、2000年、p.53
- ^ 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、p.158
- ^ 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版、2004年、p.130
- ^ “東映・三越提携公演から”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1972年12月2日)
- ^ 古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、pp.82-84.
- ^ 田中純一郎『日本映画発達史IV 史上最高の映画時代』中央公論社、1980年、pp.272-273.
- ^ 『東映十年史』東映株式会社、1962年、pp.254-261.
- ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.148.
- ^ 能村庸一『テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年、p.194.
- ^ 『テレビ時代劇史』p.148
- ^ 「女優さんは近頃おひまヤクザとエロに締出させた清純派」『週刊朝日』1965年9月24日号、朝日新聞社、122頁。
- ^ 新宿書房 俎板橋だより (7)村山新治と佐伯孚治、日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24 呉徳洙(オ・ドクス)聞き手:門間貴志 - 山形国際ドキュメンタリー映画祭公式サイト、評者◆凪一木 その59 小平裕、本年八二歳No.3460 ・ 2020年08月15日
- ^ 『テレビ時代劇史』p.106
- ^ 『テレビ時代劇史』p.324
- ^ テレビ朝日 火曜時代劇を9月で打ち切り J-CASTニュース 2007年2月2日
- ^ "第97期定時株主総会決議等のお知らせ" (PDF) (Press release). 東映株式会社. 26 June 2020. 2020年6月26日閲覧。
- ^ “会社解散のお知らせ”. コヨーテ. 2021年7月13日閲覧。
- ^ “仮面ライダー制作の東映社員、セクハラと過重労働を訴えるも「他の子は我慢したよ」。適応障害と診断、会社は「回答控える」”. ハフポスト. 2021年12月18日閲覧。
社史
- 東映十年史編纂委員会(編)『東映十年史』東映、1962年。
- 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 1巻、東映、1992年。
- 岡田茂『クロニクル東映 1947-1991』 2巻、東映、1992年。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映、2016年。
参考文献
- 田中純一郎『日本映画発達史Ⅳ』中央公論社、1968年。
- 黒沢清・四方田犬彦・吉見俊哉・李鳳宇(編集)『日本映画は生きている』 4巻、岩波書店、2010年。ISBN 978-4-00-028394-6。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 4-1637-68-10-6。
- 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年。ISBN 978-4-8003-0698-2。
- 「映画会社の、映画会社による、映画製作―30年前をふりかえって見えて来るもの 文・大高宏雄」『キネ旬ムック 1980年代の映画には僕たちの青春がある』キネマ旬報社、2016年。ISBN 978-4-83736-838-0。
- 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 978-4-8158-0905-8。
外部リンク
- 東映オフィシャルサイト
- 東映国際部による海外用タイトル・リスト(2013年10月29日時点のアーカイブ)
- 東映テレビウェブサイト
- 東映配給映画一覧 - 日本映画製作者連盟
- 東映製作映画一覧 - 日本映画製作者連盟
- 東映制作 連続テレビドラマ・アニメ全番組リスト - 個人運営によるデータベース
- 東映映画DVDリスト - 個人運営によるデータベース(2008年8月28日時点のアーカイブ)
- 東映 (@TOEI_PR) - X(旧Twitter)
- 東映 (TOEI.co.jp) - Facebook
- 東映映画チャンネル - YouTubeチャンネル
- 東映特撮YouTube Official - YouTubeチャンネル